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中央教育審議会総会(第8回)における意見の概要 | ||
○:委員発言 | ||
△:事務局発言 | ||
○ | 奉仕活動というのは、活動さえしていれば奉仕活動となるわけではない。老人ホームに出かけていってお世話したからといって、それだけで奉仕活動を行ったということにはならない。個人の中でキチンと意味付けすることが必要。意味付けの場や意味付けそのものについて、もう少し議論してほしい。小・中・高、あるいは18歳以降、発達段階に応じて意味付けの在り方は全く違ってくる。その際、滅私奉公という考え方になってはならないし、一方で自己中心でもだめで、他の人のためになることをすることによって自分自身も育っていくというような意味づけがどこかの段階でなされる必要がある。意味付けの場の中心となるのは学校であり、また、意味付けの重要性を理解した団体の指導者だと思う。 奉仕活動については、BBSやJRCといった社会教育団体が学校に入って活動を行っている例があるが、地域によって差がある。このような団体を助成する方法を答申の中で打ち出すべき。 |
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○ | 奉仕活動、ボランティア活動など、人のために何かをすることは日本では「仕方がないから学校でやるか」というような側面があるが、外国では、宗教的な背景から、教会等を中心に当たり前のように行われている。 学校で奉仕活動を教えなければならないということになると、限界がある。例えば、売春禁止法の施行後に、かつての売春婦の人たちが集団で住んで、使用済み切手を集めて売ったお金で生活しているようなところを、子どもたちに見せることができるのか。その限界をどう考えたらよいか。 | |
○ | 発達段階によることだと思う。子どもにすべてを見せなければならない段階があると思う。国民会議で、曾野先生は老人ホームの話をされていたが、それ以外にもたくさんあると思う。活動そのものの場よりも、本人が充実するためには人とかかわることが必要だ、という活動の意味づけを考えた方がよい。 | |
○ | 来年から総合的な学習の時間が入ってくるが、これは、座学からの解放であり、奉仕活動も含めて体験活動が行われることが想定される。これをあえて、奉仕活動ということでやらなければならないかという問題がある。総合的な学習の時間の中で、学校の教科課程を中心に活動を行っていけば、おのずから名実ともに奉仕活動的な精神は涵養されていくのではないか。 | |
○ | 体験活動と奉仕活動の議論とが一緒になりすぎている。それを整理する必要があると思う。学校の範囲内でできる奉仕活動と、学校が誘導するにとどまる奉仕活動と、二つあると思う。 | |
○ | 体験活動と奉仕活動とではオーダーが違う。総合的な学習の一部とか、教科の一部として体験活動があって、奉仕活動の色合いを帯びることはあると思うが、お年寄りの世話をしたらすぐそれが奉仕活動になっておのずから奉仕の精神が身に付くものではなく、例えばこの方々のために何かしてあげられないかという気持ちの持ち方や、それを支える深い認識ができるようになってはじめて奉仕活動といえるものになる。体験活動と奉仕活動とが混同されるのは避けるべき。 | |
○ | 奉仕活動の精神というのは、小学校のときは行事の中で芽生えるのかもしれないが、それ以降は、日常の中で芽生えるのではないか。優先席について、大阪の阪急電鉄では優先席をなくし、いわば、「全ての座席が優先席」という考え方にしたという。社会を巻き込みながらやっていくなら、こういう考え方であるべき。 | |
○ | 文部科学省の法規や通達においては、奉仕活動、体験活動、ボランティア活動を分けてこなかったのだと思う。ここで、キチンと整理するべきである。 また、孔子は礼を重んじることを説いたが、孔子に対してでさえ、礼を重んじるのは、上の人に取り入ろうとするからだ、また、形式的だなどという足を引っ張る者がいて、孔子が苦労したと聞く。戦後の教育でボランティア活動、奉仕活動を正面から取り上げることができなかったのは、足をひっぱる議論があるからだ。しかし、人間として生きる上での形やルールを伝えることは大事。多少批判があってもいいくらい位の気持ちで取り組むべき。 | |
○ | 本来家庭内で奉仕活動に対する芽生えがあって、それを学校教育の場で伸ばしていくという姿であるべきだが、現実では逆になっている。家庭内での活動についてどのように取り上げるか。 また、公立の小・中を地域社会と共同利用できる施設と位置付け、体験活動・奉仕活動についても地域のサポート機関が学校の中に一緒に入っているというような連携の仕組みも目指すべき。 | |
○ | 官による統制と、公による制御とは違う。パブリックの概念を明確化し、参画型の社会を作ることと、滅私奉公とは違うのだという線引きをはっきりとさせるべき。 今後、ブロードバンドのメディア環境が整うと、疑似体験が増え、だんだん生身のイメージがつかめなくなってくる。その意味でも奉仕活動や体験活動はますます重要性を増す。福祉だけではなく、環境、文化、教育など色々な分野で頑張っている生身の人間を知る、汗を流すことが尊いことだということを知らしめなければならない。 また、大人の責任を明確にしなければならない。大人社会の責務というものを呼びかけたり、制度設計の提案をしていく必要がある。税制面では、もう一歩進んで、NPO新税のようなものや、社会貢献活動をしたらタックスリダクトされ、しなかった人は税金を納めるといった制度などを提言すべき。大人のバードンシェアリングを明確にしないと子どもたちから理解されない。 | |
○ | 奉仕活動、ボランティア活動、体験活動をはっきりさせることということについては、分科会全体として検討しつつ詰めていくことになっている。答申を出すまでにははっきりとさせていく必要がある。 兵庫県の青垣町という過疎地では、「日役」というものを昔からずっとやっていたが、最近みんなの参加率が悪い、ということで、1日8000円を払えば免除、ということにしたら、若い人はみな、金を出すことを選んでしまった、という話もある。なんでもお金で解決しようという風潮もあるから、その辺を注意して進める必要がある。 | |
○ | 戦後の教育では、民主主義社会の根幹である公を支える権利と義務、皆で分担しなければならない公的空間という観念があることをちゃんと教えてこなかった。 | |
○ | 本当はやらなければならないことを金で済ましているんだ、という罪の意識を持ってもらうことが必要。 | |
○ | 戦後経済的価値が重視されすぎてきた。今後は、人間的諸価値が重要ということを打ち出し、バランスを取ることが重要。 | |
○ | 人間は社会に支えられて生きるということを教えていく必要がある。 そのため、体験を通じて、幼児期から段階的に奉仕をする精神を養っていく。学校に行く前の家庭教育の段階では模倣から始まるが、親や周囲の人が奉仕活動をやっていないから、子どもも模倣することができない。まずは大人が奉仕活動をしなければならない。学校教育では、体験を通じてやってみる。その際、ボランティア、奉仕、体験の区別をつけずに、とりあえずやってみる。その中で「新しい公」を考えなければならない。 滅私奉公と考えている人は、まだ奉仕の心が分かっていない人だ。立私奉公を目指すべき。 | |
○ | 司法制度改革で裁判員制度を作ることが言われている。これが導入されると、今度、子どもにも司法教育が必要となる。この司法教育と、今回の奉仕活動・体験活動とを結びつけて考えることはできるのか。公共性を重視するということでつながる話なのか。 | |
○ | 司法教育については、戦前にあった陪審員制度の手引きや、戦後の「民主主義」の教科書のような冊子を作成して配ることにでもなるのか。 | |
△ | 国民の権利義務など社会の仕組みについては社会科を中心に教えている。新しい司法参加の仕組みができれば、教育課程部会で議論することとなると思う。 | |
○ | 学校教育を通じて司法制度に関連した新しい教育を行うことも必要だが、様々な立場の人がNPOとして、新しい司法参加のしくみについて周知するための活動をするなどの動きを大切にしていくべき。色々なNPOが問題意識を提起し、知恵の出し合いをするような在り方を目指すべき。 | |
○ | 知識や観念だけ教えるのではなく、裁判に参加し、現実に人の運命にかかわっていくことになるという実感をもたせることが重要である。NPOの活動も一つの重要な場。今の学生は、知識はあるが、自分の問題として捉えていない。それを子どもの頃からいかに自分の問題として現実感を実感させていくかが重要。 | |
○ | 戦後教育の中で、規範意識に関する教育が欠落している。アメリカでは、親が子供に向かって、「正直であったか、正しくあったか」という問いかけを日常的に行っている。日本においては、そのようなことはなされていない。人間の基本的なあるべき姿を理屈ではなく、形として伝えることが必要。人間としての文化体系の中で身に付けるべきものを身に付けることが適切な判断力を身につける基礎となる。 | |
○ | 自分一人で生きている人はいないということを学校時代に身に付けることが必要。その際、自ずと身について日常化することが大事で、行事として終わってしまってはいけない。そのためには、意義、目的といったものを上から決めるのではなく色々な活動が様々あることが大事。「これが奉仕だ」と決めるのではなく、事例を多く挙げて提示していくことが必要。 | |
○ | 自分一人ではない、社会に支えられているという基本的なことは小学校に入る前に身についていることが必要。学齢前の時期が大事ということは、生物学的にもわかってきていることである。家庭のみならず、幼稚園、保育園の段階で身に付けることが大事なのではないか。 | |
○ | 具体論が必要である。ミニマムに共通するものは「他」への思いやりの心。それがあれば、何を含めてもよいのではないか。奉仕活動の日常化が大事である。また、家庭において他への思いやりの心としての奉仕をどう涵養していくかを考えることが必要。 | |
○ | 今の子どもは知識としては色々知っているが、いざという時に応用ができない。知識はあるが、知恵になっていない。そこで、体験を通じて、頭で考えるのと、実際やるのとでは違うのだ、ということを教える必要がある。 体験活動を奉仕活動の接点は大きいが、一緒に議論すると焦点がぼやけるのではないか。体験活動と奉仕活動は分けて考えるべき。 | |
○ | 奉仕活動の一般的な在り方と、具体例の両方を知ることが必要である。 奉仕活動が、昔の村落共同体的な自立を妨げる方向の滅私奉公になってはいけない。個が自立しながら、自己の責任で活動する、市民意識に基づくパブリックを考えなければならない。すでにそのような市民意識をもった市民活動が数多く行われており、そのような団体と学校との連携を議論すべき。 | |
○ | 公と私との両立が重要。現在軽視されている公をもう少し考え直し、バランスを取ろうということである。 | |
○ | 先程学校教育を主体として考えてほしいと申し上げたのは、国民会議の流れという前提があったからであり、学校教育に焦点を絞った方が社会的にインパクトがあると思うからである。来年度から新学習指導要領で、総合的な学習の時間が実施される。体験学習を通じて生きる力を育むことを目指していくのだと思う。この生きる力が真に育成されれば、18歳以降の奉仕活動の推進方策を考える必要も多分なくなる。 今回は、諮問にあるように、家庭というよりも、小・中・高に焦点を絞って議論をする方がインパクトのある答申を出すことができると思う。 | |
○ | 規範意識の問題について。まず、電車内での化粧のように、大人が、子どもを理屈で説得することができない場面がある。そんなときには、理屈ではなく、規範意識に沿って説得すればよい。大人がそのようなルールを持って生きているのだということを子どもに知らせるだけでも意味がある。 | |
○ | なぜ奉仕活動なのか、その理念や意義について、一つの社会観として示すべきであり、互いの助け合いによる循環型社会を目指すという方向性を示した上で、奉仕活動やボランティア活動は社会の資源なのだという提言を出せばいいのではないか。 また、奉仕活動と体験活動とは分けるべきである。 ヒアリングなどを聞いていて感じたが、活動を行う際、教員は全力投球で取り組んでいる。今までの教育の方法論とは全く異なるものを要求するものであり、本格的に教員をサポートすることが必要である。 職業には、@経済的な糧を得るための手段、A社会的役割の遂行、B個人の個性や能力の発揮の3つの意義があると思うが、今の子どもには、Aが抜けてしまっている。社会に対する参画意識や公共に対する認識は国民的に衰退している。社会全体でのボランティアプロジェクトの取組が必要である。 | |
○ | 奉仕活動と体験活動とは分けるべき。学校教育の中に体験活動を取り入れていくのは望ましい。平成9年の生涯学習審議会の答申でも体験活動の重要性が謳われている。PTAでも、体験活動を後押しする方向で取り組んできた。学校の総合的学習の時間に、体験活動を入れることを明確化してほしい。そうでないと、高校の進学校などでは、総合的な学習の時間を例えば英語の時間に使うなど、本来の意図と異なることになる。小・中・高と、継続的に学習することが望ましい。その際、体験活動と奉仕活動とを分けてもらうほうが、PTAとして後押ししやすい。学校における体験活動をはっきりと打ち出し、地域と連携していくこと、また、奉仕活動やボランティア活動については生涯学習の考え方も踏まえながら大人社会の中でどうしていくかという責務について提言できればよいと思う。 | |
○ | 学校教育の場合、むしろ奉仕学習というべきであって、方法論として体験学習の形をとるということ。幼児期には、奉仕ごっこ(模倣)、学校段階では奉仕学習、18歳以降の青年については、自発的に奉仕活動、とするのが望ましいのではないか。 |