教育制度分科会(第7回) 議事録

1.日時

平成13年9月5日(水)10時~12時

2.場所

文部科学省別館第5・6会議室

3.議題

  1. 新しい時代における教養教育の在り方について自由討議

4.出席者

委員

 鳥居分科会長、佐藤副分科会長、梶田委員、志村委員、杉田委員、竹内委員、田村委員、永井委員、船津委員、茂木委員、森委員、横山(英)委員

文部科学省

 結城官房長、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、名取主任社会教育官、山中政策課長、その他関係官

5.議事録

(1)鳥居分科会長から、ワーキング・グループメンバー案及び今後の進め方についての提案があり、了承された。

(2)田村委員より、参考資料「マナーの教育はどうなっているか」の説明があった。

(3)資料1に基づき、答申をまとめるにあたり、盛り込むべき内容等について自由討議が行われた。

○ 鳥居分科会長
 今日は、資料1として、今までの6回の審議で先生方から御審議いただいて出てまいりました論点を列挙型で書いたものをお配りしてございます。これを御点検いただいて、自由討議の形で今日も御審議をお願いしたいと思います。ただ、最初に申し上げましたように、最終報告を視野に入れていかなければいけませんので、最終報告書のフレームワークといいますか、章立てといいますか、そんなものについても御意見をいただければ大変幸いだと思います。そういう意味でも、事務局のほうでゴチック体で書いた字がありますけれども、1ページ目でいいますと、「『新しい時代における教養』とは何か」とか、次のページへいきますと、「初等中等教育段階」について考えるべきことがどんなことかとか、一応の章立てではありませんけれども、それに近いものを書いてくださってあります。このことも御点検いただきたいと思います。
 あと何回やるかについて、先に説明していただいたほうがよろしいですね。

○ 事務局
 資料3でございますけれども、今まで意見発表者からいろいろ御意見を伺いましたので、それも踏まえまして、本日、全体的な議論をしていただきまして、前回鳥居分科会長のほうからも、ワーキング・グループのようなものをつくったらどうかということがございましたので、これからお諮りすることになると思いますが、ワーキング・グループのほうで2回程度案を練っていただいて、10月10日の分科会で、それをもとにした議論を全体でまたやっていただきます。更にその議論を踏まえたワーギング・グループの会合を開いていただきまして、11月5日ごろにもう一度その案について御審議いただくというような日程ではいかがかということでございます。ワーキング・グループである程度まとまりました段階で、全員の先生方にはそれをお送り申し上げまして、また御意見をいただくというような作業にさせていただきたいと思っております。

○ 鳥居分科会長
 資料2に、原案として「ワーキング・グループメンバー(案)」を用意してございます。
 ワーキング・グループをお願いするのは、木村先生、田村先生、永井先生、阿部先生、杉田先生、竹内先生にお願いしたいということなのですが、こういうメンバーで、大変恐縮ですが、最終報告に向けての作業をしていただく。今、事務局からお話がありましたように、今日のわれわれの審議の後、ワーキング・グループで2回ほどやっていただきますので、そのことも視野に入れまして、いわばワーキング・グループに注文をつけるという形で、今日は御審議をいただければ幸いだと思います。
 それから、別途お配りしてあると思いますが、田村先生からの、マナーの教育についての御論文の抜き刷りをお配りしてあります。このマナーの問題も、新しい教養教育の答申の中にどんなふうに取り入れるか重要なテーマだと思いますので、このことも含めて御審議をいただきたいと思います。
 それでは、自由討論ということにさせていただきますが、もし田村先生、よろしければこのマナーの問題について御発言をちょっと。そこから始めたいと思います。

○ 田村委員
 実は『児童心理』のほうから要望がございまして、55周年の記念で特集をやりたいのでということで、マナーについての教育とのかかわりを家庭の主婦、あるいは学校の先生方に考えてもらう特集をやりまして、その中で依頼されて書いた文章でございます。
 ちょうど教養ということが議論になっているわけですが、教育を受けた人と教養のある人というのはちょっと違うわけです。ただ教育を受ければ、教養があるというわけにいかない。教養がある人というのは、教育を受けた受けないにかかわらず、受けた人が多いのですけれども、受けなくても教養のある人になれるという、その辺のところが一つポイントだろうと思います。
 ということになりますと、高等教育だけで教養教育を考えるのはちょっとずれてしまうところが出てくるのではないだろうかという意味で、その視点をマナーに――マナーというのは「文化の型」と考えているわけです。文化というのはマナーの総集と考えるという前提で文章をまとめております。この「文化はマナーの総集である」という考え方は、ルース・ベネディクトなどが『文化の型』という彼女の最初の学術論文に提言している大変おもしろい考え方なのです。そういう部分を、戦後、もしかするとこの50数年の教育の中で、意識的に、あるいは意識しなかったかもしれませんが、我が国では教育から少しずつ外してきたという問題点があったのだろうという気がします。
 直接的には、「文化の型」が違うのだということを指摘してくれたルース・ベネディクトの例の「恥の文化」「罪の文化(原罪意識の文化)」という『菊と刀』の衝撃があって、「恥の文化」は遅れているのだという間違った考え方がインプットされてしまったということから、「恥の文化」が形成してきた我が国のいろいろな「文化の型」を意識するしないにかかわらず、次の世代に伝えるものとして失ってきてしまったということが、教養教育が議論される根本的な大きな問題なのではないかという気がしているわけであります。
 テレビを見て気がついたのですけれども、新宿でビルの火災がありまして、通った人が手を合わせて拝むわけです。全然拝まないで平気で行っちゃう人もいるわけですけれども、拝む。あれはヨーロッパやアメリカの街角でも、ああいうことがあると、そういうことをする人がいます。しかし、向こうの人と日本人は全然やり方が違うのです。日本人は日本人のやり方で拝んでいる姿がテレビで出ていまして、これも一つの「文化の型」だろうと思いますが、そのようなことをほとんど意識しないできてしまったのではないかということが、教養教育を議論するときの根本的な問題ではないだろうかという気がするわけです。
 このことを孔子は「博文約礼」という言葉で『論語』に残しているのですが、人格の完成は、「博文」、つまり知識をたくさん得ることと、それから「約礼」、礼、マナーというか、これをきちんと身に付ける、この二つが相まってなされるのだということを、『論語』の中で弟子に伝える言葉として残しているわけです。このことを今日的にもうちょっと考える必要があるのではないか。
 といっても、孔子は「約礼」を実行しているわけですけれども、そのことを周りの人から、孔子は出世したいためにああいうふうに礼儀正しくしているのだと、そねみというか、陰口を言われていることを非常に気にしていたそうです。なかなかにマナーを守るというのは、孔子様でも非常に難しかったという部分があるので、教育にどう取り入れるかというのはなかなか難しいと思いますが、これを教養教育の中でもどこかで指摘していただく必要があるのかなと思って、提出させていただいたわけであります。
 それから、一つだけ申し上げさせていただきたいと思ったのは、教養教育というのは最終的には人と人とのつながりの問題を考えることだと理解しております。この間、スペインの哲学者のオルテガの論文を読んでいたら、文明の度合いというのは人と人とのつながりを強くする方向で文明が展開していく。野蛮な世界というのは、孤独で、人間と人間のつながりが弱いけれども、それがだんだんに強くなっていくことが文明の社会をつくっていくことと全く比例していくのだということで、人と人とのつながりを重要視している。それが進んでいくことが文明なのだということを書いている文章を読んで、なるほどなと思ったのです。教養教育が議論されるのは、根本的には人と人とのつながりをいかに伝えていくか、それがいかに社会に広がっていくか。教育がそれにどう役立つかということも大事なことだと思いますが、そこがポイントかなと思って、それは別の言葉で言うと「マナー」になるのだと思います。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。

○ 今の田村委員の御発言に関連してでございますが、私、学者ではないので、間違っているかもしれませんけれども、私の理解ですと、人間がいろいろな物を言ったり行動をする場合、コントロールされるものとして規則とか、法律というものがあるわけです。そうではないものがマナーと考えていいわけですか。
 そう考えますと、できるだけ法律とか、規制がない社会のほうが人間は住みいいわけでございまして、そういう社会をどうやって作るかということになると、正しいマナーを持った人が多い社会になれば、あまり規則とか、法律がなくても生活できる。その一方が快適であって、そういう社会をつくるためには、多くの人が正しいマナーを持たなければいけない。そのマナーを教えるのが教養教育だということも言えるのではないかということで、そんな感じがいたします。

○ 鳥居分科会長
 お二人のお話を伺いながら、「マナー」という言葉そのものが、教養教育に関する「審議のまとめ」、あるいは最終報告書に入ったときの大学の教授たちの反応を想像すると、拒否反応でしょうね。「教養教育とマナーとは関係ない」と言う人が半分ぐらいはいるでしょうね。そこまで世の中が変質してきている。少なくとも大学の中はそうですね。
 たぶん彼らが考えている教養は、例えば古典にさかのぼるというようなところまでは辛うじて理解できるけれども、マナーまでくると、何でマナーなんだということで、若い教授などは特にそうだと思います。そこまで世の中が変わっている状況の中で、「いや、そうじゃないんだ」ということを改めて説得するのには、今のお二方のお話のような言い方で入っていくしかないなという感じがしました。

○ おっしゃることはわからぬではないのですが、マナーとか、そういう行動の一つの在り方は、自分を自分でコントロールする力の一つの表現ですから、大事だと思いますが、もともと教養というのはそれも含むのですが、それイコールではないはずです。私は、マナーが表に出てくる教養論というのは、反発されると思います。私はそれで当然だと思います。
 なぜかというと、古典を読む読まないではなくて、深く生きるということ。つまり、人間というのは、与えられたままですべていろいろなことを認識しているわけではありませんから。自分の位置づけにしても、社会のありようにしても、あるいは自分と社会との関係にしても。それを少しずつ認識し、古典からもいろいろとヒントを得、あるいはこれまでの人生の先輩からもヒントを得ながら、自分の生きていく世界についてのとらえ方がだんだん深まっていく。例えば、お茶やお花をやって、きちんと礼儀作法が身に付けば教養があるのか。必ずしも私はそういうことではないと思います。もちろん、そのこと自体は非常にいいことだと思いますし、教養の一つのあらわれです。深く生きていくためには、確かに礼儀作法をはじめ、それは大事な要素にはなると思いますが、そういうことに事の本質があるのではないと思います。
 私は、教育改革国民会議でも、宗教の問題とか、思想の問題を何度か申し上げましたけれども、例えば宗教とか、思想、あるいは哲学という形で、これまで積み重ねられてきた一つの文化遺産というのがあるはずなのです。これは何であるかというと、基本的にはたった1回しか与えられていない人生を、それぞれの人がどう深く生きていくかということだろうと思います。ですから、社会生活がうまくいけるようになるのが必ずしも教養ではない。これはマナーの問題でしょうけれどもね。教養ある人たちで満たされれば、社会生活が結果としてうまくいくという面も出てくるかもしれませんが、しかしそれイコールと見ては、少なくとも多くのものを考える人たちからは反発と、あえて言いますと軽蔑の念を持って報告書が見られるだろうと思います。

○ 田村先生の御報告についてお伺いしたいのですが、「マナー」というのは、日本語で何とお訳しになるのでしょうか。私はあらゆる外来語は日本語に訳せなければ本当にわかっていないと思います。私、若いころ、ドイツへ行きましたら、「『ゲミュートリヒカイト』は日本語に訳せない言葉だ」と、よく日本人が言うのです。それはおかしいので、ドイツに長くいればわかるはずなので。ですから、「インターネット」もそうで、日本語の訳がない。「マナー」というのは、どんなふうにお訳しになるのでしょうか。

○ 田村委員
 「生きていく上の習慣」と言っていいのでしょうかね、あえて訳せば。日本語として私が意識している「マナー」の意味は、一種の「習慣」、「心の習慣」みたいなもの、「習慣」ですね。本質的な問題というとらえ方ではなくて、そういった習慣をみんなが身に付ける。例えば、朝起きて歯を磨くとか、そのようなたぐいのものを教養教育のスタートに据えたらどうだとという提言なのです。それが最終目標ということではありません。それは確かに先ほど委員がおっしゃったように、そう書けばばかにされると思いますけれども、習慣を全然無視して、人間が本当に望ましい方向に自分の人生をつくれるのだろうかということがあるのです。そこのところを軽視しないほうがいいだろうという気がするのです。「マナー」という言葉は、私は「マナー」という便利な言葉があるから、そのまま使っているのですけれども、要するに「心の習慣」とか、「生きる習慣」とか、そんなような類のものを意識しているわけです。それを意図的に教育の中に入れていかないと、どうも教養というのが本当に花開いていかないのではないかと考えるものですから。そこのところは表現が非常に難しいと思いますが。既に教養ができ上がっている方は、そこまで書き込まなくたっていいではないかという話になるのですが、実際にこれから育っていく人たち、それから現状を見て、全然それに触れないで、本当に教養教育が普及するのかなと考えますと、ちょっと心配な点があるものですから。

○ 鳥居分科会長
 「礼儀作法」とか「応接辞令」とか「出処進退」とか、そういう日本語は英語で言うところの「マナー」と「エチケット」に大体対応していませんか。

○ 今、三つぐらいおっしゃいましたね。そういうものを包括した日本語ってないですね。英語は「マナー」一つで言っているわけなので。

○ 鳥居分科会長
 今、私は三つ申し上げましたけれども、一つは「礼儀作法」、もう一つは二つに分けてしまいましたけれども、通常一つにまとめて、「出処進退・応接辞令」とか、「応対辞令」と言いますね。それが国によって根源が違いますよね。例えば、今でも韓国では、しっかりした家のお子さんですと、留学してきた連中と一緒にお酒を飲んだりビールを飲むと、我々の前でこう(注がれた器をそのまま口元へ持っていって)は飲まないですね。こうして(横を向いて片方の手で器を隠して)飲みますよね。それは儒教からきていて、目上の人の前でいきなりこうは飲まない。それから、左手では人の前では絶対に杯、お茶碗のたぐいは持たないというのは、あれは全部儒教に根源がありますよね。やはり根源となるものが「出処進退・応接辞令」にはあって、それは教養の大事な一部と考えられている国がかなりあるのではないでしょうか。

○ 人間関係における基礎的な「心の習慣」とか、包括的に定義なさると、あ、そのように御理解されて、とわかるのです。内容的には全く異議はないのですが、「マナー」を教養に入れるかどうかというのは、議論のときにまたさせていただきます。

○ 「マナー」の定義もちょっと難しいと思うのですが、「心の習慣」とちょっと違うような気がします。「マナー」というのは一定の流儀みたいなものだから、「心の習慣」というのはもっと身体化したものだから、そこのところはちょっと違うような気がします。
 鳥居先生も、それから先ほど委員もおっしゃった、「マナー」というものまで教養に含めるべきかどうかということに関連して思うのですが、たぶんこれはイギリスのパブリックスクールだったら完璧に教養だと思います。ウィンチェスターのパブリックスクールですが、現代英語で言うと「マナー・メークス・キャラクター」。「マナーが人間をつくる」と言っている。イギリス的に言えば、目指すべきものがジェントルマンということですから、そういうものが教養になるのではなかろうか。
 ここの席でも何回も出てきたのだけれども、日本社会はどうしても「教養」という言葉自体が旧制高校のイメージがあるから、「教養人」とか、夏目漱石とか、森鴎外を思い出してしまうものだから、日本の場合、「マナー」と「教養」というのは非常に離れていると思うのです。
 ただ、何でもかんでも「教養」と言うのは非常に難しいと思うのだけれども、最終的に「心の習慣」というか、社会学で「ハビタス」という言葉があります。「心の習慣」ということです。そういうところに関係することだと考えたら、従来の日本型教養は頭だけの知識ということでしたが、阿部先生もおっしゃったけれども、身体レベルの問題ということを考えると、何らかの形で田村先生がおっしゃるようなことも考えていかないと、新しい教養にはならないかもしれない。あんまり広げて、何でもかんでもここへ入れるというのはおかしいと思うのだけれども、パーフェクトに切ってしまうのはどうかなという感じがいたします。

○ 「マナー」というのは、それぞれの行動様式の美学の問題もありますので、私が考えるのは人と人との関係、社会との関係において「マナー」を考えられないかということで、その上に装飾語をつけまして、「社会的マナー」ということですね。もしかしたらそれで何か一つ考えることができるのではないかと考えます。「マナー」という日本語はなかなか難しいですね。

○ 「マナー」は本来、社会的なものではないですか。

○ そうなのですけれども、「マナー」という言葉そのものが、今のようにいろいろ複雑になってまいりますので、「マナー」だけではなかなか納得がいかない、理解が得られないと思います。
 車内のパブリックスペースでどう振る舞うかというようなイメージを考えてもらうには、「社会的」とつける以外にないかなと思います。

○ 「マナー」の問題は私は入っても入らなくてもいいと思うのです。私はできれば「マナー」とか、「社会的習慣」とか、あるいは「社会的な中での自他のかかわり」が入ったほうがいいと思いますが、問題はそのこと自体ではないと思います。それをいわば一人一人の中で生かしている原理みたいなものができているかどうかだと思います。ある場で上手に振る舞えるようになればいいというわけではなくて、「昔の教養は」とか、「昔の」と言われるのは、それはせいぜい80年、100年前の話です。
 例えば、江戸時代なんていうのは藩校できちんと儒教を教えながら行動様式を身に付けさせたわけです。7世紀、天智天皇の時代から、日本では公立の学校がずっとあるわけです。千何百年、そういう伝統で日本はいわば一つの行動様式を教えると同時に、認識的な世界について教え、知的な技能を身に付けさせる教育を、千年以上やってきたわけです。確かに明治維新からは欧米流のものが入ってきて、御指摘のように頭でっかちになって、いろいろな面があったかもしれません。
 そういう日本の歴史の中に根差して考えたときに、単なる大正教養主義の反発みたいなことで言わないで、大正教養主義の反発があったっていいのですけれども、もう少し原理的に――別に「教養とは」といって定義する必要はないのだけれども、書いてあることが新しい時代に向かって、日本人としてどういう心のコアを持たなければいけないのか。そのためにどのような――「まとめ」を見ますと、「修養」とか、「教養」と書いてありますけれども、その学びをしなければいけないのか。心のコアを持つための学びみたいなものが、たぶん大事になると思います。人間は、自然にほっておいたら大丈夫というものではないわけですからね。
 これはワーキングでまとめてくださると思いますけれども、そこのところを大筋として押さえた上で、「マナー」の話が出てきたり、現代的な若者文化の話が出てきたり、いろいろなものが出てきたらいいと思います。ただ、大筋が見えないままで、これも現代的な教養だ、これも現代的な教養だというふうに載せてみても、これはインパクトを持たないだろう。これから幼稚園から大学まで、あるいは生涯学習も含めて、一体、人間としてどういう学びの筋道を考えていくのか。それが今の状況の中でどういう弱さを持っているのか。では、あえてどのように新しい仕組みを整備するのか、そういうことにならなければいけないのだろうと思います。

○ 私も委員のお考えと共通点が多いのですが、教養というのは一人一人がどう生きるかということを自分で確立するというのが中心にあって、そのためには狭い専門分野だけでなく、いわゆる教養科目と言われたようないろいろな分野を学んだり、古典を読んだりということが、人の生き方、考え方の確立には重要な基礎であると思います。また、どう生きるか――委員は「深く生きる」とおっしゃいましたけれども、それには人とのかかわり、社会とのかかわりが重要な面であって、そのあらわれとして「マナー」が出てくるわけです。「マナー」というのは今の御議論でもわかりましたように、なかなか日本語に置き換えにくいし、いろいろな意味にとられやすくて、その言葉をあまり表に出すと、確かに誤解されるおそれがあるかなという気がいたします。内容につきましては、そういう基本を踏まえた上で、これも大事というのは結構だと思います。

○ 今までのまとめになりますけれども、「公共心」とか、「公共性」とか、そういうことで考えればいいのではないかと思うのです。「マナー」というのを特別前面に出さなくても。
 さっき、ウィンチェスターの「マナー・メークス・キャラクター」という話をしましたけれども、知識ではなくて、理屈を考えなくて、実際にやっていることによって人格形成していくのだと。我々日本人にもなじみ深いので、たぶん日本社会にずっとあったものは、理屈をあまり考えなくても、物事について形で入っていく。形で入っていくと、自然と「心の習慣」というか、身体化されていく。
 どこかのPTAの標語で、昔、「服装の乱れは非行のもと」というのを見て、何だこりゃあと思いましたが、日本人の伝統的な教育観をあらわしていると思います。形をしっかりすればいいのだと。むしろ理屈から入っていくのではなくて、形式をきちんとやっていけばそのようになっていくのだと。プレモダンだけれども、ポストモダンの教育観だと思うのです。
 さっき委員も「全体の骨格が……」というお話をされて、私もどうしたらいいか今すぐはわからないのですが、形から入っていく人格形成ということでは、「修養」というのはそうだったのではないでしょうか。「教養」というのは、大ざっぱに類型化して言うと、知識から。これはどっちも必要なので、我々が今、「新しい教養」と言うときには、「修養的教養」と、いつも変な単語ばかり言いますが「教養的修養」というか、そういう二つの……。私は知識もすごく大切だと思うから、そういうものと、形から入っていくというか、行動から入っていく。従来だったら、形から入っていくのはプレモダンみたいな感じで言われていて、モダンという近代的なものは理屈から入っていく。知識とか、そこから入っていく。それを「新しい教養」と言うのだったら、両方を統合するというか、そういうことがとりあえず一つ重要な考え方ではないかと思います。

○ 鳥居分科会長
 日本の教育の現場でどういうことがこの問題について起こっているかというのを、皆さんそれぞれのお立場で見ておられると思いますが、例えば幼稚園を見学して、挨拶の教え方ですね。教えない幼稚園があるのです。「うちでは特に挨拶を強要しません」と言うのです。それが正しいことだと主張される先生もおられました。
 私は自分の子どもをカリフォルニアの幼稚園に入れたとき、毎朝、先生が「Say good morning.」と言うのです。「『グッドモーニング』と言いなさい」と。言わないと、必ず言うまで言わせるわけです。人にぶち当たったら、「Say sorry.」と言うわけです。「『ごめんなさい』と言いなさい」と。そういうものが要らないと主張する先生が出始めている日本の文化状況を、これからどのように理解していったらいいのか。それは文化の変容であって、我々はじっと見てればいいのか。あるいは、「おかしい」という警告を発すべきなのか。
 私の大学でも、ジーパンで授業をして、リュックサックをしょったまま教室に行って、ジーパン以外は着ないという教授がいたのです。この方が学部長になりまして、突然三つ揃いに変わってしまったのです。「ほら見ろ、おまえ三つ揃いの必要性を認めてるじゃないか」と私は言いたいのですが・・・。「文化の変容だから、いいのだ」と言って、ほっておけばいいのか、それとも「このままだと学生に影響がいくよ」と言ったほうがいいのか、そこがよくわからないという状況なのではないかと思います。

○ 先ほどの委員の御発言を受けて言いますと、「修養的教養」と「教養的修養」というのはうまい表現だと思いますが、教育というのは型から入って型から出ることですから、特に今おっしゃった「Say morning.」ということになりますと、「修養的教養」から幼児期は入るべきです。大学では「教養的修養」をやっていますが、人間というのは知識で行動しないで、心で行動しますから、絶えずあざなえる縄のように両方いつも必要なので、理念型としてはわかりやすいと思いますが、現実の世界ではこれは共存しているものではないかと思います。

○ 鳥居分科会長
 今、「マナー」の問題について御議論いただいて、これはワーキング・グループで受けとめてくれると思いますが、それ以外の議題についてもしありましたら、資料1を御覧くださいまして。
 今の話は、たぶん「『新しい時代における教養』とは何か」の一部をなしたと思います。それから、「初等中等教育で必要なものは何か」という次のページのテーマの一部分をなしたと思いますが、御覧いただきますとわかりますように、それ以外のことも書いてございますので、大事なトピックを取り上げていただければと思います。

○ 「新しい時代における教養」というのは、「新しい時代における新しい教養」ということなのでしょうね。その辺が一つ気になりました。
 言いたいことが二つありまして、一つは、あらゆるものに基礎・基本があると思います。そうしますと、教養にも基礎・基本があるので、教養の基礎・基本は何だろうかということになるわけです。私はそこで、田村委員のおっしゃった「心の習慣」でも、「生きる習慣」でもいいのですが、「社会的マナー」でもいいのですが、挨拶ができるとか、そういうものが基礎になければいけない。そういうものなしで、昔、新聞に載っていましたが、東大生が下宿していて、ボールペンを水洗トイレに落っことして、おばさんに「拾え」と言った。おばさんが「あなた、自分で拾いなさい」と言ったら、「おれは東大生だ」と言ったというのが新聞に載っていましたが、そういう人間が出てくるので。
 ということで、教養の基礎・基本というのは何かということを押さえないと、教養というのはあれだこれだという各論がたくさん出まして、委員が前に「拡散してだめだ」とおっしゃいましたが、私は「拡散するのが教養だ」と言っていたのですが、いくら拡散しても、基礎・基本、それはコアでも何でもいいのですが、そういうものがあるという視点からおまとめいただきたいということが第1点です。
 第2点は、これは前にも申し上げて、反論されたのですが、これは幼児期の問題が入ってなくて、学校教育から入っているのです。それは学校教育についての諮問を受けたからだという答弁があったのですけれども、後ろのほうで、学校段階別にきまして、生涯学習というのが最後に出てくるのです。これは最後でも始めでも場所はいいのですが、それを読みますとほとんど「高齢者、高齢者、……」です。一体、生涯学習というのは生まれてから死ぬまでで、ラングランも言っていますが、幼児期とか、学校へ入る前の、つまり、学校教育というのは家庭教育の基礎の上に成り立つので、私は前から「学校教育法を改正しなさい」と言っているのですが、「中学校教育は小学校教育の基礎の上に」となっているのですが、小学校教育は何も書いていないのです。だから、「家庭教育の基礎の上に」と書くべきです。教育改革国民会議でも、家庭教育をきちんとしていないのは学校に入れるなという極論も出ましたけれども、それはちょっとラディカルですねと言っていたのですが。
 「家庭教育の基礎の上に」ですから、家庭教育で教養の基礎に当たるものをどんなふうに教えるのか。古典が大事だと言うのですが、幼児に「『論語』を読め」と言ったってわからないので。幼稚園で『論語』を暗記させているところもありますけれども。ユダヤではタルムードを3歳ぐらいから学ばさせますが、そういう英才教育の方法もありますけれども、それは別として、幼児期に国民がどういう形で教養教育の基礎ができるのかということを言わないと平仄が合わないのではないかと思います。
 私の考えは、「古典、古典」とおっしゃるから、庶民感覚での通俗的レベルでの古典というのは、私はことわざしかないと思うのです。で、「ことわざ教育」と言っているのですが、ここには一つも「ことわざ」の「こ」の字も出ていないので、あえて申し上げておきます。

○ 鳥居分科会長
 委員の前回の御発言を受けまして、今日は、資料1の1ページの一番上から2番目の「○」に、「ことわざ」という字がようやっと登場しています。『幼い孫に贈る言葉』という本がありまして、韓国の財界のかなり偉い方がお書きになった、日本人の子どもたちにぜひ読ませたいという本ですが、その中に、タルムードがやたらに引用してありましてね。韓国の子ども、孫たちにも、タルムードの言葉をぜひ読めというわけです。

○ タルムードの「日本語要解」という本もあります。

○ 江戸時代300年ほど、何をやってきたかというのをもう少しあえて言いますと、寺子屋に行くでしょう。まず、「何々往来」というのをやるわけです。あの中にはことわざも入っているし、どういうときにはどういう挨拶をしなければいけないかということも全部入っているわけです。寺子屋でそういうことをやっていく。上のほうに行けば、武士の子であれば、禅宗がはやりましたから、道元の「典座教訓」ぐらいみんなやります。「典座教訓」をやれば、さっきの型から入ってというね。ともかくトイレでの仕草まで全部、「典座教訓」には書いてあります。もちろん食べる物をどうするか、その後どうするか。典座というのは炊事係の頭ですから、食べ物の話は出ているわけです。
 そういうのをずうっとやってきたという伝統があって、庶民教育に至るまでそういうものが浸透していた。だけども、新しい時代になって、ここに書いてあるように、豊かな時代で、価値が多様化し、相対化していく中で、一体どうしようかというのが今の話なのです。だから、一つは指導的な価値観、例えば儒教だったら儒教があるときは、それは何でもやれるのです。いわば物の考え方も、行動様式も、両方含めて、知行合一でやれるわけです。頭の中も、外側のあらわれも。問題なのは、確かに私たちは何百年も続けてきた日本の教育的な伝統について、ここでもし新しい時代に新たに復活させる必要があるものは、今申し上げたように、タルムードでなくたっていいのですよ、日本にあるのだから。それをやるべきです。
 同時に、『審議のまとめ』はよくできていると、私は前から言っているのですけれどもね。この中に、新しい時代というものを、物が豊かになって、モチベーションが落ちる、価値観が多様化する、相対化する中で、どうしたらいいかということが最初に書いてあるわけです。それに応えるようなね。だから、新しい一つだけの価値観を打ち立てることは、はっきり言って無理だと思います。手法としては、今までのいろいろな伝統のものを復活させることはできるけれども。
 価値が多様になる、あるいは国をまとめ上げるイデオロギー的な中核がなくなる、そういう時代に一体何を、今おっしゃった幼稚園から、あるいは家庭教育からでもいいのですが、高齢者までね。これは単なる精神論ではないですから、政策で出してもらわないといかんですから、仕組みとしてどう準備するか。精神論でいくら言ったって、それはだれも聞きませんから、仕組みとして何を準備すればいいのかということを、ぜひワーキングで御議論いただきまして、出していただきたいと思います。

○ 今お話の出ている家庭における教育力は、私も重要だと思います。アメリカで四、五年前に、小学校に入る子どもが入るための準備ができていない、チャイルド・ケアに問題がある、というレポートが出て、英語でチラッと読んだ記憶があります。日本でも同じようなことが言えるのではないかと思っております。
 これも文部科学省の調査等で見た記憶があるのですけれども、親と子の対話が十分でない。子どもが困ったときにだれに相談するかという各国の比較調査があって、日本の場合は友達に相談する。韓国と日本では友達に相談して、ほかの先進国の大部分は最初に母親、その次に父親、それから友達という順番になるということで、家庭での親と子どもの関係を考え直さなくてはいけないのではないかということを、どこかで読んだことがあります。いずれにいたしましても、家庭での幼児における教育力が大切だということは、誠にごもっともだと思います。
 そのために、これも教養教育の一環として、高等学校、あるいは大学でもいいのですが、将来、親になる生徒・学生に、チャイルド・ケアの重要性、家庭における教育力の重要性を、親になる予備軍に教養教育の一環として教えるべきでしょう。今、委員がおっしゃったことわざも、私は重要だと思います。そういうのも一つの例だと思いますが、そういうことが子どもにとって大切なのだということを、親になる前に教えてあげる必要があるのではないかという感じがいたします。

○ 資料1を送っていただいたので、改めてまたこれまでの議論を自分なりに整理してみたつもりなのですが、今議論になっていることと組み合わせながら、二、三御意見を述べてみたいと思います。
 一つは、先ほどの委員から、「審議のまとめ」は非常によくできているという評価をされる御意見があって、確かにこれからの新しい時代といいますか、新しい社会の変化がこのように予見できるのではないかということで、多面的な角度から論じられているということは、私もその議論に若干かかわってきているのですけれども。ただ、改めて読んでみて、必ずしも「第1章」の「今なぜ『教養』なのか」というところのコンセプトがいま一つ明確でないのではないか。というのは、資料1にもありますけれども、これも大事、これも大事と言って、結局、本当に何が一番大事なのかというのが必ずしもはっきりしていないという御意見が、新しい中教審になって出されています。
 私が考えるのは、90年代から社会の変化が激しいのですけれども、一つは戦後、国際的に見たイデオロギーの対立がある意味で解消したというか、イデオロギーが相対化していって、その位置が低くなってきた。それはそれでいいですし、歓迎すべき方向なのですけれども、特に豊かな社会の中で、大体主要な先進国では、経済市場主義というか、マテリアリズムから、ポスト・マテリアリズムに移行して、今までの景気対策とか、所得の再分配とか、通商産業政策などから、むしろ環境とか、教育とか、福祉とか、消費者保護とか、男女共同参画とか、マイノリティーの外国人の受け入れをどうするかとか、そういうところに重点が移ってきていると思います。日本の場合、景気対策どうのこうのという今の政局の動きを見ても、そこのところが国際的なレベルより遅れているのかなという感じを持っていることが一つ。
 そういう中で、特に私が気になっているのは、文部省の数理研究所の調査で、93年か94年ごろの調査だと思いますが、子どもに何が一番大切かということに対して、お金が一番大切と教えるという親の割合がものすごく高いのです。寺島先生は、拝金主義が蔓延して、日本の社会がおかしくなっているということを、この前の意見発表の際におっしゃいました。そういうことで、今まで日本人には勤勉とか、努力ということが、社会規範の中の日本人の特性としてあったのですが、物を大事にするとか、物をつくるということがおろそかにされてきて、個人主義というか、特に若い人には自己中心主義というのが非常に蔓延していると思います。京都の佐和先生は、「教養なきIT革命は危うい」ということで、ある意味で人間の生き方が大事だということをおっしゃっています。
 そういう状況ですから、これからの教養教育を考える場合には、先ほどの委員もおっしゃいましたけれども、人と人とのつながり、人と社会とのつながり、あるいは世界的なつながりとか、常に社会との関係において自分と向き合いながら、社会的には人間一人では生きられないので、社会的な共同体意識というか、一体感をどう育てていくかということを考える場合に、日本の今の文化的状況は、田村先生がおっしゃったような状況なので、そういう中では、幼児期の段階から、特に幼児性というのは自己中心主義で、今の中学・高校生も、現場の先生に聞くと「かなり幼児的だ」という指摘が強いのです。幼児性を引きずったまま年をとっていっている。そういう中で、もちろん教養というのは知的探求を抜きにしては考えられませんが、やはり社会の中で人間として生きていくためには、協調性というか、社会性をどうやって身に付けるかということが、教養教育の中の一つの大きな柱になっていかなければならない。新しい時代における教養教育の中で何が必要かということを、もう少し鮮明にするほうがいいのではないかということを、改めて今までの議論を考えながら、自分なりにそういう整理をしているところです。
 それから、旧中教審でも、あるいは新しくなってからも議論されていないのは、諮問の中でたしか、これからの教養教育を考えるに当たって、教養教育の立場からこれまでの教育改革を検証し、その成果の上に立って、これからの教育を考える意味での一つの提言みたいなものをいただきたいという趣旨のものがありました。資料1を見ても、いろいろな先生からヒアリングをさせていただいて、特に阿部先生からは一定教養教育を含めて総括的な意見が出されましたが、現場の人にいろいろ聞くと、臨教審が1984年から87年で、旧中教審の第一次答申が1996年、いずれにしても本格的に教育改革が進められてから15年以上たっているのですが、次から次にいろいろな答申が出てきて、率直なところ現場は非常に戸惑っているのです。これも大事だ、あれも大事だと出てきますから。特に来年の4月からの新しい学習指導要領についてもいろいろな意見があるわけですけれども、危惧されるような点、例えば学力はこのままいったら低下するのではないかというような意見を含めて、親の中にも、先生方の中にも、憂慮の念みたいなものがあります。いろいろ提言するのは必要で、議論した上で提案しているのですけれども、何を目指して教育を変えようとしているのか、舵がこっちに行ったかと思うと、また逆に行ったり、その辺のところを我々も、私もそうですけれども、委員として十分考えて議論を詰めていただきたい。大変な仕事をワーキング・グループの先生方にお願いするわけですけれども、ぜひそういう意見もあるということを、私の意見として申し上げておきたいと思います。

○ 先ほど委員のほうから、今の社会に警告を発すべきなのかどうかというお話がございましたが、私自身、中教審が教養教育を取り扱っているということは、当然発信すべき何か必要性を持ってやっていると認識しているわけです。前に出された『審議のまとめ』の2ページから3ページにかけましては、それにも触れているように私は理解しております。そこのところには、歴史的な変換期における混迷を乗り越えて、それぞれの多様な生き方を、個人としても、社会としても認め合い、自らの個性のみならず、個人の個性も尊重し、社会の一員として責任感と義務感を持って、ともに生きることができるような社会を築かなければいけないだろうということは、それが十分にできていない裏返しだというふうにも私どもはとれるわけであります。
 今回、教養を扱っているというのは、今までのテーマと違った意味があるなと個人的にはいつも思っていたのです。それは、私などは戦後の学校現場にかかわってきた一人の人間なのですけれども、どうも戦後の半世紀を踏まえましても、教養という観点から教育にあまりかかわらなかったのではないか。キャッチアップの時代とも言われて、そういう方向への目は向いておりましたけれども、日本人をどう育てるのか。先ほど委員は「深い」という言葉を使って、人生についても、私自身もその一端を担っているわけですけれども、深く考えないできた部分がある。むしろ今ここにきて、もう一度日本人の在り方も含めて考え直す時期にきているのではないかととらえております。
 ですから、そういう在り方を見直すときには、当然、幼児期から見直すことが意味のあることであって、特に幼児期の場合には、今も出ておりますように家庭教育に大きな影響力があるわけです。その場合には、家庭はもちろん両親であり、それを取り巻く人間関係でありましょうけれども、また小学校へ行けば小学校の先生が中心にとか、いろいろ広がっていくのです。私たちは、教養についてあまりにも自覚的な生き方をしてこなかった。そういう意味で、日本人全体が教養に目覚めるといいますか、この尊さ、必要性を感じてくれるような答申ができたら、今までと一味違った幅広いといいますか、多くの人に読まれて、今、日本人はこういうことが求められている、必要ではないかというようになっていくのではないか。そういうまとめになったらいかがかなということを、ちょっと飛躍し過ぎるかもしれませんが、思ったわけであります。

○ 多くの教育改革が出される中で、それこそ現場のほうでは、そのことを受け入れる段階で混迷を来しているのも現実ですし、現場の教育状況というのは、最近になってやっと教育改革が始まっているのだなというぐらいの水準に達しているのではないかと考えております。
 今回、一連の教育改革の中で、大げさかもしれませんが、画期的な論点として出されたと思っていますのは、教育の原点が家庭教育にあるということがはっきり出されたことに対して、私はそのようにとらえております。今まで家庭教育の在り方というのは、教育の我々の段階ではタブー視されていたと思います。学校の責任、学校の責任ということでずっとやってきて、家庭教育の在り方が問題になるということに対して、私はそのときにインパクトが強かったわけです。
 さて、家庭教育の在り方といったときに、その家庭教育の具体的な姿といったものが、なかなかつかみにくいというのが現状であろうかと思います。例えば学校に来ない不登校の子どもたち、あるいは無気力であるという子どもたちの姿の中に、親が夜遅くまでカラオケに連れて行ったり、夜遅くまでコンビニが電気をこうこうと照らしている中で、中学生が自由に出入りできるという状況の中で、朝起きて学校に来てというような生活リズムは、既に崩れている部分が多くあると思います。そういったことで、家庭教育の在り方とか、あるいはマナーとか、いろいろなことがこの場で議論が出ているときに、今の教育状況の中で、先ほどから出ております今までの教育改革における検証的な視点が、もう少しあってもいいのではないか。
 今の特に渋谷あたりの姿がそのままテレビに出されて、地方でもそのことはストレートに入ってくる状況で、色とか、音とか、子どもたちが身に付けて目指していく方向があまりにも人工的で、人間性が変わってしまっている、これが文化だ、それを受け入れなければならないというような無理といいますか、私の考えではちょっとおかしいのではないかというところまできているのが、どういう検証軸でとらえられ、新しい時代における教養教育の在り方を考えていくのかということも、ちょっとつなげてみたいと思って考えてみました。
 田村先生の「マナーの教育」というのは、本当に望ましいという気がしますが、何人かの委員がおっしゃったような現状は、鳥居分科会長もそうおっしゃっていましたが、現場ではこの言葉ではとても入りにくいと。かみ砕いた言葉で、ほかに置き換える言葉が、先ほどから「公共性」のことも出ておりましたし、一番欠けているのは人と人とのつながりということで言いあらわせるのでしょうけれども、日本人にとって今一番大事なことは公共的な考え方。自分がしたいことは何してもいいと言って、ホームの階段に座り込むということなどを見ても、やはりマナーというよりも、人間としての公共的な考え方、公共性といったようなものが全く途切れてしまっている。過去、遺産として持っていた日本の伝統的な考え方、しかも、外国のように宗教にその支えがないと思われる状況もある中で、その辺の現状の教育、あるいは子どもたちの現状がどのようにとらえられて検証されたら、この部分がこうあるべきというような姿、こうあるべきでなくても目指す方向ということで。
 教養教育で大事なのは、皆さん方がおっしゃって、議論にも出ております、知的探求心といったようなものも、これは大学のみならず、小・中学校でもほとんど影をひそめてしまっている現状がある。知的探求心をぜひ育てようということは、ほかのテーマよりもちょっと低いように思われます。
 今の教育現場から発しますと、自分ではマナー教育はこういうので共感するなと思いつつも、現場ではこういうことは現状としてかなり反発をするのではないか。そうは申しましても、目指すものとして、教養教育の在り方がこの報告に出ておりますことについて、これは特に新しい学習指導要領をフォローしていく、あるいは点検の軸になり得るという気持ちで、大変うれしく思ったということは、今もって引き続いて持っております。今後の草案の中に、そういった視点が少しでも出ればありがたいと思っております。

○ いろいろお話を伺って、私もいろいろ考えさせられたのですけれども、公共性、公的なものに対する関心の持たせ方というのは、一体どうやったらいいのかというのが、依然としてよくわからないのです。戦後、公民教育とか、民主主義教育とか、半世紀以上いろいろやってきた結果が、まだこういう状況であるということは、一体何がこういう状況を生み出しているのかということが、私自身もよくわからないのです。日本の社会の特質としてどうも秩序というのは、自分たちでつくっていくというのではなくて、人に与えられるものだという意識が、依然としてずっとあったのではないかという気がしてならないのです。
 御承知のように、和辻哲郎が昭和4年に『風土』を書いたときに、日本人というのは自分の家がやられるときは必死になって抵抗したりするけれども、それ以外は関係ないものだと思っている。議院内閣制が滑稽なことであるのは、まさにそれなのだといって、公共性への関心の欠如を言っているわけです。戦後は、国民主権とか、民主主義とか、公民教育と言いながら、結局、日本の社会の秩序というのは、自分たちでつくっていくというのではなくて、具体的に役所が与えてくれるものであるということで、しかも、経済に専念してきたわけで、全体的な秩序とか、安全保障を自分たちの問題として考える契機というか、切迫感がなくて、依然として秩序はだれかが与えてくれるものだというように思うところが強かったのではないか。
 ですから、経済はこれだけ大きくなったのですが、今の問題は、経済の力を生かす広い意味での政治・社会の仕組みがないということなのではないかという気がするのです。私も学生によくゼミで話していると、「先生、そんなことを言ったって、我々一人一人が頑張ったって、世の中は変わりっこないですよ。どんなにあがいたって日本の社会は変わらないのだ」と言うのです。その意識はどこから生まれて、どうやったらそういう意識を変えられるのか。秩序は自分たちがつくっていかなければいけないのだと、どういう形でならそういう思いに引っ張れるのか。その辺、解答はなくてあれなのですが、何かそういうきっかけのようなものが……。
 司法制度改革で裁判員制度、人の運命に携わることが今度出てきますよと。自分の問題だけではなくて、真剣に他者の運命にかかわることが出てきますよということを、広い意味ではそういうサインとして送り、制度を具体化しようとしております。何かそういうきっかけ、従来と違ったきっかけを与える教え方が、何か教養として考えられるかどうか。自分で解答なしに申し上げてあれなのですけれども、何かそういうものが少しでも方向として打ち出せるといいがなという気がしております。基本は委員がおっしゃるように、各人が深く生きるということが出発点なのですけれども、それこそ皆さんがおっしゃっているように、深く生きるということは他者とのかかわりを抜きにしてはあり得ないわけです。一人で深く生きるということはあり得ないわけです。他者とのかかわりで自分がいかなるものであり、どうやったら意味のある生き方ができるかということを探るわけですから。その辺を打ち出せるような何かがないかと思っているのです。解答のない自問自答みたいなことですけれども。

○ 公共性をいかに教えるかということですが、確かに学習指導要領にも「公民」とか、「公共性」とか、「社会活動」とか、いろいろ出てくるのですが、それは知識としての公共性を教えていたのだと思います。そこで今度、「奉仕活動」というのは、公共性を教える一つの型だと思いますので、これから少しよくなることを期待しているということをちょっと申し上げて、私のほかの意見を申させていただきます。
 今まで教養とは何かといういろいろなヒアリングを聞きました中で、一番心に残っているのは、山崎先生の「知を軸にした人格形成」という定義が印象に残っているのです。ただ一つ気になりますのは、教養を知性と勘違いしている人が多いので、「知を軸にした」という「知」というのは、知識を中心にしたものではないという、生きる知恵というか、知識と知恵とは違うと思いますが、そういう意味での「知を軸にした人格形成」。そうすれば知識主義に走らない、教養と修養とを分けるということもさっきおっしゃいましたけれども、最後は修養なのだというところへ、修養に始まって修養に終わるような形にならないものかどうかということが一つ。
 もう一つは、この「まとめ」の中で、最後に「社会全体で取り組む」と5ページにあるのですが、この「社会全体」のところで、これだけ経済が大きくなってきて、委員もおっしゃったように、24時間コンビニがあいている。これは一人一人はどうしようもないことなので、経済界に教養がないのではないか。経済というのは、人間のことをあまり考えないのです。大熊信行さんという経済学者が昔、『家庭論』とか、『人間性の経済学』とか、厚い本をお書きになって、あの中にも私は納得できるものがあったと思います。経済は本来、非人間的といいますか。だから、人間的な経済学とか、そうなれば、もう少し我々人間も教養ある生き方ができるのではないかと思います。
 経済に頼っていてはいけないので、最後に結局、家庭教育が大事だという意見が出て、学校で「家庭教育で何をやっているのだ」ということを考えると、家庭科です。私は、家庭科の学習指導要領のことで前にもお伺いしたのですが、家庭科の指導の中で、家庭というものの哲学がどうなっているのだと何回も聞いたりしているのですが、将来、大人になったら家庭をどう築くのだという指導をもっとすべきではないか。それがなされていないのではないか。その方法論も前の中教審のときに申しましたので、これ以上言いませんけれども、ともかくそこのところは家庭科の指導要領をもう少し工夫していただくことで、少しはよくなるのではないかと思います。
 それから、家庭教育の振興策というのは、家庭にいくら「やりなさい」と言っても、やらないのです。ですから、学校でやると、親というのは学校でやることの準備をするのです、学校でいい成績をとろうと思って。学校で仮にことわざを教えると、家庭でことわざの予習・復習をやるのです。そういう意味で、学校がリードしないと家庭が変わらないという側面があるのです。北海道のある学校ではことわざを一所懸命やっているのです。生活科もそうなのです。本来家庭でやることを学校でやると、家庭で準備するという逆説的なことがありますので、家庭教育振興というのは家庭だけにハッパをかけても無理なのではないかということを申し上げたかったわけです。

○ 先ほど委員が出されました公共心という問題は、これは現代社会の最大の問題だと思います。公共空間というのは、今、インターネットが登場して、ものすごく広がって、あらゆる人が参入できるようになっている。そういう意味では、教養の問題と公共性の問題を考えないと、やはりいけないのではないかと思います。
 先生方の御意見を聞いていて思ったのですが、要するに「読み書きそろばん」という知識を得るということ、リテラシーと言っていますが、これは公共性のことだと思うのです。みんなが基礎的な共通するものを持つということですから。そういう言い方をすると、教養というのもある意味では高度なリテラシー、共通の文化を持つということではないか。そのことによって、すぐさま公共心がわくということではないのだけれども、共通なものを持っていくということではないかと思います。それを一つ、委員のお話を聞きながら思ったのです。
 もう一つは、前に少し言ったことがあるのですが、教養とか、こういう問題を文部科学省でやると、すべてが秩序化の方向にいくわけです。ですけれども、教養というのは毒もあるわけであって。我々が社会が統合されて、秩序のほうへいくという方向ばかりで考えるというのは、こういう審議会的な思考パターンになるのではないか。教養の毒というのは、共通性もありながら個性化していったりする。教養の毒というのも、これからの社会にとっては決してマイナスではないと我々は考えなければいけないのであって、批判機能みたいなものが入っていないものはいけないのではないか。そのことが社会を内部から革新していくもとになる。だから、全部を秩序で固めていくというような形のファンクションで教養すべてを考えないほうが、これからの時代の教養を考えるときにいいのではないか。共通性みたいなものと、個性化していくようなもの。だから、教養の批判機能みたいなものも大事だという形に考えていったほうがいいのではないかと思うわけでございます。

○ 皆さんの御意見を伺いながら考えていたのですが、もちろん答えはないのですね。答えはないのですけれども、少なくとも戦後50何年の教育をめぐって常識になってきたことの洗い直しの必要があると思います。それを転換しないといかん。少なくとも2点あると思います。
 一つは、好きなことを好きなときに好きなようにさせるのが、子どもを大事にすることだという薄っぺらな教育観が、特に70年前後に豊かになってから覆ってきた。これは文化人と称する人たちが言ってきましたし、報道も言ってきましたし、最近は文部省も言ってきたと思うのです。これは間違いですよね。御存じのように、人間というのは、好きなことを好きなときに好きなようにやっていたら、万人の万人に対する戦いになるわけですから、これは啓蒙期にいろいろな人が言ったわけです。これを社会的な方向で言うと法と秩序になるだろうし、フロイトのように心理学的に言ってしまうと、自分をコントロールする原理を自分の内側につくっていくという、自我の機能と超自我の機能をフロイトは言ったわけですが、こういう話になっていくと思うのです。
 教養の話というのは、まさに自我の機能、超自我の機能と完全に一致する話なのです。自分をコントロールする力を持ち、その原理を自分の中に確立し、その裏づけになるような一つの認識的な在り方を持ってくるということです。これが一つ。
 もう一つ思って、これは何人かの委員の話にも含まれていたような気がするのだけれども、戦後、当たり前みたいになってきていて、それを今、払拭しなければいけないのは、教育というのは一つの人材養成だという考え方です。人材というときは、結局、世の中でどういう場面で何が役に立つかということですから、技能、技術にいきます。例えば、アメリカから最新の知識、アメリカから最新の技能、あるいは制度をという話になるわけです。だけども、今、教養で問題になっているのは、その技術とか、技能を使いこなす人間そのものの在り方をどうするかというところにきたということです。世の中がなければ人間は生きていけないのだけれども、人間一人一人は一人で生まれて、一人で生きて、一人で死んでいくわけです。技術とか、技能とか、制度を運営するというのは、一人一人の主体としての人間があって、どうするかなのです。
 結局、何をつくっても、それを運用する主体の側をどうするかの話だと思います。戦後は人材教育で、主体のほうではなくて、どういう技能をという、あるいはどういう知識を――そういう意味での知識です――と言われてきたのではないか。先ほど委員からも御指摘があったけれども、それを使いこなす人間の問題を忘れたIT教育というのは危険だというのは、そこにいくわけです。
 私は繰り返しますが、好きなことを好きなときに好きなようにやらせるのが、子ども尊重、人間尊重だという前提を覆さないとだめだし、つまり、人間が自由、主体的になるには、自分自身をコントロールできなければいけないわけです。
 もう一つは、人材養成という教育観から抜け出して、技術とか、知識を使いこなす主体という、一人一人の人間の在り方をこれから本気で考えなければいけない。そのことが皆さんのお話に入っていたのかなと思って。ちょっと感想的になりますが。

○ すごく大変な状況というお話が先ほど委員のほうからございましたが、今の若い子どもたちを見ていると、いいことも大変あります。始業式で生徒に話したのですが、大体、校長の話なんていうのは生徒はまともに聞かないのです。今回はシーンとして聞いているのです。先生方も全員びっくりしていた。
 どういうことかというと、こういう話をしたわけです。私どもの姉妹校でシンガポールに高校があるのですが、そこの女生徒たちが五、六人集まって、カンボジアを見学に行った。そのときに、9歳のときにポルポトに徴兵されて、約10年間人殺しをさせられて、ようやく平和が戻ったので民間人になった人が、対人地雷を何とかしなければいけないということで、対人地雷の除去を個人的にコツコツやってきて、カンボジアに対人地雷の博物館をつくって、ヤシの木なんかでできた博物館ですが、そこにいろいろな資料を展示して、観光客が見にくると説明書を配って、幾らかお金をもらって、それで対人地雷の除去の活動をコツコツやっている。見学者の多くが日本人なのです。パンフレットが英文なのです。それを見た生徒が、それを日本語に訳そうと、夏休みに受験勉強をしながら日本語に訳して、写真もちょっと入れてしゃれたパンフレットにして、お金はかけませんからお粗末ですけれども、自分たちでそういうものをつくって、それをカンボジアのその博物館に夏休みが終わるときに届けたわけです。
 私も個人的に100部か200部買って、日本国内でそれを伝えようと思って、さしあたりすぐ始まる学園祭でそれを展示して、生徒に買わせようと思って持ってきたわけです。そういう活動をすることが勉強する目的なのだ。受験勉強をして英語をやっているから、こういう仕事ができて、そのことにちゃんと役に立つ。世の中のためになるのだ。人が喜んでくれることに役立っていることを実感した人は実感したと思うし、それが生きるということで、勉強する目標なのだという話をしたら、いつもうるさい生徒が、先生方がびっくりするぐらいシーンとして聞いているのです。今の子どもたちも間違いなくそういうことを受け入れる余地はあるし、そうしたいと思っているのだろうと思います。
 ただ、あまりにも豊かで、将来的な我が国の課題は間違いなく南北問題をどう解決するかということであり、世界の課題だと思います。そういう機会をいろいろ提供して、考えさせるということからやっていけば、必ず道は開けていくと思うし、それを受け入れるように今の生徒はなっているということも強く感じましたので、教養教育の提言を、委員がおっしゃるように、人間として深く生きるというのは確かにそうだと思います。そこに至るまでの経過という意味で、かなり具体的に問題提起をすることがすごく大切ではないかと思いましたので、私の感じていることを述べさせていただきました。
 先ほど委員がおっしゃられた公共性という意識は、持たなければいけないとは思っていると思います。うまく教育していけば大丈夫です。必ずわかってくれると思います。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。
 今後、ワーキング・グループに動いていただくために、また違う視点からちょっと御議論いただきたいのですが、これで言いますと、11ページからは高等教育なのです。この高等教育のところを見ていただくとすぐわかるのですが、高等教育段階における教養教育というのはどう論じているかというと、次の12ページを開くと、「カリキュラムとしての教養教育」と「カリキュラム外の教養教育」とこれだけなのです。
 実は、これからの大学改革もこの中教審全体の大テーマでして、恐らく高等教育と呼ばれる段階は、一番高度な研究大学院的なものと、高度専門職業教育をするべき専門大学院的なものと、だんだんに分化していくでしょうし、また、大学も独立行政法人の動きとともに、学校の役割がいろいろ分化していって、ある大学はリベラルアーツの教育に特化していく大学も出てくるし、比較的専門教育に特化する学部あるいは大学も出てくる。これがアメリカへ行くと、例えばウィリアム・アンド・メリーみたいに自ら「我が校はリベラルアーツの教育をする学校です」と称して、自信と誇りを持ってリベラルアーツ教育をやっている大学もあるわけです。
 そういうときに、私たちはわかったつもりで使っているリベラルアーツの教育という部分を、大学の中でどう位置づけるのか。また、リベラルアーツ教育に特化するという形で独自性を出そうという学校は、若者に対するリベラルアーツ教育と、かなり高齢に達した人までの生涯教育としてのリベラルアーツ教育をどのようにやっていったらいいのか、その辺は、実は『審議のまとめ』では極めて議論不足でありまして、その辺について何か御意見をいただければと思いますが、いかがでしょうか。

○ これからの日本の大学教育は今お話がありましたように、二つに分化していかざるを得ないだろうと思います。一つは、特定分野の専門科をつくっていくという、特化したあれですね。これは研究者であろうと、これからの法律専門家であろうと、医者であろうと、そういうのが一つある。もう一つは、どこへ行ってもやれる、つまり、その学部からあらゆる分野に就職できる、いわばゼネラルな教育をしていく。この二つに特化していかざるを得ないだろう。基本はマスターまでは二つの特化の方向で考えていけるだろう。ドクターになると、若干特定分野という色がつきます。まあまあ、マスターまではそれでいくことになるだろうという話がよく出ます。
 その場合に、教養教育というものは、ゼネラルな高等教育をやる、そこだけが必要かというとそんなことはないので、例えばお医者さんにしても、法律家にしても、あるいは研究者にしても、高度な、別の言葉で言うと、他の人あるいは社会に大きな影響を及ぼしかねない仕事をする場合であればあるほど、それを支えるいわば人間観とか、社会観とか、あるいは他の人とのかかわり、あるいはそれをさせる感性のようなものが育っていないと、危険極まりない。ものがよくわかって、いろいろなところで重要なお仕事をしていくとなったとしても、その底にある人間観が貧弱であれば、かえって危険なことである。戦後、教育の中でその点が薄かったのではないかということが、今、いろいろな方から指摘されております。したがって、これから専門大学院ができていく、あるいは大学院重点化で、関西でいうと京都大学、大阪大学を中心として、そういう専門家教育に力を入れているわけですが、だからこそ人間づくりということが言われております。
 もちろん、リベラルアーツというか、ゼネラルな教育をする場合には、どこへ行っても必要なわけで、例えばよく言われますけれども、技能的なものとしてはコンピュータが使えて、英語が使えればどこへ行っても大体できるだろう。しかし、問題はその底にある物の考え方、見方、判断の仕方が、さすが高等教育を受けたと言われるだけの深さとか、広さがなければ、大学でそういうことをやる必要はないだろう。つまり、専門学校、あるいは高校まででコンピュータと英語をやって、就職させればいいわけで、大学でということになると、コンピュータや英語を使いこなす人間の側に深さと広さがある。こんなことが繰り返し繰り返しいろいろな会合で言われておりますので、ちょっと紹介しておきます。

○ 委員がおっしゃった判断力の深さというのはもっともなことだと思いますが、私はこだわるようですが、基礎・基本派なので、大学の教養教育にも基礎・基本があるべきで、深い判断力の前に基礎・基本の判断力。それは何かといえば、善悪をわきまえる判断が、あらゆる知育に優先する。これは教育改革国民会議の文言なのですが、そうすれば、原爆とか、クローン人間とか、そういうことも起きてこないのではないかと思いますが、そういったことを押さえておく必要があるのではないかと思います。それが一つ。
 もう一つは、大学が大衆化したから、いろいろな大学ができてもいいと。これは結果論で、それはそれでいいと思いますが、フンボルト的な大学の場合には、学問の自由というものがあったのです。この学問の自由の中には、学生の学習の自由も含まれていたのですが、そのキーワードは「研究と教授の自由」だったのです。教授が研究していることを概論で教えていても、概論になったのです。学生には学問の自由があるから、それを概論に自分でつくり上げていくという、おおらかな、一方では厳しい、そういう大学の世界が、大衆化したために、大学でシラバスをつくれ、カリキュラム何とかと言い出したところから、研究大学のようなところまでそれをやりだして、画一的平等主義の悪弊がそこであらわれて、これではいけないとやっと気づき始めたのだと思います。
 これからは教養的な大学というところで、いろいろなものができると思いますが、そういう意味では教養にも自由があって、いろいろなものが教えられていいのではないかと思います。ただ、そこで必要なのは、先ほど来出ている社会的な共通性に必要なものということが大事だと思います。公共性ともかかわるのですが。私は、社会の存続に不可欠なものというのは絶対譲れないことだと思います。アダム・スミスが『国富論』の中で言っているのは、公的支出、公で教育するのは社会の存続に不可欠なものだ。それが3Rに代表されるのですが、その3Rは現代的な高度化された3Rと委員はちょっとおっしゃいましたが、それは「読み書きそろばん」でなくて、コンピュータになるのか。私はそれはまだよくわからないのですが、ちょっと違うような気がするのです。
 といいますのは、ヒアリングで、バーコードが開発されたのは、「読み書き」のできない人でも仕事ができるように開発されたというのを聞いて、私は半分ハッとして、半分なるほどと思ったのです。今までの3Rに対する考え方が変わってきているのかなと思ったのです。そうすると、これからの教育をどう考えていいのか、まだ私も結論が出ないのですが、そういったことで、基礎・基本で押さえておかないといけない。現代では「読み書き」の「書き」がだめになっていますし、「そろばん」のほうもだんだんだめになってきているわけです。そういうことで、高等教育での社会の存続に不可欠な人材養成の教養の基礎とは何かという観点から整理していただきたいというのが希望です。

○ 大学が大衆化されていく中で、シラバスがつくられるというのは、いわゆるアカウンタビリティーの問題だと思います。その意味でいえば、大学の教養教育についてのコア・カリキュラムみたいなものを、例示的にこういったところで提言されるといいのではないかと思います。
 出てくる問題としては、平和の追求とか、科学と宗教とか、現代と人権とか、生命の危機とか、大学が扱える現代的なテーマがいろいろあるわけです。コア・カリキュラムとしてそういうものを中教審のようなところで参考に提言しておくのは意味があるのではないかと思います。つまり、就学率が非常に高くなっていますから、同年代世代の半分は大学へ行く、あるいはそれ以上行くのだという時代では、それぞれの大学に全部任せてしまって、一切発言しないというよりは、参考としてはこういうものがテーマになっていると。南北問題もそうですし、そのようなことを参考に挙げておいたほうがいいのではないかと思っております。

○ 先ほど鳥居分科会長からお話があった12ページのところに、「カリキュラム外の教養教育」というものが出ております。審議会の提言として、その重要性を訴えるのはいいのですけれども、細かいところはむしろ学生が自主的に考えてやるべきことで、あんまりお仕着せにするのはよろしくないのではないか。カリキュラム外でも教養教育はあり得る、それは重要だと思いますけれども、細かいことをむしろ言わないほうがいいのではないかという感じが一つしております。
 もう一つ、「カリキュラムとしての教養教育」ですけれども、コロンビア大学の場合ですと、プロフェッショナルスクールが20幾つあって、あとは全部アート・アンド・サイエンスで、かなり広く教養部分が入っております。ドクターコースも当然あるということで、マスターばかりでなくて、ドクターまであるという形でございました。大学の場合の教養教育はかなり広く考えていいのではないかと思います。
 もう一つ、これは高等教育と離れるのですが、さっきどなたかからお話がありましたが、ITです。これから21世紀に向かってIT化が進むということでありますので、当然、教養教育の中で何か触れなくてはいけない問題だろうと思います。これについては、相当議論がありますよね。子どものときからやり過ぎるのはよくないとか、また、ある程度のことは教えるべきだとか、いろいろな意見がございます。アメリカの調査ですと、あんまりITをやり過ぎると、脳の一部の発達が遅れるとか、いろいろな調査があるそうでございます。大学あるいは高等学校のレベルぐらいですと問題ないと思いますけれども、小学校あるいは中学校で教える場合には慎重を要するのではないかという感じもするのです。ITの問題をどのように取り上げるか。専門教育ではもちろん出てくるわけですけれども、しかし教養としても考えなくてはいけない問題だと思いますので、そこら辺をどうやるかということは一度議論をする必要があるのではないかと思います。

○ 12ページのところで、特に学部教育の見直しということで出ているわけです。自分自身も大学の教師をやって、特に文系で思うのですが、御存じだと思いますが、学部の名称の数が、大正7年までは1文字だったわけです。大正8年に「経済学部」ができて2文字になった。戦前はたぶん2文字が最高ぐらいだったのではないでしょうか。戦後になって4文字、「政治経済学部」とかが出てきて、4文字以上の学部は幾つあるか数えたことがありますが、たしか20%近かったような気がします。1文字学部は守旧的なものになってしまったのです。4文字以上の学部は、どっちかというとリベラルアーツ型なのではないかと思います。問題は1文字、2文字の学部で、これは教師のアイデンティティと看板はプロフェッショナルスクール的なのです。例えば「経済学部」とか、「法学部」とか。かつての学生は「経済学部」へ行ったら、経済のことを知らないと恥ずかしいということで、プロフェッショナルスクールの看板と実質があっていた。今は御存じのように、経済学部へ行っていて、経済のことを知らないから恥ずかしいという学生はほとんどいないし、私自身、その学生が「経済学部だ」と言っても、経済学の知識を持っているという前提には全然立たないです。そのほうが間違いないのです。学生の側からは、ほとんど教養学部みたいに思っている。実際にそうだと思うのです。1文字学部、2文字学部の問題性というのはすごくあって、教師はすごく専門家意識を持っているのだけれども、学生は全然持っておりません。それをどうするかということを考えないと、あまりにも建前と学生の実際は極度に離れ過ぎたのではないかと思います。それが学部教育の見直しの一つとして思うことです。
 もう一つは、これからの教養ということを考えるときに、5年以上売れる本を補助することも大切だと。本は裁断してしまうわけですね。だから、そういうことも必要だという話がありました。実際、通信教育で生涯教育ということで補助が出ておりますが、もし教養ということを大事にしていくのだったら、個々の課程ベースだけではなくて、教養のインフラというか、社会的基盤みたいな形でそういうものをサポートしていくことも、すごく大切なのではないかと思いました。

○ 鳥居分科会長
 別の観点からもう一つの問題があることを御紹介したいのですが、経済学部の先生が経済学についての深い教養を持たなくなって、自分の目先の専門のことばかりやるようになったという反省が、アメリカ経済学会から出たのが1990年なのです。アメリカ経済学会の有名なジャーナルの一つである『ジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー』というのが、1990年に特集を出しました。ノーベル経済賞受賞者をはじめとする、約30人ぐらいの学者を委員とした特別のコミッティ、そのコミッティはCOGEE(コミッティ・フォー・グラデュエート・エデュケーション・オン・エコノミックス)と略称される委員会ですが、その報告書が出たのです。簡単にその結論を言いますと、経済学は役に立たなくなった。現実の問題とは全く関係ないところで、数学の遊びをし過ぎるということを言い出したのです。それの解決方法として、学者自身が現実を見ることと、経済学そのものが持っている過去の歴史について教養が深くなければいけないということを言っているわけです。
 同じ年に、イギリスの王立経済学会、ロイヤル・ソサエティーが、『エコノミック・ジャーナル』というジャーナルの特集を出したのです。特集のタイトルが「ザ・フューチャー・オブ・エコノミックス」というのですが、25人の学者を動員して、その中の5人がノーベル経済賞受賞者です。「ザ・フュチャー・オブ・エコノミックス」も同じことを言っているのです。
 問題は、委員がおっしゃったように、一般教養的な教育ばかりするという堕落の側面と、堕落なのかどうかわからないけれども、もう一方は先生たちが専門のことばかり、しかも、目先の専門のことばかり教えるようになったという側面とあって、シラバスを彼らに強要せざるを得なくなったのは、実はそのためなのではないかという気がするのです。

○ 京都大学でも、工学部で工学倫理ですね。テクノロジーの倫理を、化学、工学のほうでみんな入れないといかんということになって、そこまでいくのです、カリキュラムに組むところまで。だれが担当するのか。今おっしゃったように、目先のテクノロジーの、最先端をやっている人はいっぱいおりますけれども、それの倫理的なところまではなかなかという、こういう問題が日本の高等教育の場合は大きいだろうと思います。
 日本では心理学の倫理みたいなものが問われないままにきておりますけれども、アメリカやヨーロッパでは、今おっしゃったようなことと同じような流れが出てきました。例えば臨床心理学やカウンセリングが今もてはやされていますけれども、ある意味では社会的な麻薬ではないかという指摘が出てきた。つまり、人間が人間を研究し、場合によっては心理学はそれをもとにして人間に働きかけるわけです。それについての倫理的な側面、価値観的な側面をもう少し詰めていこうという動きが出ております。私どもの大学では、心理学科へ入った1年次の最初に、私が担当して「人間性の心理学」というのをやっているのです。これから少しずつ、今おっしゃったような各専門分野で、土台になるような特に倫理的なことはやっていかなくてはいけないのかなと思います。ただ、担当者がなかなかいない。

○ 鳥居分科会長
 先ほど委員がアダム・スミスを引用されたのですが、私のところにいる50人の経済学の専門の教員の中で、アダム・スミスを講ずるやつはついに一人もいなくなってしまった。必要なくなってしまったのです、今の経済学の教育では。本当は必要なのですけれども。私はしょうがないから、自分が出版しているテキストでは、「アダム・スミス」という節を設けて、ほんの二、三ページですけれども、解説を書いているわけです。そうすると、学生は「こんな話ですか」と言ってくれるのです。要するに講義がないのです。

○ 教育学では、公教育論を論ずるときに、アダム・スミスを引用する人が時々います。私の知る範囲では2人います。

○ 委員のおっしゃったことですけれども、全くお説のとおりで、もともと法学部教育というのは教養でもないし、専門でもない、もともと出発点が中途半端な形で出発した。かつては高校がある種の教養教育の一端を担っておったところがありますし、大学へ入って教養課程があり、専門は本当の核を決めてやるということがあったのです。それが御承知のような状況で、だんだん変わってきまして、専門性も徹底できない、教養も必ずしも、という状況だろうと思います。
 法曹になりたい人は予備校へ行ってしまいます。一発試験ですから、いかに効率的に通りやすいように勉強するかということで、そちらに行くというのは、その人を責められません。そういう状況で、ある種の危機的な状況にあると思っているのです。そういうことで、プロフェッションとして教育するためにどういう教育の仕方が必要かということで、法科大学院構想を考えてきた。人によっては、それは大学の生き残りのための発想ではないかと批判されるところもあるのですが、決してそういうことではなくて、日本の将来を考えたときに、そういうことを基本的に考えないと、大学も日本全体もおかしくなるのではないかという思いでいるところです。法学部は残りますけれども、いずれ法学部の教育の在り方の見直しは不可避だと思っております。

○ 高等教育から外れるのですけれども、昔、書物で、ノーベル賞をとられた福井先生が、いかにこのような学識にまで達したかということを読んだことがあるのです。そのときに一貫して先生がおっしゃっていたのは、私を取り巻く自然とのつき合いで感性を深くしたことにあると。学術の新しい発見にしても、感性に突き動かされて知があったということを重ねておっしゃったことが、とても私は印象に残っております。
 確かに教養とは「知を軸にした人格形成」であると思いますが、私はむしろ知というのは当然であって、「知と感性の融合を軸にした人格形成」というように考えるべきではないか。そこが最初であるわけですが、精神世界の豊かさを忘れているのであるということが、一つの大きなきっかけです。そこを重点に置いて、何を提言できるのか。これはすべてが書いてあるのですが、私が混乱したのは、本来、学校教育なり何なりで基礎でやるということへ、更に転化するということなのか。ですから、新しく何をつけ加えるかというところをもう少しはっきりさせたほうがいいということ。
 それから、主にこれは現場の先生がおっしゃったのですけれども、これ以上できないというトーンでおっしゃったと思いますが、学校教育の中でももちろんそういうことは考えなければいけないでしょうが、生涯教育ですね、つまり、家庭であるとか、地域であるとか、地域の文化施設であるとか、新たな教育のためのリソースみたいなものにどのような刺激を与えて、教養のインフラとなすべきかということが具体的に問われているのではないかと思います。
 これだけの先生方がいらっしゃるので、委員はことわざとおっしゃって、私は大賛成です。いろいろな方々のヒントになるようなことを、これが中教審のまとまったコンセンサスにおける方向だと言わずに、出していくやり方。例えば、電車の中で化粧する女性に、どのように言っても、彼女たちを説得することはできないです。ただ一つ言えるのは、「それははしたないことだ」と言うしかないのです。だから、今まで私たちが祖先の中から培ってきた感性の中のモラルというのでしょうか、そういうものをヒントとして出していくことも一つのやり方かなと思います。一つのことをこうすべきだと言ったら、絶対に社会は受け入れないと思います。先ほどおっしゃった社会的なマナー、規範意識でしたかね、何かが大事だというようなことを言う程度はできると思います。その辺のところのバランスが中教審としては問われると思います。

○ 鳥居分科会長
 ありがとうございました。
 時間がきましたので、まだいろいろ御意見を伺いたいのですが、ここで今日の審議はおしまいにさせていただきます。
 先ほど冒頭に申し上げましたように、この後、ワーキング・グループをつくらせていただいて、ワーキング・グループで素案をつくっていただいて、それからまた御審議をいただくという方法をとりたいと思います。
 お手元の資料2を御覧いただきたいのですが、ワーキング・グループとしてはここにお名前を挙げてございます6人の先生方にお願いをしたいと思っておりますが、よろしゅうございましょうか。(委員了承)
そして、資料3を御覧いただきたいのですが、ワーキング・グループの方々に2度にわたって、もしかしたらもう1回ぐらいお願いいたしました上で、この教育制度分科会は11月5日(月曜日)午後2時から4時までということで開かせていただきたいと思います。恐らく事務局のほうで何か御相談すべきことがあれば、ワーキング・グループの途中の経過等についてまたお送りすることもあるかと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。
 また、先生方のほうで途中で、ぜひこういう意見をワーキング・グループのほうに言いたいということがございましたら、どんな方法でも結構でございますので、事務局に御連絡をいただければありがたいと思います。ぜひよろしくお願いいたします。
 それでは、本日はここまでにしたいと思います。大変ありがとうございました。

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