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資料7




中央教育審議会初等中等教育分科会教育行財政部会(第4回)議事要旨

1. 日   時   平成15年8月5日(火)10:00〜13:00

2. 場   所 霞が関東京會舘   シルバースタールーム

議   題 学校の管理運営の在り方について
    八代尚宏日本経済研究センター理事長からの意見聴取
  意見交換

4. 配付資料
 
資料1 意見発表要旨(八代尚宏氏   発表参考資料)
資料2 公立学校の管理運営の委託について(検討メモ)
資料3 教育行財政部会第2回議事要旨

5. 出席者
(委員)   鳥居会長、木村部会長、國分副部会長、佐藤委員、田村委員、渡久山委員、横山委員、石原委員、小川委員、小野委員、矢野委員、吉野委員
(オブザーバー)   加藤委員
(文部科学省)   近藤初等中等教育局長、玉井総括審議官、加茂川私学部長、樋口初等中等教育局担当審議官、金森初等中等教育局担当審議官、河野主任視学官、辰野初等中等教育企画課長、前川財務課長、大槻教育課程課長、関児童生徒課長、義本幼児教育課長、竹下教職員課長、繻エ施設助成課長
(意見発表者) 八代尚宏日本経済研究センター理事長

6. 概   要
 
(1) 八代氏より資料1に基づいて説明が行われた。
(2) 八代氏の説明に対する意見交換が行われた。
・八代氏の発表の概要及び意見交換の概要は以下のとおり。

【意見発表要旨】
   私は総合規制改革会議で社会的規制の分野を担当している。社会的規制とは、労働、教育、医療、福祉、農業などのいわゆる市場メカニズムが働かない、あるいは働きにくいと考えられている分野だが、消費者主体の観点から規制改革が必要かと考えられる分野である。
   なお、これから申し上げることはあくまでも個人的な見方であるということをご了承いただきたい。

「教育に対する規制の根拠は」
   教育は消費者に対するサービスであるというのが前提。ただし、医療と同じように極めて公共性の高い分野であり、かつての公的福祉のような、国が利用者のために行政処分として行う措置制度のようなものではない。特に義務教育というのは極めて社会的な公共性、公益性の高い分野である。基礎的な教育を国民に提供するというのは、経済学でいう一種の公共財であり、政府の基本的な責務。
   教育は機会均等が重要。そのために義務教育は無償が基本とされており、高等教育についても奨学金等の制度を政府が責任を持って行っている。
   教育には情報の非対称性が存在する。すなわち、教員と生徒の間には、医者と患者の関係と同じように、情報量の格差がある。教員は、医者や弁護士と同様に高度の専門性や自律性を持った集団でなければならない。その意味で、普通の市場サービス、市場競争に委ねると、消費者が賢明な判断を下せない可能性がある。そのために、政府が何らかの介入をする必要がある。教育においては、教育の質を確保するために、一定の学校設置、あるいは運営基準を政府が定めているということ。
   義務教育は、高等教育とは異なりある程度の強制力が必要。一方、教育サービスの消費者である子どもは、消費者として十分な能力を持っていない場合が多い。この場合、「親は子どもの善意の代理人であるか否か」ということが大きな争点になっている。私は基本的に、親というのは子どもの利益を考えて行動する、善意の代理人とみてよいのではないかと考えている。

「消費者主体の教育改革へ」
   教育分野の規制改革の一番大きな争点は、どこまで消費者主権を、特に義務教育について考えられるかどうか。もし消費者主権が成り立たないのであれば、政府による全面的な規制が必要になる。しかし、情報開示などの形で、消費者が賢明な判断を下せるような環境を整えることで、できる限り、市場サービスに近づけていく方向での規制が必要。
   規制改革というと、何でも自由放任主義で、政府は何もしなくてもよいという見方だという誤解が一部にある。しかし、現在の規制改革の考え方は、競争を阻害する規制は極力排除するが、むしろ競争を促進させるような規制は強化する必要がある。一種の公正取引委員会のような競争政策と情報の開示義務など、規制緩和と規制改革、強化を組み合わせた、新しい時代にふさわしい規制にしていくことが本来の目的。
   教育分野の規制改革の一つの基準は、消費者主体の教育改革へということ。現在の教育は、医療、福祉、法務と同じように政府管理の強い分野である。これをできる限り、事業者間の競争を通じて、消費者の利益を守る方向に持っていく必要がある。例えば医療の分野では、かつての患者は医師の言うことを全面的に聞くという考え方から、セカンド・オピニオンという形で、患者が別の医師に意見を求めることができるようになっている。あるいは福祉の分野でも、介護保険で消費者が事業者を選択できる。このように、今まで社会的規制が強かった分野でも、徐々に消費者主体の方向に動いている。これと同じことが義務教育でも必要。
   具体的な改革方策として、まず学校の教育や財務情報の徹底した公開、同時に外部評価の促進。従来は政府あるいは教育委員会が、個々の学校の状況をきちんとモニターして、消費者のかわりに適切な判断を下すという考え方であった。このような機能も引き続き重要だが、同時に消費者に自ら選ばせるという形で、できる限り情報を開示していくことが、消費者主体の教育改革の基本。
   また、国公立学校と私立学校との競争条件の均等化も重要。政府が自らサービスを提供する国公立学校と私立学校とはできるだけ対等な競争条件である必要がある。私学助成金はあるが、まだまだ圧倒的な競争条件の格差がある。医療の混合診療と似た考え方だが、米国の一部では、私立学校に行く親に公立学校に出している授業料相当分を政府が補助し、消費者は差額の教育費だけを負担して、より質の高い私立学校に行くというバウチャー制度も行われている。
   同時に、消費者の選択肢を増やすため、NPOや株式会社などの多様な経営主体が教育サービス分野に参入してくる必要性がある。事業者間の競争をできるだけ促進するというのが、我々の考えている消費者主体の教育改革である。
   このように考えると、今の学校教育の在り方に幾つか問題点がある。
   例えば、総合規制改革会議でも指摘されているのが、私立学校審議会の在り方。現在の私立学校審議会は、都道府県ベースで私立学校の関係者が4分の3以上入っていなければならない。そこで新しい私立学校を認めるかどうかの審議がされている。仮にこれが学校でなければ、かなりカルテルに近い仕組みであり、既存の事業者が新しい事業者を入れるかどうかを決めるというのは、本来許されない状況である。しかし、これは私立学校であり、学校法人は企業ではなく、営利を目的としていないという理由で免責されているが、いかがなものか。
   やはり学校経営者という立場から言えば、少しでも新規参入者は望ましくないわけで、このようなカルテルまがいの誤解を受けるような仕組みは、極力避けるべき。仮に既存の学校経営の関係者が教育の専門家として必要であるなら、他の都道府県の私立学校の経営者を審議会に呼べばよいのではないか。新規に参入しようとする主体の競争相手を審議会の中に入れているのは問題がある。
   もう一つ大きな争点は、学校法人の不動産要件。
   我々が勝手に不動産要件と言っているわけだが、学校を経営するときには、一定の敷地がなければならない、あるいはその半分以上を所有していなければならない。このような安定した不動産を持っていることが学校経営の基本という考え方の規制がある。これは学校教育の継続性、安定性のために不可欠であるということだが、他方で新たに学校を作ろうとする事業者には大きな負担になる。特に、都市部で社会人のために便利な学校を作ろうというときに、なぜ貸しビルで経営してはいけないのか。十分な情報開示の下で、よい教育さえ提供していれば、別に不動産を自ら所有していなくても、学校はできるのではないだろうか。
   これについては、構造改革特区においてある程度認可されている。
   本来、できるだけ多くの事業者が教育サービス市場に参入することで、消費者の選択肢が増える。同時に、質の低い教育を行っている事業者はそこから淘汰される形で、よりよい教育サービスが実現するということが基本的な考え方。

「学校の経営の主体性の確立」
   競争メカニズムが教育の世界で十分に発揮されるための基本的な前提としては、学校経営がきちんと主体性を持っている必要がある。これは企業経営でいわれているコーポレートガバナンスという考え方と同様、学校長に十分な権限が集中しないと、多様な教育サービスを提供することは難しい。
   現状の公立学校の教育を考えたときに、「誰が最終的な責任を担うか」というガバナンスの主体が非常に不明確。私立学校の場合には、ガバナンスの主体として理事会などの組織があるが、公立学校の場合は学校長が十分な権限を持っていない。一方、教育委員会が権限を持っているかというと必ずしもそうではなく、文部科学省の通知や指導に従って行動しなければならない。しかし、文部科学省にも実質的な権限はなく、現場の教育委員会に委任するという形で責任の押しつけ合いのような状況。誰が責任を持っているのかということが不明確。そこで、きちんとした権限を現場の学校長に与える必要がある。学校長の独裁が問題になるならば、教職員や保護者の代表の参加する理事会や評議会を設置することで、学校をよりよく運営していくことができるのではないか。
   現在、教育サービスをよくするためには、少人数学級や、二人担任制のような形での少人数指導が求められているが、他方で教育財政は非常に逼迫している。この実状に対して、経済学的な考え方だが今ある教員の稼働率を上げるということはできないか。
   今の日本の小学校の教員一人当たりの児童数が多すぎるという問題があるが、仮に行政的な、あるいは中間管理職のような仕事を合理化することで、もっと直接子どもを教えるような教員を増やすことはできなだろうか。
   また、学校行事も個々の学校で保護者と話し合うことによって、その行事の必要性などについても考えなおす必要がある。あるいは、必要に応じて企業と同じようなアウトソーシングを行うなどし、貴重な教員をできる限り本来の教育業務に向けるという改革も必要。
   これらは全国一律に決めることではなく、あくまでも地域、個々の学校の実情に応じて、そのような手法も導入できるといった選択肢を広げていくことが重要。また、専門大学院やロースクール、ビジネススクールが増えているが、エデュケーショナルスクールといった、教員の質を上げるための専門大学院を作ることもよいのではないか。
   このような多様な形で、学校がよりよい教育サービスを提供できるようにする仕組みが必要。ただ、それを一律にやるのではなく、できる限り個々の学校ベースで多様性を追求できる仕組みで。

「構造改革特区の活用」
   構造改革特区は、昨年の12月に臨時国会を通り、今年の4月から実現した新しい仕組み。規制改革を進めようとすると、なかなかスピードある改革ができない。全国一律に新しいことをするのは抵抗もあり、また心配もある。新しいことによりどんな弊害が起こるかわからない。このような懸念によって今までの規制改革は、極めて緩やかな改革にとどまっていた。そこで、スピードある改革を促進するために、特定の地域に限定して規制の特例措置を行えるということを法律で定めた。
   この制度には様々な使い方がある。一つは、全国一律の法律にかかわらず、地域の特性を生かした教育の提供や、新しい教育改革のための社会的実験が行えるということ。既に文部科学省では、従来からモデル校という形で取り組んでいるが、それとの大きな違いは、政府が上から「こんな実験をやってみたらどうか」という形で提案するのではなく、地域の自治体が「我々にはこういう学校が必要なのではないか」と逆に提案する。これによって、多様な教育のやり方を実験してみようということ。当然ながら、地方の発意でやらなければならず、誰かが強制するということでははない。
   「教育や医療は、国民の基本にかかわる問題であり、実験のようなことはしてはならない」という批判もあった。しかし、多様化の時代であり、日本国自体が試行錯誤で新しい制度を考える必要があるときに、このような管理された実験も必要。
   こうした特区は、外国に例があるのかと必ず聞かれるが、一つのよい例は米国である。特区というと、中国やアイルランドの経済開発のための特区というイメージが強いようだが、米国型の特区が今の日本にとっては非常に参考になる。米国には実は50の特区がある。すなわち、50の州がそれぞれ独自の制度を追求している。連邦法で規制されない限りは、かなりの自由度でいろいろな教育をやっている。宗教教育を全面的に肯定したり、否定したり。地方が独自の制度を追求することができ、他の州のよい制度を真似る、あるいは悪い制度は真似ない、という絶え間ない制度間競争が起こっている。このような形で、よりよい制度が全国に波及している。
   連邦国家の米国をそのまま真似することはできないが、中央集権国家の日本でも、一部なりともそういう制度間競争の様相を取り入れることによって、試行錯誤で新しい教育システムを考えてみるということ。よいものがあれば、それを全国に適用するということである。実際に多くの提案が寄せられている。
   これまでにも、このような地方からの提案はあったが、残念ながら直接に文部科学省に提案をしてもなかなか受け入れられなかった。それに対して、今回の特区法の大きな特徴は、内閣に構造改革特区推進本部という総理を本部長にする強力な組織ができ、ここに提案をすることによって、内閣が文部科学省等と協議した上で法律改正を行えるということ。その法律改正に基づいて特区を募集し、全国どの自治体でも応募できる仕組みが確立した。

「構造改革特区の第1次提案、第2次提案で実現する特区の例」
   これまで、第1次および第2次提案で、ささやかではあるが、新しい特区ができた。第1次提案では学習指導要領によらない多様なカリキュラムの編成、あるいは市町村負担による独自の教員の任命、あるいは市町村の申し出による教員免許授与手続の簡素化など。第2次提案では、株式会社、NPO法人による学校設置の容認が特定の分野について認められ、学校法人の校地・校舎の自己所有要件の緩和が認められた。
   このような形で、第1次、第2次提案で特区が実現して、現在第3次提案が出てきている。
   第3次提案の一つのポイントは、教育委員会と学校長との権限にかかわる点である。千代田区や埼玉県の志木市、あるいは多治見市等からもう少し教育委員会の機能の一部を学校長に委譲できないかという提案があった。これらの提案は、多様な教育を行うためには現場の裁量権が必要である。ところが、教育委員会に判断を委ねると、各学校の横並びや平等性等への考慮が必要になってくる。従って、機動的な改革をするために、実験的に教育委員会の機能の一部を学校に委任する、もしくは教育委員会がコンサル的にアドバイスをし、決定権を学校長に委ねることによって共同的に行うというもの。
   ただし、全国一律でやると大変なことになる可能性もあり、とりあえず自治体が非常に熱意を持っている特定の地域においてこの制度を導入してみるということ。その結果を踏まえて、全国的な改革をするかどうかは別途考えるということである。
   このような自治体の提案に対しては、積極的に受けとめる必要があるのではないか。必ずしも特区を使う必要はなく、全国的な改革が直ちにできればそれに越したことはないが、いろいろ意見が分かれるものについては、実験として多様な試みをこの構造改革特区制度を使ってやってみてはどうか。
   株式会社立学校について
   この問題が提起された当初、教育界からは「利益を追求する株式会社が学校を経営するというのは認められない」といった意見があった。これは医療、福祉、農業など他の分野の関係者からも同様の意見があった。しかし、それにはかなり誤解がある。
   株式会社と学校法人の違いの一つに資金調達手段の多様化という点がある。学校法人は基本的に寄附に基づいて資金を調達し、ファンドをつくり、その利子を中心に学校を作る。それに対して、株式会社は株式を発行するなどして幅広く資金を調達する。この資金調達方法の違いが基本的な違いである。
   株式会社は株主の利益のために存在し、学校法人は公共的な利益のために存在するという目的の違いがあるといわれるが、実質的にその違いはどこまで重要か。教育サービスの消費者からみて、それは市場の競争状態に依存する。仮に市場が独占的な状態であれば、確かに利益を追求する株式会社と、利他的な目的で存在する学校法人の教育サービスの内容は当然違いが出るだろうということは予測される。
   しかし、極めて競争的な市場においては、株式会社が利益を上げるためには、お客にサービス、商品を買ってもらう必要がある。現に日本の企業の多くはそうしているわけであり、消費者をだますなどして短期的な利益を追求しようという企業は、お客から見捨てられるという形で必ず厳しい制裁を受ける。従って、市場が十分に競争的な状態にあれば、経営形態の違いにかかわらず、消費者からみたよいサービスを提供できる可能性は高く、少なくとも排除する理由はない。
   消費者が非営利の学校法人がいいと判断すれば、当然、学校法人のほうが求められる。他方、魅力ある教育サービスを提供している株式会社を選ぶという可能性もある。この消費者の選択肢をあえて規制する必要がどこまであるのか。つまり、消費者の選択肢を広げるという一つの手段に、既存の国公立学校や学校法人の競争相手として多様な経営形態の参入を認めてもよいのでないか。それも全国一律でやるのが危険と考えるのであれば、どこかの特区でやってみればよいのではないかということ。
   結論は、高等教育のみならず義務教育においても、可能な限り消費者が選べるような教育サービス市場が必要であるということ。子どもは自分で選べなくても、子どもの善意の代理人としての保護者が選べるような、あるいは教員、学校長、教育委員会が、保護者の正しい選択のための情報を提供していくことができるような制度の構築が必要なのではないかということ。それに基づいて規制改革の提言を行っている。


【意見交換概要】
   アダム・スミスも『国富論』の中で指摘しているように、マーケットメカニズムが有効に働くためには、「一定の社会的な条件」が必要。マーケットメカニズムを学校に適用する際の「一定の社会的な条件」とは、「学校はゴーイングコンサーン(存続し続ける)という存在である」ということだと考える。
   学校は一定の年限学ぶことが前提になっており、学校で学ぶ人間は、小学校であれば6年間は潰れないという前提で入学する。このことを無視して、学校が無くなってもよいという前提でマーケットメカニズムを導入すると、結果としてマイナスの影響が大きくなるのではないか。

   私立学校について考えれば、学校法人を設置する者は私財を寄附することによって退路を断ち、失敗したら財産は全部国に帰属するという仕組みによって、ゴーイングコンサーンとして世の中から認められ、学校経営の主体として納得されている。この点について、株式会社やNPOは、退路が断たれておらず、失敗した場合にいつでもその資本は撤収し、学校を閉鎖できる。このような状態では、学校の閉鎖によって混乱が生じる懸念がある。

   ゴーイングコンサーンは教員の質の維持にも大きく影響する。すなわち、日本の教育というのは、諸外国と比べれば教員の質が非常に高く、教員は社会的にもステータスがあり、かなり優秀な人材が集まっているといえる。その職場がゴーイングコンサーンであることは、よい人材が集まる条件となっており、いつ潰れるか分からないのであれば、よい人材は集まらない。現実的にアメリカでは、その条件が整っていないところでは、よい先生がなかなか集まらず苦労している。

   日本の教育は教員の質でもっている部分がある。これまで、問題が生じた場合でも、制度で対応するよりも、教員の質で対応している面がある。
   具体的には、例えば、学習の遅延者が生じた場合、支援のための制度を作らずとも、教員が自らプロジェクトチームをつくって、「この子は何とかこれだけのことを学ばせたい」というように、義務教育段階から高等学校ぐらいまで対応している。このような対応は教員の質が良くなければできないもの。
   そこに、マーケットメカニズムを導入し、ゴーイングコンサーンという条件を破棄した場合の影響は甚大。

 
   御指摘の点(ゴーイングコンサーンの重要性)は極めて重要であり、医療、農業、福祉の関係者からも同様の指摘がある。学校法人は社会福祉法人と同様、寄附行為を前提とすることによって、退路を断たれている。従って、教育や福祉以外のことはできないという前提がある。そこが自由に退出できる株式会社との違いだということは繰り返し指摘されているところ。
   ゴーイングコンサーンであることは大切であるが、マイナス面もあり、非常に参入障壁が高くなっている。つまり、寄附という篤志家の極めて犠牲的精神によらなければ教育あるいは福祉ができ難い。
   過去の教育や福祉が極端に不足していた時代では、そういうやり方も正しかったと思われるが、人々が多様性のある教育あるいは福祉を求めている時代において、新規参入への高いハードルになっていることの弊害の方が大きいのではないか。

     小学校は少なくとも6年間はつぶれないことが必要だという指摘について、逆に、質の低いサービスを提供するような学校であっても、6年間そこにいなければいけないのか。雇用の安定性と同様、固定性のよい面と悪い面をどう評価するかということが大事。自由に学校を移れるような仕組みが保証されれば良いのではないか。
   例えば、銀行についても、絶対潰れてはいけないというのが、過去の政策だったが、今はそうではない。銀行は潰れても、預金者に迷惑をかけないように、預金保険という別のセーフティーネットを設ける。学校についても同様に、個々の学校が潰れても、他の学校が受け入れるという一種のセーフティーネットをつくることによって、より多くの学校が参入できるようにする。一つの学校だけで教育の安定性を保障するのではなくて、複数の学校で、教育サービスの安定性を保障すればよいのではないか。それによって全体の教育の質の向上を図ることができるのではないか。

     教員の質については、それが我が国の教育を支えてきたという意見もあるが、他方、日本の教員の質がそんなによいものだろうかという疑問もある。
   非常によい先生もいれば、かなり問題のある先生もいる。問題のある先生もよい先生も一緒にして、雇用が安定することが本当に望ましいことなのかどうか。教員についても、学校についても、きちんと評価すれば、中には退出してほしいような教員、学校があるのではないか。
   すなわち、職場が保障されていることが、教育の質の確保の絶対条件なのかどうか。むしろある程度の競争によって、好ましくない方が淘汰されるほうが、消費者にとって望ましいのではないか。そういう競争メカニズムについて、よい面と悪い面をどう評価するかということ。

   参入が自由になれば、必ず退出する学校が出てくることになるので、その退出をいかにスムーズにするかという検討が重要。また、教員の雇用のモビリティーをいかに高めるかという検討も重要。

   銀行については、参入を自由化したもののその後のモニタリングがうまくいかず、ある銀行が悪い銀行だということが、最後まで外にはわからない状況で潰れてしまうようなことが起こった。学校教育への参入を容易にした場合、学校が日常どのような教育をしているかということをいかにモニタリングするかということが重要。外部評価等で参観したとしても、いいところしか見ることができない。

 
   競争メカニズムが学校教育において機能するかどうかをモニタリングすることは重要であり、これには学校の評価が基本。個々の保護者がどこまで教育の質を判断できるかという点に疑問があるものの、学校参観を自由化することも一つの手法。
   それでも限界があるとすれば、プロが評価する必要がある。例えば、プロのモニターが必要に応じて抜き打ち検査のような形で、教育現場で授業をモニターする、といったことも必要なのではないか。子どもを守るためにも、プロの視点から本当に適切な教育サービスが行われているかどうか、教え方等についてもきちんとした工夫がなされているかどうか、評価する必要がある。

     あるいは、医療におけるセカンド・オピニオンと同様に、保護者が別の先生に自分の子どもの教育について相談できるような仕組みを設けるというのも一つのアイデア。
   教育、医療、福祉、農業等の規制のある分野には共通性があり、他分野で行われた改革の成果を、別の分野に適用することは可能。医療改革の分野において使われているものを学校教育にも導入していくことが重要。

   教育分野において競争原理を導入して、質を高めていくことは重要という指摘については、高等学校や大学、社会人を対象とした教育機関はそのとおりだと思うが、義務教育についてはどうか。
   義務教育においても、通学区域の弾力的運用等、現行制度の中で改革が進みつつある。義務教育が使命とするのは、仮にどこに住んでいようと、ある一定の教育水準が保障されるということ。

   内容的には学習指導要領があり、教員の配置については編成基準があり、財政的には財政力が弱い自治体であっても国庫負担制度で保障されている。これらの措置で一定の教育水準が担保されている。そこに過度の競争を導入した場合、子どもが受ける教育の内容面でかなり教育水準に差が出る懸念がある。これは日本の国策としていかがなものだろうか。

 
   競争が激しくなると、当然ながらうまくいくところとそうでないところの差が出てくる。一方、義務教育は最低限これだけのことを教えなければいけないということを国がきちんと担保することが基本。ただ、担保のための手段をできるだけ自由化してもよいのではないか。
   適切な例でないかもしれないが、自動車を持っている人は自動車損害賠償責任保険に必ず加入しなければいけないという規制があるが、どの保険会社を選ぶかは全くの自由。同様に、文部科学省が義務教育の内容をきちんと定義した上で、それを実現するための多様な手段を認めてもよいのではないか。
   これにより、学校によっては先生の工夫でよりよいものが出てくる可能性があり、そういうよい教育を受けられる人と受けられない児童生徒の間の差が出てくる。これは不可避。
   その差が生じることを不可として、よりよい改革をする学校を押さえつけても問題の解決にならない。教育の質の低い学校の先生が、よい教育をする先生を真似することにより、全体として高いレベルに向かうこととなるような競争インセンティブを与えることが最大の狙い。
   その意味では、差をつけることが目的ではなく、究極的には全体のレベルアップが目的。ただ、レベルアップの過程で一時的に差が出ることは許容せざるを得ないのではないか。

     試行錯誤は差を生み出す原因であるが、これはやむを得ない。キャッチアップの時代のように、明らかに優れたものが目標としてあって、一斉に追いつこうというときは、横並びでもよかった。
   しかし、これからはモデルなき時代であり、日本の教育をどうすればよいのかということについて、アメリカもヨーロッパも必ずしもモデルにならないときは、一時的に差が生じても、多様性のある教育を行う自由を与えない限りは、レベルアップ、あるいは現在の様々な問題は解決できないのではないか。

   消費者として質の良い教育を買うという考え方もあるかもしれないが、教育を受けることは子どもたちの権利であり、保護者の財政状況によって、受ける教育の質が異なってしまうことに懸念。
   国民が最低限の普通教育を受ける権利を国や自治体がどのようにして保証するかということが、教育の公共性の観点から重要。
   すなわち、サービスの提供者側の競争についての議論だけでなく、教育を受ける子どもたちの権利をどうやって保証していくかという観点からの議論が必要なのではないか。

 
   子どもの教育を受ける権利を保障するためには、政府の基本的な支援は不可欠。
   ただ、現在、公立の小・中学校には、すでにかなりの予算が投入されており、これをより効率的に使えないか。
   事業者間の競争の促進によって子どもがより質の高い教育を受けられるように、貴重な公費を効率的に使おうという考え方。それは予算を節約するという財政的な見地からの効率化ではない。今ある予算をより効率的に使うために、学校間の競争を導入し、淘汰されるというインセンティブを与える必要があると考える。

     保護者の経済状況の差という問題は、医療と同様、現に存在している。つまり、お金を持っている人は、私立学校や塾で、小学校段階から高い授業料を負担し、生涯を通してよい教育が受けられる。
   一方、普通の人が、子どもを私立学校に通わせようとすると、国から補助される公立学校の教育費を捨てて、ゼロから自分で教育費を負担しなければならない。これができる人は限られている。
   公費で負担されている公立学校の教育費について、私立学校に行ったら全くもらえないという、オール・オア・ナッシングではなく、私立学校に行くのであれば公費負担分プラスアルファという形にすることにより、普通の人もよい教育サービスを受けられるのではないか。
   付加的な支出ができる人とできない人の格差が問題にされているが、一方で、公的な補助金なしでもいい教育を受けられる人と、公的な補助金さえあればよりよい教育を受けられる人の格差もやはり問題ではないか。すべての子どもが私立学校へ行かなければいけないということではなく、公立学校でも私立学校と同様に、教育現場での創意工夫のある教育ができれば、あえて私立学校に行く必要はない。すなわち、国の支出のより効率的な使い方ができないものか。

   御意見については、供給独占を改めて、選択を強化しようということだと理解。
   教育のシステムについての議論は、未来を担う子どもたちの立場に立って考えることが基本。そういう意味では、子どもたちが安心して、信頼できる、一番近い学校に通えることが重要。現在の問題は、信頼して行ける一番近い学校がなくなってきているのではないかということ。
   消費者主権ともいえるが、子どもの立場に立って教育のシステムの在り方を考えることの重要性についてはコンセンサスが得られるものと認識。しかし、個々の改革議論の中では、往々にしてこのコンセンサスが忘れられていることに懸念。

   教育サービスの供給側が競争して、消費者側が選択する。このことは、結果として近所に住む子どもが別々の学校に通うことが起こる。これが消費者主権の考え方であるが、これがよいことだと一概にいえないところに、教育の難しさがある。
   大学等はともかく、義務教育の段階で一番必要なことは、子どもたちが安心して、信頼できる、一番近い学校に通えるようにするための条件をどう整備するかという一点に尽きる。この目的を動かさないことが重要。これについて、御意見にあったやり方によって、目的に到達できるかどうか疑問。
   また、消費者主権という観点からは、消費者である子どもたちが一番困ることは、母校がなくなることではないか。ゴーイングコンサーンの重要性が指摘されているが、これは極めて重要な問題であると考える。

   営利企業による学校設置に関し、我が国の学校法人制度は非常によくできており、この学校法人制度を有効に活用すれば、米国型の営利目的の教育機関よりもずっとよいシステムになると考える。
   一方、私立学校制度については、公立と私立のイコールフッティングについての議論があるが、我が国の私立学校が現在のような形になるまでの長年の経緯を踏まえて、学校法人及び公立学校の在り方について考える必要がある。

   基準設定と教育環境条件整備が教育行政の役割。基準設定はミニマム、環境条件はマキシマムとすることが望ましいが、実際には、財政上の制約から環境整備条件もミニマムになってしまう。
   国家の財政を考えるときに、教育は未来の日本を担う若者たちのための投資であることを念頭において、全体の資源配分の中で教育に対する投資が充実され環境整備が進むよう、ご協力をお願いしたい。

 
   学校法人制度に関しては、米国でもほとんどの大学は日本の学校法人と近い形態。ただ、学校法人以外は学校を設置してはならないという規制がなぜ必要なのか。学校法人制度がよくできているのであれば、別に独占する必要はない。学校法人が、競争を通じてよりよくなれば、それがベストではないか。
   私立学校制度に歴史的経緯があることは承知しているが、例えば慶應義塾大学のように学校法人制度ができる前から存在している学校が、学校法人制度の枠に縛られなければならないのかが不明。長い伝統を生かしたいろいろな多様性が、今の規制の中でもっとあってよいのではないか。

     消費者主権に限界があり、すべてを消費者に任せてはいけないということも理解できる。
   ご懸念されているのは親が遠くのブランド校に子どもを無理して通わせるようなことにならないかということだと思う。しかし、保護者が子どもの学校を選ぶ際には、近いということも大きな条件であり、距離の遠近も含めて、善意の代理人である保護者が決めてよいのではないか。

     教育にもっとお金を使うことは大賛成だが、今の制度のままで財政を増やさなければ解決できないということであれば、非常に苦しい。少しでも予算を増やすように文部科学省には頑張ってもらい、一方で、今の限られた予算をより効率的に使う努力も必要である。

   特に義務教育段階の公立学校においては、地域に根ざした、地域から信頼される学校づくりが重要。近年は学校選択制や外部評価制度が導入され、地域との関わりが一層重要となってきている。各学校において、そうした学校づくりが進められており、今後、大いに期待できる。
株式会社やNPO法人による学校も公立学校の競争相手として、これから現場で努力をしていきたいと考える。
   ただ、地域から信頼される学校づくりについては、学校が保護者の信頼を獲得することが重要である一方、学校が保護者を信頼しにくくなっている状況もある。学校のことをもう少し良く理解してもらう必要がある。

 
   現在、東京都の学校では、いろいろな工夫が行われており、そのような取組は大いに評価している。その上で、地域に根ざした信頼される学校を作るための一手段として、もっと特区制度を活用したらどうかということ。

     一部の保護者はかなりわがままで、非常識なことを要求するという例があると聞いている。しかし、そこは大部分の親はそうではないのではないか。もし大部分の親がそうであれば管理を強化しなければならないが。
   現実的には、保護者から見れば子どもを学校に全面的に委ねることは心配であり、一方で、保護者を全面的に信頼することもできない。
   そうであれば、両方がきちんと議論して、親の意見も聞くし、学校の意見も親に聞かせるような場が必要である。これは評議会として工夫されているが、それに自主権を与えてはどうか。親の意見を聞いた上で、学校に多様性ができるような裁量権を学校長に与えるべきではないか。

   話のそもそもの出発点は、旧来の日本の学校文化からいかに脱却すべきかという問題。ポイントは3つあり、1学校の設計の自由度の拡大、2スクール・ガバナンスの見直し、3資金調達の仕組みである。
   株式会社が学校を運営することについての問題として、1責任の所在、2株式会社の設立方法と学校関係者等利害関係者を含めた株主の是非や、株式の流動性の問題、3最低限必要な施設設備を準備するための資本金の額、4教育を受ける者の利益を担保する観点からの取締役会の役割・在り方等についての検討が必要である。

   学校を運営していくためには、施設設備の初期投資及び更新投資、教職員の雇用及び教育内容をデザインするという学事の3点について、常に目配りしなければならない。これらは教授会等に縛られている現状があり、株式会社立の学校は、現状に風穴を開け、学校の運営者の自由度を増やそうという試みであることは理解できるが、全体としてプラスの面よりも、懸念の方が大きいのではないか。

   私立学校の財務に関し、学校の収入で一番大きいものは学生納付金。これは収入に占める割合が少ない学校の方がよい。次に公的資金である補助金等、民間からの資金流入、寄附、最近格付けが行われている学校債。資産運用。そして借入金がある。
それに対して支出は、教材等学生に対する支出、教員の給与、施設設備費、再投資。そして借入金の元金の返済と利払い。株式会社でやるのであれば、配当も必要になる。
   私立学校の抱える財務問題を俯瞰してみると、株式会社が学校を作るということについては相当慎重に考えたほうがよいと考える。

   私立学校審議会の在り方は問題。小学校、中学校といった教育の初期段階ほど、私立学校の参入障壁が存在している。その障壁を取り除くために、株式会社立の学校の参入を認めるのか、そうではなく私立学校審議会の在り方を見直すのか。この点についても検討が必要。

 
   株式会社立学校の導入のみで義務教育を改革しようというのは無理。あくまでも教育改革のために競争を促進する一つの手段。例えば建物等を新たに作るときの資金調達について、銀行借り入れが一つの手段だが、その代替手段として株式を発行して配当を払うという手段があってもよいのではないかということ。株式会社立の学校を導入することですべて教育問題を解決するなどとは考えていない。

     従来の教育規制の考え方は、医療と同様、経営主体規制である。つまり、学校法人のようなきちんとしたもの、あるいは国公立学校のように非営利なものであれば悪いことはしないという推定によって、あとは自由にやらせようという考え方である。これと代替的な考え方として、例えば電力業に対する規制がある。これは、経営主体を問わず、電力という極めて公共的なサービスをきちんと供給する義務があるというもの。つまり、収益の見込めない地域に電気の整備を行わないといったことは許されない。
   すなわち、今までの強い経営主体規制から、行動規制・行為規制を強化していくという考え方である。経営主体規制を緩和したからといって、株式会社に運営を自由にさせるということではない。むしろ、今まで経営主体規制が厳しいがゆえに、事業規制や行為規制が必ずしも十分行えなかった面もあるという懸念がある。例えば、情報開示がきちんと行われなかった結果として、財務の健全性が損なわれてしまった学校があるのではないか。

     株主の在り方についても、多様性があってよいのではないか。学校経営は最初から利益が上がるわけではないだろうから、学校を経営して儲けるというのは、かなり無理な前提である。従って、個人が株式会社立学校の株を買うというのはあまり配当を当てにしない、株主としての一定の発言権をもつ、広い意味で寄附の一つの形態として考えることもできるのではないか。
   設置主体の自由化で問題が起こるリスクだけを考えるのではなく、きちんとした行為規制によって、その部分は担保できるのではないか。株式会社立学校は資金調達手段の多様化の一つに過ぎない。また、学校を運営する株式会社の形態については、一般の株式会社とは違う形態にするというオプションもありうる。

   学校の情報公開や評価の在り方、私立学校審議会の構成の問題などについては同感。
学校法人という世界に冠たる制度があって立派にやっているのだから、株式会社のような新たな学校設置者が参入してきても心配する必要はないというご指摘については、子どもの視点ではないと思われる。教育も一つのサービスではあるが、やはり通常のサービス、通常の商品とは異なるもの。
   教育は、通常の商品やサービスのように、気に入らなければ次の日は買わない、あるいは新しいものができれば、試してみるといった、短期的に簡単に取り換えられる性質のものではない。

   商品、サービスを提供する側からすれば、消費者のニーズに応えるために提供するものを変えるというのは、通常の会社であればごく当たり前のことである。そのようなことが学校においても行われると、子どもがこういうサービスが受けられるという前提で入学したにも関わらず、提供される教育内容が頻繁に変わってしまうということになりかねない。よい方向に変わればよいが、株式会社の本来の目的である営利追求、株主への利益還元という性格からすると、粗悪なサービスを提供する方向に変わってしまう可能性もある。

   粗悪な教育を提供する学校は長期的には淘汰され、経営者はそんなことはしないだろうというご指摘だったが、短期間であっても教育のサービスを受けるのも犠牲になるのも子どもであるということを考えると、いかがなものか。

   日本の義務教育制度の最大の利点の一つは、北海道から沖縄まで、あるいは都会であろうと山間僻地、離島であろうと、ほぼ同質の教育が受けられるところである。この利点を担保するために、教育内容、あるいは校舎や設備、学校の先生の配置等について、様々な工夫が明治以来行われてきた。新しい形の学校の参入を認めることによって、選択肢が増えるだけだからよいではないかというご指摘だが、それによって今まで維持してきた利点が崩れてしまうのではないかという懸念がある。

   新たな学校設置主体参入のメリットは、学校間における競争の導入であると考えられるが、現状においても、学校間に競争を導入することを目的として、様々な工夫がなされている。情報公開、外部評価を取り入れた学校評価が行われ、教員についても、様々な形の人事考課や不適格な教員は排除するという法律まで作って、競争を起こさせる方向で進めていこうという動きもある。
   キャッチアップの時代は終わったというご指摘があったが、すでにその反省は行われており、少人数学級や個に応じた教育、習熟度別学級編成、中学校で選択教科を増やすといった様々な形で、一人一人の個性に応じた教育が展開されようとしている。現状は必ずしも画一性だけではないと思う。そういった工夫をしていても、なおかつ競争原理を思い切った形で導入しなければならないのか疑問。

   特区は、ごく限られた地域で実験的に行われるものであるとのことだが、その限られた地域にも子どもがいる。教育というのはその子どもにとっては一回限りのものであり、やり直しがきかないものである。その教育について、子どもをいわば実験材料にしてもいいものなのか。株式会社やNPOが学校を作れば、教育内容や継続性に十分な保証がない。それにも関わらず、あえてそのようなことをしなければならないというのは、いかがなものか。

 
   義務教育は子どもの視点でやらなければいけないという点については、ご指摘のとおり。
   問題は子どもの視点、子どもの利益を誰が決めるのかという点である。それを行政で決める、教育委員会で決めるというやり方がベストなのかどうかというのが問われている。もちろん、親だけに任せても不十分かもしれない。しかし、どういう視点から決めるかというときに、例えば、学校長や学校の評議会など、もっと子どもに近いところで、子どもの利益にとって何がよいかを決められるような仕組みにすべきではないかということである。

     制度があまり頻繁に変わってはいけないとのご指摘も、そのとおりだと思うが、逆にあまり変わらないのも問題である。習熟度別学級などのさまざまな取組みについて、批判がありながらも進められていることは事実だが、もっと促進するべきというのが我々の希望。

     これだけ取組を行っているから十分ではないかというご指摘については、消費者からもっとやるべきだという意見が強いからこそ、改革の議論が出ている。文部科学省や教育委員会は様々な取組をやっているが、子どもに一番近い学校が、インセンティブを持って子どものためにどうしたらいいかということをもっと考えられるような仕組みが必要。それが競争につながる。

     北海道から沖縄まで同質の教育が受けられるための工夫も、これまで非常に効果を上げてきたと思うが、その工夫がともすれば、よりよい教育を抑制し、「ある地区だけがお金があるからといって少人数学校をつくることは不公平だ」などという観点から、これまで少人数教育が実現できなかったなどの問題を生じさせてきたのではないか。ここまでは全国一律の最低限の基準だけれども、それ以上については地域が自由にできるという、伸びる方向の格差、言い換えれば、水準を上げる方向の自由度はもっとあってよいのではないか。

     特区において子どもを実験材料にしてはいけないということだが、現に文部科学省でもモデル校という形の実験をしている。実験の主体が特区と文部科学省という違いだけである。地方の自治体で、よりラジカルな実験ができるようにするのが特区。何がラジカルかというのは、特区長と文部科学省との協議で決まる。全国一律でやる場合には一定の限界がある。

     現在においても、教育改革がよい方向に向かっていることは認められる。しかし、問題はスピードであり、教育関係者の感覚と、我々の感覚とではかなり差がある。今の日本は急速に変わっており、グローバリゼーションや少子高齢化、国民の要求の高まりといったものに応えるためには、もっと加速する必要がある。

   基本的に発想の転換である。構造的な問題として、教育の分野に限らず、あらゆる分野で起こっている問題ではないか。
   司法の分野でも、これまで全国どこでも同じサービスを受けられるということが金科玉条とされてきたが、果たしてそれで本当にいいのか。地域に根ざした司法という視点も重要。教育の分野でも似たような考えがあるのではないかという感じがする。そういう観点で刺激的なお話だった。
   そこで、現在の義務教育、公教育で、うまくいっていない根本的な理由についての見解を伺いたい。また、教育委員会の権限を一部、学校長に移譲するという問題について、制度設計はどういうものをイメージされているのか。

 
   義務教育が、これまで日本の社会の発展に大きな貢献を果たしてきたことは誰も否定できない。これまでうまくいっていた制度が、90年代以降、あるいはそれ以前からうまくいかなくなるというのは、義務教育に限った話ではなく、日本のあらゆる制度がそういう状況になっている。これは、経済社会環境が大きく変わったからである。義務教育制度は、過去の日本の仕組みには非常にうまく適合してきた。しかし、それが今、日本の社会が変わったことによって、新たな制度に変わらなければいけないということだと思う。
   教育論の分野については素人だが、よく言われているのは、かつては、学校は家庭よりも豊かであったということ。給食があって、一人一つの机と椅子があって、先生がきちんと面倒をみていた。ところが現在では、人々が豊かになり、子どもは個室を持って、エアコンがあって、一人一人がもっと恵まれている。それに比べると、学校が相対的に貧しくなっている。それから、個性化ということで、かつては先生が「座れ」と言えば、きちんとみんな座っていたのが、いろいろな意味で、子どもが言うことを聞かなくなってきている。それをだめだと言うだけではなく、そのような子どもの行動の変化に対応して、別のやり方で教育の質を上げるように、義務教育も変わらなければならないのではないか。

   どのように変えればいいかという答えは、すぐには分からない。変わらなければならないが、直ちに方策が見つかるものではなく、試行錯誤しながら変えていかなければならない。その場合、特区のような手段で、現場がいろいろな工夫をすることによって、問題を少しでも解決しようとする取組を行い、上手くいっている事例をきちんと分析して、他の学校も同様に取り組んでいくということが必要。
   アメリカでは、有名な「コールマン・レポート」において、なぜ公立学校が上手くいかないかということについて大々的な調査をしている。本当は日本も同様なことをしなければならない。ただ、それを全国一律でやるかどうか、あるいは地域で特区のようなものを使って、できるところからやっていくかということの違いである。なぜ義務教育がうまくいっていないのか、どうすればいいかという答えを見出すためには、このような工夫が必要なのではないか。

     教育委員会と学校長の権限分担に関しては、特区の要望では、一にも二にも人事権である。これは経営の基本であり、学校長が好ましくないと思うような人を無理やり雇わなければならない、あるいはたらい回ししなければいけないという制度はやはり問題ではないだろうか。また、財政の面においても、ある程度の裁量性を必要とするのではないか。全国一律の規制ではなくて、沖縄と北海道では必要とするお金も違うという実態を踏まえ、もう少し学校長に裁量が必要なのではないか。

     義務教育は無償であるという考え方に対し、付加的なサービスについて、例えば学校長の権限で保護者の合意を得て、追加の教育費を徴収するという考え方もあり得るのではないか。この点については、文部科学省とも議論をした。義務教育は無償だが、現に、修学旅行や行事において、場合によってはお金を徴収している面がある。きちんと保護者が納得できるような部分であれば、例えば、子どもたちがよりよい質の教育を受けるために、学校長の権限で保護者と追加の教育費の徴収について交渉するような可能性があってもよいのではないか。個々の学校によって事情は違うと思うが、もっと多様性、裁量性というような工夫ができるような仕組みをつくる必要がある。

   東京を中心とした、私学や株式会社などが競争的な環境にあるところと、地方とは状況が非常に異なる。地方においては、私立が非常に少ない。恐らく私立は大都市に偏在しており、私学の小学校、中学校は、地方では極めて少ない。そのような地域では、学校間の競争を導入できる環境にはない。
   また、様々な家庭や保護者がいる。経済的な差もあるし、多様な考えもある。それらの格差の中で、社会の責任、国の責任として、すべての子どもに対して公的にきちんと義務教育を与えていくことはとても大事なことである。そのためのセーフティーネット、すなわち、どのような状況に置かれた子どもたちに対しても義務教育を施すために公立の小中学校があるわけであり、そこに株式会社などの参入を認めることになると、その大切な部分が切り捨てられていくのではないか。

 
   私学というのは確かに大都市に集中しており、地方にはあまりないというのは、ご指摘のとおり。その場合に、地域で競争メカニズムがどこまで成り立つのかという疑問は当然あろうかと思う。
   ただ、地方では需要が少ないから、公立だけしかだめなのだと考えるのか。あるいは、福祉の分野で取り入れられている公設民営のような形で、既存の公立学校の設備を小規模な私立学校の経営者に委ねるといった工夫によって、画一的ではない、もっと多様な義務教育が可能になるという面もあるのではないか。

   義務教育について国が責任を持つべきだというご指摘は全くそのとおり。これを変えるという気は毛頭なく、国の教育の責任の在り方として、公務員が必ずやらなければいけないものと考えるかどうか。国の責任内容を明確化し、実際にどうやるかは多様なやり方があってよいのではないか。そのような公的責任のとり方の多様性を導入するべきと考える。

   議事が長引いたため、資料2(公立学校の管理運営の委託について)は次回以降に議論したい。
教育行財政部会に、義務教育費国庫負担制度を含む教育条件整備の在り方についての検討を行うために、近々ワーキンググループを設置したいと考えている。ご了承願いたい。(異議なし)


以      上



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