資料4 教育課程企画特別部会(第7回、平成27年5月12日)における主な意見

平成27年5月25日
教育課程企画特別部会

1.育成すべき資質・能力とそれを育むための学習・指導方法等について

  • 高校教育について、大学を見据えることが議論の中心となっているが、半分の子は大学に行かないことを考えると、成人とみなされる満18歳の段階で付けておくべき力についてしっかり整理しておく必要。民間の業者が高校生の力を測るという意見もあったが、そこは国が担保すべきであり、例えば英国のように、18歳の時点でとれた単位の積み重ねが大学入試の土台となるというような方法にすべき。18歳で担保すべき力としては、コミュニケーション力や社会性などすでに指摘されているもの以外でいうと、まずは自己効力感。よく自己肯定感の低さが言われるが、犯罪学では自己肯定感のみをターゲットに置くとかえって逸脱すると言われている。むしろ「努力をすれば成果は変わる、やればできる」と自らの力を信じる自己効力感が大切であり、これが社会参加の土台になる。それから忍耐力。いろいろな国の人と協働していくためにも必要であるし、自身が困難を乗り越えていくときにも必要だ。さらに、クリティカルに考えたり書いたりするという力。労働価値への理解。労働教育に関する意識調査では、働く上での権利・義務をもっと学びたかったとある。義務の意識が弱く、好きなことを仕事にできない、仕事そのものが好きでない、仕事を通して自己実現ができない、などの理由から社会に不適応を起こす成人も多いので、働くこと自体に意味があるということをしっかり教えることが必要だと痛感している。これらのことをクロスカリキュラムで、それと同時に日々生活の中で教えていく必要。
  • 卒業レポートの取り組みの効果については、大学入試との関係で、これをやった場合とやらなかった場合の比較ができないため、証明は難しい。しかし、少なくとも大学進学に悪い影響は出ないから、大学に行ってから大学の学びにスムーズに移行するためにはやった方がいいということを高校の先生方に言っている。「卒業レポート」は、実際には2年生の段階で各個人研究のレポートであるが、これは総合的な学習の時間をどのように扱うかということと深く関わるので、全国化はなかなか難しいのではないか。なお、堀川高校の生徒は、偏差値的に高い生徒がいるという誤解があるが、そのようなことはなく、偏差値に関わらず、生徒の興味関心というのは必ず内にあるので、それを引き出せるようなきっかけを作ることができれば、生徒は自ら学んでいこうとするということは間違いないと考えている。
  • 習得の授業の中でアクティブ・ラーニングを入れても、それをやっている暇があったら一題でも多くの問題を解くと言う先生もいるが、アクティブ・ラーニングを入れることが決してペーパーテストでも不利にならない、場合によってはプラスになるということもある考え方もあり、これを研究していく必要がある。
  • 高校生の進路に関する意識調査において、自分に合ったものが分からない、やりたいことが見つからない、というのは、アクティブに何かを学んだ経験がないことによる。大学入試のマークシートの試験に対応するために一生懸命勉強している限りでは、確かに見つからないというのは大変納得できる。そのため、アクティブ・ラーニングは非常に重要。
  • 英語については、受身的な技能だけではなく、スピーキングとライティングというアクティブな技能を含む4技能をきちんとした形で教えていくことをやらない限り、アクティブ・ラーニングとは結びつかない。8、9年ほど前の調査になるが、SELHiと普通校の授業を比較して、SELHiの方がディスカッションやディベートなどを多く実施し、普通校のほうが訳読などをより多く実施していたが、これらの学校における高校3年時のセンター試験の模試では、SELHiの生徒の方がより高い点数ととったことが分かった。アクティブ・ラーニングの効果は論証するものがないという話もあるが、英語という特定の分野などにおいては、ある程度数字的なものは出ているため、そういった調査をできる範囲でやっていく必要はある。
  • アクティブ・ラーニングについて、高校でも卒業レポートをという話があったが、その前に、教科の中で、普通の習得の授業の中でもできるアクティブ・ラーニングをしっかり入れるということが先にあるべき。現状では、理科や社会、数学などに発表や討論、協働的学習などの機会が入ってきておらず、評価のときも、レポートではなく定期テストの成績で評価されがちである。習得の授業で取り入れた上で、先に探究の学習に手を付けていくことはいいと思う。
  • 教科学習のなかでアクティブ・ラーニングを取り入れることは重要。生徒たちは、教科は教科、総合は総合と学びのスタイルを使い分けることはできない。高校の授業全体にアクティブ・ラーニングのような形が徐々に広まっていかないと、社会に参画するための学習をコーディネートしても難しいのではないか。
  • レポートというのは、自分が何に関心があり、社会に出て自分は何に向かっていくか、自分の存在意義は何かというところまで考えることができるという意味でメタ認知を促すという点で優れている。これは教科の中でも十分やっていくことができる。
  • 福井県ではもう3年くらい県全体として中高の接続授業を進めているが、高校の教員が中学校の授業を見て非常に勉強になったという率が非常に高い。これは職業系の高校の先生方の率が高く進学校ではまだそこに踏み込めていないという現状もあるが、このように授業を変えていく動きが広まるとよい。
  • アメリカを訪問した際、日本の経済や教育に関する議論をする中で、アメリカ人の高校生が流暢な日本語で議論をしていて非常に驚くとともに、世の中の進み具合、変化のスピードに危機感を覚えた。マイナス1をゼロにキャッチアップする必要もあるが、ここで議論すべきはゼロを超えてどうプラス1へ持っていくかということ。日本の大学だけではなく、海外でも挑戦できるようにするため、高校生はプレゼンテーション、ディスカッション、ディベートやネゴシエーションなど普通にできるようにならないといけない。そのためには、すでに57もある教科・科目にアクティブ・ラーニングの授業をさらに増やすのではなく、インタラクティブ・ラーニングとして、すでにある各授業の中にアクティブ・ラーニングを反映させていくことが大事。
  • 欧米で今非常に話題になっているのが「シンギュラリティ」の概念であり、その時代にどんどん加速しながら近づいている。今まで存在した職業が消える時代に向けて生徒にどのような準備をさせるかということは、他の国でもいろいろと議論されている。これに対する一つのアイデアとしては、高校で理系と文系を分離しないこと。理系と文系に分けて、社会人になってお互いに充分なコミュニケーションが取れない状態で一緒に仕事をすることは危険。ペーパーテストで評価できるものは近々本当に無意味になると思うので、それをどう変えていくか。この中教審自体のプロセスもインタラクティブ(対話型)にしていけたらと思う。
  • 地域社会やクラスなどの一定の社会の中で、一定程度自分が力を持ち、働かせて、活動することで何かを変える。これにより地域社会や組織やいろいろなものを変えることができるし、自分の存在を認められたり、自分の存在がより高められているということを実感することができる。欧米では、アクティブ・ラーニングのようなことが行われていると言われているが、結局、地域社会の構成員がどのような力を持ち、その社会なり国の力を将来どこまで高めることができるからこそそのようなことがなされていると思う。アクティブ・ラーニングにおいては、どのような力を持ちどのような社会を作れる人材を育成するかという観点が大事であり、結果的にはそれが一人ひとりの子供たちが社会の中で生きていくときにより大事なものを見つけることができ、日本人としてより豊かな国づくりや世界づくりに貢献できるようになっていくのではないか。
  • アクティブ・ラーニング等について、興味関心を持って臨まなければ、目指す教育効果はなかなか得られない。これを活性化させるには、子供たちがいかに変容していくかということをしっかり教員が見ることができるかということが一つの課題。そのために、教員の教え方や指導方法だけでなく、支援の仕方についても考えていく必要。
  • 高校教育を本来の普通教育という基本的な枠組みの中で考え直さないといけない。日本の場合はどうしても、個別的な知識をたくさん持っていることが普通教育の中身のように思われているが、本来はリベラルアーツであり、教科のそれぞれが持っている見方、考え方のようなものをいかに身に付けていくかが大事。生きていく上で、分かっていることだけではなく、それを使うことが一定程度できないといけないという観点で見直さなければならない。
  • 卒業レポートを課すことについて、放課後や土曜日を活用して子供たちに授業をしてきた立場からすると、常に課題になるのは時間の配分であり、卒業レポートを課す分、何をしなくてもいいのかということを生徒、教員ともに選択できるようなかたちにしないと、結果的には実現しないように思う。全ての生徒がすべての科目をすべて現行の学習指導要領通りに全部総なめしなければいけないのか、それとも何かしらのトピックを選択し、そこを中心に学習を選択できるようなかたちにするのか、ということも検討すべき。また、土曜日に課題研究に活用したいという子供たちに対して、どのような指導員がつくのかということも議論すべき。
  • 専門高校においては、座学と言われる一斉授業、実習と言われる協働的な学習を中心に行われる授業、あとはレポートという、大きく三つに分けて取り組んでいるが、すばらしい教育活動をしていると自負している。こういった活動を普通高校にも取り上げていただけるとありがたい。
  • 評価すべきものと評価すべきでないものがあり、これを全部評価しようとすると自己肯定感が低くなる。例えば総合学習のレポートでも、一人ひとりのそれに価値があり、その子が取り組んだということ自体を見てあげるべきであり、他者との比較による評価は好ましくない。
  • 自分の考えをまとめる時間や、学びたいものを学び取っていく貪欲さが現実には非常に育ちにくくなっているのが現状。教科を結集して教育課程の中でどのように高校生の学ぶ意欲を育てるかということが重要。
  • 高校生は、学習意欲と学習する目的を分けて考える。大学入試に卒業レポートの評価をという意見もあったが、そうなれば高校はその受験のための準備をし出し、卒業レポートも結局は受験のためとなってしまう。自分が意欲的に取り組んだことを、大学に入った先にさらにやりたいこととして取り組んでいく、そのために大学入試はクリアしなければならないからしっかり勉強する、というようにつなげていかないと、常に大学に入るため、と非常に短絡的に考えてしまいがちになる。目標と目的を分けて考えていく必要。
  • 柔道の創始者であり教育者でもある嘉納治五郎が、柔道の目的として、自己の完成と世の補益という二つを挙げている。他者との比較ではなく、自分自身を高めていくことを目的に修行をし、それを必ず世の中に立てるという精神であるが、これは教育の目的にも通ずる。
  • 教員を減らすということはあってはならないが、教員や生徒の生産性の観点から一言述べたい。よく聞くのは、教員が事務作業に追われて忙しいということであるが、アメリカでは、イベントを仕切るのは高校生であり、また事務作業を手伝う高校生も多い。これが社会勉強なりボランティアにも通じることがある。生徒を子供扱いするのではなく、あるいはお客様として扱うのではなく、一人の社会構成員として扱うことで、主体性を育みつつ、教員の仕事量も減らすことができるのではないか。
  • 学校全体で、コンピューター等のインフラの整備が非常に遅れている。日本の学校現場のICTの普及状況が世界と比べてどの程度になっているかということを今一度考えていただきたい。平成21年度に大量のコンピューター等が導入されたが、そろそろこれが老朽化してきている。今後の教育活動を考える上で非常に重要であるため、今後の方向性を知りたい。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等の在り方について

  • 大方の高校においては、教育課程は各教科の塊という認識であり、教科の寄せ集めのようになってしまっている。高校の教育課程を考えるとき、教科等の関連がどうか、高校としての一体性はどうかという観点からの問い直しが一つのテーマになるのではないか。学習指導要領における総則という存在が各教科と必ずしも連動しきれておらず、高校の先生としては、総則の部分を読み飛ばしても、各教科のところを丁寧に読んで教育活動をやっているという状況。これまでの総則以下の構成は、学校として全体性や一体性をどのように作り出すかという課題を残しながら現在に来ているのではないか。総合的な学習の時間はこの課題への対応を果たし切れていない。
  • 実社会の出口に一番近いところにある高校生が本気で総合的な学習の時間に取り組むことですばらしい成果を生む。生徒の社会参画に関する意識の低さの裏には、実社会とかかわった経験・体験が非常に少ないということがあると考えられ、このような観点からも、総合的な学習の時間は重要。年々全国各地で大きな成果を出している高校も出てきており、学力向上や授業改善、地域活性化という更なる可能性も考えられる。総合的な学習の時間は、資質・能力の育成を図る上で、教育課程上の要の時間となっていけばいいと考える。
  • 英語の教員が英語だけしか知らなかったら今後発展性がないとの観点から、自分の教えている生徒が英語の教員になる際に、社会科の免許も一緒にとることを推奨している先生がいる。教科横断型となると、他教科の先生たちとのチーム・ティーチングなどの共同作業が必要となってくると考えられるが、例えば主専攻が英語であれば副専攻で社会科などの他のものをとるという免許制度の改革も実施することにより、英語を使ってほかのものを勉強するという体制を整える必要があるのではないか。
  • 高校のカリキュラムの一体性という論点の先に社会参加ということが大きく取り上げられているが、この考え方は今欧米などでも重視されており、様々な動きがある。これまでは、大学まではエデュケーション、その後でエンプロイメントを成功させ、その中で突出した人がアントレプレナーとなり社会を動かしていく流れであったものを、高校、中学校の頭が柔らかい最中で、社会で何をやっているかというのを教え、エデュケーションアントレナーシップへ持っていくという流れに変える。このような世界にならないと、本当に世界をリードしていくことはできないという強い思いがあって、欧米などでは教育改革に取り組んでいる。このような観点から高校で取り組むべき課題の構成そのものを変えるべきではないかということを提案したい。
  • 単純に新たな教科・科目を作るということは慎重に考えるべき。現に総合的な学習の時間が十分に機能していないという中で、今やるべきことをもう一度しっかりとやっていくということを大切にしていかないといけない。今まで積み残しているものや、今やっていることで重要なことの充実をしっかりと図るべきではないか。
  • 義務教育段階で十分に学べなかった子に対する学び直しは本当に大切なこと。高校を卒業する時点で必要な、18歳として必要な知識・技能、思考力・判断力・表現力、学習意欲等をどのようにしてもう一度彼らに取り戻すのかということを考えておく必要。
  • 少子高齢化の中で地域を支える人材としての高校生に非常に期待が高い。成績優秀で東京や京都の大学に進学する子だけではなくて、専門高校や進路多様校と言われるような学校に通っている子供たちに残ってもらいたいという思いが強い。地元では専門高校は元気な学校が多く、地域の課題に積極的に取り組んでいる学校が多い。アクティブ・ラーニングについても、専門高校ではプロジェクト学習、課題研究という形でかなりやられている。普通科高校でも、市民性に対する教育、主権者教育、公共というような意味で、高校生が自分の住んでいる地域からより広い社会に関心を持って参加することが大事。高校を卒業して就職してすぐ税金を払うような高校生もいるため、租税教育や消費者教育というようなものも大事。机上の勉強だけではなくて、参加型のことを高校時代に経験するような時間をカリキュラムの中に位置付けていくということが重要。
  • 新たな教科・科目等の在り方については、研究開発学校等においてこれまでに蓄積されたデータと照らし合わせながら、更に検討する必要。また、中山間地域の高校の存続などの、普通科、専門学科、総合学科という枠組みの中では必ずしも整理しきれないような課題がこれから今以上に大きな課題になると考えられるが、これについて研究開発学校の中の取り組みに少なからずのデータがあると思うので、それらを参照しながら次に展開するとよいと思う。
  • 高校生の場合、家庭の貧困と教育格差が直結しやすい。親が病気とか一人親家庭だと、家族の介護や家計のためのアルバイトで忙しくなり、学校に行きたくても行けなくなって辞めざるを得ない現状もある。いったん辞めてしまうと、学び直したくても金銭的にも時間的にも精神的にも難しい。しかし、現実的にスキルも何も付いていなければ、なかなか正規雇用には結びつかず、結局、非正規雇用のまま貧困を生きていくという子供たちも少なくない。そこも踏まえ、学校にいる間にいかにベーシックスキルを担保するかということも大事。
  • 歴史教育においては、教科書に書いてある用語を暗記させることが大学入試に有利だという観念がまだ強い。日本史も世界史も、1950年代は教科書に収録されていた用語は1,500語ぐらいであったが、現在は3,800語ぐらいであり、これは新しい研究成果を導入しようという良心的な執筆者の努力もあるが、大学入試で出た言葉を次の改訂の時に教科書に盛り込むということが行われていて、改訂のたびに用語が膨らむという状況。そのため古代から現代まで教えようとしても、結局現代まで行かないで終わってしまう。このような状況であるので、教科書改革というような問題も一緒に考えなければいけない。
  • 小、中学校の社会科歴史分野の教育は日本史中心であり、高校で初めて世界史を本格的に勉強するので、生徒たちは苦手意識を持ち、全体として世界史を敬遠する傾向が強い。地歴科の見直しも重要な課題。
  • ハーバードのケネディスクールでは、時代や地域の異なった人々が様々な問題に直面して、どう解決したかという課題解決的な結果としての歴史があるというように、歴史をディシジョンメーキングの積み重ねと捉えているが、日本の歴史教育はそのような発想が弱い。日本の歴史教育も、実践的なかたちに切り替える必要。また、ディベートを避けたがるという日本人の傾向を克服するためにも、アクティブ・ラーニングを徹底することが大切。
  • グローバル化時代では、日本のことをアピールするだけでは済まず、外国の人々の主張の背景にある文化の違いや、それを反映する世界史的な知識が必要であり、日本史と世界史の両立の仕方が重要。また、現在地理は選択となっており、文系の学生はあまりとらずに入ってくる傾向が強いが、地理の空間的な認識と歴史の時間的な認識をどう両立させるかということも地歴化の検討に当たって重視していただきたい。
  • 1964年の東京オリンピックの時には、日本人一人ひとりが支えて頑張っていこうという意識が非常に高かったが、今はそのような意識が低下している。自分のやりたいこと、合っていることだけではなく、社会に向けて自分に何ができるか、何をやるべきかというところに意識を持っていかないと、自分のやることが世の中につながっていくことはなかなかないと思う。2020年には、世界の中で日本が何を貢献できるのか、地球規模の問題に自分がどう関わっていくのかということを見据えることが大事。20歳代の投票率の低さにも表れるとおり、世の中に対しての関心、意識が低いなか、ライフワークとして自分が何を求めていくかというところを高校時代に教えていくというカリキュラム構成にできればと思う。
  • キャリア教育について、中高では先生方が工夫をしてたくさん実施しているが、高校、特に進学校に関しては板書を写経のように写す授業が多いと卒業生などから相談を受ける。キャリア教育といっても、総合的な学習の時間に職業講話を聞いて終わりということではなく、各単元の中に、世の中と結びついた出前授業のようなアクティブ・ラーニングを入れるということが大切。これをすると、教科横断的にもなり、また、生徒たちは世の中との結びつきも理解できる。高校の学習指導要領のなかに「キャリア教育」という言葉を入れていただくと、アクティブ・ラーニングという新しいキーワードになじめない先生方にもわかりやすいと思う。
  • 近年、職場体験やインターンシップなどの要請が多くなっており、企業側も社会貢献の観点から年々積極的に受け入れている。自分が所属する企業でも、受け入れの際、様々な模擬体験や外国人を含めてのディスカッションなど工夫をしているが、これがどれだけ生徒の役に立っているか疑問もある。キャリア教育をしっかり学校のカリキュラムの中で考えた上で、受け入れる企業側と事前のすり合わせを行うことが効果的な実施に必要だと思われる。
  • 社会とのつながりについては、高校教育に限らず、小中高と連続した教育が必要。課題研究や職業レポートなどを体験させることで、社会を見たり考えたりし、これが将来を考えることにつながり、自分自身との関わり方を考えることで、興味関心が高まっていくのではないか。
  • 今の日本の子供たちが将来何をしたいかがよく見えてないのは、やりたいことがないわけではなく、やりたいことが何なのかをゆっくり考える時間がないということだと思う。自分で考えて文章に書いたり人前でプレゼンをしたりというアクティブ・ラーニングを通じてその方向がはっきりし、これがキャリア教育につながっていくと思う。
  • 子供は、自分が奉仕活動をしようとか、何か働いてみようと自主的に思うことももちろんあるが、これが結局大学進学にとって有利になるという意識がどこかにあるため、最終的に自分のその後のキャリアに得になる、大学に入るときにプラスになるということがあるとそれはやはり強い。そのため、今後大学の入試改革が話し合われる中で、試験のことに加えて、やはり高校段階でやっているインターンシップなどの活動がどのように評価されるかということが話し合われるとよいと考えている。
  • 大学一年生に自分は自立しているかということを問いかけると、ほとんどの学生が自立していないと回答するが、その背景として、今の子供たちは、恵まれた社会の中で、また家庭の中でも少子化の状況にあり、切磋琢磨する機会が少なく、自立しなくてはいけない場面が少ないということがある。その中でこそ、社会との接点を持ち、ボランティアやインターンシップ等での協働的な学習の場で自分の考えを整理して、精神的・経済的な自立につなげていくことが非常に重要。

3.育成すべき資質・能力と高大接続の在り方等について

  • 高校が大学受験の際に大学入学者選抜実施要綱に則って作成する調査書には、昭和30年代から今日に至るまで変わらず、評定平均値を書く欄がある。これは集団の位置づけを示す評価であり、目標準拠評価の趣旨とは全く合っていない。要綱自体がすでに時代に合わなくなってきているので、これを見直し、評定平均値の再検討をしない限り、新しい高校教育の実現は不可能だと思う。
  • 京都の堀川高校の実践で、卒業レポートを生徒に課していたが、その結果として大学入試の成果も上がったと聞いている。この卒業レポートを全国化し、個別大学の入試の中に卒業レポートの判定も入れ、さらに時間的に余裕があれば、面接の中で生徒がプレゼンテーションをすることで多面的な能力を見ていくという方式がとれないかと考える。全国化することの困難と、個別大学がそれを受け入れるかという困難の二つの課題はあるが、アクティブ・ラーニングを高校に導入しようというのであれば、大学入試に卒業レポートのようなものをきちんと評価するというシステムが出来上がれば随分状況は変わるのではないかと思う。
  • 高校生がアクティブに学んだこと、探究的にいろいろなことを学んだことを積極的に大学が評価するようなシステムを意識的に導入することが、高大接続の観点から極めて重要。現在、センター試験はすべてマークシート、その後の大学入試も大部分がマークシートであるが、高校生にとって大学に入るということは非常に切実なので、それに対応せざるを得ないという不幸な状況にある。これを根本的に変えるために、受け入れ側の大学にアクティブ・ラーニングや探究的な学習を積極的に評価するシステムを導入すれば、高校生が高校でのアクティブな学びを通じてやりたいことを獲得することができるというポジティブな方向に変わると考えられる。
  • 大学の入試でという話になると、大学の教員はかなり消極的になる。何千人、何万人が受験をする中で、それぞれが持ってきた卒論を評価できるのかということ。高校の先生の手がどのくらいで入っているのかが分からず、共同の場合には、個人の力がどれだけそこに反映されているかわからないという原理的な問題もあり、また、大学の先生方にこれを評価する力があるかという問題もある。これについて、一つの方策として、卒論などの総合学習を通じて得た力を、プレゼンテーション検定、レポート検定などのかたちで、入試センターや民間などの第三者機関が評価するというものがある。そのような力を入試でも評価してほしいという者が、大学入試のときにTOEFLのようにそれを提出するという形のサポートがあれば、大学の方もそれを評価するという形がいいのではないか。
  • 大学入試において卒論などを評価する一つの方法としては、バカロレアの第三者機関のような仕組みが日本でも作られないかと考えている。
  • 卒業レポート形式を導入すると、今度はレポート作成を請け負う業者が現れることが懸念される。この点、海外では、大学入試において、その年に何の質問が飛んでくるか分からないという状況にしてエッセイを課し、生徒がいかなる経験を積み上げてきたか、生き方、考え方を引き出す方向に持って行っている。
  • これまで、高校、大学、社会のそれぞれの段階での教育につながりがなく、それぞれで最低限のことをやっていればよいという風潮があり、それが結果的に知識をたくさん教えることになってきたように思う。ものの見方や考え方を使ってより深く理解できるようになり、それを使って社会や組織を動かして何か新しいことができるような力を子供たちに身に付けさせる機会が少なかった。この意味で、高大接続問題も、社会と結び付けて考えないといけないのではないか。
  • 高校の教育課程を固定化しているのは大学入試の内容。新テストの中では、教科横断的なものをということが言われているが、それがはっきり言われれば、高校の教育課程は変わってこざるを得ない。一方、大学入試により固定される部分と、高校の個性を生かした特色ある教育を行うための自由度の高い部分とのバランスをどうするかという問題。基礎学力テストを高校2年生でもやれ、それをかなりの人が受けるということになると、高校1年の教育課程はかなり固定されたものになってくるという危惧がある。

4.特別支援教育の充実等について

  • インクルーシブ教育は次の高校の学習指導要領改訂でも大変重要な内容。これはシチズンシップ教育とも重なる。高校の普通科にも情緒障害や発達障害等を抱えた生徒がおり、その子たちが自分をコントロールできない場面などいろいろな問題が発生して、結局退学をするような状況も出ているという現状がある。現在は、障害がある生徒が通信制や定時制に多く進学しており、高校の入学者選抜試験の中でも問題が起きてきていることに留意する必要。また、特別支援学校を、小中高を通して連続性のある多様な活動のできる場にしていくべきであり、さらには、ここでも教員の数が必要になっているということを全体的に今度の高校改革でも考えていかなければいけない。安心して通える高校、インクルーシブを主とした高校の在り方という視点も含めて次の学習指導要領改訂で考えていく必要。
  • 高校の総則のところに、将来の自立と社会参加を踏まえて、個々の生徒の発達特性や学習スタイルの多様性を踏まえた指導・評価をするということを明記する必要がある。進学校にはアスペルガーなどの診断のある生徒たちが少なからずいるが、現状、将来の自立と社会参加を見据えた指導を徹底して行っている例はまだまだ少ない。彼らを受容し、自己肯定させ、学校にいる間は大事に守ってあげるというところは随分増えてきたが、こういった指導は、卒業までこぎつけたとしても卒業後に不適応を起こすケースが多い。18歳において必要な力を、通常学級にいる特別支援が必要な子供や診断はなくても教育的ニーズのある子供たちにも、高校の段階で付けていくことをしっかりと視野に入れる必要がある。また、特別支援学校においても、やればできるとか自分にも社会貢献ができるというような自己効力感やシチズンシップを持っている子どもは少なく、これらを指導することを明確にすることも必要。
  • Twice Exceptionalな子どもたちの指導についての検討も必要。全体的にはアンバランスだが一部非常に突出した要素を持つ子どもたちについて、その突出したところを伸ばそうという動きがある。能力を伸ばすこと自体は好ましいが、犯罪学では、アンバランスがある子どもの突出したところだけをのばすとかえって逸脱しやすくなるというエビデンスもある。だからこそ、できるところはもちろん伸ばすが、苦手さもトレーニングしつつ規範意識も高めていくという視点の教育が必要。
  • 特別支援の対象になるような生徒だけではなく、多くの進路多様校の子たちがそれに類する状態にあるということも検討しておくべき。大学進学を想定した議論だけではなくて、困難を背負っている子供たちが結果的にたくさん在籍している学校でどのような学びを作っていくのかということも今後検討していければと考えている。

5.小中学校における教員数の確保について

  • これまでの議論にあった小中学校のアクティブ・ラーニングや英語教育の充実などの話は、教員の確保・拡充があってこその話。社会の要請が多くなり教員の負担が非常に増している状況で、まだ教員の削減をしようという動きがあることに対して、この部会で一言声を上げておくべきではないか。ソフトの充実のためには先生方が非常に重要。
  • 児童生徒の数が減った割合に応じて教員を減らすという仕組みでは学校は回らないため、そのあたりのことを考えていただきたい。
  • 今後高校でアクティブ・ラーニングを含めていろいろなことを進めていこうとするときに、教員は相当戦々恐々となっている。現状でもさまざまな課題がある中で、さらに新たな学びをどのように展開できるかという観点からは、人の充実が非常に重要。数だけでは解決できない部分もあるが、数なしでは解決できないこともたくさんある。
  • 現場を見ると、人は全く足りていないというのが現状。すべての教育活動を充実させるためには、教員一人ひとりの力を結集させて、多くの人間で培っていく必要がある。
  • 課題を抱えた生徒がたくさん在籍する学校に対しては、サポートスタッフのような役割を持った先生方や、役割のないバッファ人材のような先生方がたくさんいることで初めてクリエイティブな活動が実行していけるのではないか。
  • 特別支援という観点でもぜひ人は増やしてほしい。OECD諸国と比較しても、一クラスの人数がこんなに多い国はない。欧米は大体一クラスが15人から25人でありきっちりとみていけるが、日本のように40人もいると見ることができない。最近では、一般のクラスでも、様々な特別な支援を要する子供がいるので、そのような観点でも配慮いただく必要がある。
  • 学校に寄せられる期待は年々大きくなっており、危機管理についても、学校側の対応のちょっとしたまずさに対して大変なバッシングを受けたりするため、学校現場では日々、子供たちの安全・安心に非常に心を配っている。そのような中での人的確保は、安全の問題に直接つながってくる。今は、難病の子でも保護者の希望があれば学校でみんなと一緒に学習するという保証がなされる中で、例えば、エピペンが必要な子供は給食の時間に担任一人の目ではとても見られず、教頭も養護教諭も先に給食を食べて、そのクラスに特別に張り付いたりしている。そのようなときに職員室の方でほかの対応が必要となったときには、誰が対応するのか。学校によって課題は様々であるが、日々多様な形で対応している中で、人材の確保というのはとても大きい問題。質的な向上ももちろん求められるが、量的確保もぜひ進めていただきたい。
  • 限られた財政を何に振り分けるかということは、国の将来の設計に関わる本質的な問題。日本の将来は、急激に減少しつつある子供たちの未来にかかっており、そこに重点的に投資するのは当然のこと。OECDの標準的なレベルにまで投資しないと日本の未来は暗い。
  • 現場の先生方は一生懸命頑張っているが、今の時代は、何かあると学校が悪い、先生の能力がないとバッシングを受け、親からの風当たりも強く、教員を目指す人がだんだん減ってきているように感じられる。現状でも、教員採用は、採用自体が少なく狭き門。今回のような教員削減の報道が出て、その門がさらに狭くなるということになると、優秀な人材が教員を目指さなくなる。そうなると、どんなにソフト面の充実を検討しても、そもそもいい人材を輩出できなくなっていくので、これは非常に重く受け止めるべき。
  • 社会不適応の観点から言っても、ニーズに応じた適切な教育は先行投資であり、これを行わないと、社会不適応を起こす人々が結局社会参加できなくなることによる税収減や社会保障費の増につながる。このようなことを文科省をあげて世論を巻き込んで主張していかないといけない。

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