これからの専修学校教育の振興のあり方検討会議(第5回) 議事録

1.日時

平成28年9月29日(木曜日) 14時30分~15時20分 学校視察 15時30分~17時30分 有識者ヒアリング

2.場所

学校法人文化学園 文化服装学院 C館4階 国際会議室(C-041)

(東京都渋谷区代々木3-22-1)

3.議題

  1. 専修学校ヒアリング 『専修学校の「これまで」と「これから」について』  学校法人文化学園 大沼 淳 理事長
  2. その他

4.出席者

委員

大井川  智明  日本商工会議所企画調査部担当部長
小方 直幸   東京大学大学院教育学研究科教授
河原 成紀   学校法人河原学園理事長、全国専修学校各種学校総連合会常任理事
黒田 壽二   金沢工業大学学園長・総長、日本高等教育評価機構理事長
小杉 礼子   独立行政法人労働政策研究・研修機構特任フェロー
小林 浩         リクルート進学総研所長、リクルート「カレッジマネジメント」編集長
小林 光俊   学校法人敬心学園理事長、日本児童教育専門学校校長、全国専修学校各種学校総連合会会長
今野 雅裕   政策研究大学院大学教授
清水 信一   武蔵野東高等専修学校校長、全国高等専修学校協会会長、全国専修学校各種学校総連合会常任理事
前鼻 英蔵   学校法人西野学園理事長、全国専修学校各種学校総連合会理事・全国専門学校青年懇話会会長
吉本 馨     大阪府教育庁私学課長 

文部科学省

有松  育子   生涯学習政策局長
佐藤 安紀   生涯学習総括官
里見  朋香   生涯学習政策局 政策課長
岸本  哲哉   生涯学習推進課長
白鳥  綱重   専修学校教育振興室長
星川 正樹   専修学校教育振興室室長補佐 
牧野 浩司   専修学校教育振興室専門官

5.議事録

【黒田座長】  皆さん、こんにちは。所定の時刻になりましたので、ただいまから、これからの専修学校教育の振興のあり方検討会議、第5回の会議を開催させていただきます。
   皆様におかれましては、御多用の中お集まりいただきましてありがとうございます。なお、本日、報道関係者より写真撮影と録音の申出がございますので、許可をしております。御発言のときには、御承知おきいただきたいというふうに思います。
   初めに、事務局に人事異動がありましたので、紹介をお願いいたします。
【白鳥専修学校教育振興室長】  事務局内の人事異動につきまして、紹介をさせていただきます。9月に着任いたしました、生涯学習総括官の佐藤でございます。
【佐藤生涯学習総括官】  どうぞよろしくお願いいたします。
【白鳥専修学校教育振興室長】  以上でございます。
【黒田座長】  ありがとうございました。
   前回の会議でお伝えしましたとおり、専修学校の価値・役割を中心に、会議における議論を深めていくために、今月から数回にわたって有識者のヒアリングを行い、また現場を見せていただくということを決めさせていただきましたが、本日第1回目として学校法人文化学園へ訪問をし、こういう立派な会議室を貸していただいて会議ができますことを心より御礼申し上げたいと思いますが、きょうは文化学園の大沼淳理事長様から、『専修学校の「これまで」と「これから」について』と、今、専修学校も大きく変化を遂げようとしているときでありますので、その辺のことについてお話をお聞きできればというふうに思っております。お話が終わった後に、皆さんと意見交換をさせていただきたいというふうに思いますので、よろしくお願いいたします。
   それでは、先ほどもお話ししましたが、きょうは横倉事務局長を始め文化服装学院の皆様方に1時間ぐらい御案内を頂いて、文化服装学院のいろんな実習施設、それから図書館に匹敵するような資料室がうまく整理をされている様子も見させていただきました。ありがとうございました。大変参考になったと思いますが、厚く御礼を申し上げたいと思います。横倉さんはじめ、文化服装学院の御案内を頂いた方々、本当にありがとうございました。
   先ほどお話ししましたように、きょうは、大沼理事長、大変お忙しい中をこうして我々のためにお出ましを頂きました。きょうは、1時間半ぐらいですか、時間をとらせていただきますので、よろしくお願いしたいと思います。
   それでは、壇上の方で、よろしくお願いします。
講演が始まります前に、事務局から、資料の確認、出席状況についてお願いします。
【白鳥専修学校教育振興室長】  資料につきましては、議事次第のところに書いてありますとおり、資料1、2、そして参考資料1、2というふうにございます。また、大沼理事長の御著書も、文化服装学院様より御提供いただきまして、机上に配付をさせていただいております。
   以上でございます。
【大沼理事長】  よろしいですか。
【黒田座長】  まず、皆さん御存じだと思いますけれども、大沼先生の御経歴を御紹介させていただきたいと思います。
   事務局から、お願いします。
【白鳥専修学校教育振興室長】  失礼いたします。大沼理事長の御経歴を御紹介させていただきます。
   大沼理事長は、1928年に長野県飯山市でお生まれになり、太平洋戦争末期、海軍兵学校に進学されました。そこで終戦を迎えられ、その後、戦後初の国家公務員試験に最年少で合格をされ、人事院に入省、そして文部省担当官として、日本の教育制度の改革に御尽力を頂きました。その後、29歳で文化学園の前身である並木学園に御転職されました。1969年に学校法人文化学園理事長、文化学園大学学長となられ、日本はもちろんのこと、世界のファッション界、またファッション教育界をリードされてこられました。2000年には日本私立大学協会の会長に御就任され、日本の教育界の発展に御献身を頂いております。1984年に藍綬褒章を受章されるなど、叙勲・褒章を数多く受けておられます。その御功績は計り知れず、とてもこの場で全てを御紹介することはかないません。
   大変恐縮ではございますが、以上をもちまして御紹介とさせていただきます。
【黒田座長】  ありがとうございました。
    それでは、大沼先生、よろしくお願いいたします。
【大沼理事長】  きょうは、わざわざ我が校までおいでいただいて、ここで何か話をしろと黒田先生の命令がございましたので、お役に立つかどうか分かりませんけれども、私の体験を中心にしてお話を申し上げようかと思っています。
   実は、私は満88歳をとっくに過ぎておりまして、その関係もあって声がちょっと聞きづらいだろうと思いますが、年のせいで声がかれてしまったのでしょうか。そんなことでございますが、いずれにせよ90歳近くなるわけですから、年のせいにしてお許しを頂きたいというふうに思っております。
   まず、専修学校の制度をなぜ作らなければならなかったか、作るときに何が一番大きな障害になったのかというふうなことについてお話を申し上げておきたいというふうに思っております。
   その当時、学校教育の改正というのは、いわゆる終戦直後の昭和23年に学校教育法が公布されて、私も昭和24年から文部省の担当官になって、まず国立大学から、公立大学から、高等学校、中学校、小学校の全教員にどういうふうにして給料を配るかという制度を作れという命令を受けて、そして、その担当者になって全制度を作った記憶がございます。そのことが何となく文教通みたいな形になって、縁があってこの学校に来ることになったのは昭和33年でした。事は33年から始まりまして、昭和33年1月6日だったと思いますけど、私がこの学校へ独りでぽつんと来ましたら、学務の人が案内してくれて、ちょうどこの教室と同じぐらいの大きさの、昭和27年に初めて鉄筋の校舎ができて、そこに大教室を創った、そこで新年に初めて、ここの責任者として赴任してきたという挨拶をしました。そのときにここに座っていました200名全員、女性でした。全部女性で、ずらっと並んでいる。これはすごいところへ来てしまったと。役人を辞めちゃいましたから仕方がなかったのですが、いずれにせよ人事院を辞めるときに、こちらの方に来ることになったときに一番反対したのは人事院でして、それはおかしいと。まだ29歳じゃないかと。一国一城の理事長に来いというのは、裏が何かあるんじゃないか、大変な目に遭うんじゃないかというふうに言われました。そのときの課長というのは大蔵省の船後という課長でして、その後主計局長になったりいろいろした方ですけれども、いずれにせよ運命のさいが投げられたみたいな形でここへ来ました。
   そして、最初はそういうのに遭遇したのですが、そこで見たものは、私が役人として9年間文部行政をやっている方と付き合いながら一番大きな仕事は教員の全給与体系を作り上げた。そのことを書いた本がここにございます。これは、昭和30年くらいに書いたのは昭和25~26年、昭和28年までに書いた中身ですけれども、そういうことをやらされたということは、その当時の役所というのは、私は昭和24年の国家公務員試験に受かって人事院という役所はなかったのですから知らなかったのですが、昭和24年の初めに人事院ができて、そしてその試験が行われて、それに受かったら採用通知が人事院から来たわけです。で、人事院に就職をしたわけです。そして、内閣にございました新給与実施本部というのを解散されて人事院が引き受けることになって、そのとき10人の各省担当官が選ばれて、私もその10人の中の一人に入って文部省を担当することになったのが、文部省との出会いの始まりでございます。もう70年近い歴史になります。
   私が不思議に思っていますことは、70年間、私、文部省にいたことは1回もないのですけれども、文部省と縁が切れたことは1回もありません。むしろ、どこの省にいるよりも長く、文部省のほうは。その当時、天野貞祐さんが文部大臣で、剱木さんが事務次官で、後ほど大臣になった人ですけれども、非常に古いお付き合いになっておりまして、文部省のことについては何でも知っているみたいに思われるのですけれども、それはとんでもないことでして、1回も中にいたことはありませんで、外から見てきたわけですけれども、ただ、戦後の役人の中で一番大きな特徴というのは、日本に今までなかった時代が起きていた。それは、敗戦をして、そして全ての制度が全部変わっていったわけです。
   私は、国家公務員試験を受けて、受かってすぐ日光の田母沢の御用邸、大正天皇の御用邸ですけれども、GHQから、そこへ招集されました。そこで2時間、アメリカ行政法学の講習会をやるから、それを聞けという話で缶詰にされて、そこで勉強をしたわけです。いわゆる缶詰にされて勉強をした中で、その開校式に当たってフーバーというGHQの公務員部長が来まして、我々を前にして、こういう演説。今でもよく覚えています。日本の民主化を阻む要素に、困っている問題が五つある。一つは軍である。二つ目は財閥である。三つ目は地主である。四つ目は学閥である。五つ目は官僚閥である。これは日本の民主化を阻む五つの要素。この改革を我々はやりたいのだと。まず第一に、軍隊は解散した。要するに、解体したと。これはほぼ、私が入ったときには完了していました。2番目の財閥解体も、ほぼ完了していました。ちょっと前に農地改革があって、そして地主が全部土地をなくして、これがまた後でいろんな点に結び付いていくわけですけれども、いわゆる地主改革、階級が壊滅いたします。そして、その次は学閥であるということを言って、昭和22年に教育基本法が出、昭和23年に学校教育法、私立学校法等が出ます。
   昭和23年に出たことによって、そこから新学制が始まります。旧学制から新学制へ、全部切り替えなきゃならない。ほかの省庁ではその仕事というのはなかったのですけれども、学制が変わっちゃいましたから、旧制大学の職員なり先生なりは全部新制に切り替えていかなきゃいけない。しかし、旧制も残って新制に新しく切り替えていって、それをどういうふうにやっていったらいいかということについて、おまえ独りでやれと。相談相手もなければ、課もなければ、部下もいませんでした。そのことを独りでやらなきゃならないのだけど、どうやってやったらいいのかなということから始まったのですが、一つだけその思い出話を申し上げておきますと、GHQの研修を受けて、向こうのやっていることは、ガバナンスの一番大事な、政府、国家というふうなものの見方についても、いわゆる株式会社的に見るのですね。税金は売上げみたいなもので、それを使っていいのだというふうな、要するに非常に経済・効率的な財政運営という基本的な考え方が根本にあるのですね。それをいかに有効に効率よく使っていくか。それから、人事についても、いかに効率のいい人事をしていくか。人間というのは何か社会的目的があって集団を作ります。集団を作るのは目的があって、その目的をより効率的に有効に動かすためには、どういう組織にするのか。どういう人事にするのか。どういう運営をしていくのか。それから、それに対する土地・建物だとか事務所だとか、そういうものが要る。学校だったら、研究室を含めて全部要る。そのほかに、人件費を払ったりする財政。したがって、その三つのことがあるわけですけれども、そういうアメリカのいわゆる経営学の話を聞くと、目からうろこが出たような思いをした。そして、3か月間終わった。しかも、我々は学校のまま、すぐそれぞれの役所へ行かないで、日光の御用邸に集まったのです。ほとんど、皆さん学生気分が抜けておりませんでした。ほとんど学生服を着たまま、そこへ行っていました。その間に中禅寺湖のホテルへサツマイモを下げて、あそこでキャンプをやったり、月給をもらいながら学生生活に近いようなことをやったことを今でも覚えています。そして、霞が関に入って改革をやろうというふうな意気込みで霞が関におりてきたら、一切何もできませんでした。官僚閥の解体どころか、むしろ官僚閥を育てる顔になっちゃっている。勘違いをしております。
   それは、例えば資料として最初のところにあるかもしれませんが、該当学歴資格というのは、一つの証拠として御覧になっていただきたいと思いますけれども、記号で、M、L、K、Jと書いてありますね。その中に、官大卒髙文合格者、私大卒髙文合格者、官大卒業、私大卒業、準大卒業というふうに、学歴区分がMからAまであるのですね。これは、その後もずっと使われております。要するに人事の一番秘密の根幹にある。これは要するに官大ですね。その当時は7帝大が中心になりましたけれども、高等文官試験を受かった人が一番高くて、私立大学で高等文官試験を受かった人はその次。この序列は絶対に崩れない。今も崩れていません。それから、官立の大学。このLとKの間に昔は厳然たる区分があったのは、ここからこの間、上の資格を取ってきた人しか奏任官になれない。下は判任官。奏任官と判任官というのはお分かりにくいかと思いますが、軍隊の組織というのが私はよく分かっているのですが、軍隊の組織というのは、一番上の大将というのは親任官です。中将と少将が勅任官、大佐から少尉までが奏任官、それから、普通の曹長とか、「コンバット」に出てくる、ああいう人たちは下士官。そして、その下に兵隊、上等兵以下、一等兵、二等兵といますけれども、それは雇員。ですから、雇員、判任官、奏任官、勅任官、親任官という形で全部。先生も、例えば高等学校の先生だと教諭というふうに、戦前は言っていました。これは奏任待遇が入ってくるわけね、昔の中学校の先生は。小学校の先生は訓導。これは全部、判任官。訓導以外でも、例えば学校看護婦だとか、今の養護教諭に相当する人たちがいますが、これは全部、雇員。それから小使いさんとか事務職員の場合には雇員ないしは傭人というふうな形になって、それによって全部、給料その他が決まっていたわけです。ところが、アメリカさんが言うのは、そういうことではいけないので職務に応じた給与を払えと。で、その給与法もできているわけです。それをどう体系付けるのかということをやって、役所の方は、大蔵省でも、文部省でも、組織は全部同じですからいいのですけれども、教員は旧制が全部なくなって新制に切り替わったので、それを理解するだけでも大変なのに、その上にその給与体系を全部作る。作るのに、たった一人しか与えてもらえなかった。
   全て自分でやらなきゃならないというようなことからやり始めたことは、一つは時系列的に日本の教育制度がどう変化していったか。要するに学校制度をどう扱うのか、その制度と給与というのはどう結び付くのか、それと役人の担当がどう結び付くのかという時系列的な検討から、自分で始めていきました。そして、学校制度がどういうふうに明治から変遷をしていったかということも、全部知っておかなきゃなりませんでした。そのほかに、アメリカとか、英国、ドイツ、イタリア、フランスという、要するに西洋の主立った国の学校制度がどうなって、その給与制度がどうなったということも全部調べなきゃなりませんで、それを調べたのがこの本に全部書かれております。これは昭和28年くらいに私の単著で出ている本で、そのときは本当の平事務官ですから、平事務官が本を書くなんていうことは役所では100%あり得ない。局長クラスから初めて書いていいということになるのですけど、単著で出せたというのはそういう理由によります。
   そのことを詳しく話していたら、それで終わっちゃって申し訳ないのですけれども、そのときに一番よく分かったことは、給与を決めるときに職務を見なきゃならない。日本の場合は、学歴と勤続年数でほぼ決まるような形になっている。その間に、職務の差によるいろんな違い。そういう慣例になっていたので、したがってそれを触るために一番問題になったのは、全部教諭になっちゃいましたから、中学校の教諭と、高等学校の教諭と、小学校の教諭と、給料は同じでいいのか、別にしなきゃいけないのかという問題から始まる。これは、日教組と団体交渉すると、絶対に分割反対。小学校から高等学校まで、賃金は全部同一にしろと。ところが、高等学校の先生方は面白くないというか、ちょうどそのときに高等学校校長会というのができました。初代会長は、日比谷の菊地龍道さん。中学校校長会もできまして、初代会長は野口さん。麹町中学の校長です。その先生たちとお会いして、いろんな話をすることになったのです。大変運がいいことに、菊地龍道さん、日比谷の校長は私が出た長野県飯山中学、東大を出てすぐそこに赴任していたのですね。それが分かって、大変親しくなる機会もすぐできたのですけれども、その先生方との話し合い。それから、国大協との話し合い。東大に何回も連れていかれました。そして、そのことをばらしたらいけないのかもしれませんけれども、いろんなそういう作っていく過程にはございました。
   いずれにせよ、終戦直後というのは、制度の大改革を文部省が行っていまして、まず何が一番大変だったか。義務教育を6年から9年に延ばした。特に、中学校を義務教育に。中学校を創ったわけですから、その大変なことたるや、ないわけですね。ほとんど青空教室でやっていたわけですから、それを解消する。そして中学校を全国に普及させる。それが終わったと思ったら、第一次ベビーブーマーが中学校に押しかけてくる。高等学校へ進んでいく。その量をどう追ってどう解決していくかというのは、その当時文部省は大変な騒ぎでした。それを覚えている人も少なくなってきているのかなというふうに思いますけれども、制度が変わってそれだけ大膨張していく。
   そのときに、私は一つ思ったことがありました。思ったことというか、非常に感心したことがありますのは、先ほど申し上げた高校の先生と中学校の先生と小学校の先生の職務は何が違うのか。昔は、中学校は奏任官、小学校の先生は判任官というふうに決まっていたわけですから、それで給料が違っていたのですね。だけど、それがなくなっちゃったわけですから、高校と中学で何が違うのだと。教えているレベルが高まっていることくらいは分かっても、給料に差をつけることにどうやって理屈を付けるかというと、理屈がないのです。日本教職員組合の方とそういう職務の違いの話をやっても、同じだと言う。
   ところが、文部省に出張中に先生の免許状があることが分かった。分かったって、高等学校以下、教育職員の免許があるわけです。免許法という法律がございます。免許法という法律に基づいて教員免許が出て、幼稚園教諭、小学校教諭、中学校教諭、高等学校教諭、全部、免許状がある。その免許の体系を見れば、文部省がどう考えているか非常によく分かった。それで分かった。どうして分かったかというと、教員免許法のときは、先生がうんと足りなくて何とか早く補給しなきゃならないという事態にあった。少し前みたいに先生が余る時代ではなくて、逼迫している時代。戦争中は特にそうです。ほとんどの男は戦地に引っ張っていかれましたから、小学校の先生は大体、高等女学校を卒業した人が代用教員という名前で先生をやっていたわけです。その代用教員に出した免許状が、臨時教員免許状。少なくとも師範学校を出てないといけないのだけれども、少し年功を重ねた人で、先生のベテラン近くになると、ようやく仮免許という制度ができて、そこで一定の期間がたつと普通免許の2級、1級になるわけです。そのことが教員免許法に書いてあるわけですけれども、もう一つ、旧制から新制に学制が切り替わるわけですから、旧制度の免許を持っている人、旧制度の学校を出た人たちを新しい制度の学校の何にするかという、切り替えがあるわけです。それが教員免許法施行法という法律。その施行法に附則が付いていまして、たしか500万が相場と言われた。それを見ましたら、明治以降文部省所管の学校について全部どういう免許に切り替えるかという、資格を取っている人と取らない人とあるわけですけど、それの一覧表がつまびらかに出ているわけですね。
   それが実は大変大きな参考になりまして、人事院のときに書いた学歴免許等資格区分表というのがその次にあると思いますが、これも現在生きております。現在これは公務員全体に使われている。教員も含めてですけれども全体に使われている学歴。ここに書いてある、これだけの学歴が終戦の切り替えのときに公務員の中に存在していた学歴資格。これを見ると分かりますように、要するに大学とか高等学校とか、正規の一条校と言われている学校以外にこれだけの数の学校があったのですね。なぜそうなるかというと、戦前の学制は制度としてはヨーロッパ型を踏襲していますから、いわゆる単線型ではなくて複線型だった。ですから教育段階が、就学前教育、初等教育、中等教育、高等教育と、大体四つに分かれる。これは世界共通。それぞれの段階の中に一つの種類、またはそれに近い状態の学制を単線型と言います。戦後、学校教育は単線型でできている。昭和23年には、まさしくそれの典型的な系統として、日本型で遂行される。それ以前の旧制の制度のときには、複線型ですから、同じ高等教育の中に学校がいっぱいある。大学から、高等学校から、専門学校から、もう一つ非常に大きかったのは各種学校です。この各種学校は、ほかに法令があるものを除くと書いてありますから、今各種学校から除かれているのでしょうけれども、海軍兵学校、陸軍士官学校、水産講習所、船員学校、高等商船学校、そういうものは運輸省で持ち、農林省は農業関係の大学校や講習所を持ち、それから陸海軍は全部独自に自分の教育機関を持っているわけです。例えば海軍であれば、海軍兵学校を出ない限りは大将になれない。東大出ても、だめ。東大出た大将、誰もおりません。陸軍も同じです。そういうふうに学制は、良く言えば山が幾つもあった。要するに軍人になってやるなんて思ったら、そこを出てないとなれないようになっていた。ですから受験するときも、そういう一つの頂点ではなくてあらゆる頂点に向かって選択をしていった。
   しかも、その時代の制度自体は全部、試験によって決まります。入試、今みたいに統一はありません。その学校の入試によって自由に入れてよかった。自分のことを言うとおこがましいようですけれども、僕は昭和19年に3年終わったときに兵学校を受けた。普通は、5年終わって入る。そこで合格したから3年、今の高校1年生のときに大学に入っていた。大学1年生です、昭和19年。ということは試験さえ受かれば、その校長の裁定で入れちゃうのですね。ですから僕の同級生というのは大体、平均で1~2歳上という形になります。試験制度が徹底していますから、試験の成績さえとれば、ぽんぽんと飛び級ができた。
   したがって、そういう制度が役所にも伝わっておりまして、高等文官試験というのをやるようになるわけです。高等文官試験というのは下位学歴でいいのです。予備試験に受かっているか、ないしは高等学校を出ていればいいのです。専門学校を出ていれば、受験資格がある。大学に行っている必要はない。ただし大学でやった内容で試験をする。ですから早い人は大学2年、3年まで行かなくても受かっちゃう。そうすると中退して役人になる。その人たちが一番出世していくのですね。
   ですから、今の学制と全く違う制度が基本的にあって、それが昭和23年までは機能していた。昭和24年から新しい学制に切り替わっていく。その新しい学制は、何を言っているかというと、今度はディプロマ・ディグリーシステムなのですね。要するに小学校を卒業しないと中学校へ入れない。中学校を卒業しないと高等学校へ入れない。高等学校を卒業してないと大学へ入れない。大学を卒業しないと修士課程へ入れない。修士課程を出てないと博士課程へ入れない。そこで全部ディグリーがあって、それはアメリカ型なのですね。アメリカは国情に従って専門分野でも高い評価をしてやるのですけれども、戦前の日本の学校というのは、そういう形ではなくて全て入試が充実して、したがって、そこで落第を出したら恥みたいになっていて、何とか卒業させるみたいな形もそこでできたのかというふうに思います。
   でもそれはそれといたしまして、戦後になって僕もようやく体系を全部作り終わって、いろんなことの状況を知りました。そして昭和24年に新制の学制が始まったから、役人としてそれを外から眺めていたのですが、昭和33年、先ほど言ったその日にここへ来て初めてこの学校を知りました。それまで恥ずかしい話なのですが、各種学校の存在すら、私は知りませんでした。自分は各種学校を出ているにもかかわらず、兵学校が各種学校であることは知らなかった。僕はこの本のほかに、もう一つある。公務員の給与全体の本も私は書いていますので、そこにはそういう学校は学歴として認めなくていいよと。しかし、職歴としては認めてくださいよということを書いちゃったのですね。
   なぜそんなことを申し上げるかというと、この文化服装学院に来たら、今まで自分が思っていた学校とは全く違う。何が違ったかというと、そういうことを言うとちょっとおかしいかもしれませんが、先生方が優秀なんです。そんじょそこらの下手な男よりも、すばらしい人が多いのですね。僕は役所にいましたから、一つの課に私くらいのレベルだったら、ほとんどそのレベルの人がいるわけですね。
   考えてみると、そうなのですね。戦前は女子教育ということについては何もないです。大学は一切入れてくれない。かろうじて専門学校、師範学校は女性が入れたけど、女性が入れる学校ってほとんどなかった。旧制の高等学校ですら男しか入れない。そういう制度にしているわけだ。女性が行く場所というのは、ほとんどない。専門学校。したがって、その当時できてきた各種学校、裁縫の学校だとか、調理といいますか、栄養の学校だとか、家政科関係の学校。要するに各種学校が創られて女性教育が行われていたというのが、戦前の実態なのですね。
   戦後になって初めて、大学と名の付くところへ入ったのですね。東京女子大学というのは戦前からありますが、あれは専門学校なのです。あれには大学という名前が珍しく付いていますけど大学ではない。専門学校令に基づく東京女子大学。日本女子大も同じです。女性の行く場所というのはそういう専門学校と、もう一つは各種学校である裁縫女学校。その中の一つが、この文化裁縫女学校。これは大正12年に各種学校として初めて認可されて東京の方で始まっていくわけですけれども、そういう関係で女子教育を中心にして戦後の改革というのは非常に大きく進むのですね。女子の進学先として、それに適したものを全部自分で考えて、そして各種学校としてどんどん創っていって、それが戦後のいわゆる大学へと全部結び付いていきます。
   したがって、学校制度で言うと、明治5年に学制発布が行われたことは誰でも知っているように、大学区、中学区、小学区と分けて、大学区が八つ、中学区が230ぐらいで、あとは万を超えた小学区を作った。結果的にそれがなかなかうまくいかなったというあれは残っていますけれども、その後いわゆる教育令が出たのは明治14年かそれくらいに出たのが最初で、そしてそういうのが本格的に始まるのは、内閣ができた明治18年、伊藤博文が初代の内閣総理大臣になり、文部大臣を森有礼先生にして本格的に学校制度がそこから動き出します、制度として。それで、その間いろんな試行錯誤を繰り返しながら大正に来て、大正6年に臨時教育審議会が開かれた。日本では2回、臨時教育審議会としてやられた。1回目は大正6年に文部省が行った臨時教育会議、2回目は中曽根内閣がやった臨時教育審議会。不思議なことに私は中曽根内閣の臨時教育審議会の委員になっておりまして、そのときに今までなかったのだという話を聞いたことがあるくらいですが、大正6年の臨時教育会議で今までのやつを体系化して、そして大正7年に大学令が出、専門学校令も出、それから高等学校令も出て、各種学校令までそこで整備されますが、各種学校はどうもそのときに出た証拠が余り、これを見付けようと思っても見付かりませんでしたけれども、いずれにせよ旧制の制度はほぼ大正7年に出来上がったと。国家の体制が出来上がったので今まで私学でやっていたところがそれに当てはめて、第1回目の大学ができたのが、大正9年に早稲田、慶應をはじめとして神田にある学校が大学になっていくわけです。したがって、女子教育だとかそういうことに当てはまらない学校は全部、各種学校という、大変うまい、しかもこれは日本ならではの制度だと私は思っています。明治の最初から全部江戸時代と同じように、寺子屋だとか藩校だとかいろいろあるけれども、全部決まりがないまま学校制度ができていくわけです。それがそのまま日本はずーっと続いている。今も各種学校がある。一条校でないのは、専修学校でないのは、各種学校ということに。各種学校という穴が抜いてありますから、これは何にでも対応できるのですね。縦横に対応できる。これが日本の教育を進めた大変大きいゆえんだというふうに思っております。
   要するに日本の教育を推進するのに大いに役立ったというのは、自分が学校をやりたかったら、全部、最初に各種学校になる。それから国立の場合も、各種学校であったものを、例えば東京大学は、医学校と南校と開成校によって明治10年に創るのも、あれも全部が正規の学校じゃありませんから、各種学校であったやつを集めて明治10年に東京大学になって、その後の明治19年の帝国大学につながっていくわけですけれども、戦前の大学というのは、いわゆる帝大は七つ、東京、京都、東北、北海道、大阪、福岡の7帝大と、そのほかに、12官大。12官大というのは、六つの医科大学です。これは、千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本です。それから、工業系は、蔵前高専が東京工業大学、これ1校。経済の方は、今の一橋大学と神戸大学の経済学部。商科大学は、東京商科大学、神戸商科大学、この2校。そして、もう一つは医科歯科大学でした。要するに歯科があってそれも何とかする。これはちょっと後れて12校。全体を数えても7校と12校の19校しかない。その19校に入るための学校として高等学校ができる。で、高等学校令が大正7年に整備される。
   実は、この高等学校というのはこれから学制改革で非常に重要な役割を果たすのではないかと思うので、ちょっとそのことだけ触れておきたいと思いますけど、高等学校というのはそれぞれ、例えば東京は一高ですけど、仙台に二高があって、三高が京都、四高が金沢、五高が熊本、六高が岡山というふうに、ナンバー校で名古屋の八高までいくと、9番目にできたのは、松本高校だとか、新潟高校だとか、浦和高校だとか、そういうところに高等学校ができて、これは全部、理科と文科に分けられて完全なリベラルアーツ。要するに専門教育は全くない。戦前には専門教育のないリベラルアーツの学校があって、海軍兵学校も同じです。僕、海軍兵学校に入って、軍人らしいことを教えてくれるのかと思ったら、一切、船を動かすことすらできません。大砲の引き金なんて引いたことありません。かまなんか、たいたことない。何を教わったかというと、将校になるためのリベラルアーツですね。高等学校教育と全く同じでした。ですから戦前の日本の教育の中では、それを基礎として、それを終わった人が卒業して、海軍だったら砲術学校へ行く。飛行機に乗るなら航空学校に行く。あるいは砲術学校がある。それぞれ専門の、いわゆる大学院レベルではやる。それで専門家になっていくという形になっている。だから、初期に非常に大事にしたのはリベラルアーツ。戦後、切り替えをやったときに何が問題かというと、リベラルアーツの部分だけ飛んじゃって全部専門になっちゃった。そこに一つ大きな、戦後の制度の問題があります。大学の中に専門科目でない普通科目を置いたけれども、専門科目を普通の大学レベルでやるのだったら非常に圧迫されちゃうことは事実で、そんなのんびりしたことをやっていたら卒業できませんので、いわゆるアメリカ式のそういう問題を抱えていることは事実です。
   きょうはそのことまで話していちゃいけないのですけど、いずれにせよ学校制度というのは、いろんな形の外国で言えばあれもあるし、日本の戦前でもいろんな考え方ができてきているし、戦後もまたいろんなことについて問題点があるが、ただ一番大きな問題点というと、戦前があって戦後に切り替わっても占領当時にGHQが考えていた日本をアメリカ式の学校にすることだけは見事に失敗しました。要するにできてないですね。いまだに大学院出たって公務員になっても、単に論文だけ。何のために大学に行くのか分からない。そういうことを認めてないのですね。制度で作っておいて世界なり会社が認めなかったら、学校なんかはうまくいくはずがない。要するに国家挙げてそういうことをきちっとやってくれないと、うまくいかないものだ。そういう前提の中で各種学校が果たした役割というのが今申し上げたようにございまして、そして戦後、新学制に切り替わって非常に急いでおりましたから、小学校、中学校、高等学校、大学を学校と言って、それ以外は83条で各種学校というふうになった。何も解決しないまま、いろんな学校を全部、各種学校へ投げ込んで法律が作られている。
   その83条にある各種学校が、戦後の経済発展のために様々と動いていくわけです。一番大きな動きになったのは、女子教育が開放されて裁縫女学校が全部、大学にしてくれなかったものですから、それが各種学校として残ったのですね。それから、もう一つは工業系。要するに戦争を境にして工業のレベルというのは国際的にもうんと高くなるし、それから、ITだとかそういうものも出てくる、いわゆるコンピュータが出てくる時代に、いよいよ突入。したがって、テレビ放送にしても、ラジオ放送にしても、無線電信にしても、そういうもの自体が古い工学部の方にはなくて、そういうところ新しいことに飛び付きますから、東京で見ていても、テレビ学校だとか、ラジオ学校だとか、無線とか、そういう各種学校がどんどん生まれてくるわけです。一番多く生まれたのが、洋裁です。それはなぜかというと、開放されて全部が洋服を着るようになったのです。誰が作ったかというと、まだそういう才能がなかった。そうすると、各田舎において、洋裁店というのがあった。洋裁店というのがあって、これが一律にばぁーっと。家でできるわけですから。家をちょっと玄関にだけ看板を出せばいいという。それで飯が食えた。したがって、そこに対応する学校として、全国にそれこそ何千校という洋裁学校が生まれる。ですから、そのときの産業構造なり所得レベルに合わせて、いわゆる各種学校が生まれていったのですね。
   だけど、問題点と言われた高度成長経済に入ってくると、それががらりと変ってくる。一番いろいろな要素が変わるわけで、進学率が変わる。経済のレベルが変わる。経済の産業構造が変わる。そうすると、旧制的な下の延長の中で各種学校が機能していたことが、違う方向で機能するようになる。逆に言えば、今まで大学でやってなかった分野。要するに各種学校というのはもともと私学を創ることに大変大きな効果があったように、設立者というのは全部、最初は各種学校を創って、ある程度の基礎よりも、教育、一条校の高等女学校に持っていってもいいわけですし、大学に持っていってもいい、専門学校に持っていってもいい、そういう形で昇格させていった。そういう要素として各種学校が存在していたのですけど、いわゆる高度成長期を過ぎて大きな分かれ目になるのは、大学への進学率が10%を超えたとき。これは昭和31年だと思いますけれども、高等学校への進学が50%を超えたとき。要するに、戦前私が中学に入ったのは昭和16年ですけれども、当時の進学率というのは、いわゆる中等学校ですね。高等女学校と実業学校と中学校と、三つあったわけですから。これは三つとも違う学校なの。高等女学校は4年制、実業学校は3年制、中学校は5年制です。これも男女差別が激しく存在していたのですね。高等女学校を出ただけでは、専門学校へ入れなかった。したがって、その後、師範学校を専門学校にしたときを機会にして、女学校も5年制にします。そうじゃないと、専攻科へ1年行くとか、どこかの女子大の下に予科みたいのを置いて、そこで1年やってもらって、上の学校に入れたというふうな経緯があるくらいなんですね。いわゆる各種学校であったものが、全部大学に。これは、早稲田、慶應といえども、例外ではありません。私学のほとんど全部は、各種学校から自立させて、一つの形が出来上がると、それを申請して、それぞれの当てはまる学校にしていったという経緯があるわけです。
   だから日本の国は世界に比べてGDPの0.5%しか支出してないというのは、そういう理由なんですね。要するに、民間の人が全部やってくれるわけですから。国立大学は切り替えのときに、旧制の官立学校、約200校ありました。その200校を大体80ぐらいの大学にまとめちゃう。で、7帝大だけはまとめないで、そこに属している、東京大学だったら一高と東京高校だけを教養学部で吸収して、あとは全部放り出します。放り出すから、それぞれの大学になっていくわけです。東京高等農林だとか、東京工芸学校だとか、そういうことで1個1個。ですから、東京と仙台と札幌と、帝大のあったところだけは例外的に単科大学が生まれる。
   基本的にはそういう切り替えになるわけですけれども、私学も同じでして、したがってそういうことで財政の基礎を固めて、それぞれが成長していくわけです。この学校も典型的にそうでして、ゼロから始まっているのですね。誰も資本を出してないのです。みんながそこで少しずつ働いて剰余金で土地を買い、土地を買うとそこへ建物を建て、学生が増えるとそれを拡張していって、ゼロからこの姿ができているわけです。誰か資本を出した人がいるかというと、いない。これはヨーロッパの仕組みなのですね。文部省の誰が考えたか、知りませんけれども。それで今、約550校に及ぶ大学ができているのです。一切、大学を創るために土地を買うとか建物を建てるとか、そういうことに国家がお金を使わないで、全部民間の資金を動員できた。見方によっては、そういうすばらしい結果としてGDP、国家が高等教育に占める比率が低いのは私学があったからであり、各種学校があったからであり、今の専門学校があったからで、そのことをまず最初に自覚しておいてもいいのではないかと私は思っている。
   話があちこち飛んで申し訳ないのですけど、要するに専門学校を創るときに、昭和33年に着任して一体どういう学校があるかといったら、洋裁の方は、ドレスメーカー女学院というのがありました。これは文化よりでかいですね。それから東京の中を見たら、田中千代があり伊東茂平があり100校くらいできている。これは、その中の一つだったわけですね。ただ歴史的には、ここは間もなく100周年になります。大正12年に正式に各種学校に認可されたときから数えても、93年になるわけです。その積み重ねが大きかったわけでして、たまたま高度成長経済で、先ほどのように進学率が大きく変ってくるのですね。進学率が変わるというのはどういうことかというと、戦前だったら、社会との接点が初等教育なんです。初等教育から中等教育に進んだのは20%。女学校が16%、中学校が24%。中等教育に進む男性ですね。あとの80%は初等教育で社会へ出ていった。ついこの間までそうだったのですね。ですからそれが対社会との接点ですから、いろんなことがそんなに大きい問題にならないわけですけれども、日本の高度成長時代が来て、いわゆる農業国家から脱却するのですね。
   農業国家というのはどういうことかというと、自分の生命の維持、生きるために必要な学校として存在していた、全て。ですから、最小限度、飢えをしのぐ、寒さをしのぐ、雨露をしのぐ、そのために家があり、洋服があり、食物があったのです。その三つの要素を見ただけでもそうですけれども、高度成長経済になって工業が1位になると、人間の欲望というのは変ってきます。自分の生命維持ではなくて、楽をしたい。もっと効率よい生活をしたい。そうすると、家庭を見ればいいのですね。まきを火にくべたやつを電気に切り替えればいいのです。穴蔵を冷蔵庫にすればいいのです。そういう目で見ると、あらゆる電化製品によって家庭生活、僕のおふくろがやっていた生活と、僕の女房がやっている生活とは、がらりと全く違います。そのくらい家庭にあったものを全部拾い出すと、ちゃんと制度化すると工業みたいに。
   戦後、大発展したのは、要するに、家庭のものを電化製品に切り替えて、家庭の主婦の労働が軽減される。それから、もう一つは交通。歩いていたのが、自転車になり、自動車になり、飛行機になり、船舶になり、これも大革命が起こるわけですね。あらゆるところで工業が持っている、いわゆる効率性というふうなこととか有効性によって、社会のレベルが変ってくるわけです。それが工業化社会と呼ばれる。そうすると進学率も、今言ったように、高等教育、昔は1.5%だったのですね。大学に行く人は、100人に1人半くらいだった。それが100人に10人行くようになった。それから学校が変わり始める。高等学校も、20%だったのが50%を超えます。その時代になると、社会との接点が初等教育ではなくて中等教育に変わってくるわけです。中等教育の中に商業学校とか工業学校とか農業学校とかあって、それなりにそれまでの社会の中に貢献してきたのですけれども、50%を超して大学の上に10%以上のものが乗っかると、そういう学校は高校のレベルの専門教育ではほとんどだめになってくる。高等教育はだめになるのですね。変っていっちゃう。
   昭和40年代に入ると、40%になる。40%になるとどういうことになるかというと、そこに受かること、受験が非常に重要な課題になってくる。受験が重要な課題が出てくると、そこを受けるためには、実業学校に行ったらみんな落ちちゃうのですね。中学校で一生懸命やっても受からないのに、その間に専門教育を施されていたら。なぜそんなことを言うかというと、文化服装学院ですら高等学校の家庭科を出た子を対象にしてカリキュラムを組んでないのです。全部、普通科を出た子を対象にして組んでいるわけ。そうすると、高等教育である学校が下部の専門教育と全く結び付かないという、不思議なことを日本はやる。今、高等学校がもっているのは、公権力でもっているだけ。あれをなくしたら、全部、普通高校になる。それで実際はいいのですね。本当は行きたくない。だんだん偏差値だけが下がっていった。だけど、昔、私の知っている範囲では、例えば長野商業というのがあります。善光寺の前の商工会議所の会長はみんな、長野商業を出た人たちです。それが戦後はまるっきり変ってしまうという形をとるわけで、したがって教育の段階に従って工業社会になったら工業社会に対応する社会との接点があるし、そういうものにどう対応するかということになって、その時代になってくると先ほど申し上げた、いわゆる洋裁学校というのだけではだめな時代に入ったというふうになる。要するに、ファッションも数値化して産業化していかないといけないわけです。昭和40年代になってファッション産業というのが台頭し出すと、洋裁学校はばたばたとつぶれていく。つぶれ出したのは、大体40年代からですね。ということは、今までは割合、生活を中心にしたいわゆる農業化社会における被服の教育をやっていた。だけど、工業化社会における被服の教育と違うわけです。
   それをどういうふうにするかというと、今度、工業化社会になってくると、本当のプロが生まれてくるわけですね。要するに自分のものを縫うのではなくて、他人に着せるために、売るために、洋服をつくるというふうに変えないとだめ。ちょうど私がいたときに、そういう時期に当たっていました。したがって、これまでの学校はもうだめで、それに切り替えていこうという形でそういう方向を中心にして、いわゆるビジネスという概念で、流通過程を入れたり、いろんなことをくっつけて従来の本科とか師範科とかという、そういう制度を全く変えて工業とファッションを結び付けた。流通とファッションを結び付けた。工芸とファッションを結び付けた。というふうに、他のものと結び付けていくわけです。そうすると、靴もつくらないかん。帽子もつくらないかん。かばんもつくらないかん。洋服だけではなくなってくる。それをずっと進めていかなきゃならない時代になっていって、したがって各種学校でもできないことはないのだけれども、しかし、そこへ入ってくる人がある程度のレベルになって、何か系統的にしっかりしないといけないということで、専修学校制度を考え出したということです。
   要するに、学校制度というのはそうなのですけど、国の役割というのは、お金を出すことではないのです。そういういろんなことをやっていることを認めてやることが大事なの。お金以前の課題がある。お金は国家財政ですから、後の問題でいいのでして、問題はそういうことがあったものですから、ちょうどそのときに各種学校の人たちはみんな目覚め始めまして、特に工業系が物すごい勢いで発展をし始めます。そのときにみんな目覚めて、各種学校を何とかいい学校に変えようじゃないかというふうな運動が始まったのが、昭和33年でした。たまたまそのときに、僕は文化の責任者で赴任した。初めてそういう会合ができて、全国の団体を作ろうということで、ようやく翌年の34年に全国各種学校総連合会というのができて、たまたま文部省に関係しているというのが分かって、会長にさせられる。そのときは理事長だったかな? させられるという形になって30年間、いわゆる各種学校関係の会長をやって、もう勘弁してもらってやれやれと思っていたら、大学協会の、早稲田、慶應を除いた協会の方ですけれども、そこでまた、文部省との関係がある人だから、あれなら何かするんじゃないかということで、あれしたのだろうと思うのです。
   問題は、専修学校を創るときに学校をよく眺めていたら、工業化社会になってきて専門がそういうふうにうんと分化して細分化してきている。したがって、これはほかの学校ではできない。永久に専門学校のままやっていかなきゃならない。大学に乗り換えないと、そういう学校がどんどん出てきちゃう。これを何とかしようということで専修学校にしたのは、よく見るといわゆる教育が各種学校としていろんなものがあるのですけれども、各種学校ですから何でもあって、一番多かったのが要するに大学レベルで特別な専門の分野をやっている。大学でやってない、ラジオだとか、テレビだとか、撮影をするために担いで歩くとか、測量だとか、大学ではできないことをいっぱいやっているわけです。当該各種学校でないと果たせない役割、これも世の中に出す必要があるだろうということは、一つ大きくある。
   もう一つは、よく見ると高等学校を出てなくて中学校を出てきて入っている学校もある。これは、レベルとしては高等学校と同じわけです。ただ、算数だとか何かは大嫌いで、ところが裁縫をやらせたら、うまい。絵を描かせたら、上手。本当にいるのです。僕は何人もそういう人を見ましたけれども、そういう人は一条校へ行っていると、おまえは出来が悪いと言われて、おかしくなっている子がいる。裁縫学校へ行って自分が作ったら、よく作ったと先生が褒めてくれる。それで、その子ががらりと変わったという話を幾つも聞いている。要するに、一律の才能だけを見た学校というのはあって、そうでない才能を生かせる場所が制度として作られてないのです。それをどうしていくかということは、これからの大きな課題でもあるわけですね。もちろん、レベルもいろんなレベルが出てくるわけです。
   そればかりじゃなくて、その内容を見ましたら、外国人学校、アメリカンスクール、朝鮮人学校、朝鮮大学校、中華学校、要するに外国人学校も全部、各種学校だ。もちろん、防衛大学だとか、そういうのも各種学校ですけれども、そういう相手。じゃあ、それをやろうと思ったときに一番苦労したのは、実は外国人学校だ。これはいまだに僕は。ですから、私の主張は、少なくとも外国の国が自分たちの子女のために当該国で学校をつくって、それを掌握してないという国家は非常に珍しいと。各種学校へ投げ込んだものですから、取り下げてきている。ところが、各種学校の最低限度の権利を与えた。どういう権利を与えているかというと、各種学校になると学割緩和。だから、外国人学校にならないと困るわけ。
   それで申請をしてきて、一つの面白い話がある。面白いと言うと失礼ですけれども、朝鮮大学校の認可問題というのがあった。あのときは、僕は東京都の就学審議委員で、しかも主査だった。そして、朝鮮大学校を認可すべきかどうかということを言いました。それ以上言うとちょっと問題があるのですけれども、日本の学校ではありません。明らかに朝鮮の学校です。しかも幹部を養成するすごい学校です。したがって、美濃部知事には、あれは許可しないと答申を書きました。そうしたら、審議会というのは、諮問すればいいのです。分かりました。それで翌日、許可になりました。ジャーナリストは一切騒ぎません。あれは大沼が反動だからああなっているので、美濃部知事の方が正しいのだということになっちゃうのですね。日本の国は、そういうところが不思議な国だと思います。自民党政府が審議会を無視してやったら、大騒ぎになる。そうでない場合は、正しいことになるのですね。今でも、文科省が審議会を無視したら相当怒られるかと思います。
   今のことは、極秘事項じゃない。その当時の『法律時報』を御覧になりますと私と法律学者との論争が随分出ていますから、極秘事項ではないのだろうと思いますが、ただ、「ノー」と答申を出したのに、美濃部知事が許可をしたことは事実です。しかも、朝鮮大学校として認可をした。それっきり各種学校になっていますから、文部省の治外法権なんですね。その頃、私、ちょっと言ったことがあるのだけど、例えば中国へ行って朝鮮の学校を創ったら中国は許可するだろうか。北朝鮮は許可してくれるだろうか。その国の悪口を言う学校を創りますと申請したら、絶対に許可しないと思います。それは、その国に主権があるからだ。だけど、日本は不思議なんですね。いまだに外国人学校については、各種学校だけ。これは、初等教育であり中等教育であり高等教育なの、正規の。同じなの。それがあったもので、例えば今の専修学校のことについて、あらかたの国会議員とか文部省の人たちの了解を得ても、国会を通過しない。なぜかというと、そっちの政党が絶対にだめだと。外国人学校は認めないということが一つ。
   もう一つ、これも言っちゃいけないことかもしれませんが、反対、通過しなかった理由は、教頭問題です。文部省はその当時、管理職を増やしたかった。要するに、ガバナンスを確立するために、教頭を法的に位置付けしたいということ。それは、専修学校の方と文部省の合意を得、自民党の合意を得、そのほかの党の合意を得ていたものですから、それに一緒にくっつけば通るという。それで何と10年後れました、通過するのに。
   それで、結果的にそれをどう解決したかというと、ちょうど昭和50年になりました。50年になりますと、進学率がうんと増えて、大学へは50%近くになる。それから、高等学校へは80%になる。そうするとまた社会の様子はがらりと変えなきゃいけないのですけれども、その段階で何があったかというと、それだけの高等教育への進学者があるから、これ以上増やしちゃだめだと、ろくすっぽ大した大学はできないよという世論みたいのが、ごうごうとあったのですね。よく調べてみたら私立学校の大半は定員違反になっている。一番激しいところは、定員100人に対して1、700人入れているというふうなところもありました。そういう大学は大変うまくいって、立派な学校になっています。平均して、1.7倍入れています。これは何としても直さなかったらどうしようもないだろうという形で直し始めた。それが昭和48~49年から50年にかけて。そのとき、専修学校の法案と同時に通過したのは、私立学校振興助成法。振興助成法で定員管理をすることが初めてできた。それまで文部省は定員管理ができなかった、私学については。届出ですから、だめとなると引っ込めてもいいし、いろんなことができたわけですけれども、そういうふうな状況下になって最終的にそれでもだめなので、そのときの文部省は次官は岩間さんだったけど大臣は朝日新聞から行った永井さんで、僕は永井さんと話し合わないといけないので、永井さんとどうしたらいいのだろうかという話し合いを。大臣と次官の了解だけは絶対にとっておかないと、国会、議員立法するにしてもまずいので議員立法の方は藤波さんと西岡さんが引き受けてくれた。
   それを通過させるときの条件として、一つは社会党に了解してもらわないとだめなのですね。それを僕にやってこいと、それをやってくればという話になりました。ちょうど運良く、さっき長々話していた、戦後、給与体系を作ったことで日教組の幹部を全部知っていて、それが全部、国会議員になっていました。それから総評の議長である槙枝さんなんかも、僕が折衝しているときは調査部長でしたから。ほとんど、その当時の幹部の人たちが国会議員になっておりまして、我が校へ来てもらって、そのときはどなたか言いませんが要するに日教組の書記長をやって当選した人ですけれども、具体的に話して外国人というのを除くというふうに書いてもらって、つくらなきゃいいのですという。ですから、この条文に、そこに書いてある昭和50年の82条の2で専修学校制度というのを作っているわけ。制度ですから、当然、修業年限が何年でどういう中身でと。学校教育というのはもともと、校長がいて先生がいて校舎があって設備があって生徒がいて事務所とかそういうのがあってそれが全部、組織として完成している教育を学校と言うのですね。1人が1対1で教えたりするのは、学校ではもちろんないので。したがって、そういう組織化する組織的になっているということを設置基準にきちんと書かなきゃならないのですが、これも非常に不思議なのですけれども、短期大学設置基準というのは昭和40年、私は初めて大学審議会の基準委員会の委員になって、それを担当した。大体大学を許可するときにまだ基準ができておりませんで、大学基準協会というのは、今、黒田さんがやっているところですけれども、そこが大学設置基準というのを臨時に作っていた。それに基づいて昭和24年くらいに切り替えを行っていた。だって、文部省の省令はないのです。その後、大学の設置基準を作っていく。それも委員で作ります。そして、今度、専門学校になったときには、一応国会を通過させた後、次官をやった小野さんが官房長で、田中壮一さんと、専修学校の担当は二人しかいませんから、その二人と話し合って、今の設置基準を作った。したがって、偶然ですけど、三つとも全部、関係していたという。そうすると、大体、作り方というのは、どう作ればいいかというのは、もっともらしく見えるようになるのですね。したがって、専修学校の設置基準というのは、最低限でできるようにしてある。もっともらしく書いてありますけれども、最低限ができるようにきちっと。しかも、安定性が分かるように書いてある。
   もう一つ大事だったことは、教員養成です。例えば、専修学校で教員を養成すると大変なんです。新しいことを始めます。例えば、うちで靴の科を置こうと思います。その先生はいない。そうすると、自分のところで養成しないといけない、先生は全て。靴をやっていた職工さんみたいな人に来てもらって、そういう過程をうちの先生たちが上に立ってそいつを具体的にかみ砕いてカリキュラムにしていって、その先生もそういうものを会得しなきゃいけないと。それから革の知識は全部入れないと一つの科にならない。それを創るのに10年、一人前になるまで10年、約20年ないと完成しません。ですから、そういうふうなことをどういうふうにしていくかというようなことが、これからの非常に大きな課題。しかも時代が変っていきますから、大きな課題になると思います。
   そのときに一番参考にしたのは、教育職員免許法なんですね。よく考えてみると大学には免許法の適用がない。ないから今は違っていますけれども、副手があって、助手があって、講師があって、助教授があって、教授になる。助手の間に上の人たちの手伝いをしながら勉強をする、そういうシステム。専門学校も全部そのシステムにせざるを得ないですね、免許は。しかし私も大学を持っていますから分かるのですけど、大学の一つの問題はそこにあるのですね。中高の先生は全部、教育原理、青年心理学、板書まで含めて、教育学の単位を全部取るわけです。取らないと普通免許は絶対くれません。取ってないから、仮免許になったり臨時免許になる。ちゃんと文部省の仕組みをとらせるように、段階的にはうまくできている。そのことを専修学校に導入しようと。したがって教員の基準はどこに置いたかというと、大学院の卒業生が正規の先生。専門課程について一つ設けないといけないので、大学院の。したがって、その中に6年間というのを置いたのは大学院の課程が終わって、少なくとも4年間くらいのあれを積んだ人が正教員になれるというふうなことを書いてある。ただ全部大学院があるわけじゃないから、専門学校を出たらその経験年数で置き換えていいようにしているし、それをいいかげんだと思われてもいけないので、専修学校の教員養成システムというのを作りました。これは東京の場合は筑波大学の先生方に来ていただいて、教育原理から、青年心理学だとか、教育方法の、高等学校の先生になるのに必要なくらいの教育学の知識を全部、専門学校の団体でやっています。そこに、小林先生、今の会長がいらっしゃいますけど、まだやっているのでしょう、教員養成システムは。
【小林(光)委員】  今は、一部動いていない部分もあります。
【大沼理事長】  もう要らないのかもしれないね、全部できちゃったから。 
   いずれにせよそういうものも作って、そして設置基準の中に全部入っています。ですから、教員の資格から、学科から、土地から、校舎の面積から、教員の人員に至るまで、普通の短大・大学の設置基準と同じに全部決めてある。先ほど、専修学校は少しレベル差があると言ったのは、面積の数値が小さいだけであって、要素は全部取り込んで作ってあるので、そういう意味では、小林先生、また新しい段階に入りますので。
   例えばそういう形で、その条文がその当時は82条の2というところで、10項くらいになる条文でできたのが、そこに入っていると思います。それはよく覚えていました。というのは、国会に提出するときに自分で全部書きましたのでよく覚えているわけですけれども、国会で説明して了解してもらって、「我が国に居住する外国人を専ら対象とするものを除く」という暗示を入れて、社会党の了解をとった。社会党も、それをちゃんと保証してくれるのならいいと。僕が保証するわけにいかないので、誰かを連れていくということでもなかったのですが、そのことを藤波先生に申し上げて、藤波先生も了解して全会一致で昭和50年に通った。そういうことをやろうというふうに運動をし出したのは、昭和32年。その組織を作った結果として、専修学校は生まれたということになります。
   問題はこれからなんですけれども、これからの問題点の何が最大かというと、専修学校制度を作った時代と、また環境ががらりと変わっていった。要するに社会との接点は、もう中等教育ではありません。完全に高等教育です。専修学校まで含めると、80%、高等教育へ行っているわけです。行ってない人が珍しいのです。全部、東大に行っているわけではないのですよ。専門学校まで含めると。80%が高等教育へ行っているということは、高等教育が社会との接点になる。ですから戦前は小学校、高度成長期は中学校、現在は高等教育レベルが接点の中心になる。そういう形で初等教育と中等教育とか高大接続というのを見ないと、大変大きな誤りを起こす。
   したがって、これから大事なのは、高等教育の構造をどうするのか。先ほど、ヨーロッパの学生は並立式で、片一方は単線型だと。要するに、複線型と単線型の違い。したがってこれからは、単線型にもかかわらず、高等教育、専修学校なんかが入ったのも、複線型の一つの前進手段としても作ったつもりです。大学だけではありません。
   この学校に私が来て、最初にやった仕事は何か。大学を創った。昭和33年にここの責任者になるわけですけれども、最初に創ろうと思ったのは大学。それはなぜか。要するに、専門学校のことをやろうとなって、日本の社会で専門学校のことを進めるにしても、学校法人が準学校法人と言われるような状態だと、世間が相手にしてくれない。法人の安定化をやるためには、大学法人にしないとだめだ。そのために大学法人をつくった。その上に乗っかって文化服装学院をどう展開していくかというふうな考え方をし、そして、文化服装学院の場合は、家庭科的な教育から産業との結び付きにカリキュラムを全部切り替えて、横に重なっていたものを全部、縦につながってつくったというのが専修学校の実情で、専修学校のもう一つ便利なところは、高等課程というのがありますね。それから一般課程と専門課程。一つの学校で、専門課程を置き、高等課程を置き、一般課程を置いてもいいのです。ですから、あれの組み方は自由自在にできるのです。それをうまく使うと大変多様な専修学校も生まれてくるはずなのですが、しかし今はそういうことよりも、高等教育全体をどうするかというふうな課題に来ています。先ほど若干、高等学校の高等科、旧制高校のリベラルアーツの問題に触れましたけれども、したがってこれからは社会の接点が高等教育なのだから、社会に合うように高等教育の構造を根本的に変えないとだめ。根本的に変えるとはどういうことかというと、今までの概念を破って、全部ごちゃごちゃにしちゃって、その中から重要な要素を抽出して制度を作ればいい。ですから、高等教育などを完全な複線型にするためには、今みたいに大学は全部、高校を出て4年だと、そういう概念はやめないとだめです。
   大学院とか、そういうものをどうやってこの社会の中で位置付けて、大きなものとして、学歴として、認めるようにするか。あれが認められると、学校にみんな来るようになる。例えば、私どもの学校でもそうですが、ファッション大学院大学にしても、文化学園大学の方の修士課程、博士課程にしても、日本人より外国人の方が多いのです。だんだん日本人が入ってこないのですね。外国人はそれを知らないから入ってきているのかなと思いますけど、ファッション大学院大学なんかは、何と65%が外国人、残りの35%が日本人になる。
   というふうになるように、例えばファッションのことで言えば、日本のファッションというのは近代化をやったときの、要するにステータスみたいになるのですね。明治から大正にかけての明治天皇の服装だとか、昭憲皇太后の服装、あれはみんな勅令で出されて、天皇陛下が、まず自分が洋服を着るから、みんな洋服を着ろと。それから、皇后のおぼしめし書なんていうのが出てきて、マント・ド・クール(大礼服)とか、ローブ・デコルテ(中礼服)、ローブ・モンタント(小礼服・普通礼装)というふうな形が法令で決められた時代があって、いわゆる日本の近代、終戦までのファッションの文化というのは非常に、国際的にもユニークですし、すばらしいものなのですね。展覧会をこの後御覧いただきたいというのは、そのことを展示してあります。
   要するに日本の近代、日本のファッションは、全く新しい文化を日本人は創造しているのですね。それは宮中の中においても、役所の中においても、服によって身分が分かるように。それも非常に巧みで、例えば、英国へ行くと、爵位制度がありますね。バロンだとか、何とかという名前が五つあります。日本でも、公・侯・伯・子・男というのを作る。バロンとか、それに該当するものとして、五つ、同じものを作るわけです。だけど、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵というふうに名前を付けたのは、何と春秋時代の周の皇帝が、部下が手柄を立てたときに、いわゆる爵というのはお酒を入れる器で、公・侯・伯・子・男という序列で与えた。その名前を持ってきて英国の階級と結び付けて、日本の華族の名前にしている。これは、日本人は見事なんですね。そういうものをちゃんと立派に作り上げちゃって、表から見れば分かるようになる。
   ですから、日本の近代化のそういう意味での手法というのはいろんな意味で重要な要素を持っているので、そういうことが戦前のたった50年。今その文化はもう消えようとしている。消えてそういうものが残らないと、全部なくなってしまう。だから、その一部を残すために、その当時の近代化を進めていくときの服を、全部じゃないですけど、一部出して6日までは休館中でしたけれども、学芸員がきのう出てきて一応見られるように、きょうのこれに間に合わせるようにしてありますので、せっかく学芸員が苦労したものですから、見たくはないかと思いますけれども御覧になっていただければいいなと思います。
   いずれにしても、短い時間の中で一気にいろんなことをしゃべっちゃってあれですけれども、これからいろんなことを研究していくについては、ごちゃ混ぜにしないとだめなんじゃないか。
   それからもう一つ、こういうことを言うと暴投になっていけないのかもしれませんけど、専修学校法案に出すときは、一切、審議会を開かなかった。文部省は開いてないのです。こういう集まりもないのです。ほとんど大臣と次官と秘書と私との話し合いの中で、それを全部、議員立法で。文部省に記録が残ってないのですね、この問題については。そういう点では、そこに当事者がいる。今野さんが専修学校法案の当事者でございますので、一番よく知っているし今野さんに聞かれていると、ちょっと僕も都合悪い面もあるのですけれども、いずれにせよそういうことで専修学校法案というのはできて、いわゆる時系列的な教育制度の中で一つの独特なものであるのだけど、それが独特ではなくて普通の学校になっていかないといけないので、普通にするためには今言ったように高等教育をごちゃ混ぜにしてやらないといけないかなと思うけど、私は高等教育は複線型に派ですから、高等教育のいわゆる普通の段階を4年ではなくて6年、3年ずつ前期と後期とに分けて、それが全部高等教育であると。もちろん医学部だとか、そういうのは6年かかっちゃうわけですけど、それのみならず、いわゆる修士課程くらいのものはその中で全部やって、前期の3年の中にもう1回高等学校、要するにリベラルアーツだけの学校があって、それを出た人が高度の専門教育をそこから受けていくというふうな制度を一つ入れていくと、随分日本の議論が楽になる。これから大学の議論をしていくときには、どうしてもぶつかり合っているのは、実際教育をやるものと昔の帝国大学令に書かれていた、「学のうんのう(蘊奥)を究める」という、その言葉とぶつかり合うわけですね。
   専修学校で学位を設けるなんて、やろうと思っていません。そういう学校も大事なんです。そういう学校は前期の8年ぐらいのリベラルアーツをやらなかったら、そっちへ行った意味がないのです。そういうことをもっと大事にしないと、日本の学問レベルも下がっていくと思う。だから、専修学校を制度化する。100%来るわけですから、憲法26条じゃないけど、国民は能力に応じて教育を受ける権利を有するという権利義務がある。だけど、能力というと日本の社会の中では知的能力は立派だけど、手先が器用だとかあるいは感性が高いとか社会的態度がいいとか、それは学校で必要な能力ではないのですね。知的能力だけでやる。知的能力が最も大事であることは、間違いない。だけど社会を構成していくのに最も、早稲田の心理学の先生が言っていますけど、いわゆる態度能力、社会の人間関係にどんなふうに対応できる能力かということも、極めて高等教育の中でも大事です。したがって、それらをどういうふうに位置付けるかというようなことも是非やってもらうと、大変いいのではないか。これは私の希望です。その中に実践的な教育のできる専修学校制度を普通に当てはめていけばいいので、大学をもっとフリーにして、そういうものを普通の大学としてやっていけるという。
   設置基準はどうするかということについては、今は大学の設置基準がうんと緩やかになっちゃって昔大学になれなかったというのは、設置基準のせいでなれなかった。なぜなれなかったか。それは土地なの。この文化学園大学を創るときに土地の規制が外れていませんで、要するにいろんなことの実験室で床面積が出てくる。延べ床面積の6倍の面積がないと、大学はだめなんです。ここは1000%造れますから、100坪あったら1、000坪造っていいわけですね。それは10分の1。逆に6倍、校舎面積の6倍の土地を持ってなかったら、それは不可能。それでも許可になったのですね。許可になったということを言っちゃいけないのですけど、要するに、そういう不可能な土地基準が大学にはあった。基準協会が作った大学設置基準に。ただ特例があったのは東京だけです。東京は土地が狭いから、23区にあるのは基準の半分でいいと。しかも古い学校はそれのまた半分あればいいというふうな基準があって、ここに文化服装学院があって使っている土地も大学の土地にしてやると、ぎりぎり中心校舎としての土地が間に合って、あとは郊外へ土地を買って、その当時やったのだけど、実は今、私立学校を支えている、一番よかったのはその点なんですね。その当時に大学を創っておいたから、しっかりと土地を持っている。そのときに創らなかったら、ここで土地を拡大しなかったと思う。専門学校だけだったら必要ないです。だけど今それが経営的に非常に大きな威力を持っているので、何が幸いするか分かりません。したがってその時々に従ってよりよい施策をしていくことが一番大切なことかというふうに思いますので、きょうは文科省の幹部の方もお見えいただいているので、是非、日本の将来をよろしくお願いしますということを申し上げて、大変口幅ったいことを申し上げて、以上で終わりたい。(拍手)
【黒田座長】  どうもありがとうございました。
   あと10分ほどありますので、御質問ありましたら、どなたからでも結構ですが。先ほど見学させていただいたことの質問でも結構です。
   お願いします。
【小林(光)委員】  小林と申します。職業教育と日本の教育全体の歴史をお話しいただき、本当にありがとうございました。
   これからの方向について、先生に複線型が必要だということをおっしゃっていただいたと私は認識しています。アカデミックラインだけではなくて、専門教育と言われているプロフェッショナルラインですね。こういう複線型教育をきちんと作っていく。また、国際社会にちゃんと準拠できる人材養成をしていく。そして、大学院まで含めて高等教育としてきちんと構築していくことがプロフェッショナルラインとして大切だというふうに私はお聞きしています。また、それには一つ設置基準というのが大きな要素になると思います。これをどう考えるかは、文科省はじめ、今、頭を悩ませていただいているのだろうと思いますが、我々現在都心の中にある学校としては、現状から移行する場合には、そこが一番大きな課題になるわけです。ヨーロッパを見てみますと、基本的には、設備もある程度立派なところもありますが、やっぱり、教育の中身、教育のアウトカムで、どういう人材育成ができているのか、どういうことができる人材が育てられているのか、そういうことをちゃんと評価するシステムがあり、それが設置のための一番の基準になっているのです。日本はそういうラーニング・アウトカムに関する基準が余り明確ではないというところが一つ問題点としてあります。しかし、現実問題、今度新しい職業大学ができるということであれば、その設置基準に関して重要な要素だというふうに、私は感じています。現状の専修学校でも、教育の質がよくて基準を満たしていればなれる。そして、専門学校からの転換ができるような、発展できるような制度にしていただかないと、実効性がないと思っているのですが、先生はどうお考えいただいているでしょうか。ここは難しいところですけれども。
【大沼理事長】  設置基準の問題というのは後の問題でして、要するに、制度としてどうするかということになると思います。今、社会の要求は多様な教育を要求しているわけです。昔みたいに東大を出た人たちだけが大学だという思いもなくなっているのですけど、しかし、東大自体も極めて大事で、あれ、今のレベルじゃ日本はだめだと思います。もっと高くするためには、少なくともリベラルアーツを3年やって、その上で初めて専門教育に入るくらいのレベルにして、うんとお金をつぎ込まないと、そういう国際競争に敗れてしまう。
   それから、そういう学のうんのう(蘊奥)を究める能力じゃなくて、手先が器用だとか、感性が高いとか、いろんな能力があるわけですから、そうすると社会の要求も多様だけれども、入ってくる学生も、高等教育、多様になっているわけです。その多様と多様とをどう組み合わせるかというのが、制度の課題なんです。ですから、特に何が大事だということではないですね。いわゆる、今度の商業教育みたいな、それも大事だ。
【小林(光)委員】  両方大切だと思います。
【大沼理事長】  そうです。両方大切だから、両方が伸びるような学校制度をやって、それが設置できるような形で設置基準というのは作ればいいので、設置基準は後でいいと思います。設置基準については、今、大学は極めて緩くなっちゃいましたから、専修学校を創るのとそれほど変ってないというレベルまで来ていますから、むしろ、その辺の束縛は随分自由化してきています。
【小林(光)委員】  ありがとうございます。
   それから、先ほど先生おっしゃいました、専修学校の教員養成のシステムを東京で作っていただいた。まさに、准教員養成、あるいは教員養成という講座をこちらの学校をお借りして、毎年毎年、東京で続けてやらせていただいた。それは事実でございます。ありがとうございました。
【大沼理事長】  その教科書、僕が自分で書きましたから。
【小林(光)委員】  教科書もございます。ありがとうございます。
【黒田座長】  ほかにございませんか。どうぞ。
【今野副座長】  きょうは、貴重なお話ありがとうございました。政策研究大学にいるのですけど、政策研究の一つの手法として歴史遡行的研究というのがあって、歴史をたどって研究する一つの手法があるのですけれど、その場合に現在の問題意識でもって過去の経験を尋ねて問題を構造化していくというふうな、きょうのお話はまさにそういうものだなあと思って、本当にありがとうございました。
   特に、各種学校から専修学校ができるときは、各種学校の多様な教育の中で非常に優れた学校群がたくさん出てきたと。それを励まし支援するというふうな趣旨で、多分、専修学校ができたと思うのですね。今、職業大学、新しい職業の大学を創ろうということになっていますけれども、その対比で考えると、今ある専修学校のうち、かなりレベルの高いところは、新しい職業大学というふうに移行するところも出てくるんじゃないかと。レベルを上げたところで活躍するというふうなことで、そういう意味ではとてもいい制度だなと思うのですけれど、先生は新しい制度そのものについてどうお考えかということと、それからもう一つ、そういう新しい制度ができた段階での専修学校をどういう方向でレベルを上げる支援をしたらいいのか、そのあたりをちょっとお伺いできればと思います。
【大沼理事長】  正直言ってうちにも大学がありますから、大学だって商業教育をやっているのです。就職できませんから。学のうんのう(蘊奥)を究めることをやっているのではなくて、むしろ実務に近いことをやることを特徴にしていますから、そういう意味では、多分4年制の大学の中から今度の制度の大学になるのは、1校もないんじゃないかと。なるとすれば、短大からなるか、専門学校のいいところがなるかということだろうと思います。例えば、小林さんの学校なんかは、多分、大学になるだろう。
   ところが、私は文化服装学院長としていろいろやってきているけれども、そのときに、家政学というような概念の中に大学が一遍入れられちゃうと、それから動きがつかなくなるのですね。産業学としてのファッションというのは、日本では国立はゼロですし、よその大学もほとんどそれが達成できていない。今の専門学校の制度があったから、そこへ全部、大学の工業系だとか芸術系だとかそういうものを逆に縦に入れて、そしてファッションと結び付けて、いろんなコースを作った。それを完成するのに、20年はかかっています。
   そういうふうな形にしてやっていくとすると、そういうことを考えていく考え方の先端は、温故知新じゃないけど、古い日本の学校のシステム、それから世界のファッションはどう動いているかという、グローバルな中でどう評価されるかということでないと、これからはだめなのです。要するに、日本国内で1番なんていうのは当たり前で、世界で十分に競えるものが専門教育でないと。それをどうするんだということを解決しないといけないと思います。世界レベルで高等教育ですから、それをやらないといけないわけですね。そうすると、世界中から留学生が来るのです。要するにハーバードへ日本の学生が入るのが少なくなって中国人が増えちゃって、日本人のあれが心配だ。僕は逆だと思います。ハーバードを超えて東京大学へ世界中から優秀な人材をどうやって迎えるかということをこれから本当に真剣にやらないと、国際競争に負けちゃう。
   ですから、さっき言ったように、昔の制度はよかった。リベラルアーツをしっかりとやらせた上に専門教育を施さないと、学のうんのう(蘊奥)なんかは究められないと私は思いますので、そういうところにも重点を置くと同時に、専門教育自体も国際レベルで競えるあれをどうするかということと、それからもう一つ、我々の世代に、特に僕は全然だめなのですけど、いわゆるIT戦略ですね。子供のときはそろばんしかなかったし役所へ行って初めてタイガー計算器を見て、すごいものがあるなと思って、まだ計算機すらなかった。今は、iPhoneがあれば、何でも。あれ、僕は使えないのです。だから、そういうものの日本の教育の中における位置付けだとか、そういうようなことをきちっとして、その上で商業教育を結び付けないと、IT戦略的なものと商業教育とをどう結び付けるかということが大変大事な要素だと思うので、そういうことを究明し、それから国際社会の中で産業レベルとして勝てる専門教育でない限り、専門教育ではないですね、知識教育でも、実際教育でも。そういうことをそれぞれの分野で狙いを定めて、そういう基準みたいのを作ってやっていくことが今後必要かなというふうに思っているので、専門学校をそっちに入れていくかどうかという、束縛がなければいいのですけど、束縛があるとそういうことができなくなってしまうので、したがって、できた結果を見た上で判断しようというふうに思っています。それは、黒田さんにもよくお聞きしていますが、金沢工大みたいな専門の学校でもなれるような状態になっていればいいと思うのですけれども、なかなか難しいんじゃないかなと、逆に思っています。
【黒田座長】  ありがとうございました。よろしいですか。
   時間が来ましたので、これで一応、質疑応答も終わりたいと思います。大沼さん、ありがとうございました。
【大沼理事長】  大変失礼なことをいろいろ申し上げて、特に文科省の幹部の方が見えている前でいろいろ変なことを言って申し訳ありませんが、ここだけにしておいていただけると。僕もやっぱり自分の学校は大事ですから、よろしくどうぞ。(拍手)
【黒田座長】  それでは、横倉事務局長からお知らせがありますので、よろしくお願いします。
【横倉事務局長】  文化服装学院の事務局の横倉と申します。先ほど大沼からもありましたように、隣の文化クイントビルの1階に文化学園服飾博物館というのがございまして、こちらで、本来であれば10月6日から展示開始予定の、「日本人と洋服の150年」と題しまして、明治、大正、昭和、平成の各洋服の展示をしております。きょう急遽、学芸員に大沼の方から指示を出しまして、その場所の方、段ボール等、少し重なってはいるのですけれども、先ほどチェックしてきましたが、きっちり展示はできましたので、この後お時間のある方は是非御参加いただければと思います。きょうお時間がない方で、もし御覧になりたいということであれば、きょうの配布の中に博物館の招待券を入れてありますので、10月6日以降にこちらの場所にその招待券を持って来ていただければ、その招待券で入館できます。是非よろしくお願いしたいと思います。
   それでは、博物館を見学希望の方は、お帰りの用意をして、こちらにお残りいただければと思います。傍聴していただいた方々も、もし御希望であれば御案内いたしますので、こちらにお残りいただくよう、よろしくお願いしたいと思います。
   私の方は、以上です。
【大沼理事長】  それから、この本ですけれども、これはノブレス・オブリージュのことを書いているわけではありません。ただ、公の地位にある、例えば、学校の理事長とか、学長とか、そういう人たちは英国流の、これはフランス語ですけど、いわゆる貴族が持っている、公共に対して奉仕をしてくださいと。要するに、日本では貴族なんかはないわけですから、私みたく名もない男でもやっているわけですから、そういう人たちだけでも、公の立場にいろいろ携わっている人はそのつもりでというのでこれを書いたのですが、しかも、これを書いたのは、伝記だとか、そういうつもりで書いたのではなくて、長野県人のやつを書いた。長野県の信濃人会って、知事を中心にしてつくって、そのメンバーになれといって入れられて、そして、その人たちが相応の社会的な立場にそれぞれいるものですから、その第1号で書かされた、信州で発行された本で、いろんなことがばらばらに入っているだけで大した参考にはならないと思いますけど、ファッションの考え方なども書いてありますので、よろしければ御覧くださいというために入れてあります。
   以上でございます。
【黒田座長】  ありがとうございます。大沼先生には、博物館まで開いていただいて、見学をさせていただく。本当にありがとうございます。最後までお世話になりますけれども、今後ともよろしくお願いしたいと思います。
【大沼理事長】  黒田先生も、ひとついろいろと、よろしくお願いします。
【黒田座長】  最後に、事務局から、今後の予定について、お願いします。
【白鳥専修学校教育振興室長】  資料2を御覧いただきたいと思います。今後の予定についてでございます。次回は、10月17日(月曜日)10時半から、経済産業省別館で開催いたします。大学改革支援・学位授与機構の顧問でいらっしゃる川口先生から、特に専修学校における質保証・向上に関する取組について、ヒアリング、そして意見交換を行う予定でございます。また、その次の開催につきましては、11月に福岡にて開催予定でございます。福岡県の専修学校各種学校協会に御協力いただいて、学校視察、専修学校関係者へのヒアリングなどを実施いたします。
   また、最後となりますけれども、本日の資料につきましては、机上に置いていただけましたら、郵送をさせていただきます。
   連絡事項は、以上でございます。
【黒田座長】  ありがとうございました。
   それでは、本日はこれで会議を終了したいと思います。ありがとうございました。
  あと、見学される方は、どうぞお残りください。

    ―― 了 ――

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文部科学省総合教育政策局生涯学習推進課

(文部科学省総合教育政策局生涯学習推進課)

-- 登録:平成28年11月 --