地方教育行政部会(第2回) 議事録

1.日時

平成16年4月13日(火曜日) 14時~16時

2.場所

東京會舘 「シルバールーム」(11階)

3.議題

  1. 「地方分権時代における教育委員会の在り方について」委員の意見表明及び自由討議
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居部会長、国分副部会長、木村副会長、浅見委員、田村委員、渡久山委員、山本委員、横山委員、吾妻委員、池端委員、石原委員、稲田委員、大澤委員、小川委員、片山委員、門川委員、佐藤委員、千代委員、津田委員、土屋委員、藤田委員、宮崎委員、森田委員、森脇委員、八代委員

文部科学省

 馳大臣政務官、結城文部科学審議官、矢野文部科学審議官、銭谷生涯学習政策局長、近藤初等中等教育局長、玉井総括審議官、藤田生涯学習政策局審議官、樋口初等中等教育局審議官、松元生涯学習総括官、布村生涯学習政策局政策課長、辰野初等中等教育企画課長、山田生涯学習企画官、角田初等中等教育企画課課長補佐(その他関係官)

5.議事録

午後2時 開会

○ 鳥居部会長
 それでは、定刻でございますので、まだお着きでない委員もいらっしゃいますが、第2回目の地方教育行政部会を開催させていただきます。
 皆様、お忙しいところを御参集賜りまして、誠にありがとうございます。
 最初に、会議が始まる前に、前回の部会で、地方教育行政部会の委員に御就任くださいました方々を御紹介いたしましたが、当日、御欠席された委員もおられますので、本日御出席いただいております委員につきまして、事務局から御紹介をお願いいたします。

○ 山田生涯学習企画官
 それでは、前回御欠席されまして、本日御出席いただいております委員の方々を紹介させていただきます。
 大学評価・学位授与機構長で、初等中等教育分科会長の木村副会長でいらっしゃいますが、遅れていらっしゃるということでございます。
 続きまして、日本芸術文化振興会理事長で、初等中等教育分科会の副分科会長の國分委員でいらっしゃいます。
 東京都教育長の横山委員でいらっしゃいます。
 金沢市教育長の石原委員でいらっしゃいます。
 渋谷区立幡代小学校長の大澤委員でいらっしゃいます。
 松伏町長の千代委員でいらっしゃいます。
 サントリー株式会社相談役の津田委員でいらっしゃいます。
 次に、前回欠席し、本日出席しております文部科学省の出席者を紹介させていただきます。
 近藤初等中等教育局長でございます。
 玉井大臣官房総括審議官でございます。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、今日の議題に入りたいと思います。
 今日は、4名の方から御意見をまず伺うことにしたいと思っております。前回もお話をいたしましたように、当部会では、諮問理由で示されました四つの事項について、順次審議をすることになっております。この審議に当たりましては、各回冒頭に数名の委員の方々からまとめて御意見の表明をいただいて、それをもとに議論を進めていくという形をとらせていただきたいと思っています。また、次回以降、必要に応じましてヒアリング、あるいは様々な形での調査を行っていきたいと思っております。
 本日は、横山委員、石原委員、宮崎委員、八代委員から御意見をまず承って、それから事務局の資料説明を聞きましてから、御審議をいただきたいと思っております。
 意見表明につきましては、こちらから、お願いを順次申し上げます。時間の関係で、お一方10分程度でお願いできればと思っております。
 最初に横山委員、続いて石原委員、宮崎委員、八代委員の順でお願いしたいと思います。席順でお願いしておりますので、よろしくお願いいたします。
 では、横山委員からどうぞ。

○ 横山委員
 レジュメもつくっておらず申しわけございませんが、10分間という限られた時間でございますので、私のほうからは、今回の教育委員会制度に関する諮問に当たりましては、四つの視点から諮問理由が述べられており、その中でいろいろな課題が指摘されておりますので、その指摘に対する意見という形で述べさせていただきたいと思います。
 個別の論点に入る前に、地方自治体における教育行政の執行体制の在り方をどう考えるかという点につきまして、私自身の立場をまず明らかにしておきたいと思います。
 御案内のとおり、地方公共団体といいますのは、住民の福祉の増進を目的として、教育行政を含む広範囲な公共的事務を執行しているわけですが、それらは原則として選挙で選ばれた首長が執行しています。例外的に首長とは独立をした執行機関である行政委員会による行政執行が行われておりますけれども、その多くは例えば人事委員会であるとか、収容委員会、地労委といった、ある意味では長に対する勧告あるいは裁決といった準司法的機能を持つ委員会でございます。そういう中で、教育行政のように必ずしも行政委員会方式で執行しなければならないということはないわけです。こういうことから、主として首長サイドから、廃止論あるいは不要論が主張されているものと思われます。
 しかしながら、さきの教育改革国民会議の最終報告の中でも、教育こそ人間社会の存立基盤であると述べられていますように、教育の問題というのは一自治体というより、国家的な課題としてとらえるべきであろうし、また、日本の未来を担う子どもたちの人格の形成を担っていく、そういう教育におきましては、その中立性の確保は極めて重要であると考えております。
 したがって、自治体における教育行政の執行に当たりましても、その手法として個人的な価値判断であるとか、あるいは特定の党派的影響力から中立性を確保する制度が必要であると考えております。また、教育行政には、安定性であるとか、あるいは継続性も必要であろうと思います。行政委員会制度といいますのは、委員が一部ずつ入れ替わっていく。そういう任期の設定が可能な、弾力的な制度でございまして、こういう面からも効果的であろうと思います。
 こういう観点から、学校教育あるいは社会教育などの教育行政の執行体制としましては、今後とも地方自治体の長から独立をした執行機関が担当することが必要であると考えます。ただ、長から独立した執行機関で処理するとしましても、それが現行の教育委員会制度であるか否かは、これから議論していくべきことになろうかと考えております。
 そこで、まず諮問理由の第1に挙げられております、教育委員会制度の意義と役割についてです。この点について、教育の専門家でもない非常勤の委員が教育行政の基本方針を決定する、いわゆるレイマンコントールにつきまして、迅速な意思決定や責任の所在の明確化等の観点から問題があるという指摘がなされ、また、教育委員の会議が事務局案の追認に過ぎず形骸化している、あるいは教育委員の名誉職化といった指摘がなされておりますけれども、私は、特にレイマンコントロールに対する批判については、全く逆だと考えております。
 私自身、教育行政を専門に担いましてまだ4年にすぎませんが、その間つくづく感じますことは、教育の問題というのは、経験者として誰もが真剣な思いでまず語るということでございます。一般の社会の中で名をなしている人といいますのは、技術的な狭い教育論はともかくとしまして、教育に対する大局的な判断は、教育分野の専門家に比しても決して劣ることはないということを実感いたしております。かえって狭い教育論を超えた的確な判断が期待できるものと考えております。
 ただ、これは当然のことながら、教育委員会での議論というのは相当伯仲をしてまいります。それがために意思決定が遅延し、あるいは事業執行に支障が出るということは絶対にございません。
 批判的に指摘されるような事例が、個別の教育委員会にあるという話は聞いております。それは第一義的には教育委員が責任を負うことは当然としましても、その教育委員を選任した首長、あるいはそれに同意をした議会、これもまた道義的責任を負うことになろうと考えます。
 結論的に申し上げれば、教育行政におきますレイマンコントロールの考え方、思想というのは決して間違っていないと考えております。
 第2は、首長と教育委員会との関係についての指摘としまして、自治体の中には、首長と教育委員会が緊密に連携をして、大きな成果を上げているものがある一方で、必ずしも連携がうまくいっていない事例が見られるという指摘がなされておりますが、これが具体的にいかなる事例を指しているのかわかりませんので、一概には申し上げられません。しかし、首長が教育委員を自分の意思で選任する仕組みでございますので、一般論でいえば良好な関係にあるというのが普通だろうと思っております。
 ただ、私が知る限り、東京都内におきましても、首長の選挙結果によりましては、当座の間、しっくりいかない例も見られますし、いろいろな政治バランスのもとで、教育委員の選任さえままならない、こういう例も見られます。しかし、これも逆に考えれば、それこそ中立性を旨とする教育委員会制度が、ある意味では機能している証左とも考えられるのではないかと思っております。

〔木村委員出席〕

 第3に、市町村と都道府県の教育委員会の関係についてですが、実はこの問題は、私は非常に異論がございまして、この問題は教育行政における地方分権と密接不可分なものと考えております。平成12年4月に施行されました地方分権一括法によりまして、財源措置の不十分さはさておきまして、権限移譲はかなり進んでおります。一般行政の分野では、府県と市町村の関係は対等の関係としてかなり整理されてきております。しかし、教育行政につきましては、地教行法の一部改正がなされたとは言いましても、日常的な教育行政の執行におきましては、国民の教育に対する関心の高まりを背景にしまして、市町村の教育行政に対する府県の指導強化の要請は高まっておりますし、そうした案件が増加していることも、これまた事実でございます。しかも、教育行政といいましても、そのほとんどは義務教育にかかわる教育課程の問題であるとか、あるいは教職員の資質、あるいは服務の問題でございます。こうした動向を見ましても、各自治体の義務教育制度に対する考え方の温度差にもよりますが、義務教育の重要性を考えれば、その実施の担保といいますか、保障と地方分権とはなじまない部分がある、そういう認識をすることは必要ではないかと考えております。
 私自身は、教育委員会の使命の第1に、住民に対する義務教育制度の保障があると考えております。したがって、地方分権の流れに水を差すような意見になりますが、今申し上げた意味からすれば、地方分権と義務教育の推進には限界がある。はっきり申し上げれば、なじまない部分があると考えております。
 第4に、学校と教育委員会との関係及び学校の自主性・自律性の確立に関してですが、ここで言います学校を小・中学校という義務教育を前提に申し上げれば、それぞれに自主性・自律性を発揮させていくことは、基本的な方向としては大変重要なことでございますが、ただいま申し上げたように、義務教育の国家的な使命といいますか、重要性にかんがみれば、ナショナルミニマムとしての義務教育の実施が保障される、こういう仕組みがセーフティネットとして組み込まれている必要があると考えております。
 以上、諮問理由に挙げられました4点につきまして意見を申し上げましたけれども、私自身は教育委員であり教育長という立場で、現行教育委員会の中にいる人間ですから、外部から教育委員会というものがどういうふうに見えるのか、そういう点はよくわからないわけです。ただ、教育委員会そのものが都道府県、市町村を合わせれば3,000有余の委員会があるわけですから、それぞれ実態は異なるでしょうし、あるいはそうした実態の異なる委員会を一緒にして議論する、そのためなのかどうわかりませんが、一般論として教育委員会制度に対する批判といいますのは、教育委員会の実態を理解していないというか、あるいは誤解をしている、こういう批判が多いような気がいたします。
 といいますのは、指摘され、あるいは批判される事項が、教育委員会という教育行政の執行上の制度それ自体に内在する問題なのか、あるいは制度の運用に起因する問題なのか、この辺を区分けしてみますと、かなり多くの指摘といいますのは、運用上の問題に帰結するような気がいたします。この中教審において、今後、審議に当たりまして、ぜひともその辺のところを御留意の上、議論を進めていただくことをお願いしまして、私の意見発表とさせていただきます。

○ 鳥居部会長
 横山さん、ありがとうございました。
 それでは、続きまして、石原委員からお願いいたします。

○ 石原委員
 金沢市の教育長の石原でございます。こういう発表の機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。
 私は、義務教育の地域に一番近いところにおります市町村教育委員会の教育長として、今までに取り組んできたことを通しまして、今の教育課題をどうしたらいいかということの一つの問題提起をさせていただきたいと思っております。
 なお、結論から申し上げますと、私は今の教育委員会制度をきちんと抜本的に変えることがなければ、将来的には厳しい状況になるという認識を持っております。これは私だけではなく、同様に市町村の教育長たちも持っております。やはりこのことをきちんと考える必要があると思っております。同時に、地域間の格差、学校の格差、学校内における学級の格差は、厳然とあります。そのことから目をそむけて、画一的に平等、公平ということだけの、常に大きな基準だけでしていくときに、実際の子どもたち、実際の住民のニーズとはそぐわない状況になっていることも事実でございます。
 私ごとでございますが、私が教育長になったのはもう10年以上も前でございます。以前は大学で教鞭をとっておりました。また、教育委員もしておりました。その後に教育長になりましたが、教育長になってまず大変びっくりしたことは、学校の中のいわゆる横並び意識です。それから、教育行政における上意下達の非常な厳しさ、通知行政でございます。私がなったときに、たくさんの保護者や市民から、こういうことを変えてほしい、これに取り組んでほしい、新しい教育長になったからこれをしてほしいと、それこそ山のようなお話や涙ながらのお話がたくさんございました。けれども、それをどういうふうにしていいのか。改めて自分の置かれた立場の厳しさと、そのときに、ひたすら県にお願いすることしかできない立場の中で、でも何か子どもたちのために、そのすき間でも、本当のわずかなところからでも、ひとつ子どもたちにとっていい教育をしていきたいという思いで今までまいりました。
 その中で、「地域のニーズに応え、教育の質を高めるために」というふうに副題をつけさせていただきましたが、子どもを育てるというのは、地域でごく当たり前のことです。どんな僻地であったって、親は子どもを育てております。そういう子育ての一つの大きな機関として学校という教育機関があります。そして、住民は特に地域のコミュニティの拠点として、学校への愛着を持っているのが、特に地方の場合は顕著でございます。そういう子どもや住民の最も身近にいる市町村教育委員会や学校が、もっときちんとそのようなニーズや実態を把握し、自分たちが自ら自立し、判断し、責任ある教育行政をしていく仕組みが、今の時代はとても大事だと思っております。このことを「教育の質の向上」という表現でさせていただいております。
 抽象論よりも、こういう中で一番の問題は、やはり人、教員、指導者でございます。特に義務教育の場合は、子どもは家族に依存し、学校の先生に依存して育つわけですので、その中で、親の問題はまた別のときに何か議論していただけばいいと思いますが、学校の教師の問題について、常にいろいろな意味で苦労し続けてまいりました。
 ここにお示し申し上げましたのが、今年3月24日、教育特区を申請し、認められましたものです。まず3ページのレジュメを御覧いただけたらわかると思いますが、平成16年4月 ―これは金沢市の広報ですが、「金沢市の学校が変わります」というキャッチフレーズで広報に載せていただきました。学校2学期制が2年間の準備のもと実施されます。これは学期制が県から市へ権限移譲されたというときに、これを使って、子どもたちにとって充実した授業の期間を設けることができないか。5日制に対応して授業時間をきちんと確保できないか。子どもたちに落ちこぼれの出ないような授業や評価の仕方ができないかという中で、提案されたものでございます。
 次に、「学習指導基準金沢スタンダードの導入」は、国のほうでは学習指導要領を最低基準化しました。そして、国の学力調査が行われておりますが、この学力調査と金沢の子どもとを比較いたしまして、金沢の子どもが苦手な分野、得意な分野、それらは金沢の子どもにとって共通な一つの水準として、金沢市としてのスタンダードを決めるということで、これも学校の先生たちが研究グループをつくり、教育委員会の指導主事と一緒につくったものでございます。
 次に、「教育特区創設による小中一貫英語教育の推進」がございますが、これは振り返りますと、8年間の取組の中で、今、こういう形でやっていこうということになりました。このことをお話し申し上げたいと思います。
 4ページでございますが、特区創設までの経緯でございます。まず金沢市の都市政策と非常に密接に結びついているものでございます。平成7年に、金沢の世界都市構想ができました。この中の市民のいわゆる教養、あるいは人材育成という中で、教育部門を具現化するために、地方都市の狭い範囲だけで子どもたちを育てるのではなく、子どもたちをもっと広い視野や交流のもとで育てていきたいということで、小学校の英語活動が導入されることになりました。
 このときには、既に国として研究開発校を指定なさっておられまして、それを教育委員たちと一緒に見に参りました。問題点として、研究開発校を指定して、そこで研究しても、研究開発校がなくなるともとのもくあみになること、それから1校だけが頑張っても、中学校に行ったらまた最初のA、B、Cから教わるということ、ほかの学校との格差ができるということがございまして、それなら、金沢市の場合は全小学校で取り組もうということになりました。これは、国際理解教育の中のコミュニケーション能力の育成というこの部分を具体的に取り組もうということで、当初、年間10時間ぐらいの中で取り組んでいるものでございます。どうするかというよりは、取り組んでみようということで、これはPTA、経済界の非常に強い要望、つまり、地域の要望にこたえたということになります。
 平成13年でございますが、この中で、小学校で取り組んでも、中学校にもっときちんとした形で接続したいということで、地域指定をしております。これが可能になったのは、平成12年に中核市へ教員研修の権限が移譲されたことです。このことによって、体系的に、抜本的に先生方の教員研修をして、教育課題に合わせた形で、先生方の研修をきちんとしていこうという体制づくりが進みました。
 なお、この小学校の英語活動導入に当たりましては、市長が非常に熱心でございました。また、市議会も予算など全面的な支援体制を組みました。経済界も、地方都市は中小企業も多く、これからの子どもたちにとってその素養をはぐくむことは大事であるということで、応援体制に入ってくださいました。
 また、平成14年には、総合的な学習の時間で週1時間、小学校の英語教育を実施することになりました。実はこれは教育委員会ではなく、既に行われていた小学校の校長会が全員で、教育委員会のほうに全校実施の要望を出し、それについての条件整備を教育委員会でしてほしいということでございました。その背景には、保護者の強い要望がございます。教育委員会としては、予算のこともあり、モデル校方式でとも思いましたが、義務教育では、ある学校だけでなく、すべての学校ということで、こういう方式になりました。そして、この中でやはり学校の教育としては、教科書もなく、今までは手引きを教育委員会と学校の先生がつくっておりましたが、副読本をということで、教員や保護者の要望にこたえ、学校の先生方が副読本の作成にかかり、小中一貫の英語カリキュラムを作成しております。
 この期間中、では誰が指導してきたかということでございます。指導のポイントは民間の方です。民間から英語に関心のある堪能な方を、民間指導協力員という形でお願いしました。約90から100人の方、外国人も含まれます。その方と担任とのティーム・ティーチングで今まで進んでおります。
 また、小中一貫英語の副読本をつくった先生、また、そういう学校で頑張った先生、研究開発校で頑張った先生は、実は海外に行ったり、いろいろな研修もし、非常に中核になっておりましたが、人事異動で金沢にはすでにいない人も少なからずいます。そういう意味で、人事についての見通しが立たないため、研修権限が与えられても、人材が蓄積され、それが学校現場の力となってきちんと働くという点は、まだ弱い点があると思っております。それは私たちにとっては非常に大きい課題でございますが、だからといって、しないよりはしたほうがいいという判断を私は持っております。この3月末と4月、新たな転入教員については、私どもの取組の研修をずっと行っております。
 申請内容の「1」と「2」は、教育課程の弾力化、それから教科書の早期給付ということを行っております。カリキュラムは、8年間の経験を踏まえまして、今の日本の英語教育で子どもたちが身に付けにくい部分、もう一つは子どもたちがきちんと自分の意見を話せる、教養あることを目指しております。
 副読本は、『Sounds Good』といって、これが中学年用、これが小学校高学年用ですが、普通の教科書と違いまして、自分でつくっていく教科書になっております。自分でいろいろ考えて、話をしながらつくっていくという本で、これは小学校の英語教育に携わった先生たちが熱心に取り組んでくださいました。学校の先生方は、あるはっきりとした目標と、そのことによって子どもにいい力がつき、保護者がそのことを応援してくれるというときに、非常に大きい力を出すと思いました。自分のポケットマネーで夏休みに海外の語学学校に行って勉強した先生や、東京で勉強した先生など意欲的な先生が増えたことは、私は大変よいことだと思っております。
 なお、学力差への対応も、7ページでございますが、市独自で選択英語の全学年開設、習熟度別や放課後等の個別指導の充実等を行うことになっております。これは8ページを御覧いただきますと、特区で一番の問題は指導者の問題でございます。レベルを上げるために、今までの民間指導協力員ではなく、英語の指導講師 ―非常勤ですが1週間通して来てくださる方、それから小学校英語のインストラクター、これは時間決めですが、来ていただける方を公募いたしました。大変高い倍率になりました。
 そして、私どもも、初めて自分たちの学校の先生を自分たちで選ぶということで、ヒアリングをし、リスニングをし、英語で質問をし、日本語で質問いたしました。いろいろな資格を持った、英語能力については極めて高いレベルの方、それからバックグラウンドは多様な経験を積んでいる方、そして何よりも子どもたちの教育に熱意がある。それは自分の社会人としての経験等を踏まえて、こういうことが必要だということを、明確に問題意識として持っておられる。また、特区だから頑張りたいという方がたくさんおられました。非常に高いレベルの方が選ばれたと私どもは思っております。
 次に、9ページを御覧ください。今、人の問題と申し上げましたが、一番下の欄に、いわゆる県費負担教職員、校長、教頭、教諭の人数を書いてございますが、金沢市の場合は正規で1,712人、講師が110人、合計で1,822人が県費負担教職員でございます。しかしながら、既に学校現場は様々な形で、市が単独で ―県費負担教職員だけでは学校は回りません。それで総計539人、これは平成15年度の執行見込みでございますが、平成16年度はさらに小学校体育のインストラクター。これは小学校の体育の先生方が高齢になられて、実技ができない、しにくいということで、若い方をインストラクターとして、大学、あるいはスポーツ事業団のほうから派遣してもらうということでございます。また、新たに英語指導講師、インストラクターがこれに加わります。
 いわゆる学校スタッフとして、トータルとして、もっと抜本的にいろいろなことが考えられたらいいなということを切実に思っております。逆に市単独で入れております約600人近い方たちの実際の活動がなければ、今、学校教育は成り立ちません。そういう意味では、いわゆる学校のスタッフにつきましては、実際に地域によっても非常に違います。学校によっても小規模で、10人しかいない学校から、1,000人の規模の小学校もございます。子どもの状況、親の考え方、階層も様々ですので、それらに応じた形が市費で、このような形で入っております。
 10ページは、地元新聞の社説の問題でございます。
 私はこれらを通しまして、11ページを御覧いただきますと、「能登も英語重視へ」と書いてございますが、英語特区は、金沢がよくなればいいということではなく、ここにも「県全体の英語力底上げに火をつけた格好となった」と書いてありますように、このことが一番よかったと思っております。なかなか学校は新しいことに取り組むことが難しいです。けれども、このことによって、副読本はどんなものですか、カリキュラムはどうですか、教員の研修を一緒にさせてください、こういう御要望がたくさんきております。私は来るものは拒まず、そして子どもは金沢市の子どもであると同時に、県の子どもであり、また、日本国民でありますから、教育の質の高いものを受けさせるという点においては、開かれた教育行政で、すべて受け入れております。研修も自分のところはまだ取り組まないけれども、来年したいというところは、受け入れております。
 こういう意味では、人の問題については、ぜひそれぞれの教育委員会の能力や意欲もございますが、そういうものを踏まえて、一番身近なところが柔軟に、子どもたちの、そして家庭の、地域の、学校の格差や違いに応じたことが柔軟にできるように、ぜひお願いしたいと思っております。
 1ページ目のレジュメに戻っていただきまして、時間がないので、あとは簡単にいたしますが、ここに「教育委員会制度と教育施策について」記させていただきましたが、一概に教育委員会制度といいましても、都道府県から小さい村まで同じものであるはずはありませんし、非常に違っております。今、求められているのは、いわゆる下に合わせる画一的平等主義ではなく、挑戦するところに引っ張られて底上げしていくという、一つの新しいシステムが必要ではないかと思っております。教育の活性化や教育の質の向上が、これによって現状では行われるのではないかと思っております。教育改革が長いこと言われ、なかなかできない、あるいは現場では教育改革疲れということを言われておりますが、私は「2」のことによって、先生方がモティベーションを高め、そして頑張っていくのだということが大きく意識されるということ、そして実践されることが大事だと思っております。
 「3」番目は、先ほど申し上げたことを具体的な形で書いてございます。
 「4」番目のところですが、結局、小・中学校授業等への人的支援が既になされているということ、そして、なされているという背景には、首長の教育への強い危機感と権限によって、予算を措置しているということでございます。
 なお、県にもいろいろとお願いしておりますが、県はやはり立場としては全県下の市町村に公平にということで、公平の観点から、今、市費で入れているような人は配置されませんし、また、基準に基づいてしかできないというのは、県の立場としては当然で、よく理解はできますが、ただ、現実の義務教育の子どもの教育は、それだけではできなということも事実でございます。
 また、「5」番目の、「たて系列の長さと教職員人事」でございますが、国、県教委、県教委の教育事務所、市教委、学校ということで、子どもを実際に教育する学校がやはり一番のポイント、教職員が一番のポイントというときに、このたて系列の長さと権限のなさは、権限のないところが強く受けとめ、非常に硬直化する一つのシステムになっているのではないかと思っております。
 例えば、今、「指導」という言葉がなく、「支援」という言葉に変わっておりますが、支援の評価とか、子どもを支援するという言い方が現場でされていますが、国のほうでこのようなことを一言言うと、学校現場はそのことにものすごく拘束されます。義務教育は、先ほど東京都の教育長がおっしゃったように、国家としての教育は、国としてもっときちんとしていただきたいと思っております。そのときに注意していただきたいのは、たて系列が長いと国の教育がよくなるのではなく、もっとシンプルで、もっとわかりやすくしてほしいということです。国からの通知が県にき、県はそれに添書をつけて、通知がきたから配慮して指導するようにと。市教委はまたそれに添書をつけて、学校に、県から通知がきたから配慮するようにと。学校はやはり大変だと思っております。通知だけで学校はよくならないので、このことについては、そのときにそれぞれ、県は何ができるのか、市は何ができるのかということが、財政面でも含めて必要ではないかと思っております。
 もう一つ、義務教育には、地域の子どもとして、地域の方がかかわって育てるという面がございます。地域住民の関心や意欲が非常に大事だと思っております。そのときには基礎自治体、市町村の教育施策が大変重要だと思っております。子どもは学校という教育機関が5日制になりまして、1年間の半分ぐらいしか授業日がないので、あとの半分は地域で育ちます。そうしますと、子どもの暮らしていく場での教育力が学校と連携していくときには、きめの細かい、それぞれの地域の特性に応じた教育施策が絶対に必要だと思っております。
 「6」番目は、これらのことをまとめて書いたものでございますが、特に「5」番目の「入口管理から出口管理への教育行政の転換」ということでございますが、いくら指導しても結果がよくわからない、効果がよくわからないのではなく、出口管理のほうに、つまり、国で決めたことをどうするかは、それぞれの判断と責任で、最後のところでどういう力がついているのか、ついていないのか、ついていなければどうなのかということをきちんと指導できる、出口管理へと教育行政が転換することで、それぞれが自立して、自分の判断で責任を持ってできる仕組みになると思っております。
 そういう意味では、「6」番目の一番上のところ、都市の規模や能力、意欲に応じて権限を移譲し、自らの判断と責任において教育委員会の活性化を図っていくことがとても大事だと思っております。以上でございます。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、続きまして宮崎委員から、どうぞお願いいたします。

○ 宮崎委員
 よろしくお願い申し上げます。
 まず、すべての改革は、何のための改革かという目的の部分を見失いたくないということで、最初に「現状認識」と書かせていただいたのですが、何が今問題なのか。改革のための改革論議というテクニカルなことに終わってしまうと、結局、本質は何も変わらずに通り過ぎてしまうということになるおそれがあるのではないか。常に、何をどうしたいのかというところを忘れたくないと思いまして、ここから始めたいと思います。
 現場の教員の質の低下。これは率直に申し上げまして、御関係の方もいらっしゃるかもしれませんが、目を覆うばかりのものがあるのではないかと思います。私自身、保護者として、また、周囲の様々な声を聞く立場として、それから教育委員になってからものすごく取材もしておりますが、そういう中で浮かび上がってくる現場の人間の問題というのは、大変深刻なものがあると思います。一頃、「でもしか先生」とかよく言われました。「先生にでもなるか」とか、「先生にしかなれない」とよく言いましたが、最近はむしろ自分の快楽のためには生徒を犠牲にしても構わないとか、自己中心的なとか、もっと大変な事態に立ち至っているのではないかという気がしております。
 これに対する学校のガバナビリティーの欠如という言い方が、最近流行の表現なので、これをここに使わせていただきましたが、いわゆる管理運営能力の部分ですね。それがどうなっているのかという部分についても、非常に不安を覚える深刻な事態ではないか。例えば、いじめであるとか、不登校であるとか、様々な問題が起こっていることに対して、じゃ学校はどのような形で臨んでいるのかというのを考えた場合に、何か事が起こると、既にいじめはなかったと認識していますとか、二度と繰り返しませんと言えばいいのかという形の対応しかできていないのではないか。
 こういうことを何とかしたいというのが、今の教育に対する熱い思いだと思うのです。そこが改革を必要としているところで、それをもたらすための制度になっているかどうかというのが、議論の本質ではないかと思います。その議論のたたき台になればと思いまして、若干考えていることを書かせていただきました。
 「教育の質の向上をもたす制度か」というのは、一人一人の現場の教師としての人格、見識、そういうものが最も大事でありますけれども ―すばらしい先生もたくさんいらっしゃいます。これは本当にすばらしい先生がたくさんいらっしゃいますことは否定しませんが、そこに期待できないとすれば、制度でせめて担保することはできないかということができているだろうかということを、まず疑問点として挙げたいと思っています。
 そして、つくった制度が、実際に機能しているかどうか。前回でも、制度の問題か運用の問題かという議論が出ましたけれども、実際に機能しているのかどうか。
 そして、それらが社会のいわゆるアイデンティティ形成の基盤になっているかどうか。最近はなるべく日本語を使わなければいけないという傾向なのですが、概念として日本語的に非常に難しかったので、アイデンティティのままに残しましたが、つまり、この社会をどういう社会にしたいのか。頑張った人が報われる社会にしたいのか、努力のいかんにかかわらず結果が平等なほうがいいのかということです。今、全体の社会における改革の中でも、そこが大きな課題になっていると思いますが、教育はまさにそれをつくる大もとの基盤のところになっていると思います。偏差値教育であるとか、受験がどうだとか、いろいろな問題を個別に言うと切りがないと思いますけれども、大きな意味で、社会の目指している方向性と教育の在り方とのベクトルが一致しているかどうか。それを支える制度として教育委員会制度が機能しているかどうかということを、まず問いたいというふうに思った次第であります。
 その中で、具体的にはどういうことが考えられるかということになっていくのですが、教育委員と教育庁事務局との位置づけをまず問題提起したいと思います。教育委員会と一般に言うときの世間が教育委員会と思って見ているものは何かというと、事務局であります。5人の合議制の委員のまとまりを指して、いろいろ意見を言っているというのは、よほど専門家は別です、その分野の方は別ですが、世間一般のまさに教育の、例えば子どもが渦中にある親として、保護者として、あるいはそれに対する様々な社会の営みの中での意見を持っている人たちが、「教育委員会」と言って発言するときは、大抵の場合はこの事務局を指しているということではないかと思います。
 その教育委員会と教育庁の事務局との関係が、理念的には教育委員がビジョンなり何なり大枠の方向性を考えたことについて、具体的に執行していくために教育長をトップとした事務局組織が有効に活用されるという位置づけであると思いますが、現状は膨大な事務を処理している事務局が、審議会的な位置づけで教育委員とかかわっているというのが現実ではないかと思うのです。
 私自身は、実は神奈川県の教育委員を2001年10月からですから、2年半ぐらい務めさせていただいております。この間、片山さんに非力な委員と言われて、まさにその非力な委員でありますが、本当に自分自身の非力さも痛感しているところでございます。例えば委員会で議論をして、一所懸命考えたことが政策として、施策として結実するかどうかというときに、事務局のぶ厚い壁 ―事務局は一所懸命やっているのですよ。私は批判はしておりませんが。事務局は本当に一所懸命やってくれているのですが、一所懸命やればやるほど壁が高くそそり立ってしまうようなところがあったりするのです。その辺の兼ね合いをどういうふうに考えていったらいいのだろうかというのが大きな点ではないかと思います。具体的に何を変えるかというと、まずここから動かしていかないと何も動かないのではないかという気がしております。
 それから、中立性についてというのは、さっきの先生方もおっしゃいましたし、これはつくったときの理念は非常に理解できるところではないかと思うのですが、それを実行していくためにはどうすればいいか。公選制はどうすればいいのだろうか。当初は公選制だったそうですが、政治的な思惑であるとか、思想的な問題とか、いろいろあるので、中立を目指すためには今の制度がいいということで落ちついたというのは、前回、説明もございましたけれども、その在り方が、それでは教育委員会にもっと力をつけるためには、公選制のほうがいいのかどうかというのは、もう一度議論してもいい議題ではないか。
 それから、知事部局との関係でございますが、これはいわゆる教育庁の事務局と知事部局というのは、県庁の職員として同じ枠組みでありまして、人事異動はその中で平たく行われているのです。ですから、入ってから出るまで教育庁だけということはあり得ないわけでありまして、県庁の優秀な職員として入ってきた事務方が、あっちに所属されたりこっちに所属されたりするという中で動いていくと、当然、独立という部分については、本当に独立なのだろうかという部分は、疑問として出てくると思います。その辺を指摘したいと思っています。
 それから、教育長の決め方も、教育委員の中から教育長を決めて、その教育長をトップとする事務局をつくるということではありますが、現実には知事部局で出世を極めた方が教育長になるということですよね、基本的には。市町村とか、いろいろあると思いますけれども、立派な方がおなりにはなるのですけれども、そうすると、独立性とか、中立性ということを考えた場合に、理念どおりにいっているのかどうかということが疑問として挙がってくるのではないかと思います。
 そういうことを全部含めて、先ほど来出ているレイマンコントロールの是非ということですが、横山委員はレイマンコントロールは非常に結構じゃないかということで、私もレイマンコントロールは大事だと思うのですが、何をもってレイマンというかという部分をもう一度考えてみたいと思います。単に教育行政の素人だということではなくて、何をもってレイマンと言っているのだろうか。ここは実は本質的に大事なところではないかと思います。
 教育というのは、全国民が全部かかわっているわけです。社会人は既に教育を受けて、くぐり抜けてきた人もいれば、今、保護者で渦中にある人もいれば、すべての人が何らかの形でかかわっているわけでありますから、実は本当の意味でのレイマンというのはいないのではないかという気もする次第でございます。ですから、何をもってレイマンコントロールとしているのかという部分は、もう一度明確にしてみたいというふうにここで思っております。
 そして、よく言われる「教育委員会不用論」でございますが、ここはあえて「必要」の「要」ではなくて、「用いらず」のほうを使わせていただきました。感情論とか、政治的なスタンスで不用論を言っている方々もあるのですが、これは私もたくさんお話をいろいろ聞きました。日教組の方にもお話を伺ったり、今回、中教審に入れていただいたことで、いろいろ取材もしたのですが、不用論の背景として、論理的に述べられている部分をすくい上げていくと、先ほど石原委員もおっしゃいましたように、義務教育というのは国家レベルで質を保障されなければいけない。横山委員もおっしゃったと思います。そうすると、地域格差をつくってはいけないではないか。そのためには、まさに今、教育の地方分権を目指している中で、地域格差ができてしまうことに対して、どう保障措置をつくっていくかというときに、今のシステムではできないのではないかというのが、どうも不用論のロジカルな背景にあるようであります。
 そうすると、これを主張する方々は、義務教育と高等教育は制度も分けて考えるべきだというような意見も出てくるようでございます。
 それから、今、教育委員会が抱えている分野があまりにも広範にわたっているので、学校教育と、例えばスポーツとか、文化とか、生涯学習とは分けて考えていったほうがいいのではないかというようなことを背景に、不用論が述べられているのではないかと思っております。
 そうしたことに基づいて、ささやかな提案でございますが、どこから山を動かしていくかというときに、例えば教育庁職員の知事部局からの独立、つまり、教育庁は教育庁で、知事部局は知事部局で、独立した職員体制にするということが、もしかしたら一つの動きのきっかけになるかもしれないというのが1点です。
 それから、教育委員会、5人の合議制の委員会による人事権の把握。これは過激な発言であると思いますが、室長、課長クラスぐらいまでは、少なくとも人事考課をするというような機能を持ってもいいのではないかという気がしております。そのぐらいしないと活性化とか、効果的な働きというところまでいけないのではないかという感じがしております。形骸化のお話もございましたけれども、教育委員会に諮って決めますと言いながら、決まっていることを後で追認するような議事もたくさんあるわけです。そういうことを考えますと、こういうことも一つ出てくるかなと思っております。
 それから、教育委員会自体の政策評価です。この評価をどのような形で行っていくのか。これはぜひ評価の仕組みを取り入れていくべきではないかと思っているのですが、そういうことを提案したいと思っております。
 現場は本当に一所懸命やっておりまして、教育庁の事務局も一人一人一所懸命取り組んでおります。一所懸命やっているのですが、やっていることがもし空回りしているとすれば、制度をいじっていく必要があるだろうと私は思っておりますので、運用とか、精神論でできない部分を、ぜひこの機会に見直したいと思っております。失礼いたしました。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、続きまして、最後になりますが、八代委員からお願いいたします。八代委員の資料がございますので、御覧いただきたいと思います。

○ 八代委員
 八代でございます。資料はお出ししておりますが、今までお3人の方の御議論と少し関連づけて説明させていただきたいと思います。
 まず最初に、制度か運用かということについては、私も宮崎委員と同じように、これは制度の問題である。もちろん極めてすばらしい人であれば、今の制度でもよくできるかもしれませんが、これは全国的な制度でありますから、普通の人でもきちんと動けるように、より効率的な制度にすべきではないかと思っております。
 それから、そもそもの考え方ですが、私は横山委員のお考えとはかなり違うわけでして、教育というのは国がするものである、したがって、地方分権とはあまり関係がない、地方分権の例外であるという考え方には真っ向から反対いたします。それは明治時代の発想であって、成熟化した先進国である日本では、義務教育も含めて、教育というのはサービスであって、あくまでも利用者個人が選ぶものである。それがうまく選べるように政府が手助けをするべきようなものではないだろうかという意味であります。もちろん全く普通の財サービスと同じように、個人が自由に選んでいいというわけにはいかないわけでして、当然ながら行政の関与が必要になりますけれども、その関与すべき行政というのは、国ではなくて、できるだけ市民に近いところ。そういう意味では、やはり市町村レベル。もちろん町村レベルでは能力が欠如しているとすれば、県の役割は大きいわけですが、少なくとも中核市以上であれば、市の教育委員会、あるいは市のそれ自体にもっと権限を移譲するということが基本ではないかと思います。その意味で、私は先ほど石原委員の言われたことに基本的に賛成しております。
 なぜそうなのかというのは、先ほども石原委員がおっしゃったように、現場の学校とか、市町村の教育委員会というのが、最も人々のニーズによく熟知しているということと、それから、これは言われなかった点ですけれども、市町村レベルに教育のいわば権限が移れば、人々は足による投票ということができるわけです。つまり、隣の市でよりよい教育をやっているとすれば、そちらに移ろうと。どうしようもない、明治時代から同じような教育をやっているところからは逃げ出そうと。これがまさに大事なことでありまして、国レベルからは逃げ出せないわけですが、市町村レベルであれば、人々はより自由な選択ができる。それによって人々に選ばれたところと選ばれないところの格差が大きくなるのではないか。
 例えば東京都であれば、23区がもっと教育についての権限を持つべきであるし、それで初めて、例えば隣の区に移ろうという人々の行動が可能になるというか、そういうことができるような仕組みが大事ではないかと思います。
 教育というのは大事なものだから、なぜ最適なことを上が決めてはいけないのかということなわけですが、明治時代と違うところは、何が最適な教育かというのがわからないことであるわけです。それはまさに試行錯誤のような過程でやっていく視点があるのではないか。もちろん、人々のニーズというのは非常に多様化しているわけですから、そこは隣の区がやっていることと、自分の区がやっていることが、切磋琢磨してその中からよりよいものが生まれていく。よいものが全国に広がっていく。これがまさに特区の発想でありますが、それは決して教育も例外ではないのではないかということであります。
 特区制度ができたときに最もニーズが高かったのが農業と教育でありますが、これはまさしく国ががんじがらめの規制をしていることによって、人々のニーズとかけ離れたものになっているという一つの典型ではないかと思っております。
 通知だけでは学校はよくならないと、先ほど石原委員がおっしゃいましたが、私はまさにそのとおりだと思います。それから、入口から出口へというのは、我々が言っております事前規制から事後規制へということと似た面があるのではないかと思っておりますが、日本の国民のように非常に教育レベルも高いし、かつ教育に対して関心も高い。こういう国民に対して、もっと国民が選ぶということを認めていいのではないか。もっと国民を信頼していいのではないかということでございます。
 レイマンコントロールということがよく言われていますけれども、それは何も教育委員会のほとんどの人が知らないようなレベルではなくて、まさに市民というか、個人にもっと選択肢を与えていくことが究極のレイマンコントロールであるわけでして、先ほど横山委員がおっしゃったように、教育というのはやはり多くの人が関心を持っていて、それなりの判断能力がある、だからレイマンコントロールが必要だとおっしゃったわけですが、そうであれば、まさしくもっと市民というか、人々に、選択権をゆだねることがより整合的なことになるのではないかと思っております。
 今の教育委員会の問題点は、これも素人の立場からでありますが、政治的中立性が必要だということはよくわかっております。そのために、例えば政治的な行動をする可能性のある首長とか、学校長に、教育をゆだねるのは危険である。そういう意味で、教育委員会が一種の独立した執行機関として、首長との関係で、チェック・アンド・バランス機能を果たさなければいけないというのもある程度理解できるわけでありますが、逆にチェック・アンド・バランスのデメリットは、住民に選出された首長が新しい教育をやろうというときにも弊害にもなるわけであります。その意味で、変化が求められている時代には、よりマイナス面が大きいのではないだろうか。ある意味で、キャッチアップ型の時代においては、この仕組みは非常によく機能したかと思いますが、それがまさに今、変わる必要があるのではないかということであります。
 それから、県と市の教育委員会、首長、学校長の間で、やはり教育行政の責任の所在が不明確になっている。その意味でも、先ほど宮崎委員がおっしゃいましたように、ガバナビリティーの欠如ということに対しては、そこは現場である学校長にもう少し権限を与える。権限を使うことのできないような学校長は代わっていただくという形で、もっとコーポレート・ガバナンスに近いようなことを学校に求める、あるいは学校を支援するための市町村の教育委員会により多くの力を与えることだと思います。
 県の教育委員会は何をするかということでありますが、今のように画一的な教育行政をするのではなくて、むしろ評価機関としての役割を行うことが一つの大きなポイントかと思います。これは下のほうにありますが、都道府県の教育委員会というのは、市町村や学校ごとの情報開示を促進する、あるいは評価の機能に特化する。それから、一番大きな問題になっております指導力不足教員の認定とか、分限免職に関する指針を策定するとか、そういういわば教育のインフラづくりをきちんとやっていただく。市町村のほうがむしろ校長の任免とか、免許状とか、より基本的な教育行政の権限を移譲する。それができないところにとっては、もちろん県の役目も大事ですが、先ほども言いましたように、少なくとも中核市以上であればその選択肢を与えていいのではないかということでございます。
 それから、これは教育委員会の問題とは違うかもしれませんが、現在の義務教育費国庫負担金の使途も、市町村の教育委員会のほうにもっとゆだねていいのではないか。その意味では、国からきたお金をどういう形で配分するのか。より住民のニーズにこたえた教育を実現するためにということを考えていただくということであります。
 それから、校長の権限の拡大も大事でありまして、既に校長の教育課程等にかかわる権限とか、裁量経費とか、人事についての意見の具申という形で、徐々に校長の権限が拡大しているわけでありますが、まだまだ間接的であるわけでして、これは時間がかかると思いますが、基本的には校長に、いわば私立学校と同じような形で教師の任免権を与えることが大事ではないかと思います。
 一方で、教員のほうも、自分の勤務したい学校に直接応募できる選択肢を ―必ずしも実現できるかわかりませんが、より自由な形で教育サービスをつくっていくのが大事かと思います。
 もっとも、そんなことをしたら、誰も僻地には行きたがらないといういつもの問題が出るかと思いますが、これはあまりにも画一的な給与体系、処遇体系があるわけでありまして、当然ながらそういう行きたがらないところは、いわば手厚く処遇するといいますか、いろいろな形でのメリットがなければ機能しないわけでありまして、今のような画一的な形、例えば東京都であれば教員の任用試験に通るためには、本当に針の穴を通るような難しさであるわけでありますが、それにもかかわらず画一的に教員の給料は一般の公務員より優遇されている。かつての貧しかった時代の制度がそのまま残っている。逆に言えば、東京都であれば、もっと僻地に手厚く人件費を配分し、逆に言えば都市部ではもっと下げてもいいのではないか。そういう弾力的な給与体系みたいなものを、上からではなくて、あるいは県からではなくて、まさに市町村レベルで自由にできるような形の仕組みにいければということでございます。
 繰り返しになりますが、あくまでも教育というのはサービス産業というか、産業と言うといろいろ語弊があるかもしれませんが、人々のニーズに応じた教育がまさにサービス業の基本であるわけで、それに近いものに向けていく必要があるのではないかというのが私の考え方でございます。
 最後に、ミニマムスタンダードということが教育について大事だと。これは全くそのとおりだと思います。ただ、私が理解できないのは、教育というのはミニマムスタンダードだ、したがって地域格差をつくらない。このロジックが全く理解できないわけでありまして、ミニマムスタンダードというのは、社会保障でもそうでありますが、国民としての権利を守るための基本である。しかし、地域によっては、もっと教育にお金をかけたり、私立学校ではなくて、公教育でお金をかけたいという住民の意思があれば、それをやって別に構わないわけではないか。伸びる部分を抑制する必要はないわけであって、ミニマムスタンダードを確保するということは、自由な競争のもとで、よりよい教育をしたいというところが、それをすることを禁止することではないわけでありまして、そういうよい教育のエッセンスというのは、再び別のところにも広がっていくという形で、結果的に全体の底上げが実現するのではないかということでございます。
 繰り返し言いますが、サービスとしての教育を充実するためには、もっと権限を下のほうにおろしていくというのが、教育委員会改革の一つの考え方になるのではないかと思っております。ありがとうございました。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 4人の方から御意見を賜りました。この後、資料2と資料3というのを皆様にお配りしてありますので、この資料2と資料3について、簡単に初等中等教育局の……

○ 横山委員
 ちょっといいですか。かなり誤解をされていますので、私の発言に対して釈明を2点だけしたいのですが、よろしいですか。

○ 鳥居部会長
 はい。では簡単に。

○ 横山委員
 まず1点、八代委員からありました、地方分権と義務教育は関係ないという話は、私は全くしていません。あくまでも行政の中で一般行政における地方分権と、義務教育という国家的な使命を考えれば、おのずから限界がある、なじまない部分があるのではないかと言っているのであって、関係がないなんて全く言っておりません。
 それから、ナショナルミニマムの関係で、画一的な格差をつくらない、こんなことも全く私は考えておりません。義務教育といえども、それは必ず国家的な使命としてのコアの部分があるのであって、その部分は必ず保障する。その上で、それぞれの首長さん、あるいは教育委員会の判断で、義務教育を手厚くやっていく。したがって、通常の地方行政を考えれば、義務教育に結果としての格差が出るのは当然の話であって、そこに格差をつけちゃいけないなんていう発想は、私は全然ございませんので、その2点だけは申し上げておきます。

○ 鳥居部会長
 わかりました。後ほどまた……

○ 八代委員
 私の理解が不十分であったので、おわびいたします。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。討論の時間を改めて設けますが、その前に資料2と資料3を先に説明してもらっておいたほうがいいと思いますので、角田さんから……。審議の時間を長くとりたいので、資料説明をできるだけ簡単にお願いします。

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 了解いたしました。それでは、お手元の資料2につきまして御説明申し上げます。
 教育委員会の在り方に関しましては、現行制度を前提といたしまして、市町村教育委員会の機能をいかに強化していくべきかという観点から、学識経験者、市町村長、市町村教育長等によります研究会を開催いたしまして、検討を行ったところでございます。当研究会につきましては昨年の11月までの間、教育委員会の現状に関する調査を実施するとともに、3回会議を開催いたしまして、様々な議論を行ったところでございまして、その研究会における指摘につきまして取りまとめたものが、お手元の資料のとおりでございます。
 かいつまんで申し上げますと、例えば教育委員の選任につきましては、選任に当たり地域割りや会派別に委員が選任される場合がある。あるいは、教育委員の任期について2年でよいのではないか。教育委員の公募等により、委員になる機会が市民に広がることもよいのではないか、こういったことが指摘されております。
 また、次のページでございますが、教育委員会の運営につきまして、住民広聴会とか、あるいは所管施設の訪問等について、できるだけ機会を持つべきではないか。また、その一方で、教育委員は多忙な方が多いので、何らかの工夫が必要ではないかという指摘がなされているところでございます。
 そのほか、首長と教育委員会の関係とか、あるいは都道府県と市町村との関係につきましても、御覧のような指摘がなされているところでございます。参考のためにお配りさせていただいております。
 なお、この指摘につきましては、会議における指摘のうち主なものを事務局で項目ごとに整理したものでございますので、研究会として取りまとめたというものではございませんので、申し添えます。
 次が資料3でございますが、今、御説明申し上げました研究会の議論に供するために、昨年行いました都道府県・市町村の教育委員会につきましての現状に関する調査の結果でございます。
 これにつきましてもかいつまんで申し上げますと、例えば1枚めくっていただきまして、資料の1ページでございますが、町村教育委員会のうち3人制をとっているものの割合は、全体で2.5%にとどまっているという状況でございます。
 飛びまして、5ページ目でございますけれども、教育委員会の開催回数でございますが、定例会、臨時会、委員協議会を含めまして、都道府県・指定都市におきましては平均22.7回、市町村では12.5回になっております。また、市町村におきましては、規模別の状況を御覧いただきますと、小規模になるにつれまして開催回数が減るという傾向が見られるところでございます。
 また、9ページ目に飛んでいただきまして、教育委員の施設訪問についてでございますが、学校では約9割の教育委員会が実施しておりますけれども、人口規模別に見ますと、中規模の市町村で施設訪問数が高い傾向が見られるところでございます。
 次の10ページ目でございますが、教育委員と首長との意見交換については、都道府県、指定都市、市町村ともに約3割程度となっているところでございます。
 また、最後の11ページ目でございますが、お話にも出てまいりました政策評価でございますが、都道府県、指定都市では約6割、市町村では約1割になっております。
 雑駁な説明でございますが、以上でございます。

○ 鳥居部会長
 今の御説明で、5ページに円グラフがありますが、白と黒の色分けをちょっと説明してください。だいぶ違いますね、市町村と都道府県で。

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 左側のほうが都道府県・指定都市の総計でございまして……

○ 鳥居部会長
 黒は?

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 黒が12~17回のところの都道府県・指定都市数、あるいは市町村数でございます。

○ 鳥居部会長
 ああ、そういうふうに読む?

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 はい。

○ 鳥居部会長
 そうですか。下に書いてある数字とは別ですね。

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 失礼しました。下に書いてある数字と一致しております。したがって、都道府県、指定都市には、1~11回のカテゴリーにつきましては存在しないということでございます。

○ 鳥居部会長
 下に書いてある数字がありますね。定例会が13.5回で、臨時会が4.1回で、委員協議会が5.2回。

○ 角田初等中等教育企画課補佐
 これの合計ということでございます。

○ 鳥居部会長
 その合計ですね。はい、わかりました。ありがとうございました。
 それでは、資料につきましての御質問もございましょうけれども、それも含めまして、今、4人の委員の方々からいただきました御意見をもとに、少し時間をとりまして御審議をいただきたいと思います。
 本来ですと、今日は四つあるテーマのうちの1番目に限って議論をというふうに最初は考えていたのですが、4名の方の御意見を伺ってみますと、四つの問題は相互に関連していると思いますので、無理に分けることはないと思います。
 念のために分けておきますと、1番目は教育委員会制度の意義と役割、2番目が首長と教育委員会の関係、3番目が市町村教育委員会と都道府県教育委員会の関係、4番目が学校の自主性・自律性、そういう問題だったと思います。
 できますれば今日は教育委員会制度の意義と役割、歴史的な問題、あるいはこれからの時代の問題、今抱えている問題等について、御意見を集中していただければありがたいのですけれども、こだわりません。首長との関係、市町村教育委員会と都道府県教育委員会の関係、学校の自律性の問題等にお触れになって結構でございますので、よろしくお願いいたします。
 御意見がございましたら、どうぞ。
 それでは、土屋委員、どうぞ。
 時間がありませんので、お一人二、三分ずつで、お願いします。

○ 土屋委員
 はい。まず、八代委員がおっしゃっていることで、大変参考になるところと、そうじゃないところがあります。教育委員会制度は、普通の人でも運用できるように、つまり、特別優れた人が出たときにうまくいくのではなくて、あまり優れていないような普通の首長、平均的首長が出たときでもうまくいくようにと、これはそのとおりだと思います。
 ただ、具体的な御指摘の中には、実際の市町村行政についてあまり御理解をいただいてないのかなという気がいたします。例えば、辺地に手厚くとか、市町村レベルで手厚くということがありました。例えば、辺地に手厚くというのは、今でもいろいろ辺地に手厚くやっているわけですが、仮に市町村に権限を移して、財源も移した場合には、そういう辺地には財源もないのです。これは地方交付税制度の根幹の話でありますけれども、辺地に手厚くといって、市町村に権限を移しても、財源を移しても、そういうところは財源がないのです。そういう現実がたくさんあるのです。そこを御理解いただかないと、一方で全国でナショナルスタンダード、ナショナルミニマムとおっしゃっていますけれども、そういう現実を御覧になると、そういう現実との整合性はどういうふうにおとりになるのか。
 それから、全体的に何が最適か、個人に選択肢を与えるということでございますけれども、個人に選択肢を与えた場合には、一番典型的なのは学区を撤廃する。例えば武蔵野市なら武蔵野市を一区にして、どこでも好きなところへ行っていいよと、こういう制度が一つあります。
 これを私はやろうかなと思っているのですけれども、なかなか踏み切れない。心配なのは、やはり地域差があります。時には学校差があります。そうすると、一つの学校に集中して、つぶれる学校も出てくるのではないか。武蔵野市の場合には比較的均一な住民がいるのですけれども、全国的に見た場合には均一の住民でないところもあります。ところが、そういうところに住んでいる人は、学校がなくなっちゃって、自由な選択を与えたら、誰も来なくなる。そこの小学校は、何キロとか通うのかどうか。つまり、ナショナルミニマムとか、ナショナルスタンダードというのは、そういうことも視野に入れておかないと、単なる論に終わってしまうという気がいたします。
 それから、市民の選択肢を増やすということですけれども、これは前回、部会長がおっしゃったことでありますが、レイマンコントロールがいいのか、あるいはもっと賢者によるというか、何といいますか、そういうふうなところで教育をやっていったらいいのかという根本議論になるわけですけれども、安易にいわゆる選択で選んでいくということになると、妙なことがたくさん起こってきます。例えば、幼稚園教育の中では、我々が見ると非常に危ないなと思うようなことを売り物にしている幼稚園が出てまいります。これは私学で自由な選択をやると、必ずそういう側面が出てくるだろうと思います。だから、日本国としての教育のスタンダードというものの枠を全くなくしてしまっていいのだろうかという議論をちゃんとやらないといけないだろうと思います。
 教育委員会制度というのはかなり非効率で、鈍感なところもありますけれども、自分で教育委員を選んでいて、そう言うのもなんでございますけれども、ある程度凡庸な首長が出ても、一定程度以上に機能していくというメリットもあります。凡庸な首長が出たときに、ある程度スタンダードは保障して、たまたま金沢のように意欲的な首長が出られたら、それはその上に機能していく、こういう制度がいいのではないかという気がいたします。
 確かに市町村教育委員会は、東京都教育委員会、都道府県の教育委員会を見ているところがあります。何かあると、すぐに横山教育長の顔色をうかがうということもあるかもわかりませんけれども。(笑声)また、余計なことも言ってきますからね。市町村教育委員会がやるべきことを、東京都から指導してきたりするから、それは従うことはないのではないかと私は言っていますけれども、それはともかく、文部科学省が通知で出してくるという言い方は、通知と言うと何か悪いようですけれども、一定の指導基準を明示して、そこで教育とは何たるかということを、専門スタッフがいて、いろいろ議論した結果、一定の方向を出すのなら、それは一定のミニマム保障になっていく。だから、上意下達が悪い面だけではなくて、いい面だってあると、私はこう考えています。
 私自身は、能力があるかないかは別にして、教育委員には非常に力を入れていると考えておりますけれども、今の教育委員会制度でも、やり方によってはかなり機能します。

〔樋口初等中等教育局担当審議官退席〕

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 片山委員、どうぞ。

○ 片山委員
 私、今伺っていまして、教育委員会制度を考える場合に、一番のキーワードは説明責任ということだと思うのです。石原委員が言われたのも、現場にいて、現場で子どもたちにいい教育環境をつくってあげたいという課題を持っていて、それに対してきちんとアカウンタブルにこたえられるかどうか。今の教育委員会制度は、文部科学省があって、県教委があって、市町村教委がある、そういう中で、市教委でなかなか自由にできない。だけども、精いっぱい頑張っていますよというお話だったと思うのです。
 宮崎さんの場合は、神奈川県教委の中にいて、自分で委員として課題をいっぱい持っているけれども、例えば事務局が言うことをきいてくれないとか、人事権がないとか、自分でちゃんと説明責任を果たそうにも果たせない仕組みがある、こういう悩みだと思うのです。
 実は私も知事になりまして、最初に感じましたのは、教育問題について説明責任を誰が果たすのだろうかということでした。知事は県行政全体を総括しますけれども、個別の教育分野については、例えば教育内容はもちろんでありますけれども、学校の運営とか、教員の人事とか、そういうものについては教育委員会がやることになっていますから、いろいろな地域の課題があっても、私が直接手を下すことができない。私は、議会なんかで、議員と教育長あるいは教育委員会の関係者とのやりとりを見ていまして、本当に情けない思いをずうっとしていたのです。といいますのは、私は知事になったときに、一番大切なのは行政の透明性を最大限に確保すること、説明責任をきちんと果たすこと、あとスピード感のある行政、こういうことをモットーにしていたのですけれども、当時の教育委員会は、何とも透明性が低い、説明責任も果たさない、それからスピード感がない、こういうありさまだったのです。これは一体何だろうか。教育委員会制度というものがうまくいくのだろうか、必要なのだろうかと正直思ったのです。
 そこはでも、要するに私の場合は、教育委員の任命権がありますから、3年ぐらいたつ間に教育委員を順次入れ替えました。教育長も含めて。今は、透明性とか、説明責任というのは、ほぼ満足のいく形にはなっているのですけれども、3年かかりました。教育長が代わるまでに。知事の任期は4年ですから、私は今、2期目に入っていますが、1期で終われば4年ですから、4年のうち3年間が不本意な、透明性がない、説明責任を果たさない教育行政を抱えながらやってこざるを得なかったというもどかしさがあったのです。そのときに、自分なりに説明責任を誰が果たすのだろうかということを考えざるを得ませんでした。
 県内を見ると、教育現場にいろいろ問題がある。直さなければいけない。だけど、自分で手が下せない。じゃあ前の知事が任命した教育委員会の皆さんが、ちゃんと鋭敏にそれに反応して説明責任を果たすかというと、それは全然期待できないという状態が続くということが現行制度上あるのです。
 横山さんは、それが安定性だということで、逆の意味だったら、いい安定性になるのだと思うのです。ちゃんとした教育委員を選んでいて、凡庸な首長が出たときに、首長は凡庸だけれども、前の知事が選んだ教育委員がしっかりしているから、うまくいったというのはたぶんいい例だと思うのですが、逆の裏目もあるわけですね。この辺をどう考えるかということが、私と県教委の間にも実はあったわけです。
 今、全然ないかというと、今でもあります。例えば教育長とか、教育委員は私が任命したものですから、私の責任ですけれども、例えば学校現場に何があったときに、学校長の責任を問いたいというときに、私なんかが直接手を下すわけにいきませんから、そこは秩序が必要ですから、それは県教委がやるわけです。そこに、例えば私たちが期待するようなスピード感がある措置ができるかというと、これは必ずしもそうでない場合もありますので、説明責任を求める場合の若干のそごがあるのですけれども、今、そういう状態です。
 あと、県教委と市町村教委の間の説明責任の問題もあると思うのです。教員の人事は市町村でなくて、県でやっていますから、例えば学校現場で教員に不祥事があった場合、誰が責任をとるのか。これは実は裁判になったときに非常に微妙な問題がありまして、県教委が責任をとるのか、それとも市町村教委がとるのかという。まあ、連帯責任みたいなことになるのですけれども、この辺が非常にあいまいなのです。やはり人事権をどう考えるかというのは、今回の教育委員会制度の在り方を考える場合の一つの大きなポイントだろうと思います。それは要するに、どっちが権限を持つかというつまらない次元の話ではなくて、誰が説明責任を果たさざるを得ないのかという観点で、どこに人事権、任命権を属させたほうがいいのかということだろうと思います。
 市町村の教育委員会と学校の問題も今あるわけです。学校現場で何があったときに、例えば予算が足らないとか、教員の質はどうかと言われたときに、市町村教委でそれに受け答えできる場合とできない場合があります。予算の場合だったら、市町村教委の責任になることが多いのでしょうけれども、教員の質の問題になったら県教委の話になります。そうすると、保護者からいろいろ問題があったときに、誰が一体、学校現場の問題について説明をし、アカウンタブルに回答する人なのかということが非常に不明確で、保護者からは戸惑いとか、不満とか、そういうことが出てくるゆえんだろうと思います。
 さっき、県教委の中でもその問題があるというもどかしさを感じておられるというのを非常に興味深く伺ったのですけれども、私、それではいけないと思うのです。例えば高校の現場で何か問題があったときに、それをちゃんと解決してくださいといったときに、教育委員会が責任者ですから、教育委員の皆さんに言いますよね。そのときに、「いやあ、事務局が言うことをきいてくれないもんですから」とか、「事務局は知事部局から配属されてきて、私の言うことをきいてくれないんです」と。これだと保護者は浮かばれないわけです。「じゃあ誰に言ったらいいんですか」ということになります。
 本当は教育委員の皆さんに任命権があるのです。ですから、知事部局から来た人が悪ければ、返品すればいいのです。それだけの権能が実はあるのです。それを行使されるかどうかという問題です。実はそういう問題なのですけれどもね。そこで教育委員が非力かどうかという話が前回出てきたわけです。
 いずれにしても、説明責任をきちんと果たせる制度にすべきだと思うのです。どっちの権限かというレベルではなくて、この問題については誰が説明責任を果たすべきかという、すっきりした制度を目指すべきだと思います。今は非常にもたれ合っている。結果的に、何かみんなが責任が持っているようで、実は誰もがちゃんと責任を果たすということになっていない。文句を言ったときに、文部科学省なのか、県教委なのか、市町村なのか、学校なのかよくわからないような仕組みになっていることが、教育委員会制度の一つの大きな欠陥だろうと思います。
 私は教育委員会制度が悪いとは言っていません。横山さんが言われたように、中立性があるとか、教育の安定性があるという利点はあります。レイマンコントロールの利点もあります。ですから、その利点を有する制度をつくったわけですけれども、そのためにちょっと副作用があって、説明責任をきちんと果たせないような、果たすにふすわしくないような仕組みになっているのが現状だと思います。そこの副作用とか、悪い点を変えることが、今、やるべきことではないかと思います。

○ 鳥居部会長
 議論の早い段階で、もう一つだけ確認をしておきたいと思うのですが、ちょうど今、知事と市長からお話があったのですが、議会の話というのは全くいつも出てこないのですね、議会。この問題についてですよ。議会と首長、議会と教育委員会との関係を考えたとき、議会から教育委員会について質問をしたいとか、呼んで話を聞きたいということが起こったときに、どういうことが起こるのですか。

○ 片山委員
 それは議会と首長との関係とほとんど一緒なのです。議会が、例えば教育委員会の権限である教育行政について質問したいとか、要請したいというときには、これは教育長なり教育委員長なりが答弁に立つわけです。ただし、教育委員の任命の問題とか、教育行政全般を包括する例えば予算上の問題とか、そういう問題で議論があるときには、首長が答弁に立つわけです。ですから、ちゃんとした議会ならば、きちんと教育問題についても関与しているわけです。私のところも、議会での議論のうち一番多い項目は教育問題です。以前は、さっき言いましたように、何とも教育委員会が頼りないといいますか、ぶざまなところがあったのですけれども、今はきちんとやりとりしていますから、うちの議会はかなりしっかりしています。

〔馳大臣政務官退席〕

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 では、藤田委員。

○ 藤田委員
 今日は5時までに大学に戻らなければいけないものですから、発言して失礼させていただくのですけれども、既にいろいろ出された点で、賛同するところが多いのですが、私も基本的に中立性、継続性、安定性というのは非常に重要だと思っておりますが、これは教育委員会の性質にかかわるもので、ポジティブな機能なり役割として教育委員会が何を果たすべきなのかということについては、いろいろ検討の余地はまだあるように思います。
 それから、片山委員が言われた説明責任やスピード性、透明性は重要だと思いますが、もう一方で土屋委員の言われた凡庸なという表現が適切かどうかはともかく、首長がどういう方であっても、それなりの水準を維持することができるという、ここの点は実は非常に重要であって、教育というのは、そんなに頻繁に改革が行われていいものではないわけです。ですから、基本的には、時々必要な改革を適切に行えばいいのであって、あとは日常的に適切にどのように運用されているか、あるいは執行されているかが重要なわけですから、そういう意味でも、教育委員会の在り方そのものを含めて、役割・権限も含めて、再検討をぜひしていただければと思います。
 それから、八代委員については、私は常日頃から市場原理をめぐって対立をしているのですが、いろいろ提案されていることについて、これが実施された場合に、あるいはその方向に大きく動いたときに、財政効率の問題や基本的な財政的なミニマムを保つということを含めて、それで少なくとも10年、30年はうまくいくシミュレーションをぜひ出していただきたいと思います。
 それから、アメリカで最近、スクール・ホッピングというふうに私は呼んでいますが、非常に大きな問題になっておりまして、より優れた学校に先生方が移動して歩く割合が平均で10数%に達しているという現状も、これは教員をどこで採用するのが適切なのか……。学校で採用するということになればなるほど、優れた学校へいい先生が動いて歩く。年度途中でも動いて歩くということが、今、アメリカで非常に大きな問題になっているということも参考までに申し上げて、今後の検討課題にしていただければと思います。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、門川委員、どうぞ。

〔藤田委員退席〕

○ 門川委員
 制度の問題か運用の問題かではないのですけれども、今、議論に出ている部分で、国と地方、地方の都道府県と市町村の関係は、制度の問題をいじらなければだいぶ難しい面があると思いますが、それ以外のことは、かなりの部分で運用の問題ではないか。
 今、知事のおっしゃった説明責任というのが非常に大きなポイントだなと。ただし、なかなか役所は説明しません。学校も説明しない。そこで、宮崎委員の言われた政策評価やないか。京都市の場合は、政策評価と個別施策評価と、それから戦略的予算編成、その3点セットで去年から始めました。まだ十分なものではありません。しかし、個別の政策評価をして、随分頑張ってきたのに、非常に厳しい評価を受ける。これを説明責任でしなければならんということで返ってきます。
 各学校につきましても、平成13年度にすべての学校に学校評議員制度を置きました。その次に、一昨年にすべての学校に外部評価を含めた学校評価システムを導入しました。こうなりますと、すべての学校に設けましたホームページが充実しました。そして、学校便りとか、保護者懇談会というのが充実する。知ってもらわないことには、情報を共有しないことには、評価をしてもらえない。評価と説明責任、そして具体的な取組とが循環していく、そのシステムを機能させていけば、運用で変わっていくんやないか。
 そういう意味で、説明責任は、何ぼ言うててもあきませんので、評価システムを確立していく。そのことによって両方が機能していくのではないか。満足度調査をしていく。ただ、そのときに画一的な評価項目にしますと、間違った序列化になりますので、それぞれの学校が評議員、PTAと一緒に、何を目指すのかという評価規準も学校ごとにつくっていただく。そういうことも配慮しながら、学校分権のようなものをやり出しているというのが1点であります。
 もう1点は、私も教育委員会に採用になり、30年間、教育委員会にいます。京都市の場合は、教育委員会プロパーの行政職が半分以上。知事部局のほうからくれ言うたって、「ノー」。知事部局のほうからこれを送る言うたって、「ノー」。これは教育委員の先生の権限です。教育委員会でそれはやっていただいています。そういう意味では、運用の問題やないか。
 もう一つは、教育委員会制度ですけれども、政治の場というのは選挙がありますから、選挙は有権者に対して違いを明らかにして選択をしてもらうというのが、選挙の一番大事なとこやないか。似たような争点のないようなことにしないで、政治の場合は違いを明確にして、有権者が選択していく。
 ただ、教育の場は、特に義務教育、それから高校教育も準義務教育です。こういう場は、今、違いを明らかにして、保護者に選択を迫るのではなく―そういう時代がずうっと今まで続いてきた。イデオロギー対立が続いてきた。ようやく子どもに焦点を当てて、一致点を拡大していこうという営みが始まったんやないかという気がするのです。例えば学校5日制でいくのか、6日制に戻すのかという論争を通じて選択を迫るより、子どもに焦点を当てて、学校5日制の趣旨がどれだけ実行されているのか。こういうことを地域と学校と親とで一致点を拡大して、拡大して、共同の行動をしていく取り組みが大事だ。
 そのときに首長が代わって、選択を迫って、施策が変わるというのは、学校現場に新たな混乱を生むのではないか。そういう意味では、教育委員会制度は、中立という言葉が適切かどうか別にしまして、首長からちょっと距離を置いているという意味はあるのではないか。
 ただ、そこで、首長が選挙で教育内容にかかわる問題についても、マニフェストで公約してやる。京都市の場合も桝本マニフェストということで。しかし、その場合に、どこまで教育の中身について首長が言うのがいいのかどうかという部分については、課題はありますけれども、その辺は大いに論議して、そういう意味では矛盾していますけれども、それも有権者がこれから判断していったらいいことではないかと思っています。
 ただ、首長が代わることによって、学校現場まですぐに変わっていくというのは非常に難しい問題ではないかと思います。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、稲田委員、どうぞ。

○ 稲田委員
 4人の方の話を聞いていまして、私は石原委員のお話に、隣にいらっしゃるから言うわけではありませんけれども、共感するところが多々ございました。地域間格差、学校間格差が非常に大きいということと、それから危機感ですね。首長の危機感が、いわゆる権限を持って予算を確保している。これは見事なものだなという印象を受けました。
 というのは、今、地方に行きますと、教育の危機感が、首長にも、教育委員にも、議員にも、あまりないです。佐賀県のような地方でも、既に大手の塾がどんどん進出してきていますし、中高一貫は私学が完全にリードしています。それから、昨年からは県立の中高一貫校ができました。今、2年生まで入っているわけですけれども、これは蛇足ですが、女子が202人、男子はたったの117人です。これは平等に選ぶとこうなるのです、最近は。私は女性センターの館長まで兼ねていますから、喜ぶべきことなのかどうなのかわかりませんけれども。
 いずれにしても、こういう状態を見ていますと、市町村立の中学校、結局そういうところに通っている生徒の学力といいますか、これが非常に気になるわけです。ということは、こういう危機感とか、論議が、市町村の教育委員会でなされているような感じを受けないのです。市町村の教育長の大半は、恐らく校長OB ―私は全部調べたわけではございませんけれども、校長OBの方が多い。教育委員会の委員も地域の名士といいますか、それから所によっては佐賀大学教育学部同窓会のような教育委員会もあるようです。これは、民間から入った委員の話ですが。
 いずれにいたしましても、塾にも、中高一貫校にも行けない、地方の小・中学生の学力はどうなるのか。基本的に1番目の教育委員会制度の意義と役割の中で考えなければならないのは、運用という言葉はほかの委員さんもいろいろ使われましたけれども、運用とやはり人材だろうと思います。人材がそろわなければ、運用も何もあったものではないと思っております。ですから、地方の大部分がそうかどうかわかりませんけれども、いずれにしても、この問題を素通りして教育委員会制度云々を論議することはできないのではないかと思っております。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、小川委員、それから千代委員、その後でどうぞ。

○ 小川委員
 意見というよりも、今日、意見を述べていただいた方に対しての質問でよろしいでしょうか。今後の審議にかかわることだと思いますので。
 いろいろなお話があったのですけれども、主に人事の在り方とか、現場により近いほうに権限移譲云々という話は、教育委員会制度を支える教育行財政のシステムの問題であって、当然それは議論していくべき課題だと思うのです。ただ、教育委員会制度の在り方とか、教育委員会制度の是非論を議論する際には、そうした制度を支える行財政のシステムとは違って、合議制の行政委員会という仕組み自体をどう考えるかというところの、制度内在的な議論は不可欠だと思うのです。その点についてあまり積極的な御意見がなかったので、お聞きしたいのです。
 八代委員が、資料1-2の内容は、ほとんど制度を支える行財政のシステムの問題であって、合議制の行政委員会としての教育委員会そのものをどう考えるかということについては、「1」の「教育委員会制度の問題点」の最初の「・」で、「首長がその意を反映した教育改革を進める場合の障害」になっているという指摘しかないのですが、合議制の行政委員会としての教育委員会の問題点と、もしもそうしたことを改革する場合には、どのような改革のお考えがあるのかということについてもう少し御意見を伺いたいと思います。
 石原教育長については、これは時間がなかったので、お触れにならなかったと思うのですけれども、レジュメの2枚目の「6」の「教育委員会制度について」というところに、具体的に教育委員会制度の制度内在的な問題についての幾つかの視点がありますので、これを少しお話しいただけないかということ。
 宮崎委員の御報告は、その辺、かなりストレートに述べられているのですが、一口に言いますと、一般行政部局から教育委員会の制度を人事権を含めてもっと独立を強化しろというお話だと思うのです。これは1956年の公選制から任命制へのところで、ある意味では決着がついているのではないかと思うのです。今の日本の地方自治の人事管理のシステム、公務員制度の仕組みを見た場合に、一般行財政のところから教育委員会の人事を含めて、これ以上独立強化するということは、かなり現実性に乏しいのかなということ。
 もう一つ、例えばアメリカでは、一般行政区と違って教育学区が独立していたからこそ、教育委員会が一般行政部局から独立して、教育税とかなんかあるのですが、最近、そうした学区と一般行政区がかなり重なってきているところでは、教育委員会の公選制をむしろ廃止して、任命制に移行したり、教育委員会そのものの権限を首長のほうがテイクオーバーして、首長のもとで教育行政をやるという動きが、ニューヨークをはじめ都市圏のほうでかなり強くなっている。そうしたアメリカの事情も考えると、今以上に一般行政部局から教育委員会制度の独立性を強化することは、日本でどの程度現実性があるのか、その辺のところがよくわからないので、少し説明をしていただければと思います。質問ばかりですみませんけれども、お願いします。

○ 鳥居部会長
 御質問に簡単にもしお答えいただければ。実は資料4を今日はお配りしてございまして、これは前回出た議論です。今、小川委員の御質問を聞きながら、資料4を見ていますとわかりますように、御質問の点は、前回の議論の中でほとんど詰められていない、出ていない議論が多いのです。
 そういうわけで、八代委員から順番にお答えいただければ。お願いいたします。

○ 八代委員
 ありがとうございました。
 今、小川委員から御質問のあった点につきましては、私は合議制自体がそんなに大きな問題とは思っておりませんで、特に多数決ということでありますので、ヴィートーもないわけですから、それはそんなに大きな問題ではない。問題は、県と市町村の教育委員会の権限の問題と理解しておりますので、あまりメモにもその点は言っておりませんでした。
 ついでに、土屋委員が、権限が下におりたら財源も下におりるのではないかということで、私はそんなことは全く言っていないわけで、義務教育というのはまさに国の債務でありますから、当然ながら財源というのは、どんな貧しい市町村であってもきちんと国によって保障されるという仕組みは維持する必要があるのではないか。いわば極端に言えば、一種のバウチャーみたいな形で、国民はどこの地域に行ったとしても基本的な費用は担保される。ただ、金を出すところが権限も握るというのが、やはり官僚行政のあしきところでありまして、金は出すが口は出さないという方式に変えていくのが大事ではないかと思っております。

○ 鳥居部会長
 では、石原委員、どうぞ。

○ 石原委員
 教育委員会の中で、私は6点ほど挙げてありますが、例えば平成10年に「今後の地方教育行政の在り方について」、中教審答申が出されましたが、その中で、結果的に具現化できなかったことがあります。それが上から4番目の教育長の教育委員兼務なのです。議案は、教育長が教育委員会議に諮りますが、教育長が教育委員として審議に加わるというのは、私は分離したほうがいいのではないかというお話をし、答申もその線で行われたのですが、現実にはそこは改善されなく、逆に都道府県の教育長が市町村と同じように教育委員を兼務し、というふうになってしまいました。
 よく教育委員会が追認をすると言いますけれども、専任化している教育長が議案として上げているものについて、そこに非常勤として教育委員が、それを否定することはなかなか難しいのではないかと思っております。ですから、私は教育委員会議のときは意見を言わないことにしておりますが、説明は事務局がしますから。前回の中教審では、それは変えたほうがいいと答申が行われながら、結果的には、むしろ県も市町村並みになってしまったという点は、残念です。
 それから、非常勤の合議制の限界ということは、現実として認識したほうがいいと思っております。組織を動かして、責任を持って決定していくときには、直属の部下とか、権限が必要ですが、教育委員そのものは執行機関と言われながら、議案を審議するという立場ですが、実際には、議会との関係では、予算は議会で議決した後に、教育委員会議に諮ります。教育委員会議で否決するということはあり得ない話なのです。では、議会の前にするかといえば、そんなことは議会軽視になりますから、できない。そうすると、市長部局で予算を調定したそれを案としてお諮りし、議会の議決をまってするというような手続に入るわけです。
 私は、教育委員会のそういう部分をどうしていくかというときに、教育委員は、現実に自分の仕事を持っているのに、何か学校に問題があった、何か危機があったら、出張先からすぐに帰ってくるというようなことは難しいと思います。そういう意味では、実際の仕事が事務局主導型になるのはやむを得ないと思うのです。幾つかの事例において、教育委員が市民の良識を発揮して、きちんとした見識を示せるということはとても大事です。幾つかの事例が金沢市でもありましたが、そのことは大事にしていくべきことで、つまり、地方自治体における中立性というより、多元性を担保したほうが、教育行政はよりいいのではないかと思っております。

○ 鳥居部会長
 宮崎委員、何かお答えがありましたら。

○ 宮崎委員
 アメリカのシステムはアメリカのよさがあると思うのですが、必ずしも我が国になじむものばかりではないので、アメリカ型を追求していくばかりが必要ではないと思いますが、他山の石として見ていくことはとても大切なことだと思っておりますから、そこから学んだりするところは大切にしたいと思っています。
 そういう意味では、アメリカ型に必ずしも、まあ、6・3・3制そのものからどうかと言われるといろいろありますが、日本のやり方は大事だと思っております。
 それから、56年に決着した問題なのかもしれないのですが、現実問題としては、全体の中の教育という位置づけはどうしてもぬぐいがたいところがあって、例えば政権が変わると、総合計画とか、プランとか、プロジェクトとか、キャッチフレーズが変わっていくわけです。それに合わせて、教育のほうもそれを待って対応していかなければいけないという部分がどうしてもあって、教育だけが独創してやることが難しいところがあります。全体の中の一部として考えなければいけない部分で、どうしてもかかわりということでいくと、中立、独立ということに対しての影響力は出てきます。総合計画の中での位置づけということになると。総合計画の中から教育を全部外して、教育は教育でということになると、県として、あるいは市町村として、日本国としてでもいいのですけれども、一貫性が保てるかという問題になってくるので、これは非常に微妙な問題かなと思っています。
 それから、独立ということで、もう一つ、実はいろいろなレベルがあると思うのですが、知事部局と教育庁というだけではなくて、教育庁の中での事務局の中でも、現場の先生方が出向というのでしょうか、おいでになって何年か勤めて、そこを踏み台にして校長先生になって戻っていらっしゃるとか、そういう行政の体験は、管理職になるための大切な機会だとは思うのですが、現場の先生方がいらして事務局でいろいろなことをするときに、学校評価にしても、評議員制度にしても、私たちも全部施行しておりますけれども、お手盛りですよね。中にいるわけですからね。それでいいのだろうかとか、そういう感じは非常に受けております。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 それでは、千代委員が先に手を挙げておられます。それから、吾妻委員。
 千代委員、どうぞ。

○ 千代委員
 前回は私、欠席いたしまして、誠に申しわけなく思っております。
 教育委員会の問題について、私は大きな市もしくは都道府県という立場ではなしに、小さな市、町、村という立場から発言しておいたほうがよかろうと思っております。
 教育委員会の中には、小さな村等によっては3人制になっているところもありますし、また、広域で教育委員会を保っているところもあるわけですが、そういう市町村に対しての対応について、県教委あたりが考えを十分披瀝して、納得させるような方向が必要であろうと思っております。
 例えば人事の問題でありますが、教員の採用並びにそのアフターサービスの問題におきまして、人事権を持っている教育委員会から任命された新採用職員がどのような形でその資産を保障されてきているか。これが非常に危惧される場合があります。新採用で受験の難関を通ってやってきた、右も左もわからない人間が、教員として教室の中で専制君主のように振舞ってしまう場合だってあり得るわけです。この問題を解決するには、県が人事を握っている以上は、それなりに県の責任と裁量で、採用に当たっての人事考課と同時に、教員として持つべき資質を事前に確かめる必要がある。全く生のままの教員を送り込んできて、小さな市町村において、その教員をもう一度研修するというのには多額のお金と時間とを必要とするわけです。採用時において、県がそれぐらいの責任を持って市町村に教員を配分することがなければ、教育に責任ある対応が市町村はなかなかとりにくいだろう。
 それと同時に、新採用者に対して拒否権がないのです、ほとんどは。この方が教師として不適任であるといって、それを県に戻すという対応が非常に難しい。この点において県教育委員会の責任が非常に重要であると同時に、人事権を今後どのように考えていくか。これは検討の余地が大いにあるのではなかろうかと思っております。
 私は小さな3万人の町の首長でございますけれども、首長の思想信条と教育の問題が、先ほど取り上げられておりました。一つの公約のような形で、教育は今、流行のようにテーマとして取り上げられています。私は3期目が間もなく終わるところでございますが、教育についての一つのアウトラインを選挙においても示すわけでございます。その示した形が、教育委員会には、当選した暁には既に広がっております。教育行政の中の財政的な支援は、首長が責任をもってやるわけでございますから、教育委員会との話し合いの場を多く持たなければいけない。私のところは小学校が三つ、中学校が二つという、大規模な町ではありません。少ない学校数でありますから、校長会、さらには教育委員会と首長との話し合いの会を年数回持っております。会を頻繁に行うことによって、首長の独断専行ではなしに、首長の考え方を教育行政の中にも浸透させていく。これを基本にしなければ、首長は何のために選ばれたかわからない。教育の独立性という問題があると同時に、首長としての独自性をどこまで教育行政の中に浸透させていくかという面においては、教育委員会の十分な理解、さらに逆に教育委員会に対しての首長の十分な理解、その相互理解の上に教育委員会は成り立っているのだろうと思っております。
 しかし、現実に小さな市町村においては、先ほどから議論がありますように、首長の教育に対する理解の程度、さらには首長が教育行政にどれぐらいの予算を充当するかという面においては、大きな格差が生じます。この格差をどのように是正していくか。これはナショナルミニマムでやっていくことができるかどうかは非常に難しいところであります。
 もとへ戻りますが、県の教育委員会の任務は、そのあたりが非常に重要になってくるだろうと思います。先ほど宮崎委員がおっしゃった、中核市以上なら任免権があるけれども、中核市になるためには一定条件をそろえなければならない。30万人以上の都市であり、しかも、免責要件もいろいろ入ってまいります。今後、合併がどんどん進められたとしても、やはり10万、15万という都市が増えるわけで、任免権等については大変大きな問題点が残ります。その場合に、県教育委員会の持っている権限がどの程度明確に、各市町村に伝わっているか、また、その任命権を含めた県教育委員会の、先ほど片山委員がおっしゃったように、説明責任といったようなものが確実に果たせるかどうか。この辺に教育委員会の存立の重要なかぎがあるのではないかと思っております。
 もう一つだけ申し上げておきますが、市町村の教育委員会における父兄並びに地域の住民との関係は非常に密接になってまいりました。これは社会の変化でございまして、生徒の非行の問題もあり、学力の差もありますと、これはおのずから父兄が動き出します。そういう面では、市町村の教育委員会がかなり現場主義に徹し始めた。これは確かであります。したがって、追認的な教育委員会ではなしに、むしろ闘う教育委員会になっていくだろうと思います。これから市町村の教育をどのように立て直していくか。悪いときには立て直さなければいけない。いいときにはさらに特化していかなければいけないという役割では、市町村の教育委員会は制度的にも十分存立の意義があると申し添えます。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 時間がきてしまって、4時になりましたので、大変恐縮ですが、吾妻委員のお話を伺って、おしまいにさせていただきます。どうぞ。

○ 吾妻委員
 第1回のときにもお話をしたわけですけれども、私は町村の教育長の代表で来ておりますので、町村合併がどんどん進んでいく中でも、小さい町、村は厳然として残る。その辺に視点を当てていただくことも忘れないでほしいというお話を申し上げました。
 先ほど金沢市の教育長さんのお話で、国、府県、末端の市町村ということでおっしゃったわけですが、中核市と何千人ぐらいの町、村とではまた大きな違いがあるわけでして、その辺でかなりまた対応が変わってくるのかなと思いながら話を聞かせていただきました。
 いずれにしましても、横山委員の最初の言葉にありましたけれども、教育は国家的な問題だと、これは誰でも同じだと思います。ある会合で同じような場面でお話ししたことがあるのですが、私の町で子どもたちを海外研修に送ると、先ほど議会の話が出ましたが、議会の質問で出てくるのは、「町の金を使って、海外に子どもを送って、その子どもが町にどれだけ貢献をするんだ」という質問がきます。そのときに私が答えるのは、教育はその町のためにだけ貢献する考え方でやっているのではありません、大きなことで言えば、世界のためにどれだけ貢献できるか、人類のためにどれだけ貢献ができるか、そういう人間を育てていきたい。だから、研修に行った子が、イコール直接町にどれだけ貢献したかという議論は、レベルがあまり高いとは言えないのではないですかというお話を一つします。そういうことを目指しながらやっていかないと、教育は国家的な問題にならないと思います。
 逆に言いますと、終戦後、全国各地から集団就職でたくさんの人間がやってきました。あの人たちは、皆それぞれの地方の義務教育を受けて、都会にやってきた人たちだと思うのです。あの人たちがある意味では戦後の日本をつくったと私は思っております。その人たちが来る以前には、それぞれの地域の小さな町、村で、義務教育を受けてきた。そこに日本の教育の光がその当時から当たっていた。そういうものの積み重ねが今の日本だろうと思っております。

〔結城文部科学審議官退席〕

 話をもとに戻しますが、先ほど来、権限移譲の問題がたくさん出てきました。何か上から下に上意下達ではうまくいかないやの意見もなくはなかったわけですが、今の上からおりてくる、例えば通知一つとっても、それほど拘束力の強いものではなくて、むしろ指導的なものが多いわけですから、それイコール縛られるという考え方ではなくて、それをいろいろなバリエーションでやっていけるのはたくさんあるのではないか。文科省の話を直接して申しわけないですが、文科省から例えば通知一つ出るにしても、今日、私どもが今、こうやって行っているこの審議会そのものが、日本の各界各層の方々の意見をたくさん取り入れて、そういうものを受けて、私どものほうにおりてくるのだろうと私は理解しております。

〔津田委員退席〕

 私が非常に怖いのは、人口が少ない町や村の教育委員会、あるいは教育委員会の事務局で、権限移譲をされてもできない部分もある。あるいは、権限移譲、イコールお金も国からおりてこないみたいなことになると、それこそ権限移譲、イコール格差をもっと広げるようになってしまうのではないかという危惧も非常に抱いております。どんどん規制を緩和すればいい教育ができるのだというのとは少し違うのではないかということも、ぜひ確認をしておきたい。
 国から府県、府県から市町村、そういうものがあるということは、逆に言えば、義務教育費国庫負担法の関係で、県にお金がおりてくるわけですから、そこで県の教育委員会の権限もある程度あるわけですし、人事権なども、中核市あたりになれば自前でたぶんできるのだろうと思いますが、町、村レベルでは、人事権を与えられても、教員の確保なんていうのは簡単にできるものではない。その辺のところで、何かもう一つ、何でも緩和をすればいいのだみたいなのではなくて、日本の国どこでも、いつでも、ひとしく義務教育を受けられる、そういう我が国のよさを守っていくのにはどうしたらいいかみたいなことも、ぜひこれから議論していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 まだほかにも御発言を御希望の方がおられると思いますが、ちょっと時間がありませんので……。
 では、ごく簡単に、佐藤委員。

○ 佐藤委員
 今、吾妻委員のお話がありましたので、私も市町村の教育委員会のメンバーの一人として、過疎過密が非常に大きくなっておりますし、経済格差が地域的に大変大きくなっていますので、ただいま吾妻委員がお話ししたとおり、子どもの機会均等が必ずしも現在満足ではない。しかも、その乖離が大きくなってきているということについては、私ども市町村の教育委員会の中におりまして、ある意味での危機感を持っております。
 そういう意味で、世界の動向からしますと、経済も自由、いろいろなことが自由の名のもとに、いろいろな規制緩和が進んでおりますけれども、事教育に関しましては、日本の国の趨勢を左右しますので、過疎過密、経済の格差、こういった国全体の偏りに対する調整役を、ぜひ国あるいは都道府県、そして私ども市町村が一体となってかかわっていただきたということをお願いします。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。
 では、ほんの一言にしてください。時間が10分過ぎていますので。

○ 池端委員
 すみません。失礼いたします。ほんの一言だけ。学区制の撤廃のお話が先ほどございましたが、ちょっと御報告をさせていただきます。この件に関しましては、意外な結果が出てまいりましたということで、そのような話し合いが日本PTAの教育問題の中でございました。学校の格差が広がるのではないかということが予想ができました。それと過疎化、これも予想ができました。過密する学校、過疎する学校。
 ところが、誰も予想していなかったことが、俗に11時ぐらいにコンビニの前でたむろしている、どうしようかというような子どもたちがみんなで、「じゃあそこの学校に行こう」という子どもたちが集まる学校が生まれました。これは誰も予想をしておりませんでしたと。そうなると、もう手のつけようがない。地域の学校でありながら、地域以外の子どもたちが一つの学校へ集まって、その地域を巻き込んで諸問題を起こす。広域化して子どもが荒れるということで、この部分は誰も予想ができませんでしたという話がございましたので、一つ御報告させていただきます。

○ 鳥居部会長
 ありがとうございました。なかなか難しい問題がいっぱいあります。
 それでは、今日は大変貴重なお話をいただきまして、まだまだお話を伺いたいところでございますが、時間をだいぶ超過いたしましたので、これにて終わりにさせていただきますが、今後のスケジュールについて、もし事務局から何かあればどうぞ。

○ 山田生涯学習企画官
 今後の日程につきましては、改めて調整させていただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

○ 鳥居部会長
 事務局とよく相談しまして、この後の進め方を考えていきますが、場合によりましては、もう1回ぐらい委員の方々の御意見をいただき、それからヒアリングという形でいろいろな方の御意見を伺うというふうにしたいと思います。
 また、皆様から、こういうことを調べておくようにという御要望がございましたら、事務局にお寄せをいただきたいと思います。
 今日はどうもありがとうございました。これにて解散といたします。ありがとうございました。

午後4時10分 閉会

お問合せ先

生涯学習政策局政策課