今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会(第3回)議事録

1.日時

令和5年3月24日(金曜日)14時00分~16時00分

2.場所

WEB会議と対面による会議を組み合わせた方式

3.議題

  1. これからの社会像について
  2. その他

4.議事録

【石田教育課程企画室長】失礼いたします。皆様、お忙しい中、御参加いただきまして、ありがとうございます。事務局の文部科学省教育課程課の石田と申します。 実は、本日御発表いただく御予定の慶應義塾大学環境情報学部教授、また、Zホールディングス株式会社シニア・ストラテジストでいらっしゃいます安宅和人先生にお越しいただく予定だったんですけれども、まだ会場に御到着になっていないという状況でございますので、しばらく御到着までの間は休会という形を取らせていただきたいと思います。傍聴の方々におかれましても、大変申し訳ございませんが御了承ください。御到着次第、再開したいと思います。よろしくお願いします。
【天笠座長】それでは、会議を始めさせていただきたいと思います。ただいまから第3回今後の教育課程・学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会を開催いたします。皆さん大変御多忙の中、御参加いただき誠にありがとうございます。とりわけ安宅先生、どうもありがとうございます。
 本部会につきましては、報道関係者より撮影及び録音の申出があり、これを許可しておりますので、御承知おきください。
 前回第2回の会議では、京都大学の広井良典先生より、これからの社会像について、未来社会をどうデザインしていくかを選択する分岐点がここ数年に訪れるということ、また、持続可能な福祉社会を実現していくという視点から大変示唆に富んだ御発表をいただきました。
 本日は、引き続きまして、本検討会の検討事項の一つである「これからの社会像について」をテーマに御議論いただきたいと思っております。このテーマに関わる有識者として、事務局とも相談し、慶應義塾大学環境情報学部教授、また、Zホールディングス株式会社シニア・ストラテジストでいらっしゃいます安宅和人先生からお話を伺った上で、安宅先生を交えて委員の皆様方と意見交換をお願いしたいと思っております。
 それではまず、事務局において資料等についての御説明をお願いしたいと思います。
【石田教育課程企画室長】それでは、資料1として本日お話しいただく安宅先生の御紹介資料をお配りしてございます。資料は以上でございます。
【天笠座長】ありがとうございます。それでは、安宅先生のお話をいただく前に、私から安宅先生の略歴について御紹介をさせていただきます。その後、お話を頂戴したいと思っております。
 安宅和人先生は、マッキンゼー・アンド・カンパニーで御勤務された後、2008年よりヤフー株式会社、2012年より同社チーフ・ストラテジー・オフィサーをされ、そして2022年よりZホールディングス株式会社シニア・ストラテジストとして、全社横断的な戦略課題の解決や事業開発に加えて、途中データ及び研究開発部門も統括されていらっしゃいます。また、2016年より慶應義塾大学にて教鞭を執っていらっしゃり、2018年から同大学において教授を務めていらっしゃいます。
 内閣府総合科学技術イノベーション会議をはじめ国の様々な会議に参画されるとともに、御著書としまして、『イシューからはじめよ』や『シン・ニホン』などを出版されているなど幅広く御活躍されています。
 ということで、これから、およそ30分程度ということになるかと思いますけども、安宅先生からお話を頂戴し、その後、時間の許す限り意見交換の時間とさせていただきたいと思います。安宅先生、どうぞよろしくお願いいたします。
【安宅氏】大変丁寧な御説明ありがとうございました。遅れて申し訳ありません。
 学習指導要領の見直しに向けて何か投げ込んでもらえないかという、お話が数週間前にやってきまして、キャパ的に用意できませんので無理ですと言ったんですけれども、それでもなんとかという結構キツめのオーダーを受けてきました。ですので準備が若干不十分ですが、足りない部分は口頭で補いたいと思います。
 私についてはもう今お話いただいたとおりで、大きいインターネット会社のストラテジストをやっていまして、慶應のSFCでも教えたり、データサイエンス協会の立ち上げメンバーでずっとスキル定義をやり、この上で、IPAさんとモデルカリキュラムだったり、また大学の数理データサイエンスAIカリキュラム認定校の認定制度等の検討会の副座長も務めてきました。あと都市集中型社会に対するオルタナティブづくりに向けた「風の谷を創る」検討と運動を有志でやっています。そして、お話にあったとおり、『イシューからはじめよ』、『シン・ニホン』、そういった本も世に問うています。  バックグラウンドとしては、ニューロサイエンスをやって、マッキンゼーでマーケティングやストラテジーをやって、それでこの10年ほどDS協会絡み云々でいろんなデータ×AI系のことを起点に様々な国関連のお仕事に相当数巻き込まれています。
 本題に入ります。時代観が多分大事だと思っているんですけれども、3つぐらい大きい塊の話をしたいと思います。一つはAI×データの話です。皆様もDeepLとかGoogle Translateを使われてお気づきのとおり、現在の機械翻訳の能力はもう大半の人間を超えています。これまでは識別モデルという、AはBですみたいなAIモデルが多かったのですが、生成系のモデルが出てきて、その中でも拡散モデルを使うことで言葉だけから絵をつくったり音楽をつくったりということができるようなってきています。それとともに、画像系とは全然違うトランスフォーマーというアーキテクチャに基づいて、ChatGPT、特にGPT-4ベースのものが出て大変にすさまじい状態です。
 この中でGPT-4ベースのChatGPTを使われた人がどのぐらいいらっしゃるのか分からないですけど、これは途方もない能力を持っています。つい数日前まで僕は国会議員の何人かの方と使いながら議論した結論ですが、恐らく官僚のそれなりの方々が大変に労力を注がれている国会答弁準備の大部分は自動化できます。トーンを変えるのも可能だし、こういうことでもめていて、変えてくれと指示すれば、3バージョンでも4バージョンでも幾らでもできます。他にも30秒でしゃべれる答弁とか、それがまたたく間にできちゃうんですね。これをちょっと手直しすれば基本完成する。そういう状態でして。これは、ものすごい不連続的な変化と言えます。
 つい先日あった言語処理学会でも、言語処理の従来型の研究はどうなるのか、オワコンになるのかという議論が行われ、オワコンになるのではないかという話になったと聞いています。いま言語処理の先生方が論文を投稿したら、これはChatGPTでできるのじゃないのかといって査読で突き返されてくるという事象が今、頻発しているからとのことです。このように若干以上に常軌を逸したレベルの変化が今起きています。AIが筆頭著者で査読されているような論文もありますし、もちろん適切に指示を出せばコードも書いてくれるということで、すごい状態です。
 ある種の閾値を超え、AIの能力的に相変異(phase transition)が起きているんじゃないかというのが今言われているということです。この横軸の10の23乗というのは、アボガドロ数のオーダーで、リアルワールドでミクロとマクロをつなげる数字ですが、そういう世界ぐらいのところで何か劇的に変容が起き始めています。元来は物理の言葉のSingularity(特異点)がこれからの情報科学、マイクロマシンなどの発達によって起きるとカーツワイルが2005年に言い出したときは、人間とキカイの脳をつなぐことを前提としていました。 現在、キカイと脳は直接的につながってはいないですが、キカイ(AI)のスペックが劇的によくなっているということは間違いありません。今のChatGPTが対応しうる、マルチ言語で、これだけの幅広い領域に対して、これだけ幅広いことに即座に、しかも相当まともに答えられる人間はこの世には存在しません。
 ですから、キカイ単独としては自分の専門のみにおいて勝てる可能性がある、均して(ならして)言えば、もう概ね人間を超えたというのが実態です。その上、毎日複数の新しいAIサービスが生まれています。これが過去数か月で起きてきた変化です。 この瞬間に、教育課程の見直しを図られているのは本当に慧眼だと思いますし、すばらしく大事なタイミングだと思います。AIやデータの専門家は相変わらず重要ですけれども、多くの人がこれらのツールを一気に使う時代に入っており、それを前提とした応用を生み出すアプリケーションのフェーズに入ろうとしています。
 仕事の未来みたいな議論も、ここ数週間、僕は毎日どこかで何か議論しています。顧客フロントに立っている人はフロント(エンド)、そして後ろでサービスやものや何かをつくっている人はバック(エンド)とすると、多くの企業、とくにまとまった規模の企業にはミドルと言われるつなぎの人がかなりいます。スタートアップは立ち上がった当初はフロントとバックしかいません。だんだんミドルが割合として増えていくのですが、つなぎ役としてのミドルの機能は恐らくどんどんと自動化されていって極端にリーンになる可能性が高いという見立てです。
 そうすると、後ろ側でフロント的なニーズを理解しつつ、ものやサービスをつくるか、フロントエンドで価値を提供するということに一気に人間の価値は収れんする可能性が高い。いずれもinterpersonal skills(人とうまくやっていく能力)がとても大切です。非コミュではきびしい世界に向かうということです。AIの発達によって、こんなにinterpersonal skillsが必要になる時代が来るとあまり思っていなかったのですが、どうもそういう流れです。コロナが始まった頃、こうなるのではないかという議論をしていたのですが、それが加速する流れのようにみています。
 実際にものやサービスをつくる側は、自分の経験から価値を生み出していくところが勝負になりますし、何が正しくて正しくないかを判断できなきゃいけない。欲しいものが何だろうということを自分なりに描ける心が重要ということで、意味ある問いを立てられないとバリューレス、価値を生みづらい存在、に向かっていくと推定されます。
 2つ目の時代観の話をします。2019年末はこういう年末(日本はオリンピックを期待、グレタさんがTIMEのperson of the year)だったのが、数か月でコロナで全世界が閉店的な状況になりました。これらの背景として、明らかに地球と人類の衝突みたいなことが起きています。これがCOP27とか一連の話の背景にあるわけです。僕は数年前、内閣府でデジタル防災の未来検討チームの座長もやっていたんですけれども、そこで理解したこととしては、温暖化による気象災害の激甚化に伴い、比較的頻繁に首都の何割かが水没してもおかしくない未来に向かっているということです。平和の定義が変わったと言ったほうが多分正しく、戦争・紛争がないだけではなくて、パンデミック(感染症)やディザスター(天災)でやられない社会に向かわなきゃならないというのが、もう一つの大きい時代局面だと思います。
 自分はヤフーやZホールディングス(ZHD)のストラテジストを務める一方、データサイエンス協会を10年前に立ち上げ、日本の人工知能戦略議論の走りである人工知能技術戦略会議における最初の産業化ロードマップづくりを担当していた人間ですけれども、残念ながらデジタルは幾らやっても手段であって、ただデジタル化を進めてもこれらのサスティナビリティ課題の解決には直接的には繋がりません。人類として目指すべきは、様々な新しい技術を使い倒しつつ、人間がサスティナブルな未来をつくるということはもう間違いありません。これが当面の人類にとっての重要な話です。この2つは非常に大きい話だと思います。
 そして時代観としての3つ目は、これは若干のねじれですけども、主要な国はほぼ全て人口調整局面に突入しているということです。豊かになれば長寿になりますが、子供の数は急激に減るからです。インドですら急激に女性一人あたりの生む子供の数が減り、特殊出生率が2.1を割った状態ですし、この傾向はサスティナビリティの観点も加わり世界的に続く可能性が高いと思います。100年かそこらぐらいなので、人口増を前提としない経済の維持だとか発展が必要であるということで、日本の教育を見ていてもそうですけれども、どうやって着地させるかが、いまいちよく分からないもので、この3つの問題を同時に考えるというのが次の未来の人づくりを考えることだと思います。
 時代観1の延長ですが、企業価値のランキングを見れば分かるとおり、データやAIを使い倒している企業が軒並み上位を占めています。データやAIを使っているかプラットフォームを持っているか、両方やっているということです。これが世界のトップ10、そういう企業です。
 ですから、こういう企業を生み出せないでいる日本は、貧困とは言いませんけれども、成長が止まってしまっています。貧困層の激増の理由の一端はここにあると思われます。これは『シン・ニホン』にも書きましたけど、世帯で見ると日本の3分の1ぐらいの世帯は貯蓄を持ってないというところまで来ています。これは80年代後半とか90年代頭に大学生をやっていた私みたいな人間には衝撃で、当然数%しかいなかった金融資産のない世帯が、今三十何%ですね。このような状態になっている一つの背景は、これらの産業を生み出せなかったことであること、これらの産業が求める人達を十分に生み出せなかったことにあることはほぼ確実です。なので、こういうものをどこまで使い倒せる人を育てるかというのが、我々の子や孫たちを路頭に迷わせないために重要であるということは言わざるを得ないと思っています。
 産業革命が新しい技術やエネルギーを生む、応用、つながり合うエコシステムを創る、という3段階であったように、データAI化、あるいはAIデータ化においても同じ話があって、今明らかにフェーズ2に突入したところにあります。ほとんどの産業が今一気に変わろうとしています。これは七、八年前に私がハーバード・ビジネス・レビューのAIがもたらすインパクトと意味合いについての論考です。ハードを中心としたオールドエコノミー、サイバー的な技術を中心としたニューエコノミーがあるけれども、両方持ったところに必ず何かが来ると。確かにこの第三勢力というか、第三種人類というのが生まれてきてすでに顕在化しています。
 左上から右に行くのはデジタルトランスフォーメーション、いわゆるDX、ですが、基本的には間に合いません。従来型の事業サイドとして世界最高レベルの体力を持つトヨタですら2020年にテスラに企業価値で並ばれて、今4倍の企業価値の差があります。新しく右側の作業をつくるということが実際の答えであって、移住です、本当に必要なのは。  今一番いけている企業はどこだろうというのを見てみると、日本だと理系院生たちの人気企業はこういう、割と重厚長大系の企業がほとんどで、50年以下の企業はtop10中、2社しかありません。そのうち1個はアクセンチュアで、もう一つはNTTデータ。100年超の企業がいっぱいです。この中で、古ければ古いほど明らかに価値が増すものを作られているのはサントリー社の洋酒事業ぐらいです。
 一方、アメリカはどうかというので見てみると、これがアメリカのエンジニアリング系の学生の行きたい企業のトップ10で、過去3年ぐらいぶっ続けてテスラかスペースXが1位、2位を争っています。そしてそのちょっと下にGAFAMが並んでいるという感じで、その間は宇宙・防衛系の産業です。宇宙・防衛を除く企業群の特徴は、新しいということです。20年、50年以下の企業が社会をつくっていると。これらの企業だけでどれだけの企業価値を生み出しているかというと、途方もないものがあります。Appleだけで300兆円、テスラも80兆円とかです。
 ニューエコノミーサイド的には、データ処理の川上から川下に至るまであらゆるタイプのデータエンジニアリング・データサイエンス人材が必要ですけれども、第三勢力上は、どうでしょう? スペースXもテスラも膨大な種類の求人を出しています。基本的に中を見ると、テスラだろうがスペースXだろうが、ドメイン知識があって、データ、AIみたいなものを使える人を求めています。サプライチェーンについて理解した上でデータサイエンスあるいはデータが触れたり、機械工学とこういうデータが触れるということがセットみたいな話で、こういう未来を創る、いわゆるイケている職場においては大半の職種がドメイン知識を持つdata professionalになりつつあります。
 話を変えます。今回のコロナでこういうデータがばんばん出てきています。これはデルタになったときのウイルス量を示したもので、検出までにどれだけのPCRのサイクルがいるかと示しています。これまでと10サイクル違うということは2の10乗で約1,000倍違うという話です。 これはCSTIで当時東大総長だった五神先生が持ってこられた新規感染者数の推移データですけれども、片対数です。ここの上で直線ということは、みんなexponentialな変化だということです。傾きが変わっているということは、ここで速度がギアチェンジしたということです。さらにロックダウンによりexponential decayして、また指数関数的に増えたということがわかります。こういうものが皮膚感覚を持って分かろうと思うと、少なくとも線形的なものの思想を越える必要があります。AIだとかデータも含めて現在の様々な事象を理解していこうとすると、こういう指数関数的な現象が繰り返し現れます。つまりいまの世の中を理解するためには、指数関数的な思考が必要であることは間違いないんですけれども、多くの人にはこれが分からないという問題があります。  ですから、こういう意味レベルのMath素養は、計算力以前にちゃんと持つ必要があります。これは理屈の問題であって、根本的にこれは一体何かというのが分かる必要があると思っています。
 またGIGA構想は、もう現状の1人2Mbpsでは全く回らない、3Gの携帯電波のところに行ったら何が起きるかを想定してもらえばすぐに分かると思います。これでいいですというのはほとんど荒唐無稽といっても良い状況です。普通にサービスを使おうと思えば数十Mは必須、安定的に現在のコンテンツの中心となっている動画的なコンテンツを見ようと思えば100Mぐらいは要ります。もしzoom的な動画会議を様々なインターネット活動に並行して行うなら数百Mぐらいないと安定しないのは皆さんご案内のとおりです。 現在、インターネット利用は90%前後がスマートフォンという時代が七、八年ぐらいずっと続いています。つまりスマホを使ってどのように賢く判断できるかということは現代の基礎素養、サバイバルスキルと言えます。これらを考えると、ただ道具を使えるだけでなく、この社会がどうやって動いているかについて、もう内燃機関やモーターだけじゃなくて、半導体、計算機だけでもなくて、さらにネットワークやデータ、AI、UI、UX、このぐらいまである程度理解しないと適切に使えないということで、ちゃんと教える必要があると思います。
 以上の変化を踏まえると、これから起きる競争は、よく言われるようなAI versus 人間ではなくて、AIやデータを使い倒せるか、使い倒せないかになると考えられます。これを2013年にデータサイエンティスト協会を作った後から相当訴えてきて、文科省の方々とも2015年春に相当に議論しました。結果、大変良かったと思いますが、数理データサイエンス、AI教育が高専以上で必須化する方針が決まり粛々と進んでいます。とはいえ、この話は高等教育(高専、大学以上)以前に始まる問題だと思いますし、そもそも高校を出て半分の人が世の中に出てしまうことを考えると、相当早く、中等教育ぐらいから何かやっておくべきではないかという見解です。その半分の人の未来はどうするつもりだということもありますし、重要な問題だと思います。
 AIやデータを使い倒すということは、データとAIの持つ力を解き放つことです。ギリシア、ローマから続くオリジナルな意味での自由人とそれ以外を分けるリベラルアーツ的な力、人を使う側と使われる側を分けるような能力は、今までの僕の世代ぐらいまで母国語や世界語、これまでは英語、でものを考える、problem solving能力が要る、だったと思うんですけれども、そこにデータ、AIのリテラシーが加わると考えています。 ここの右下の部分、データ×AIリテラシーがどんどん変わっていっています。生成AI、ChatGPT時代において、これから核となる、基礎となるスキルのは何なのかというのはちょっとした議論が要ります。たった今もデータサイエンス協会のスキル定義委員会で熱烈な議論をしています。なので、今日ここに投げ込むには時期尚早ですが、取りあえず、ここは変わりつつあるが、これらが新しいリテラシー、読み書きそろばんの一種に加わったことはほぼ間違いないと思ったほうがいいと思います。
 価値創造する視点での議論を少しします。新しいものや未来をつくるというのは一体何かといったら、結局我々の夢なり課題意識を技術的に解いてデザイン的にパッケージングをすることと考えられます。これがひたすら繰り返されてきました。昔も今もです。
 未来の方程式として掲げている、未来=夢×技術×デザインの「技術」というのは何かということについて言えば、もともとのドメイン知識、車両設計でもいい、電気回路でもいいんですけど、に加えて、現在はそこにデータ、AIみたいなデジタル、サイバー的なスキルが組み合わさって、リアルとサイバーの掛け合わせみたいな技術になっているわけです。 軽視されがちですが、「夢」のところがとりわけ大事です。結局どういうものがほしい、つくりたいということが描けないようでは新しいなにかを生み出し、つくれないからです。ただtechnician(技師、技術者)がいるだけではなにか生まれることはないということです。 また、価値化するためには実はデザインが非常に重大です。デザインは意匠だけではなく、サービスモデルや収益モデルもそうですし、いろんなものを組み合わせて、全体としてこんな感じがいいよね、みたいなことを設計していくということが含まれます。デザインの話は非常に深いんですけど、意匠だけの話じゃないということを取りあえず強調しておきたいと思います。
 ということを考えると、社会に課題を感じて切り拓く力が極めて重大です。こんなものはおかしいんじゃないか、みたいな発想を持てない限りは、新規に真に価値のあるものは生み出せないからです。そのマインドの養成は実は高校卒業までが勝負だという見解です。これを大学以降で、社会に順応してからやっても相当にしんどい。僕の周りは割と変な人というか、社会を変えていっている人が多いですけれども、特徴としては、かなりの割合で小中高の教育にうまくなじまなかった人がいるということです。
 僕も中学校のときは、かなり問題児扱いされて、毎日のように職員室になぜか呼び出されて、授業中も実によく職員室の前だとか中で正座させられていました。地方の更に田舎の非都市部、かつ校内暴力時代だったから、生徒会役員なのに不良と仲が良いとか、変なものは変だと言ってしまうとか、先生方として標的にしやすいキャラだった、ということの掛け算だったとは思いますがなかなかの体験でした。うまくはまらない人たちをどうするのかという見方以前に、そういう人たちこそ何か問題意識を感じている可能性が高いのではないでしょうか。
 あと、今起こっているデータ・AIの発達を踏まえると、課題解決の2つの型のうち、「目指すべき姿としてどうあるべきか」ということを描いて、その上でギャップを見いだして考えるというビジョン設定型ができる人がなるべく多く生み出されることが望ましいと思います。大半の課題解決は、ギャップフィル型、「今頭が痛いです」、「この痛みは何が原因です」ということを判断して、解決を図るというタイプですが、こちらは自動化されやすいからです。という視点で見ると、いろんなことに問題意識を持って、がんがん仕掛ける若者が重要と思っているところです。
 その視点で見ると、競争型の人材というより、どちらというと、あまり多くの人が目指すことではない価値のあるものを見出し、それを、いろんなことをつないでやれないかということを考えて、様々な人と仕掛けられる人が大切になります。こういう変化をどんどん仕掛けられる人が大事で、それを僕は「異人」と言っているんですけども、こういう人たちが大変に重大じゃないかと。ちなみに県の成長戦略の議論中にお声がけいただいた群馬県ではこの「異人」の重要性をご理解され、「異人」とすると外国人と間違える人がいるので、もともとの魂は大切にしつつ「始動人」を育成しようということが明確に打ち出されています。 できた社会を回す人というのは確かに大事で、人口の八、九割はこれでいいと思うんですが、何%かは未来を仕掛ける側の人が絶対に必要です。このタイプの人がいない限りフレッシュな未来が生み出せないということで、めちゃくちゃ重要だと思います。右の図みたいなアシンメトリックに強みを持つ人間を社会がつぶさないことは重要で、多分クラスの数%はいるんじゃないかというoutlier(外れ値)的な人間の居場所をつくらないと、学校へ行かなくてもいいからそこへ行けみたいなところをやらないと、多分社会的に死んでしまう。結果、未来が生めないということが続くのだと思います。
 たとえば僕の友人・知人の落合陽一さんとか成田悠輔さんは、明らかにいわゆる「ふつう」じゃない人ですけど、めちゃくちゃ優秀です。彼らはいずれもoutlierです。社会に潰されずに、うまく生き延びてくれたことを有り難く思っています。
 以上を踏まえると、ある種のコレクティブ・インテリジェンス、集合知、がとても大切な時代です。いろんな人との関わりの中から価値というのは生まれてきますし、いろんな人と話しているうちに、こういうことが大事だということが分かる。そういうことが分かるような人をちゃんと育てなきゃいけないですし、ちゃんといろんな人を巻き込んでいくことも必要だと思います。それでつないでいくという能力が非常に重要だと思っています。
 まとめ的なことの一つは、第三勢力の時代であり、文理分断はもうやめる時が来ていることは明らかに思います。第三勢力が求める人材というのは、先程見たとおりダブルスパイク型の人間です。また時代の変化の激しさを考えると、何度でも人生をリノベート、刷新できるようにうまくしておかないと、このような変化の激しい時代では人も社会もうまくやっていけない。この辺のことは結構重要じゃないかと思っています。
 僕は97年から2001年までアメリカ留学をしていたんですけども、いたのがイェールというIvy Leagueだったためか、優秀な学生が多く、ダブルメジャー、トリプルメジャーという学生が、多分undergraduateの二割程度はいて。それも、PhysicsとLiteratureとか、HistoryとEconomicsとか日本の学部学科別のアドミッション(入学選抜)の感覚から見ると訳分からない組合せでやっている。それでいいんですよ。あれができるのは学部学科で人を採っていないからとmajor認定要件が明確だからです。文理分断的にしか人を育てられないというのはもうそろそろ終焉を求めないと、このような局面では本当にこの国は弱ってしまうと思うところです。
 あと、今、黒画面からGUI、Graphical User Interfaceが、次マルチタスクという、要はスマホやパッドみたいなやつになって、テキストやボイスの時代に突入しようとしています。たった今です。ということがあるともう一度産業が生まれるわけです。GUIになったときにインターネットは爆発しましたし、マルチタスクになってインターネットエコノミーが爆発というか、スマートフォンエコノミ―が爆発したわけです。そしてテキストボイスが来たんで、もう一回何か来るはずですけれども。
 というようなことを考えると、それでしかもテキストボイスで対話している相手は大体スーパースマートなAIなんで、決まった答えがあるケースで多々与えられた問いに速く正確な答えを出すことの価値はほとんどなくなりつつあり、むしろ、いい問いを投げかけたほうがよっぽど価値があるわけです。またデータエンジニアリング的なこと、コード書きの煩雑な部分はキカイにやってもらって、むしろディレクションができるようなエンジニアリングスキルは要るんですけれども、かなりの変容が起きつつあります。 またプロンプト・エンジニアリングという、AIに対してどういう指示をかけるかというのはめちゃくちゃ今重要な技術になってきて、プロンプト・エンジニアでハイエンドの人は日本に多分まだあまりいないというか、まだ、これは数か月しか歴史がないんで、今すごい取り合いが起きています。それはエンジニアリングの一種だけど、新しいエンジニアリングであって、恐らく小中学校からプロンプト・エンジニアリング的な技術を教えていく必要がうまれつつあると思います。なぜなら彼らはそのような世界で飯を食う世代だからです。使えないとなると、社会的、世界的競争力を失ってしまうし、価値がなくなってしまうということは非常に重要だと思います。というようなことも踏まえて使い倒すということです。あとデータの話はまだできていないので、この後したいと思います。 また、これから先というのは、僕も一般的にはあと三、四十年人生がある可能性が高いですけれども、人類と地球との共存こそが最大課題である状態はしばらくずっと続きます。そういうことを考えると、ある種、打ちひしがれない生き物が重要です。私も割とタフなほうだと思いますけど、子供たちはもっとタフであってほしい。せめて同じぐらいタフであって欲しい。
 だから、楽観性も必要ですし、生きる意志も重要で、何か悲観的なことを言っていたらえらい、みたいな、怪しげな20世紀型知識人のようなタイプの人ではなく、それよりも深刻な課題を見据えつつも、希望を持って少しでも明るい未来を生み出せる人間こそが重大で、ダークサイドばかりを見つめる暗いタイプの人は頭をリフレッシュしてもらわなければいけない。しばらく人類は減るんで、調整局面に入ることを前提とした社会設計をし、考えていかなきゃいけないんじゃないかと思います。
 コロナで結構面白い話があります。例えば一昨年の夏はデルタが来て非常に困難な局面だったんですけれども、このデルタのときはかなりの人、特に若者、はマスクをしてない、していてもウレタンマスクの人が非常に多かった。一方、去年の夏は、感染者数は確かに増えたんだけど、実際には、新規重症者数は4分の1ぐらいでデルタのときの30分の1ぐらいまで重症化リスクは減りました。実はインフルは病院に行った人を母数にすると700人に1人が重傷者もしくは死亡なので、これはインフル並みかそれ以下ということになったわけですが、この国で起きたことは、逆に去年の夏はみんなリスクの非常に低いオープンエアの外でも不織布のマスクをしているという状態でした。この2年の挙動は全く科学的ではないわけです。本当はしなきゃいけないときにしていなくて、しなくていいときにしているわけです、これは。論理的に言うとおかしい。
 昨年の8月、オランダに行ったら誰もマスクなんかしていなくて、逆に支払いは全部非接触と。日本はマスクばかりしていて、支払いは何もかも現金しか駄目みたいな国になっちゃっていて、もう全く訳分からないです。こういう非合理的な国家ではまずいという話です。
 同じような話で、社会の一部からの情緒的、ヒステリックな反応があって、先進国ではまれなパピローマワクチンの勧奨中止がかつて行われました。結局感染率が急増してすごいことになっているわけです。年間数千人もいる子宮頸がんとか肛門がんとか中咽頭がんとか、とにかく粘膜系のがんの多くにパピローマウイルスが関わっています。だから女性も男性共に打つのがむしろ望ましいものを止めてしまって、潜在的な死亡者数を増やしています。こちらも訳が分からない話です。
 この、「空気がファクトや論理より重い」という異常な状態を止めなければ、データサイエンスとか統計を教えても意味がありません。空気はファクトと論理の上にあるべきであり、空気に振り回されない人間を育てなければいけないと考えます。この基礎的なマインドを何としても高校卒業まで徹底的に打ち込むべきというのが私の強い思いです。僕はデータサイエンスは素養としてみんな持っていたほうがいいと、相当に働きかけてきた人間ですけど、こういうのを見るともうやる気を失うというか。データドリブンに判断して、ちゃんと自分で判断できると、それでちゃんと行動できるということが重要だと思います。
 たとえばカーボンリサイクルも、確かに、クルマも大事かもしれないですけど、総和として見たら、結局土壌のほうが重大じゃないかみたいな、人間の10倍ぐらい強いんだけどみたいな、こういうファクトを見たら、実は緑地化が重要じゃないかとかというのは分かるんだけど、そんな議論をしている人はほとんどいないわけです。みたいなことで、ちゃんと分析統計的な判断力というのを本当に子供の頃からちゃんと教えなくちゃいけない。
 「東京ではCOVID何万人の新規感染者がいます」みたいな話はほとんど意味ないですね。ワクチンを打ってる人が大半の世界においてはとりわけです。人口が1,400万人いるので数が多いのは当然です。10万人に何人、これは意味があります。だけど、1,400万分の何人とか言わずに、ただ「2万人です」とかいって、それ700人に1人ですけど、みたいな。インフルエンザはもともと数週間の間に国内で500から1,000万人、都内だけで50から100万人が感染、発症するという感染症だったわけで、それと比べてもずっと小さな数で騒いでいたわけです。
 分析というのは比較だということをちゃんと教えなきゃいけないです。高校生の算数力のmedian(中央値)が小4だというふうに以前、鈴木寛先生に教えてもらったのですが、だから、あんな何万人みたいな、よく分からない実数の発表ばかりしているんです。ちゃんと割り算の価値というか、比較できる価値を教えなきゃいけないと。
 ワクチン接種の有効性だって、ちゃんとこうやって母数をそろえれば分かるんだけど、こういうのが分からない、みたいな話があって。結局、無理解で難癖をつけるみたいな人が多過ぎて、こういう人間を育てないというのは、まず彼らが幸せに生きるために大変に重要だと思います。
 サイエンスの基礎的なパースペクティブ(視野・全体観)はちゃんと教えてこないとまずいと思っていまして、社会も大事ですけれども、それぞれのレイヤーによって全然違うサイエンスがあって、それぞれどういうルールがあるかという、これは人類の至宝なわけですが、こういうことが分かることで、こういうことが分かるというようなことをちゃんと教えてあげるというのは、結構パースペクティブ的に重要だと思います。そういう意味では、理科とされているレベルの教育は結構重大だと思うんです。
 それと、今はとにかくやたら多くのデータを処理する時代なんで、もう全く手計算じゃ無理なものを扱って初めて価値があり、そのことを考えると、大量のデータを扱うということを、本当に小学校でもやりたい子はやらせたほうがいいと思うし、中学校以上においてはもう普通にやったほうがいいと思うんです。このような計算機の価値や使い方は普通に教えるべきであって、しないと彼らが路頭に迷う可能性があり、大変なことであると考えます。
 一方、データというのは、かなりの危険性を持っているんで、データが嘘をついたり、AIも危険性を持っているんで、ちゃんとこういったことについてのリテラシーも早期に教えないといけない。こういうのを社会に出てから教えているから間違ったことが起こるんです。なので、大学に行く前に教えるというのが非常に重要だと思います。
 このデータとかもめちゃくちゃ面白いんですけれども、交通事故の何とかかんとかと、これも実データにあたると無相関だったりする、こういうもっともらしいことをやってミスリードする人はいっぱいいるんです。なので、ちゃんとデータをハンドリングして、真実を判断して、ものを考えられるというのはむちゃくちゃ重要で、これらの基礎素養を教えられないのだったらデータに関する教育をやっていてもほとんど意味がないと思います。
 AIのリスクの話は、例えば「beautiful woman」と検索すると、白人ばかり出てきて、「きれいな女の人」と検索すると日本人とかアジア人ばかり出てくるんです、みたいな話とか、あるいはかつて「3 black teenagers」と検索すると犯罪者ばかり出てくるということがわかり、米国で社会問題になったことがあるんですけれども、こうした機械学習型AIの特徴というのはちゃんと教えておかなきゃいけないと思います。
 情報は、trustableかどうかだけでなく、socially acceptableかどうかの軸があり、この話は実は動くターゲットであり、これは教えとかなきゃいけないと考えます。どこまでが社会的に受け入れられるかはどんどんと変わります。Diversity, Equity, and Inclusion(DEI)の定義がころころ変わっていっているのは、これに重なっているところがあります。
 ここに来る直前に、ChatGPT (GPT-4)に、Generative AIの到来とテスラなどのサイバーとリアルを組み合わせた産業の時代を踏まえ、日本の学習指導要領を2025年に仮に改定するとすると、何をどう変えたらいいと思いますか?と聞いてみました。そうするとプログラミング教育を充実させ、論理的思考力、問題解決力の育成、実践的な学習の推進を行い、産業と連携した職業教育の充実、教育のICT化推進、柔軟な学びの支援、教師のスキルアップと研修、学びの評価方法の改革、ライフロングラーニングの推進、これは全部正しいです。これはみんなやったほうがいいんじゃないかと思いますし、私が言っていることとほとんど何の矛盾も生じていないというか。この8(教師のスキルアップと研修)とかはめちゃくちゃ重要だと思います。そもそも自分が教えている子たちのほうが賢い時代に突入しています、そもそも分からないことを教えているんで、ということです。
 最後の取組みのポイント、数ページだけ言いますけれども、自分がどういう状態かというのをジャッジできて、自分を律することができ、自分なりに判断して、人との関わり合いから課題なり価値を察知できるということ。人と交わって価値を生み出すというようなことが基本であって、ここを主軸に考えるべきであって、学力がどうかとかの前のこっち側のやつを最初から最後まで考え続けることのほうが重要だと思います。
 あと、あらゆることに対する健全な懐疑心が重大であって、分からないことは分からないし、分かることは分かるんで。大人から「これはこういうものだ」、と言われる、そういうがむしゃらな教育を僕はいっぱい受けましたけれども、こういった教育が一番問題です。自分自身が分かっていないということを認めなきゃいけないんで、確実な知識がどうこうより、どうやってその知識だとか、一体どのような問いに対して何でその知識なのか、みたいなことをちゃんと教えることがはるかに重要だと思います。
 あとはパニックにならない力というのはめちゃくちゃ重要で、このような不連続的なことが次々と起こる時代において、何とか回せるということで、フラットに受け止め、何とかなるぞという感じは重要じゃないかと思います。
 それと、実はAIの時代にはいり、今非常にニーズがクリアになっているのは、AIに言語でちゃんと指示する能力です。検索から実はそうだったんですけども、ちゃんと言語化し、人に伝える訓練がめちゃくちゃ必要で、論理がどうこうの前に言語化です、実は。言語化できないことは基本的にAIには指示できない。「何となく分かるよね」、「分かるよ」という、どこかの赤ちょうちん、飲み屋での会話みたいな入力じゃ駄目です。飲み屋が悪いわけじゃないです。飲み屋はすばらしいんですけど、何でも言語化。あとストーリーテリングといったものも言語化の延長であるわけですが、この辺はめちゃくちゃ重大になってきていると思います。
 そういうことで、大人は役に立たない時代に入りつつあり、その視点で考えると、ゼロベースで考えなきゃいけないと思いますし、もうがちがちの制服とか校則というのは本来捨て去るべきで、私立以外はもうやめたほうがいいんじゃないかと思います。私立は価値観でやっているんで。基本、必要なのはもう法律しかないというか、民法と刑法の世界で十分なので。悪いことは悪いので、人を傷つけちゃいけません、だましちゃいけません、殴っちゃいけませんといった社会の価値観の延長上に、基本的に法律、社会のルールがあるわけです。自分で考えろということです。人にやられたくないことはやるなという、もう正直、仏陀の教えに戻ればもう終わりなんで、2500年前から分かっていたということで、ただそれをやりましょう、ということです。
 さらに最後、このページが最後だと思いますけど、心のベクトルが勝負というのは、僕はチャートをうまく入れられなかったんで言っておきます。結局自分はどういうものが欲しいとか、どういうものが好きとか、どういうものが嫌いとか、どういうものに価値があるとか、ということがちゃんとはっきりしていて、こういうものが欲しいよねというものがない人というのは自ら価値が生めないです。人やキカイの指示で何かをやるしかなくなる。ここはめちゃくちゃ重大ですけど、ここをむしろ無視してやってきたのが今までのこの国の教育だと思われるので、このままではhigh IQ側のキカイに使われる人間をつくり出す、あるいはキカイを使うことすらうまくできなくなると思うんです。一体何をやる人なんだ、その人、ということになりかねないんで、危険な時代に突入している。
 異質な存在を大事にするということであり、答えベースじゃなくて問いベースの教育になっていかないといけない。例えば何年か前、友人の家で集まったときに、僕のある知り合いのお子さんが高校生で、何で三角関数をやっているのか分からないと。僕は「三角関数が分からないと波がうまく扱えないんだよ」と言うと、「ええ、そうなんですか!」という反応でした。この世の現象の多くは波なわけです。声だろうが光だろうが。波を扱うには三角関数で扱うわけです。周期的な現象を表すために。そんなことすら教えられていないんですよ。僕は、あれは結構ショックだったんですね。その子は結構いい学校へ行っていて、国立大付属で。何が起きているんだと思ってびっくりしました。だから「何のために」がなく、ただ三角関数を教えることの意味が分からないのはやめていただかないといけないし、何でこんなものが要るんだろうということから考えることがよっぽど重要です。本当に。あとは楽観性、心の強さ。 あと、10年に1回の改訂ではアウト。これはすごく今日言って帰りたいんですけれども。もう今起きている変化というのはもう皆さんが想像している1,000倍ぐらい速いので、もう訳分からないんですよ、この今起きている変化というのは。ものすごいです。3年前から今の状態を予測するのは結構困難なレベルの変化が今起きていて。このような人類史上に残るような変化のときに、10年に1回の改訂というのは危険なので、もう3年に1回の周期にするということをここで確定していただくだけでも、未来に対するポジティブインパクトは計り知れないです、先生方。というのを私は最後に言って、一旦以上です。長くなりました。ありがとうございました。
【市川委員】ありがとうございました。まず1つ伺いたいんですけど、私は立場としては、教育や発達の心理学をやっているんですけれども、先ほどから、もう小学校段階からこういうことをやらないと駄目という話が結構出てくるじゃないですか。
 それはすごく、我々にとっては悩ましい問題です。今、社会で活躍している方、例えば安宅先生もそうですけど、何も小学校のときからAIと付き合っていたわけじゃないですよね、そんなもののない時代ですから。時代時代に応じてやってきて、今、社会的にも活躍している若者も中堅の方もいらっしゃる。小学生でやるのはどういうことがいいのか、それは小学生じゃないと駄目なのか、中学、高校じゃ遅いのか。かなり高校でもやっておいてほしいと、大学に来る前にやっておいてほしいという。そこら辺の、先生がそういうことをおっしゃるときの何か根拠というか裏づけはどういうところにあるんですかね。
【安宅氏】僕はふわっとした話をしたつもりはないんですけれども、私は子供の頃からちゃんとやったほうがいいと思うことを幾つか言いますと、まず懐疑心です。権威を認めない。これはスタンスの問題です。自分は林大臣のSociety5.0ぐらいのときしか、あまり文科省と接点は無かったけれど、文科省の議論を聞いていていつも思うのは、whatの議論が多いんですよ。心の話をしているんですね。懐疑心的なものであり、自分なりにものを考えるという力みたいなやつは、本当に小さいときから育てないと育たないと思います。
 僕は、このような能力を大人になってから広げて育っていったケースを見たことがありません。だから小さいときからやったほうがいいと思います。
 あと、自分に対する深い自信とか、楽観的なアティチュードみたいなやつというのはめちゃくちゃ重要だと思っていて、小さいときから。あなたは〇〇だから駄目ですみたいなやつは全く要らないですね。だけど、社会的な、基礎的な制御は教える必要がある。そういうのは保育園のレベルから始まっているかもしれないけど、そこはめちゃくちゃ重要で、パニックにならないようになきゃいけないし、答えがなくても自分で考えられないといけないというやつは本当に小さいときからやっておかないと。
 それで、心の教育の話をしていて、これを、大人になって育つということがあまりぴんと来ないです。小さい、小中学校のときから、心が強いひとは強いし、弱いひとは弱い。とはいえ、そうじゃない人だって育てていって、「いや大丈夫」という気持ちになっていかなきゃいけないし、「○○をやってないから自分は駄目なんだ、ああ」というタイプの生きものを育ててるのじゃなくて、「大丈夫だ、何とかなるよ」という人を育てていくことが大切じゃないかと。何とかなるんです、実際。そっちのほうが多分重要だと思っています。なので、それも若いときからやらざるを得ないと思うんです。
 あと、言葉にするといった話、これは本当に根深い問題です。僕は結構な量の審議会、委員会等に出ていますけれども、社会を代表する識者のはずの審議会委員の方ですらおっしゃっていることがそれほど明確じゃないケースが多い。様々な場で自分の考えについて発言することを割と最初から育てていくべきだと考えます。たとえば先生が黒板に書いて、「数式の答えが書ける人」と子供に投げかけて、子供が数字を書くと。それはどうでもいいんです。それは本当にこれからはキカイでやることなんで。「これ何かおかしい」、「これどう思う」とか、「何でこれはこういう形なのか」、「いいよ、そういう面白い視点」と、そういうことが大事だと考えます。
 そういうのは、よっぽど最初からやっておかないと僕は育つとは思えません。ので、言語化する能力とかというのは、本当に小さいときからやったほうがいいと考えます。要はこれ、僕はほとんどWhatの議論をしていないです。教えるべきこととして。基本的なスタンスが要ると思うんです。そのちゃんとした、そこはすごく大きく要ると思っています。
 あと、Whatに近い部分が仮にあるとすると、私が言っていることで、小学校ぐらいからあるとすると、コンピューター、特にAI的なもの、検索的なもの等をちゃんと使う力というのを相当早めからやっておいたほうがいいと思います。それをやろうとしたら、結局言語化ができなきゃ駄目だということが実は分かってくるんですけれども。本当にここから先は、これテキストベース、チャットベースAIの時代に突入して、これを前提とした社会になる。これを、高校を出たぐらいからなじんでいるようでは、恐らく食っていけなくなる。
 僕らの世代は、僕は91年に大学を出ていますけれども、93年にマスターを出て、就職して。私たちの世代は、ほとんど、なぜか全部変容の瞬間を体験できた稀有の世代です。PCが入ってきて、GUIが生まれた瞬間も生で体験し、GUIが生まれる、僕は91年ぐらいからもうインターネットに接点があったので。インターネットがWebブラウザ、Mosaicの時代から使って、それに触って、それを使い倒し、ネットワーク的な課題が起きて解決されて、みたいなやつで。2008年にスマホが生まれて、2012年にビットコインが生まれてとか。なので、我々世代は割と前のほうにいた人だったら、ほとんどのことを生体験し続けたんで、対処できたんです。リアルタイムで。
 やっていない人はしていないんだけど、対応した側と対応していない側の所得差は、数倍はあると思います。同じ教育を受けていたとしても。実態として。なので、コンピューターなのか、AIなのか分からないけど、どっちで行っても構わないんですが、全部コンピューターなんで、コンピューターをちゃんとぶん回す力というのはある程度やっておいたほうがいいと思いますね。
 データを見て考えるというのもやったほうがいいです。やったほうがいいんだけど、それは日頃の教育の延長でやるんじゃないかと一応思っていて。あえて言うならばそのぐらいです。
 科学の授業は、少なくとも、僕は日本のかなりの片田舎で育ちましたけど、相当幅広く教えているとは思うんです。むしろ、Whyをちゃんと教えたほうがいいと思うんですね。何でそれをやっているんだということを教えていないという問題なんで。だから結局僕が言っていることは、ほとんどWhatの部分はあまりないです。コンピューターをちょっと触れる程度の話をしていて。やった方が絶対サバイバル率は上がると思いますし、歳取ってからではやりにくいことが多いという認識です。心を育てるのも、言葉にするというやつも、そうじゃないかと思うんですけど、どうですかね。
【市川委員】今おっしゃられたことの前半はすごくよく分かるんですよね。どちらかというとマインドに関わることで、例えば疑問を持つだとか、自分でしっかり考え抜くとか、言葉にするとか、そういうことが、これはもう幼稚園からでもそれは大事なことだと思います。
 後半でおっしゃったこと、テクノロジーが絡んだことです。今、例えばこういうようなテクノロジーがあると。こういうことには子供のときからなじんでおいたほうがいいと。ここが非常に悩ましいところで、本当にどの時期にどういうことになじんでおくのが、ほかにもいろんなことがある中で、これは優先的になじんだほうがいいかという、そういう意思決定をするときの根拠ですよね。根拠というのはどういうところに求めるか。
【安宅氏】どうやってホワイトカラーが働いているかを見たほうがいいと思います。今の瞬間で、ホワイトカラーあるいは私たちみたいな、いわゆるクリエーティブクラスに当たる人間がどうやって働いているかということを考えると、情報とのインターフェースの80から90%はコンピューターです。紙というより。彼らは100に近づいてくるところにいるんです。そのことを考えれば、紙のインターフェースで、しかも、何か僕が仕事を始めたときとか貿易データが必要になったらこんな分厚い貿易統計という黄色い本があるんですけど、あれを幾つも引っ張ってきて見るとかという、ああいうのは今いらないですね。
 だから、社会に彼らが出たときに必要なインターフェースは今起こっているよりもアドバンスなので、少なくとも今やっているレベルのインターフェースにはなじむべきだと思いますし、彼らは基本的には検索及びAIにまず聞く世代になります。これはもう間違いないです。というよりも、ここにいらっしゃる皆さんが、ほとんどドラえもん化したマシンと対話しながらやる時代まであと数年です。そこは今のChatGPTとか音声化する技術が実はそろっているんで、そこまで年内に多分動き始めるんです。そういうことを考えると、当然やっておいたほうがいいと思います。紙しかないという教育をやるのは非常に危険だと思います。ものすごく彼らにとってリスクを取らせることになる。
 あと、僕の周りにエッジィ(edgy)なエンジニアなのか、コンピューターサイエンティストが何人かいますけれども、彼らに聞いてみると、先ほどの落合君もそうですし、あるいは、皆さんが毎日触っているマルチタッチスクリーンを生み出した東大の暦本先生もそうですけど、相当早くから触っていますよ、コンピューター。結局、相当早く、落合君みたいに5~6歳から触っていた人はそんなにいないかもしれないけど、早めに触っていた人が未来を生み出しているんです。
 そういう人を少しでも生み出そうと思うんであれば、接する母数が多ければ多いほどいいと思います。結局才能というのは確率論なんで、100人に1人、1,000人に10人みたいなやつですから、数が多ければ多いほど人は増えてくるんです。ということを考えても、彼らが触る知的生産のインターフェースはそっちであり、なおかつ、早ければ早いほど面白い人が生まれてくる可能性が高いと推定されることを考えると、少なくともチャンスは与えるべきですし、どちらかと紙のほうがいいよ、みたいな間違った誘導はしないでほしいです。そんなものは消え去ることはもう確実だというか、消えちゃっているんで、今。
 普通のその辺の虎の門でも大手町でもいいけど、オフィスで紙というのはそんなにないですよ。僕が紙をいっぱい見るのは、常に霞が関の審議会に来たときです。官邸も含めて。山でもらうけど、それで僕はそのまま「まもる君」に捨てているわけですけれども、何たる社会の無駄と思っていますが、基本的には消えているんですよ、今。だからそこに合わせた情報の提供はめちゃくちゃ重要だと思います
 本を読むとかは紙のほうが圧倒的に早いと思いますので、紙でいいんじゃないかと思いますけれども、目がいいときは、特に。僕は今、目が悪くなってきて、kindleのほうがいいんですけど、それは視力の問題で。本当は紙のほうが楽だけど、目が読めないんで。そういう感じです。
【市川委員】今のホワイトカラーを見れば、というんですけど、今のホワイトカラーの方は確かにこういうツールを使ってこんな仕事をしていると。じゃ彼らが小学校のときに一体何をやっていたか。
【安宅氏】我々の世代は全部の変容を受け入れてきたんです。20年前のoutdatedなやつを教えることに何の意義があるのか、むしろ聞きたいです。
【市川委員】いえ、そう言っているんではないんです。先生がおっしゃるのは、今のホワイトカラーはこういうことをやっていると、こういうことをやっているんだからできるだけ早くからやっておいたほうがいいという、このロジックがよく分からないんです。先生のおっしゃること一部では分かるんですよ。例えば、こういう変わった人がたくさん出てくる、その確率を多くするにはみんなが早くからこういうことをやっておいたほうが、そういう人がたくさん出てきますよと。ただ、日本全国の子供たちにどういう教育をするかということを議論しているのと、一部の子供にはこういう場をつくったほうがいいという議論は違いますから。
【安宅氏】僕はみんなにやったほうがいい、みんなにチャンスを与えたほうがいいと言っています。なぜなら彼らはそういうところにぶち込まれていくからです。我々の未来というのは、かなり強烈にそっち側に向かっていることが確実なのに、そこを一切やらないで、1950年代か60年代の方針的な紙インターフェースのものだけで何かやるというのは、非常に大きなリスクを背負っていると思います。
【市川委員】そこを一切やらないとか、一切紙ベースだとか、そういうことを言っているわけでは全然ない。どういう割合でそういう場をつくっていくかというのが、教育の議論では非常に大事だと思うんですね。 さっき先生おっしゃったじゃないですか。ホワイトカラーを見ていればこういうことをやっている。だから当然、こういうことは早くからやったほうがいいと。なぜ当然なのか。しかもそれが日本全体の教育に関することを言っているのか、ここは疑問、質問です。全部の子供にどれだけのことをやるかというのと、こういうことが大事だから、こういう場をつくっておいたほうがいいというのは、議論の仕方が大分違うと思うんです。私は、そこはもっと柔軟に考えたほうがいいと思います。繰り返しますけど、ホワイトカラーを見ればこうやっていると。だからこういうことを早くからやったほうがいいのは当然だとおっしゃいましたよね。
【安宅氏】それは言いました。ただ、あれはもっと広いです。
【市川委員】反発しているわけではないんです。なぜ当然なのかとか、全部の子どもにという根拠を聞きたいのです。
【安宅氏】ホワイトカラーに関係なく、今の若者を含む情報摂取の中心は、圧倒的にスマートフォンです。ここまでいいですか。これは反論しようがないはずです。今スマートフォンで得ている情報が圧倒的に多くないのは、統計的には60代以上だけです。だから圧倒的です。本当に圧倒的です。コンピューターから情報を得て、コンピューターで仕事をするふうになるというのは、この延長であることとしてはほぼ当然だと思いませんか。
【市川委員】私だけがこうやって議論していてよろしいですか。また柔軟にやりたいと思います。ほかの方からもあると思いますので。
【天笠座長】それでは、御発言を求められている方はいらっしゃいますので、石井先生、お願いできますか。
【石井委員】会場に参加できていなくて、今の白熱した感じもこの画面越しになるんですけれども。私はでも、そういうふうに安宅先生が、このデジタル云々ということを言いながら、私は全体として、先生の書かれたものを一部ですけども読ませていただいて、かなり人間で踏みとどまろうとしているような感じをすごく受けたのです。だから身体の価値とかもそうですけれども、人間らしさみたいなものを大事にしておられるということをすごく感じながら見ていたところがあります。
 さらに、それで曖昧ということとか、あるいはこの空気みたいな話もよく分かるので、それで言うと、実は先生が懐疑心というふうに心という言葉を使うじゃないですか。これ自体が私からすると曖昧な気がするんです。だから、全部その心構えの問題みたいなものに持っていってしまうと、そうすると逆に言うと、この窮屈な、この空気を読むみたいなことをより助長してしまう気がするんです。
 それから、whatの話といったものは、あまりしないということをおっしゃるんですが、実は、先生のお話の中に、この「何を」ということの具体的な話がすごくあって、その一つ一つに対して私は非常に共感するところがあります。それこそ数学とか算数といったものも、計算が解けるのではなくて、まさに数理モデルであるとかパターンとしての数学という、そういうコンセプトで数学教育をちゃんとつくり直したほうがいいだろうという、そういう提案かと思って聞かせていただいたところがあります。
 そう考えると、今、例えば文科省とかもそうですけども、教育言説全体が主体性とかというふうに何かよく分からない言葉で語りがちなところがあるところを、先生はちゃんと中身に即して考えておられるという辺りが非常に重要かと思ったんです。
 先ほどの市川先生との議論の中でも、大きいのは、個別の内容とか、あるいは心構えというようなことではなくて、全体の社会をどう見ているかというような、そのパースペクティブをどう、社会の大人たちもそうですし、子供たちと共有していくかということが私は大事かと思いました。
 最近、国際的にコンピテンシーベースの改革という潮流があるんですが、それを日本において展開するときに、知らない間に全部その主体性とか心構えの話になっていくところがあるんです。でも先生のお話を伺っていると、改めてそのリテラシーの中身をどうしていくのかという教科の内容の刷新の話が大事じゃないかと思ったんです。ですから、理科教育、理科ということ自体も実はサイエンスじゃないんです。日本的です。数学、国語というのもランゲージアーツではないと。だから、実は内容の刷新の話というのは、懐疑心の話と、私は非常につながっているように思っています。
 それで言うと、先生が見ておられるようなそのパースペクティブ、それでもって内容論をちゃんと組み替えていくということが重要という、そういうふうに私は受け取ったのですけれども、そういった辺り、それこそ先生が事前レクチャーで、学習指導要領も含めて、政策文書についてのレクチャーを受けられたと思うんですが、それについては教育改革の言葉のセンスみたいなものもあると思うんですけれども、それも含めて感じておられることを伺えたらと思っています。
【天笠座長】どうでしょうか。
【安宅氏】石井先生、ありがとうございます。本当に人間の時代に突入していると思います。うまく言えないですけど。これまで結構、人間が不得意なことを人間がやって価値を生み出してきたと思うんです。結構えぐめの計算とか、本当にきついことがヨークだって清書とか。江戸時代とか結構偉い官僚とかは清書係みたいのがいたわけですよ。みたいな、そんなのでコンピューターで計算書を書いたり。今はもう割とつまんない、ちょっとした資料をつくるみたいな、あの類いのものが解き放たれていくんで、人の、その人らしさなのか、その人の深い経験に基づく価値判断みたいなのが圧倒的に重大に向かっていると思っているところです。というところで石井先生、いろいろ広げていただき、ありがとうございます。
 懐疑心というのは曖昧じゃないかという話、これは英語でいうマインドを日本語でいうと心になっちゃうんで……。
【石井委員】マインドも言いにくいんですが、日本の場合はハートとマインドの区別がつかないんです。
【安宅氏】そうですね。ハートではなくてマインドのつもりで一応、知っているつもりです。
【石井委員】だから、かなりマインドセットというと、実は理性ですね。結局知性ですね。だから、この辺が日本においてはマインドと言った場合に心と訳すから、だから心でっかちになっちゃうので、だから私は、心という言葉は使わないほうがいいと思っているんです。
【安宅氏】なるほど。ありがとうございます。それで了解です。事前レクチャー云々は、私に関してはほぼ行われていませんので、ないです。というか、僕がそのレクチャー時間もない。これは無理ですといって、その中で今やってきていますので、もう本当にごり押しでやってきていまして。立派な委員の方がいっぱいいらっしゃるので、僕なしでやったらいいんじゃないですかと僕は相当押し返したんですが、それでも押し返されてきたという。ですよね。
【石田教育課程企画室長】はい。
【安宅氏】本当にそういう対話だったんで、だからそれについては、よく分からないです。ただ、僕がその学習指導要領等の頭のほうとかを見ていて思うのは、そこで目指されている人材像がそんなにおかしいとは思えないということです。むしろhow論なのか何かが間違っているんじゃないかと思いますけど、恐らく。その最初のほうに書いてあることで反論する人は多分ほとんどいないんじゃないですか、あまり。だから何かがずれているんだと思います。
 僕が先ほど申し上げた、自分自身が教育システムにうまくアラインできなかった人間なんで、アラインできなくてよかったとは思うけど、よく分からないです。こういう今はキカイがこれだけ発達して、一人一人にアジャストできる時代なんで、本当はうまくその人ごとに何か好きに伸ばしてあげられるといいんだけどとは思いますね。それができないとすごくもったいないと思っています。
 あと、実は今まですごいソーシャルディバイド(social divide:社会的な分断)がどんどん広まる傾向がすごくて、僕の周りの友だちとかは、というか同じ世代にいた友だちとかは、いい教育を自分の子供たちに与えているんですよ。その家に育っていること自体いい思いをしているんですけど。一方、ここから先は指示されたことをただやるということで、何か面白いことをやりたいという心が育てられた人の勝負みたいなところを考えると、social divideを乗り越えることも可能な時代に向かいつつあると、最近思い始めており、希望に満ちた社会がもしかしたら来るかもしれません。 そのためにはコンピューターとインターネット、AIへのアクセスを早期に担保してあげる必要があり、無尽蔵にある人類の知恵が彼らにちゃんと行き渡るようにしてあげるといいと思います。僕は最近、月数十冊、本を買うんですけど、全部読んでいるわけじゃないです。でも、いいのはオンラインでばんばん買えることです。だからばんばん買って、ばんばん読みたいところだけ読めるということができる。これが今の時代の特徴であり、いちいち本がなくて図書館へリクエストを出して、やってくるのは2か月待って、だとか、あの時代とは全然違うということです。めちゃくちゃいい。この恩恵は、なるべく早めにあったほうがいいんじゃないかということは思うところです。
 それで、これは結構前にハーバード・ビジネス・レビューで知性は何かみたいな議論をやっていたときの話ですが、知的な活動というのは冷静に考えると本当にいっぱいあって。本当にもう言葉にしていく、コンテクストの判断とか、言葉で考えるとか、知的創造をするとか、整理していくとか、点と点をつなぐとか、いろいろあるんですけど、これは全部知性の一種だと思います。ただ、結局、僕はもともとニューロサイエンスをやっていたので神経科学的な中枢神経系の構造を見ていると、入ってきたものをアウトプットにつなげる力が知性そのものの本質だと思うわけです。
 ということを考えると、知性だと僕らが思っていることのかなりの部分が「情報を統合し、意味を理解するところ」であって、「知覚」というべきものですけれども、そのためには非常に激しい情報処理が行われています。知覚情報をベースに何らかの情報処理を行うことを我々は知性、知的処理だと思いがちなんだけど、結構こっちが大事だという認識です。これは様々な経験から生まれてくるんで、これを非常に厚くするというのが大事じゃないかと思います。生体験なしで分かることなんてあまりないです。スタンダールの恋愛論を3回読んでいる暇があったら、取りあえず3回ぐらい振られたらどうですかあなた、という感じじゃないですか。
 インド料理を食べたことがない人はインド料理なんか分かるわけないですよ、みたいなことが、世の中そんなのばかりですから、いろんな経験はしたほうがいいんじゃないかと私としては思っていまして。そういう意味では、先ほどコメントいただいたとおりです。私は人間に寄った時代に実は向かっているんじゃないかと。石井先生、コメントありがとうございました。以上です。
【天笠座長】石井先生、一言ありますか。どうでしょうか。
【石井委員】私は多分3時半ぐらいには抜けなきゃいけないので。非常に共感しながら聞かせていただいて、それで市川先生の危惧も実は関連するところにあると思うんです。実は、人間の時代に向かっているんだけれども、実は人間とロボットの掛け合わせじゃなくて、私はデータサイエンス、それからAIと出会ったデータ、で、掛け算のバイオ、バイオサイエンスといったものを私は見逃せないと思っているんです。つまりサイボーグの時代。だからサイボーグ化するといったときに、人間は一方においてアイアンマンみたいなものになるのか、そういう一部の層と、もう一つはそれこそマトリックスの話で、積極的に無能であることを望む可能性があると思っているところがあります。
 だから、機械以下の人間というか、機械のような、機械化の機械みたいな形として人間が出来上がってしまうかもしれない。だから、この辺の私はリスクを。長期的に見て多分先生は割と、何かルネサンスのイメージをすごく持っていて、ただ、私も教養ということ、また同じようにメディア革命であり、活版印刷じゃなくて、今。その先のメディア革命が起こっているから、それに合わせて、humanitiesが復権すると思っているんですけれども。
 しかし、それというのは一方においては人間の堕落の歴史にもなり得るというところです。だからここをどう考えるかというのが恐らくとても重要で、そうしたときに多分先生は、規範論として人間でとどまりたいと思っているんだと思います。私もそう思う。だけど、オチアイさんとか割ともうちょっと寄っているんだと思います、もうちょっと。その新しい人間というふうなイメージなのかもしれませんけど、だからサイボーグと考えたときに、どれくらい今でいうこのhumanitiesの中身というのを考えていくのか。
 だからそこが、それこそAIが、ChatGPTが出てきたときに多くの人たちは、これで言葉の教育は要らないという論調が出ますよね。しかし、多分安宅先生もそうだし、私も言葉の教育はとても大事だと逆に思うんです。腹落ちする言語であるとか、まさに経験に裏づけられた教養、これが絶対必要だと思うんです。ただ、要は言葉と身体じゃなくて言葉と身体をどういうふうにミックスさせていくか。だから、そういった腹落ちする言葉を扱える、それで知性において、その知性のある行為をしていくというか、そういう辺りの新しい形のリテラシーをどう立ち上げていくのかという、これは実は古くて新しい問題で。
 それこそ、書字文化、言葉が出てきたときに、音声言語がなくなったかといったらそうではないと。つまり、発達段階を考えたときに、まず、母子関係、父子関係とかの親子関係においても、身体的にオーラルにコミュニケーションする触覚みたいなものがある。言葉の前の言葉があって言葉を獲得していくという形で抽象化していきますよね。まずそれが発達の道筋みたいなことであって。先ほど市川先生がこだわられたのはその部分だと思うんです。最終的に抽象的思考ができるためには、前言語的な経験が大事だというところがあると思うんです。
 だから、そう考えたときに、発達ということを考えるときに、適切性ということを考えたときに、紙かデジタルか、そういうことではなくて、どういう経験こそ大事にしていくのかということは、これは特に小学校学齢期の最初の段階、あるいは幼児期、乳幼児期においては、発達という観点も踏まえて考えていく問題かと思うんですよね。だから、この辺り、本当に特に、具体的には言葉の教育とかどうなるかというところにも集約的に表れてくるかという気はするんですけれども、私のこの意見といいますか、少し、もし……。
【天笠座長】先生、あと何人かの委員の方から聞いていただいて、それでお答えできるところはお答えいただければと思います。
【安宅氏】はい、そうしたいと思います。ありがとうございます。
【天笠座長】ということで、次に、秋田委員から御発言を求められていますので、次、秋田委員、お願いいたします。
【秋田座長代理】ありがとうございます。学習院大学の秋田です。安宅先生、本当に、御本も読ませていただきましたけれども、社会をどうこれから私たちが見据えて考えていくのかということのリアルを話していただけたと思っています。私は例えばSTEAM教育だって、中高でいいという話ではなくて幼児期を書き込んでほしいと強く言ったんです。けれども、早期から疑うというか、疑問を持つとか、感性から立ち上げていくとか、先生が、人との協働によって新たな価値を生み出していくというようなことがこれから大事だということを話されていて、その辺りも大変うなずきながら拝聴しました。これからの社会を見据えたときに、必要なことを、コンテンツをより具体的に何が大事だというところをお話しいただけたと思っております。
 こういうことを教えなきゃいけないと、先生が何度かさっき「教える」ということを言われました。多分学校という場では教えるということを基本、教師という存在がやってきたわけですけれども、この教師という人たちが、要するにこれからの社会を見据えて、柔軟に今対応できているかというと、最もoutdatedに安定的なものを重視している存在として育てられてきていると思うわけです。
 そういうときに、むしろ逆にデータとかAIとか、それから専門家とか、そういう人に対して、直接子供が触れていくとか、そういうことのほうがより有効なのか、先生が考えていらっしゃる教育システムのイメージをうかがいたいです。そこで教えるという言葉を何度か言われたときの、その「教える」というのは環境なのか、何がどのように教えていくのかということを私は伺いたいと思いました。私もChatGPTを使ってみて、データを放り込んでレポートをつくってもらったときにびっくりして、これを大学生とかが使ってレポートをつくってきたとき、さらに私たちが何を教えるのかというところの言葉の感覚とか、作られたレポートをどう疑ったり、もっと深めるのかというような指導ができるのかと考えたんです。安宅先生は、教えるということをどういうふうに考えておられるのかと、私自身は、1点そこをぜひ伺いたいと思います。
 例えば3年に1回とかの改訂という意見に私も大賛成です。これからの時代を見たときに。10年に1回の改訂ではあまりに遅過ぎるわけですよね、でも、なかなか教師が、実は10年に1回でもうまく理解しのみ込めないという場合が多いわけです。そのときに、教えることについて逆に別の学習環境をデザインするとか、外部サポートとか、アウトソーシングとか、いろんな方法があると思うんです。この辺りをどう考えておられるのか、ぜひ時間があったら伺えたらいいと思っています。以上です。ありがとうございます。
【天笠座長】ほかの委員の方、冨士原委員、それから貞広委員、高橋委員という順でお願いしたいと思います。冨士原委員、お願いします。
【冨士原委員】冨士原と申しますが、私は今の秋田先生に重ねてということで、端的にお尋ねしたいのが、先生の、あくまで思い描いているという形でいいんですけれども、生身の教師の役割、学校の、これ先生はどうなっていくと、どうなっていくか、どうあるべきか、尋ね方はあれですけれども、それをぜひ伺いたいと思いました。以上です。
【天笠座長】それはどうしてというのを、少し言葉を加えていただきますか。
【冨士原委員】それは秋田先生と一緒で、教えるという行為とかがどう変わっていくのかということとともに、生身の教師というものの存在を、これから、そういうAIが、AIというかコンピューターがどんどん学校現場に入っていくとして、というか私もそういう時代になると思うんですけど、そうしたときに生身の教師が存在する意義とか意味とか、そういうものがもしあればお尋ねしたいと思いました。
【天笠座長】続きまして貞広委員、お願いいたします。
【貞広委員】千葉大学の貞広と申します。大変刺激的なプレゼンテーションをいただきまして、スライドを拝見するというよりも安宅先生をずっと見てお話を興奮して伺っておりました。著書についても拝見しまして、私は安宅先生とまさに同世代ですので、確かに全てのあらゆる変化を体感してきて、サバイブしてきたつもりですけど、あまり収入は上がらなかったんですけど、これは国立大学だという問題かもしれません。
 相当、私自身は先生のお話はかなり腹落ちをしております。その上で、そんな感想を持った上でとても卑近なことを申し上げてというか、質問して申し訳ないんですけど、先ほど、先生は何かが間違っているとおっしゃったんですよね。学習指導要領の冒頭を見る限り、あれにノーと言う人はいない、私もそうですけれども、何かが間違っている。恐らく選抜システムが間違っているんだと思います。高校に入学するときの選抜、大学に入学するときの選抜が間違っているので、あのフィロソフィーが浸透しないということで、これについて何かサジェスチョンをいただければと思います。以上です。
【天笠座長】高橋委員。
【高橋委員】東京学芸大学の高橋でございます。安宅先生、大変刺激的なプレゼンテーションありがとうございました。久しぶりにこうやって対面でやったこともありまして、議論も白熱して、こういう時代が戻ってきたというふうに、つい、にやにやというか、先生も体験が大事だとおっしゃるので、こういうことも含めて体験だろうと思いながら感じたところです。こういうのも事務局の設定の勝利なのかもしれないとか、これでサントリーの古いお酒でもあれば完璧かもしれないとかと思ったところです。
 私もChatGPTに、安宅先生に何を聞いたら褒められますかと聞いてみたんですけども、あまりいい答えが、古い学力観に基づいて聞いたからか分からないんですけど、あまりいいことは言ってくださらなかったんですが、なので自分で頭を使ってみます。数学とか言語とか、教えるべきことは教えるんだという御趣旨はあったと僕は思っています。それで御自身の経験からも、我々が、大人が見えてないような、子どものチャンスみたいなものを潰しちゃいけないという御主張だったかと、そういう要素も入っていたんじゃないかと思っています。
 私自身も、学生もそうですし、小中学生も見ていて、教員が指導していることと違う景色を見せるというか、教員が見ている景色と違う景色に到達させる指導者というのを見たときに、すごくうまくいったんだなと思うんですけど、その後の授業の協議で、多くの教員が気持ち悪いと感じるのか、本能的に議論を生むことがあります。教えるべきことをきちんと教えたのかというような指摘だけど、はたから見れば、もっと本質的なことに子供が大人以上にたどり着いている可能性があるのではと思うこともあります。
 こういう授業がこのところすごく増えているような気がして、それはどうしてかというと、GIGAスクール構想で1人1台コンピューターが導入されて、子供がいろいろな情報に自在にアクセスできるようになってきて、先生個人が持っている情報とか景色とは全く違うものを入手して自分なりに解釈していくということ、だからもう生活の中にコンピューターが入って、勉強の中にコンピューターが入っていく前提のときに子供から見える景色が教員と違うというのはあることなのだと思います。しかし、我々は何となくAIだ、コンピューターだ、それを学校で指導だというと、いかにAIやコンピューターを教えるというふうになっちゃうんだけど、多分、安宅先生がおっしゃっているのは、生活とか環境として当たり前に埋め込まれている中でいけば、きっと別の景色を子供がみることを始めるんじゃないのかと解釈するのかと私自身は思いました。
 そういった意味で、how論が違うという話に、指導要領の前段にはいいことが書かれているんだけど、そこの実行の段階で伝わりにくいところがあると。
 回線が細いとか先生もおっしゃっていましたが、実は、せっかく1人1台コンピューターが入っても、教員が知っている範囲の使い方や、教員の知っている範囲での知識しか提供しないように、役所のように厳しいレギュレーション、学校も役所の一部ですから、厳しいレギュレーションをかけて、ほとんど教科書に書かれているものと同じような、フィルタリングも含めて、制限がかかりすぎていることがあります。こうした子供が違う景色をみるといったことがなかなか起こりにくいということがあります。これが、実はこの手の話は指導要領に書かれることではないので、それをどう授業で扱うかというのはまた別の話だと思いますけども、このhow論が違うというところに私はすごく注目する気持ちになりました。
 コメントで申し訳ないですが、私からは以上です。
【天笠座長】ここまでのところでお答えいただける部分があればですが、私から一つですけど。
 先ほどのスライドの中に、非常に大学生にとって人気のある企業というんでしょうか、という、そういったのがあったんですけど、私は前々からその手に関心がありまして。この国の大学生の人気の企業のランキングというのは御承知のように毎年出るわけですけども、どうもそこのところのランキングというのが、その組織としての企業としての盛りを過ぎたような、というような。事実そうなっているんですね。この国のそれを見ると。
 先ほど、アメリカ等々のそれというのは、そういうことではないのかどうなのかという、その辺りの時代の変転と企業組織の命というんでしょうか、生命と時代の転換ということですけども、大学生の人気があるというのは、申し上げたとおりだという認識を持っているんですけども、ただそれは、もしかするとこの国の教育の制度自体に一つの要因があるのかもしれないというふうな、要するにどういうことかというと、一人一人の学生にとっての人生の意思決定が遅いんじゃないかと。その遅らせるのが、この国の制度がその一因になっているんじゃないかと。
 キャリア教育とかそういうのもいろいろ手は打っているんですけども、どうもそれは功を奏してこないというか、申し上げたような状況になっているあたりとともに、何か間違った云々という中には、先ほど入試の云々というのがありましたけども、今のシステム自体、制度自体にもそういう点というんでしょうか、あるんじゃないかと。
 とすると、中学校から高等学校、そこら辺のあたりのところの有り様とか在り方ということが、実はもう少しメスを入れなければいけないところがあるのかというふうに、そんなふうにも思うところがあるわけですけど、その象徴的にランキングということを取り出しながら申し上げたわけですけども、もし何かそこら辺のところにコメントしていただけることがありましたら、先ほど委員の方々の御意見等々の中で扱っていただければと思います。ということでいかがでしょうか。
【安宅氏】たくさんの御質問ありがとうございます。
 いっぱいいただいたんですけれども、秋田先生だと思いますが、どう教えるのかという話がさっきあったと思うんですが、一般的に教えると言われている話は、ティーチングとコーチングとフィードバックが入り交じった概念になっていて、日本国の教えるはほとんどティーチングだけです。だから日本語が緩いんで、さっきの心と、ハートとマインドみたいになっちゃって、本当に混乱に陥っているんですけど、どちらかというとコーチングとフィードバックが主であるべきだと思います。
 フィードバックは、特に日本は企業ですらあまり得意じゃなくて、外資は徹底的に教え込みますけど、フィードバックって何かオブザベーションを、「こうなってたよね、どう思う」とか、まずオブザベーションの共有から始まって、認識がなかったら、「ああそうか、僕にはこう見えていたんだけど」と、もし思っていたら、「それどう思う」と聞いて、「ああなるほど、それどうしたらいいと思う」と。だから質問しているだけですね。フィードバックは。本当の外資的なレベルのフィードバックは。その上で勝手に気づくというのがフィードバックで。
 コーチングも何かやりたい意思がある人に、「こういうのでもやってみるとどう思う」、「ちょっとやってみます」とやって、「ああうまくいきました」、「いいね」みたいなやつが多分コーチングですね、恐らく。なので、多分コーチングとフィードバックをとにかく強化する必要があるんじゃないかと思います。
 あと、さっき心のベクトルという話をしたんですけど、好きなものとか得意なものとか面白いものみたいなものを育てるのは結構自発的な取組なしに育たない。勝手にやっているから育っていくことがあり、そこの時間が、何か分からないけど、今の子供たちには少なくなっているんじゃないかなという気がします。
 それは、僕は慶應SFCという割と変人、尖った学生が集まる学校にいますけれども、変人、尖った人を意図的に集めているといったほうがむしろいい。我々は誇りを持って集めています。アウトライヤーだと思う人を集めているんですが、それでも聞くと、あまり自分でそんなに本を読んでいないですね。「何か好きな本がある?」とか、「最近何を読んでいるの」とか聞いても、あまり読んでいないですよ。せいぜい月に一、二冊とかです。だから関心が全然爆発していないのか、インターネットだけで閉じているのか。本当に深いことを体系的に何か知恵を得るとか、例えばアリストテレスと語り合おうと思ったらアリストテレスを読むしかないんですけど、そういうのがないです。だから、絵本の段階から彼らはあまり読んでいない可能性があって、そのぐらい余力のない生活を送って、子供のとき育っているんじゃないかと心配しています。
 往々にして、小学校3年生の3月から東京とかだと塾とか通っちゃって、一番関心が育つときに塾のドリルをやっているんですよ。でもそれをやらないと中学校の入試に受からないんですよね。僕も子供を育てていて、もう大学生ですけど、色々考えさせられました。難しい問題を一緒に解くのは随分一緒にやりましたが、大体僕のほうが解説よりeasyなアプローチを思いつくんで (笑)、こうやったら一瞬で出るよとか、こうやって「ほほう」みたいなやつで、だからパズルを解くように子供と楽しんでいました。親がそういう変態であることはレアだと思うんで、そうでないと地獄になっちゃうと思うんですよね。
 「塾も半分ぐらい間違っていると思うよ」とか言いながらやってあげないといけないです、本当は。心を育てる部分が何かうまくいってないところが、ちゃんとできるところが、本当は教えることの中心のような気がします。
 あと、さっき「知覚」の話をしましたけれども、生体験なしに人間は何かを理解できないところが多いです、知的なことであろうと、人的体験であろうと。歯がゆさとか嫉妬に至るまで体験しないと分からない。「嫉妬」なんてしたことがない人に理解できるとは僕には思えない。だから何かとにかくそういうことで生体験をいっぱいさせるのが本当のティーチャーなのかフィードバッカーなのかコーチの仕事じゃないかというふうに思います。
 次に、今、冨士原先生の生身の教師の役割は、従って今の話でほとんど答えちゃったような気もしますけど、あえて後で言うならば、大学に来る価値というのは、高等教育に来る価値というのは、結構本物に会えるんですよね、大学って。例えばちょっと前までだったら、SFCに来たら村井純先生がいたわけです。伝説の人物がそこにいるわけです。このインパクトは普通じゃないですよ。でも、小中学校の先生も子供からしたら本物です。だから、実際にそういう知識なのか知恵なのか、心の訓練か何かあった上で、何かやっているというと、「これってこういうことなんじゃない」みたいなこととか、「ああ」みたいなやつ等の中で、「これ全部つながっているんだ、これ」みたいなことを生体験で学んでいくことが大きいと思うんですね。
 僕は以前、コンサルタントを十何年やっていましたけど、それで、自分が書いた本等も含めて、コンサルタントだった人等の本とかいっぱいあるけど、あんなもの幾ら読んだってコンサルタントはなれないですよ。だって見たことないから。目の前でその人たちが価値を出している中で学ぶもの、官僚の中を説明した本を幾ら読んでも官僚にはなれないじゃないですか。官僚の皆さんは分かると思うんですけど、そんなの関係ないですよ。お前、国会答弁を書いてからもの言え、みたいなところが多分あって。
 だから、そういうことです。リアル空間というものはそのぐらい人間を根本的に変容するものであって、リアル空間なしに人間がそれほど育つとは僕には思えないです。知識は得ることはできる。でもそれ以上のことの変容はリアルから来る。本当の人と人と接するところから人間は感じると思うし、心の優しさだとか悔しさとかそういうものもリアルから来るんで、多分リアルだと思います。なので、生身の先生の役割は極めて重大だというのが私の見解です。
 悩みも含めて、「こういうのはいいじゃないか」、「これどうかな」、「これ全然訳分からない」とかと言っていることも含めて、生身の人を見ることで、「こんなことで悩んでもいいんだ、人は」みたいなことも含めて大事です。すごく重大で、僕は、生身派で、生身の時代に突入したと思います。
 貞広先生の選抜システムがおかしいんじゃないかという件については、もう200%同感です。この件については。基本的には全人格的なアドミッション(入学者選抜)をやるべきであって。一方で、何で応募者を全部受け入れないんだというラディカルなうちの学生とかいますけど。「だって安宅研の応募者全部入れたら僕はもう回らないんだけれど、、」みたいな会話をしたこともあります。結局大学も、高校もそうですよね、結局、教えるキャパというのがあるからどうしても枠は生まれざるを得ない。
 だけど、そこでその人のポテンシャルを見ずして、人間としてどうだという部分を見ずして、心の状態も、知的関心の有無や深さも、過去に引き起こした問題も何も見ず、何だかよく分からないけど、何だか試験の点数でただ採るというのは何かおかしいと思います。その学校がどういう人を求めている、どういう人を育てる場だということを考えて、そこに即した適性というのは何なのかという視点で本来、人を見るべきだと思います。
 本当のアドミッションシステム(入学者選抜システム)が本当は必要なわけですが、これは相当に厳しい。僕はたまたまアドミッションシステムをヘビーにやっているアイビーリーグのイェールで大学院生活を送っていましたけど、イェールはアドミッションのビルだけでかなり立派なビルで、何十人の人がフルタイムで世界中から草の根分けても次の未来をつくるやつを育てるんだと集めてくるわけです。あんなのは普通できないです。千数百人を集めるために、あんなに何だか分からないぐらいの億単位の金を、何十億のお金を毎年使って人を採るなんてできない。ここに問題があるということです。
 なので、それは私のいるSFCも、私なんかは本当は全部AOで採りたいけどできないんで、だから、AO的一般入試をやっていますけれども、非常にここはハードルがある問題です。本当に。 米国のようなやり方が何で回るかというと、そこにいっぱい人がいて予算がいっぱいあることに加えて、実は卒業生ネットワークがそれをやっているんですよ。だから僕もインタビューしてくれないかとたまに言われるけれども、だからイェールのアラムナイ(卒業生)たちが実はいつも動いているんです、世界中で。そういったことも含めてやらなきゃいけないんで、おっしゃるとおりですし、そこが問題であることはもう100%間違いないです。
 入試のために事前に自分で何か書かせたって、そんなものはChatGPTに書かせているかもしれないし、塾の先生が手を100回ぐらい入れているかも、これも信じられないわけですよ。それよりも10分間こうやって顔を見てお話しするほうが100倍よく分かるみたいなところがあって。そこですね。本当に人を見ろという感じですね。もう10分でいいからインタビューすべきという見解です。僕は今までものすごい量のインタビュー、インタビューというか面接をやってきたのですが、その経験からグループインタビューでも価値があると思います。
 高橋先生の、自分の知っていることを超えた世界がくる、大人が見えていないチャンスを潰しちゃいけないというお話、本当そのとおりだと思います。彼らは本当にある種ドラえもん第一世代みたいな世代になると考えられます。ドラえもんの一種なんで、ChatAIというのは、本当に。もうすごいんです。さらに心が仏陀なんで絶対アプセットしないんで、すごいんですよね。どんなnastyな質問にも適切に答えるという、すごいマシンです。
 だから一緒に問いかけるとか、問いを立てる、あるいは、もっと小さい小学生だったら先生との対話が全てになって、必要に応じてマシンに聞いてみたら、「先生、こういうことを言っています」、「それめっちゃ面白いけど、こういうところが」、「このマシンの言っていること訳分かんないよ」、「さらに面白くない?」みたいな、多分ほとんど大喜利みたいな授業になっていくはずです。普通に考えると。大喜利感が心を育てているところが多分あって。何かそういう問いドリブンの講義にうまくしていくのが大事じゃないかと思います。
 反転学習とかあるんですけど、中学校高学年、中3か中2の後半ぐらいまでいかないときついと思うんです。もちろんあるんです。勝手に進みたい子供には幾らでもやっておいていいと。好き放題触れる端末とかをライブラリーとかに20台ぐらい置いておけば、やる子供はやるでしょう。めちゃくちゃ速い回線をつないでおいて、やると思うんですけど、それはそれでよくて。
 ただ、それ以外の人に対しては、こういうことをやりたいですとか、さっきの波をどうやって式にするとか、「できるわけないじゃないですか」、「あるんだよ、方法」みたいなやつ、「考えてみよう」みたいなやつとかと一緒に考えていくうちに何か分かってくるみたいな、多分そういうことが大事じゃないかと思います。
 彼らなり、彼女らがめちゃくちゃ面白いことを思いつく、気づくたびにそれを拾って、みんなで「おおー」と言って感嘆すると。拾って喜んであげるというのは、結構先生の大事な仕事だと思いますけど、めちゃくちゃ重要じゃないですか、それ。みんなの前で、「これ面白過ぎるよ」とか言うとみんな元気になるし、楽しい。心のベクトルの基本は、それって言ってもいいよねという体験の集合体だと思うんです。それでもいいのかというのは、「めちゃくちゃいいよ、それ面白いよ」とかというのは大事だと思っています。
【高橋委員】そんな授業になっています。1人1台になってから。
【安宅氏】さすがです。
【高橋委員】自由な感じだと思います。
【安宅氏】すばらしいです。
【高橋委員】教科書を大幅に超えています。
【安宅氏】最高です。ということで、ドラえもん化しているということで最高ですけど。最後の天笠先生の企業の話ですね。これは、日本のランキングは盛りを過ぎたというか、120年とか本当に寿命の長い企業が中心ですけれども、もはや社会の一部になった企業は、ある種インフラ化しているのですばらしいんですが、伸びはしないですよね。潰れはしないけど伸びはしない企業の集合体と。アメリカは、明らかに20年、50年以下の企業がメインで、テクノロジーをてこにして未来を変えている企業が並んでいたりするわけです。エンジニアリングスクールの学生に聞いているから余計そうです。あれはAppleとAppleに近いと思って日本の理系の院生と米国のエンジニアリングスクールの学生に対して、対比しているんですけど。
 何であんなに違うのかということについては、一番大きいのは親の間違った指導、価値観だと思います。自分の頃の成功ゲームを子供に言っているんですよ。でも、私がコンサルタントだった93年の春ですけど、ちょうど30年前です。あの頃、トップマネジメントコンサルティング会社というのかな、外資系のトップマネジメントに対するコンサルティングを行う主要な会社4つ、マッキンゼーとBCGとベインとブーズ・アンド・カンパニーを足して12~13人しか入っていないです。一番採る数が多かったマッキンゼーで5人。就職ランキング500位まで見ても、これらの企業がどこにも載ってないような時代に、我々は入ってきたわけです。
 我々の世代は確かにおおむねいい思いをしました。全員が訳分からない選択をし続けて、なぜか幸せです。だけど、それを見ていた我々の世代に育てられた子どもたちの世代ではコンサルティング会社が今人気企業ですけど、多分そんな幸せにならないと思うんですよ。組織自体が小さくて、いる人間の一人ひとりが社会のoutlierだという自覚で、色々好きにできる面白い時期は遠く過ぎてしまったというのが一つ、AIの発展がものすごいというのがもう一つの理由です。本当のハイエンドのプロブレム・ソルビングというのは人間しかできない、確かに。ここで今やっている、こういうやつはできない。
 だから親が間違った指導なのか感化をしているせいであのようなランキング結果になっているところが大きいと思います。ただ、未来に関して親の言うことなんて信じていいのかということを、二十歳を過ぎて思っていること自体、若干以上にリスキーです。無意識だと思うんだけど、小学校ぐらいから刷り込まれている可能性があります。
 僕は子供に、好きにやれよとずっと言っています。少なくとも、パパ・ママがやったような選択が君等の世代において同じような幸せにつながるとはとてもじゃないけど思えないと。何か全然違うところに答えがあるんで、もう好きにやってくれと。本能を信じるんだという感じでやっていますけれども。
 というところで、結果的に意思決定が遅いんじゃないかというような天笠先生の御指摘はそのとおりだと思うんですけど、意思決定の前に周囲の洗脳が強過ぎるのか、権威に対する疑念の教え方が足りな過ぎるのか。親だけは全部言うことは無条件に聞けという教育をしちゃっているのか、分からないですけど、その辺じゃないんですかね。すみません、何かふわっとした回答で。
【奈須座長代理】御本も読んで、今日もとても納得のいくお話をいただいて、本当にありがとうございます。
 ずっと、さっきあったように、学校とか教師の伝統的な枠組みではもうほとんど絶望的に駄目だろうと私も思っているんです。よくこの場所でも言うんだけど、今、学校関係者は、いろいろ難しいけど、まだまだやれますよと言うんですよ。まだまだやれますよというのは駄目だということに気づいているんですよね。絶好調のときは、まだまだやれると言わないかと思って。うすうす駄目だと思っているけど、先送りしようとしているというのが、日本の経済もそうですけど、教育界も今とてもしんどいところに来ていると、私も思っています。
 そこを脱していくいろんな戦略はあると思うんですけど、一つは、いろんな先生がおっしゃった、ある種アウトソーシングするということをかなり強力な選択肢にしていくというのはもうありかと思っています。つまり学校の先生は自分が何もかも教えたいんです。これは、私も養成系の出身ですけど、私がいたからあなたたちはちゃんと育ったんだと思いたい。でも、そのために子供はいるわけじゃないので、子供が学んで育てば私は何でもいいと思っていて、反則はなしだと思っているんです。
 別の意味でいうと、GIGA端末が入ってきたので、もう大幅にアウトソーシングをして、できるものはどんどん外に出すとか機械に任せるとか、もうしちゃったほうがいいんじゃないか。さっきのコーチングとかフィードバックはまさにそうですよね。教えるということから少し身を引いて、やる。環境による教育という言い方を教育界ではします。幼稚園なんかそうですけど、いい環境を整えて、それと関わっているところに先生が寄り添って、そこでやることしかしない。つまり、これをやれとは命令しない、指示もしない。豊かな環境を整えて、子供がそれと戯れている中で、その子の動き、可能性を見て寄り添っていくという。それを小学校以降も本気でやるという時代だろうと思っていました。  それからもう1つ、面白がるということで言うと、総合的な学習とか、あとSSHとかいうのが大分進んでいて。大分前ですけど、大泉の附属の中学校で見たんですけど、中学2年生が「先生、僕らは人工ルビーを造っています」と言う。「え、人工ルビー?」。でも、見せてくれたのは、くすんだ赤い色の石ですよね。「これ、ルビーになっていないじゃん」、「そうなんです」と。「でも、あと高圧と高温さえあればルビーになります」という、その発想はとても素敵だと思っていて。
 つまりこれまでは、僕らは高温や高圧のシステムは準備できないから人工ルビーはできないと思って諦めていたんです。そうじゃなくて、人工ルビーをつくるということの本質は何かと。そこでできるところまでやっちゃおうと。あと残った課題はこの2つだけですと。だから、どこかの大学とか研究機関が高圧と高温の環境さえ準備できれば、この僕らのルビーは、あしたにでも光り輝くルビーになりますと、中学2年生がうれしそうに言ってきたんですけど。
 こういう、安宅先生は夢とおっしゃったんですけど、僕らは、こういう条件が整わないと、これを基礎から積み上げていかないと夢にたどり着かない、まずだから基礎からやりましょうということをやってきたんですけど、そうじゃなくて、まず夢があって、やりたいことがあって、すると、これができて、これが足りない、これが足りないことは自分でやることでもいいし、人に頼むでもいいんだけど、そうやって夢を実現するという教育を本当にしてこなかったなということを、先生の『シン・ニホン』を読みながら思いました。
 ただ、そういう方向に少し動き始めてはいて、そっちに行けばいいのかなというのを今、先生の話を聞きながら思っていたんですけど、というコメントのような今日の感想のようなお話です。
【天笠座長】どうもありがとうございました。そろそろ時間も残り少なくなってきましたので、会を閉じたいと思うんですけど、意見をという方はいらっしゃいますか。感想、委員の方どうでしょうか。高橋さん、よろしいですか。
【高橋委員】時代の変化も激し過ぎて、実は私も、先生もそうだと思うんですけど、先ほど査読論文の話をされていたと思うんですけど、実際にうちの学生もいいタイトルを持ってきたなと言ったら、ChatGPTに聞いたら4つ出てきて、これがいいと決めたんだと言うんです。これを使って論文を書く人とそうじゃない人の差は激し過ぎますよねと言って、気づいたら結構なメンバーが、あの高いお金を課金していたということが分かって、だけど高いといっても、サブスクの感覚でいうと高いけど、それだけの情報が得られると思ったら非常に安価で、それぐらいのお金を払ったら、僕がうっかり「いいね、君」と言ってしまうという、そういう時代が小中とかにもやってきていると思ったときに、どう考えたらいいんだろうかと。それは別の景色を見たほうがいいと心では思っているけど、それが潜在的に脅威で、それが変革を遅らせているのかもと、そういうことも自分自身で反省しながら聞いていたということになります。すみません、反省文みたいになりまして。
【天笠座長】どうもありがとうございました。それでは、ほぼ予定の時刻になりましたので、会議を終わりにしたいと思うんですけど、安宅先生、最後に何か御意見はありますでしょうか。
【安宅氏】大変熱い議論にお呼びいただき、ありがとうございました。言い忘れたことを数点出したいんですけれども。GPT-4ベースのChatGPT等を触っていると分かることは、恐ろしく教養が深いんですよ。例えば、何だかよく分からない判じ物のみたいな片仮名を落合陽一さんが打ち込むと、これサンスクリットのこれじゃないですか、みたいなのが来たりするんです。  今、教養があるとしても普通の人は、2、3か国ぐらいがフルーエントというのが上限ぐらいです。サンスクリットなんて分かるわけがないみたいな、そのぐらいのマシンです。しかも、僕も色々触ってみましたが、どんな学問分野も超えて割とああやってくる。
 そうすると、昔からT型人材、Π型人材みたいな議論があるんですけど、上の棒が思っていた以上に長くなっているんです。これ以上ないほど教養の時代に突入している可能性が高くて、実はそうしないとアウトプットが分からないんです。非常に幅広く多くのことについて考察している必要があって。畏友というべき落合君は信じられないほど仏教とかあの辺を読み込んでいて、僕が西洋側しか関心なかったのに、彼と10年ぐらいの付き合いで随分仏教経典を読み込みましたけれども。みたいな話で、実はそれが広いのがめちゃくちゃ重大な時代になっていると思うということです。だから、すごい長いTなのかΠの時代に突入していると思うということです。
 それか、別の言い方をするとあまりにもキカイがやってくれるために恐ろしく勉強しないといけなくなっているという、不思議な、逆説的な状況に今突入していて。だから一個一個の正確なことよりも、ある程度勘どころをつかんでいく、そしてこれってこういうことをやるために、こういう人間を苦しめる、こういうことが存在したんだ、みたいなやつを繰返し熱狂的に学んだ経験、教養の広がりと深さが、ある程度数ないと本当にきついと私は今思っています。なので、そこがすごく実は今起こっている重要なポイントの一つ。
 とりわけ追加強化が必要だと思う領域は、先ほども言いましたけども、言語化とプロンプト・エンジニアリング、これはもう実に重要な価値創造の前提になると思います。結局、様々なことにキカイを使わざるを得ないことを考えると、もちろん普通の自然言語でも入りますけど、エンジニアリング的なマインドを持っているプロンプトをうまく打ち込むと、ものすごくよく動く。この状態は当面続くと思います。根っこがコンピューターなんで。なので、プロンプト・エンジニアリング的なものは、今までのエンジニアリングとはちょっと違うかもしれない、そういう意味で。だからエンジニアリング的な知恵は要るんですけど、その辺が結構重要になってきているとすごく思っているというのが2つ目です。
 そんなに急いでやらなくていいんじゃないかという、先ほどの市川先生のお話だって、プロンプト・エンジニアリングについては正直中学校以降でもいいかもしれない。ただ、アナリティカルに考えるというか、おかしいものはおかしいと考えるみたいなマインドの育成は、早いほうがいいと思うんです。言葉にするとかも。これは本当に早いほうがいいと思います。データなりファクトを見て考えるみたいな話は、割と早めにやっていたほうがいいと思います。これは間違った表現だとかというのもどこか早期に教えとかないと、ミスリードされちゃうんで、早めにやっていたほうがいいんじゃないかと思います。
 あと、すごく思ったことは、このままだと教師のアップスキルなのかリスキルする方法が一番ボトルネックになる可能性が高いということです。僕は大学みたいな自由度の高いところでも、4月からの授業をどうするかもう困っているんです。一緒に教えているメンバーとチームで昨日・おとといぐらい議論をしましたけど。僕は毎週課題を出してテストなしという授業をやっているんですけど、取りあえず、いつも出している課題に、さらにChatGPTを使ってやる課題を毎週出そうということにしています。
 だから、しばらく分からないです、何がいいのか。生成AIの時代というのはどうしていったらいいのか分からないんで、だからこそこのままだと教師の方が恐怖心を感じ始める。そうじゃないですよ。AIというのは人間のためにあるんで、ドラえもんの一種だと思うべきであって、どうやって共存というか、使い倒すかということをみんなで学びながら、気づいたことを子供たちなり学生たちと一緒にやるというのが多分正しい姿勢であり、僕もまた学生から学びたいと思っています。
 ちなみに1月のある卒論の最後にChatGPTへの感謝を謝辞的に書いている学生がいて、衝撃でした。たしかに僕はChatGPTが出て数日後の12月3日に安宅研で、君らは使い倒すんだと言ったのは事実ですが(笑)。使えば使うほどいいと。使わなければ限界も課題も何も分からないとかと言ったんだけど、びっくりしました。というのがネタの1つで。  もう一つのネタ、これで終わりですけど、僕、この2月3月に結構自分の学生の1on1をやっていたんですが、オンラインで。ある学生が、「どう最近」と聞くと「暇なんです」と。「何で?」「授業とかなくて」と。僕は「そんな学生を安宅研で採ったつもりはない、逆だろう」と。「休みになったら、これまで授業とかで出来なかったやりたいことが無限にあってあふれかえっていて眠れません!という学生を採っているつもりなんだけど、、」と。「今すぐ紙に『受け身マインド・奴隷根性』と書いて、丸めてゴミ箱にこの場で捨てよう!」と言って、「はい、いま書いて捨てました!」と言って彼はよみがえったんですが(笑)。仕事をもらうみたいな発想でやると、一生大変な目に遭うぞということ。「今、気づいてよかったです、19歳で」とか言って喜んでいましたが、そんな感じです。
 ということで、面白い時代だと思うんで、じゃんじゃん仕掛けていけたら素敵じゃないかと思います。以上です。
【天笠座長】どうもありがとうございました。
 本日の議事は以上、ここまでということにさせていただきたいと思います。安宅先生、本日は大変貴重な時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございました。どうもありがとうございました。(拍手)
 なお、次回以降の日程につきましては、事務局と相談の上、連絡をさせていただきます。
 本日は以上をもちまして閉会ということにさせていただきます。どうもありがとうございました。
―― 了 ――

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)