(補論2)我が国高等教育のこれまでの歩み
ここでは、21世紀の我が国の高等教育の将来像を検討するに当たり、これまでの我が国の高等教育の歩みを振り返ることとする。
(1)明治期~戦前
- 中世ヨーロッパにおいて学者や学生の「ギルド(組合)」として成立した大学は、勃興する近代国家との関係でその自律性をどのように保つかをそれぞれで試行錯誤しながら社会制度として定着してきた。闊達に研究し自らの主体的な判断により学位を授与する大学には本来的に自律性が必要であるが、他方で、大学における研究活動の規模の拡大等により、国家からのサポートが大学の存立にとって不可欠になってきた。近代以降の大学の発展の在り方は、それぞれの国や大学により区々であるが、共通するのは、「自律性(オートノミー)と説明責任(アカウンタビリティ)のバランスをいかに確保するか」を模索してきたことだと言ってよい。
- 我が国の高等教育は、昌平学校の流れをくむ東京開成学校や医学校を合併して明治10(1877)年に「東京大学」が創設されたことを嚆矢とする。東京大学は明治19(1886)年の帝国大学令により「帝国大学」となった。政府は帝国大学に対して重点的に投資を行い、帝国大学は「国家の須要」に応じた教育研究を展開する中で自律性(オートノミー)をめぐる議論の中心的な役割を果たしてきた。学校教育制度上、高等教育機関は帝国大学に限られず、大正7(1918)年の大学令によりそれまで専門学校に位置づけられていた私立大学が制度上「大学」となった後も、旧制大学(49)、旧制専門学校(368)、旧制高等学校(39)、高等師範学校(7)、師範学校(55)など様々な校種に分岐していた(数字は昭和22(1947)年当時の学校数)。
- 進学率は、例えば大正9(1920)年時点でこれらの高等教育機関合計で2.2%であるなど、量的な規模は極めて小さかったが、例えば、蚕糸専門学校や高等商業学校、高等工業学校のように専門分野ごとに分化していた専門学校の中には、その分野の教育研究において全国的な拠点となっている学校もあるなど、それぞれ独自の個性を発揮していた。このような多様な高等教育制度は、一方で複線型の学校制度で上級学校への進学に関して袋小路を生む等の弊害も指摘されていたが、個々の高等教育機関の個性は明確な仕組みであったとも言えよう。
- また、社会制度としての大学は、中世の大学においてはラテン語で授業が行われていたことに典型的に表れているように、本来的に国際性を有している。我が国の高等教育も、大学制度のモデルとしたヨーロッパだけではなく、アジア諸国も視野に入れた国際的な発展を遂げてきたことも看過できない事実であろう。
(2)戦後
- 昭和22(1947)年に制定された学校教育法は、このような様々な旧制高等教育機関を6・3・3・4制の学校制度の中で「大学」に一元化した。旧制大学や師範学校など規模や役割、文化等が異なる高等教育機関が「新制大学」にまとめられたが、学士課程は教養教育を担うのか、専門教育を行うかなどその役割について大学全体を通じた合意が必ずしも形成されず、大学院も組織としては未成熟であった。その結果、同じ「大学」であってもその教育研究や組織運営の在り方は、大学によっては学部や学科ごとで異なるなど相当に多様であった。
- そのような中で、高等教育は世界的にも特異といってよいほど極めて速いスピードで量的拡大を果たしたが、その主たる担い手は私立大学であった。昭和30(1955)年には31.6%であった全大学数に占める国立大学数の割合は、平成14(2002)年には14.4%まで低下した。国立大学は、高等教育の量的な拡大よりも、我が国の学術研究と研究者養成の中核を担うとともに、全国的に均衡のとれた配置により、地域の教育・文化・産業の基盤を支え、学生の経済状況に左右されない進学機会を提供する等の役割を担ってきたと言えよう。
- 昭和41(1966)年に16.1%であった大学・短期大学進学率は10年後の昭和51(1976)年には実に2.40倍の38.6%になるなど、大衆化する高等教育の質をどのように維持・向上するかが大きな政策課題となった。このような問題意識をもって、学校教育制度トータルの改革構想をまとめた昭和46(1971)年の中央教育審議会答申(46答申)は、高等教育機関の制度的な種別化を提唱するとともに、国が高等教育の規模等について計画し管理した上で、高等教育に対して財政措置を行うことにより質を確保するよう提言した。46答申の提言は、昭和50(1975)年以降に国が策定した「高等教育計画」や同年に制定された私立学校振興助成法に基づく私学助成のスタートなどの形で結実した。
なお、量的規模の拡大の多くを私立大学に依存してきたことにより、我が国の高等教育は、結果として、他の先進諸国に比べて公財政支出よりも家計支出に依存するシステムとなったと言えよう。
- 高等教育機関の制度的な種別化は実現しなかったものの、46答申をはさんで、昭和22(1947)年の学校教育法制定当初は大学のみであった高等教育機関には、「高等専門学校」(昭和36(1961)年)、「短期大学」(昭和25(1950)年、制度として恒久化されたのは昭和39(1964)年)、「専門学校」(昭和50(1975)年)が加わった。
- しかし、高等教育の質の確保を行政計画や財政支出を中心に行うという政策は、財政事情の悪化等を背景として転換を余儀なくされる。臨時教育審議会(昭和59(1984)年~62(1987)年)は、高等教育の個性化・多様化・高度化を政策的に進めるために、「ユニバーシティ・カウンシル」の設置とともに、大学設置基準の大綱化など自らの理念や個性を活かした各大学の創意工夫が可能となるように制度の弾力化を図り、高等教育の質を確保する手段として「大学の評価と大学情報の公開」を重視することを提言した。
(3)大学審議会と大学改革
- この臨時教育審議会の提言を受けて、昭和62(1987)年に「大学審議会」が創設された。臨時教育審議会で提言された大学改革の方向性を踏まえ、「教育研究の高度化」、「高等教育の個性化」、「組織運営の活性化」を3つの柱に審議を行った。例えば、1.「教育研究の高度化」の観点からは、機能として脆弱であると指摘された我が国の大学院の量的・質的な整備や通信制大学院制度、専門大学院制度、修士課程1年制コースの創設、2.「高等教育の個性化」として、高等教育の質の確保の仕組みを転換するための大学設置基準の大綱化(カリキュラム編成の弾力化)、ファカルティ・ディベロップメントや履修科目登録上限制、教員資格における教育能力の重視など責任ある授業運営と厳格な成績評価、情報通信技術の活用促進、3.「組織運営の活性化」の観点からは、自己点検・評価や外部評価の実施、教員の流動性を高め高等教育を活性化するための教員の選択的任期制の導入、組織運営体制の明確化や学外意見の反映、等が提言された。これらの指摘は累次制度化され、各大学の改革の推進に大きな役割を果たした。特に、自己点検・評価の実施、シラバスの作成、学生による授業評価、ファカルティ・ディベロップメントの実施など、それまで大学においては必ずしも重要視されてこなかった大学教育の質を改善するための地道な取組が確実に進展した。
- 高等教育の規模は、高等教育計画が策定(私立学校法上昭和55(1980)年度末までは特に必要があると認める場合を除き、私立大学や学部等の認可は行わないこととされていたほか、工業(場)等制限区域や政令市など都市部においては、地域間格差是正等の観点から大学の新増設は抑制することとされた)されたこともあり、昭和50年代から平成初期にかけて大学・短期大学進学率は37%前後で安定的に推移した。
なお、昭和59(1984)年に大学設置審議会大学設置計画分科会で策定された「昭和61年度以降の高等教育の計画的整備について」においては、18歳人口が急増すること、また平成4(1992)年をピークにその後急激に減少し平成12(2000)年には150万人台になることを踏まえ、設置認可における原則抑制という原則を維持しつつ、期間を限った定員増(いわゆる「臨時的定員」の措置)を行うことが提言された。この臨時的定員は、当初平成11年(1999)度末ですべて解消することとされていたが、平成9(1997)年の大学審議会答申「平成12年度以降の高等教育の将来構想について」は、平成16(2004)年度までの間に、臨時的定員の5割程度の恒常的定員化を認める方針を打ち出した。このような臨時的定員の取扱いの結果、大学・短期大学進学率は平成5(1993)年以降の18歳人口の急激な減少と相俟って、40%を超えて現在ほぼ50%に達している。
- 我が国の大学における学士課程の問題として、教養教育をどのように位置づけるかについては、戦後一貫して模索が続いてきたと言ってよい。昭和31(1956)年に制定された大学設置基準では一般教育科目が必修と規定されるとともに、国立大学については、旧制高等学校の位置づけや教員養成学部の在り方に関する議論なども踏まえ、昭和38(1963)年の国立学校設置法により、一般教育を担当する「教養部」を置くことが可能となった。前述のとおり、大学審議会は、それぞれの大学の創意工夫による柔軟なカリキュラム編成が可能となるよう大学設置基準を大綱化することを提言し、平成3(1991)年には一般教育科目や専門教育科目といった制度上の枠組みを外すなどの大学設置基準の改正が行われた。その結果、各大学においてカリキュラムの見直しが進み、少人数教育など効果的な教育が推進された側面がある一方で、例えば国立大学では教養部の改組が進み、教養教育が衰退したとの指摘もなされているところである。
- 他方、大学院は戦後、組織として未成熟なまま発足した。昭和49(1974)年になって大学院設置基準が制定され、コースワークを基本とした課程制大学院の基本的な考え方が明確にされた。また、昭和51(1976)年には学校教育法が改正され、学士課程を持たず大学院の課程のみで構成される大学(大学院大学)が制度化されるなど、大学院の位置付けが制度上明確になる中で、学部を基礎としない「独立研究科」や大学院大学の設置が促進されたが、大学院の量的な規模や課程制大学院の趣旨の定着は必ずしも十分ではなかった。
大学審議会は、このような状況を踏まえ、平成3(1991)年の段階で、10年後の平成12(2000)年には大学院学生数の規模を全体として少なくとも当時の規模の2倍程度とすることが必要と提言した(「大学院の量的整備について」)。また、国立大学の一部については大学院を中心とした組織編制を行うなど、大学院の整備が進み、実際に、大学院の規模は急速に拡大した(9.8万人(平成3(1991)年)から20.5万人(平成12(2000)年))。他方で、このように大学院の量的な整備が進む中で、1.量的な規模は拡大しつつあるもののなお欧米先進国に比べ低い水準にあること、2.大学院における人材養成の趣旨・目的が各研究科等において必ずしも明確ではないこと、3.「課程制大学院」の趣旨を踏まえた体系的なコースワークの確立等が十分ではないこと、4.高度専門職業人養成の機能が十分ではないこと等の問題点が指摘されていた。
なお、各大学においては、前述のとおり、大学の教育研究の質を担保する手段として、大学評価の重要性の認識が高まり、自己点検・評価の実施、外国人研究者を含む学外の有識者による外部評価などが確実に進展したところであるが、大学の学術研究機能や人材養成機能に対する社会の関心が高まるにつれ、より客観的で透明性の高い「多元的な第三者評価」の必要性が議論されてきた。
(4)「21世紀答申」以後
- このように大学改革は進展してきたところであるが、その過程で大学改革の課題がより明確に認識されるようになってきた。また、1990年代後半に入り、知識基盤社会への移行等により大学の教育研究機能に対する社会の期待が極めて大きくなったきた。それにもかかわらず、大学教育は逆に18歳人口の急激な減少に伴う大衆化(進学率の急激な上昇)や高校教育の多様化等によりその質について大きな不安を抱えることとなり、高等教育の質の確保が改めて大きな課題になった。特に、大学の人材養成機能については、オン・ザ・ジョブ・トレーニングを前提に、企業が大学に求めているのは入試を軸としたスクリーニングに過ぎないとの指摘もあった。しかし、企業内教育機能が低下すると同時に知識基盤社会においては企業で活動する上でも汎用性の高い知識を持ち自ら課題を探求し解決できる能力がますます必要となったことから、大学の人材養成機能に対する社会の期待は極めて高くなった。
- 大学審議会は、このような問題に対するトータルの改革方策を示すために、平成10(1998)年に「21世紀の大学像と今後の改革方策について」答申し、1.「課題探求能力の育成」という大学教育の目標の明確化、2.各大学が特色ある教育研究を自ら創意工夫して展開できるようにその裁量を拡大、3.拡大した裁量をしっかりと使いこなせる責任ある組織運営システムの確立、4.各大学に対する多元的な評価システムの確立、を提言した。すなわち、それまでの大学審議会を軸にした大学改革の展開や問題点を整理し、大学改革がよりダイナミックに進展するために、今後の改革方策を構造的に体系化して示したのである。
- これにより、平成11(1999)年には学士課程を3年以上の在学で終えることが可能となるとともに、国立大学の組織運営体制の確立を図るための国立学校設置法等の改正が行われた。また、平成12(2000)年には大学の教育研究の特性に十分配慮した第三者評価を行うための専門的な機関として「大学評価・学位授与機構」が創設されるなど、様々な制度改正が行われたところである。
- この「21世紀の大学像と今後の改革方策について」以降、大学の教育研究機能への高い期待を背景に、その基本的な考え方を踏まえて、国立大学制度や学校法人制度、設置認可、大学院制度といった大学制度の根幹についての根本的な見直しが行われた。この結果、高等教育制度の基本にわたる構造的な改革が、平成16(2004)年から一斉にスタートすることとなった。
- すなわち、国立大学の法人化、公立大学法人制度の創設、学校法人のガバナンス改革のための私立学校法改正など大学のマネジメント改革のための制度改正が国公私を通じ出揃った。例えば、人事・会計上の規制を撤廃するとともに、学外有識者も参画した学長中心の責任ある意思決定が可能な経営体制を確立した上で、第三者評価や情報発信の徹底を図る国立大学の法人化は、130年間続いた国の行政機関の一部としての国立大学を独立した法人とし、平成10(1998)年の大学審議会答申で提言された4本の改革サイクルを国立大学のマネジメントに内在化させたものと言うことができる。
- さらに、法科大学院、認証評価が発足するとともに、予算上も「21世紀COEプログラム」や「特色ある大学教育支援プログラム」が充実するなど、各大学が自らの個性を伸ばしつつ切磋琢磨する競争的な環境が醸成されることとなった。
特に、認証評価制度の導入は、設置認可の弾力化と相俟って、臨時教育審議会以来志向してきた大学の評価と大学情報の公開を軸にした高等教育の質の維持・向上システムへと踏み出した大きな改革である。
また、法科大学院を含む専門職大学院制度は、戦後大きな課題を抱えてきた我が国の大学院が、研究者だけではなく高度専門職業人を育てるためのしっかりとした教育課程を有する「課程制」のスクールへと大きく変貌する契機となっている。大学院が、「高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培」(学校教育法第65条)うことに真正面から取り組むことは、特に社会科学系の大学院教育の大きな変革であることは勿論のこと、学部教育にも大きな影響を及ぼすことが考えられる。
- 知識基盤社会への移行は、大学が本来有すべき国際性や国際的な通用性が大学の個性的で特色ある発展にとって極めて重要であることを改めて認識させることとなった。学術研究分野での国際的な激しい競争だけではなく、大学教育が国境を越えて提供される中で、大学が教育研究活動全般にわたって国際的な環境において国外の大学をも意識しながら切磋琢磨することが求められている。この点が、大学において改革の機運が大きく高まり、魅力ある教育研究の展開や責任ある組織運営体制の確立に向けて各大学が積極的な取組を図っている一つの大きな背景となっている。
- 19世紀ドイツ以来の「フンボルト的大学観」は我が国の大学の在り方に大きな影響を与えてきた。この考え方は、研究と教育を一体的に結合させるという大学の本質を明確にする役割を果たしてきたものの、大学人を第一義的に研究者であると自己規定し、研究成果の披瀝が最高の教育であるとする考え方は、主として少数エリートに対する大学教育の時代を前提として成立するものであり、21世紀の今日ではもはや歴史的意義を有するに止まるのではないか。フンボルト以外にも注目すべき大学観として、例えば、オルテガが,1930年頃のスペインの社会状況を前提として大学の使命を1.教養教育,2.専門職業人養成,3.「それに加えて」科学としたものや、米国のクラーク・カーが,著書「大学の効用」(1963年初版)の中で現代の大学を教育・研究・社会サービスの多機能を持った「マルチバーシティ」と考えたこと等が挙げられる。大学観も時代や社会状況に応じて変貌していくべきものと考えられる。
- 今日、国公私立大学を通じて全学的な戦略をもって取り組む各大学の教育研究上の創意工夫を支援する仕組みは着実に整備されており、競争的な環境の中で各大学が具体的にどのような戦略を描き、行動するかが極めて重要になってきている。各大学が自らの戦略を構築し進路を定めるに当たっての、ある種の海図(チャート)として、高等教育の将来像が今まさに求められるゆえんである。
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