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資料1


幼児教育の意義及び役割
〜これまでの議論の概要〜



子どもの育ちの「異変」

あやしても笑わない子、高い高いを怖がる子、他の子とかかわりを持とうとしない子、河原の土手を駆け上がるのにしり込みして泣き出してしまう子、人の話を聞けない子、そんな子どもが増えている。
子どもの「身体の育ち」「自我(自尊心)の形成」「社会性(対他関係)」に深刻な懸念が生じている。
「身体の育ち」については、これくらいならできるということの積み重ねにより、自分のできることできないことを体で覚えて理解していないという問題があり、体力の低下、自律神経の発達にも悪い影響を生じている。
「自我の形成」については、自分で遊びを選び、達成し、自信を持つことにより生まれる自尊感情の発達に問題があり、能動的知性の低下や、学力低下の背景ともなっている。
「社会性」については、放っておいても他人と身体的に関係付けられるという習慣がなくなり社会性の涵養の機会が減少する一方、そうして失われた時間をテレビやテレビゲームが埋めていることにより「非社会化」が進む背景ともなっている。
子どもを愛する、命を大切にするといった人間の感情、本能の最も根本的な生きる力に問題が発生している。

子どもの育ちの「異変」の背景

子どもの愛し方がわからない親がいる。家族の愛情を目一杯受けるべき乳幼児期に問題があると基本的信頼感の醸成に問題が生じ、生きる力の核となる、他者への関心、愛着、信頼感に問題が生じる。
親の押し付け、過干渉、社会の評価的まなざしが子どもの自我の形成に悪い影響を与えているのではないか。自主性に乏しいが、周りの評価は異常に気になる子どもとなる。
子どもは、家庭、地域(の子ども集団)、学校という三つの場において育ってきたが、育ちの場としての地域の損失から、三者のバランスが崩れている。
このバランスの崩壊から家庭の負担が重くなる一方、家族の機能低下は進み、育児は孤立化し、家庭の子育て支援の必要性がますます高まっている。
社会の作り方として、子どもにとってどのような環境が望ましいかということを十分に考えてこなかったのではないか。例えば、公園の設計一つを取っても、幼児を自由に遊ばせることができる場とするのかという考慮が希薄であるように思える。
世代ごとに背景社会が急激に変わる中にあって、価値観を自分たちで作る必要性が社会ではなく家庭の問題となっており、それが子どもの育ちの問題に直結しているのではないか。
現在の親や教員自身が、子どもの育ちの問題が顕在化してきた時代に、幼児期を過ごしてきた世代のため、問題が増幅しているのではないか。

幼児教育の意義

子どもには生まれつき備えている様々な能力がある。子どもが他者とかかわり事物と直接出会い、身体感覚を伴って複合的に実感する体験を通じて学ぶことにより「芽生え」が生じる。
こうした芽生えを経験することなどによる一つ一つの意味の蓄積から、「心の原風景」といったものが形成され、生きることの基本となるものが形成される。
幼児教育における遊ぶことの意義を科学的に分析する方法は現在のところないが、時系列で個々の子どもを追って行くと経験的に見えてくるものがある。それは、例えば、片づけができるようになる、集中力がつく、自主的な活動ができるということである。
自己への信頼、言葉、しつけ等の一次的社会化の場である家庭や基礎力、伝承、社会性等の二次的社会化の場である地域(異年齢集団)における教育力の低下を受けて、十分な育ちの機会に欠けている子どもたちに対して、幼児期にふさわしい遊びと活動を提供する場としての幼児教育の意義が高まっている。

幼児教育の専門性

幼児の自発性の発揮ということを基本として、いいタイミングで支援を与え、お節介にならない程度に関与することで、幼児に自己達成感を残すことが保育者に求められる専門性である。
幼児教育においては、発達段階に応じた個の課題の自覚に基づく意識的働きかけと子どもの自主的選択的行為の保障という両面性を統一して実現することが必要である。
幼児を外に出せば自然と遊び始めるというものではない。遊びの常設の拠点を用意することで幼児の集団的遊びの展開が図られる。さらに、別々の遊びをしている幼児同士にそれぞれの遊びについて「みる−みられる」関係が成立することにより持続的展開が図られる。
「目に見えない教育」である幼児期の教育において、幼児の日々の経験において幼児の発達を「どう見る」、「どう見せる」というのが、専門家としての保育者の役割であり責任(説明責任)である。
幼児教育における意識性や、大人の作為を気づかせないで子どもを学ばせる工夫の必要性が高まっていることから、幼児教育の教員には相当の力量が求められている。その専門性をどう身に着けさせるか、専門性の高い人材をいかに確保するかが重要な課題となっている。
個々の先生の成果の蓄積は現場にある。その成果をみんなが利用できるようにして幼児教育全体のレベルの向上を図る仕掛けが必要。こうした現場の教員の実践を支えるシステムの制度化を望む。

幼児教育の役割

子どもの育つ環境の変化により、子どもが健全に育つ機会が奪われていく状況にあって、幼児教育には子どもの健全な育ちの機会をすべての子どもたちに保障する最後の砦としての役割を期待したい。
幼児教育は、教育的意図を持った環境(人的、物的、空間的)の設定と適宜の介入により幼児期における人間形成を助長するものである。教育的意図を持った環境の設定に、幼児の発達や人間形成の要素が内包されている。
幼児教育に携わる幼稚園、保育所、小学校等の専門機関は、子どもの異変とその背景となっている問題、及び子どもの発達段階に応じた課題に精通するとともに、これらについての共通の認識に基づいて、それぞれの特性を活かしつつ、連携を深め、協同すべきである。
地域における公私、幼保小の別を越えた協同的な取り組みを進めるために、市町村の教育委員会にコーディネーターとしての役割を期待したい。
幼児の育ち、社会化の筋道が変わってしまっているが、昔に回帰することは不可能であるし、また、求められてもいない。現在は、育ちのモデルが変化している時代。「自分の生きることの基本モデルを子ども自身が作る」ということが基本である。
幼児教育への期待、依存がますます高まるなかで、今の幼稚園の人数配置では十分な研修の機会は確保できず、子育て支援への取組も十分には行えない。また、保育所も、キャパシティーを超えた状況になってきており、頑張る人ほど燃え尽きて辞めていくという悪循環が起きている。

子育て支援

子育て支援をするための環境整備に当たっては、子どもをどのような人間に育てていくのか、あるいは、地域が子育てにどのようにかかわっていくべきなのかといった理念が人々の間で共有されることが重要。このような理念が無ければ、子育て支援策が単に子育ての負担を軽減するだけの親の利便性の追求に応えるだけのものにすぎなくなる可能性がある。
保護者や教員自身が、幼児期に十分な経験を得ることなく大人になっている。親自身が親として学ぶ機会が必要となっている。また、地域の人材に幼児教育にかかわってもらうことは、教員自身が学ぶ機会となる。
地域には、子どもを育てる力、地域力というべきものがある。民生委員、児童館、子ども会等、有効な資源はたくさんあり、そこに教育的アプローチを取り入れれば、もっと活用できる。地方分権の流れの中で、市町村教育委員会が中心となってできることがたくさんある。
子どものための、教育・福祉・医療の垣根を越えた行政サービスを進めるとともに、行政として、地域の子育て機能回復を目指した様々な取り組みを行っている。行政がどこまでやるべきかという議論もあるが、試行錯誤的に取り組みを行っている。
都市化、核家族化等により分散された子育て資源をネットワーク化するため、幼稚園には、そのような人材の人脈を重ねて行く場としての役割を期待する。


以   上

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