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今のお話も伺っていて、子どもにとって親とは何かということをすごく私は思う。産んで、その後育てるということの中での喜びであるとか、その中で、親として育つ部分を、社会としてどう保障できるかという視点がないと、利便性とかに流される。本当に豊かな社会の実現というのは、一体何なのだろうかということを基本には考えなければいけないということを1点思う。
もう1点は、生まれてからでは遅過ぎる。最初の子どもが妊娠したときに、子どもが思春期までどういうプロセスの中で育つかということを、きちんと伝えないと、すぐ面倒なことは誰か専門家にというふうに流れてしまう。
2番目は、そういう母親をどうネットワーキングするかの問題。そのときに、世代を超えたおばあちゃん世代の組織と、母親の組織のネットワーキングをどううまくジョイントさせるか。そうすると、こちらは生きがい対策になるし、こちら側は世代を超えたサポートになると思うが、いかがか。
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おっしゃるとおりだと思う。ヘルパーが要ると申し上げたが、それは親が自信をつけて、親としてやっていけるようにという支援であって、それを保育園もそうだが、お預かりしてしまうということであってはならないと思う。
最近では、母親教室が、集まったときに地域でグループを分けて、既におなかにいるときに、親たちの地域の仲良しグループをつくっている。ある程度力のある親は、それでかなりやっていける。いかに自立して自分でやっていけるかということに、どう早い時期から援助が要るかという感じである。
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自治体関係者は、これはすぐやれるなということがいっぱいあった。例えば、テレビをやめる日、これはやる気になればすぐやれる。
私どものまちには江戸時代から続いているお祭りがあるが、就学前の子どもたちは、友だちができたりして、そこで本当に成長していく。そこで本当にすべての生涯学習をやっていけるわけである。
私は何が言いたいかというと、やはり日本民族の伝統的な宇宙観みたいなものは、神社仏閣にあると思う。行政もこの辺をもう少し掘り下げていただきたいという気持ちがある。
もう一つ、猪股先生の御指摘の縦割り行政の弊害は、つくづく感じているし、それを打破するには、教育委員会に保育園も入れて、そこで幼保一体化とか、就学前とか、子育ての議論をすればいい。そこで、そこのまちの教育方針を、生涯学習を通して、やはりどこかで議論をする土俵をつくらなければいけないと思う。
それから、服部先生の御指摘の、親だけで子どもを育てる時代。これは聞いていて、なるほどと思ったのだが、方法はいっぱいある。それは婦人会とか、民生委員とか、町会長の組織がどこのまちにもある。例えば婦人会に頼めば、絶対に子育てを手伝ってくれる。
それから、民生委員になる人は、かなり意識の高い人であり、民生委員とちょうど子育てしている母親たちとを結びつける方法についてヒントになった。こういう話を文部科学省だけでやっているのではなくて、全国の自治体にしなければいけない。文部科学省は本当に最小限度のことだけでいいと思う。全国の3,000以上ある自治体に考える余地を残しておいてほしいということを希望する。
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幼稚園で実践していることがあるので、お話しさせていただきたい。児童委員、民生委員、それから保護司の方々というのは、教育に大変関心を持っておられる。3年ほど前に、地域の民生委員と大変意気投合して、月に1回、幼稚園を地域の未就園の方々に、民生委員と一緒にする事業で開放し、民生・児童委員の方々が中心になって幼稚園の場で子育て支援を実践している例がある。教育と福祉が結びついたような形だが、そのことで大変ネットワークが広がった。
例えば、地域の医者が無料で講演をしたり、図書館、児童館、保健センターの方、それから地域の芸術家、そういった方々が来て、いろいろ子育て支援をするという状況が、あちらこちらで広がりつつある。
幼稚園は3歳からだが、幼稚園がこれまで支援の手を差し伸べられなかった、0、1、2歳の親子が大勢来るようになった。民生・児童委員が10人ほど毎回来て、赤ちゃんを預かってあやしたりしている間に、母親がリフレッシュをするというのが多く、そういう場にいて、子育てのベテランが赤ちゃんをあやしたり、相手をしたりしている姿を見ているのは、大変すばらしい状況だなと思った。そこに幼稚園の子も存在しているので、まさに乳児からお年寄りまで大勢の世代の人たちがそこでかかわって、大変楽しいひとときを過ごすといういい場面が生まれた。
そのときに思ったのは、幼稚園がそういった場を提供するには、大変いい機関だなということ。まず幼稚園というのは、ある程度の施設的な環境がある。それから、幼児という魅力的な存在がある。そういった幼稚園というのが大変魅力的であるということを考えると、人間関係をつけていくのに、今在籍している幼児だけでなく、乳児にもそうであるし、それから親の育ちを促すための活動も様々にできる。
そして、地域に打って出る活動もたくさん展開できる。また、小学生、中学生、高校生、特に大学生、これからまさに親になろうという人たちが、そこに幼児を魅力に思って飛び込んでくるという活動も展開できるので、大きな意味での2世代の人たち、親になる人たちを育成することもできる。そういった様々な人を取り込むことができる幼稚園が、子育て支援に果たす役割は大変大きいのではないか。そのことが、幼児期の子どもたちの教育に大いに役立つなということを感じた。
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社会力について、理屈がどうこうというより、まさに自分のことが書かれているかのような感じを持った。
まず、批判を受けている社会力がない世代として発言したいと思うが、確かに人との関係を結ぶのが苦手であり、社会力がないということさえ、まず世代は気づいていない。その社会力がない原因の一つとして学校教育に偏差値が導入されたからだということを門脇先生はお書きになっておられる。私自身も学校教育の中で、本来協力し合うようなこととか、何かみんなで新たなものをつくり上げるということを、学校で力を入れてやるべきところが、受験の中で、隣の人よりもとにかく自分がいい学校に行かなければいけないということの中で、長い時間を過ごしてきたことは、社会力がない原因としての教育の責任ということも考える必要があるかと思っている。
今の親たちが社会力がないということで、とんでもないと言われるわけだが、それを世代の責任にして、上から押しつけるようなことをすると、ますますそれは問題であって、そういった責任が上の世代にもあるのではないかということも踏まえた上で、接することが必要なのではないかと思っている。
あと外国の例で、私がいろいろ事例を研究しているニュージーランドなどでは、まず高校を見せてもらったときに、日本の高校と全然違って、それが親が社会力があるかないかが違う決定的な原因なのだなということを強く感じた。
例えば、高校生もある程度の年齢になれば、学校の中にティールームがあって、要するにサロンみたいな形で、大人の準備として話し合えるような素養を学校の中で身に付けていくということを、教育の中で行っているということで、そこでは親たちが協力し合って、学び合って、幼児教育も行われている。それを日本でやろうとした場合に、親が学校教育の中でそういった素養を身に付けていないことが、非常に大きなギャップだなということを考えたところである。
先ほど何度も、世代間で上の世代の人たちが若い世代にいろいろ教えてあげるのだということを言っているが、そこが今、子育て支援の中で非常に難しくなっていて、上から押しつけることに対して、若い世代は反発を感じて、攻撃的になるようなこともあり、そこをどう調整していくかというのは、よく考えなくてはいけないところではないかと思っている。
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間もなく来年度も新1年生が入ってくるが、子どもたちのほとんどは、とにかく大変張り切って、意欲的に入学してくる。しかし、いろいろなものを背負って子どもたちは入学してくるので、スムーズにすぐに勉強に入れる子どももいれば、学習以前の問題をいっぱい抱えている子どももいる。
意欲的に入学してくる子どもたちだが、なかなか学習に入れないような子どもに対して、1年生に支援の職員を派遣している。これが非常にいい成果を出している。この支援の先生を派遣しているねらいが、義務教育初年度における円滑な集団生活への適応を支援するためということで、これが緊急雇用対策の関係での派遣であり、いつまで続くかわからないということを聞いている。この支援の事業を途中で終わることなく、継続してやっていただけたら、小学校側として大変ありがたい。社会が変わり、親も変わってきている中で、子どもの育ちが不十分な部分もあるということで、支援が非常に大切になってきている。
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保育園と小学校の連続の話が出てきたが、学校間の連携というのはなかなか難しい。高校と大学とか、いろいろなところで出てくる。中高もある。保育園と小学校の連携について、何か御意見があれば、伺いたい。
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その重要性は誰もが認識して、努力しているところも多いが、一つの仕組みとなっているところの話はあまり聞かない。私どもも、ある小学校とはいろいろな話し合いができ、保育園の子どもが小学校へ入るときの何がしかの情報もできやすいという環境があるが、ある小学校のほうはどうしても校長先生やその他の先生と関係がうまくつかないというような状態である。それが非常にスムーズにいっている保育園もあるはずである。それは個人的な関係性の中でつくり上げられているもののほうが多いと思う。仕組みとしてという話はあまりないように思う。
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必要はあるけれども、仕組みができていないという感じか。
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はい。入学が近づくと、子どもの状況について、ほとんどの学校から問い合わせがある。ただ、そういう情報は流せない、ということも一つ含みながら、何かもう少し濃厚な関係性があるといいなという願いは持っている。
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今日、話を聞いていて、一つよくわからなくなったのは、幼稚園教育の固有性と保育園の固有性というのは、結局ないのかなという話のような気がする。そのことは幼保一元化とはまた別問題だと思う。
例えば、先ほど猪股先生がおっしゃった中で、一つは当然、家庭というところから創出してきたような子育ての環境というか、機能が失われてきたから、そのことの代替としての保育所。その中でいろいろなサポートとか、支援。つまり、預かりはしないけれども、今の親のニーズからいえば、ほとんど預かりに近い状態で、そういう機能を持ちつつある。しかし、同時にマルチエイジとか、様々な形の中での幼稚園教育に充当する部分もあるのだとおっしゃる。
しかし、最後のほうで、とは言うものの、たぶん個々の親のニーズは違うわけで、すべてのニーズにこたえるような形は、一つの保育所なりがそれに対応するとは限らない。したがって、機能というか、オプションがあって、うちはこういうところとか、こういうところでサポートしてほしいというふうな方向に進むとすれば、それは幼稚園教育であっても、保育所であっても、それがどういう機能を持っていて、うちの園はこの機能を持っているというふうになると、それは一元化ではなくて、幼児教育、乳幼児教育におけるそこで果たすべき機能を明確化する中で、そこで幼稚園というシステムは何が保障できる、あるいは保育園は何ができるのだという方向性をお話になったように思うが、それはそれでよろしいのか。
もう1点は、前もちょっとそれを感じたが、例えば先ほどの社会力が低下したという、一つの非社会化現象に、いじめということを門脇先生は挙げられるが、いじめの問題は、現象として顕在化してきたのは、70年代から80年代、山本七平などの本を読むと、軍隊の中でもいじめはあったという。つまり、日本的な集団構造の中にいじめを輩する要因があるのだという分析をしている。ただ、それがより顕在化したかどうかという違いはあると思う。
そのことは社会力が低下したという意味の個人が変容したのか、社会そのものが変容したために、もともと持っていた問題が顕在化したかというのは、二つの解釈が成り立つと思う。もしそうだとすれば、社会そのものが変わってきた中で、我々、いわば人間が、社会というものにどう適応するかということに対しての適応の仕方の中で、そういう行為をあらわしてきたと考えてきたときに、社会そのものを何とか変えていくような在り方を考えないといけないのか。もともとそれは個人が変容してきたから、個人そのものを変える教育の在り方を考えるのかというのは、非常に議論が分かれるところだと思う。そこの中で幼稚園教育なり保育所の役割は違ってくると思うが、そのあたりについてどのようにお考えか。
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次世代育成支援というこれからの支援策の一つとして、その中には幼稚園も、保育園も入ってはいる。そのほかに家庭にいるゼロ歳からの、あるいは胎生期からの親子の支援も入ってきて、かなりグローバルなものだが、そういう中で、今後の話としていろいろなことが考えられるというだけである。
幼稚園にとっての幼児教育と、保育所にとっての機能との違いということになると、これは難し過ぎて私は何とも言えないが、ただ、幼稚園の幼児教育を効果あるものにしていくためには、やはりゼロ歳児からのところに触れていかざるを得ない、ということを踏まえて、幼児教育というとらえ方をゼロ歳からのとしていったときに、保育所でやるものと幼稚園でやるものとどこに質的な違いがあるのかということについては、非常に悩んでいる。
そして、保育所の役割という意味では、いまだに保育に欠けるという条件がある。就労支援であったり、病気とか、いろいろな形で家庭で養育できない方を支援するという役割があるので、そのことは確かに必要だと思っているが、幼児教育の視点でとらえたときに、そこにどういうふうな区分けがあるのか、幼保一元化とか伺うたびに具体が見えないというのが実態である。
保育園の固有性と幼稚園の固有性はないのかということだが、私はかつて、ヒトの子が人間として、これは社会的な動物として、と先ほど申し上げたが、「社会力のおおもと」、あるいは「ソーシャル・ペースト」とか、「ソーシャル・マグネット」。そういうものがごく自然な状態で育つということが前提にされていて、保育園なら保育園の固有性、幼稚園なら幼稚園の固有性が考えられて、これはだから、ある意図を持った施設をつくったと言いたい。
今、服部先生もおっしゃっていたが、子どもが育つ前提条件というか、土壌そのもの、社会的な土壌そのものが大きく変わってきているとしたら、今まで言われてきた保育園とか、幼稚園の固有性にこだわる必要性は全くないと、あえて私は言いたい。土壌そのものが大きく変わったとしたら、それに対応するような形で、小学校に入る前の子育てをどういうふうにするかということは、新しい考え方に基づきながら考える必要があるだろうと思っている。
もっと厄介なのは、いじめについてだが、これは非社会化現象の一例として挙げているわけだが、なぜそういうものが顕在化しやすくなってきたのか。そういう意味で、戦時中の学童疎開の記録は、私も相当読んだが、それを読むと、今の学校におけるいじめの状況とかなり似たものがあると感じている。逆に言えば、今の学校が戦時中の学童疎開の状況、お寺とか、宿屋とか、いろいろなところで集団的に四六時中一緒に生活しているという状況なわけだが、そのような学童疎開中の子どもたちが過ごしている状況と今の学校がかなり似たような状況になっていることが、いじめが顕在化する一つの要因だろうし、その前にもっと重要なのは、人が好きというか、他人に対する関心とか、愛着が育たないということが、学校が学童疎開下の状況に似ているという環境の変化の中で、さらにまた顕在化する量を増やすことになっているのではないかと思っている。それを何とかなくすためにも、小学校に入る前からの、人が好きというような、人への関心、他者への関心、愛着といったものがきっちりと育つということを懸命にしないといけないのではないかと考える。 |
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私の個人的経験で、私の子どもたちが30数年前に旧ソ連で育った。当時、3歳までをヤースリーといって、保育園と訳されるが、これは厚生労働省というべき健康省の管轄下にあり、子どもの体の安全、そして日々の生活を保障するということで、トップは保健福祉関係の方である。
年齢の分け方だが、3歳以上をロシア語でディエツキーサート、これを日本では幼稚園と訳されるが、ソ連の場合は初等教育と言い、3歳から7歳まで。日本の小・中・高を全部飲み込む7歳から17歳までを中等教育といい、1年生から10年生。17歳以上を高等教育という三つの分け方。3歳から7歳の年齢層に対しては、これはいわゆる文科省にあたるロシアの教育省という省が管轄をしていて、教育と保育というか、検便から始まって、身体測定、病気のことに至るまでの子どもの体の健康な育ちを保障するという一本の線と、それから子どもの知的な欲求、あるいは社会性の育ち方、その他を、家庭とはまた違う意味で、ある意味では専門性の中で培っていくことが、重要な意図とされていた。乳幼児期は、この両方が結局必要なのだろうと思う。
ソ連がなかなかうまくいっているなと思ったのは、年齢によって分けていた。それをちょっと今思い返しながら、両方ともが大事であって、その両方の個性が今後どういう形で生かされるのか。年齢が小さければ小さいほど、いわゆる安全ということが第一であろう。そして、3歳から5歳の爆発的に伸びる知的な欲求とか、その他に対する専門家としての対応の仕方がウエートを増していく。その年齢的なものを多少考えてはいかがなものか。
2番目のいじめの問題だが、いじめというのはいつの時代にも、どこの国にもある。これは他人に対する攻撃心であり、当然のことである。ただ、一番問題になるのは、いじめの定義が、ある集団の中で優位に立った者が劣位の者に対する攻撃が日本のいじめと言われており、定義はいろいろあるだろうが、それは動物界ではありえないということである。動物は優劣が決まったときに、そういう攻撃をやめる。つまり、明らかに優位に立つ者が、例えば、軍隊で明らかに上の者が下をいじめるという、立場上の上に立った者が下をいじめるということを動物はしない。
人間の場合、特に子どもの今の学級の中やその他で問題になるのは、優位に立ったときから始まることである。これはある意味では動物の世界から歩を分かつ、人間の固有の行動であろうと思う。なぜそうなのか。だから、いじめられた子が優位に立てば、今度はいじめる。何も持っているものそのものがいじめの体質ではない。その人間社会の中の優位に立つことで攻撃を加えるという、そこが大きな問題であろう。
最後に、今日一番申し上げたいことの一つは、人間が育っていくときに、攻撃心も含めて、非常に暗い、悪とか、死の衝動とか、攻撃欲求とか、そういうものを無視しないこと。ともすれば美しいもの、よりポジティブなもの、そのポジティブなものができ上がったかのごとく、大人も、子どもも感じることが、教育や保育の成功と思われることについて、私は非常に深く、本能的に違和感を持つ。だから、「あのいい子が」という言葉が出る。保育園時代を見て、手をつなげた子、はきはき物が言えた子たちが思春期にどれだけ変わるか。変わるのではない。思春期には思春期の試され方があって、その試されるときに、子どもが心の中で、弱い者に攻撃を加えるという気持ちが、何かおかしいぞと思う。おかしいぞと思うためには、自己意識と対人感情が要る。嫌な経験、プラス・マイナス、たっぷりすること。マイナスを排除するから親子関係もおかしくなるし、親も立派な親にならねばならないと思うからおびえている。マイナスのものをたっぷり経験して思春期にきてもらいたい。意地悪もした、相手に対する非常に強い攻撃心も持った。持った後、自分がどう感じたか、ぶつかった後、自分がどう思ったか。その経験を蓄えながら、保育園や幼稚園、小学校で過ごさせてやりたい。そして、思春期で初めて自分が個として旅立つときに、本当に自分の内側に問いかけて、自分の持っているささやかな経験を材料にしながら、人との関係性をとろうとする。
伺っていると、一般の教育論の中に、ポジティブなものを足し算のように重ねていく。仲良くできない、幼稚園でいじめがあると言われるのは当たり前で、ここはたっぷりいじめてやっておいてほしい。ちいさな犬ころがやり合っている段階を超えて、本当に犬になったときに動物的にきちんとできるようになる。だから、最初から人を思いやるとか、自分のことをはきはきするとか、積極的にできるとか、目指すのは結構であるし、教育である以上、目指さねばならない。しかし、成果は何もここで決まるものではない。もっともっと奥深い、中身の中に蓄えておくもの、その光と陰りを、特に陰りが今の子どもは少な過ぎる。もう少し陰りのものに対する力強い体験をさせていくだけの度胸のようなものを大人が持たねばならないという気がしている。
最後の最後は、優位に立った者は劣位の者を攻撃してはならない。優位に立つから、してはならない。そこまでたどり着くには、攻撃心をさんざんもてあそび、自分自身もさんざん痛い目に遭って初めてわかることであって、初めから優位に立つ者が劣位の者をかわいがるなんてことはできるわけがない。
わざわざどなたも御存じの発達論をもう一度掲げてきたのは、対になるネガティブの右側をたっぷり蓄えて、経験をさせていただきたいということで、いじめもそのプロセスを通って、命を落とす場合は、後が痛恨事であるからそれは阻止せねばならないが、ある意味ではいじめも含めて、自己というもの、他者というものをもう少し練りに練って鍛えねばならないと思う。
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保育園の固有性、幼稚園の固有性は何かなと考えていたら、私の発想は旧ソ連に近いということがわかって、愕然とした。
ここで認識し直さなければいけないのは、保育園が福祉で、幼稚園が教育という枠組みはとにかく取り外して、一人の子どもの発達の連続性を援助していくのだという認識に立ち返ることだと思う。
一人の子どもの発達を見通したときに、発達に大きな節目というものがあって、その節目を考えたときに、固有の空間と固有の専門性、そして固有のカリキュラムが必要になってくるだろうと考える。そのときに、現場にいて思うのは、その節目は3歳後半から、4歳ぐらい、仲間が共通の目的を持って遊び始めると、門脇先生がおっしゃった物と人との相互行為が、自分を含めたトライアングルが、クモの巣が張りめぐらされたように密になってくる。それ以降は違った空間や違ったカリキュラムが必要になってくるだろうと思う。一人の子どもを連続して見ながらも、固有性がそこに出てくるだろう。そのときに、これまで保育園や幼稚園がこの国の中で築き上げてきた保育の文化というものがあるので、枠組みを外すからゼロに戻そうというのではなくて、それぞれが築き上げた保育文化がどこで生かされるのかという発想で、もう1回幼保の問題をとらえ直すといいのではないかと、私自身は感じている。
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田村部会長が、教育は結局、受益者負担でいくべきだというようなことを本の中でおっしゃっており、前後の関係を外して言うと、それはものすごく大事な考え方だと思う。子どもを預かった保育者は、どうしたって責任を追及されるから、過保護になる。服部先生のおっしゃるようなネガティブなことをできるだけしたくない。だから、保育者は本当に過保護にやる。
私は保育園の園長の話を割合聞いているが、ゼロ歳保育はいいのかどうか。そこまで行政がやっていいのかどうかということである。それは母親にとってはいいことであり、間違いなく楽なことである。ところが、これから人生を歩む幼児にとって、それは本当にいいのかどうかということを、やはり統一見解として、日本の今の最高レベルの教育者がどう思うかということを示してほしい。
保育園というのは、市町村の行政の中で最も金がかかる。ゼロ歳保育にすればするほどかかってくる。どうしてもそれは幼児にとっていいということだったら、その哲学を持ってやらなければいけないし、その辺を不透明にしておいて、母親にとって男女共同参画社会が大事だと言われれば、全部妥協してやっている。
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市では、成人式が昨日あった。数年前に荒れる成人式ということで、いろいろ話題になった。成人式の問題でなく、子育て全体の問題であり、成人になる準備ができていない。
そこで、学校教育の中できちんと成人になるということを教えていこう、ということで小学校4年生で2分の1成人式を行い、今年は3分の2の学校でできた。来年は全校でやりたいと思っている。どんな大人になりたいか。子どもに作文を書かせて、考えさせる。参観日にやる。親も一緒にやる。それをカプセルにする。こういうことをやってきた。去年からやったが、今年は成人式に150人の小学校4年生の代表が、受付をやってくれた。世代を超える中で、非常に厳粛な成人式が、史上最高の人数でできた。
子育て支援ということを、時代、時代でいろいろな方が一所懸命やってこられたと思う。しかし、どうも子育て=手抜き支援みたいになってきた。だから、本当に人間の生きざまに迫ることを、大人も、子どもも考えなければいけないのではないか。学校教育全体の問題、生涯学習全体の課題ではないか、ということを痛感した
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ゼロ歳児の保育から行政がやっていいのかということだが、これはもうやらないといけない。なぜ私がそのように強調するかといえば、最近、世界各地から注目されているようだが、イタリアにレッジョエミリア市というところがあって、おととしの春にその市長が、東京で講演する機会があって、私もじかにそのお話を聞いているわけだが、レッジョエミリア市というところは、第2次大戦が終わった直後から、乳幼児教育を徹底してやってきている。理論ではなくて、実際にやって、それだけいい市になっているという実績があるということを重視してほしい。
その市長自ら「我が市も財政的にそんなにゆとりがあるわけではありません。だけれども、この重要さ、また、それをきちんとやればいい市民が育つということを、私たちは50年以上の歴史を持って感じているので、予算を減らすつもりは全くありません」とはっきり言っていた。 |
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保育園がキャパシティーを超えているということは、質的な意味で多く申し上げたけれども、量的な意味もあって、今、社会のニーズ、地域のニーズがすごく多いので、家庭で子育てをしている親子への支援がまた大層増えている。一時的に預かる、相談を受ける、こちらから出ていく保育とか、様々なことで、保育所の本来の保育に欠けるだけでない仕事、地域との交流とか、そこがまたどんどん増えていくこともキャパシティーに入っている。そのことはむしろ意欲的にやれる仕事なので、やりたいと思っている。
先ほどゼロ歳児保育の話が出たが、それがいいと思ってやっているということではたぶんなくて、やらざるを得ないからやっている。社会の仕組みの問題で育児休業という制度もできたが、なかなかそれを十分に使える環境がない。そうしたほかの支援も含めながら解決していかなければいけないと思うし、たとえ育児休業が取れていても、家庭で十分育てられるかというと、そこにまた別の支援が入る必要があるというのが今までの話の流れかと思うので、あまり保育所、幼稚園という枠組みでない話が第一義的に必要かなと感じている。
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手元にある「新しい時代を拓く心を育てるために」という中教審答申を平成10年に出しているが、その中間報告を出したときに、マスコミから批判を受けたが、その後、あっという間に状況が変わった。
今日、話を伺っていて、あのときに議論したことが、随分またさらに深く議論されるようになったなという印象を強くした。
先ほど外国との比較の問題があって、まだデータがないということだが、私の個人的な感触で申しわけないが、いわゆるテレビゲームとか、テレビそのものに対するエクスポージャーの度合いは、英国に比べると、日本は比較にならないぐらい多い。それから、「たまごっち」、英国ではサイバーペットというが、恐らく日本の子どもたちがそういうものを買っていた度合いは英国の10倍である。
どうしてそういうふうになっているかというと、やはり社会の状況であり、大企業が社会に対して責任を持っていないということだと思う。英国ももちろんそういうものを生産しているが、遠慮がちに売っているという状況。それから、親がそれを判断する態勢ができているということ。全部とは言わないが、少なくとも10%ぐらいの家庭は、やみくもに買い与えないというところが、英国と日本の決定的な差になっているのではないか。
もう一つ、今の「心を育てるために」の中に文部省で調べた子どもの成長についての満足度という国際調査がある。統計の取り方でいろいろ問題があろうかと思うが、これが日本の現状をいみじくもあらわしているのではないかと思う。というのは、これは日本、韓国、タイ、アメリカ、イギリス、スウェーデンについて、子どもの成長につれての親の満足度を示しているが、日本は0〜3歳児で親の満足度というのは70%ぐらいしかない。何と10〜12歳になると40%切れてしまう。これは今申し上げたイギリス、アメリカ、スウェーデンと決定的に差がある。
私はこれを見て、どうも日本人は人間そのものに対する愛情をなくしているのでないかという気がしてしょうがない。この辺から我々は考え直す必要があるのではないかというのを痛感する。
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私はある青少年団体にも関連しているが、そこでは、子どもたちにできるだけ楽にさせよう、面白くさせよう、楽しくさせようというばかりである。むしろその時期にはつらいこと、やりたくないこと、楽しくないこと等を体験させるべきではないかという主張をいつもしているが、先ほどネガティブな多彩な経験をさせたほうがいいということで、我が意を得たりという感じがした。
私も学童疎開世代であり、徹底的ないじめに遭った。当時はいじめという言葉は知らなかったが、親と離れて、一人耐えるよりなかったという経験が、たぶんその後の人生にプラスに作用しているのではないだろうか。先ほどお話があったように、受託者は何もないように無難にやっていこうという気持ちもわかるが、それではいけないのではないか。それをシステムの中にどう生かしていくか。特に幼児期にどうやっていくかということが大事なのではないかと感じた。 |