資料10 地方教育行政部会(第5回)における意見(論点ごと)

1.教育委員会の意義・役割

1.中立性、安定性、継続性の確保

  • 教育委員会制度を見直し条例化することで、教育への住民の関心を高め、教育委員会の重要性が増し、責任ある教育行政、教育委員会の中立性・安定性・継続性の確保を実現できる。この場合、国は教育委員会の在り方の緩やかな指針を示すべき。
  • 個性的・独創的な首長の場合、その後の継続性・安定性が問題になる。実際、改革派の町長のもと、教育長の公募制を採用した町では、当該町長の辞任と共に公募教育長の進退について裁判で争われ、教育行政上の混乱、空白が生じている。

これまでの意見

  • 政治的対立の厳しいところでは、教育委員会制度による政治的中立、レイマンコントロールが必要。戦後の日本の教育で最も不幸だったのは、イデオロギー対立、政治的対立が教室まで持ちこまれたこと。国旗国歌問題がその典型だ。首長が替わることで教育が変わることがないよう、政治的中立性を確保しておく必要がある。
  • 教育は、一自治体の問題としてではなく国家の問題として捉えるべき。この場合、その中立性、安定性、継続性を確保することは大事であり、教育行政の執行体制として、長から独立の機関が担うべき。ただし、現行の教育委員会制度が良いのかどうかは議論すべき。
  • どのような人が市長になるのかにかかわらず、教育が適正に行われるよう制度的保障が必要。教育委員会制度を撤廃し、とんでもない市長が当選した場合、大変なことになる。教育はあまりぶれてはいけない。
  • 首長が替わり、従来と違うことや新たな選択を迫ることになれば、学校現場に混乱が起きる。教育が首長から距離を置いていることは大事。また首長がマニフェストに教育まで掲げた際、どこまで踏みこめるかについて議論すべき。
  • 政権が変われば自治体の行政全体の方針・総合計画が変わる。教育行政もその一部としてそれに沿ったものでなくてはならず、独立性があるかどうかは微妙。
  • 首長から独立した執行機関の教育委員会が、チェックアンドバランス機能を果たす必要性は理解できるが、新しい教育や変化が求められる時代には、これらは弊害ともなる。
  • 教育の継続性・安定性というが、一般論として、政権の変化に応じて政策が変わることも必要。
  • 選挙公約に教育問題が掲げられやすいが、それによって首長交代ごとに教育施策も転々と変化することが危惧される。
  • どんな首長であっても、教育が常にそれなりの水準を持って保たれるということは大変重要。また、教育はそう頻繁に改革されてよいものではない。
  • 日本どこでもいつでも等しく義務教育を受けられる良さを守る、この点についても議論すべき。
  • 教育委員会制度の在り方を住民の選択に委ねた場合、住民の意向をどのように把握するのか。また、この場合は首長が変わる度に制度が変わってしまい、教育の安定性を図ることができない。
  • 教育の安定性・継続性の保持というメリットを考えると、教育委員会はあったほうがよく、今後はその活性化を図るべき。
  • 現在、20世紀的イデオロギー対立は終焉したが、政治的対立はなくならないので教育行政の安定、学校教育の信頼確保のために教育委員会制度の意義はある。

2.レイマンコントロール

  • レイマンコントロールは、専門家だけの判断に偏することなく、住民のニーズを適切に施策に反映させる仕組みである。

これまでの意見

  • アメリカには、民主主義を非常に重んじる政治的伝統があり、一般人や素人が政治・行政を担うのが最も民主主義的だという政治的伝統がある。
  • 事務局が実質的な権限を持つと、レイマン・コントロールの意義が失われる。教育委員と事務局間の実質的権限のバランスをどうとるか、制度上不明確である。
  • レイマンには、偏見や党派性に左右されない理知的判断力が求められる。
  • レイマンは一般に「素人」と訳されるが、教育という点での素人が教育行政ではプロだということはあり得る。
  • レイマンコントロールには緊張感を持たせるという役割がある。裁判員制度と同じで、専門家だけだと偏った方向へ行くという考え方が、レイマンコントロールに道を開いている。
  • レイマンは重要なコンセプトである。これまで素人という意味合いが強かったが、むしろ予断や偏見を排して事柄に臨む人たちと考えるべき。
  • 教育長もレイマンの教育委員に説明して合意されないと決裁できない。この制度は緊張感がある。このような特長を発揮できているかどうかは運用の問題である。
  • レイマンコントロールの考え方は大事にしたい。教育委員会が教育の専門家だけで構成されるのはいかがか。レイマンは素人でなく、一般常識人ととらえるべき。一般常識人たる国民の代表が、教育について意見を言う機会を大事にしないと、特定の人間だけで教育が動いてしまうことになる。
  • 教育長の役割は大きい。全くのレイマンではなく、ある程度の経験者であることが必要。
  • 教育は全国民が関わることであり、まったくの素人はいない。
  • 教育の問題は、誰もが真剣に考えることができるものであり、教育委員は大局的な判断をなすことができる。議論が伯仲することはあるが、それによって事務が遅滞することはない。
  • もっと国民の判断を信頼すべきであり、個人に選択の機会を与えることこそ、究極のレイマンコントロールである。
  • レイマンコントロールの本来の趣旨は、選挙によるイデオロギーのブレを防ぐもの。しかし審議会の設置などでそれは防げる。形式的なレイマンコントロールによって、イデオロギーのブレを防ぐというのは時代錯誤。

3.行政委員会

これまでの意見

  • 独立行政委員会は、19世紀の終わりにアメリカで生まれ、戦後、日本でも公安委員会や農業委員会としてつくられた。その後、性質が変わってきている。現在、制度の在り方について問題提起されている以上、そこまで立ち返って考える必要がある。
  • 民主的な統制と行政の専門性・中立性・効率性の両立させるものが、行政委員会制度である。
  • 行政委員会導入の趣旨として、アメリカは過剰な民主主義に対する行政的専門性の確保に主眼があった、日本では特定の立場に偏らない公正さの確保という点にあった。

4.教育委員会の在り方

  • 現在の教育委員会制度は基本的に堅持すべき。教育委員会制度の廃止や首長部局への移管については、教育行政が活性化される保証はなく、むしろ継続性・安定性の面での危険性がある。
  • 教育委員会が中立という存在、飾り物で何もし得ないという指摘があるが、予算権や提案権がなく、やりたくてもやれない状況に置かれてきた。

これまでの意見

  • 一般市民に教育委員会の情報がほとんど流れてこない。教育委員会会議は公開しているようだが、いつ公開しているか、どうやって参加できるかが不明。
  • 何のための改革かを考えるべき。問題として、1.現場の教員の質の低下、2.学校のガバナビリティー(管理運営能力)の欠如がある。これらの改革が必要であり、それをもたらすための制度となっているかどうかを議論すべき。
  • 教育委員会の見直しの視点として、1.個々の教員の人格、見識にすべてを期待できないならば、それを制度で担保できないか、2.教育委員会制度が実際に機能しているのか、3.教育の在り方と社会の目指す方向のベクトルが一致し、それを支える制度として教育委員会が機能しているか、の3点がある。
  • 教育委員会の問題は制度の問題である。普通の人による運用であってもうまく機能するような効率的な制度とすべき。
  • 教育委員会制度について、制度をどう変えていくかということではなく、運用でどこまで活性化できるのかをまず考えるべき。
  • 運用の問題と言うが、どんな制度であれ、見識のある人がリーダーシップを握れば良い行政ができるのは当たり前である。
  • 二元代表制をとる日本の教育委員会制度は、日本独特の教育行政の仕組みであり、わが国の地方自治・行政システムにマッチしている。
  • 規制緩和、制度選択の自由の余地を広げ、どのような制度をとるか選択の余地を残すべき。
  • 「画一」から「多様性」へ、「一律」から「選択」へと制度運用を試みるべき。
  • 学校を開かれたものとすることについて、保護者の大半が賛成だが、学校に参加していくことには躊躇する。参加することに消極的なのは国民性の問題かもしれないが、教育委員会問題の難しさもここにあるのではないか。この傾向が教育委員会のシステムの問題として不満になって表出したものならば、非常に危険。
  • 小中学校の現場が教育委員会を向いている。教育委員会は首長を見ないで都道府県に直結している。都道府県は文部科学省の方を見ている。このような点が批判や物足りなさを生んでいるのではないか。
  • 全国市長会の中にも教育を考える研究会が設置されているが、その発端は、ある市長が教育委員会制度を廃止し市長自らが教育行政を行うことや、審議会をもって教育委員会に替えることを発議したことにある。ただし、研究会では様々な議論をしているが、制度が問題ということではなく、運用の問題について多く意見が出されている。
  • 地方分権改革推進会議は、中間論点整理において、確かに教育委員会制度を尊重することとしているが、その後必置規制を廃止すべきとしている。
  • 必置規制を廃止すべき。ただし教育委員会制度そのものを廃止するのではなく、設置しなくともよい、とすることである。
  • 現行の教育委員会制度がよいとする自治体もあれば、首長へ一元化、あるいは首長から独立した独任制の教育担当者を設けるといった仕組みも考えられるので、これらをきちんと制度設計して実験するのがよい。
  • 教育委員会を廃止した場合、首長による教育の直轄・議会の過度の介入や、権限を有する教育長や部長など少数の官僚による教育施策の決定と学校への権限移譲・事務一任といった事態になる恐れがある。
  • 教育委員会と教育審議会の機能は全く別。教育委員会は政策決定をする執行機関であり、教育審議会はあくまで諮問機関である。教育委員会を廃止し、教育審議会を導入した場合、政策決定を独任制の教育長だけが担うことになり、首長・教育長の権限が強化され、大変危惧される。
  • 首長がやるのもいいが、そこに教育行政を首長に「任せる」という国民意識があるならば、問題。国民に参加する、関わるという意識がない限り教育委員会は健全化しない。
  • 政令市、中核市、特例市、その他の市町村は、抱えている問題や行政資源もそれぞれ違い、これを一律に議論することは無理。現行の地教行法について、可能な部分を標準法化することや、規模の違いによって教育委員会の運営や構成に選択肢を与えるようにしても良いのではないか。
  • 地方分権では、それぞれの地方が自ら望ましい組織を考えていくことが、自己決定、自己組織権として重要。地域が責任を負うのが地方分権の理念とすると、現在の教育委員会制度は地方の裁量を縛っているのではないか。このことから必置規制は見直すべき。
  • 地域が柔軟に教育施策に取り組めるよう、都市の規模、能力、意欲に応じて権限を移譲し、教育委員会の活性化を図ることが大事。
  • 一定のミニマムの基準を満たさなければならないとは思うが、他の形態で合理的なものがあれば、それを選択する余地があっても良い。
  • 一概に教育委員会制度といっても、都道府県から小さな町村まで様々。今求められているのは、画一的なシステムではなく、教育施策・改革に挑戦する自治体に、周りが引っ張られるような在り方である。
  • 教育においてミニマムスタンダードは重要であるが、地方間格差を作ってはならないわけではない。伸びる部分を抑制する必要はなく、自由競争の下で、よい教育をした地域が刺激を与えて、良い取組が広がってゆく底上げが望ましい。
  • 機能強化の方策として、1.審議会・協議会を設置するなどによる企画・立案能力の向上、2.適切な学校視察や研修による監督・指導力の向上、3.調査委員会や公聴会の設置などによるオンブズマン的機能の向上、などが考えられる。
  • 校長会、教頭会等との意見交換を行う教育委員会は、県レベルになると少ないが、もっと意見交換を行うなど、現場の状況や声をしっかりと把握すべき。
  • 教育行政において説明責任を果たすのが誰なのか不明確なことが、今の教育委員会制度の課題である。
  • 教育行政における責任性の明確化、迅速化というが、今の教育委員会制度の枠組の中で、教育委員長と教育長の二元性をやめるとか、教育委員会の合議制を緩めるなどの方策で対応が可能である。
  • 教育委員会の問題改善には、1.教育委員と社会教育委員の関係、2.教育委員会、生涯学習審議会・生涯学習推進会議、社会教育委員の会議の3者の関係、3.教育委員会事務局と首長部局との関係、の改善が必要。

5.教育委員の在り方

  • 委員の常勤化を含め、委員の待遇を見直すべき。
  • 地域住民から見て、教育委員が地域のあらゆる分野、各界各層からの代表者で構成されているほうが広く支持されやすい。教育委員の、人格識見すぐれた人材の発掘と登用に最大の努力をすれば、教育委員会の形骸化、委員の名誉職化という問題は解決可能。

これまでの意見

  • 教育委員は選挙で選ばれるわけではなく非常勤であることから、非力であり、当事者能力に欠ける。
  • 市町村の教育長の大半が校長経験者であったり、委員も名士であったりする。人材の充実・確保を図るべき。
  • 教育委員が名誉職にならないよう、現場主義を徹底し、できるだけ学校現場や教職員、社会教育委員の会合に出てもらうようにしている。
  • 教育委員会が機能していないのは、人材に問題があるのではないか。小さな町村では人材の確保の面で困難。
  • 教育委員の人材が問題。市町村合併を機に人材の一新をしないといけない。
  • 適切な学校視察や研修がより必要。
  • 教育委員が非常勤、合議制というところに限界がある。委員は月一回の定例会しか集まらず、また自分の本当の職業を持っているため、結局事務局主導型になる。教育委員は、市民の良識、市民の見識を十分に発揮できるようにすれば十分だ。
  • 教育委員に見識のある人を選べば解決できる問題は多い。総じて首長は教育委員の選任に無頓着である。
  • 個別の教育委員会において問題があるとしても、それは、委員自身の責任に加え、委員を選任した長や、同意した議会にも責任がある。
  • 教育委員長の常勤化など教育委員の一部の常勤化や、教育委員の準公選制などを選択させてもよいのではないか。それは自治体の首長や議会の選択ではないか。
  • 本当に民意の反映というのであれば、公選制の仕組みが考えられても良い。
  • 形骸化は、委員の選び方や会議の設け方で改善可能。委員や審議員を10~20人とした場合、その選任は大変な上にそれぞれの責任の所在が不明確になる。
  • 教育委員の数を条例で定めるなど、自治体の規模に対応できるよう委員数を柔軟化させるべき。

6.教育長の在り方

  • 議会での発言はほぼ教育長が行うが、教育委員長の教育委員会における発言と対社会への発言・責任が不明確なので、教育委員長と教育長の責任分担を明確にすべき。

これまでの意見

  • 平成10年中教審答申に盛り込まれた「教育長と教育委員の兼務の撤廃」が実現されていない。教育長は自ら議案を提出し、自ら審議に加わる中で、非常勤の委員がそれらを否定するのは難しい。
  • レイマンコントロールとして選ばれる教育委員は廃止し、個性的で行動力ある教育長が単独で取組めばよい。
  • 教育長のリーダーシップと専門性を高めることが必要。例えば、教育長の「資格制」を再検討する余地がある。

7.教育委員会事務局の在り方

  • 一般的に、町・村の職員の、教育委員会事務局と首長部局との人事交流が普通に、頻繁に行われるためか、教育行政に秀でた職員がなかなか育たない。指導主事の配置も含め、専門職員の育成をどうするかが教育委員会の活性化に向けて重要。

これまでの意見

  • 教育委員会についても、教育委員だけではなく教育長をはじめとする事務局の在り方も問われるべき。
  • 教育委員会は一般人の意見を反映する点で民主的な制度とされているが、行政は複雑で高度になってきている。このため事務局が多くの事務を処理し、それを承認するという仕組みになってきており、事務局が複雑で不透明になっていることに対し、不信の念が生まれている。
  • 事務局の用意する説明資料は、簡潔かつ適切でわかりやすいものにすべき。
  • 教育委員会と事務局の関係だが、現実は、膨大な事務量を抱える事務局が、教育委員会を審議会的に扱っている。
  • 教育委員の多くは、教育政策に自分たちの決定事項が反映されず、無力感を感じている。教育委員会事務局などとのつながりがうまくいってない。
  • 教育委員会事務局職員の首長部局からの独立した人事、すなわち教育委員会による事務局職員の人事権の把握(せめて室長、課長クラスの人事考課)や教育委員会自体の政策評価が必要。
  • 事務局職員が首長部局と相互に人事交流をしていることや、教育長は事務局のエリートが繰り上がる慣例から、教育の中立性は、実際は叶えられないものではないか。

2.首長と教育委員会の関係

1.首長と教育委員会の連携

これまでの意見

  • 現在の教育委員会制度は、いささか中途半端な制度であり、首長と教育委員会との間で、狭間ができてしまう。お互いに頃合加減を見るスキルが重要。
  • 首長が学校を訪問したり、教育委員と定期的に協議したり、小中学校の校長の研修会に参加して直接議論したりすることで、学校教育に首長の意見を反映できる。
  • 多くの首長は「教育委員会があるから私は遠慮します」という発想。相互の連携のノウハウや首長、議会の果たすべき役割についても提言すべき。
  • 教育委員会と首長の連携が良いところほど、教育行政がうまくいっている。教育委員会は、地域の慣行や制度の枠内で政策を執行しようとする傾向があるが、首長は、教育委員会よりも住民の要求をストレートに受けるので、制度の枠や慣行を度外視した発想で地域の教育問題を考え、教育委員会に問題提起する。そういう緊張関係が良い結果につながっている。
  • 首長と教育委員会の相互理解の上に教育が成り立つのであり、年に数回、首長と教育委員会の話し合いの場を設け、そこで首長の考えを教育委員会に理解してもらうことが重要。ただし、実際には、首長の教育への理解に各自治体で温度差が大きい。
  • 首長との関係については、一般的に首長が自らの意思で選んだ委員であるので、良好な関係であるはず。しかし選挙のタイミングなどで、うまく連携できない時期もあると思うが、それこそ教育委員会の中立性が機能している証左である。
  • 学校教育(公教育)の振興については、中立性、安定性、継続性が大事であり、教育委員会が担うべきだが、より根本的な検討が必要な場合は、首長と懇談会、臨時審議会などを通して連携して検討すべき。
  • 首長にとってもその地域の特性を示す上で教育問題は大事であり、首長が責任を持って信頼できる人を教育長に任命し、教育にコミットすればよい。
  • 議会で議決する自治体全体の基本構想・長期計画と、地教行法上の教育委員会の権限をうまく調和させるべき。
  • 教育委員会がなかったとしてもできないことは無い。首長と教育長のコンビで教育が実践されるべきで、首長が教育行政について選挙民から評価されることを信頼すべき。

2.首長と教育委員会の役割分担

  • 学校教育のみならず家庭教育、社会教育、生涯学習を包括した教育委員会とするならば、それを明確化すべき。家庭の崩壊、学校の治安の悪化といった問題には、地域や首長部局との連携が必要。
  • 生涯学習について、教育委員会と首長部局の連携を条例化して明確な枠組を定め、どの時代、どの首長においてもそうした横断的な運用が可能となるようにすべき。

これまでの意見

  • 首長には教育行政を担いきれないもどかしさがあるが、全てを首長がやるのではなく、独立行政委員会として教育委員会が機能すれば良い。
  • 社会教育などについて、首長の意見が通らないから首長に事務委任をするというのではなく、図書館や文化施設の管理運営を財団に委託するなど工夫すべき。
  • 生涯学習や青少年教育についての首長の意欲と認識に濃淡がある。生涯学習にしても、あれは教育委員会の仕事だということで済ませてしまう。急速な高齢化の中で、生涯学習、生涯スポーツの振興は公共事業よりも大事な問題であり、首長は真剣に取り組むべき。
  • 青少年の問題行動への対策には乳幼児期の対策が必要となる。青少年教育と家庭教育についても認識を持ち、首長と教育委員会が密接に連携していくことが必要。
  • 社会教育・生涯教育、文化・スポーツ等の振興について、教育委員会が担う場合には学校教育との連携、事業の安定・継続という点でメリットがあり、他方、首長部局が担う場合は、新規事業の企画・実現、予算確保といった点でメリットがある。
  • 新規事業の企画や実現は、首長部局と教育委員会の双方でやるべきだが、制度的な普及・拡大が進む場合は、運営・監督・支援は、専門性と継続性を確保しうる教育委員会が担当すべき。
  • 予算権だけが首長にあるために教育委員会が形骸化するというが、教育行政上それほどの権限があるのだから十分であり、むしろ内容の充実を考えるべき。
  • 学校教育・社会教育の共通点は、公平性、公共性、中立性にある。相違点は、学校教育が継続性、安定性が求められるのに対し、社会教育は変動する社会の課題、個人の問題の解決を目指す学習を支援するため、柔軟性・迅速性が必要という点にある。
  • 学校教育の継続性・安定性が社会教育にも及び、社会教育の柔軟性・迅速性が失われたため、社会教育の機能が低下したのではないか。
  • 生涯学習支援システムの整備・充実など生涯学習振興行政固有の領域は、教育委員会が所掌すべき。
  • スポーツ、文化・生涯学習は、コミュニティーの力を全面的に活用して規制緩和し、首長のリーダーシップのもとで財団法人やNPO等が担うよう改革すべきで、この場合、教育委員会は企画管理、監督等を行うべき。
  • 生涯学習に係る分野には専門性が必要なものが多く、また、教育委員会に専門スタッフが揃っている点からも、生涯学習の教育にわたる分野は包括的・システム的に一貫性をもって教育委員会が担うべき。
  • 0~5歳まで、公が教育面で関わることがほとんどない現状。幼児教育は教育委員会が所管すべき。

3.首長・議会の在り方

  • 首長は教育の要素のみで選ばれるわけではないため、教育に関心が無いとか、とんでもない首長が選ばれた場合、教育が不活性になり教育環境が悪化する恐れがある。また現行教育委員会制度では、そのような首長であっても誰も責任をとらない、きちっと説明責任が果たされないといった仕組みになりかねない。

これまでの意見

  • 首長や議会の在り方も論点である。首長や議会が、見識を持って教育について真剣に考え、人的にも財政的にも投資をするようにすべき。
  • 教育の背後にある地方自治制度についても、提言をしても良い。
  • 教育委員会のみを取り上げるのではなく、首長や議会が教育行政にどう関わっていくか教育委員会、首長、議会それぞれの役割分担や連携の在り方について議論が必要。
  • ある制度の改革について、知事部局の類似制度との均衡から実現できない場合もある。
  • 地方分権の観点からは、自治体における二元的代表制も見直す必要がある。
  • 教育を論ずる際には、それを取り巻く自治制度にも検討し、なんらかの提言をすべき。
  • 議会を通じて、真の利用者が教育行政に対して監視・評価ができるような仕組みを提案してはどうか。
  • 今、子どもを持つ教育に関心のある普通の市民が議員になれるような制度改革、また、そうした普通の市民による議会運営ができるような制度改革が必要。
  • 教員が市町村議会の議員になれるよう兼職規定を外すなど、教育の観点からの議会制度の見直しについて提言すべき。
  • 首長のリーダーシップを法律で明確化すべき。

4.予算に関する権限

  • 教育委員会に自主課税権・予算編成権・予算提案権を与えて、説明責任を全うさせる制度設計も考えられる。
  • 教育に造詣が深くない首長であっても教育財政はきちっと行われるような保証が、教育行政システムに確立されるべき。

これまでの意見

  • 教育委員会は財政自主権がないため、首長に見識がない場合、教育に関心も予算も振り向けられない。
  • 都道府県の教育庁の予算の大半は市町村立小中学校の教員分を含めた人件費であり、裁量が少ない。
  • 教育委員会に一定枠の予算をわたして、教育委員会の責任で使えるようにし、それを市民が政策評価するようにしている。

3.市町村教育委員会の在り方、国・都道府県・市町村の関係

1.市町村教育員会の在り方

  • 市町村教育委員会は、教育委員会で討議され決定した事項を速やかに住民に知らせ、説明していくことで教育への住民参画を図るべき。
  • 市町村の教育委員会は常に状況を把握するため現場主義に立ち、保育者や地域住民との連携を密にすべき。
  • 国や都道府県からの各種権限委譲を強く求める大都市から、教育事務所を含め県の教育委員会の指導・助言がなければ対応できない町村まで千差万別あるのが実態。大都市の教育と小規模の教育を同レベルで考えるのは妥当でなく、幾つかのモデルなり制度の多様化を検討し、それぞれの実態にあった対応ができるようにすべき。
  • 小規模市町村の広域化方策について、その困難さも含めもっと検討すべき。

これまでの意見

  • 子どもや住民に最も身近な市町村教育委員会や学校が、ニーズや実質をきちんと把握し、自立し、自ら批判し責任ある教育行政を担う仕組みが大事。
  • 教育長と教育委員長の2本立ての制度が小規模の市町村にとって必要なのか。教育長が教育委員会を代表するという選択肢があっても良い。
  • 小さな町村を忘れないで議論すべき。町村は市町村合併で減っていくが、それでもなお残る町村はある。
  • どこでもいつでも等しく義務教育を受けられることができる、そうした良さとその維持についても議論すべき。合併が進む一方で小規模でとどまる自治体もある。また中核市とそれ以外の市町村ではかなり状況が異なる。
  • 市町村レベルまで見渡すと、教育委員会は規模も行政資源もそれぞれ全く異なるため、すべての教育委員会が、地教行法の下で同じように組織を運用するのではなく、行政資源に対応して教育委員会の組織や運用のあり方を弾力化・多様化すべきである。
  • 小規模の町村では、教育委員会を設けないという選択肢があってもよい。
  • 市町村レベルでは対応しきれない複雑な行政事務、人材確保という観点から、教育行政の単位は、政令市、中核市、特例市くらいまでとするのがよい。
  • 小規模市町村など特例市よりも小さな自治体では、共同処理方式の可能性を検討すべき。
  • 小規模自治体の求めに応じ、国や県から専門家を教育委員として、または企画担当として派遣すべき。

2.国、都道府県、市町村の関係

  • 政令市は、都道府県から独立して教育行政を進めることが可能。中核市は、人事権なども含めて都道府県教育委員会と共同で、その他の市町村は都道府県教育委員会との役割分担を明確にして、教育行政を推進すべき。
  • 地方分権の考え方は大事だが、だからといって国、都道府県、市町村といった縦の流れを否定したり、上意下達といった表現でマイナスイメージとしてのみ捉えるべきではない。規制緩和の名の下に特色や独自性を出すことが、自由に好きなようにやることと考えられ、全国水準の保証が危うくなったり、地域の格差が大きくなったりしてはいけない。
  • 地教行法等の見直しにより、都道府県と市町村の関係がイコールパートナーの関係へと移行しているが、依然不十分と考える市町村と、逆に不安を抱く市町村がある。都道府県の指導性と市町村の自主性のバランスをどう図るかが重要。

これまでの意見

  • 過疎過密が進み、経済格差も広がっている。教育の機会均等も満たされていない。自由の名の下に規制緩和が進んでいるが、国、県、市町村は、一体となってこうした格差や偏りを調整する役割を果たすべき。
  • 上意下達と言うが、国では各界の意見を反映し、内容を吟味できるが、町村レベルではできないことが多い。また、権限とともにお金も一緒におろされるのであれば、逆に格差が広がる。規制を緩和すれば良い教育ができるのかどうか、確認する必要がある。
  • 全国的な義務教育の保証という点をかんがみれば、義務教育の実施の担保と地方分権はなじまない部分がある。
  • 地方分権の進展により、一般行政においては権限委譲が進んだが、教育行政においては、教育に対する国民の関心の高まりを背景として、県から市への指導強化への要請が高まっている。そのほとんどは義務教育に関する教育内容や教員の資質に関するもの。
  • 国、県教育委員会、県教育事務所、市町村教育委員会、学校という縦系列の長さの中で、権限の無いものが強く受け止められ、硬直化する仕組みとなっている。国の通知を県、市が単に学校現場に流すだけではなく、県や市それぞれが、何ができるのかを考えるべき。
  • 政令市を抱えている県では、政令市と県との関係が大きな課題である。
  • 教育はあくまでサービスであり、利用者個人が選べるような在り方が望ましい。ただし全くの自由選択である財サービスとは異なり、個人がうまく選択できるよう行政の関与が必要。その関与は、人々のニーズを熟知した市町村が行うべき。
  • 現代の行政ニーズの多様化の中では、何が「最適な教育」なのかは必ずしも明らかでなく、地方がそれぞれに切磋琢磨して最適な教育の在り方を模索すべき。
  • 市町村立の小中学校と都道府県立の高等学校では状況が違うのではないか。高校は管理が行き届いていない。方面別教育委員会でもつくらないといけないのではないか。
  • 県の教育委員会は、市町村や学校における情報開示を積極的に促して、評価機関としての役割に特化し、指導力不足教員の認定や分限免職の指針等、教育のインフラづくりをすべき。
  • 義務教育段階での「教育の基本」は、市町村の教育委員会、学校で決めるべきである。
  • これからは、地域の問題に自分たちで責任を持って対応するといった力量をつけるべき。そのために、制度の選択制・多様性の枠組を用意し、どれがふさわしいかを考える機会を与えるべき。(例:教育委員の一部常勤化、教育長と教育委員長の関係、教育委員の準公選制の任意的採用、小規模自治体では教育委員会自体を設置しない等)
  • 地域の実情に応じて、「融合的な行政(国・都道府県・市町村が互いに重複しあう)」、「分離的な行政(市町村が専管的に担当する)」のいずれも実験できる在り方が望ましい。
  • 国、県、市町村の融合的自治を通してナショナルスタンダードを堅持すること、同時に地域の特性を生かすことが大事。しかし現状では、ナショナルスタンダードを教育業界が決め、それに対し国民が不満を持っている状況といえ、決め方に問題がある。

3.教職員の人事

  • 3万数千人の町では、人事案件を都道府県教育委員会の助力なしに対応するのは困難。10万人規模の都市や中核市でも同様。
  • 都道府県の人事権を市町村に委譲したとしても、市町村には人事事務を行うスタッフとノウハウがない。それらを備えた大きな市であっても、優秀な教員が都市部に集中し、都市部と周辺部の格差が広がり、県全体の教育力が下がる恐れがある。
  • 教職員研修の内容と方法に加えて、都道府県で行う研修と市町村で行う研修との役割分担が不明確。
  • 人事異動は教員の希望が前提となっている。これを自由にさせると、僻地とか出身者の少ないところには教員がいなくなってしまう。県全体の教育力アップという点から、バランスよく広域人事することは県教育委員会しかできないのが実態。
  • 県で採用した教職員の研修が十分に行われないまま市町村に配属されていくという問題がある。
  • 人事権を設置者に移した方が、組織に対するロイヤリティーも生まれ、地域に根付く。離島なども行政職員は独自に採用しているし、教員もその方が資質向上する。
  • 人事権を学校におろすのは問題が大きいが、都道府県からおろして地方で採用すると地域に愛着をもったそれなりの教員を採用することも可能ではないか。
  • 採用や人事交流のあり方、人件費等の調整を含め、いくつかのオプションを出してシュミレーションすべき。
  • 市町村の歴史や風土、慣習といったものを研修に盛り込むなど、教員研修は市町村の教育委員会がしっかりと行うべき。

これまでの意見

  • 都道府県が持っている人事権を市町村に移せという議論があるが、懲戒処分や採用も含めて考えると無理がある。ある程度広域でやった方が良い。
  • 県費負担教職員制度は市町村にとって窮屈な部分がある。離島へき地を抱えている県では広域人事が必要であり、制度は廃止すべきではないが、広域人事を基本としつつ市町村のイニシアチブが働くように工夫すべき。
  • 中核市は研修の権限は委譲されているが、人事権は委譲されていない。人事として見通しが立たないため、市に研修権限を与えられても、実際の研修効果を得られるか課題である。
  • 教員の不祥事の説明責任は、任命権者である県が負うのか、市町村が負うのか曖昧であり問題。どちらが権限をもつのかという点ではなく、どちらが説明責任を果たすのかという点から検討すべき。
  • 教員の人事について、県は市町村の納得が得られるよう改善が必要。小規模な市町村で研修をするのは困難であり、県が事前に資質を担保してから送り込むべき。
  • 中核市へ人事権を移せという話があったが、多くの市町村は今後合併が進んでも10~15万人であり、なお人事権について県と市町村の関係が問われる。
  • 私立学校同様に、教職員の任免権を学校におろし、教員にも学校を選べる選択肢を与えることが望ましい。へき地の教員確保の問題については、画一的な教員給与体系を改め、へき地では手厚く給与を支払うなど、弾力的な給与体系を市町村レベルで選択できるようにすべき。
  • 実際の市町村教育委員会の実情は非常に厳しい。例えば辺地においては、給与を手厚くといっても財源が無い。
  • 学校で教員採用を行うことについては、現在、アメリカにおいて、先生が年度途中により優れた学校へと移動してしまうスクールホッピングという大きな問題が起きている。
  • 人事権につき、広域人事のメリットである域内における教職員の適正配置と人事交流は、大きな意味を持つ。
  • 広域人事を前提に、市町村・学校の裁量権やイニシアティブをいかに拡大するか、検討すべき。
  • 学校単位で教員を採用することは、アメリカで起きているスクール・ホッピングのように問題を抱えた学校ほど困難な状況に追い込まれる可能性があり、非常に大きな問題がある。
  • 義務教育費国庫負担制度、県費負担教職員制度、人確法のメリットは極めて大きい。これらを前提に、市町村や学校の裁量を拡大する方途を模索すべきである。
  • 都道府県教育委員会が行う人事事務は、市町村からの内申をそのまま広域的に配置するだけで形骸化している。
  • 人事については財政が伴うものであり、この財政難のなか、教育に理解を欠く首長であっても財政的な担保がなされるような人事とする必要がある。
  • 保護者にとっての関心は教員の資質向上にある。子どもたちにいかに良い先生を与えるかが大事で、この点を人事権の観点からも検討すべき。
  • 開かれた学校づくり、説明責任、参画によって地域から常に見られるという状況の中で教師が説明責任を果たし、その資質確保を図るべき。
  • 市長たちは、指導力不足教員に対して教育委員会がほとんど対応していない状況や、民間経験者など有能な人材を採用できない状況などを問題視し、人事権を市におろすべきと主張している。
  • 研修強化ではなく、授業改善に専念できる体制作りに取り組まなければ、教員の資質改善に寄与しない。
  • 市町村では規模も小さいところもあり、分限や懲戒など大変な手続きを要することをふまえれば、人事権を市町村におろしたとしても満足な人事は行えない。

4.財政

これまでの意見

  • 教育は国の債務であり、財源は国が保障すべきである。日本全国どこにいても必要な費用が保障されるシステムが必要。
  • 都道府県と市町村間の国庫負担金の総額裁量制のようなものも検討すべき。
  • 例えば、地方税法の枠内で「教育目的税」を導入するなどの施策を講じるべきである。高水準の教育サービスのためには、地上税法に基づいて任意に教育目的税を課税する仕組み、例えば上乗せ課税権を持たせてもよいのではないか。

4.学校と教育委員会との関係、学校の自主性・自律性の確立

これまでの意見

  • 利用者のニーズに応じた行政を実現するため、保護者や生徒の近くにいる校長に権限を持たせるべき。県から市へ、教育委員会から学校へ権限を下ろしていくことがコーポレートガバナンスの考え方から望ましい。
  • リーダーシップを取れる人は多くないということを踏まえるべき。権限を下におろすほど、関わる者の人数が増え、人材を見つけることが難しくなる。
  • 立派な人が広く影響を及ぼし、かつ民主的な仕組みを維持するためには透明性を高める以外にない。権限をおろすだけでは問題は解決しない。
  • 校長の権限を拡大した場合、どのような弊害が生じるのかという点も重視して議論すべきである。
  • 校長の能力が不足しているという意見があるが、校長の責任を強くすれば、それに見合った人が選ばれる仕組みができてくる。
  • 学校を利用者が選択する仕組みをつくることにより消費者主体のサービスが実現できる。
  • 校長・教頭の他に校長の権限で副校長を置くことができるようにしている。こういう者を管理職の扱いにできるような権限が教育委員会に必要。
  • 自主性・自律性の向上は必要だが、ナショナルミニマムを保障するような仕組みが埋め込まれることが必要。
  • 地域間格差、学校間格差、学級間格差が厳然としてある。それを考慮せず画一的に行政を行っていくと、子どもの状況や保護者のニーズから乖離してしまう。
  • 何が最適かを個人の選択に委ねた場合、地域差や学校差が生まれ、学校の廃校にさえ至りうる。国として教育のスタンダードを全て取り払うことがよいのかどうかの検討が必要。
  • ガバナビリティの欠如を解決するには、学校長に予算などの権限を与え、また責任を負わせるべき。コーポレートガバナンスに近いものを学校に求め、その学校を支援する市町村(すくなくとも中核市以上)の教育委員会に、教員の任命、免許状等の基本的な教育行政の権限を与えるべき。
  • 評価から説明責任、さらにその先の具体的な取組みへと好影響が循環するよう、評価システムの確立が重要。その際、画一的な評価システムを打ち出すのではなく評価基準はそれぞれの学校ごとにPTAなどと一緒に考えるべき。
  • 学区制の撤廃を実際に行ったところ、1.学校の格差の拡大、2.過密化する学校と過疎化する学校の出現、3.問題のある生徒が特定の学校を選択し、誰も手の付けられない学校になるなどの問題が起こった。
  • 今の現場の教員は、非常に広範なことに気を遣っていて余裕が無い。
  • 全国どこでも一定の教育を受けられる良さが大事であり、特色を出すことそれ自体が目的化しないようにすべき。
  • 地域の実態、学校の実態、条件等を十分活かしながら教育の質を高めていくことが、結果として特色となる。
  • 学校の自主性・自律性の確立のためには、それに伴う条件整備、支援体制も必要である。
  • 学校の良し悪しの半分は、そこに集まる子どもたち、保護者、地域の人々で決まるため、学校選択制の採用は学校を序列化してしまう。義務教育段階で進めることは適切でない。

5.その他

  • 教育には、数値で表せるものと表せないものがあり、結果についてもその時点で求められるものと求められないもの、求めてはいけないものがある。教育改革の流れの中、目先の成果を性急に求めることがないよう、教育的な視点で方向性を考えるべき。
  • いくつかの選択肢から選択するという考え方については、分野や規模に応じたものはよいが、教育委員会制度そのものの設置の是非といった根幹に関わる問題では導入すべきでない。
  • 教育を受けた地に居続ける人もいれば、広く世界にはばたく人もいる中で、義務教育は、将来どこに行ってもたくましく生き、活躍できるよう、基礎となる人間力を培うものであるべき。義務教育には、決して不平等や格差があってはならず、国の責任で全国共通の水準を確保すべき。
  • 義務教育はナショナルミニマムではなくナショナルスタンダードであって、また都道府県の義務でも市町村の義務でもなく、国全体の義務である。

これまでの意見

  • 一般には、教育委員会が何をしているかわからない。保護者だけでなく教員も同じ。一般市民が教育行政、教育委員会に関心を持つことが課題である。
  • 教育行政は、入口管理の仕組みからどうするかをそれぞれの責任と判断に委ね、結果がどうなったかという出口の管理へと、転換すべき。
  • 東西冷戦構造の終結により、イデオロギーが要因となって、制度などが変化することはなくなった。
  • 戦後形成された制度には、少子高齢化・人口減少・冷戦構造終結などの社会環境の変化によって「制度疲労」が生じている。教育委員会制度もそのひとつにあたり、見直しが求められる。
  • 教育の枠組みや内容の頻繁かつ改変は、必要性・合理性が乏しく、有害である場合が多いので、改革は合理的かつ適切・有益なものでなければならない。
  • 中教審を大規模化したような、国民参加の教育国民大会議の開催を提案する。
  • 青少年が私学志向層、中間層、自己管理能力欠如層に三極化してきているが、公教育はこれらの者全てが目標を持てるようなものであるべき。
  • 貧しさを前提とした教育から、豊かさを前提にした教育にすべきで、そのためにまず、貧乏体験をさせ生きることの大切さを実感するなど、体験教育を重視すべき。
  • 教育委員会と事務局との関係、教育長と首長との関係、予算や人事の問題などを考えた場合、幼保一元化問題に象徴される文科省と厚労省の縦割りのように、理念があっても行政改革ぬきでは解決できないような問題から、まず取り組むべき。

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