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資料5


中央教育審議会初等中等教育分科会教育行財政部会(第5回)議事要旨



1.    日時: 平成15年9月11日(木)10:00〜13:00

2.    場所: 虎ノ門パストラル   ミモザ

3.    議題: 学校の管理運営の在り方について
   (1) 藤田英典国際基督教大学教授からの意見聴取
(2) 意見交換

4.
   配布資料:
資料1 意見発表要旨(藤田英典氏 発表参考資料)
資料2 公立学校の管理運営の委託について(検討メモ)
資料3 構造改革特区における公立学校の管理運営の民間委託への対応(案)
資料4 教育行財政部会第3回議事要旨
資料5 今後の教育行財政部会開催日程(案)
参考資料    パンフレット「進む制度改革」

5.    出席者:
(委員)
鳥居会長
木村部会長、佐藤委員、田村委員、渡久山委員、小川委員、小野委員、河邉委員、宮さき委員、矢野委員、吉野委員
(文部科学省)
矢野文部科学審議官、近藤初等中等教育局長、加茂川私学部長、樋口初等中等教育局担当審議官、河野主任視学官、辰野初等中等教育企画課長、前川財務課長
(意見発表者)
藤田英典国際基督教大学教養学部教育学科教授

6.    概要:

(1) 藤田氏より資料1に基づいて意見発表が行われた後、発表に関する意見交換が行われた。
概要は以下のとおり。

(意見発表)

○教育の公共性と公教育の意義・役割

   教育は、「公の性質」を持っているが、現在、その「公の性質」が改めて問い直されている。憲法や教育基本法等にも「公」、あるいは「公の性質」「全体の奉仕者」という言葉が使われているが、この「公」あるいは「全体」とは何を指すのか、また、「公の性質」とはどういうものなのか。この概念に基づいて行われている公的関与の在り方と範囲はどうあるべきなのかということについて問い直されている中で、この教育行財政部会において審議されている学校の管理運営の在り方も課題になっているものと認識している。

   「公」という概念については、「国民国家」と「市民社会」と「産業社会」という三つの視点に区別することができるのではないかと考えている。
   「国民国家」については、戦前には教育は「国民に対する国家の教育権」ととらえられており、戦後は「国民の育成」という観点から議論がされてきた。昨今の教育基本法見直しの中では、「日本人の育成」が強調されているが、私自身は「国家が特定の内容を教えるべき」と考えることには批判的である。
   「市民社会」については、教育は「基本的人権としての教育を受ける権利」と一般にはとらえられている。現在、この権利に対する公的規制の在り方が問題になっているが、議論の中で「教育権は社会権なのか、自由権なのか」という対立がある。最近の市場主義的あるいは新自由主義的な観点に立つ論者は、自由権的な考え方でこの教育権をとらえており、義務教育段階においてもそれを保障すべきだという主張である。しかし、私は義務教育段階では基本的にはこの権利は社会権ととらえるべきであると考えており、これを前提に改善すべき点を改善していくという改良主義的な立場である。
   「産業社会」については、教育に対しては産業社会から様々な社会的な要請がある。これは、基礎学力や専門的能力、学習能力等の形成の重要さであるが、この点についても、学力問題をはじめとして、グローバル化する知識経済社会における人材育成の在り方が課題になっている。また、この点をめぐって、学校教育の在り方についても効率性が問われている。

   「公の性質」については、世界人権宣言や国連の社会権規約等に理念が示され、我が国においては憲法第26条や教育基本法等に規定されている。
   義務教育あるいは学校教育というのはこの理念を制度的に実体化したものであると考えてよく、この制度の保障、充実のために、公的関与が行われている。
   最近の教育改革の議論でみられるのは、国家主義的な関心や自由権的な関心、あるいは学校教育のアカウンタビリティや効率性の向上によって制度改革を進めるという主張である。これらの主張について、私はかなり批判的なスタンスに立っており、教育改革には改良主義的なアプローチを行うべきだと考えている。

○義務教育の意義・役割

   第一に、9年の義務教育については、これは、国家が学校を設置して教育を受ける環境を整備する義務なのか、就学義務なのか、国公立学校への就学義務なのかという異なる捉え方がある。日本の場合にはこれを就学義務ととらえ、就学校の指定を義務教育段階で行っている。
   現在、就学義務について「フリースクール等を正規の学校として認めるべきである」あるいは「学校選択制をもっと広く認めるべきである」といった主張がなされているが、私は改良主義的な調整をしていくべきだと考えている。
   さらに、課程主義、年齢主義、年数主義のどれで義務教育を規定するのかという問題。
   日本は年齢主義をとっているが、低学力問題等が問題になるたびに、例えば原級留置の問題や、卒業認定試験を導入すべきだという議論がしばしば出てくる。こういった考え方は課程主義に立つものと言ってよいと思われる。私は現行制度を支持している。

   第二に、教育機会の均等の保障という基本的な原則についても、無償制や就学補助の範囲と水準をめぐって様々な議論がある。私自身は現行制度を支持し、その適切な充実を図っていくべきだと考えている。

   第三に、教育の質の確保という問題について。
   これは、共通の普通・基礎教育の世俗性・中立性が基本になっている。現在、「日本の学校の画一性を改めて多様化すべきである」という主張がみられたり、知育の内容と水準、教育基本法との関係で徳育の是非、教科書制度等の在り方、などが問われたりしている。この点についても、私は基本的には改良主義的な立場に立っているが、後で述べる「第3の道」が取れないかと考えている。
   また、教育は専門機関、すなわち学校に付託されているわけだが、この点については設置者の拡大や設置基準の緩和、経営の主体性等々が問題になっている。さらに、教育は同じく専門家、すなわち教師に付託されているが、この点についても教員評価や人事権、人件費等の財源の在り方が問われているところである。

○義務教育の近年の改革動向

   第一に、「市場主義的な競争原理主義」による改革。これは基本的に、学校の一元的な序列化と教育機会の階層化を是認あるいは促進することになる。
   具体的には、消費者主義、エリート主義、あるいは強者の論理による制度改革・規制緩和が進められている。具体的には経営主体の多様化や学校選択制、学校評価、情報公開、教育システムの複線化、また、小中一貫校や中高一貫校等々がここに含まれるものである。

   第二に、「新自由主義的ヴォランタリズム」。
   具体的には、自己決定・自己責任論に基づく任意的・自主的な教育編成、学校を認めるべきだという主張。学校設置・学校運営の自由化、チャーター・スクールやコミュニティ・スクールと呼ばれているものがこれに当てはまる。
   これは局所的な多元化に伴う閉鎖性を招くか、そうでなければ、基本的な学校教育制度それ自体に非常に深刻な影響をもたらすことになっていくと考えられる。これも、学校の多様化と選択制を推し進めるものになる。

   第三に、私が「当事者主義」と呼んでいる、地方分権主義、現場主義あるいは市民主義と呼べるようなもの。これが先ほど申し上げた「第3の道」であり、私は基本的にこの「当事者主義」が好ましいと考えているが、その形態と方法は多様であり得る。
   具体的には、地方への権限移譲、現場裁量権の拡大、自主的・自律的な学校運営、学校参加といったものがこれに含まれる。

   現在の改革の動向は、以上の三点が重なり合って進行しており、また、一番目と二番目の考え方が極めて強まりつつある。
   この動向に拍車をかけ、扇動しているのが「聖域なき構造改革・規制改革」というスローガンであり、また、このスローガンに基づく一連の改革である。
   合理性・適切性を欠いた、なし崩し的な制度改革・規制緩和が現在促進されている。
   私は「改革至上主義」と呼んでいるが、何のために改革するのかという目的があいまいにされ、改革それ自体が目的になっていると言ってもよいような状況にある。このことは、矢継ぎ早にラディカルかつ矛盾に満ちた改革が進んでいることや、これらの改革の政策評価が一切行われていないというところに端的に現れている。

   「構造改革・地方分権化の時代」「地域の特性・要望」「実験・試行錯誤の時代」「不易と流行」等のあいまいなキャッチフレーズでこれらの改革政策が正当化されているのが現状である。
   さらには、改革論者からは様々な議論の場で「やってみないとわからない」「やってみないと始まらない」という主張もしばしば聞かれるが、この種の議論は極めて無責任である。
   彼らは現行システムのラディカルな再編を主張するが、その結果についての予想・ビジョンは極めてあいまいである。それにもかかわらず、批判に対しては代替案、ビジョンの提示を求める。しかし、実際に示されたビジョンについてはそれを理解も、その是非や可能性を検討もしない。

○教育改革の理由・目的

   この20年間にわたって進められてきた様々な改革の理由、目的は大きく分けて二つある。
   一つは校内暴力、いじめ等の「教育病理現象」への対応。
   この問題に対応するために、ゆとりと個性がスローガンに掲げられ、ゆとり教育政策、学校スリム化政策が進められてきており、現在さらに促進されている。

   もう一つは、社会の変化への対応。バブル経済の崩壊以前と以後では若干トーンが変わってきているが、基本的にはつい先ごろまでは、ゆとり、個性、創造性、自己教育力、自ら学び考える力を身につけるためのゆとり教育、学校スリム化政策が進められてきた。
   しかし、最近になって明らかに学力重視政策への方針転換が示されている。グローバル化する知識経済社会や知の競争時代に対応するためにも、アピール「学びのすすめ」を出し、学習指導要領は最低基準だが、発展学習によってそれに対応すべきであるという指導、あるいはまた習熟度別学習、学校選択制、エリート的中高一貫校、飛び入学等に加え、新テスト主義の台頭などがみられる。
   特に、各県や自治体で行われている共通学力テストについて、東京都の荒川区や品川区のように学校別に平均点・教科別設問ごとの正答率を公表し、義務教育段階で学校間の競争をあおるという動きが広がりつつあることをみても、新しいテスト主義、テストによって測られる学校教育の成果を重視する方向に急速に転回している。
   30年間にわたる受験競争や受験学力の否定の動きと、この1〜2年の今まで否定してきたものの肯定の動きとには、大きな政策的矛盾が生じている。

   日本の学校教育が問われるべきことは、現在の学校教育は本当に時代遅れなのか。現在進められているような、根本的な改革を必要としているのかどうか。
   日本の教育は、特に小・中学校段階の教育については、教育機会の開放性、学力水準の高さ、問題行動水準の低さ、どれをとってみても国際的には極めて好ましい水準にある。実際に、欧米諸国は日本の教育をモデル視して教育改革を進めている。
   学校教育や公立学校への不満や不信があることは事実である。しかし、その原因が必ずしも十分に検討され、明らかにされているわけではない。これらの不満や不信に対しては制度改革によって対応するよりも、実践上の改革あるいはカリキュラム改革等を含めて、実践上の改革とその実践を支える条件整備によってこそ、よりよく対応されるものではないか。

○学校選択制の問題点

   学校選択制については、各自治体においてその判断で導入できることになっており、様々な政策文書や、審議会等の報告書によって「学校選択制を促進することが好ましい」と主張されるたびに、その導入が加速している。

   学校選択制が導入される根拠は、基本的には現在の日本の公立学校に対する信頼の欠如である。
   すなわち、「現在の公立学校は教育の質が決して十分ではなく、硬直的、非効率的である」、「非感応的な様々な問題を抱えた教員がいる」、「教育病理的な問題が後を絶たない」といった、公立学校が信頼するに足りないものであるということを前提に、「選択可能な多様な学校、経営主体を導入することにより、市場的競争原理による教育改善努力、規制緩和を大胆に推し進め、学校の改善、教育の質の向上につなげていくべきである」というロジックであり、1995年の社会経済生産性本部の報告書にも使われている。

   しかし、義務教育段階における学校選択制は次のような問題点を持っている。
   第一に、学校は教育制度に位置づけられていることによって、個々の学校の価値が付与される制度財であるということ。従って、選択制が導入されれば、当然に成層化あるいは序列化が起こることになる。
   教育システムにおいては、高位の学歴取得者ほど、社会的に高い評価を受けるという学校段階別の成層化が既に行われている。また、同じ学校段階内の学校の序列化については、特に高校以上において人々は明らかに序列をつけている。この現象が義務教育段階において発生することを認めてよいのか。

   第二に、学校という商品は半製品、集合財であるということ。
   学校は、生徒と教師によって構成される集合財である。この要素の半分を占める生徒は、入学時点では半製品でしかなく、しかも、その生産過程、完成過程における素材・当事者である。従って、学校の評価は素材・当事者としての生徒の資質や属性に左右される部分が大きい。
   この半製品を完成させる過程への参加者の選別を起こすのが学校選択制であり、優秀な生徒の確保ができなかった学校の評価は下がってしまう。すなわち、すべての学校が良くなったと評価される可能性は乏しく、結果的に公立学校一般の信頼は回復しない可能性が強い。また、選別過程には様々な社会的な差別が介入する可能性がある。

   第三に、学校選択制は本当に保護者の要望に応えられるのかということ。
   学校選択制の支持者は、「学校の序列化ではなく特色化を進めるために学校選択制を導入するべきである」と主張しているが、日本の多くの保護者が義務教育段階において学校に対して求めるのは安全性と卓越性であり、特色性を基準に学校選択をするとは考えにくい。

   第四に、他の公立学校への波及効果。
   この点については、ポジティブな効果を期待する意見が多いが、既にそのような学校として国立大学附属学校や私立学校が存在するわけである。
   これらの学校が優れた成果を挙げていても、それが公立学校になぜ波及しないのかということを考えてみると、一部に選択制の学校、特色ある学校を作ったからといって、それが他の公立学校に波及すると期待することは極めて根拠が乏しいと言わざるを得ない。

   続いて、親の学校選択権をどう考えるか。
   世界人権宣言第26条3項には、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的な権利を有する」と書かれているが、この条文の解釈と具体化する方法が現在問題になっている。

   例えばフランスや、イギリス、ドイツといった国々においては、この権利が具体的に法律上保障されている。
   しかし、例えばイギリスにおいては、サッチャー政権による改革以降、学校間の競争が顕著になるまでは、学校選択権を行使する親は極めて少なかった。すなわち、学校間の競争が強調され、序列が明確になるにつれて、親の学校選択をする傾向が強まったということは明らかである。
   親の学校選択権などの教育権は、少なくとも義務教育段階においては社会権としてとらえるべきである。
   社会権には、世界人権宣言や国連規約、また日本国憲法においても「公共の福祉に反しない限り」といった制約が加わっている。
   他方、自由権は、他者の正当な権利を侵害することなく、誰もが対等に享受できる権利である。
   学校選択制やコミュニティ・スクール等の特別な学校の推進論者は、この権利を自由権としてとらえている。
   しかし、学校選択制は学校の評価の序列化を起こす。その結果、誰もが受けたいと考える、高い評価を受けた学校における教育は一部の人間しか受けられない、という他者の権利の実質的な制約がもたらされる。
   すなわち、強者の自由権的要求は満たされるが、弱者のそれは満たされないというメカニズムを組み込んでいると考えられる。

   では、高校以上の教育において保障されている選択権、教育機会の実質的な差別化が正当化される理由は何か。
   それは、この段階の教育は有償制を基本にしていることに加え、序列化に根拠があることである。
   根拠の第一は、教育財としての私的利益の部分が、生活機会を左右するなどして小・中学校の教育よりも大きくなっていくこと。
   第二に、多様な能力と進路に応じた教育の獲得は、個人の努力によるものだと考えられること。これが歴史的な条件などにより、個人の努力によって得られない場合はアメリカにおけるアファーマティブ・アクションのように権利保障が必要になる。
   第三に、学問・職業等に必要な知識を身につけるためには、カリキュラムの分化や多様化が容認される必要があること。

○自主的な学校運営要求をどう考えるか

   自由権的な学校運営要求の場合は、学校の設置認可基準等に検討の余地があるにせよ、私立学校で基本的には充足すべきである。現在検討されているようなチャーター・スクールあるいはコミュニティ・スクールというような方向で進めるべきではない。
   他方、社会権的な要求の場合、例えば不登校の子どもや種々の特別支援を必要とする子どもたちを対象とする場合は、非合理的な通学区域の見直しなどは容認する正当な理由がある。この観点から、フリースクールの承認や適切な助成も進めるべきである。

   また、保護者・地域住民等の学校運営への参加の促進については、既に学校評議員制度や学校支援ボランティア、地域企業との連携・協力の促進といった様々な施策が既に行われている。基本的にこれは推進するべきであると考えているが、この改革が新自由主義的、市場主義的な考え方とセットになると様々な問題の表面化をもたらす。従って、促進は当事者主義によることが重要である。

○学校の管理運営の改善について

   管理運営の委託については、学校選択制に連動する限り、好ましい結果がもたらされるとは考えにくい。また、適切さを欠いた制度改革・規制緩和をなし崩し的に促進する危険性も十分に考慮すべきである。
   選択制を前提とした個別のモデルについては、次のような問題がある。
   チャーター・スクールについては、安全性、継続性に関する疑問。また、現にアメリカで起こっている参加者の制限と閉鎖性をもたらす危険性。
   コミュニティ・スクールについては、「地域の特性・要望に応えるものである」という理由が強調されているが、その内実は極めてあいまいである。私の知っている限りでは、地域住民全体ではなく特定の人々の要望である場合が多いというのが実情である。したがって、実質的にチャーター・スクールと同様の参加者の制限や閉鎖性といった問題点を持っている。

   民間企業の学校経営については、私立学校との関係を明確にする必要性。また、民間企業は営利を追及するということを前提にすると、自ら学校を経営する必要性は低い。この営利追求を満たすためには、受験教育の充実やエリート校化といった他校からの卓越が必要になる。これは、教育の質、あるいは顧客の利益の軽視や教育の劣化が起こる危険性を内包している。
   NPOによる学校経営についても、自由権的な要求の場合は私立学校とすべきである。一方、社会権的な関心の場合は適切な認定・助成が好ましい。

   学校選択制と連動しない一部委託については、十分な検討に基づいて進めていくことが好ましい。
   既に学校給食などの外部委託は行われており、そのことによってさらに適切性や効率性が確保されることもあり得るから、どの分野は委託に適しているかなどを十分に検討したうえで導入は可能である。

   義務教育費国庫負担制度については、基本的にはこの制度を維持し、その上で当該予算執行の基準については弾力的な措置を講じ、改革・改正を行い、地方・現場への裁量権を拡大するような方向で考えるのが好ましい。
   地方・現場への権限移譲については、責任ある十分な検討の上で、適切にこれを促進していく必要がある。

○学校の情報公開、学校評価について

   学校評価の形態は、概念的に三つに区別できる。
   第一に、教員が自分で自分を評価するといった内部評価。これは、現時点では支持する必要性はない。

   第二に、外部評価。これは第三者評価だが、諸外国の例をみても管理主義的な評価となる可能性が極めて高い。
   この場合は結果の公表が必ず求められ、すなわち学校の序列化や選択制、市場的競争圧力による当事者性の制約につながっていく。もし行うのであれば、何を評価するのかということを限定すべきである。

   第三に、当事者評価。これは、自己評価とその結果の保護者への公表の努力義務化という平成14年度の文部科学省の方針の延長線上にあるものである。
   この場合の「当事者」は、その個々の学校が良くなってもらわなければ困る人やその学校を良くする責任のある立場にいる人、その学校を良くするために努力しようとする人である。
   すなわち、その学校の教職員、子ども、保護者、地域住民、卒業生、地域の企業等が評価にかかわり、その結果と問題・課題を共有し、協力してその学校を良くしていく。このような評価が好ましい。
   なお、その場合は情報の共有と情報の公開の区別が重要になる。


(2) 意見交換(○=委員、●=意見発表者)

   教育改革国民会議でも提言されたコミュニティ・スクールについて詳しくご教示願いたい。
   教育改革国民会議においては、チャーター・スクールについて議論している中でコミュニティ・スクールについても提案がなされた。その際「アメリカのチャーター・スクールの中でも、地域の有志が自分たちの理念に基づいて公費によって設置する学校はコミュニティ・スクールと呼べるのではないか」という発言があった。
   イギリスのヴォランタリー・スクールは、元は宗教的な自分たちの理念に基づく教育をしたいという社会権的な要求に対して、公費で設置し、運営を任せるという形態である。近年、アメリカのチャーター・スクールの中には、特定の宗教的な傾向を持った人たちが学校を設置するという傾向もみられてきており、このふたつは近い存在であるといえる。
   日本では、地域の人が中心となって公立の既成の学校とは違う学校を自分たちでつくりたいというニーズを実現できるものとして、コミュニティ・スクールを設置できるようにすべきであるという主張がなされている。従って、私はこの主張は自由権的なものであると考えている。

   最近の教育改革政策は、その適切性や有効性が検証されていないのではないかというご批判をされていたが、より詳しくご教示願いたい。
   政策の適切性、有効性に関し、近年はゆとり教育政策と学力重視政策が同時に展開しており、ゆとり教育政策の集大成と言っていいような学校週5日制と新教育課程が実施されていながら、その成果の検証を待たずして学力重視政策に基づく方針変更が行われている。
   この教育行財政部会で検討されている様々な問題も、多くは経済財政諮問会議や総合規制改革会議から出てきている提案を受けているが、現に文部科学省で改良主義的な観点で進められている政策に重なり合っている部分も多い。例えば、学校の外部評価の確立については、学校評議員制度を導入しているわけだが、その成果の検証がなされていないうちに新しく改革を進めようとしている。
   これらの、成果の検証のなされていない政策で教育が良くなるとは私にはとても考えられない。

   国際会議などの場面で、諸外国の人々に比べて日本人はきちんとした発言、議論ができていないという印象を受ける。これはどうやったら改革できるかお考えをお伺いしたい。
   実際に現場をみると、小学生はおおむね非常に活発である。これが中学、高校、大学と年齢を重ねていくに連れて、活発さが失われていく。
   従って、初等中等教育段階においてこのような力を身につける教育を行う必要性は余り感じていない。それよりも、大学においてディベート方式の授業を増やすとか、特別訓練プログラムのようなものを設けるとかといった対策を行ったり、そのスキルが企業で必要になるなら、企業の中で十分トレーニングしたりすれば済むことである。
   もちろん、これは日本人の固有の性格ではないかといった指摘もあるが、私の認識では、日本人は発言する必要があることについては、きちんと発言している。従って、日本の教育の在り方が不適切ではないかという指摘は、少なくとも高等学校段階までには当てはまらないのではないかと考えている。
   アメリカの教師と議論をすると、日本の小学生はクリエィテヴですばらしいが、中学生になるとそのすばらしさは失われてしまうという指摘が多くなされる。
   これは民族的な理由や、学校システム、受験システムの問題もあるかもしれないし、子どもたちが成長に伴って社会というものを意識し始めるということに関係があるのかもしれない。

   ご説明の中で、東京中心主義的な改革を否定されておられたが、地域ごとの特色を生かした改革を進めるべきである、というご意見なのか、東京対地方という観点からご主張されているのか、ご教示願いたい。
   私は基本的には当事者主義という概念に基づいているが、私の主張の中の、権限を委譲すべき「地域」というのは、市区町村レベルを想定している。
   具体的な例で申し上げると、学校選択制に関する議論に典型的に東京と地方との関係があらわれている。
   他の大都市でも似たような状況だと思うが、東京では、高校段階の私立学校の在籍生徒は約60%、中学校段階では約20%である。受験者はその倍いると想定すると、中学校段階でおよそ50%の生徒が学校の選択権を行使していると考えられる。
   ところが、地方においては全国平均で中学校での私立学校の在籍生徒は5%に過ぎない。残りの90%余りの生徒は公立学校に通っているわけであり、選択権の行使がなされていない。 
   近年の学校選択を含む様々な制度改革を求める主張は、このような事実を無視して東京を前提にして考えているとしか思えない。
   このように、地域によって様々な特質の違いがあるわけであり、これまでの全国一律の制度やその改革がそれぞれの地域の実情と課題に適切に対応するものか、それぞれの地域の教育を改善するものか、という考慮がなされていないと考えている。
 
   「当事者主義」の立場からのご主張ということであった。「当事者主義」は公的な制度をきちんと整備した上で自由化・弾力化を行うべきであるというご主張であると理解した。この「当事者主義」と「市場の競争原理」、「新自由主義的なヴォランタリズム」の違いはどのように理解すればよいのか。
   ごく単純に言えば、クリティカルな違いは学校選択制であるといえる。
   学校選択制が導入されれば、当然その学校の評価というものが行われる。この評価を高めることに責任を持つのは、その学校に入った人だけであり、自分の地域に学校があっても、その学校に行かなければ、何の関係もないということになる。
   特に義務教育段階においては、この自分の地域の学校の評価の向上に関わることができるかどうかが当事者であるかどうかの決定的な違いとなる。
   「市場の競争原理」や「新自由主義的なヴォランタリズム」の立場をとると、部分的であっても学校選択制を前提としているわけであり、これが違いだと言える。

   日本の学校は、外国の学校と比べて教員の質が優れている。このことに頼って、いろいろな問題を全て教員に任せっぱなしにしてきた。その結果、各学校の運営を職員会議などで定めるという方式が確立され、その結果、学校長がリーダーシップを発揮できないという逆の効果が生じた。このような問題が単純に当事者主義ですべてが解決するのかという疑問がある
   職員会議と、校長のリーダーシップの関係は、イギリスのように査察制度を導入するなどして対抗しなければならないといった性質のものではないと認識している。
   しかし、改革を行うためには校長の権限について明確な規定や、それを支援するような制度、何よりもそれを受け入れるカルチャーを作る必要がある。そのための施策は、今ようやく動き始めており、これを推進する必要がある。
   また、教職員組合もしばしば問題になっているが、組合自体の変化に加えて、学校への当事者評価の導入などによってもこの関係は変わっていくものと思っている。

   アメリカのホームスクーリングを巡る最近の裁判では、国家は国民にその社会を構成するに足る知識を教えるべきであるという指摘がなされ、その場合の教えるべき知識は小学校4、5年生くらいまでであるという判例が示されている。
   日本においては、国家が国民に教えるべき最小限の知識はどのくらいの範囲までだとお考えになっているか。私は個人的には小学校卒業程度ではないかと思っている。すなわち、義務教育はもっと短くてもいいのではないかと思うが、学校選択制の問題にもかかわってくるので、御意見があればお伺いしたい。
   アメリカと違って日本は、ファンクショナル・リテラシーの水準を非常に高く設定して発展してきた。
   すなわち、教科学習などで得られる基礎的な知識だけではなく、様々な社会的な判断力や適応力なども集団の枠組みの中で身につけることが求められており、私は現在の中学校3年生までの義務教育には正当な理由があると評価している。
   一方で、このように最低限保障されるべき義務教育段階における学校選択制や中高一貫校と結びついた習熟度別学習などによって、教育の機会の制度的差別化が強まっていくのではないかという懸念もある。

   義務教育段階の教育権は社会権であり、それ以上は自由権であると区別する根拠をご教示願いたい。
   教育を社会権や自由権ととらえることについては、私が学校選択制の支持者が根拠とする消費者の選択権ということに対して反論するための根拠としているものであり、まだ不十分な点もあるかもしれない。
   義務教育段階においては、基本的に教育は国が責任を持って保証するものであり、社会権的な要素が強い。それに対して、高等学校段階以上については、私的な利益の部分が拡大し、それに見合う有償性の部分が拡大していくわけであり、自由権であると捉えることができる。

   地域住民が自分の地域の学校の不登校生徒の数や途中退学者の数を尋ねても、学校の名誉への配慮から回答が返ってこないというケースがある。しかし、ご説明にあった当事者評価という観点からは、このような情報は一般に示しオープンに議論する必要があると思う。それでも、外部に漏れてしまい、外部評価につながる懸念があるから情報は隠すべきなのか。
   ご説明の中にあった外部評価、第三者評価、当事者評価の区別を明確にしてご教示願いたい。
   学校の評価方法については、当事者に誰を含めるか、そもそも何を評価するのかという問題もあり、厳密に区分が可能なものではない。特に、当事者評価の場合は、内部評価や外部評価、第三者評価と呼ばれてきたものの中間的な要素を含んでおり、定義づけが難しい。
   例えば、不登校児童・生徒数などは学校の評価を高めるために努力している当事者には共有されるべき情報である。しかし、学校選択制のもとで同じような情報が公開されると、選択の際の判断材料になってしまい、学校の評価を高める材料には必ずしもならない。
   従って、やはり義務教育段階においては学校選択制を前提としているかどうかによって判断が異なる。
   また、情報公開に関しては、その情報を公開することがどのような結果をもたらすか、という帰結主義的な判断を行うべきである。

   お話は公立学校の信頼の回復のための改革も多く行われているが、更に信頼を失わせている改革も多く行われているのではないかという分析と、その解決策として当事者主義に立った改革が必要ではないかというご指摘と理解した。
   私もこの部会の場などで、信頼が失われている理由は何で、それを回復するためにはどうすればいいのか、ということをきちんと分析しないで改革を進めると何のための改革なのかがわからないという結果を招きかねないということを繰り返し指摘している。
   どのような信頼が失われているのを問題にしているのか、具体的な回復方策はあるのかをお尋ねしたい。
   現在の信頼や不信の一部は、言説によって作り出されている。
   校内暴力やいじめが問題となってきた80年代から、政策文書などにおいて「学校教育に対する国民の信頼が失われている」という記述が非常に多くみられる。この記述自身が増幅していったのではないかという気もする。
   また、学校の感応性が低い、すなわち学校がリスポンシブルではなかったという問題もある。つまり、保護者や子どもたちの意見が学校に十分に受け入れられてこなかったということである。
   これは、学校のみならず公的な機関すべてがこの長年にわたって指摘されてきたことであり、多くの自治体で「すぐやる課」といったものを作るなどの対応体制を強めてきている。学校にもこの方向の改革が必要だと考えている。
   また、情報の公開や共有も、住民にその自治体や学校の運営や活動に参加する、すなわち当事者であるという意識の促進のためにも、重要である。先ほどの例でいうと、校内暴力は地域や保護者の参加が進んだところほど順調に沈静化したという研究結果が出ている。
   つまり、欧米で行われているような学校選択制の導入などの一律の制度改革で問題が改善されるというものではなく、教師や地域の人たちの実践的な努力によって改善していかざるを得ないものであるということである。
   日本では、公立学校に子どもを通わせている親が、担任の教師の悪口を子どもの前で平気で言うという風潮がある。アメリカでは、そのような傾向はみられず、「自分の子どもを担任してくれている先生は味方である」という認識がされている。日本では、ご指摘にあったように悪い評判が増幅していくという風土があるようである。


(3) 事務局より資料2及び3に基づいて説明を行い、質疑応答・意見交換。(○=委員)

   公立学校の管理運営の民間委託について議論する際に、「設置者管理主義」という従来の範囲内には入り切らない事項についてはどのように考えるのか。
   具体的には、例えば代表権の問題。要するに第三者への法的な対抗要件を持った者は誰なのか、学校に対して訴訟を起こされたときに誰が代表権を持って対抗するのかということなどについてどう考えるのか。
   また、教育環境の維持・向上のための支出といった事項の方針、決断をどうするのかという規定も必要になる。従来は公的な予算で行ってきた部分だが、従来の分類では整理しきれない部分である。
   「学校法人は寄付行為を基本としている」といった学校運営の基本的な憲法に当たるものを明確にする必要がある。
   これは、株式会社では定款ということになるかと思うが、定款に書けば何でもできるのかという疑問もある。きちんとした整理が必要である。

   日本の学校教育は、外国に比べると学力の面でも、問題行動の面でも非常に優れており、高い評価を受けている。これは管理運営面も優れているからではないか。この現状を踏まえて、本当に株式会社やNPOを教育の主体として認めなければ学校は救えないのかということは、きちんと整理しなければならない。

   公立学校に対する不信感は、現在の管理運営のどこに問題があるかをきちんと分析し、そこを大胆に変えていくということで解消されるのではないか。設置主体を変えるという根本的な改革しか信頼回復の手段はないのかという議論が必要である。

   公立学校も私立学校も、戦後50〜60年の間に非常に整備されてきており、責任体制もきちんとしている。これは、設置者管理主義を明確にしていることが基本だと思う。
   このようにきちんとした制度が整備されている中で、「とにかくやってみなければ改革は始まらない」という発想で実験のような改革を行われると、失敗した場合取り返しのつかないことになる。慎重な検討が必要である。

   管理運営主体などを自由化する際には、徹底したモニタリングが必要になる。これを怠ったのが現在の金融問題である。これまでは教育分野への参入に厳しい制限を設けていたわけだが、参入を自由化し、教育の内容や質についてきちんとしたモニタリングを行おうとすれば、恐らく人員が何倍も必要になると思う。


(4) 部会長より「教育条件整備に関する作業部会」の設置が部会に諮られ、了承された。
(5) 事務局より次回以降の日程の説明が行われた後、閉会。

以   上



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