今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会(第2回)議事録

1.日時

令和5年2月2日(木曜日)10時00分~12時00分

2.場所

WEB会議と対面による会議を組み合わせた方式

3.議題

  1. これからの社会像について
  2. その他

4.議事録

【天笠座長】 委員の皆さん、おはようございます。お忙しいところ、御出席いただきまして、ありがとうございます。
ただいまから第2回今後の教育課程、学習指導要領及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会を開催いたします。皆様、大変御多忙の中、御参加いただき、誠にありがとうございます。
本部会につきましては、報道関係者より撮影及び録音の申出があり、これを許可しておりますので、御承知おきください。
第1回の会議では、今般の学習指導要領の改訂の理念や趣旨の確認とともに、その下での学校における教育課程、学習指導の取組状況について、委員の皆様から様々な意見を頂戴し、限られた時間でございましたけれども、深い議論をすることができました。御礼を申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
本日は、有識者検討会の検討事項の1つである、これからの子供たちが生き抜く社会像についてをテーマに御論議をいただきたいと思っております。このテーマに関わる有識者として、事務局とも相談し、京都大学、人と社会の未来研究員、教授でいらっしゃいます、広井良典先生からお話をお伺いした上で、広井先生を交えて、委員の皆様方と意見交換をお願いする予定でございます。
本日は、御事情により、広井先生のリアルタイムでの御参加がかなわなかったため、講義内容を録画していただき、事前に御送付いただいておりますので、そちらを流す形とさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
早速、お話をお伺いしたいところでございますが、本有識者検討会は、昨年12月に申し上げたとおり、現在実施中の新学習指導要領の実施状況を丁寧にフォローアップすることを大切にして、検討を行ってまいりたいと考えております。
そこで、議論に当たって、新学習指導要領の改訂の背景として構想された社会像や新学習指導要領を後押しした令和の日本型学校教育の答申における提言を確認しておきたいと思います。この内容につきまして、事務局において、資料を準備していただいておりますので、事務局より、まず、説明をお願いしたいと思います。その後に広井先生のお話とさせていただきたいと思います。それでは、事務局のほうからということで、よろしくお願いいたします。
【石田教育課程企画室長】 それでは、資料1に基づきまして、御説明を申し上げます。共有をお願いします。
先ほど天笠座長から御指摘ありましたとおり、本日は第1回の会議でお示しした検討事項(2)のこれからの社会像をテーマに御議論をお願いしたいと考えてございます。
次のスライドをお願いします。これもまた座長から御指摘ございましたけれども、これからの社会像に関わる議論をお願いするに先立ちまして、改めまして、学習指導要領の改訂の背景となりました社会像ですとか、令和の日本型学校教育答申での御指摘について簡単に御紹介したいと思います。
次、お願いします。こちらが学習指導要領の改訂の背景となった社会像をまとめたものでございます。上の段のほうにございますけれども、今の子供たちが成人して社会で活躍する頃の未来予想として、生産年齢人口の減少、グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により、社会構造や雇用環境は大きく、または急速に変化しており、予測が困難な時代となっていること。また、急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては、一人一人が持続可能な社会の担い手として、その多様性を原動力とし、質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につなげる新たな価値を生み出していくことが期待されることなどを掲げ、こうした社会に向き合うための資質・能力を育む。こういう観点から学習指導要領の改訂がなされました。
次、お願いします。具体的には学習指導要領の総則では、学校の教育目標、児童生徒に育成を目指す資質・能力、学習の基盤となる資質・能力、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力、そして現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力を教科等横断的に育成することとしてございます。
次のスライドをお願いします。なお、3つ目の現代的な諸課題に対応して求められる資質・能力について、平成28年の中央教育審議会の答申では、今、スライドにお示しをしております、7つの力が考えられる、とされたところでございます。
次、お願いします。こちらはこの学習指導要領の実施を後押しした令和答申の提言の抜粋でございます。この答申では、学習指導要領を改訂した後の状況変化を踏まえ、次のような御指摘をいただいております。1つ目の丸、人工知能(AI)、ビッグデータ等々の先端技術が高度化して、あらゆる産業や社会生活に取り入れられたSociety5.0時代が到来しつつあること。社会の在り方そのものが、これまでとは非連続と言えるほど劇的に変わる状況が生じつつあること。また、学習指導要領の改訂に関する答申においても指摘された、加速度的な社会変化などが新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大により、現実のものとなっていること。
2つ目の丸、このような中で、学校教育には、一人一人が自分のよさや可能性を認識するとともに、多様な人々と協働しながら、様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り開き、持続可能な社会の創り手となるための資質・能力を育成することが求められていること。
次、お願いします。こうした豊かな人生や持続可能な社会の創り手というものに関わる国際的な動向としまして、国際連合における持続可能な開発目標、SDGsの推進やOECDが提唱するウェルビーイングの実現に向けた力の育成の重要性が指摘されていることを確認した上で、2つ目の丸、これらの資質・能力を育むためには、新学習指導要領の着実な実施が重要であること、このことに加えて、感染収束後のポストコロナの世界、いわゆるニューノーマルへの移行を見据えまして、次、お願いします、1つ目の丸、一層先行き不透明となる中、答えのない問いにどう立ち向かうのかという視点から、目の前の事象から解決すべき課題を見いだし、主体的に考え、多様な立場の者が協働的に議論し、納得解を生み出すと、こういう新学習指導要領が目指す資質・能力の育成が一層強く求められていること。
2つ目の丸、あわせて社会全般のデジタルトランスフォーメーション加速の必要性が叫ばれる中、これからの学校教育を支える基盤的なツールにICTを位置づけ、それを前提に学校教育の在り方を検討していくことが必要との指摘をいただいているところでございます。
事務局からの説明は以上でございます。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。
それでは、この後、お話しいただく広井先生につきまして、私のほうから、先生の略歴につきまして、御紹介させていただきます。その後、広井先生から「未来社会のデザイン~AIと超長期の歴史把握の視点から~」と題してお話を頂戴したいと思います。
広井先生は、厚生省勤務後、千葉大学法経学部教授、マサチューセッツ工科大学客員研究員を経て、2016年より京都大学で教授を務めていらっしゃいます。公共政策及び科学哲学を御専門とされており、社会保障や環境、都市・地域に関する政策研究から、時間、ケア、死生観等をめぐる哲学的考察まで幅広い活動を行われております。
この後の流れとしましては、およそ50分程度、広井先生からお話を頂戴いたしまして、その後、50分程度、委員の皆さんとの意見交換の時間とさせていただきたいと思います。
それでは、事前に御送付いただき、御講演の動画を画面共有で流させていただきます。およそ50分ほどの長さになっております。よろしくお願いいたします。
【広井氏】 皆様、こんにちは。京都大学の広井と申します。
まず、何よりこのような貴重な機会に声かけていただきまして、お話しさせていただくことを本当に光栄に思います。本来はそちらにお伺いしてお話しさせていただくべきところなのですが、私の体調の問題で、このような形での参加となりますことをどうぞお許しいただければと思います。
それでは、早速、本題に入らせていただきます。資料に沿いまして、お話をさせていただければと思います。未来社会のデザインということでお話をさせていただきます。
この話題につきまして、いろいろな角度から考えて、2050年の社会像ということも意識しながら、話題提供させていただければと思います。最初に、私が最近行ってきましたAIを活用して、2050年の日本を展望できないかと、そういう研究について、ごく簡潔にお話をさせていただければと思います。
いきなりAIというのが出て、唐突に感じられる方もいらっしゃるかと思いますが、私自身は、実はAIについて、昨今、非常に議論がありますが、いささかAIの能力といいますか、過剰、過大評価されていると思っています。AIができることというのは非常に限られていて、ただ、今、先の見えない未来において、もしそんなにAIいろいろなことが可能なのならば、未来の社会を考えるに当たって、AIを使うことも活用することもできないのかという関心で、こういった研究を行ってきております。
最初に、基本的な関心、問題意識ですが、これは皆様も既に御承知のことかと思いますが、日本の人口の長期的なトレンド、基本的なことを確認しますと、江戸時代が大体3,000万人ぐらいで、日本の人口というのは安定というか定常状態だったのが、もう御覧いただきますように、明治以降、線が直立するぐらい急激に人口や経済が大きくなって、言うならば、急な坂道を上り続けてきて、それが2008年にピークに達しまして、その後、数年上下する年がありましたけども、2011年以降は完全な人口減少社会に入った。今の出生率、1.3とか1.4ぐらいが続きますと、2050年過ぎぐらいには1億を切って、さらに減り続けると。これ、まるでジェットコースターのような図になっていて、しかも私たちは人口ジェットコースターが落下する際に立っているようにも見えて、大変だというような議論もあるわけですけども、少なくとも言えることは、これまでの時代とはもう全く異なる局面に、これからの日本社会は入っていくと。従来とは全く異なる発想での対応が求められているということが言えるかと思います。
AIの研究の出発点に立てた問いが、2050年に向けて、日本は果たして持続化のサステナブルなのかと。今の人口減少という点も含めて、これが基本的な問いでした。少しマイナスな事実を幾つか並べますが、今、御覧いただいているのは、時々話題にもなる政府の借金の累積で、いろいろな国の中で、もう日本が突出して先進諸国の中である。これは政府の借金というと、他人事のように感じる方も多いわけですけど、要するに今、高齢化が進んで、社会保障はもう毎年、年金や介護、医療、120兆円を超える規模になっている。しかし、そのために必要な税金を上げるとかというと、多くの国民はノーということで、結局、その差額を全部、将来世代にツケ回ししていると。これは持続可能性という意味では非常に危ういのではないかと私は思っております。
それから、これは生活保護を受けている低所得者層の割合の変化です。これは、一番左が1960年ですが、ずっと減ってきていたわけですけど、95年を谷として、 V字曲線といいますか、要するに、1億総中流と言われたような構造が大きく変質してきているというのが現在の日本ということになるかと思います。
それから、これはある意味で根っこにあるテーマだと思うのですが、社会的孤立、ソーシャルアイソレーションということの国際比較、世界価値観調査、ワールドバリューサーベイという比較的有名な調査の一部ですが、残念ながら、これは日本が一番右にあって、社会的孤立度が先進諸国の中で今一番高い国に日本はなっている。ここで言う社会的孤立というのは、大きく言うと、家族、あるいは家族ないし集団を超えたつながりや支え合いの意識がどれぐらいあるかということで、そういった面での社会的孤立というものが非常に高くなっているのが日本ということになります。
そういうことを考えると、さっきからの話に戻りますが、2050年に向けて単純化していうと持続可能シナリオ、それから、あえて強い言葉を使っています。破局シナリオというのは、さっきからお話ししている、人口減少、財政破綻、格差拡大、これは悪いことばかり書いているわけですけど、しかし、今の日本の現状が続くと、こちらに行ってしまう蓋然性もかなり大きいのではないか。では、持続可能シナリオに持っていくには何が必要かというのを、AIを使って出せないかということで行ってきたのがこの研究ということになります。
私にとって幸いだったのが、日立京大ラボというのが2016年にできまして、ここはAIのエキスパートみたいな人が常時、キャンパスに常駐しているラボで、こちらの方々とこういった研究を始めました。4つの持続可能性、先ほどの人口の増加の持続可能性、財政・社会保障の持続可能性、地域の持続可能性、それから環境や資源の持続可能性に注目して、日本が2050年に向けて持続可能であるためには何がポイントとなるか。
出てきた結論から先に申しますと、私にとってもやや意外だったのですが、日本社会の未来にとって、東京一極集中に示されるような都市集中型か、地方分散型かというのが最も大きな分岐点である。また、人口や地域の持続可能性、あるいは健康幸福格差などの観点からは地方分散型が望ましいという結果が示されました。
どういうことをやったかというのをごく簡潔に触れますと、今、御覧いただいているような、現在、そして未来の日本社会にとって重要と思われる間、150ぐらいの要因を抽出しました。下に列挙している人口や、GDP、エネルギーなどからなります、因果連関モデルというのをつくりまして、こういった多くの要因がお互い影響を及ぼしながら、時間の流れとともに進化して、未来が枝分かれしていく。その2万とおりの未来、シミュレーションというのを出してみました。
これは少し分かりづらくて恐縮ですが、大きく6つのグループにそれが分かれていて、右下がさっきからお話ししています都市集中型、残りが地方分散型、これがまず、分かれて、さらに、地方分散型の中でも分岐が生じていくというようなイメージです。
これは、実際には動画になっているものですが、2042年時点のスナップショット、左下の赤いところが都市集中型、残りが地方分散型、これがどんどんさらに分かれていくというようなイメージです。
まだ話が分かりづらいかと思いますけども、出てきた結果を文章にしたものがこれですが、都市集中シナリオというのは、主に都市の企業が主導する技術革新によって人口の都市への一極集中が進行し、地方は衰退すると。出生率の低下、ここで出生率が出てくるのは、皆様御存じの方も多いかと思いますけど、47都道府県の中で、東京がある意味で群を抜いて出生率が低いと。ですから、これは以前から言われてきていることですが、東京に人が集まれば集まるほど、日本の平均の出生率が全体として下がって人口減少が加速するということがあります。
格差の拡大がさらに進行し、個人の健康寿命や幸福感を低下する一方で、ある意味で、東京独り勝ちというようなことで財政は持ち直す。また、全体としては、人口減少がどんどん進んでいくシナリオですので、必ずしも望ましいシナリオとは言えないのではないか。地方分散シナリオというのは、地方人口分散が起こる出生率が持ち直し、格差が縮小し、個人の健康寿命や幸福感も増大する。ただ、これはこれで維持していくには、また細心の注意、継続的な政策対応が必要になるという結果でした。
では、地方分散型に持っていくには、どういう要因が重要かというのも併せて、AIを使って出したのですが、環境関係、再生可能エネルギー、それからまちづくり、地域公共交通、コミュニティを支える文化や倫理とか資産、社会保障、こういった要因が上位に出ました。
手前みそになりますけど、これは2017年に公表して以降、多くの自治体や関係機関から問合せをいただきまして、これのローカルバージョンとか、その他のバージョンを行ってきました。長野県での試みとか、皆様聞かれたことはあるかも、里山資本主義というもので知られる岡山県真庭市のバージョンとか、文部科学省とも高等教育に関するシミュレーションを2018年に公表して、中央教育審議会の部会で報告させていただいたりもしています。いろいろな自治体と行ってきました。少し理屈っぽく言うとフォア・バック・キャスティング、最近バックキャストということがよく言われて、望ましい未来を設定して、そこに行くには何が必要かというバックキャストと言われますけど、当然、前提として、どういう未来があり得るのか、フォアキャスト。これと両方を考えることが重要かと思いますので、フォアバックキャストというような言い方もできるかと思います。
AIについては、最初に懐疑的な言い方もしましたが、いろいろな長所もあると思います。認知のゆがみやバイアスを是正するとか複雑な関係性を分析できると。ただ、これをやっていて、改めて痛感したことですが、私はサンドイッチ型と言ったりしているのですが、最初のモデルをつくるときも、それから、サンドイッチの真ん中の計算の部分はAIですけれども、最後の解釈とか、もちろんどのシナリオが望ましいかの選択とか価値判断、これはあくまで人間が行うわけで、AIが行っているのは、本当に間の計算の部分だけであって、その部分もまだまだブラッシュアップするものがあるということで、逆にこういう研究を通じて、AIが行うのは計算の部分だけで、未来をどういう要因が重要かというのを考えたり、どういう未来が望ましいか、どういう未来を構想するかというのを行うのは、まさに人間であるということが改めて痛感されたというのが率直な感想です。
コロナが起こって、ポストコロナでのバージョンというのも新たに行いました。これも割と面白い結果で、女性活躍ということも含めて、ここに包括的な意味の分散型としていますが、先ほど言いました分散型というのは、東京と地方の、言わば空間的な意味の分散がメインだったのですが、ここで出てきたのは、女性の活躍とかそういう男女の役割分担、それから住まい方、働き方、広くは生き方、分散型とでも言えるような多様性ということともつながると思いますが、そういった社会にしていくことが持続可能性を高めると、そういう結果が出たりしております。
これは、以上についての私の解釈ですが、さっき人口減少の話もしましたが、人口が増え続けた昭和というのは、一言で言えば、集団で一本の道を登る時代だったと思います。もう経済成長というのはゴールがはっきりしていて、集団でまさに一本の道、あまり多様性とかそういうこと、教育の面もそうだったと思いますが、よりも一本の道を集団で登ると。昭和のやり方でうまくいくと考えて、ジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われて、やり続けてうまくいかなかったのがまさに平成。令和というのは、文字どおり人口減少社会が本格化する時代で、山登りに例えますと、登りはゴールが1つだったわけですけど、山頂に至れば、言わば視界が360度開けると。それぞれの個人が自由度の高い形で多様な働き方や生き方をデザインして創造性を伸ばしていく。これが持続可能性にとっても、後で少し触れますが、ウェルビーイングとか、あるいは経済の活力、イノベーションというようなことにとってもプラスになると、こういう大きな方向性が浮かび上がっているのではないかと思ったりしております。
今、AIの話をしてきましたが、続きまして、未来を構想するに当ってのもう一つのアプローチとして、非常に長い時間軸で捉えていくということが重要かと思っております。これはイントロですが、御存じの方もいらっしゃるかと思いますが、最近、Big Historyということが、関心が高まっておりまして、デービッドクリスチャンという歴史学者が始めた試みで、それこそ138億年の宇宙の歴史から始まって、地球の誕生、生命の発生、人間の歴史という、もうまさに我々はどこから来てどこに向かうのかという問いに現在の視点で答えるような試み、こういったことへの関心が非常に高まっています。それだけ長い時間軸で考えないと、なかなか未来の展望が開けないような、そういう局面に私たちは生きているのではないかと思います。
ここからはBig Historyとは、またちょっと違う話になりますが、私の関心に、さっきの人口の話ともつながりますが、沿ったお話を少しさせていただければと思います。
今、御覧いただいているのは、世界人口の超長期推移ということで、大きく言うと、これはシンプルで、これまで人類に、人口が増えた時代と、それが定常化といいますか、成熟するサイクルが3回あったということです。これはそんな難しい話じゃなくて、最初はいわゆる狩猟採集という人口が増えて、ホモサピエンスがアフリカで生まれて定常化する。それから、2番目の、これは1万年前からの波がありますが、これは農業です。農耕、食糧生産、これがメソポタミア、その他で始まって人口が増えて、また定常化する。この定常化したのが、いわゆる世界史でいう中世と呼ばれる時代だったと思います。3回目が近代、もう少し絞れば工業化社会ということで、それが今、地球の限界にぶつかって、定常化しつつある。大きく言うと、私たちは人類の3回目の拡大成長から定常化、あるいは成熟化への移行期を生きようとしていると言えるかと思います。GDPを見ても、そういった似たようなトレンドが見てとれるということがあります。
そもそも、なぜこういう拡大成長と経常、成熟化が起こるのかということですけど、これは、結局はエネルギーです。栄養分、有機化合物を作ることができるのは、植物の光合成と言われる営みだけですので、狩猟採集というのは植物、あるいはそれを食べた動物を食べて暮らしている。そういう植物の光合成を言わば管理するといいますか、これがまさに食料生産、農耕、農業ということで、それが第2のサイクル。工業化、第3のサイクル、これはよく化石燃料と言われますけれども、まさに石油や石炭です。化石燃料とは一体何かというと、つまるところ、それは生物の死骸が何億年もかかって蓄積してできたものですから、何億年もかかってできたものを、私たち人間は今、もう二、三百年で使い尽くそうとしていると。気候変動とか地球の限界という問題が生じるのも、ある意味では当然という状況があるかと思います。
ここで、今日の私の割と大事な強調点になるのですが、お話し差し上げますと、興味深いことに、拡大成長から定常化に至る、そのときに人間の意識に非常に大きな変化が生じると。今、御覧いただいているような心のビッグバン、マインズビッグバンとか文化のビッグバンとか言われる現象、これは5万年前と一般的に言われていますが、分かりやすいイメージとしては、ラスコーの洞窟壁画のような、あのような絵画とか装飾品、アートと言えるようなものが一気に起こったのがこの時代で、日本に当てはめると、時代は少し下りますが縄文時代、これ今、御覧いただいているのは縄文土器で、これは、実は私がもう好きで、しょっちゅう出かけている場所、八ヶ岳の南麓あたりの出たものですが、これは本当、もう現代アートといってもおかしくないような迫力のあるもので、真ん中のものは皆様、御存じでしょうか。70年の万博のときの太陽の塔のモデルになったんです。岡本太郎さんが、これからインスピレーションを受けたもので、私、これ初めて見たときびっくりしましたけれども、なぜこの話をしたかというと、これはまさに狩猟採集で、まず人口や物質的な拡大があった後で、生産が増えた後で、何らかの意味で、それがある種の環境などの限界に達して、人間はここにも少し書いていますが、物質的な生産を量的に拡大するという方向から、そうではない方向、しかも単に我慢するというのじゃなくて、より高次のクリエィティブな喜びをつくることで生存の道を見つけていったのではないか。それが心のビッグバン、最初の拡大成長から成熟への移行です。
それから、農耕文明の第2のサイクルでも同じようなことが起こったのではないかということが想像されるのですが、まさにそれが、これは枢軸時代、御存じの方もいらっしゃるかと思いますが、ドイツの哲学者、ヤスパースが枢軸時代と、紀元前5世紀ぐらいに、なぜか地球上の各地で、現在につながるような普遍的な思想が生まれていると。インドの仏教、中国では孔子の儒教や老荘思想、それから、まさにギリシャ哲学、中東ではキリスト教やイスラム教の源流となった旧約思想、ユダヤ思想が生まれているんです。これも本当に興味深いということで、それぞれなぜか同時多発的に同じ頃に起きて、なぜそういうことがほぼ同じ時期に生じたのか。
最近、興味深いことに、最近の環境史、environmental historyと呼ばれる研究の中で、実はこの時代、農耕文明が、まさに資源や環境の限界にぶつかろうとしていた。森林の枯渇や土壌の侵食が進んでいたんです。だから先ほどと構造は同じで、まさに物質的生産の量的拡大から文化的、精神的発展への、より高次の価値を見いだして、生存への道を見いだしていたのではないかと。言葉で言うと、人類は資源、環境の有限性に直面するたびに、資源消費や環境負荷の増大を伴わないような新たな創造と生存の道、ポジティブな価値を見いだしていった。
ですから、話が大きくて恐縮ですけど、私たちはさっきもお話ししましたように、3回目の拡大成長からサステナビリティ、定常化への移行期を生きようとしている。そうすると、当然、さっきの心のビッグバンとか枢軸時代に匹敵するような大きな意識や価値観の変化が生じると考えられるほうが自然だろうと。
これは、話し出すと大きなテーマになりますけど、私自身は地球倫理ということを考えてまいりまして、地球環境の有限性を認識し、地球上の各地域の風土や文化の多様性を理解しつつ、個人を超えてコミュニティ、自然、生命とつながる。このように言うと、いささか浮世離れしたといいますか、雲をつかむような話をしているように思われるかもしれませんが、私は必ずしもそうではないと思っていまして、Z世代という言葉もありますが、最近の学生とか若い世代の一部といえば一部ですが、そういった方向への萌芽が見られるのではないか。
今、御覧いただいているのは、これ左の写真はソーラーシェアリングといいまして、田んぼや畑の上にこういう特殊な形の太陽光パネルを取りつけて、農業再生と再生可能エネルギーの一石二鳥をするという試み。これは、私が以前、千葉大にいたときの卒業生が千葉エコエネルギーという会社をつくって、10年ぐらいからこういう事業を今やっていて、だんだん農水省あたりも評価するようになって広がりつつある。そういったソーシャル社会貢献企業を立ち上げたような学生とか、あるいは、別の学生は、自分がやりたいのは自己実現ではなく世界実現だというようなことを言っている学生がいたりとか、もちろん全体から見れば、ごく僅かだと思いますけれども、ある意味で、先ほどの地球倫理というものに通じるような意識が芽生えつつあるのではないかということを思ったりいたしました。
前半の終わりに、これは委員の先生からいただいていたコメントに関連することですが、いや、第3の定常化と私は言いましたが、次のフェーズがあるのではないかという疑問というか、問いが当然出てくると思います。1つの典型は、こういうカーツワイルさんのシンギュラリティ論とか、そういうのがあります。私の視点から言うと、そういう第4の拡大、成長、大きく言うと、3つの類型に分けられるのではないか。1つはエネルギー革命というか、人工光合成といったもの、それからSFなどでよく出てくる、地球を脱出して宇宙に進出していくという話。それから、さっきのシンギュラリティ、これらはそれぞれ追求するのも一定あり得るかとは思うのですが、私自身も、これは突き詰めれば従来の近代社会の延長線上にすぎないのではないか。むしろ、さっきからお話ししているような地球の有限性を踏まえた上での新たな豊かさ、持続可能な福祉社会ということを考えていくことが今、問われているのではないかと思います。

それでは、後半のお話を続けさせていただきます。
人口減少社会の話、最初のほうでも触れましたが、日本に即した重要と思われる点をお話しさせていただければと思います。これは先ほど御覧いただいた図ですが、非常に新しい局面ということで、こういった時代に、そもそも何をもって豊かな社会と、望ましい社会と言えるのかと、そういう議論が活発になっていると思います。皆さんも御案内のとおりかと思いますが、例えばスティグリッツやセンといったノーベル経済学賞を受賞したような研究者が、GDPでは十分な豊かさは測れないと、それに代わる指標と、こういった議論が非常に活発になっているわけですし、これを御存じない方が多いかなとも思いますが、私自身が関わりのある話で、日本の自治体でいろいろな新しい試みが進んでおりまして、左のはGAH、これは何かといいますと、東京都の荒川区が2005年頃から提唱しているもので、これはGross Arakawa Happinessというんですが、もちろんブータンのJNHに影響を受けたものですけど、単に荒川区はこういう言葉を提唱するだけではなくて、6領域46項目にわたる幸福度指標というのをつくりまして、地域の豊かさを新しい視点で考えていくと。ちなみに、荒川区がその関係で最初に取り組んだのが子供の貧困というテーマでした。また、そういった理念に共鳴した、今、八十幾つの自治体、市町村が幸せのリーグ、これを私、顧問というのをさせていただいていますけど、そういう同じような政策展開を進めています。豊かさというのをローカルなレベルから考えていこうという動きが非常に活発になっていると思います。
これは確認的なことで、幸福の経済学と呼ばれるような分野がいろいろ展開しているわけで、これは横軸が経済発展の度合いで、いろいろな国を比較したものですけど、要するに経済発展の初期段階では経済が大きくなると生活満足度、ほぼ幸福度も比例的に高まっていたのが、ある程度、経済成長が達成された後は、その両者の関係がランダムになってくる。何が幸福にとって重要かというと、これは私が単純化して示したものですけど、コミュニティ、人との関係性、それから格差や分配の問題、それから環境、それから精神的なよりどころや充足といった、これまでよりも少し広い視点で豊かな社会の在り方、社会像ということを考えていくことが重要になっているかと思います。
これは多少話題を世俗的にしてしまうようなことなんですが、1975年、私が中学生ぐらいだったときに、この歌が大ヒットいたしました。これは、私ぐらいの前後の世代の方は全く説明不要なんですが、学生に話しても全く通じない話題で、世代間のギャップを感じる話題の1つですけど、なぜこの話を今したかといいますと、さっきの人口減少とかの話とつながっているわけで、すなわち人口が増え続けた時代というのは、とりもなおさず、よくも悪くも、全てが東京に向かって進んでいったと。言い換えると、集中、あるいは集権がどんどん強まっていったのが人口増加の時代であった。それとパラレルな現象だったのではないか。だとすれば、これからの時代とはまさに逆の局面なので、木綿のハンカチーフ的な価値観とは逆の方向が進んでいくと考えるのがむしろ自然ではないかと。
人口減少社会への基本的視点、これは私が身近で感じるのは、ここに若い世代のローカル志向と書いています。これ、地域への着陸の時代とも書いていますけど、ここ10年ぐらい、ローカルとか地域とか地元といったことに関心を向ける学生が、もちろん全部が全部じゃなくて、全体から見れば一部ですけども、非常に増えているように感じています。例えば、静岡のある町出身の学生が、自分が生まれ育った町を世界一住みやすい町にするのが自分のテーマだとか、新潟出身の別の学生が地元の農業を活性化することが一番、関心事だとか、あるいは、もともとグローバルなテーマに関心があって海外に留学していたような学生が、海外に出てみて、実は日本の中にこそ一番課題があることに気がつきましたということで、地元や地域にUターン、Iターンとか、さっきも言いましたが、もちろん全部が全部ではない、全体から見れば一部ですけど、こういう学生が非常に目に留まるように、ここ10年ぐらいなっていると感じています。
これは一例ですが、ふるさと回帰フェアという、毎年9月頃に有楽町あたりで、東京で行われているフェアで、自治体がUターン、Iターン相談のブースを出すようなものですが、これ、2019年のもので、テーマは「なぜ、いま若者が地方をめざすのか」、私は少しこれに関わりがありましたので、事務局の方に伺いますと、以前これに来るのは中高年の方がもう大半を占めていた。それが、ここ数年は、むしろ20代、30代の若者が中心になっていますと、時代の変化を感じますということを言われていて、これも先ほどからの話につながるものかと思います。
統計的に見ても、これは上のほうが3大都市圏に移ってきた人々、下が言わば、地方から大都市圏にごっそり抜けていった人々の推移ですけども、何といっても大きかったのは、地方から大都市圏に人が移動したのは、まさに高度成長期、1960年代で第1の波。第2波がバブルの頃、第3の波が今に続く波ですけども、圧倒的に第1の波が大きかったわけで、それに比べれば、最近の波ははるかに小さいですし、この傾向もまたさらに変わりつつありますし、東京の流入が多いといっても、よくよくデータを見ると、実は東京への流入はそれほど増えていなくて、横ばいかむしろ微減ぐらいで、流出が東京圏は大幅に減っているんです。これはなぜかといいますと、高齢化が進んでいて、高度成長期に首都圏に移ってきた当時の若者が高齢化していると、そういうことがあるわけで、かなり局面が変わりつつあるということがあるかと思います。
そういったことを踏まえて、残る時間、幾つか課題を、駆け足でお話をさせていただければと思います。
1つは若者支援と人生前半の社会保障ということで、人生前半の社会保障というのは、実は2009年頃でしたか、教育再生懇談会というのがあって、それの私、メンバーの一員にならせていただいたことがありまして、そのときに割と、いろいろお話しさせていたことで、これが非常にこれからの時代、重要なのではないかということであります。これは持続可能性というテーマともつながるわけで、持続可能性というコンセプトを最初に打ち出したとされる、ブルントラント委員会、ブルントラントというのはノルウェーの女性の首相の方のお名前ですが、ここで持続可能性というのは、要するに将来世代のニーズを考えることだということで、まさに将来世代のこれからの世代を考えることが持続可能性ということの一番中心的な意味として定義されている。
一方で、人口減少、少子化というのがあるわけで、先進国を見ると、大きく2つグループがあります。全体的には出生率は下がっているわけですけど、比較的高いのがアメリカ、イギリスや北欧、北欧も一部バリエーションがありますが、それからフランス、それから概して低いのが日本と南ヨーロッパ、それからドイツ。ドイツは最近高くなっていますけど、そういう状況があるわけです。これは非常に重要なテーマで、それに関して、十分認知されていないと思いますのが、なぜ少子化が生じているかということで、実は結婚したカップルの子供の数はほとんど減っていなくて1.9幾つぐらいで、未婚化、晩婚化が少子化の大きな背景となっていると。ですから、言うならば、ハードルは結婚の前にある。つまり今の若い世代の生活や雇用が非常に不安定になっている、ここが大きなポイントではないかと思います。
関連の資料も入れておりますが、あと、これも誤解されやすい点なので入れていますが、実は国際比較で見ると、近年では女性の就業率が高い国のほうがむしろ出生率が高い。ですから、女性の社会進出が進むから出生率が下がるというのは非常に事実とは合わない、むしろ女性の就業率の高まりに応じた、いろいろな政策展開を図っていくことが出生率の改善にも、要するに子育てや仕事などを両立することができる社会ということが重要になると思いますで、残念ながら、私がさっき人生前半の社会保障といった子供若者向けの社会保障が、もう国際的に見ても日本は非常に低いというのがありますし、これはもう、この検討会では釈迦に説法になりますけども、いわゆる公的教育支出も最も低いというゆゆしき状況になっているかと思います。
ですから、教育を含めた、これは委員の先生のコメントにもありましたけども、まさに私なんかは、教育が人生前半の社会保障のある意味で中核にあるものだと思っていまして、これを強化していくことが、いろいろな意味で、さっき話した、これは少子化の関係では年収300万の分岐と書いていますのは20代30代の若者の年収が300万以上か以下で、結婚率に大きな違いがあると、こういう以前の内閣府の調査があったり、それから、これからの社会ということで何より重要かと思うのは、人生において、個人が共通のスタートラインに立てる社会。残念ながら、最近、日本では親ガチャとかという言葉が言われるようになったり、これが崩れていっているということは、若い世代も感じているところで、共通のスタートラインの保障ということが、一方で公平性とか平等に資すると同時に、経済活力とかイノベーションとか、そういった点から見ても、プラスになるという視点が大事ではないかと思います。
私は例えば、高所得高齢者に年金が相当いっているような面も含めて、世代間配分、公平の在り方をしっかり議論していくことが、なかなかこの議論を正面から論じられない面があると思いますけど、世代間、それから世代内の公平の在り方ということを議論していくことが重要ではないかと思います。
以上のような点を考えていくと、だんだんまとめに進んでいきたいと思いますけど、そもそもどういう社会をつくっていくのが望ましいのかという根本的なテーマになっていくと思います。私自身は以前から、持続可能な福祉社会というのが1つの社会像として考えられるのではないかという議論を行ってきました。ポイントは、まさに持続可能性という環境のテーマと福祉、分配のテーマを、広い意味での福祉教育も関わってくると思いますが、平等公平、これを合わせて総合的に考えていくということです。
残念ながら、これはジニ係数、格差の度合いを示す指標で、これ大きいほど格差が大きいわけですけど、左のほうは格差が小さい。ジニ係数が小さい、北欧とか大陸ヨーロッパです。それから、アングロサクソンとか南ヨーロッパ、それからアメリカとかが格差は非常に大きいわけで、日本も以前は真ん中あたりだったのが、大陸ヨーロッパ並みだったのが、90年代あたりからじりじりと右のほうに来て、今はかなり格差が高いグループになってしまっていると。
さらに、これが私は興味深い点だと思っているのですが、ジニ係数を縦軸にとって、ですから、上のほうが格差の大きい国で、下のほうが格差は小さい。だから、横軸は環境です。EPI、環境パフォーマンス指数というイェール大学のほうで開発された環境に関する総合指数、CO2排出とか大気汚染とか自然保護とか、そういった環境の総合パフォーマンスですが、これは右のほうがよくて左のほうがよくないのですが、つまり縦軸が福祉、平等の軸で、横軸が環境の軸ですけども、興味深いことに、ある程度、両者が相関していると。格差が大きい国は概して環境のパフォーマンスもよくなくて、右下の格差が小さい国は環境パフォーマンスが高いと。ドイツや以北のヨーロッパが大体ここに該当します。残念ながらアメリカや日本は左上に近くて、右下のグループ、この社会像が格差も小さくて、環境パフォーマンスも高い。これが持続可能な福祉社会、先ほど言いましたものに近いのではないか。
言い換えますと、環境の持続可能性、それから福祉の公平性、それからもちろん経済も重要ですから、効率性、持続可能性と公平性、効率性、この3者がバランスの取れたような社会、学生には半分冗談めかして、これを明らかにしたらノーベル賞ものだと言ったりすることもあるのですが、環境と福祉と経済が調和した社会、これが1つの望ましい社会像と言えるのではないかと。
少し別の角度から見ますと、これは少し分かりづらいかもしれないのですが、横軸が、左が大きな政府(高福祉・高負担)、右が小さな政府(低福祉・低負担)、分配の軸で、縦軸の上が成長志向で、下が環境(持続可能性)志向という環境の軸ですけれども、以前は、左側と社会民主主義ケインズ政策、保守主義・市場志向、あるいは新自由主義的なというか、そういう大きな政府と小さな政府の対立が戦後ずっとあったわけですけど、実は、両者は成長志向ということでは共通していたと。経済成長が目的だという点では共通していた。それがだんだん、縦の軸が浮かび上がってきて、限りない経済成長というよりは、むしろ環境とか持続可能性に軸足を置いた社会が望ましいのではないか。
先ほどのそれこそ左と右の対立の軸が、だんだんじりじりと下のほうに移って、そういう中で浮かび上がってくるのが持続可能な福祉社会、そういう社会と。単純な大きな政府でも、単純な小さな政府でもない、かつ、環境や持続可能性に軸足を置いた社会図ということになるかと思います。これはさっきの横にしたようなものですが、そういう中で、政府と市場の二元論ではなくて、コミュニティということが非常に新しい価値として浮かび上がってきている状況があると思います。
一般化して言うと、政府再分配です。狭い意味といえば狭いですが、パブリックの部分と、それから市場経済、交換、効率性の部分、それからコミュニティ、互酬性、相互扶助です。これはプランニーという人が再分配と交換、互酬性、この3つが人間の基本的な経済合意だという話を受けたものですけど、政府の再分配、市場の交換、コミュニティの互酬性、言い換えると公平性と効率性の、さっきの持続可能性、この3者のバランスをどういうふうに考えていくかというのが基本的な問いになるかと思います。
私自身は日本の場合、公の部分、政府の役割、それからコミュニティの部分、共の部分、これはいずれも弱いといいますか、不十分だと思っていまして、ここら辺が課題、充実させていくことが課題ではないかと思っています。
関連の資料も入れていますが、時間の関係で省きまして、最後にまとめで、グローバル定常型社会ということを触れさせていただければと思います。御存じの方も結構いらっしゃるかと思いますけども、高齢化が日本はトップですが、もうこれからは中国やアジアも含めて、グローバルエイジング、高齢化が世界規模で進んでいくと。また、人口も、つい先日、中国の人口が昨年、減少に転じたという報道もありました。これは以前、去年から国連も言っていたことで、アジアを含めて、それから東アジアなんかは、日本以上に韓国を含めて出生率が低い国が多いわけで、新しい局面に入っていって、世界人口がいよいよ21世紀後半にピークに達すると。国連の昨年の報告書でもこれが示されていますし、しかも、これから増えるのは、もうほとんど大半がアフリカの人口増で、先進諸国やアジアはもう定常期に移行しつつあると。
その結果、2100年の国別の人口ランキングが、インドが1位、中国が2位というのは以前から言われていましたけども、これ興味深いと思うのが、アフリカが上位10カ国のうち5つを占めていて、大きく言うと、今日は人類史の話もしましたけど、アフリカでホモサピエンスが生まれて、資本主義がイギリスで生まれて、それが全世界に広がっていって、アフリカまで広がるかどうかですが、ある種の歴史の大きな局面に差しかかっているということが言えるかと思います。
人口学者のルッツという方がこういう言い方をしました。20世紀が人口増加の世紀、4倍ぐらい近く人口が増えたわけですが、だとすれば、21世紀は世界人口の増加の終えんと人口高齢化の世紀となるだろうと、まさにそのとおりだと思います。
私自身は以前からグローバル定常型社会ということを言ってきたのですが、21世紀半ばに向けて、世界は高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するようなある定常点に向かいつつあるし、また、そうならなければ持続可能ではないと。
これが最後のスライドになります。今日、お話ししてまいりましたように、日本は、以前はジャパン・アズ・ナンバーワンというと、ハイテクとか経済ということが言われたわけです。今、日本は人口減少、高齢社会、よくも悪くもといいますか、フロントランナー。そういった中で、それ以外の側面も含めて、人類史の話もしましたけど、限りない拡大成長から持続可能性に軸足を置いた成熟社会への移行ということが基本的テーマだと思っています。AIのところでも触れましたように、昭和的といいますか、集団で一本の道を登るような価値観、行動様式からの転換が最大の課題だと、私なんかは思っています。それを山頂に至れば視界は360度という話をしましたように、個人が好きなことを追求し、伸ばしていくことが持続可能性やウェルビーイング、経済活力にもつながると思われますし、同時に大事なのは、そういうことができるような共通のスタートラインということ、人生前半の社会保障の重要性ということを申しましたが、そのための社会システム制度の整備、政策が非常に重要かと思います。
そういったことを通じて、持続可能な福祉社会と申し上げましたような環境と経済と、福祉と経済が調和したような社会を先導的に実現していくことが課題ではないかと思います。
以上、本当に雑駁な話となり恐縮で、また、このような参加の形になり本当に恐縮な面がありますけれども、以上で私のお話とさせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。
以上、広井先生の御講演ということでありましたが、今、お話を伺いまして、未来予測として、新学習指導要領ですとか、あるいは令和の答申が描いたこれからの社会と多分に重なる部分があるとも聞かせていただきました。
また、未来社会をどう捉え、どうデザインしていくかということにつきまして、選択する分岐点が、ここ数年内に訪れようとしているという、とても示唆深い、また、大変問題提起なさった、そういうこととしてお話があったのかなと聞かせていただきました。
さらに、私ども、検討の会議はキーワードの1つとして、御承知のとおり、学習指導要領ということがあるわけでありますけども、学習指導要領を検討するというと、とかく対象が限定され、あるいは視点というのでしょうか、視野というのも限定されがちなところというのがあるわけですけども、それに対して、より広い視野で、また、多面的、多角的に捉える、そういう提起というのでしょうか、ということも全体として、話の中を通してあったかなと聞かせていただきました。
もう少し申し上げさせていただきますと、その中で、例えば超長期的な歴史的把握というのでしょうか、ということについてなんですけれども、人類のこういう長い歴史というか人類史、そういう捉え方等々からしたときに、答申では、あるいは、学習指導要領では、次のこれから目指すべき1つの社会の方向として、デジタル社会ということ、それに向けてということを提起しているわけですし、また、そこに向けて、着々と様々な手を打ちというのが、今の私どもだと認識しておりますけども、私は基本的に、その方向性とか、そういうことであるのかなと受け止めておりますけども、超長期の歴史的把握という、この視座というか、視点ということからすると、向かっている社会のその先ということも視野に収めながら向かっていく社会ということの有り様を捉えていく、そういうものの捉え方というか、考え方ということを私どもに示唆する、提起している、そういうこととして御提案があったかなと思いました。
繰り返しますと、言うならば、目指すべきデジタル社会ということですけれども、デジタル社会が、どういう人類の流れの中で、歴史の積み重ねの中で、どういう方向として、その先があるのかどうなのか、こういうことについて、私どもに議論の1つのきっかけ、提起というのも御提案の中にあったかなと聞かせていただきました。
また、この国の問題としましては、人口減少、あるいは東京を中心とした人口集中ということについてのお話もあったかと思います。思うところ、この国の歴史につきましては、それこそ、およそ400年前に江戸時代が始まると、そういうこと以来、東京に、この国の人々が集まるという、そういうことで、この国の歴史を築いてきたわけですし、明治の時代、司馬遼太郎は、たしか東京をこの国の配電盤という例えで捉え、そして、それについて論じる、そんな論文も読ませていただいたということもあるかと思うんですけれども、その後、戦後は御承知のように、日本の持てる資源を東京に集中させて、そしてこの国を引き上げていくと、こういう手法を取ってきたわけですけれども、そのことについての、我々は、今、何か1つの山を越えて、ある限界に達してきたというようなことを広く認識するわけですけども、その先の在り方として提起されたものが、地方分散型社会と、こういうことで提起があったわけですけれども、そのところをどう我々として捉えていったらいいのか、受け止めていったらいいのか、この提起についての私どもに対して問いかけられているところもまたあったかなと思うわけですけれども、地方集中ということについて、教育の在り方ということと非常に絡む、それではないかと思っております。
そのことと、どう絡んでいくのかどうなのかということと、それからもう一つは、地方分権型社会と、これ自体をどう捉えていくのかどうなのかということですけども、里山資本主義、岡山県、あるいは広島県、あの実態を見ていった場合には、実はその圏域の中において分散と集中というか、そういうテーマがあるわけで、もう少し申し上げるならば、県庁集中という、それぞれの都道府県内で起こっている、それをどう捉えていくのか、どうなのかということも、また1つのテーマとしてあるのではないかと思っておりますけども、それに関わって、それぞれの学校の在り方、教育の在り方ということと絡めながら捉えていくと、そういうことのきっかけを広井先生のお話の中にはあったかなと受け止めさせていただいております。
いずれにしましても、新たな新しい視点、あるいは御示唆をいただき、大変刺激となったことについて、御礼を申し上げたいと思います。
さて、ここから、今の広井先生のお話等々を踏まえて、意見交換の時間としたいと思います。
本日いただきました御意見、御質問は、広井先生に後ほど共有させていただき、御質問に関しては可能な範囲で回答をいただき、後日共有させていただきたいと考えております。ということで、委員の皆様にはお待たせしたかと思いますけども、ただいまの広井先生の御講演につきましての御意見、御質問等々、お願いできればと思います。
進め方はいつものとおりということですので、どなたからでも結構ですので、発言の御意思がありましたら、挙手をいただき、私のほうから指名させていただきますので、御発言をお願いいたします。挙手のボタンということでも結構ですし、画面に先生方の姿、拝見しておりますので、何らかの形で意思表示していただければということで、どうぞよろしく、お願いをいたします。
それでは、今、高橋先生、手を挙げられていますので、高瀬先生、よろしくお願いいたします。
【高橋委員】 すいません、前座でお話というか、感想を申し上げさせていただきたいと思います。
私も、このお話を伺いまして、先生の本も拝見しまして、大変刺激を受けました。分散型と集中型ということのお話が非常に何回も出てきたかと思います。私、考えてみれば、学校の建物そのものは日本中に分散配置されていますので、そういった意味では、空間面での分散は実現しているのかなと。広井先生の御提案にもあった包括的な、いろいろな意味での分散というところに、やや、いろいろな誤解や実現していない部分があるのかなと。学習指導要領を一見すると、集中させているとか、集中させる道具のようには一見すると見えるんですけども、一方で、指導要領の中ではカリキュラム・マネジメントとか、ああいうことで地域のいろいろな特性や子供の実態に応じて分散的に考えなさいという部分もあると思いますので、先生のおっしゃるとおりの社会を目指す、そして指導要領を目指すとしたら、もう少し、こういう包括的な面について、これは多分実運用の面だと思いますけど、そういったことを考えていくのかなと思いました。これが1つ目です。
もう一つは、先生、説明を飛ばされたのかもしれませんけど、68枚目の社会的セーフティーネットの構造と進化という部分について、私はもう少し伺いたいなと思いました。今、求められる新たなセーフティーネットというところで、要は人生前半の社会保障、スタートラインの公平が大事だというお話だったと思いますけども、この部分は、学校が相当することになるのか、そういうような期待があるのか、セーフティーネットみたいな位置づけとしての学校像か、あるいは、学校というのはここじゃなくて、もっと別のポジティブな部分に、もう少し別の部分で、セーフティーネットと別の流れなのか、一緒に考えていったほうがいいのかなんていうところの広井先生のお話を、もう少し伺いたいなと思っております。これが2つ目です。
それと、3つ目に、コンピューターの世界も、非常に分散処理ができるようになってきていて、コンピューターネットワーク、クラウド、今日のテレビ会議システムによる会議も含めて、皆さん分散して動かれているというのが1つ、キーワードだと思っております。
授業のつくり方そのものも、非常に小さい話ですけども、コンピューターを今のGIGAスクール構想の1人1台コンピューターを、教師主導のいわゆる集中管理システムとして活用しようとすると、コンピューターは不要ではないか、そんなに役に立たないよねという話題になりがちだと僕は思います。
そのときに分散処理を目指すという考え方はあるのですが、もともともっと根本的に子供一人一人にしっかり力をつけるんだと考えていくと、自然と分散処理、分散作業というか分散指導をせざるを得なくて、その際には、情報が爆発的に教室内で増えるわけで、単線型の授業であれば1だとして、それぞれの子供に合わせて、35人いれば35通り、非常に分散処理というのは情報の負荷が強いですから、やはり高性能なコンピューターやネットワークが生まれつつある今ならやれるということで、授業のほうも分散化、一人一人を大切にしていくみたいな、僕は流れがあるのかなと思っています。この辺り、せっかく分散処理ができるような道具が教室内に入っているのに、旧来の発想のままだというところはもったいないので、この辺り、大きな歴史の流れから小さな教室の出来事まで、僕はつなげて考えると今のように思いました。
もう一つだけ申し上げると、4点目になるんですけども、やはり途中で御紹介いただいたTEDの動画のほうだったのか、広井先生のお話だったか、もう少しはっきり調べなきゃいけないんですけども、いずれにしても、2人とも人類史みたいなものを振り返ってみたときに、どんどん、どんどん情報量が増えていっているということをお話しいただいたと思います。つまり人類の知というのは、どんどん、どんどん広がっているんだということ、これをそのまま、どんどん指導要領に記述していけば、当然どんどん、どんどん分厚くなるしかないわけですから、ここをどう捉えるかということだと僕は思っています。
その際に、僕はコンピテンシーベースという考え方が結構、意外と魔法の考え方で、要はできるということを、行動みたいなことをしっかりこう考えていって、コンテンツというのは、ある意味、いろいろな解釈があると思いますけど、事例のように取り扱えるかどうかというのが、僕は非常に大きいなと思っています。
よくあることで、一面的な見方かもしれませんけど、例えば文部科学省がどんどん、どんどん仕事を増やすので現場がパンクしそうだとか、どんどん、どんどん指導要領の内容が増えてパンクしそうだ、現場をどうにかしてほしいと。僕はそのとおりだと思うんですけれども、そのとおりというか、コンテンツ的に捉えれば、そのとおりだと思うんですけども、今の人類史みたいな話でいけば減るわけはないし、増える一方なんだと考えたときに、我々も増えることを前提にいろいろなことを取り組んでいくと、コンピテンシーベースの発想が必要だろうなと思います。そのため、例えば、苦手克服という考え方でいれば、試験の範囲や勉強する範囲が決められているうちは苦手の部分を克服していく考え方が僕はすごく有効だと思いますけども、どんどん知が広がっていく、知識が広まっていく、経験が広がっていくという世の中で考えていくならば、最後に広井先生がおっしゃった、得意なことを伸ばしていくと、そういう方向にならざるを得ないのではないのか、なんていうふうに思って、我々のマインドセットも含めて変更を求められているのだなと感じた次第です。
すいません、長くなりまして、以上でございます。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。今の御発言の中に、大きな歴史の流れということと、それを小さな教室までつないでいくと、そういう御発言も今の中にあったと思いますけども、今日のお話等々をつなげていただく、また、話として聞かせていただく、受け止めさせていただきました。どうもありがとうございました。
続きまして、いかがでしょうか。石井先生、手を挙げられていますので、石井先生、その後、市川先生という順にお願いしたいと思います。まず、石井先生、お願いいたします。
【石井委員】 広井先生の議論というのは、定常化社会論は私自身もかなり考えさせられる考え方で、ずっと別で考えてきたところがあるわけですけども、一つ今回の検討会との関係で言いますと、結局、社会像を描くときのキーコンセプトをどうするのかということが多分ポイントになってくると思うんですよね。現行の学習指導要領は、知識基盤社会というキーワードに導かれたところがあると思います。それで、令和の日本型学校教育以降はSociety5.0というキーワードが出てきているわけですよね。
基本的に、知識基盤社会とSociety5.0というのは、根っこのところは同じところがあるわけですけれども、Society5.0といったものをどのように捉えていくのかというのが、今回、広井先生の大きな社会の分岐点として、都市集中化、地方分散化という分岐点があるわけですが、その中で、どのように考えていけばいいのかということが問われているのかなと思います。
もう一つ言えば、実は広井先生の理論というのは、例えば教育もそうなのですが、社会を構想するということを計算して、特に例えば教育を考えたときに、経済政策的に考えるのか、社会政策的に考えるのかということで大分文脈が違ってくると思うんですよね。だから経済政策的に考えると、もちろん両方は、両者関連するのですけれども、むしろ昨今の経済政策的に言えば、社会政策を組み込まないとうまくいかないということもあるわけですけど、しかし、ざっくりと言えば、経済政策といえば成長というのがキーワードになってきますし、一方、社会保障、社会政策を見れば分配の問題、この辺が大事になってくるのかなと思います。
ですから、その辺り、教育といったものが、個別最適とか多様化ということとか、あるいはウェルビーイングということの解釈にもつながるのですが、成長のための人材育成という、そういう方向性を強く求めるのか、その辺の市民としての社会参加とか分配の問題とか、そういったところに重きを置くのかによって、大分文脈が違ってくるのだろうなという気がします。
かなり都市集中か地方分散かということも、かなり社会政策的な観点から捉えられているのだろうなと思うわけですけども、そのときにどうなんでしょうか、それこそ個別最適とかDX、あるいは多様化、多様性といったカテゴリーも、そういった言葉も都市集中に向けた個別最適なのか、あるいは地方分散に向けた個別最適なのかということで、恐らくそれで捉え方も大分違ってくるのではないかなと思います。
だから、都市集中に向けてということでいうと、かなりスマート化していて加速化していくという傾向が多分強くなるという気がするんです、個別最適というところで。しかし、ローカルに、地方分散型ということでいうと、よりローカルにという、そういう方向性が強くなるのではないかなと思います。ただ、ローカルに自分といったものとか、自分の足元とか土着性みたいなものをローカルに見詰め直した結果として、それぞれの個性といったものが生まれてくるというんですか、だから、その辺の社会像によって、個別最適とか多様化といったものの捉え方も大分変わってくるんだろうと思います。
ですから、広井先生にもお伺いしてみたいのは、現在のSociety5.0というのをどのようなカテゴリーとして捉えて、社会像として捉えていけるのかなと。だから、その中において、経済政策的な部分と社会政策的な部分ということの多分、力点の違いがあると思うんですけども、その辺り、Society5.0という言葉と定常化社会ということの関係が、社会像として矛盾する部分があるのかどうか、あるいは関連するところがあるのかどうかということは、お伺いしたいなという気がします。
と申しますのも、例えば、今回、振り返ると、特に教育というのは、これは人類前半の社会保障の中心になってくると思うんですけども、そこで大事になってくるのは公共性なんだと思います。ですから、公正性であるとか公平性といったものが繰り返し強調されたと思います。ですので、その場合に、例えば、イコーリティーからエクイティーへというので、平等から公正ということを言われるんですけども、前もお伝えしましたが、公正というのは、これは、よりしんどい人たちに対する傾斜配分というか手厚さ、その分配の問題が核心なんです。だから、持てるものがどんどん自由にという、そういう意味合いではないというあたりが、この辺が日本においては、どうも分配のニュアンスというのが公正という、脱平等という、そういう意味が強過ぎて、逆に分配の問題がすっ飛んでしまっているんじゃないかなという気はします。
だから分配ということを考えるのであれば、これも広井先生にお尋ねしてみたいのは、それこそ個人が好きなことを追求し、伸ばしていく。最後のほう、おっしゃったと思うんですが、これは社会全体としてそういう、あなたは一体何をしたいのという問いが、学校とかだけじゃなくて社会全体でもっと生まれてくればいいんだろうなということ、自分の強みを見つけて、それを生かしていくという、そういうキャリアがもっと尊重される社会をと、その社会の問題としてあると思うんですけども、逆に教育というときに、公教育、義務教育とかの段階において、何を大事にするのかというあたりのときに、もう一貫して個人の何をしたいのということは大事だと思うんですが、一方で、共通のスタートライン、ここを保障していくという部分を大事にするというメッセージがあるのかなと思うんですけど、この辺り、教育、特に教育もいろいろ高等教育とか、あるいは社会の人材育成とかも含めてあるんですけども、再教育であるとかリカレントとか、でも、義務教育段階であるとか、初等中等とかという、そういった段階の役割といったものをどのように考えていけばいいのか、この辺のところをお伺いしたいなと思いました。
最後は、公共私の関係、自分たちは共の部分、先ほど高橋先生からのお話もあった部分かと思いますけれども、やはり自分たちで立ち上げていくと、この辺がカリキュラム・マネジメントとか、そういう部分はあるんだろうなと思いますけれども、だから改めて、個々人といったものを、共通の土台の上に個々の個性というのが際立つ。そこからさらに共に共同体というか、そういったものを一緒につくっていくと、そのサイクルが多分あると思うんですよね。共通の土台の上に効果が生まれ、そこからつながることによって、さらに新しい形で共生空間が生まれてくるということだと思うんですけども、そういった今回は集団化ということの、この辺のサイクルを考えていきながら、どういうふうに今日の部分を日本において立ち上げていけるのか。この辺は、コミュニティスクールの在り方であるとか、あるいはアメリカでいうと、市場主義的に取り上げられがちな、例えばチャータースクールというのも、ある種、至上主義的な動きにも捉えられますけども、自分たちの学校を思想信条が似た人たちでつくっていくという、ある種、公共性みたいなことともつながるところがあると思うんです。
だから、日本において、その辺りの公でも、私でもない、共の在り方、ここをどう、新しい公共なんて言葉がありますけど、どう立ち上げていけるのかということもそうですし、そこでは恐らく公を、お上を縮小するんじゃなくて、その役割が多分変わってくるんだろうと思うんですけども、その辺の地方と国との関係もそうですけども、学校と行政との関係とか、そういったところをどのように考えていけばいいのかというあたりもお伺いしてみたいなということを思いました。
取りあえず、以上です。すいません、長くなりました。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。私も今、石井先生の最後の御発言ですけども、公共私、私立の私ですね、これがこの国の1つの特徴というのは極めてバランスがよくないと、そういう現状がある、あるいはそういう歴史を持っているというと、それにおいて、今日、御主張された将来への展望というのが、バランスを悪さの中でどういうふうに描いていこうとされるのか、進もうとされるのかどうなのか、その辺りのところについては、私も広井先生にお尋ねしたいなと思った点が、また一つあります。石井先生、どうもありがとうございました。
それでは、続きまして、市川先生、その後、秋田先生、奈須先生の順でお願いしたいと思います。市川先生、お願いいたします。
【市川委員】 今の最後の石井先生の話題とも関係あるんですけど、それは置いておいて、ひとまず、全体的な感想と質問を言わせていただきたいと思います。
まず、全体的には、私たちは学校教育における教育課程ということが直接のテーマですけれども、大変広い視点からのお話を聞くことができてよかったなと思っています。改めて、私たちの心理学とも結構通ずるところはあるなと思ったんですけど、人間の欲求とか価値というのが、長い歴史の中でもどう変遷してきたかというお話を伺いました。
どういう社会に住みたいかというと、軍事的に強い国がいいとか、それから、経済的に強い国がいいとか、軍事、経済ということはすごく最初に目が行くところだと思うんです。歴史的にもそうだったと思います。
ただ、それが最近になってくると、持続可能性とか、あるいは福祉とか、社会全体がいいと、そういうところを目指すようになってきたと。これは日本もかなり進んできた意識はあると思いますし、それはすごくいいところだと思います。また、その先に、今日も少しお話が出てきましたけれども、ウェルビーイングとかQOLとか、こういう精神的な高い満足度というんですか、精神的文化、こういう点でも、日本は少しは見るべきところもあって、単に、経済的に豊かならば幸せということではないし、社会全体はもちろん大事だけれども、一人一人の精神的な意味での幸せとか行いを考えていく、だんだんそういう方向になっていくというのは、これは心理学から見てもすごく納得できる点で、共感できる点だと思っています。
質問というか、ぜひお聞きしたいところなんですけれども、広井先生の今日のお話の中で教育という言葉があったんですが、もう少し教育ということをブレークダウンして、教育課程部会でもやっていることと、もう少し引き寄せて考えると、今日は学校とか教科とか教師という、こういうキーワードはなかったと思うんです。私たちもこれからの学校の姿、その中で一体何をやるべきかということを考えたときに、この3つがやはりすごく気になる点です。
まず、学校ですけれども、教育の世界の中では、もう学校はだんだん縮小していいんだという脱学校論のようなものもあれば、やはり学校が公教育として一定の責任を果たしていかなくてはならない、学校を強化すべきだと、こういう議論もあって、これは一体どういうふうに動いていくのか。これは未来予測というのはあるのか。どのように言われているのか。また、広井先生はどのようにお考えなのか。学校というものの役割についてです。民間教育とか地域との関わりということも含めて、学校がどんな比重で、どんな役割を持っていくのか。
それから、その中で、学校は教科ということをかなり中心に動いています。教科を中心とした教員養成システムもできていて、がっちり教科というものがあって、大学選抜も基本的には教科の延長にあって、そこで非常に高いパフォーマンスを受験生たちに求めていると、これが特に日本とか東アジアでは、相当これはがっちりしたシステムになっている。これがどうなっていくんだろうかということ、教科中心、あるいは受験中心ということが、もちろんいい面もあれば悪い面もあるんでしょうけれども、特に東アジアでは強過ぎるのではないかということで、いろいろな問題が言われていると。かといって、もっと教科というものを緩くしてしまうのがいいのかどうか。この辺も予測があれば伺いたいですし、我々はどういう選択をするべきなのかということを考えていきたい。
それから、最後に、教師です。現実的な問題として、まず、今、教師の成り手がどんどん減っているというのは、もう全国的にどこに行っても言われます。教員になりたいという人が減ってしまったために、量的・質的に非常に大変な状況になっていると。少子化もあるんですけれども、さらに教師の成り手が減っているという問題が非常に大きいと。これから先どうなるんだろうか。教師が減っていくということを前提として、それでも何とかやっていけるようなシステム、例えば塾などでは、最近はAIをかなり使った個別指導を入れているところがある。もちろん人間の先生もいるんですけれども、その比重をうまく考えることによって個別最適を図るというようなことを売り物にしている塾が相当人気があるそうです。学校も、もしかすると、先生の成り手が少なくなってきたら、無理に数を増やすのではなくて、例えば、AIであるとか、eラーニングとか、そういうものと組合せながらやっていくということを考えなくてはいけないようになっていくのか。それとも、優秀な先生をしっかり確保するという道を考えなくちゃいけないのか。この辺りも、教育課程を考える上では直接的に考えなくてはいけない問題として浮かんでくると思っています。
ですから、この辺りは質問なんですけれども、そういう学校とか教科とか教師の役割、比重、在り方などのようなことをめぐっての未来予測ということがあるのかどうか。また、広井先生のお考えはどうかというところを伺いたいところです。ありがとうございます。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。今の市川先生の御発言も、また大変、とても示唆的なお話と私は聞かせていただきました。
どういう意味というと、今、提起された教師というキーワード、現状、今お話いただいたとおりですけども、改めて地方分散ということ、それのこれまで教師がそれぞれの全国において果たしてきた役割、それがあっての地方分散だったかと思います。そういう点からすると、私も地方分散ということと、教師のそれぞれの地域における在り方ということ、これからどのように捉えていったらいいのかどうなのかということは、また、お尋ねさせていただきたい点の1つかと思います。市川先生、どうもありがとうございました。
続きまして、秋田先生、お願いいたします。
【秋田座長代理】 ありがとうございます。大変刺激的なお話をいただくことができたと思っています。
その中で、先ほど石井先生も言われたんですけれども、人口減少の中で教育と福祉ということを考えたときに、福祉というのは、ある意味で、困難な人たちに手厚くしていくという方向での平等や、それから、それにおいての一律の最低限のウェルビーイングの保障というところを問題にしていくものになります。それに対して、教育というのはどのような方向で、個性化であり成長を伸ばしていくというところを、1つの重要な点として考えていると思うんです。
そのときに義務の段階であったり、それから今、人生前半の社会保障ということで、全世代型の社会保障構築会議のほうで言っているのは、乳幼児期からの手厚い教育の保障ということによって平等を保障するということであります。ただし、一方で、伸ばしていくという意味での、個性化的な教育を、どういう段階でどのように保障していくことが、発達的に見たときにあり得るんだろうかというようなところを考えるということが必要だと思います。それから、先ほど個人のウェルビーイングと同時に、地域であったり地球規模というような目線の大切さということを話してくださったわけなんですけれども、これまでどちらかというと、日本の教育というのは、一人一人の知識で一人一人の幸せというところを大事にしながら、国民教養を身につけるというところはあったと思うんです。けれども、地域や、それから地球規模で環境であったり、ほかの人へのつながりを考えていくようなところが弱かったように思います。日本は人のつながりということは知徳体で、徳のところでも大変大事にしてきたところだとは思うんです。けれども今後、公教育の中で、どのようにこれらを育んでいくのかが大事なのかと考えるところです。
実際に、例えば教科のところで、もちろん地域との関連を扱うことはできますけれども、特に義務教育の教育課程の場合には、ある意味で共通の骨子の本質的な考え方や概念を学んでいくということになります。そうしますと、実際には横断的な内容であったり、道徳や特別活動の中で、例えば人のつながりとか、それから地域に根差した環境教育が重視された教育ということをやっていくことになるのではないかと思ったりもするわけです。
この辺りをどういうふうに今後考えていくといいのかなと思います。個人的には、総合的な学習の時間や地域のいろいろな全国の地方の学生さんとも、中高生たちとつながると、文化的な地域に誇りを持ちやすいのは都市の子供ではなくて、いろいろな地方の特色をよく分かっている生徒ほど誇りを持つ傾向にあります。そして、それを探究していける、それに対して、逆に都市化したところでは、個人で大学の受験のための探究学習、調べ学習や追求を1人で頑張ってやっていくという状況にあります。そういうスタイルの違いが現実に探究の中でも生まれてきているように思うんですけれども、今後、そういう目線を全体として地域分散型であったり、それから地域や、環境地球全体をESDやSDGsなんかを考えることのできる市民や国民を育成していくことを考えたときに、どういうバランスで今後、教育課程というものを考えていくのかが問われると思います。今までは教科というのは決まっていて、教科横断というところに、地域や福祉の問題なんかも委ねられてきたと思うんですけれども、その辺りがどうあったらいいんだろうかということについて、逆に福祉の専門の広井先生はどう考えるのかを伺ってみたいと思ったところです。
また、カリキュラムとして、これからの社会の在り方というところで少子化ということを考えていったときに、先ほど広井先生のお話もありましたけれども、いわゆる非婚化、未婚化が非常に高い我が国で、東京に若い人がみんな来て、世帯年収は東京はどんどん下がってきていて、厳しい状況が生まれている。そういう中で、実は子供のときから今、こども家庭庁のほうでは議論されていますが、親準備性や自分の生涯をキャリアという職業に就くことだけではなくて、自分の人生、生き方を家族だったり、それから社会との関係で考えていくような教育の時間や教育が非常に大事になってくるのではないだろうかと思います。つまり人生の全体のスパンを視野に持って学ぶことは、保健体育とか家庭科でやっているといえばやっているんですけれども、もう少しそうした視点も今後、必要になるのかなと思います。社会の歴史を学ぶ、国の歴史を学ぶというだけではなくて、Big Historyからパーソナルヒストリーまでをつないで考えていくような、そういうことも今後必要になっていくのではないのかなと感じたところです。
福祉と教育における格差の問題というようなところと、それから教科等横断的な内容、地方とグローバル、共通のコア的な部分と、その地域に固有のことを学ぶ学びのバランスはどうあったらよいのか、歴史的というときのヒストリーの射程などについて伺ってみたいなと思いました。
以上です。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。私は今の秋田先生の御発言と、先ほどの広井先生の話とつなげさせて、このように受け止めさせていただきました。今日の広井先生の話をどうカリキュラム、あるいは教育課程とつなげながら捉えていく、あるいは今日の話をカリキュラムとか教育課程に下ろしていくとすると、どういう教育課程、カリキュラムというものが考えられるのかどうなのかという、そのことについて秋田先生からの御発言があったと私は聞かせていただきました。秋田先生、どうもありがとうございました。
それでは、続きまして、奈須先生、お願いいたします。
【奈須座長代理】 お願いいたします。私は徳島の町外れの、まさに広井先生が言われた、コミュニティがまだ濃厚に残っているところに生まれ育ったんですけども、最近コミュニティとかつながりとかという話が出ますけど、私は子供のときは全くいいと思わなかったです。しがらみでしかないと。こういうふうに生きろと枠付けられて、それに従うことばかり求められたようなことが子供時代にはありました。高度経済成長時代だったという時代の空気もあったと思いますけれども、それに対して、ヨーロッパの皆さんはカントリーに住みたい。イギリスが典型ですね。年を取ったらカントリーに住みたい、ロンドンにいても、年を取ったら田舎に行くんだ。
何が違うんだろうと思って、イギリスの友人に昔聞いたことがあるんですけど、彼の言い分なので、どのぐらい事実を表しているか分かりませんが、例えば、50歳ぐらいになったら、田舎に住むことを考えるんだというんですが、田舎というのが出身地じゃないんですよね。地元じゃないんです、必ずしも。僕らが田舎に帰るというのは、私であれば徳島に帰ることです。あるいは徳島以外帰れないじゃないですか。今、移住というのがありますけど、それは本当に飛び込んで何が起こるか分からないみたいなことじゃないですか。違うんですよね、私の理解では。自分が若いとき、ロンドンで暮らして、いろいろな力を身につけたり、いろいろなライフスタイルを身につけて、60歳になってから、こんなふうに人生を歩みたいなとか、いろいろなことを考えて、家族と、それこそ奥さんとも相談して、そして自分が残りの時間を存分に発揮できる場所を探すんですって。いろいろな地域に行って、いろいろな人と会って、少しいろいろなことをやってみるんだそうです。私はこんなことができるんだけどと言ったら、この町にはそういう人がいないし、あるいは、あそこでこんなことやっている人がいるから一緒にやったらどうだとかという話になったりするということを伺いました。
つまりコミュニティが既に存在して変わらない、それに入りたいなら入れ、郷に入れば郷に従えというのではなくて、新たに人が入ることによって、コミュニティもどんどん変わっていくということが、どうもヨーロッパのコミュニティにはあって、それだったら楽しいですよね。つまり日本の田舎ってそうなっていないんだと思うんですよ。地域おこし協力隊が全くうまくいかない地域もたくさんあるし、移住して絶望的になるなんて話もよくあるんですよね。
やはりこの社会の構造を変えていかないと、広井先生がおっしゃるような地方の時代には、私はならないと思っています。もちろん町が変わるというのは難しいんですけど、私は、ここは教育の力が変えていけるんじゃないか。広井先生がおっしゃった世界実現の若者、まさに社会実現に行く若者。ソシエタルなウェルビーイングを実現しようとする若者、それはそういうコンピテンシーを身につけている若者だと思うんです。まだまだ少数だと思いますが、そういった子供たちを多数派にしていく、あるいは、そういう力こそ、学力として学校で育てるということを考えたらいいんじゃないかなと思うんです。
どんどんいろいろなところに乗り込んでいって、がんがんいろいろなことをやって、そこの町を元気にして、最初はおじさんとかに拒否されたり、おばあちゃんが目を白黒させるんだけれども、それがいいことだ。また、新たな幸せができるんだ。それは自分たちがつくってきた町をなくすことでも潰すことでもなく、そこを基盤としながら、そこに価値を融合して、新たなまさに地域創生を果たしていくんだと、そのようにできるところがうまくいっているところなんです。地域創生の多くは、実は外から来た人がやりますので。でも、外から来た人が勝手にやるんじゃないんですよね。そこの人たちと一緒に、いい形のウィンウィンなものを創造していくんですよ。残念ながら、それは私たちのような田舎の人にはなかなか発想できないし、生み出せないですよね。若い人にそれができるようにしなきゃいけない。
そういった力を伸ばしていくということが、今日、広井先生がおっしゃったようなことに対する学校教育の果たすべき役割というか、可能性かなと私は思いました。そうやって日本の社会を変えていかないと、地方分散型なんか絶対実現しないと思うわけです。今、ごく少数の機転の利く若者たちがやっていることがもっと多数になってきて、もっと一般化してきて、そういう価値がこの国に共有されてくるということが大事で、そこに向けて長期的に始めていくということが大事かなと私は思います。
しがらみではない地方の在り方というのが大事なんだろうと思います。人が入ることによって町がどんどん、どんどん変わっていく。そして、その町との関係で、その人もまた変わっていくという関係が大事なのかなと思います。
そうなると、学校は学力論を変える、高橋先生もおっしゃったように、今もコンピテンシーベースに移行しようとしていますけど、いよいよそっちに行くべきなんだろうなと思います。まさにそういう意味でのウェルビーイング、個人的な、そして社会的な調和の取れたウェルビーイングを実現していくような学力、そういう方向に向かっていると思いますけど、そのことを今日とても意を強くしたわけです。教科は、その本質や概念、見方・考え方と言っているものに焦点化して、内容は、高橋先生がおっしゃるように、もうイグザンプルでいいと思います。細かいことは全部忘れていいと思います。
でも、本質をつかむためには、最初は細かいことをきちんとやらなきゃいけないと。でもそれは数年後、全部覚えている必要なんかは全くないと。まさにデジタル化が進んでくる中でそんなものは要らないと思いますし、そう考えると、コンピテンシーというのは問題解決の能力にすぎません。それを何のためにどう使うか、ここに社会像とか倫理観とか価値ということがついてくるんだろうと思いますね。このことをまだ僕らはしっかりと考え抜けていないんだと思います。
コンピテンシーというのはもろ刃の剣です。一歩間違うとマキャベリズムにもなりかねない。このところ、OECDが態度や価値ということを最優先で言っていますが、その背後にはコンピテンシーを伸ばしていけば伸ばしていくほど、ある意味でリスキーな事態が生じるということに対する予見があるんだろうと思います。もう一つは、ヨーロッパの社会が今、大変なことになっているので、態度や価値ということを押さえていかないとどうしようもないんだと思いますけれど、これは今後、僕らも考えていくべきだろうと思うんです。
素朴な社会道徳といったようなことではなくて、今日の広井先生のお話にあったような社会像、あるいは幸せ像というようなことに向けての倫理、価値ということ、先ほど石井先生がおっしゃった分配ということも、これは価値教育ですよね。何が人を幸せにするのか、それを単なる態度ではなくて、社会の在り方に関する知識的な論理も含めた価値としてしっかりと成熟させていく必要があるだろうし、分配する、ある意味では、私の持っているものを受け渡すということによって私が幸せになるということがどういうことかを骨身に染みて分かる、そして、それに向かった具体的な創造的な行為が取れるという育て方を両面でしていくということが、まさにコンピテンシーなんだろうと思います。
だからOECDが言っているコンピテンシーがウェルビーイングを目指すんだということのもっと内実を、つまりOECDが言っているのは世界に対するモデルでしかないので、それぞれのネーションで、日本の文脈ではそれはこういうことなんだという内実をつくらなきゃいけない。それが今日、広井先生がくださった、私にとってはアイデアだったように思います。
そういう意味では、総合のような領域をさらにしっかりと本格的にやるということも大切になってくるし、教科等横断ということもとても重要になってくるなと思いました。問題を解決する、そして、個性的に表現、創造するといったような学力、そういう場を学校でもっとしっかりとつくっていって、そういう意味でのイノベーティブな人材というのを育てる。それが結果的に経済社会にとっても有為な人材に、結果的になっていくということでいいのかなと私なんかは思います。協働ということも、これまでの協働というのは何となく先生が仕切る協働だった気がするんですけど、むしろ長いスパンで、幅広い枠組みで子供に委ねていくと、実は子供たちは自分たち同士で関わって協働をしていきますよね。これは高橋先生がずっと御主張なさっていることだと思いますけれども、つまり個別最適をいい形で進めていくと質の高い自発的で緩やかな協働、まさに自由で個性的な協働というのがたくさん生まれてきて、そこに創造的な人と人との関わりの中での価値創造というのが生まれてくると思うんですよね。そういう経験をもっともっとたくさんさせてあげるような学校にしていくということが大事なのかなと思います。
最後に気になっているのは、そうなってきたときに、どんどんどんどん自分の得意を伸ばし、自分らしく、ある意味では自己決定、個性化ということになってきますけれども、そこでうまくいかないとか、困ったことが起きるとかということが起こるわけで、それがいわゆる自己責任論にならないようにするというところをどう考えるかということが、これは教育のことも含めて最後に残ってくることかなと思っています。
この辺が、つまり背後にどういうイデオロギーを置くかというようなことになってくるんだろうと思いますけれども、こういった大きなレベルでの社会像との関係での価値、あるいは学力をどういう方向に生かすかということを考えるべきだということを今日、広井先生から私は学ばせていただきました。
以上です。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。今の奈須先生のお話の冒頭のお話ですけども、それと1960年代から70年代、80年代の、この国の状況と重ねながら話を聞かせていただきましたけども、なぜ東京、あるいは首都圏を若者が目指したのかどうなのかということですけども、その目指した動き自体が1つ、大変イノベーティブなそれではないかという、そんな捉え方もまたできるかと思うんですけども、この辺り、また機会がありましたら、少しまたやり取りしてもいいかなと受け止めさせていただきました。どうもありがとうございました。
貞広先生、いらっしゃいますか。
【貞広委員】 すみません。遅参した上、出入りして申し訳ありません。
【天笠座長】 いかがですか。今日の広井先生のお話等々についてということですけども、何か広井先生が残された、私どもにも伝えたスライドのどこか、先生としてお気づきになった点等とか、あるいは先生のお考え等々ということでお話しいただいても結構ですし、今、それぞれの委員の方からの御発言等々、貞広先生が耳にされたことも含めてお話しいただいても結構ですけども、いかがでありましょうか。
【貞広委員】 ありがとうございます。とても興味深く、動画拝見いたしました。
日頃、あまりちゃんと明確な形じゃないけれども、ぼんやり考えて、こんなことかもしれないと考えていることを言葉にしていただいたり、データでお示ししていただいたりして、すごく膝を打ちながら拝見したところです。
そこで、私は、これは御質問でもいいんですよね、広井先生に対して。
【天笠座長】 ええ、質問して、今日はすぐ応答ということはできませんけれども、広井先生から後日、お答えしていただけるならば回答していただくと、そういうことで進めております。
【貞広委員】 一部、この質問に対しては、例えば先ほどの奈須先生の御意見の中にも、その答えの一端はあったのかもしれませんけれども、私の御質問は、どうしたら先生のようなお考えを現実解にするということに対して、社会的な合意や納得性を調達できるか、その納得性や合意調達の方策や見通しについて、先生のお考えを伺いたいということです。
私は教育財政が専門なので、どうしてもみんなが納得して、にこにこ公教育にお金をたくさん出してくれるというところを目指したいところなんですけれども、なかなかそうはいかないですし、また、特にしんどい状況であるとか、なかなか既存の学校のシステムの中でうまくいかない子にこそ傾斜的に手厚い配分をしたいわけですけれども、何でうちの子が10万円なのに、あの子20万円なんだ問題をなかなか越えられないわけですよね。ですから、今回、お示しいただいたような研究成果を積極的に御発信いただくということが最も有効なんだと思いますけれども、もう少し裾野を広げるにはどうしたらいいのかということです。
持続可能な社会をつくっていくとか、社会全体の担い手をつくっていくというような教育のありようというのは、総論は皆さん賛成されると思うんですけれども、個別には例えば、自分の子は少しでも隣の子よりもいい点数を取ってほしいとか、絶対受験は突破してほしいというような、いわゆる他者を出し抜くような競争を少しでも損をしないようにしたいと思っている、それが本音であり、極論になっているような社会の構造があって、これがある限り、公教育に潤沢に資源を配分して、社会全体で支えていこうということにならないんだと思うんですよね。その形が今で、すごく危機感を持っているので、そうではない好循環を皆さんが納得して、合意して、そういう好循環を生んでいく見通しのようなものをどう考えたらいいのか、また、個人的には研究者として何をしたらいいのかということも伺えればと思いました。
雑駁な御質問で申し訳ありません。
【天笠座長】 今の御質問というのは、広井先生に対してと受け止めさせていただいていいですか。
【貞広委員】 そうです。
【天笠座長】 冒頭、奈須先生にというようなニュアンスがあったかと思うんですが、それは……。
【貞広委員】 いえ、それをどうしたらいいんでしょうかと広井先生に御質問したいと思ったんですけれども。
【天笠座長】 分かりました。
【貞広委員】 奈須先生が骨身に染みて分かるように教育でさせると言っていたんですよね。互酬的な利用こそによさがあるというのを子供、大人には期待できないということですかね、奈須先生。もう次世代を変えていくしかないということなのかなというのも、ですから一部奈須先生にお答えいただいたような気がしましたということでした。申し訳ありません、分かりにくくて。
【天笠座長】 奈須先生、一言ありますか。
【奈須座長代理】 大人に期待するよりは子供に期待するというか、子供が期待した動きができるように育てるというほうが私はいいと思います。さっきの地方の問題なんかだと、やはりすごく年齢の高い人たちが全てを握っていて、比較的若い人たちはおかしいなと思いながらも、変えられないままいる。でも、その人たちが70歳になったら、前の世代と同じことをするんですよね。だからそれを打破するのは若い、しかも外から互恵的に流入する人たち、それがさっきのイギリスは本当にそうかどうか分かりませんけど、いろいろな人がいろいろな地域の間で関わりながらまちを変え、まちが変わることで人が変わり、それを行った自分も変わりという動きがあるといいなと思いますし、今僕らが授業や教室で、特にICTを使ってやろうとしている、高橋先生なんかがいつもおっしゃっていることは、まさにそういうような学びと関わりのモデルを教室で経験させようとしているような、私は気もするんですよね。
だから、それがレッスンになって、社会の中でできたりするといいなと、でも、いわゆるトランスフォーマティブな教育と今、言いますよね。やはり変革、改革ということをどこかでイメージする。ただ、変革、改革というのがどんなイメージで、どんな方向なのかということは、日本という国は日本という国の文脈の中でしっかりと描いていかなきゃいけないんだろうと思っていたんですけど、それを今日、広井先生はいいアイデアをいっぱいくださった気がしています。すいません。
【天笠座長】 どうもありがとうございました。
ほぼ予定の時間になりましたので、今日の皆様方からの御発言はここまでということにさせていただきたいと思います。
今日の御発言につきましては、事務局にお願いしまして整理していただき、そして、広井先生に対しての御質問ということで広井先生のほうにお伝えいただき、そのことについて、もしお答えいただけるならば、また、後日、私どもにそのことをお伝えいただくようなことを、事務局の方と相談してさせていただくということで御了解いただければと思います。
ということで、本日の議事は、以上ということにさせていただきたいと思いますけども、次回以降の日程につきましては、後日、事務局から御連絡があると聞いております。ということで、この件について事務局から何かありますか。よろしいですか。ということで、日程につきましては、しばらくお待ちいただければと思います。
それでは、本日は以上をもちまして、閉会とさせていただきます。どうもありがとうございました。

―― 了 ――

 

(広井教授の追加提出コメント)