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中央教育審議会初等中等教育分科会

2004年1月13日 議事要旨
中央教育審議会初等中等教育分科会幼児教育部会(第5回)議事要旨


1.日時 :平成16年1月13日(火)10:00〜13:00

2.場所 :大手町サンケイプラザ301・302会議室

3. 議題:
(1) 幼児教育のあり方について
有識者からの意見聴取
1 門脇厚司筑波大学大学院教育学系教授
2 服部祥子大阪人間科学大学人間科学部教授
3 猪股祥平塚保育園長
意見交換
(2) その他

4. 配布資料
資料1   第4回幼児教育部会における主な意見の概要
資料2   意見発表資料(門脇厚司氏)
資料3   意見発表資料(服部祥子氏)
資料4   意見発表資料(猪股祥氏)
資料5   今後の幼児教育部会開催日程
参考資料   平成15年度幼児教育調査報告書
(平成15年11月広島県教育委員会)

5. 出席者
委員)
木村分科会長、田村部会長、國分副部会長、無藤副部会長、浅田委員、池本委員、石榑委員、石田委員、井堀委員、門川委員、河邉委員、酒井委員、服部委員、北條委員、山口委員
文部科学省)
結城文部科学審議官、近藤初等中等教育局長、樋口初等中等教育局担当審議官、義本幼児教育課長、土屋幼児教育企画官、神長教科調査官、小田国立教育政策研究所次長、その他関係官
意見発表者)
門脇 厚司氏(筑波大学大学院教育学系教授)
服部 祥子氏(大阪人間科学大学人間科学部教授)
猪股  祥氏(平塚保育園長)

6. 概要
(1) 事務局より配布資料の確認があった。
(2) 門脇氏、服部氏、猪股氏からそれぞれの資料に基づく意見発表が行われた後、各発表に関する質疑応答、意見交換が行われた。
概要は以下のとおり。
1門脇意見発表者、2服部意見発表者、3猪股意見発表者、○委員)

1 門脇意見発表者
意見発表】
  私の専門は教育社会学という、教育ということに対して強い関心を持っている社会学者という立場で仕事をしてきている。社会学者がなぜ今、乳幼児の教育にきっちりと物を申さないといけないかということから話をさせていただきたい。
  まず一つは、20年ぐらい前からずっと言い続けてきていることだが、若い世代の社会力が相当に衰弱しているのではないかということ。朝日新聞社から出した『親と子の社会力』という本で、社会化という事態が真っ当に進んでいない、社会化にあらず、「非社会化」という言葉も使いながら、今の現象に警告を鳴らしている。
  若い世代というのは、日本の社会が高度成長期に入った1960年以降に、日本という社会に生まれ育った世代という意味合いで使っているので、既に若い世代の上限は40歳を超えている。当然、40歳を超えているということは、子どもたちの親にもなっている。親の世代そのものが社会力の衰弱を来しているために、子どもの社会力の衰弱をさらに倍増させているという事態がどんどん進んでいるのではないか。
  これが学校レベルではいじめとか、不登校とか、あるいは普通の子どもたちの自閉症化、要するに他者に関心を持たないという事態がどんどん進んでいる。それが無気力、引きこもり、あるいはネット中毒、ゲーム中毒、オタク化、薬物依存、最近はネット自殺ということでも話題になっているが、自殺願望者を相当数増やしているという事態を招いているのではないか。
  さらに、こういう社会力の衰弱が若い世代の脳のファンクションそのものを劣化させるという事態を招いているのではないか。これが学習意欲の低下につながり、結果としては学力の低下につながるという事態をもたらしているのではないか。
  社会学者がなぜここまで言わないといけないかというと、社会学者は本来は、既に社会的な人間になっている、社会的な存在になっている人間を対象にしながら研究を進めてきたが、今は二十になって大人というカテゴリーにくくられる人間が、それに見合うような中身を伴っているかということを見たときに、どうもそうなっていない。なぜこういうことになるのかということで、大人から青年、青年から子ども、子どもから乳幼児、ゼロ歳児まで発言せざるを得ない。
  社会力というのは、よりましな社会をつくろうという意欲を持つことであり、それを実現できる構想力、新しいアイデアを考え出すこと、また、考え出したことを実際に実行に移していく力のことを言っている。
  なぜ人が人とつながって社会をつくっていく力となっていくのかということのおおもと(原基)、社会力のおおもとということで、他者への関心、愛着、信頼感ということを言い続けてきている。社会のおおもとというのは、例えば「社会的なのり」、いわゆるソーシャル・ペースト。社会的であるということは、複数の人間がいるという状態であるから、ほかの人、自分以外の人間に対してきっちりと関心を持ち続ける、かかわりを持ち続けるということで、ペースト、のりという使い方とか、磁石を連想しながら、ソーシャル・マグネットという言い方をするが、そういうものが社会力のおおもとと言える。
  それをもっと具体的に言えば、他人、自分以外の人間にまず何よりもきっちりと関心を持つ、さらに愛着を持つ、さらには信頼を寄せるというところまでいくということが、社会力を培うために絶対に必要なことである。このことから私は社会学者として、おおもとをきっちりつくるためにはゼロ歳児、乳幼児の教育が猛烈に重要なのだということを言い続けてきている。
  社会力は、ではどのようにしてはぐくまれ、培われ、強化されていくのか。
  まず一つは、ヒトの子は先天的にかなり高度な能力を持っている。とりわけ人を見極めるとか、単なる音から、声として、あるいは言葉として発せられている音をきっちりと聞き分けるとか、新生児の研究によって実証されてきている。そういった人ときっちりとかかわることができる能力を“解発”する、リリースするということさえしていれば、大きな間違いはない。しつけをするとか、早期教育をするとかではなくて、大人こそがきっちりとかかわりを持ち続けることによって、ソーシャル・ペースト、社会力のおおもとなるもの、他者への関心、愛着といったものがきっちりと育つことになるだろうと考えている。
  さらに、様々な他者、とりわけ多様な他者と行為のやりとりを重ねるということをしながら、社会力は強化されてくると考えている。ここのところが、今、ずっぽりと抜け落ちるということが、社会の変化に伴って生じ、社会力がどんどんと衰弱し、その結果として脳のファンクションそのものを劣化させることにつながっているのではないか。
  わかりやすい例をここで紹介するが、アシモくんという性能の高いロボットがある。アシモくんは人の顔が識別できる。人の表情とか、動作を読み取ることができる。環境に応じて自律的に行動することができる。情報を収集し、それを自分で分析し、解釈することができる。自分の解釈に基づき適切な行動ができる。ロボットというのは、人間に近い機械をつくるということであるから、こういうことを備えた機械をつくるというのは進歩になるのであろうが、肝心の人間がこのようなことをどんどん抜け落とすようなことになっている。
  日立家庭教育研究所が、3歳児の子どもたちを観察して、表情が乏しいとか、気持ちが通わないとか、友達関係を持てないとか、ほかの子が近寄ると避けていくとか、自分の殻にこもるとか、アイコンタクトができないとか、大人が指をさしたものに自分の目を合わせることができないとか、物を追って視線を動かすことができないとか、自分から話しかけようとしない、声を出すことができない、こんな報告をしている。
  このようなことが、私の言う社会力のおおもとをずっぽりと抜け落とすということである。それを修復するためには、何としても人ときっちりかかわるという回復をし続けないといけない。早い時期にこそ、そのことの重要性がさらに強調されないといけないことだと考えている。
  最後に、我々、教育に関心を持っている者は、緊急にしなければいけないことは何かといえば、子どもの異変というのは一体何だということの認識について、きっちりと共有すること。社会力のおおもとがきっちりと培われないような状態が進んでいるということが認識されればこそ、乳幼児教育の重要性を徹底させることが極めて必要なことだろうと思っている。
  意図的な教育が小学校1年生から始まるとしたら、学校というところが意図的な教育を行う機関だとしたら、そのように用意された社会的な装置だとしたら、意図的な教育が意図どおりの効果を上げる状態で、今の子どもたちが6歳という段階で小学校に席を占めているかといったら、相当におかしな状況になっているのではないか。だからこそ、きっちりと意図的な教育が意図どおりの効果を上げるための下地づくりを懸命にやらないといけないのではないか。そのために、乳幼児教育が極めて重要なのだということを周知徹底させる必要があるのだろうと思っている。
  そのために、脳科学が提供する様々な知見をもとにしながら、“確かな理論”をつくり、わかりやすく説明することが極めて重要なのではないかと思っている。
  最後だが、教育というのは何よりもヒトの子を“人間”として育てることだということを再認識する。ヒトの子を人間にするということは、知的な存在にする、何か物を覚えるとか、賢い人間にするということよりも、何よりも社会的な動物、社会的な存在にすることを考えないといけない。そのための下地としての、他人に対して関心を持つ、愛着を持つ、信頼感を持つというような、ほかの様々な人といい関係をつくりながら、ふだんの生活を抵抗なくスムーズにしていられるということが、自分の喜びでもあるというような人間に育てることこそが極めて重要なことだということを改めて認識する必要があるのではないか。

質疑応答】
 先ほど先生が最初のほうにお話しされた1960年以降に育った者たちも、既に非社会化が進んでいるということだが、幼稚園児の保護者がすっぽりその中に入ってしまう。保護者や大人に対して、非社会化ということを現場でとても感じる。そういう大人に対してどのようにしたらよいだろうかということがあれば、ぜひ教えていただきたい。
1  2002年から学習指導要領を改訂して、総合的な学習の時間というのが必修の授業としてスタートしているが、あの授業について、地域の大人たちをきちんと巻き込みながら授業を成功させるということが、一つのいいきっかけになるのではないか。
  今、若い世代の相当数が学校の先生にもなっており、また、文部科学省の役人にもなっている。日本の教育の政策を決めている人たちの非社会化が進んでいる。
  学校の先生も社会力がない。学校の先生に社会力がないから、総合的な学習なんかやれるわけがないという議論もあるが、だとしたら、なおさら地域の大人たちを巻き込みながら、総合的な学習の時間をきっちりとやり続けることによって、その中に子どもが取り込まれることによって、親たちの社会力も、先生の社会力も、結果として子どもたちの社会力も増すということをやり続けなければだめではないか。
  実際にやりながら、お互いに社会力を高めるということをし続けることが必要なのではないか。
  幼稚園にしても、保育園にしても、その園の囲いの中だけが教育の場だということではなく、地域そのものも園庭にする、どんどん地域に飛び出すこともやり続ける必要があるのではないか。

 「社会力の衰弱が若い世代の脳機能を劣化させている」ことに、非常に興味がある。結局、人間性というのは相互性の問題だが、テレビやゲームはワンウエーであり、それが学校教育を受けたりしている時間よりも長くなってきているのが大きな問題で、アメリカの小児医学会では、3歳までの子どもにはテレビを見せてはいけない、というような提言をしているが、その辺はどうお考えか。
1  全く言われるとおりで、人間の脳のファンクションを高めるというのは、人とかかわることがものすごく重要である。その絶対量がどんどん減って、テレビとか、テレビゲームとか、パソコンというものが埋め合わせている。テレビゲームやテレビは、子どもの脳にダメージを与えるということが実証されてきている。脳のファンクションを高めるところが少なくなって、ダメージを与える時間量が増えるということは、どのような事態が進んでいるかということは、もう目に見えている。
  来年の4月から、茨城県の原子力で有名な東海村というところで、毎週土曜日はテレビを見ない日にするということを、2010年まで徹底してやる、ということを実際に始める。そういうことをやったら、家庭の中の親と子のつき合い方、地域における大人と子どもたちのつき合い方は明らかに変化する。その結果がどういう変化をもたらすかということを、2010年までデータを取り続けるということをやり始めようとしている。

 現場では、遊びが幼児期には重要な学習であるというふうに押さえて、遊び中心の保育をしているが、社会的には遊びは学びというのがわかりにくいとか、成果が見えにくいということで批判されがちである。何かその批判に対しても対抗していくような理論的な背景があったら教えていただきたい。
1  遊ぶというのは、大人が使っている概念であって、子どもは遊んでいるなんていうものではない。私はだから、「遊ぶ」という言葉を使わずに、「物と人との相互行為」というのが遊びの中身だとも言ってきている。
  例えば、物と相互行為するというのは、ここに水があるが、コップにさわるということも、アクションを起こすということ。触われば、当然、この滑らかさとか、温度の冷たさというのは、触覚を通しながら私たちの脳に情報としてどんどん入ってくる。だから、水を飲んだときに、のどを通る。その感覚を私たちは感じているわけで、それもすべて脳の中に情報として入っていく。これが何なのかということの判断はすべて脳がやっている。
  何かに対してアクションを起こせば、必ずリアクションというのがはね返ってくる。そのことの繰り返しが極めて重要である。これが、物との相互行為。物に対してアクションを起こす。我々がなじんでいる言葉を使えば、新しい体験をどんどんやるということ。新しい体験が増えれば増えるほど、次から次と新しい情報が脳に投入されるので、それを処理するためのニューロンとニューロンの回路がどんどん増えることが、脳のファンクションを高める。
  もう一つは、人との相互行為。様々な人たちとのきちんとしたかかわり、行為のやりとり。アクションのやりとりということ、それが遊びだと私は思っている。そのことを早い段階からきちんとやることが極めて重要だと言っている。結論としては、乳幼児からの人とのかかわり、乳幼児教育がものすごく重要だということを私が強調する、一つの根拠にもなっている。

 社会力の低下が60年代からあって、それがテレビの普及と大きな関係があると思っていたが、そういった現象は日本だけではなくて、ある意味、先進国共通の現象だと思う。もしも特に若い世代の社会力が、例えばヨーロッパ、アメリカと比べて、特に日本人が低下しているとすれば、その原因はどういった点にあるのか。
1  外国については、まだ実証的なデータを持っていないので、日本が突出しているというようなところまで言えないが、去年かおととし、TBSがアメリカに取材に行ってテレビ番組をつくっているが、それによればアメリカも相当に社会力が低下している。それをカバーするために、アメリカがどんなことをやっているかが、その番組の中で紹介されている。そのような社会力を高めるための様々なノウハウを開発して、実際にやらざるを得ないという状態になっているとしたら、相当におかしな状況になっていると言える。
  最近の話だが、韓国の教育院から、私の岩波新書をハングルに翻訳したいという申し出があった。韓国も、日本以上に受験が加熱していると聞いているが、そのことの結果として社会力の低下を、教育院自身が認知しているということの現れだろうと思っている。


2 服部意見発表者
意見発表】
  「幼児教育と精神医学」というテーマで話をさせていただく。
  児童・青年の精神科医の立場から幼児期ということを眺め、幼児教育に何が求められるかというところまでお話しできれば、と思っている。
  ほとんどはクライアントは思春期、青年期のクライアントである。思春期には性の成熟と性衝動という大変大きな噴火山のような出来事が起こってくる。それに伴って、親子分離と孤独の世界へ歩を進めていく。健康な意味での孤独を知る時期であり、さらにその孤独で、ある意味では親元を離れて、社会への参加が始まる中で、孤独な中で自らの力で仲間体験をしていくという課題が思春期に与えられているわけであり、それを前にしたときに、今まで培ってきた様々なものが、壮烈な勢いで試される。
  したがって、思春期の挫折とか、蹉跌とか、危機的状況というのは、健康な意味で当然のことであり、この試練を通って初めて成人期に生きていく力を得られるという意味で、肯定的にとらえたいと思う。
  つまり、青年期以降、成人期も含めて、人間性、人格の形成がいかなるものかということがまず試される。その中でも、特に自我期の自分というもの、自己意識、自己感情、自分というものをどう持っているか。その自我の機能が試され、その発達がもしうまくいっていないと、障害を起こすであろう。
  もう一つ、社会化。他者と生き延びる共存力。他者との対人感情であるとか、対人意識であるとか、人と結び合う力が、どれだけ内的な力として培われてきたかが試される。その結果の障害が様々に起こるのが思春期の挫折であろうと考える。
  思春期、青年期の挫折といえども、これはまだ人生の非常に早い時期であり、何も恐れることはない。ましてや乳幼児期というのは、人生の早期であり、礎であり、たぶん思春期の船出のときの非常にかすかではあっても、自分を導く羅針盤になることは間違いないが、乳幼児期が何も決定的なわけでもなければ、乳幼児期に非常に多くの力を獲得しておかねばならぬとも思わない。
  内在していく力としてのもとになるものが、その年齢にふさわしい形で一つ一つ伸び上がっていく。内側のものが立ち上がって、目覚めて、起きて、それが自分の中で力となって、大きな広がりを持つことの期待を、生涯という大きなスパンで、まず幼児教育者が眺めていただかねばならないということを感ずる。
  思春期には、例えば人格形成とその障害の代表例は、「境界例人格」であろう。今、人格障害という言葉を聞くことが多いと思うが、実は、人格障害というのはまだ思春期ではつけがたい。大人になりきっていないという意味で。しかし、「境界例人格」のような非常にトラブルの多い、人格のひずみの人々が、今、増えている。これは全体の人格の発達の、最初のまずさが蹉跌として思春期あたりで出てくる。もちろん成人期にも引き続き、ひずんだままでいく方もあるし、思春期・青年期というまだ若い時期に、精神科医やカウンセラーによって、内なる力、潜在力が立ち上がっていくことでバランスをとることも十分可能であるが、まず子どものときの全体の人格像が、どのような経験を通して培われてきたかということが思春期で大きく試される。
  その中でも自我機能、自我機能というのは、自己意識や自己観や自我という、精神分析で言えば超自我とイド( id )の中にあって、調節力を要求される、あるいは現実吟味力が要求される。私たちが持つ精神機能である知的なもの、情的なもの、意的なもの、欲動を含めた意欲的なものを統合しつつ、人間は生きていかねばならない。その自我境界が危うく揺さぶられる。脆い場合は崩れ落ちる。自我の障害の一番大きいものは精神分裂病、今、統合失調症と言うが、その統合能が緩んでくる、壊れてくる。そして、様々な自我の傷のつき方によっては、大きな精神障害の現象を示す。そういった自我機能の問題。
  それから、先ほど門脇先生の言われた社会化。必ず人間に囲まれて、生涯を生きねばならぬ人間の宿命とすると、ソーシャル・ペーストと言われたが、海原を形成するように、社会という大海原で隣の人とのつながりを持つ。それは必ず生きていく上の必要な課題である。その共存力である対人感情であるとか、他者との共感とか、愛情とか、つながりを持つ力が壊れてくると、非社会的、反社会的とかつて問題行動を分けたわけだが、そのいずれも社会とのひずみである。引きこもり、不登校のような非社会的もあるし、今、大変問題になる行為障害、法律用語で言えば非行とかなり近いが、これもまた様々な少年犯罪のときに、よく出てくる診断名である。結局、自分と他者との関係性が破壊的になってしまうという現象が、思春期の問題の質として挙がってくるわけである。
  そのようなことを考えるときに、乳幼児期の発達をもう一度確認しておきたい。要点として申し上げておきたいことは、一生涯が発達のプロセスであるということ。 
  そして、発達は危機に遭遇しつつ、順次成熟していくものである。つまり、身体的な側面、心理社会的な側面を眺めて、乳児期には乳児期に特有の課題があり、その課題に向き合うときは、当然それは前進もあれば退行もあり、停滞もある。そういう意味では、すべての人間が危機に遭遇する。その危機を超えて解決していく中で、人は人格をより鍛錬し、築き上げていくわけで、その年齢にふさわしい発達課題に目を向けておく必要がある。
  人格的活力は、その中で獲得される個人の人格を内側から組織づける力であり、これも順番性があるということ。何もかも大事なものを最初から、幼いときから一挙に持つわけではない。例えば赤ん坊であれば、乳児期であれば、身体的側面からいえば、最も鮮明な形で成熟していく部位は、精神分析家がいう口唇部であり、身体のスキンシップを中心とする、ベーシックな人とのつながり方、直接接触ということであろう。
  その中で、基本的信頼感対不信感、これはエリクソンが述べた概念だが、要するに発達というのは、足し算と引き算、プラスとマイナス、肯定的なものと否定的なものの両者にさらされて、両者を発達させていかねばならないし、いいものだけをとるのでは決してない。そこに人間の面白さ、力があるわけで、親子関係の中でも、親と子の関係性が非常に深い、安らぎに満ちたものであるとき、基本的信頼感、快感を通して、子どもは獲得をする。しかし、親が来てくれず、あるいは自分の欲望が満たされぬときに、子どもは悪魔のごとく泣き叫ぶ。そのときの不信感というのは壮烈なものであろう。
  乳児期を超えていくときに、ポジティブなものがネガティブなものを凌駕していくことが、健康なバランス。そして、どんなに泣いていても親が必ず来てくれた子どもは、希望という人格的活力を獲得するであろう。
  それが乳児期であって、その基礎があるから、次に自律心という筋肉系が発達する幼児前期のちょうど1、2歳のころに、意志が作動する。先ほど門脇先生がおっしゃったが、手を伸ばしてコップをさわる。これは意志力である。筋肉というのは、他律ではなく、自律である。自分の意志が作動しない限り、1ミリも1センチも動かない。他人が手を持って、コップを握らせることを他律と言う。そうではなくて、自分の意志力である。そのとき必ず失敗もし、間違いもし、恥じを持つ、あるいは自分に対する疑いも持つ。これもたっぷり経験してもらいたい。しかし、大きなところでは自律心のほうが恥じや疑いを凌駕することが大切である。
  3番目に、幼児後期、ちょうど幼稚園時代であり、先ほどから遊びということがあるが、遊びという言葉の原義は、楽しいからするわけであろう。これは欲望のかたまりのようなもの。意志力、欲望というような、前へ、前へ、前へと、自分がひたすらやりたいことをやる。それは意志力がたっぷりと出ていくことがまず大切で、初めからそれをコントロールしてはならない。意志力があって、自発心があって、しかし、それはやがてルール違反という罪の領域に入っていくであろう。ボールがあればけ飛ばしたい。しかし、教室に入ったり、レストランに入ったり、電車に乗って、ボールをけったり、走ったり、騒いではならぬ。これは子どもたちは生まれてこの方、知らぬことであるが、ここで教えられる。その線を越えたときに、社会というみんなで生きていかねばならぬという前提に立つときに、規範があり、ルールがある。法律がある。そこを何度も超える中で、子どもたちは初めて罪ということを知るであろう。罪をしっかり知っておくことも大事である。
  何度も言うが、ネガティブな経験をどれだけしておくかが思春期に試される。ここにしたたかな、しなやかな、両方ともたっぷり持ち合わせながら、暗い影の部分を持ち合わせながら、ギリギリのところでポジティブな明るいものが凌駕する。これが最も健康な発達であろう。
  そうなったときに、初めて目的が出てくる。意志より前に目的があってはならない。ボールをここまで投げようとか、上手に飲もうとか、上手に絵を描こうという、目的が先にあると、意志は伸びない。意志はまず欲動である。そして欲動を持って自らが発達していく中で、初めて子どもたちは上手に投げたいとか、あそこまで登ってやろうとか、こんなふうに美しく描いてみたいという、当然、目的が出てくるであろう。この順序を違えてはならぬということを、もう一度確認をしておきたい。
  幼児教育に人間発達という大きな人格の形成、パーソナリティーの形成についての基本になる知識を、幼児教育の養成課程で、あるいは様々な幼児教育者が学ぶ機会が多くあってほしい。それは個々の要素的な発達ではなくて、全人的な発達を知っておく必要がある。
  試される中で、壊れが当然出てくる。本来持っている思春期の健康な蹉跌であれば、何も恐れることはない。船出をして、親元を離れて一人で社会の中にこぎ出していく思春期であるわけだから。どんなに立派な装備を用意していても人生はわからないわけで、乳幼児期に用意さえしておけば大丈夫だというのは大間違いである。何も用意をすることが人生を安楽な、間違いのない道に導くわけではない。どの段階も発達の階層において危機があるということ。それが面白い、スリリングな、人生を豊かにするものであり、これがあってこそ人は発達をする。だから、思春期の蹉跌を何も恐れることはない。
  ただ、基本的な羅針盤がある船は、ボロボロになりながらも、また再び出ていくことができる。それが第1章、健康な蹉跌である。
  第2章、健康でない蹉跌。これは極めて危険である。羅針盤がない、あるいは人格の核になる部分、芯の部分が壊滅していれば、どんなに時間がかかっても、まずそこから考えねばならない。これが治療論であり、我々に任されているものである。どこまで治療できるか、それは大変難しいことであるが、まだ人生は長い。思春期で何も投げ捨てることはないと、私は常に楽観論を持っている。
 幼児期にかかわっておられる先生方の前にいる子どもたちに、精神医学的な問題がある。大きな問題は、医療関係、保健関係で、3歳児健診、その他で既につかまえられているかもしれないが、大きく分けると、器質的障害、発達障害、心理的・社会的諸問題と書いたが、こういった問題、特にそれほど重くないものは、やはり子どもたちの問題点をまず理解し、それに対する受け入れと対応をしていただきたいということで、ちょっと掲げた。
  器質的の器質はオーガニックという意味で、テンペラメントの気質ではない。明らかなる証拠になる何らかの障害部位がはっきりわかっているようなもので、脳損傷であるとか、あるいは脳炎後遺症であるとか、あるいは脳腫瘍とか、そういったものを脳の器質障害と言う。これは子どもたちの問題として一つ大きいものがある。
  2番目の発達障害は、今、自閉症はPDD(pervasive developmental disorder:広汎性発達障害)と言うが、自閉的な障害であるとか、あるいはADHD(attention deficit hyperactivity disorder:注意欠陥多動性障害)とか、あるいはLD(learning disorder :学習障害)と言われるようなものがあるかもしれない。特に軽度なものの場合、子どもは大変困惑し、戸惑っている。そういう子どもたちに対する眼差しが注がれることで、随分人格の発達が円満になるであろうという意味での知識をお持ちいただけたらありがたい。
  3番目は、もっとよくあること。つまり、心理的、社会的な諸問題で、子どもは体で感情を表現する。幼ければ幼いほど体で感情を表現する。したがって、子どもたちは神経症的な傾向、例えば退行していくような現象、夜尿とか、遺尿とか、あるいは攻撃的な思い、癇癪、発作を起こすとか、あるいは遺糞症のように、非常に攻撃性を出したいという思いを持つとか、あるいは自律神経失調症のようなものを示すときには、何か子どもたちは不都合を抱えているということ。
  もう一つ、ぜひつけ加えておきたいのは、虐待をされている子どもたちは、幼稚園、保育園で最初に発見されることが、現在、非常に増えている。大変重要なことである。したがって、虐待を受けている子どもたちに対する理解と早い時期に見つけて対応していくことも、幼児教育の中に必要であろう。
  先ほど門脇先生が異変についての認識ということをおっしゃった。そのとおりだと思う。現代日本の子どもの育ちゆく土壌が異変を来してきた。この事実を、どれだけ私たち大人が理解しておくかということである。種を植える土壌そのものが変わってきているわけであるから、この土壌に対する眼差しを向けない限り、種がどう育つかというのは大きな問題があろう。
  最後に、これが実は一番大事なことだが、幼児教育に求められるもの。つまり、幼児教育というのは、明らかにある意味では意図的で、組織的な教育である。家庭の中で親と子のむつまじいつながり方、日々の日常生活による発達というのは、とても重要なことであろうが、幼児教育は教育である。したがって、ある理念を持ち、子どもに向き合うときの専門性の高さ、あるいはそこに流れる幼児教育の理念と哲学をしっかりと蓄えた力のある人が、子どもを教育していくことは非常に重要な役割を担っていることだろうと思う。
  まず第1は、発達論である。今申し上げた発達ということは何か。遊び、センス・オブ・ワンダーとか、知的欲求とか、対人関係の経験とか、幼児期、特に5〜6歳の子ども、幼稚園の時期の発達にかかわるテーマ、キーワードはこういうことかなと思い、幼児教育者がどれだけしっかりとそれをわかっているかによって、目の前の子どもたちの手にするもの、目にするもの、言葉のやりとり、子どもと子ども同士、子どもと大人の関係性は大きく変わっていくであろう。それが365日重なるわけだから、幼児教育の担う力、あるいは求められるものがいかに大きいかということ。
  そして、子どもの理解と受容とか、子どもの問題の理解と対応とか、親の理解と支援。今、子育て支援のセンター的な意味を幼稚園や保育園は持っておられるが、まさにそうだと思う。これは社会の変容、家族の変容、もう家族という単位そのものが危うくなっている。生物学上の家族という単位に頼るわけにはいかぬ。門脇先生の社会学的な立場で恐らくお教えいただけるのであろう、人類がこの世に姿をあらわして以来、親だけで非常に閉塞された世界で子どもが育つというのは、初めての現象だというふうに社会学者から聞かされたことがある。それは親がいいとか悪いとかではない、こんな少ない数の親で、閉塞された空間の中で育つこと自体が病理的であろうと思う。
  そういう意味で、家族というもの、ファミリーネットワークというもの、これは血縁とか、あるいは因縁によるものだけを家族という時代はもう終わったという意味で、親の理解と支援とか、地域・社会との連携というあたりに、今、異変に対して人類の持つファミリーというものを意図的にもう一度構築し直していく必要性を感じさせる、その土壌に対する一つの対応策としてファミリーというもの、家族というものを、かつての3世代、4世代の拡張家族でなく、社会的な意味での家族が必要であろう。
  子育て支援という言葉で、幼児教育に深く眼差しが向けられ、大きなウエートがかけられてきているのは、それだけ幼児期こそが、まずファミリーネットワーク、地域あるいは社会、育ての親という人々を最も必要とする。幼児期に少なくとも専門性でかかわる方々がやはり知恵を出して、オーガナイザーになっていただかねばならないのではないかと思う。

質疑応答要旨】
 「いのちの意味が変わってきた」というところを補足していただきたい。
2  これは、命というものが人間にとって最も重いと、私たちは随分単純に考えてきた。これが変わってきた。これは9・11を想定したときに、自分の命よりもいい意味でも悪い意味でももっと重いものがある。つまり、民族であるとか、宗教であるとか。というような意味で、命の意味がかつてと違ってきた。
  一つは、既に命を医学が操作を始めた。生まれる前から遺伝子操作が始まる。死ぬときは、ほとんどチューブにつながれて死んでいくしかない。生と死がかつてのように素朴な天からの授かりものという子どもの誕生、あるいはお迎えがくるのを待つという死の迎え方から大きく変わってきた。命というものを人間が操作する時代がきたということ。
  もっと大きいのは、たまたま、引きこもっていた20代と30代の2人の兄弟が餓死をしたという事件が報道されたときに、私はもっと命の意味が変わったと感じた。つまり、親がいなくなり、すべて稼ぎ手がいなくなれば、当然、引きこもりから立ち上がって食べ物を求めていくであろうと私たちは思っていた。それがある意味の解決策かとさえ思っていた。ところが、それすら作動しない。これのほうが命の意味がもっと怖い。つまり、人間が生きていく一番重要な飢餓とか、最も命が危なくなるときに作動するであろう動機づけのようなものさえ弱くなっている。
  つまり、自分の命を素朴に、重要で、最も大切な、自分の命を保つためならばどんな苦しい治療でも癌の患者は受けておられる。これが健康な命の意味だと思っていたが、子どもたちが今、簡単に人の命を奪う、あるいは自分の命を捨てる。命が一番重要であるという真理が既に壊れてきた。これは人類が生死に操作を加えたときに覚悟すべき問題であったろう。
  これについて、「児童青年精神医学の現在」という本が、何らかの役に立つかもしれない。


3 猪股意見発表者
意見発表】
  「保育所における幼児教育の意義」というテーマをいただいた。保育所の実態そのものが、非常に多様であり、地域性が強く、保育所個々で相当違いがあるので、的が外れるかもしれないが、保育所の立場からの幼児教育のとらえ方、対応、そして現状と課題という形でまとめさせていただいた。
  まずレジュメに、保育所の特性を並べさせていただいたが、保育所には生後2か月から就学前の6歳までの乳幼児が在籍している。朝夕必ず保護者が送り迎えするので、そのときに登降園時に出会う保護者、親との関係性は非常に密である。ポジティブな意味での親密な関係性が多いが、ある時期からは、依存とか、攻撃とか、これもポジティブにとることはできるが、いろいろな波にさらされている。
  それから、1日の保育時間は非常に長くなってきた。そして、乳児から入園する方が増えてきたので、4年間、5年間、6年間と在園する方が増えてきたことも特徴。
  そうした中で、幼児教育を考えると、必然的にゼロ歳からの発達課題達成を意図した保育そのものということになる、それは子どもと親と保育者がお互いに作用し合う、という相互作用の側面も含めて、幼児教育というふうにとらえざるを得ないと感じた。
  その幼児教育というのは、1日の長い生活の中でいろいろと意図されるものであるし、それから数年間という長期にわたる生活の中で、長期計画があり、反省があり、また行きつ戻りつする生活をどう支えていくかということも含む、そういう幼児教育の中で、幼児教育の視点に立った大人の配慮、意図による様々な人的な、物的な環境が子どもたちに用意されることによって、子どもたちはほどよい力がある子どもであれば、それを自分なりに活用して、その中に自分自身に秘められた力を発揮していくという形で、年齢相応の発達課題を達成して成長していくことができる。
  そして、「幼児教育の特性」というところで、幼児に対象を合わせて幾つか書かせていただいたが、乳児期から就学まで長期的展望が可能であること、ゼロ歳からの発達過程がわかるので、発達途上のいろいろな問題が出てきた場合にも、継続的視点から親とともに対応することができるとか、異年齢がともに生活しているので、4、5歳児になった場合に、兄姉感覚が芽生えるという体験もできる。
  それから、保育士自身もゼロ歳から6歳までの保育体験をすることによって、発達過程をともにすることができるので、実力をつけていくこともできるという特性を持っている。
  そして、ゼロ歳、1歳、2歳、3歳と発達課題を順次達成しながら、そうしたものを積み上げていきながら、それを基礎として4歳、5歳の幼児教育の成果が上がっていくものだと考えるので、どうしても幼児教育はゼロ歳から、むしろ新生児からととらえたいと思っている。
  そういう意味で、保育所で幼児教育ができるのかと問われたとしたら、できると答える。それは保育所の今申し上げたような特性を踏まえて、保育所ならではの幼児教育が可能だと思っているし、今までそれはある程度実践できてきたという実感がある。しかし、今日問題になっているのは、あまりにも社会が変わってきて、様々な阻害要因があって、保育所がこうした取組をすることが困難になってきた。保育所で幼児教育の成果を上げることができるのかと言われると、今、そうとは言えなくなってきて、そして一所懸命で努力している保育所はだんだん燃え尽きてくる。頑張っている保育者ほど燃え尽きてやめていくという実態があるということが、何よりの問題かと思う。
  そして、保育所自体の役割が増大してきて、保育所そのもののキャパシティーを超えているということを常に感じている。
  親の育ち、子どもの育ちは、発達課題につまずいているところに戻して、そこから育ち直してもらうようにということを考えたとしても、その対象の子どもが多過ぎること、それをとらえて、見極めて、エネルギーをかけることができる保育者自身の育ちが既にかなり脆弱になってきている。そして、保育者を何とか現場で育成しようと考えるが、これもかなり難しいことが多く、労働基準法とか、社会的な制約もあるし、かなり苦しい実態になっている。
  そこへさらに保育所への親の依存度。食べることから、体調の悪いとき、病気のときでも、そして子どもの精神的な、情緒的な育ちそのものにも、すっかり依存する方が増えてきて、保育所の限界を超えているということを感ずることが多くなってきた。
  そういうことを挙げているときりがないが、そういう実態の中で、ではどうしたらいいかということを私なりに御報告させていただく。
  かつては乳児の発達というのは、親の責任、家庭の責任ということになっていたと思うので、幼稚園の仕組みも保育園の仕組みも、乳児の保育はしているけれども、基本的なところは家庭にあるという前提で仕組みができているので、そのこと自体が稼働しなくなって不可能になってきているということをベースに置いて、今、親御さんたちの様子を見てみると、先ほど先生方からお話があったが、すべての子ども、すべての子育て中の親が、何らかの支援を必要としている、という認識でいる。
  その親が教育水準が高いか低いか、専門性の高い職務に就いているか就いていないか、そういうこととは全く関係がない。すべての親が何らかの子育て中の不安を感じていて、それなりのヘルパーを求めていると感じている。5歳児の幼児教育を効果あらしめるためにも、出産時から一人一人の育児支援計画が要るのではないか。そして、その育児支援計画の実践を継続的に支援していくことで、親も子も関係性を修復しながら、少しずつ健全な方向へ育っていくのではないか。そういう仕組みが今欲しいと感じている。
  人との関係性の希薄さということが大きく話題になっているが、私も、人を信ずる心の基盤というのは乳児からと常々感じているし、今は新生児期にある。新生児期の母子の絆というか、母子の相互作用がどう確立するかというところから既に始まっていると感じる。 最近、私は新生児とつき合う機会があるが、教科書にも新生児というのは、無様式知覚というそうだが、空気の揺らぎとか、物の動きの明暗とか、気配で物事を感知するのだなということを感じた。子ども自身にそういう感知する力がある。そして、泣いていろいろ訴える。それを母親の直感力で察知しながら、ああしてこうしてという関係性をつけながら、お互いに自信をつけたり安心したりしていくのだなということを感ずる。
  この時期に既に、この子たちは何もわからないのだから、まあ、そこにいてくれればいい、寝てればいいという感じで、関係性を断ってしまっている親もあると感じる。この時期にヘルプする人が必要だなということを、今、感じている。
  保育園で、2歳児ぐらいの自己主張が始まったころに、親が迎えにくると、わざと保育室の奥のほうに入っていったり、ジャグルジムの高いところへ行ったりして、しかられるのを待っている子がいる。母親に聞いてみると、3か月ぐらい保育器にいて、母親としては本当に劣等感と、子どもに対するすまなさとですっかり親として自信を失ってしまった。保育も保育園に任せているということで、子どもに遠慮がある。
  そこで、思い切ってひっぱたいてでも、「さあ、帰ろう」と言って引っ張っていくことを子どもは期待しているのにと思うが、親にそれができない。そういう無理をしなくてはならないような関係性が、こういうところからできていくのだなということも実感している。
  最近、虐待された子どものかなりのパーセンテージが低体重児という報告もあったが、やはり新生児期にヘルパーが入って、そして家庭にいるときには、そのヘルパーは心の支え、これでいいんだという自信がつくような支えとともに、家事を手伝う。掃除をしてあげたり、お買い物をしてあげたりという支援があることで、母親がゆとりを持って、親子の関係性をつけていくことができるのではないか。
  お互いに察知する力、感知する力を持って生まれてきて、そして親も直感力がないわけではないはずで、子どもを愛する気持ちがないわけではない。そこをもっと育てていけたらと感じた。
  母子保健で、子どもの今年1年の育児支援計画でもいいし、そういう中に親の意見も取り入れて、継続的にしていけるような計画があって、それを支えるような様々な育児支援資源があれば、親たちはこの支援資源を上手に選択しながら、親子が育っていくような形をとっていけると思う。そこにまた1歳半健診、3歳児健診等あるが、こうしたチェック機能によって、親とともにさらに次の段階へということを一緒に考えていくことができたらどうだろうか。子どもと親の健全な育ちを保障し得る体制をつくれたらと思う。
  そして、すべての親にとって、こうした仕組みを活用しなければ損と思えるような仕組みが必要だと思う。今の3歳児健診などは、親たちは合格、不合格ととらえて、なるべく合格するためには、どういうふうにあそこを通り抜けるかということが話題になっている。もう少しここがポジティブな意味で機能するようなものができたらどうか、と感じる。
  今、国のほうでは次世代育成支援施策というものを打ち出している。そして、これが各自治体で行動計画という形で取り組み始めている。こうしたところで、本当に役に立つ実行可能なものができていくといいなと感じている。
  ただ、少し様子を見ていると、自治体では各行政の縦割りの仕組みが弊害となっているように感じる。この縦割りの仕組みの壁を取り外して、すべての年齢、すべての子どもを対象にして、それは必ず親が共にあるという形で、すべての日本中の分野が力を結集して、知恵を出し合って、地域ごとに実行可能な具体的なプログラムをつくっていくという方向で進むことを何より願っている。
  こうした基盤づくりができると、4歳、5歳児の幼児教育は、この上に位置づくことになるので、様々なことが展開できるのではないかと感じる。こうした取組は、幼稚園とか、保育園という社会的な枠組みを超えた形で、むしろ子どもの育つ権利を保障するという視点に立った、もっと広い意味での視点からの施策ととらえて、新しいものをつくり上げていけたらと思っている。
  私ども幼稚園、保育園は、認可外、NPO、企業、いろいろな事業者がいるが、今後はそうした事業者が様々な求められる支援資源を、自分たちなりに主体的に選択していくという方法も現実的にはとれるのではないか。
  保育園の実態でもう一つの特徴は、最近では母子家庭、父子家庭、一人親家庭が増えている。その母子家庭はネガティブにとる必要はないと思うが、子育てにとっては非常に過酷な環境だと思う。そういう方々が働いている職場がまた過酷で、不安定な状況の中にあるので、労働環境をどう整備するかということを一緒に考えていかなければ、いくら理想を唱えても無理なのではないかと感じる。そうしたことが、病気のときにも、何のときにも、子どもを無理させる親の都合と言われるが、親の都合もやむを得ない事情の中で、保育園の利用時間が長くなっているという様々な実態が展開している。

意見交換】
 今のお話も伺っていて、子どもにとって親とは何かということをすごく私は思う。産んで、その後育てるということの中での喜びであるとか、その中で、親として育つ部分を、社会としてどう保障できるかという視点がないと、利便性とかに流される。本当に豊かな社会の実現というのは、一体何なのだろうかということを基本には考えなければいけないということを1点思う。
  もう1点は、生まれてからでは遅過ぎる。最初の子どもが妊娠したときに、子どもが思春期までどういうプロセスの中で育つかということを、きちんと伝えないと、すぐ面倒なことは誰か専門家にというふうに流れてしまう。
  2番目は、そういう母親をどうネットワーキングするかの問題。そのときに、世代を超えたおばあちゃん世代の組織と、母親の組織のネットワーキングをどううまくジョイントさせるか。そうすると、こちらは生きがい対策になるし、こちら側は世代を超えたサポートになると思うが、いかがか。
3  おっしゃるとおりだと思う。ヘルパーが要ると申し上げたが、それは親が自信をつけて、親としてやっていけるようにという支援であって、それを保育園もそうだが、お預かりしてしまうということであってはならないと思う。
  最近では、母親教室が、集まったときに地域でグループを分けて、既におなかにいるときに、親たちの地域の仲良しグループをつくっている。ある程度力のある親は、それでかなりやっていける。いかに自立して自分でやっていけるかということに、どう早い時期から援助が要るかという感じである。

 自治体関係者は、これはすぐやれるなということがいっぱいあった。例えば、テレビをやめる日、これはやる気になればすぐやれる。
  私どものまちには江戸時代から続いているお祭りがあるが、就学前の子どもたちは、友だちができたりして、そこで本当に成長していく。そこで本当にすべての生涯学習をやっていけるわけである。
  私は何が言いたいかというと、やはり日本民族の伝統的な宇宙観みたいなものは、神社仏閣にあると思う。行政もこの辺をもう少し掘り下げていただきたいという気持ちがある。
  もう一つ、猪股先生の御指摘の縦割り行政の弊害は、つくづく感じているし、それを打破するには、教育委員会に保育園も入れて、そこで幼保一体化とか、就学前とか、子育ての議論をすればいい。そこで、そこのまちの教育方針を、生涯学習を通して、やはりどこかで議論をする土俵をつくらなければいけないと思う。
  それから、服部先生の御指摘の、親だけで子どもを育てる時代。これは聞いていて、なるほどと思ったのだが、方法はいっぱいある。それは婦人会とか、民生委員とか、町会長の組織がどこのまちにもある。例えば婦人会に頼めば、絶対に子育てを手伝ってくれる。
  それから、民生委員になる人は、かなり意識の高い人であり、民生委員とちょうど子育てしている母親たちとを結びつける方法についてヒントになった。こういう話を文部科学省だけでやっているのではなくて、全国の自治体にしなければいけない。文部科学省は本当に最小限度のことだけでいいと思う。全国の3,000以上ある自治体に考える余地を残しておいてほしいということを希望する。

 幼稚園で実践していることがあるので、お話しさせていただきたい。児童委員、民生委員、それから保護司の方々というのは、教育に大変関心を持っておられる。3年ほど前に、地域の民生委員と大変意気投合して、月に1回、幼稚園を地域の未就園の方々に、民生委員と一緒にする事業で開放し、民生・児童委員の方々が中心になって幼稚園の場で子育て支援を実践している例がある。教育と福祉が結びついたような形だが、そのことで大変ネットワークが広がった。
  例えば、地域の医者が無料で講演をしたり、図書館、児童館、保健センターの方、それから地域の芸術家、そういった方々が来て、いろいろ子育て支援をするという状況が、あちらこちらで広がりつつある。
  幼稚園は3歳からだが、幼稚園がこれまで支援の手を差し伸べられなかった、0、1、2歳の親子が大勢来るようになった。民生・児童委員が10人ほど毎回来て、赤ちゃんを預かってあやしたりしている間に、母親がリフレッシュをするというのが多く、そういう場にいて、子育てのベテランが赤ちゃんをあやしたり、相手をしたりしている姿を見ているのは、大変すばらしい状況だなと思った。そこに幼稚園の子も存在しているので、まさに乳児からお年寄りまで大勢の世代の人たちがそこでかかわって、大変楽しいひとときを過ごすといういい場面が生まれた。
  そのときに思ったのは、幼稚園がそういった場を提供するには、大変いい機関だなということ。まず幼稚園というのは、ある程度の施設的な環境がある。それから、幼児という魅力的な存在がある。そういった幼稚園というのが大変魅力的であるということを考えると、人間関係をつけていくのに、今在籍している幼児だけでなく、乳児にもそうであるし、それから親の育ちを促すための活動も様々にできる。
  そして、地域に打って出る活動もたくさん展開できる。また、小学生、中学生、高校生、特に大学生、これからまさに親になろうという人たちが、そこに幼児を魅力に思って飛び込んでくるという活動も展開できるので、大きな意味での2世代の人たち、親になる人たちを育成することもできる。そういった様々な人を取り込むことができる幼稚園が、子育て支援に果たす役割は大変大きいのではないか。そのことが、幼児期の子どもたちの教育に大いに役立つなということを感じた。

 社会力について、理屈がどうこうというより、まさに自分のことが書かれているかのような感じを持った。
  まず、批判を受けている社会力がない世代として発言したいと思うが、確かに人との関係を結ぶのが苦手であり、社会力がないということさえ、まず世代は気づいていない。その社会力がない原因の一つとして学校教育に偏差値が導入されたからだということを門脇先生はお書きになっておられる。私自身も学校教育の中で、本来協力し合うようなこととか、何かみんなで新たなものをつくり上げるということを、学校で力を入れてやるべきところが、受験の中で、隣の人よりもとにかく自分がいい学校に行かなければいけないということの中で、長い時間を過ごしてきたことは、社会力がない原因としての教育の責任ということも考える必要があるかと思っている。
  今の親たちが社会力がないということで、とんでもないと言われるわけだが、それを世代の責任にして、上から押しつけるようなことをすると、ますますそれは問題であって、そういった責任が上の世代にもあるのではないかということも踏まえた上で、接することが必要なのではないかと思っている。
  あと外国の例で、私がいろいろ事例を研究しているニュージーランドなどでは、まず高校を見せてもらったときに、日本の高校と全然違って、それが親が社会力があるかないかが違う決定的な原因なのだなということを強く感じた。
  例えば、高校生もある程度の年齢になれば、学校の中にティールームがあって、要するにサロンみたいな形で、大人の準備として話し合えるような素養を学校の中で身に付けていくということを、教育の中で行っているということで、そこでは親たちが協力し合って、学び合って、幼児教育も行われている。それを日本でやろうとした場合に、親が学校教育の中でそういった素養を身に付けていないことが、非常に大きなギャップだなということを考えたところである。
  先ほど何度も、世代間で上の世代の人たちが若い世代にいろいろ教えてあげるのだということを言っているが、そこが今、子育て支援の中で非常に難しくなっていて、上から押しつけることに対して、若い世代は反発を感じて、攻撃的になるようなこともあり、そこをどう調整していくかというのは、よく考えなくてはいけないところではないかと思っている。

 間もなく来年度も新1年生が入ってくるが、子どもたちのほとんどは、とにかく大変張り切って、意欲的に入学してくる。しかし、いろいろなものを背負って子どもたちは入学してくるので、スムーズにすぐに勉強に入れる子どももいれば、学習以前の問題をいっぱい抱えている子どももいる。
  意欲的に入学してくる子どもたちだが、なかなか学習に入れないような子どもに対して、1年生に支援の職員を派遣している。これが非常にいい成果を出している。この支援の先生を派遣しているねらいが、義務教育初年度における円滑な集団生活への適応を支援するためということで、これが緊急雇用対策の関係での派遣であり、いつまで続くかわからないということを聞いている。この支援の事業を途中で終わることなく、継続してやっていただけたら、小学校側として大変ありがたい。社会が変わり、親も変わってきている中で、子どもの育ちが不十分な部分もあるということで、支援が非常に大切になってきている。

 保育園と小学校の連続の話が出てきたが、学校間の連携というのはなかなか難しい。高校と大学とか、いろいろなところで出てくる。中高もある。保育園と小学校の連携について、何か御意見があれば、伺いたい。
3  その重要性は誰もが認識して、努力しているところも多いが、一つの仕組みとなっているところの話はあまり聞かない。私どもも、ある小学校とはいろいろな話し合いができ、保育園の子どもが小学校へ入るときの何がしかの情報もできやすいという環境があるが、ある小学校のほうはどうしても校長先生やその他の先生と関係がうまくつかないというような状態である。それが非常にスムーズにいっている保育園もあるはずである。それは個人的な関係性の中でつくり上げられているもののほうが多いと思う。仕組みとしてという話はあまりないように思う。

 必要はあるけれども、仕組みができていないという感じか。
3  はい。入学が近づくと、子どもの状況について、ほとんどの学校から問い合わせがある。ただ、そういう情報は流せない、ということも一つ含みながら、何かもう少し濃厚な関係性があるといいなという願いは持っている。

 今日、話を聞いていて、一つよくわからなくなったのは、幼稚園教育の固有性と保育園の固有性というのは、結局ないのかなという話のような気がする。そのことは幼保一元化とはまた別問題だと思う。
  例えば、先ほど猪股先生がおっしゃった中で、一つは当然、家庭というところから創出してきたような子育ての環境というか、機能が失われてきたから、そのことの代替としての保育所。その中でいろいろなサポートとか、支援。つまり、預かりはしないけれども、今の親のニーズからいえば、ほとんど預かりに近い状態で、そういう機能を持ちつつある。しかし、同時にマルチエイジとか、様々な形の中での幼稚園教育に充当する部分もあるのだとおっしゃる。
  しかし、最後のほうで、とは言うものの、たぶん個々の親のニーズは違うわけで、すべてのニーズにこたえるような形は、一つの保育所なりがそれに対応するとは限らない。したがって、機能というか、オプションがあって、うちはこういうところとか、こういうところでサポートしてほしいというふうな方向に進むとすれば、それは幼稚園教育であっても、保育所であっても、それがどういう機能を持っていて、うちの園はこの機能を持っているというふうになると、それは一元化ではなくて、幼児教育、乳幼児教育におけるそこで果たすべき機能を明確化する中で、そこで幼稚園というシステムは何が保障できる、あるいは保育園は何ができるのだという方向性をお話になったように思うが、それはそれでよろしいのか。
  もう1点は、前もちょっとそれを感じたが、例えば先ほどの社会力が低下したという、一つの非社会化現象に、いじめということを門脇先生は挙げられるが、いじめの問題は、現象として顕在化してきたのは、70年代から80年代、山本七平などの本を読むと、軍隊の中でもいじめはあったという。つまり、日本的な集団構造の中にいじめを輩する要因があるのだという分析をしている。ただ、それがより顕在化したかどうかという違いはあると思う。
  そのことは社会力が低下したという意味の個人が変容したのか、社会そのものが変容したために、もともと持っていた問題が顕在化したかというのは、二つの解釈が成り立つと思う。もしそうだとすれば、社会そのものが変わってきた中で、我々、いわば人間が、社会というものにどう適応するかということに対しての適応の仕方の中で、そういう行為をあらわしてきたと考えてきたときに、社会そのものを何とか変えていくような在り方を考えないといけないのか。もともとそれは個人が変容してきたから、個人そのものを変える教育の在り方を考えるのかというのは、非常に議論が分かれるところだと思う。そこの中で幼稚園教育なり保育所の役割は違ってくると思うが、そのあたりについてどのようにお考えか。
3  次世代育成支援というこれからの支援策の一つとして、その中には幼稚園も、保育園も入ってはいる。そのほかに家庭にいるゼロ歳からの、あるいは胎生期からの親子の支援も入ってきて、かなりグローバルなものだが、そういう中で、今後の話としていろいろなことが考えられるというだけである。
  幼稚園にとっての幼児教育と、保育所にとっての機能との違いということになると、これは難し過ぎて私は何とも言えないが、ただ、幼稚園の幼児教育を効果あるものにしていくためには、やはりゼロ歳児からのところに触れていかざるを得ない、ということを踏まえて、幼児教育というとらえ方をゼロ歳からのとしていったときに、保育所でやるものと幼稚園でやるものとどこに質的な違いがあるのかということについては、非常に悩んでいる。
  そして、保育所の役割という意味では、いまだに保育に欠けるという条件がある。就労支援であったり、病気とか、いろいろな形で家庭で養育できない方を支援するという役割があるので、そのことは確かに必要だと思っているが、幼児教育の視点でとらえたときに、そこにどういうふうな区分けがあるのか、幼保一元化とか伺うたびに具体が見えないというのが実態である。
  保育園の固有性と幼稚園の固有性はないのかということだが、私はかつて、ヒトの子が人間として、これは社会的な動物として、と先ほど申し上げたが、「社会力のおおもと」、あるいは「ソーシャル・ペースト」とか、「ソーシャル・マグネット」。そういうものがごく自然な状態で育つということが前提にされていて、保育園なら保育園の固有性、幼稚園なら幼稚園の固有性が考えられて、これはだから、ある意図を持った施設をつくったと言いたい。
  今、服部先生もおっしゃっていたが、子どもが育つ前提条件というか、土壌そのもの、社会的な土壌そのものが大きく変わってきているとしたら、今まで言われてきた保育園とか、幼稚園の固有性にこだわる必要性は全くないと、あえて私は言いたい。土壌そのものが大きく変わったとしたら、それに対応するような形で、小学校に入る前の子育てをどういうふうにするかということは、新しい考え方に基づきながら考える必要があるだろうと思っている。
  もっと厄介なのは、いじめについてだが、これは非社会化現象の一例として挙げているわけだが、なぜそういうものが顕在化しやすくなってきたのか。そういう意味で、戦時中の学童疎開の記録は、私も相当読んだが、それを読むと、今の学校におけるいじめの状況とかなり似たものがあると感じている。逆に言えば、今の学校が戦時中の学童疎開の状況、お寺とか、宿屋とか、いろいろなところで集団的に四六時中一緒に生活しているという状況なわけだが、そのような学童疎開中の子どもたちが過ごしている状況と今の学校がかなり似たような状況になっていることが、いじめが顕在化する一つの要因だろうし、その前にもっと重要なのは、人が好きというか、他人に対する関心とか、愛着が育たないということが、学校が学童疎開下の状況に似ているという環境の変化の中で、さらにまた顕在化する量を増やすことになっているのではないかと思っている。それを何とかなくすためにも、小学校に入る前からの、人が好きというような、人への関心、他者への関心、愛着といったものがきっちりと育つということを懸命にしないといけないのではないかと考える。
2  私の個人的経験で、私の子どもたちが30数年前に旧ソ連で育った。当時、3歳までをヤースリーといって、保育園と訳されるが、これは厚生労働省というべき健康省の管轄下にあり、子どもの体の安全、そして日々の生活を保障するということで、トップは保健福祉関係の方である。
  年齢の分け方だが、3歳以上をロシア語でディエツキーサート、これを日本では幼稚園と訳されるが、ソ連の場合は初等教育と言い、3歳から7歳まで。日本の小・中・高を全部飲み込む7歳から17歳までを中等教育といい、1年生から10年生。17歳以上を高等教育という三つの分け方。3歳から7歳の年齢層に対しては、これはいわゆる文科省にあたるロシアの教育省という省が管轄をしていて、教育と保育というか、検便から始まって、身体測定、病気のことに至るまでの子どもの体の健康な育ちを保障するという一本の線と、それから子どもの知的な欲求、あるいは社会性の育ち方、その他を、家庭とはまた違う意味で、ある意味では専門性の中で培っていくことが、重要な意図とされていた。乳幼児期は、この両方が結局必要なのだろうと思う。
  ソ連がなかなかうまくいっているなと思ったのは、年齢によって分けていた。それをちょっと今思い返しながら、両方ともが大事であって、その両方の個性が今後どういう形で生かされるのか。年齢が小さければ小さいほど、いわゆる安全ということが第一であろう。そして、3歳から5歳の爆発的に伸びる知的な欲求とか、その他に対する専門家としての対応の仕方がウエートを増していく。その年齢的なものを多少考えてはいかがなものか。
  2番目のいじめの問題だが、いじめというのはいつの時代にも、どこの国にもある。これは他人に対する攻撃心であり、当然のことである。ただ、一番問題になるのは、いじめの定義が、ある集団の中で優位に立った者が劣位の者に対する攻撃が日本のいじめと言われており、定義はいろいろあるだろうが、それは動物界ではありえないということである。動物は優劣が決まったときに、そういう攻撃をやめる。つまり、明らかに優位に立つ者が、例えば、軍隊で明らかに上の者が下をいじめるという、立場上の上に立った者が下をいじめるということを動物はしない。
  人間の場合、特に子どもの今の学級の中やその他で問題になるのは、優位に立ったときから始まることである。これはある意味では動物の世界から歩を分かつ、人間の固有の行動であろうと思う。なぜそうなのか。だから、いじめられた子が優位に立てば、今度はいじめる。何も持っているものそのものがいじめの体質ではない。その人間社会の中の優位に立つことで攻撃を加えるという、そこが大きな問題であろう。
  最後に、今日一番申し上げたいことの一つは、人間が育っていくときに、攻撃心も含めて、非常に暗い、悪とか、死の衝動とか、攻撃欲求とか、そういうものを無視しないこと。ともすれば美しいもの、よりポジティブなもの、そのポジティブなものができ上がったかのごとく、大人も、子どもも感じることが、教育や保育の成功と思われることについて、私は非常に深く、本能的に違和感を持つ。だから、「あのいい子が」という言葉が出る。保育園時代を見て、手をつなげた子、はきはき物が言えた子たちが思春期にどれだけ変わるか。変わるのではない。思春期には思春期の試され方があって、その試されるときに、子どもが心の中で、弱い者に攻撃を加えるという気持ちが、何かおかしいぞと思う。おかしいぞと思うためには、自己意識と対人感情が要る。嫌な経験、プラス・マイナス、たっぷりすること。マイナスを排除するから親子関係もおかしくなるし、親も立派な親にならねばならないと思うからおびえている。マイナスのものをたっぷり経験して思春期にきてもらいたい。意地悪もした、相手に対する非常に強い攻撃心も持った。持った後、自分がどう感じたか、ぶつかった後、自分がどう思ったか。その経験を蓄えながら、保育園や幼稚園、小学校で過ごさせてやりたい。そして、思春期で初めて自分が個として旅立つときに、本当に自分の内側に問いかけて、自分の持っているささやかな経験を材料にしながら、人との関係性をとろうとする。
  伺っていると、一般の教育論の中に、ポジティブなものを足し算のように重ねていく。仲良くできない、幼稚園でいじめがあると言われるのは当たり前で、ここはたっぷりいじめてやっておいてほしい。ちいさな犬ころがやり合っている段階を超えて、本当に犬になったときに動物的にきちんとできるようになる。だから、最初から人を思いやるとか、自分のことをはきはきするとか、積極的にできるとか、目指すのは結構であるし、教育である以上、目指さねばならない。しかし、成果は何もここで決まるものではない。もっともっと奥深い、中身の中に蓄えておくもの、その光と陰りを、特に陰りが今の子どもは少な過ぎる。もう少し陰りのものに対する力強い体験をさせていくだけの度胸のようなものを大人が持たねばならないという気がしている。
  最後の最後は、優位に立った者は劣位の者を攻撃してはならない。優位に立つから、してはならない。そこまでたどり着くには、攻撃心をさんざんもてあそび、自分自身もさんざん痛い目に遭って初めてわかることであって、初めから優位に立つ者が劣位の者をかわいがるなんてことはできるわけがない。
  わざわざどなたも御存じの発達論をもう一度掲げてきたのは、対になるネガティブの右側をたっぷり蓄えて、経験をさせていただきたいということで、いじめもそのプロセスを通って、命を落とす場合は、後が痛恨事であるからそれは阻止せねばならないが、ある意味ではいじめも含めて、自己というもの、他者というものをもう少し練りに練って鍛えねばならないと思う。

 保育園の固有性、幼稚園の固有性は何かなと考えていたら、私の発想は旧ソ連に近いということがわかって、愕然とした。
  ここで認識し直さなければいけないのは、保育園が福祉で、幼稚園が教育という枠組みはとにかく取り外して、一人の子どもの発達の連続性を援助していくのだという認識に立ち返ることだと思う。
  一人の子どもの発達を見通したときに、発達に大きな節目というものがあって、その節目を考えたときに、固有の空間と固有の専門性、そして固有のカリキュラムが必要になってくるだろうと考える。そのときに、現場にいて思うのは、その節目は3歳後半から、4歳ぐらい、仲間が共通の目的を持って遊び始めると、門脇先生がおっしゃった物と人との相互行為が、自分を含めたトライアングルが、クモの巣が張りめぐらされたように密になってくる。それ以降は違った空間や違ったカリキュラムが必要になってくるだろうと思う。一人の子どもを連続して見ながらも、固有性がそこに出てくるだろう。そのときに、これまで保育園や幼稚園がこの国の中で築き上げてきた保育の文化というものがあるので、枠組みを外すからゼロに戻そうというのではなくて、それぞれが築き上げた保育文化がどこで生かされるのかという発想で、もう1回幼保の問題をとらえ直すといいのではないかと、私自身は感じている。

 田村部会長が、教育は結局、受益者負担でいくべきだというようなことを本の中でおっしゃっており、前後の関係を外して言うと、それはものすごく大事な考え方だと思う。子どもを預かった保育者は、どうしたって責任を追及されるから、過保護になる。服部先生のおっしゃるようなネガティブなことをできるだけしたくない。だから、保育者は本当に過保護にやる。
  私は保育園の園長の話を割合聞いているが、ゼロ歳保育はいいのかどうか。そこまで行政がやっていいのかどうかということである。それは母親にとってはいいことであり、間違いなく楽なことである。ところが、これから人生を歩む幼児にとって、それは本当にいいのかどうかということを、やはり統一見解として、日本の今の最高レベルの教育者がどう思うかということを示してほしい。
  保育園というのは、市町村の行政の中で最も金がかかる。ゼロ歳保育にすればするほどかかってくる。どうしてもそれは幼児にとっていいということだったら、その哲学を持ってやらなければいけないし、その辺を不透明にしておいて、母親にとって男女共同参画社会が大事だと言われれば、全部妥協してやっている。

 市では、成人式が昨日あった。数年前に荒れる成人式ということで、いろいろ話題になった。成人式の問題でなく、子育て全体の問題であり、成人になる準備ができていない。
  そこで、学校教育の中できちんと成人になるということを教えていこう、ということで小学校4年生で2分の1成人式を行い、今年は3分の2の学校でできた。来年は全校でやりたいと思っている。どんな大人になりたいか。子どもに作文を書かせて、考えさせる。参観日にやる。親も一緒にやる。それをカプセルにする。こういうことをやってきた。去年からやったが、今年は成人式に150人の小学校4年生の代表が、受付をやってくれた。世代を超える中で、非常に厳粛な成人式が、史上最高の人数でできた。
  子育て支援ということを、時代、時代でいろいろな方が一所懸命やってこられたと思う。しかし、どうも子育て=手抜き支援みたいになってきた。だから、本当に人間の生きざまに迫ることを、大人も、子どもも考えなければいけないのではないか。学校教育全体の問題、生涯学習全体の課題ではないか、ということを痛感した
1  ゼロ歳児の保育から行政がやっていいのかということだが、これはもうやらないといけない。なぜ私がそのように強調するかといえば、最近、世界各地から注目されているようだが、イタリアにレッジョエミリア市というところがあって、おととしの春にその市長が、東京で講演する機会があって、私もじかにそのお話を聞いているわけだが、レッジョエミリア市というところは、第2次大戦が終わった直後から、乳幼児教育を徹底してやってきている。理論ではなくて、実際にやって、それだけいい市になっているという実績があるということを重視してほしい。
  その市長自ら「我が市も財政的にそんなにゆとりがあるわけではありません。だけれども、この重要さ、また、それをきちんとやればいい市民が育つということを、私たちは50年以上の歴史を持って感じているので、予算を減らすつもりは全くありません」とはっきり言っていた。
3  保育園がキャパシティーを超えているということは、質的な意味で多く申し上げたけれども、量的な意味もあって、今、社会のニーズ、地域のニーズがすごく多いので、家庭で子育てをしている親子への支援がまた大層増えている。一時的に預かる、相談を受ける、こちらから出ていく保育とか、様々なことで、保育所の本来の保育に欠けるだけでない仕事、地域との交流とか、そこがまたどんどん増えていくこともキャパシティーに入っている。そのことはむしろ意欲的にやれる仕事なので、やりたいと思っている。
  先ほどゼロ歳児保育の話が出たが、それがいいと思ってやっているということではたぶんなくて、やらざるを得ないからやっている。社会の仕組みの問題で育児休業という制度もできたが、なかなかそれを十分に使える環境がない。そうしたほかの支援も含めながら解決していかなければいけないと思うし、たとえ育児休業が取れていても、家庭で十分育てられるかというと、そこにまた別の支援が入る必要があるというのが今までの話の流れかと思うので、あまり保育所、幼稚園という枠組みでない話が第一義的に必要かなと感じている。

 手元にある「新しい時代を拓く心を育てるために」という中教審答申を平成10年に出しているが、その中間報告を出したときに、マスコミから批判を受けたが、その後、あっという間に状況が変わった。
  今日、話を伺っていて、あのときに議論したことが、随分またさらに深く議論されるようになったなという印象を強くした。
  先ほど外国との比較の問題があって、まだデータがないということだが、私の個人的な感触で申しわけないが、いわゆるテレビゲームとか、テレビそのものに対するエクスポージャーの度合いは、英国に比べると、日本は比較にならないぐらい多い。それから、「たまごっち」、英国ではサイバーペットというが、恐らく日本の子どもたちがそういうものを買っていた度合いは英国の10倍である。
  どうしてそういうふうになっているかというと、やはり社会の状況であり、大企業が社会に対して責任を持っていないということだと思う。英国ももちろんそういうものを生産しているが、遠慮がちに売っているという状況。それから、親がそれを判断する態勢ができているということ。全部とは言わないが、少なくとも10%ぐらいの家庭は、やみくもに買い与えないというところが、英国と日本の決定的な差になっているのではないか。
  もう一つ、今の「心を育てるために」の中に文部省で調べた子どもの成長についての満足度という国際調査がある。統計の取り方でいろいろ問題があろうかと思うが、これが日本の現状をいみじくもあらわしているのではないかと思う。というのは、これは日本、韓国、タイ、アメリカ、イギリス、スウェーデンについて、子どもの成長につれての親の満足度を示しているが、日本は0〜3歳児で親の満足度というのは70%ぐらいしかない。何と10〜12歳になると40%切れてしまう。これは今申し上げたイギリス、アメリカ、スウェーデンと決定的に差がある。
  私はこれを見て、どうも日本人は人間そのものに対する愛情をなくしているのでないかという気がしてしょうがない。この辺から我々は考え直す必要があるのではないかというのを痛感する。

 私はある青少年団体にも関連しているが、そこでは、子どもたちにできるだけ楽にさせよう、面白くさせよう、楽しくさせようというばかりである。むしろその時期にはつらいこと、やりたくないこと、楽しくないこと等を体験させるべきではないかという主張をいつもしているが、先ほどネガティブな多彩な経験をさせたほうがいいということで、我が意を得たりという感じがした。
  私も学童疎開世代であり、徹底的ないじめに遭った。当時はいじめという言葉は知らなかったが、親と離れて、一人耐えるよりなかったという経験が、たぶんその後の人生にプラスに作用しているのではないだろうか。先ほどお話があったように、受託者は何もないように無難にやっていこうという気持ちもわかるが、それではいけないのではないか。それをシステムの中にどう生かしていくか。特に幼児期にどうやっていくかということが大事なのではないかと感じた。

(初等中等教育局幼児教育課)


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