教員養成部会 専門職大学院ワーキンググループ(第4回) 配付資料

1.日時

平成17年5月16日(月曜日) 10時~13時

2.場所

如水会館 2階 オリオンルーム

3.議題

  1. (1)教員養成における専門職大学院の在り方について
  2. (2)その他

4.配付資料

5.出席者

委員

 横須賀主査、小原副主査、岩田委員、上野委員、小関委員、菊池委員、古賀委員、下谷委員、鈴木委員、野原委員、長谷川委員、畑井委員、平出委員

文部科学省

 樋口初等中等教育局担当審議官、板東大臣官房審議官、大西政策評価審議官、杉野専門教育課長、戸渡教職員課長、勝野初等中等教育局視学官 他

5.議事概要

(1)教員養成における専門職大学院の在り方について

 事務局及び委員からの配付資料の説明の後、自由討議が行われた。主な発言の概要は以下のとおり。(○:委員、△:事務局)

委員
 「スクールリーダー」という言葉には広い意味も入っており、管理者というイメージもないわけではない。マネジメントに特化したということではないにしても、優れた教育指導なり理論の持ち主が学校の管理者になっていくというのはむしろ自然の姿でもある。しかし、「管理職」とか「管理者」という言葉の持つ響きよりは「スクール・リーダー」の方がやわらかく幅が広いと思う。妥当性をもって受けとめられるのではないか。

委員
 議論をしていく上で「スクール・リーダー」という言葉を使うのは結構だと思うが、文章化する際に「スクール・リーダー」という名称をそのまま使っていいかどうかは、慎重に検討が必要。既存の大学院を出た者はスクール・リーダーになれなくて、専門職大学院修了者はスクール・リーダーなのかという印象を与える。また学校現場で「あの人は『スクール・リーダー』だ」ということが定着してしまうことの方が影響が大きいのではないか。

委員
 「スクール・リーダー」という場合は、校務分掌の長、学年主任とか学科主任、教科主任、あるいは、教務主任といったものになれる、またポテンシャルのある人ということ。あるいは、教科そのものは非常に立派な教育をする、あるいは、スクールマネジメントや担任としての、エクセレント・ティーチャーというタイプと両方あるのではないかという印象である。
 そういう意味では、確かに言葉が一人歩きするとこれを取得していないと校務分掌の長になれないのではないかという印象を与えるなどの課題もあるが、そうではないエクセレント・ティーチャーもあると思う。

委員
 「スクール・リーダー」の、学校の現場の一つのイメージとしては教務主任や教科主任、指導主任などを思い浮かべるが、それは必ずしも教科指導や子どもたちの指導だけに特化したものではなく、全体的な学校経営というような範囲も含めて考えているところがあるため、いわば「スクール・リーダー」とは何ぞやというところを少しはっきりさせた方がいい。要は両方合わさったもの、学校を引っ張っていってくれる人、そのようなイメージでとらえていいのではないか。

委員
 専門職大学院のカリキュラム構成等に関してそれぞれ提案いただいたが、共通しているのは、共通科目とコース別の科目があるだろうということ。また、課題を踏まえた実践的な事例研究、フィールドワーク、そういうものが中心になるだろうと。また、座学あるいは理論部分との接合が必要だろうと。こういう点が共通だと思う。

委員
 ポイントは「理論と実践の架橋」というものをカリキュラム設計でどこまで保証できるかということだろう。これまではどちらかというと、研究方法のところにおんぶする形で理論と実践の架橋を考えている。それだけではなく、カリキュラムの設定の中にそこのところを入れて保証していく必要がある。
 その点でいうと、カリキュラム構成として「A:従来の枠組み型(科目群の枠組みを明示する構成)」と「B:教育現実から設定したテーマに迫るプログラム型」と2つあるが、そこがきちっとつながっているのか。例えばAは、どちらかというと従来型、教員の実践研究における問題提起を挙げてきた過程があるような感じと思うが、そういう意味で、ことによると実践の架橋という観点を貫かないとありきたりになってしまう。その意味で、Bは、AとBを全く分けて考えるのではなく、Bは問題解決型のカリキュラムだろうと思うが、Aの縦を横につなぐのがBだと思う。
 このため、AかBかという議論ではなく、その共通の部分にBというものの科目分がはめ込まれ、これにより、理論と実践の架橋というものがカリキュラム設定で保証されていくという印象を持つ。

委員
 今回の専門職大学院の検討においては、教師の質等が問われている中での解決策になっているのかということを常にレビューしておく必要がある。

委員
 専門的な能力と同時に豊かな人間性や社会性を持った、人間力を持った教員、それが核になっている。

委員
 共通科目の部分について、小・中・高いずれにおいても、ティーチングスキルという教師の教室での指導技術が重要で、50分間の授業が魅力がなければ、いかようなことをやっても教員は尊敬されない。そういう意味で、授業力という問題を少し実務的に、この中に入れてほしいと思う。根本的には、大学院における教育内容としてはふさわしくないと仮にいっても、授業をうまくやるにはどうするんだということが大事。ティーチングスキルに関する内容をもっと泥臭く入れる必要があるのではないか。

委員
 アメリカのスクール・オブ・エデュケーションの資料を見ると、プロフェッショナル・ディベロプメント・プログラムという、教師の教室での指導と授業の技術の向上のための教育が核になるように思える。この辺を日本においてはどのように扱っていくのか。

委員
 専門的な力以外に、人間的能力をどう付けるか、これが授業の中のコアスキルというか、基本として、共通科目の中に入れてほしい。これは倫理観や職業観などが含まれるであろう。昔非常に感激したのだが、森信三先生の修身教授録みたいなものがあった。あのようなものを座学で、人間学というようなところで入れてほしい。

委員
 マネジメントについて、リードするという意味ではどんな組織体も同じようであるので、リーダー教育のようなものを必ずしも教育の世界だけでなく、民間の方も入ってやってもいいのではないか。

委員
 今回の改革について、今の延長線論か、あるいは改革型かということについては、最初は今の延長線上でできる範囲からやりますよということかもしれないが、基本は改革型をねらい、そことのギャップをどう埋めるかという視点でありたい。

委員
 コース別選択の例として教科教育系や生徒指導系などが挙がっているが、保護者の立場からすれば、より具体的に、例えば免許種により、初等教育・中等教育と分けて、そこでの生徒指導又は教科指導と、より具体に明示した方がいいという気がする。保護者が「初等教育のプロに教えてもらいたい」といったときに、「私は教科教育をやってきました」と教員がいったとしても、「だから何なの」ということとなる。「私は初等教育に関する研究なり高度な教育を専門職大学院で受けてきたんです」というようなものが出ると、保護者に対する一つの権威が付くのではないか。
 なぜ専門職大学院が必要になったかという背景に、保護者の学歴が上がってきたことがある。大方の教員も学士、父親も母親も学士、私と同じなのよと。今は、教育学部を卒業して免許状をとって主婦をやっている方もいるし、一般の職業についている人もあろう。そういう方々に対して教員にどのように権威を付けるかという1つの方途が専門職大学院ではないか。そうすると、免許種別というものを前面に出した方が、親に対する箔付けになるのではないか。その意味で、コースも従来の形とは違ったものを検討すればどうか。

委員
 教師としてのスキルの問題は、ある意味すべてという面もあることから、このスキルを上げるために自分の専門教科をより深くやらなければならない。毎年パワーが上がっていなければスキルはついてこない。スキルを上げることは非常に重要だと思うが、一つの方法として民間の力を借りるということも場合によっては必要ではないか。
 先日TOSSという、教員がお互いのスキルのピアレビューをする会に出席した。そこでは10分間、教師のスキルをお互いにレビューしあい、点数を付け、それにより段位を決める。級から段まで細かく決まっており、39級から8段まである。例えば、学級崩壊を自らの力で直すことができた場合には25級、自分の経験をもとによそのクラスの学級崩壊を手伝って、複数直せたら23級であるというように、非常に細かく規定がある。トップは、著書が5冊以上ありそれに対して10分以内で完全に中身をきちっと説明できること。私が見学した際は7、8段という国語の教員が10分間説明したが、まことに見事なものであった。参加者は全国から自費で参加しており、会場が一杯になっている。これは何とかしなければならないという教員の非常に切実なリクワイアメントからできているのではないか。
 このようなことは、アカデミアのインサイダーではなかなかできない面ではないか。場合によっては、アウトサイダーの力を借りてスキルを上げる、あるいは、大いにアドバイザーとして入っていただいてスキルを上げていくということが一つの方法ではないかと思う。

委員
 教員の需要が変わりつつあるという話が以前あったと思うが、特に大都市圏で大量に教員採用が多くなっている中で、学部を出て即教員になる、教師経験もそれほど積まずにストレートに学校へ出ていくというケースが増えてくる。そうなると、今のスキル論からいくと、かなり危なっかしいなという感じを持つ。
 学部段階での教員養成が、従来からみれば倍近くに増えたのではないか。我々が出たころとは様変わりで、たくさんの科目を履修して教員免許状を取得して教育界に入ってくるのだが、実力・水準はあまり高くないというのが、残念ながら受けとめ方としてある。教育界の現場の動きは、今、非常に急速かつ複雑になっており、対応できない教員が非常に多いというのが実態になっている。その中で、数がどんどん増えてきて、必ずしも十分な教員といえるかどうかというようなクエスチョンマーク付きの教員が大量に出てくるということを見通さなければいけないのではないか。そこで、人間力なりのスキルという点では、我々は危機感を持つ。

委員
 現実には、大学における教員養成において、先生の先生といった役割をきちっと位置付けていかないと、従来の教育学部系の大学院の方々には残念ながらそれがあまり期待できないという中から、今の議論が始まっていると思う。そうすると、延長線上でできるところからしていきましょうというのはあまり効果を発揮しないのではないか。

委員
 資格なりを明確化することも必要である。従来、学校では単線型というか、校長・教頭以外は全部一緒というような鍋蓋の感覚がある。しかし最近、ある県では「スーパー・ティーチャー」と呼んだり「エキスパート・ティーチャー」と呼んだり、ある程度特化したものに対する動きがあり、教員間に差を付けることへのタブーがなくなりつつあるのではないか。それを専門職大学院が後押しするのではないか。人間的な豊かさや教養、授業技術、マネジメントもすべてを一人の人間に求めるのは無理だとしても、そのような機能を十分持ち得る人材を養成する場として、専門職大学院にはある種の明確さが必要。
 その点で、単位数についても、もう少しハードルを上げてもいいのではないか。45単位というのが一つの数字であるが、他の専門職大学院では56とか60という数字もある中で、在学期間が1年とか1年半とかいう現職教員の場合もやはり中途半端でもあるし、受講しやすいという現状を優先して考えるよりは、これだけのものをやったという裏付けになる形をとれる方がいいのではないか。違いがはっきりわかるような資格なり名称を設けるとするなら、それに見合うだけのカリキュラムを用意した方がいいのではないか。

委員
 教育・授業技術あるいは授業・教育指導のスキルについて、3大学の研究成果の中では、どちらかというと現場にある問題を理論と実践の架橋の形で解決するというものが強い。こういうところでスキル・授業技術の向上という問題はどのように考えられるのか、また考えないのかという問題が重要なものとして出てきたように思う。

委員
 「授業力」がキーワードであろうと考えている。その場合に、資料7において、カリキュラムを選択していくという場合に、従来の考え方から必ずしも一緒のものではないのではないかという科目・内容も含まれているが、発想としては、「B:教育現実から設定したテーマに迫るプログラム型」でいくんだろうけれど、特に「A:従来の枠組み型(科目群の枠組みを明示する構成)」の中に並べたのは、すき間的に今ない教科・内容のものを挙げている。
 例えば「学習集団論」で表そうとしたものは「学級がわかる人は授業もできる」という発想である。今までは「教科」と「学級経営」を分けて講義してきたが、そこの部分が一緒でなければできないし、生徒を把握できる人は授業もできるといわれるような、そういうすき間になっている部分を入れてみている。その点が「授業力」の中に要るんだろうと思う。
 ところが、今までは教科専門の蓄積型か、それに対して、子どもが好きであるとかという、観念が分かれてしまうか、どちらかが強調されてくるのが教員養成の中で強かった。このため、そこを授業力ということできちっと押さえていくことが大事だと思う。ところが、中身をほぐしていくと、そこが「コミュニケーション論」になったりして、そこで足をすくわれていく。
 カウンセリングマインドも同様であった。いわゆる「授業力」の中で、子どもを把握するのに必要なんだといわれつつ、そこに入っていくと今度はカウンセリング論の中に深みにはまっていくような形になり、1人の人間の中に教師として入っていくのは難しかった。そこで、先程話が出たTOSSの前身である「教育技術の法則化運動」という、「教育実践家の名人がいるではないか、それは名人が職人的なわざとして置いておくのではなく、そこをまねるように教えてもらったら、自分たちも学べる」という運動を何十年か前に起し、現在のものはその更新である。そういう意味で若い人たちが魅力を持って入ってきた。
 自分もそこでボランティアで指導をしたことがある。その問題意識と情熱は買わなければならないと思うが、そういう部分の深みな問題になったときに、それを大学はどう応援できるかという課題がある。授業力ということで押さえると。その部分を理論の積み重ねという形ではなく、スキルの訓練だけが焦点化できないが、それを間に関連づけていきながら、そこでぶつかっていく問題に対して理論との往復運動もある、そこをカリキュラムとしてどういうふうに出していくかという部分がまだ明示できていないが、課題意識としてはそこが勝負であろうと思う。

委員
 医師養成におけるスキルの問題はかなり重要であって、我々も参考になるかと思うが、大学のカリキュラムの中でどのように扱われているのか。

委員
 大学病院に来る患者さんは自分の体を医学教育のために提供したいと思って来るわけではなく、本人は治してもらいたいと思って来ている。ところが、学生がまず最初に病歴などをとるため患者は非常な不安を持つ。自分の子どもよりまだ若い人がやるのかという不安を持つ。今でもそれはある。このため、まず自分は学生であるということをはっきり示して患者さんに理解をいただく。ただし、そこに一つのバリアがなければならない。その一つが医学教育のコア・カリキュラムである。コア・カリキュラムを全国一律、全国でここまでは確保できていると、いわゆる医学生の品質管理である。それをクリアした人が現場でやれると。試験も、コア・カリキュラムの共通の試験問題をコンピュータに問題を入れておいて、いつでも学生は試験を受けたいときに受けられる。そういうシステムをつくり、それがクリアできている学生が臨床実習を受けられることとしている。
 また、人格的に、いくら学生であっても患者さんに対してきちっとした対応ができないと困るということで、5分間テストを全員に課す。これは、土曜日か日曜日、外来に模擬患者に来ていただく、あるいは、自分たちが模擬患者になり、それに対して、診断に結びつけるのに必要なインタビューをする。しっかり相手を把握しながら、相手との信頼関係を構築しながら、診断の方にインタビューの内容が近づいていくというところを、それからきちんとした対応ができているかどうかを大学総出でチェックして、これをクリアした人が現場に出られる。このやり方はかなり一般的になってる。こういうやり方で、知識と相手に対する対応を客観的にクリアした上で、臨床実習の現場に出す。教員養成においてもこういうモデルを構築し、クリアしているので大丈夫ですよということを客観的に知らしめていく、こういうことが今後大事ではないか。

委員
 医学部には臨床医の技術、スキルについては診断と治療とあるかと思うが、そういうスキルを専門に担当する教授が医学部に入るのか。

委員
 例えば外科なら外科の先生は外科学で学会で優秀であり、外科学だけではなくて、外科術に長けていないと、論文が多くても最近は特に教員に採用されない。そこでは教育力が最近非常に要求されて、外科学において優秀であること、それから外科術について優秀であることの両方が要求される。教授選考のときにはビデオを使ってみたりして、現場でその先生が手術するところを「どうぞ見てください」という大学も随分ある。
 その場で医学生を教育するにはどうしたらいいかということだが、これは教授会全員が見ているところでプレゼンテーションを20分ぐらいしてもらった後、質疑応答し、これならば専門的なことをわかりやすく話す人だなということで、そういう人を何人か集めて投票して教授を決める。

委員
 伺えば、現在の教育学部と医学の世界は、断然違うということがはっきりしていると思うが、「学」と「術」が一体化しているということ。

委員
 教員養成学部の教授の場合、「術」はあるのは、その人がたまたまそうであるということであり、選考の重要な要素になっていないということがある。

委員
 医学部の教授選考のときのプレゼンテーションとよく似ている面がある。大学教員一人ひとりはかなり勉強しており、その前で堂々とやるためにはかなり突っ込んだものを持っていなければならない。そうでないと壇上に上がれない。そういうふうにプレゼンテーションをみんなで評価していくという点で、教育学部と共通した面もあるかと思う。

委員
 今の教員養成の中では基本的にはスキル等を軽視してきた、蔑視していたといいたいぐらいであるが、そのようなことがあることから、この点をどのように抜け出していくかということが、専門職大学院に期待されている部分ではないかと思う。

委員
 今、教育現場で何が求められているのか、そういうところから入っている。そこに、どうやってそういう人をつくり、それが教育現場へ行くとまた核になり、その人からほかの先生にそういうことが教えられる、語られる、サンプルとして見せられると。どのようにしてそういうものをつくれる人をつくればいいのかという問題側から入る。
 今、教職の専門職大学院に求められているのは、研究的なことではないと思う。そういうことをやってきた、俺は偉いんだという人をつくろうということではない。みんなが仰ぎ見て、先生も仰ぎ見て、生徒も仰ぎ見て、保護者も仰ぎ見て、「あの人はさすが」というようなこと、出てきた学歴よりも「あの人は立派な人なんだ」ということがわかることが一番であろうと思う。
 そういう点で、何が問題かということからスタートし、それを解決するにはどんな力が、どういうカリキュラムが必要であるのか、そのためにはどのようなカリキュラムを教える人が要るのか、その順番でものを考えていくのは非常にいいことだと思う。そのことではいい議論がされていると思うので、是非そういう発想で専門職大学院を考えていきたい。

委員
 教員という商売はコミュニケーションの商売だと思う。生徒とどうやってコミュニケーションできるか、自分の思っていることを生徒に伝え、生徒の思いを理解する。保護者とのコミュニケーションは非常に難しいが、様々な保護者を相手にどうコミュニケーションするか、また教員の間でもどうコミュニケーションするか。また、地域コミュニティとどうコミュニケーションするか。そういうことが必要である。そういうことになると、人間というものに対する理解とか、組織というものに対する理解をどうやって持てばいいのかいうことが必要だと思う。

委員
 現行の大学院に現職教員が派遣されてくる場合、修業年限は特例の適用により1年となっている。1年で足りることから教育委員会は送りたいという気持ちを持つようである。その点で、内容的にすごく魅力があり、専門職大学院で学んでみたいという人が現職教員の中からたくさん出てくるだろうと思うが、どこか制約される可能性があり、これをどう考えるか。履修単位45単位のうち現職教員について実習分15単位をマイナスにして30単位となるが、2年間でなければいけないのかどうか。

委員
 これだけ勉強をやりたいという人の意欲を保証するだけの現職教諭を送る保証をどこかがしてくればいいが、財政的な面もあり、ましてや県単独事業でということになると、さらに難しい面もある。長期研修については、いわゆる研修等定数があるが、2年間なり、長い間在籍するだけの余裕が今後あるかどうか。その辺のところも考えていかなければいけない。

委員
 教育委員会として、どのような人が欲しいか常々考えるが、どのような指導者がいればいいかと考えたときに、今一番欠けているのは教育に対する信頼、信用、その辺が欠けている。それをどういうふうに解決したらいいのか。その際、一つには授業で勝負するしかないのではないかという感じがする。先程来多くの委員から「授業力」とあったが、まさにそれである。もちろん、教科指導やマネジメント、様々な分け方はできるが、最終的には学校は勉強するところであり、しっかりした授業ができなければ全然勝負にならない。いかにマネジメントに長けているからといって、その基には信頼される、信用されることが必要である。保護者・地域から、あるいは子どもたちから信頼される、信用されるというのは、授業がしっかりできなければならない。授業が上手な人、教え方が上手な人、その辺が基本になってくる。そういう意味で、1つは、そういうところに力を置いたカリキュラムが必要だろう。もう1つ、教育というのは教科指導だけではないというのは当然のことなのだが、丸ごと見ていく必要があるのかなと。自分も若いころ研究会を随分やらせていただいたが、1日あるいは1時間・2時間の公開講義で評価されては困ると思った。まさに1週間でもならなきゃ自分の学校をわかってもらえない、そういう部分がある。
 結論として、まさに理論と実践の融合というのは大切であり、その中でも特に実務研修、その辺が大切だなと思う。その際、教科で見るのではなくて人間を見てもらうこと、資料8では、教頭を見てもらう、教務主任を見てもらうとあるが、これはすばらしい問題解決的な学習ではなかろうかと興味を持った。初任の教員は教室で見てもらうわけだが、ある意味ではリーダーになる人たちの勉強というのは、教師以外、教頭なり校長を見てもらい、そこから学んでもらう、そういう部分があっていいのかと思う。

委員
 現職教員の大学院派遣については、修業年限のほか、本当はそこに行って勉強してほしい教員こそ学校が放せないということがある。教員養成の修士課程の難点はそこにあり、どちらかというと現場的な者より研究に関心の強い者が希望してくる。これが大学の教員の志向とマッチするため一層そうなっていくという点がある。

委員
 学校拠点方式というのは、ある意味で大学院がつくるのではなくて、学校現場でつくるんだということ。場合によっては、必要な人材は教育委員会がそこに異動させてでも研究研修を積めるようにするということ。簡単には実現できないと思うが、かつてなかった問題提起の仕方をしているというのが学校拠点方式である。

委員
 一般大学院の修士課程と専門職大学院の棲み分けが少しはっきりしてきたかと思う。日本全国に何十万人という教師がいるわけであり、その教師の質の向上といった場合、専門職大学院は、その多くが学んで質を向上していくような門戸を開いたものでないが、市で何人かということでは全体の教育を上げていくことはできないのではないか。本市の場合でも、教員研修において、企業の方に講師になっていただくとか、様々なコースで研修が充実している。それで済むのであれば、わざわざ現場を離れて大学院に行くということは、考えても行かないだろうなと思うところがある。専門職大学院に行って学んだら何か違うんだという部分がないといけない。

委員
 自分の学校でも是非大学院に行かせたいという教員がおり、推薦するといったが、ちょうど教歴10年程度だが、子育て中で小さい子がおり、入学金と授業料が何十万とかかると、経済的なものでそれはできないと。このため一般派遣の大学に行って勉強し直してくるということとなった。それだったら行きたいと。そういう教員がたくさんいると思う。行きやすい条件も整備しないと、どんなにすばらしいものをつくっても行かれない。

委員
 教員採用試験の在り方について、面接官が行政の職員、幹部の職員、校長ということから、一般の若手教員あるいはPTAを面接官に入れる動きも始めている。

委員
 経済的負担の問題について、法科大学院の場合と同じようには考えられないのではないか。

委員
 例えば北大が大学院の受入れを、部門によっては無料としている。例えば、地方の自治体協定を組み、そこから派遣されてくる教員の授業料は大学として無料にする、そのかわり自治体から専門職大学院に配慮したような支援をいただくとすれば、学費を無料にすることは不可能ではないと思う。

委員
 授業や学級づくりとか、生徒への対応も含めて、スキルというのは無視できないと思う。従来から、教員養成大学・学部はその辺のところを軽視してこなかったか。結果的にそういう点の役割が十分でなかった。専門職大学院の成否は1つにはここにかかっていると思う。専門職大学院のレベルというのは、例えば小難しい理論も理屈も書かれるけれども、やはり授業の分析とか、授業を自分でやってみたら、あるいは崩れた学級の建て直しを任せたら結局は対応できなければ、専門職大学院もうまくいかないだろう。

委員
 注目すべきはワークショップだろう。ここ十数年だと思うが、最近、ワークショップが非常に盛んなのは、ワークショップに1日出ると、理屈もそうだし、やり方みたいなものがあって、それなりにわかったような気持ちになって、夕方帰ってくるときには自分が一人前になったような気持ちになる、そういう効果がある。つまり、ここで大事なのは、スキルは非常に大事というものの、それは場面から離れてはいけないのであって、問題は何かということをセットで読み取っていく、学んでいく、身に付けていく、この点は専門職大学院として崩せないのではないか。
 その点でいうと、例えば資料8で「スクール・リーダー」養成のカリキュラムとして基本骨格があるが、4つのカテゴリー、この「A:教育実践基礎科目」「B:教育実践事例研究」「C:教育実践実務研修」というのは授業ポイントなのであろうが、[A]と[B]は切らないで続けた方がいいのではないか。技術を単に現場の教員が単に法則化するのではなく、問題のあるところは情報が切り離せないので、その中で読み取るスキルを身に付けていくというような形ではないか。このため、ワークショップというのは[C]になるんだと思うが、授業科目の中で基礎科目とか事例研究という何か工夫ができないかと思う。

委員
 授業技術やスキルというのは、カリキュラムの中では教育実習に入っていることになっていて、それがほとんど丸投げされている現状がある。このため、教育実習の持っている欠点をはっきりさせないといけない。

委員
 例えば、学級崩壊寸前になった場合、その原因はどこにあるのか、いろいろあるんだろうと思うが、最後は授業力に尽きる。結局子どもが学校の先生の教え方がわからない、それが保護者にも伝わってくる、そういうことでにっちもさっちも行かないような状況になってくる。何としてもこの授業力、子どもに力を付ける力、これが中心だなと思う。もちろん、そこにかかわる人間力など様々あるわけだが、表に出る授業力がないと子どもたちが離れ、保護者から離れていく。

委員
 よく職員にいうのだが「素人にもわかる授業をしなさい。しかし、素人にできる授業はだめだ。そのために給料をもらっているんだから」といっている。保護者の学歴も上がってきていて、教員よりもはるかに上の保護者が多いわけあり、その保護者が見てわかる、でも私にはちょっとできないなという授業をやりなさいよということを繰り返している。

委員
 教育は実学だという前提で、今回を契機にフィールドワークを取り入れるべきであり、その際、公立学校、教育センターのほか、私立学校も大いに活用していただいていいと思う。私立学校も、学生がフィールドワークをしたり、教科研修で相当鋭いチャレンジをしたりすることは、歓迎だと思う。

委員
 信頼と信用というのは教育界で一番問題になった。私学の場合はこれを失ったら最期であり、これについては非常に神経を使っている。そのためには、授業力・教育力と人間性、この2つが教員として重要。

委員
 本学では新人教員にはチューターを付けている。例えば臨床医でいえば、いきなり診察させるようなもの。本来、半年くらい置いてから診察させるとか、ダブルティーチャーにするかが本来であるが、その余裕が私学の場合はない。このため、専門職大学院でしっかりした教員が養成されるようになれば、専門職大学院出身であることを採用の前提にするようになる。専門職大学院がいい教員をつくるには、大学はそれを考えた実学の研究とタイアップしないといけないのではないか。

委員
 授業力なりティーチングスキルの問題が、今日の議論の焦点の1つだったか思う。それに関して、今の教員研修の現場では、予備校に教員を派遣してスキルアップを図るような動きが出てきている。予備校の教員は基本的に教えることのみに専念できる仕事であり、運営やカリキュラムマネジメントや進路指導は別のスタッフがやっている。そのように、学校の教員というもの役割も分化してきたのではないか。1つは、一つひとつの授業を完成させ、エクセレント・ティーチャー、プロフェッショナル・ティーチャーになって、スキルを磨いていくという方向で、もう一つは学校という組織を切り回していくというところに重きを置くものである。アメリカであれば、ティーチャーはティーチャーとして、アドミニストレーターはアドミニストレーターということで、別の仕事と位置付けられている。日本では、今までティーチャーが出世していくとアドミニストレーターになる、そんなイメージだった。それが、出世モデルの一つのパターンではなく、横に並ぶ異なる仕事になるのかという感じがする。

委員
 試案として出したものの中では、修業年限の問題や、ストレートマスターと現職教員の区別などは明確にしなかったが、これをストレートマスターでやろうとすると2年丸々要るだろうと思う。他方、例えばこの専門職大学院で学校のマネジメントに関して一定程度の研修を積んだ者はたとえ若くてもアドミニストレーターとして、そういう立場から現場にかかわっていくという方策があってもいいのではないか。
 逆にいうと、現職経験のある人がスキルアップを図ろうという場合、長期の実務修習が必要なのかどうかというのは議論のあるところだろう。そこの部分を軽減して、1年で単位修得できる範囲におさめて、現職の先生方が1年間、あるいは、夜間だけでも学べるというふうな仕掛けをどのように構想するかということは、今後に検討の余地があるところではないか。

お問合せ先

総合教育政策局教育人材政策課

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(総合教育政策局教育人材政策課)