家庭・地域の教育力の向上に関する特別委員会(第7回) 議事録

1.日時

平成18年3月14日(火曜日) 14時~16時

2.場所

学術総合センター中会議場3・4(2階)(東京都千代田区一ツ橋2‐1‐2)

3.議題

  1. 家庭の教育力の向上について
  2. その他

4.出席者

委員

 大日向委員長、赤坂委員、見城委員、興梠委員、坂元委員、笹井委員、佐藤委員、杉山委員、中橋委員、藤原委員、山極委員

文部科学省

 中田大臣官房審議官、久保生涯学習総括官、大槻政策課長、吉田調査企画課長、高橋生涯学習推進課長、三浦社会教育課長、清水男女共同参画課長、小川参事官、佐藤生涯学習企画官、山本地域づくり支援室長、萬谷民間教育事業推進室長、その他関係官

5.議事録

(1)事務局より資料1、2、3について説明が行われた。

(2)家庭の教育力の向上について、意見交換が行われた。

○ 大日向委員長
 まず総論の、今日の家庭の教育に期待されること、そして、家庭の教育力向上のための支援が目指すべきものは何かについて、ご意見をいただければと思います。本日ご欠席の松下委員さんが、お手紙をくださっており、この総論に関することですので、ご紹介させていただきます。「子育ての目当ては、責任ある社会の一員として生きられる自立した人間育てであると考え、そのために家庭が担当することは何かというと、さまざまな刺激を受けとめる感性を芽生えさせ、必要な基本的生活技術を身につけさせることとも言えるように思います。よく「基本的生活習慣」という、割に抽象的な言葉で提言し、指摘しましたということで終わることもあるかと思いますが、生活習慣という中には、たくさんの細々とした事柄が含まれますが、生活技術の部分を取り上げ、日常生活の中でどんな技術を身につけさせるかといったことも視野に提言を考えることが必要ではないかと思います」ということで、最後に、3行の言葉でまとめてくださっています。「自分のことを自分で始末できるということは自立の第一歩ですが、楽しみながら身につけていく方法を子どもに伝えられるといったことを保護者などが知っていることも、家庭の教育力の一部になるのではないかと思います」ということでした。

○ 坂元委員
 家庭の教育に期待されることは、例えば3ページの資料を拝見すると、「乳幼児から親子の愛情による絆で結ばれた家族とのふれあいを通じて、子どもが基本的な生活習慣・生活能力、人に対する信頼感、豊かな情操、思いやりや善悪の判断、自立心や自制心等を身につける上で重要な役割を担うものです」とあります。従来、こうした親子の愛情のある関係によって、基本的な生活習慣や人として必要な気質など、古来から普遍的であって常識的にも対応できるようなものが家庭教育の対象として想定されてきたのではないかと思います。ところが今日では、もう少し専門的であったり、先進的であって、主体的に学んでいなくては分からないものなども家庭でやらなくてはいけないという事情が生じてきているように思います。例えば安全教育、なかでもITの危険に対応する教育などは典型的で、学校でそういったものを教えることは大変重要ですが、どうしても学校だと、個々の家庭の情報環境が違っていることから、一律の教育に制約があり必ずしも効果的でない場合があります。また、子どもに刺激的な情報を提示したり、ストレスとなるような状況に追い込むようなことは、学校では大変やりにくい。家庭での子どものITやメディアに対する行動を監視し、危険な行動やその痕跡があれば、そこをとがめて適切な指導をすることは、非常に重要です。こうしたものは、従来からの常識で対応できるものではなく、家庭における教育について新しい状況が生じているのではないかと思います。

○ 杉山委員
 家庭教育は、親がその子どもに対して行う私的な教育であるというところは、前提であり、国がどこまで家庭に関して物を言うかという線引きは、常に気をつける必要があると思います。家庭教育の、こういうものが必要であるといろいろ書いてあるものを読みますと、それだけで緊張してしまい、そんなことを考えて子育てしてこなかった部分がある。そのあたりも、現状に合わせれば、子育てをしている家庭ってどうなのだろうというところから考えることは必要だと思います。家庭とはどんなところだろうと考えたとき、子どもも親も家族みんなが居心地がいい、ほっとできる居場所であるとか、そういうものをお互いにつくり合う最小単位の人の集まりなどという部分があってもいいと思います。その中で、人の多様性を学ぶ場所、藤原委員さんの本などを読ませていただくと、斜めの関係というのでしょうか、そういったものをはぐくむ場所というのが前提にあって、そこに、先ほど坂元委員もおっしゃられたような、様々な現状に合わせた教育的な要素が足し算されていくのではないのかと思います。

○ 興梠委員
 私の親が、どう子どもを教育したかといいますと、できるだけたくさん、おじ、おば、祖父母など親戚縁者と深いつながりを持って、自分のルーツや家族に対して誇りを持ち、親だけではなくて、様々つながりを持っている家族が、私たち子どもの教育を支えてきました。実際に教育の現場や家庭教育の現場を見ると、家庭の教育力というのは、地域の教育力の源になります。地域の教育力は、家庭の教育力を支えて育てていくということですが、その間に何かもう一つ必要ではないか。表現をぜひ総論のところでデリケートにしていただきたいと思いますが、家庭になると、親子の関係だけでとらえないで、できるだけ多様な家族の持つ教育力ということに思いを持ちながら書いていただけるといいのではないかと思います。家庭が今、どんどん小さくなっている。核家族化、子どもの兄弟の数も少なくなっていく、相変わらず父親は子育てに関する責任というのはどうも希薄なところがある。そうすると、お母さんと、小さくなっていく子どもが相対峙し合って、非常に孤立化した家庭の中で向かい合っていく。親の言うとおりになる時期はいいですが、思春期を迎えていくと、双方がストレスをため合っていく。そこで様々な事件や問題も起こっていくという現状があります。家庭を親子の関係だけで書かずに、家族の教育力や、家族の子育てに対する責任や関与というのをできるだけ書いていただければと思います。もう一つは、子どもの居場所づくりで、この居場所と言うときには、目に見える居場所と、見えない居場所があるはずです。見えない居場所というのは、子ども自身の心のよりどころです。その原点は、家庭だと思います。子どもが家庭から外に出れば、大人と同じように、競争主義と、管理主義と、市場経済の原理で動く社会の中に出ていくわけです。そこで様々な形で子ども自身の人間性も喪失していく。そうした中で、もう一度家庭に戻ることによって、そういった日常とせめぎ合って生きていくことができるようなエネルギーを得ていく。もう少し家庭の持っている心の居場所的役割ということについても、書いていただければと思います。

○ 見城委員
 理想的な家庭像というものが、この答申の中に何らかのイメージで描かれてしまうということが不安です。現在の家庭は、それは昔もそうだったといろんな人が言いますように、様々な家庭があり、100組いれば100通りです。ただ、現在の社会は、何でもキャッチフレーズでくくってしまうので、「縮む」と言うと、全部社会が縮んでいるなと一斉に全員が思ってしまいます。家庭自体も、拡大家族から核家族へ確かに縮んでいきます。それから離婚や何かで壊れる、そういう意味では理想像とする父がいて、母がいて、子どもがいてというのであれば、「壊れる」という言葉が当たります。それから、「固まる」という言葉が当たると思います。家族が孤立していると言いますが、固まってしまうということ。このことが、今特別に起きていることかというと、私が子どものときにも家族関係が壊れていた家庭もあったと思いますし、どんどん離散していく、縮んでいくお宅もあったと思うのですが、一番大きなことは、社会の中に家族がいたかということではないかと思います。今一番怖いのは、形は様々でいいと思うのですが、共通して言えることは、社会の枠組みの中から外れたことが一番問題ではないかと思っています。ですから、総論としてまとめていくに当たっては、家庭像、あるべき家庭の姿、家庭の教育力の不足などといった言葉が、壊れて、固まって、縮んで、社会から外れてしまっている家庭をさらにはじき出すことがないような配慮が必要だと思います。

○ 佐藤委員
 全体として、親は正しく、子どもは教えられるというトーンで書いてあると思います。最初の総論のところにこそ、親と子はともに育ち合うのだ、一人の人間としてやっていくのだという宣言がないと、今の親子は、やっていけないのではないかと思うので、そこのトーンをまず今回は変えたほうがいいのではないかと思います。なぜかというと、親は結構頑張っている。お母さんたちにヒアリングしてみると、よその子が遊びに来て、悪いことをして、「お母さんには言わないでね」と言って帰ると、皆さんおっしゃいます。そういう意味では、家庭はそれなりに意識されていて、逆に家庭が結構厳しいところになっていて、不登校の子どもの親御さんも、子どもを放っておいたからああなっているのではなくて、逆にすごく面倒見ているからということがある。その中で、親は正しくあらねばならないと言われると、非常に難しくなってしまう。これから大事なことは、親も子も、プライドを持ちながら生きるとはどういうことかということを共有していくということだと思います。その中に様々な、ここで言われているような生活能力や思いやり、そういうものがみんな含まれているのだと思います。細かく規定して、こうやりなさい、ああやりなさいということではなく、もっと根本的な問題をともに考えることを始めないと、難しいという気がします。家庭をどうやって社会に開いていくかが、これからは大事かもしれない。そういうことも、総論のところで触れていくほうがいいのではないかと思います。

○ 中橋委員
 家庭の教育力をイメージするとき、都会の小さくなってしまった家庭をイメージした話になっていると思いますが、田舎では、まだ大きな家族がたくさんあります。祖父母の役割が、過去の報告などでは「これに準ずる者」という書かれ方ですが、子どもの基本的な生活習慣・生活能力や、信頼感など、親ができていないところを祖父母に補ってもらいながらはぐくんでもらうことなども、イメージの中に入れておいていただきたいと思います。

○ 見城委員
 基本的な考え方として、教育なのか、学習なのかということがあると思います。社会教育のあり方としては、家庭教育を親がその子どもに対して行う私的な教育であるというのもわかるのですが、親も子どもも育つという感覚が最初にあるとよいと思います。最初から教育と言うと、教育に失敗した自分は親として失敗かとはじかれてしまう。育てる側も育つ側も、一緒に育っていくということが重要で、教えるという前に、育つということが少し前面に出るような表現で入っていただけるとありがたいと思います。

○ 赤坂委員
 私のところは、幼稚園と保育園両方の一体化施設ですが、親育て・子育てではなく、親育ち・子育ちを目標に保育を展開しています。お母さんたちを見ていると、お母さん自身が、子どもの育つ姿を見て、うれしいとか、おもしろいと感じながら、まさに教育というよりも、子どもの育つ姿を見ながらみずからも学んでいく。子どももみずから学んでいく存在、親もみずから学んでいく存在だと思います。それをサポートすることが今の時代とても大事で、今までなら、親育ち・子育ちが地域や親族の中で支えられていたものが、今孤立する傾向にある。そこに視点を置きながら、家庭の教育力ということを考えることが大事かと思います。

○ 大日向委員長
 私なりに家庭教育に携わらせていただいて、家族とか家庭教育を考えて、やはり月日の流れを痛感しながら皆様のお話を伺っていました。ご記憶の方も多いと思いますが、1994年に国際家族年がございました。そのときに、何人かの方がおっしゃったことと同じことが、理念として掲げられました。たった一つの理想の家族を求めることはやめよう、家族は10あれば10の形がある。でも、一番大事なのは、その家庭・家族で暮らす人たちが、だれかがだれかの犠牲になることなく、その人らしく伸びやかに生きられる場でなくてはならない、そういう家族を目指そうと言ったのが、94年の国際家族年でした。ただ、当時はあちこちでイベントはやられたのですが、この理念とは何かミスマッチのような、やはり家族は、家庭はこうあるべきみたいなイベントも多かったと思います。そして、この資料の中にもあります平成14年に、今後の家庭教育支援の充実についての懇談会報告、ここに私も携わらせていただいたのですが、ここで大きな転換があったと思います。それは、おそらく文科省がお出しになった答申報告の中で、子育てやいろいろな子どもの教育は、家庭の中だけではできない、社会の宝として、社会の皆で支えなくてはいけないという文言が前面に出たのが、この懇談会報告だったと思います。この審議会の中で、皆様からそれに即した、さらに何歩も前に進んだようなご意見を出していただいたことを、とてもうれしいと思って伺っていました。家庭の教育力は果たして低下したのだろうか、むしろ興梠委員がおっしゃるみたいに、地域の力そのものが低下したから、自動的に家庭や家族のあり方が弱体化して見えるのではないかという前提も必要だと思いますし、家庭は入れ物です。その中に暮らす人々は親と子だけではなくて、ペットも含めていろいろな方々が家族としてかかわったときに、そこに「ともに育ち合う」というキーワードを入れたらどうかとか、大変斬新なご提言が、次々に委員さんから出てまいりました。家庭教育という名称は、変えられないかもしれませんが、家庭学習や、家庭共育ちなどと、もしできるのであれば、それはまさに大変すばらしい、画期的なことだと思いますが、それも、今後の皆様の議論から検討課題としていただければと思います。

○ 山極委員
 家庭教育というのは家庭だけではないと痛感しております。具体的事例をあげますと、資生堂では2月18日に、父と子どもを対象に「父親のワークライフバランス塾」を開きました。土曜のひととき、母親には自由時間を楽しんでもらい、性別役割分担を平準化させようという狙いもあって開催しました。父子30組が目標だったのですが、31組になり、非常に活況を呈しました。父親がわが子と一緒に読み聞かせを楽しんだり、同じ子育て中の父親と意見を交換したり、子供たちは読み聞かせをして下さる人の前に行って、顔と顔が触れ合うぐらいまで近づいてコミュニケーションを図ることは、教育力が高まるといえるでしょう。第2部は、男性たちを6つの班に分け、分科会を開きました。当初、男当初、男性同士の初顔合わせは、コミュニケーションができないのではという心配もあったのですが、皆さんふだん悩んでいることを打ち明けたり、子育てについて真剣に考えたり、笑ったりし、大賑わいでした。そういう姿を見ると、会社で男性育児参加セミナーを開催する意味があります。セミナー終了後は、メーリングリストをつくってほしいとか、それがきっかけで輪が広がっていきました。次は、地方の支社でやってみようということになりました。企業も次世代育成を行いつつ、教育力に寄与することができると思いました。

○ 藤原委員
 和田中学校では、修学旅行は京都、奈良に行っていません。3年生の5月に農村に行きます。一昨年は猪苗代、去年は新潟でした。ここで、集団でホテルに泊まるのではなく、四、五人ずつ分けて、兼業農家ですけれども、そこに分宿をします。たった2泊3日ですが、最初の日にみんなで田植えをしたら、その後全員分宿をして、その家族と一緒に暮らすことになります。大概が3世代一緒に暮らしていますので、先方が大体5人以上います。ですから、その家族の中にマイナー集団として巻き込まれて、兼業農家の方からすれば、ちょっと家族が3日間増えるというところです。翌日にはもうファーストネームで呼んでくださるような感じになり、閉村式には、女子の全員、男子の約半数が、泣いてしまいお礼の言葉を述べられないという感じになます。これを3年続けていて、気づいたことがあります。最初は、農業体験がいいのだと思っていました。はだしになって水田に入りますと、その下の土のごぼっという感じが何とも最初気持ち悪い。女の子は、ほんとうに最初嫌そうでしたが、その後もうたまらないという感じで行くわけです。これがいいのだと思っていたのです。ところが帰ってきまして、非常に注意深く感想を聞いたり、その後書く作文などを読んでいますと、そうじゃないことがわかりました。何に彼らが感動するかといいますと、農村で――農村といいましても、新潟も、猪苗代も、コンビニもありそれなりに都会化しています――その家族の時間がつながっているということに気づくのです。家族全員が、3世代つながっていることもあります。大抵赤ん坊もいて、犬もいて、全部つながっている。それから、そこでつくられる作物をそのまま出してくれる。食べるということについてもつながっている。朝作業に出ていって、戻ってくるとおばあちゃんが「お帰り」と言ってくれる。昼出ていって、戻ってくるとおばあちゃんがまた「お帰り」と言ってくれる。夕方作業に出ていって、また帰ってくるとおばあちゃんが「お帰り」と言ってくれる。今、都会の子は7割方が、家に帰っても「お帰り」と言われていない。そういう「お帰り」と言うべき人がいないのです。農業体験そのものよりも、このきずな、もしくは時間、空間、世代、食べ物、その他すべて世界がつながっているところに自分がつながったことで癒されるということがわかる。和田中は、人数が増えても、絶対に四、五人という形でしたいと思っています。マイナー集団がいいのです。この家庭の教育力というのが、ぴんとこない。父親、母親、2人の子どもという標準世帯というものがもう崩れていまして、あと数年で単身世帯のほうが多くなるわけです。さらに教育力というのが崩壊している例を私は現場でもう何人も見ています。そういうことより、むしろ、つながっているのか、つながっていないのか。私は、家庭であれ地域社会であれ人間はつながっている中で育てば育つ、つながっていない状態になったから育たないとシンプルにとらえています。ではそのほころびはなぜ出てきたのか、もう一回つなげるためにはどうしたらよいか、一番つながることを阻害しているものは何なのかをはっきりさせたほうが、この委員会は極めて目的志向の高いものになるだろうなと思います。具体的に言えば、テレビです。これが家族のきずなをほころばせていることははっきりしていますし、あるいは携帯をむやみに小中学生に与えていることも大きいと思います。最後に言えば、テレビ、テレビゲームで一日3~4時間、それから中学2年生ぐらいになりますと、携帯メールで一日2時間、こういうものが家族のつながりを断ち切っていることは確かなわけで、こういうメディアをほうっておいて、学力が下がったことを学校のせいにしても、何の意味もないと思っています。

○ 笹井委員
 委員長がおっしゃったように、社会の宝として子育てをしようというのは、すごく画期的で、これまでの子どもは家庭で育てるべきものだということを大きく転換させるものだと思います。その方向は基本的に私も大賛成ですが、子どもは、特に親がしつけることで育っていくのではなく、ほうっておいても育っていくものだという、先ほどの子育ち・親育ちという主体性を持った言い方にあらわれていたと思うのですが、そういうものではないかと思います。5年前オランダに行って、オランダのお母さんたちに、家庭とかしつけについてインタビューしたことがあり、そのときに、「しつけ」という言葉はオランダ語に訳せないと言われました。一番近い言葉が、英語で言う「レイジング」と言っていたのですが、自動的に育っていくことということです。子どもは、特にしつけなくても育っていくものなのだという基本認識が、その国の人たちにあるからだと思います。そう考えていくと、家庭の教育力と言うと、その親が教育するというようなことで、どうしても狭く考えがちですが、そうではなく、子どもがいろんなしつけにかかわる情報を得るパイプや、チャンネルというのが今親だけになっていて、そういうチャンネルを、地域のおじさん、おばさんや、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん、など子どもが育っていくための情報を得るようなパイプそのものを増やしていくことが大事だと思います。家庭の教育力と地域の教育力というのは、リンクしている問題なのです。

○ 坂元委員
 先ほど家庭の教育力の低下というのは、本当は低下しているのではなく、地域の教育力の低下というものが前提にあるのではないかというお話がありました。これに加えて、近年ではテクノロジーなどが発達してきたため、例えば犯罪の手法も高度化するなどといったことがあるために、家庭に期待されるものが増えてしまい、基準が高くなった結果、教育力の低下と認識されてしまうということもあるのではないかと思います。必要なことが増えてしまっているということです。親にばかりが、そこに対応していかなければならないということだと、今でもすでに苦しい状況があるのですから、機能不全が起こってしまうかもしれません。社会全体でどういうふうにこのような問題を支えていくかということが重要になるだろうと認識しています。

○ 見城委員
 子育ては、子どもを社会へ送り出すプロセスだと思います。私は自分の子育てで何か迷うとそう思って、これで社会に出していいものだろうか、では社会へ送り出すために何がたりないのかといつも問いかけながらやってきたつもりです。実は家庭こそ、最初に社会へ送り出す、大変なエネルギーの必要なところとらえています。それを総論の最初に、社会とのかかわりとして、何らかの形で書いていただけたらと思います。家庭の格好は様々ですが、共通して言えることは、社会へ送り出すプロセスのために、親は百人百様の形で努力することだと思います。それから、先ほどしつけということが出ましたが、私はしつけに対しては、もう一つ別な観点を持っており、多分英語にはないというのは、英語の洋服は、仕付け糸が基本的に必要ない。だけど日本の和服というのは、一応全部縫っていった後に、仕付け糸でおさえる。それをとったときにある程度和服の形が整っている。しつけの基本の仕付け糸は、一つ一つくくらずに、ぴっと抜けるようになっている、全部玉をつくってとめてしまうのではない、こういった日本人の、社会へ出ていくまでとりあえず糸を通して仕付けて、ここは真っすぐ行ってもらいたいとか、折れたら困るんだとか、その気持ちが込められている。それをできたら酌み取った形での解釈というのができないかなと、そんなふうに思いました。

○ 興梠委員
 二十数年前新聞記者として、イギリスに滞在をしていたときに、イギリスのジャーナリストがいつも日本人の私に向かって「これだけは理解できない」と言っていたことは、親子心中です。子どもも一緒に道連れにしていくという、イギリスの友人から見ると、信じられない出来事。子どもは親の子であり、家族の子であると同時に、社会の子という3つの意識です。今は、どうも親の子育てに関する責任論で、下手すると自己責任で追い詰めてしまう。一方で、自分の子育てを放棄して保育園、幼稚園や学校にゆだねてしまうという非常に極端な動きがあると思うのですが、もう一回、子どもは一体だれの子なのか、きちんと整理した上で、いわゆる子育てに関することを広げていくといいのではないかと思います。

○ 大日向委員長
 家庭の教育力向上という、何か狭い概念で考えることには、ほとんどの委員の方は嫌だとお考えになっている。親の責任ということから入っていくから、家庭の教育力が非常に狭くなっていく。しかし、子どもの育ちをどう支えていくかと視点を変えていくと、小さな単位としての家庭・家族も大事なもので、その子どもの育ちをさらに最終的に受けとめてくれる社会というものを見据えて、私たちは、家庭のことをどう論ずるかというように、視点をちょっと変えていくことも必要かと思います。

○ 笹井委員
 1番目のテーマのきめ細やかな家庭教育の支援について、行政がどう支援するかという政策のレベルで考えると、家庭教育支援とは非常に特殊ではないかと思います。もともと家庭というのはプライベートな世界であり、かつ個々の家庭の事情によって、子育てやしつけの中身も全然違う。一つの意見や考え方が別の家庭で有効かどうかということも非常にわからないところがあり、とても個別的な事柄だと思うのです。それに対して行政が政策としてどう対応するかと考えると、一つの行政作用として考える場合には、どうしても画一的な対応にならざるを得ないという原理的な問題がある。つまり、一般的に言えば、行政というのは、統治者と被統治者との関係の中で、法律の執行や、規則、何か特定の考え方の執行ということで、画一的、公平にそのサービスを提供すると考えてきたわけです。家庭教育支援とは、なかなかそれになじまない。だからこそ、これまでは行政は消極的だったのではないかと思います。しかし、もう少しとらえ直し、考え直していかなくてはいけないと考えると、これまでのようにサービスをする人、される人、あるいは統治者、被統治者という二元的な関係ではなくて、その間に中間的な団体、中間的な個人、これはPTAやNPO、あるいは地域の家庭教育支援のリーダーであってもいいと思いますが、そういう中間的な人というものを介在させることがとても大事かと思います。政策のタイプとして、これまでのサービスの供給者と受益者を考えるのではなく、中間的な組織や団体や個人というものをそこに介在させることで行政が間接的に家庭教育支援をするという方向が望ましいのではないかと思います。したがって、行政は、中間的な個人や団体、いろいろな組織をどう仲間にして協力してもらい、どうそれをコーディネートしていくのかということが政策の中心になり、そういう方向で考えていく必要がある。そこに介在することになる団体や個人というのは、地域の人あるいは地域の団体です。家庭教育の問題と地域づくりの問題がそこで連携する、つながる接点があるのではないかなと思います。もう一つは、きめ細やかな家庭教育支援の関連です。東京都の子育てサポーターの人たちといろいろなことで話し合うことが多いのですが、そういう個々の家庭の個別的な事情に応じたきめ細やかなサービスをする場合に、一定の場所、公共空間として、みんなが気楽に来れる場所が必要だと思います。それがないと、細やかな家庭教育支援について第三者を介在させてやったとしても、うまく機能しない。家の中にずっといたくないというお父さんやお母さん、特にお母さんが多いので、そういう人たちが気楽に来れるような、真の意味での公共空間というものが地域にあれば、そこでいろいろな話や、あるいは夢サポートというものを受けられるのではないか。そういう場をどうつくっていくかということも、行政上の一つの課題ではないかと思います。

○ 杉山委員
 4点あります。1点目は、私は割と乳幼児期の子育て中の親と接する機会が多いのですが、そのときに感じるのは、親の自己肯定感が非常に低いということです。割と自分が認められていない、私のようなものがとか、私ごときがとか、そんなことを思いながら子育てをするため、子どもの自尊感情は育たない。まず、親が自己肯定感をしっかり持って子育てに向かえるようにするにはどうしたらいいのか、家庭教育、別の言葉があるのかを考えていくことが必要かと思います。次に、例えば子どもの場合、最近、朝の時間に読書の時間を設けましょうということがあるかと思いますが、特に専業主婦の母親は、ほとんど読書をする時間もない、子育てに追われているわけですから。何かやろう、「早寝早起き朝ごはん」って言われても、どうしてそれが必要なのかということを学ぶ時間もないという状況ですので、まず母親に子どもとちょっと離れて本が読めるという大人としての時間をどう提供していけるかということが、この支援の中にも入っていけるといいのではないかと思います。3点目は、これからはシニア世代の方たちが子育てを応援してくださることが大事なことだろうと思いますが、世代間の意識のギャップが相当あるので、今どういう状況になっているのか現状をきっちり学んでいただいて、だから何が必要かという、そういった子育て支援ができるプログラムが必要であろうと思います。具体的に子育て支援をやるというプログラムだけではなく、地域全体の中でどういう応援ができるか、最近、「コミュニティーワーカー」という言葉もありますが、そういった地域のコミュニティーをどう育てていくのか、子育てに特化するのではく、地域全体を見るような、そういった学びの場の提供も必要ではないかと思います。その場合、上から何かを押しつける指導ではなく、その人の持っている力を引き出す、自己肯定感を持たれるような支援をできる指導のあり方というのが必要だろうと思います。最後の1点ですが、文科省が提供している番組の企画審査をさせていただいているのですが、そこで感じるのは、ああいったところが、子どもたちが情報を選んで、それで情報発信していくというような学びのプログラムというのをつくれるのではないのかなと思っていて、よくアメリカやヨーロッパでも、プロが番組づくりを子供たちに指導する、実際に番組づくりをスタジオでさせることをやったりしていて、これがテレビ局にとっては社会貢献、になる。「早寝早起き朝ごはん」などの提供をするときに、テレビ業界としてどうしたらいいのかということを、考えていく必要もあると思うのですが、まだその機会がなかなかないのかなと思いますので、こういう場でやれるといいのではないかと思いました。

○ 佐藤委員
 2の子育ての楽しさの実感について、子育てが大変だから子どもは産まないと言われており、こういうことにつながっているのだと思うのですが、楽しさを知るというよりは、成長実感につながるということのほうが正しいのではないか。結構しんどいことはたくさんあっても、その中で親が育っていくという実感があるからやっていける。アメリカの家庭を幾つか訪問したときに、なぜ子どもをと聞くと、自分が成長できるということを言っている。多分、育てた人の多くは、自分が成長したという意識を持っているので、それがわかれば、今の若い人も成長実感を得たいと思っていますから、そういう機会になると思ってもらったほうがいいのではないか。自分にとってマイナスだけではなくて、プラスになるということです。それは楽しいということだけではないと思います。その辺の打ち出し方は、少し考えたほうがいいのではないかと思います。次ですが、父親の家庭教育の参加の促進も、お父さんの子育てと言うと、どうしてもお母さんと一緒のような感じになるのですが、海外を調べたときに、お父さんの存在感の出し方は、国により様々だと思いました。それは家庭によっても様々だと思うので、お母さんのお手伝いをしましょうということではなく、いろいろな形でお父さんというものの存在感、父の復権みたいな話ではなく、子どもに絡んだお父さんの存在感というものをいかにつくっていくかを考えたほうがいいのではないか。例えば、スウェーデンでは、スポーツに連れていくのはお父さんがやるとか、地域のスポーツスクールの先生をしているのはお父さんであるとか、そういう形の父親の参加というのも十分にあり得るのではないでしょうか。ですから、地域に参加することがお父さんの存在感を増すというやり方も考えられる。もう1点。1の(5)で親を支援の受け手じゃなくて自立支援につなげるという、ここはとても大事で、例えば次世代法が出来て育児休業できる期間が長くなっています。でも、休んでいることが仕事のブランクになると感じストレスにもなる、また仕事のキャリアがどうなるか不安だということを言っていました。仕事との関係でいえばもう少し選択的にいろいろな形で育児にかかわれるようなことを考えなくてはいけない。育児休業期間中にも、例えば勉強ができるとか、会社の情報が入り自分が育っていけるようなことも担保しながらやっていかないと、お母さんは大事だから、家にいて教育してもらえばいいというだけでは、済まないのが現状ではないかと思います。

○ 山極委員
 2点あります。1点目は32ページで、子育てに父親の参画が少ないのは、30代男性の労働時間が長いことが1つの理由だと思います。大事なのは、ポジティブな視点、つまり、男性の育児参加することによって地域との交流や、お客様の視点に立てる、その結果、付加価値の高いサービスや商品を提供できるようになります。このようなプラスがあるのだということをつけ加えていただきたいと思います。次の2行目ですが、企業側の制度・意識改革が必要と書いてありますが、この間いろいろやってみましたところ、これだけではだめだと思いました。つまり、一意識と行動の改革、両方必要です。頭でどんなにわかっても、行動を起こさなかったら、それは何も意味がありません。そこで、例えば当社の事例ですが、昨年4月に2週間の有給の育児休業という制度をつくったら、この3月末で12名の男性が利用しました。社員のニーズに合致した制度をつくり、それを利用しやすくする風土を醸成することで、行動も変わります。取得した彼らにヒアリングすると、会社では得られない情報が得られ、多様な価値観にも触れることができたと言っております。もう一点は19ページです。これまでの主な施策ですが、この幼児教育総合化推進事業、それから、幼稚園における親の子育て力向上推進事業の中に、成果ということについて触れていますが、指標があれば教えていただきたい。私たちも行動計画を策定しこの1年間、かなりいろいろなことをやってきましたが、単に実施しただけではだめなので、どういう成果が出たのかというのを明確にしたほうがいいのではないかということになりました。課題は、評価・成果の物差しがないので、4月から物差しづくりをやろうかと考えております、成果が出ることによってもっと説得力が出て、予算もとれるでしょうし、社会から評価される事業が推進できるのではないかと思っています。

○ 興梠委員
 4点あります。私たちは、世田谷チャイルドラインという、子どものための24時間電話をやっていますが、子どもだけではなくて、親からの電話が非常に増えてきています。当然、そういう場合には、虐待防止センターそのほかの電話を紹介するのですが、虐待防止センターなどの活動をやっている友人に基本的にはどう対応するのかと聞きますと、一言で言うと、自分を責めてはいけないということです。子育てを孤立化させてはいけないということです。と同時に、こんなに子どもたちを育ててくれる人がいる、こんなに子どもたちが育つ場や環境が地域にあるのだということを、できるだけわかりやすく、知らせていくということ。そして、みんなで責任を分担し合ってこそ、その子どもたちは育っていくのだということを特に1のあたりでは書いたほうがいいのではないか。と同時に、2の子育ての楽しさの実感ですが、おそらく想定していると思いますが、ともに子育てに参加することの楽しさということ。一緒に子育てをやることの楽しさも、触れていただきたいと思います。3つ目ですが、子どもの居場所づくりを国がやっているのですが、全国回ってみて、これは大変大きな反響もありますし、大変いい施策で成功していると思っています。ただ、そこの中で課題になっているのが、日常的に子どもが選んでいける居場所というのも必要です。例えば大体全体の4割ぐらいが、学校がいろんな場を提供していると言うのですが、子どもも家族も自分なりのライフスタイルで動いている。そのときに、土曜日、日曜日にプログラムを提供する、放課後に提供するというだけではなく、いつでも、行けるときに行って、そして、様々な子どもたちや大人たちと交流ができる居場所、つまり、日常的にあって、子どもが選べる居場所というのが必要です。これも、私たちがやっている冒険遊び場プレーパークというのは、日常的にあるわけです。学校の帰りと塾の間に15分しか来ない子どももいます。そこは、保護者の人たちや、地域のおじさん、おばさんたちの居場所にもなっている。そういう面では、特化した形で家庭ということでとらえるのではなく、様々な日常的な子どもたちの居場所とリンクすることにより、家庭の子育てというのは高まっていくのだということを表現していくと同時に、親たちの居場所づくりということも、少し関連づけていただければと思います。そこは、いろいろなものが考えられると思うのですが、市民運動でやっているような、冒険遊び場もそうですが、公民館というのは、私は非常に大きな、重要な役割を持つだろうと思いますので、そこを強調すると同時に、青少年の社会教育施設です。例えば今、市町村がつくっている青年の家、少年自然の家というのは、どんどん消えつつあって、予算も削られている。これから、国の少年の家や青年の家がどういう役割を果たすかということも、かなり重要だと思います。親元を離れて子どもたちが共同生活を体験していくような場も大事で、そういったものに対する重要性とリンクして子育てを考えていくことの大事さも書いていただければと思います。最後に、指導者の問題ですが、私たちは、居場所づくりのコーディネーターを担っていく人たちの研修をどうすればいいのかということのまとめをしているところです。一番基本になるのは、指導者がどういう子ども観を持つかということです。したがって、せっかく親も子もともに育ち合うというのであれば、地域の人たちも一緒に子どもと育っていく。子ども観をしっかり持てるような、そのためには、従来型の子育て観ではなく、一遍そこでフィルターを通してもう一回勉強し直して、子どもをどう見詰め、子どもとどうつき合っていくのかということの研修システムをきちんとやっていくことも大事だと思います。

○ 坂元委員
 2点あります。1点目は、1のきめ細やかな家庭教育の支援に関して、これは広い層に教育活動を広げていくということを想定したものだと思いますが、そのときに幼稚園はもちろん重要だと思うのですが、学校との連携によって広げていくことが効果的かと思います。例えば、ITの影の問題について、今できるだけ広いご家庭で対応してほしいという社会的要請があります。学校にはほとんどのお子さんがいるわけですが、そういったお子さんにIT問題の授業をして、その授業での学習内容を家に持って帰ってもらって、親御さんに、コメントを書いてもらい、戻してもらうということを行って、IT問題としてどういうものがあるかを知っていただき、それについての啓発を進めることが可能です。実際に、このような実践は見られており、かなり効果的であるように思われます。こうした学校との連携も重要かと思います。2点目。(11)の、テレビメディアの教育力の活用やITの影の問題ですが、これはテレビの長時間視聴によって生活リズムが崩されていくという問題として提起されているのだと思うのですが、だらだらと長時間見るということは、時にはストレス解消という意味もあろうかと思いますが、やはり基本的にはリズムを崩したり、行動や活動のレパートリーを制約することなどがあり、あまり勧められないものだと思います。ただ、教育的なテレビのコンテンツというのは、従来から効果的であるとされています。また、今後デジタルテレビが出てきますと、そういった教育力もアップしていくことも期待されるところで、最初からテレビの視聴を遠ざけてしまうのではなくて、問題性は問題性として、それを抑えるように考えながら、テレビメディアの持っているその恩恵の部分は享受できるようにしていくべきものだろうと思います。それから、IT影の部分ですが、どうしても家庭でやらなくてはいけない部分があり、家庭における教育が期待されるところで、学校との連携、その他いろいろな手段で家庭の浸透を図っていくことが望まれると思います。ただ、既に親御さんもいろいろ忙しくて大変な状況がありますから、少しでも楽にできるような支援をどう考えていくかが大変重要かと思います。

○ 大日向委員長
 今日いただいたご意見は、従来の家庭の教育力という言葉で考えられていたものを、ある部分は根底からかなりドラスティックに覆すような、そういうラディカルなご提言をたくさんいただいたと思います。それは決して突飛な、あるいはラディカル過ぎる意見ではないと思います。むしろ現実のほうが、もっともっと進んでいるということであって、現実社会、地域とどうリンクしながら、家庭の問題、親の問題を考え続けていくかということが、この委員会に託されているのではないかと思います。

○ 見城委員
 ホームページなどITに関しては、親よりも子どもの方が進んでいますが、一番足らないのがルールです。ルールづくりを、学校、家庭と組んでしないと、また事件が起きるのではないかととても心配しています。きちんと何らかのルールづくりを、個人の場だけれども、それは非常に社会的な場であり、そこはネット社会なのだということをしっかり教えられる家庭のしつけと、学校教育との連携が、早急に必要だと思いますので、ぜひ入れていただきたいと思います。

(3)事務局より、今後の日程について説明が行われ、閉会となった。

── 了 ──

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