資料7 平成27年3月25日(水曜日)衆議院 文部科学委員会 議事録(抄)

○浮島委員
 川崎の事件と同様、決して忘れてはならない、大津のいじめの自殺事件がございます。これを一つの契機として議論が行われまして、今年度中に学習指導要領の改正が行われる道徳の特別教科化について何点か、確認とお伺いをさせていただきたいと思います。
 私は、この道徳というのは、しっかりとやらなければならないと思っております。しかし、その中で、教科そして心の評価にはなじまないのではないかと思っております。道徳の教育というものは、子供たちの心の中を管理するものではなくて、豊かな心を育てるため、そして、体験活動や良書の活用により、人を慈しみ、大切にし、思いやりの心など、内面をしっかりと引き出していくことが大事だと認識をしております。
 昨年十月の中教審の答申が述べている、「道徳教育の本来の使命に鑑みれば、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極」であり、「むしろ、多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質」というのは、そのとおりだと私も思います。
 また、大臣が、発達の段階に応じて、答えが一つでない課題に道徳の問題として向き合い、考え、そして議論する道徳教育に転換することが大切であるとおっしゃっていることは、とても理解できます。
 そこで、今回の特別教科の趣旨を、決して特定の価値観を押しつけるものではない、大臣を先頭に文科省として、教員、保護者、そして子供たち、教科書会社を初め、国民の皆様にしっかりと御説明願いたいと思います。
 また、今回、六千件に近いパブリックコメント、意見が寄せられました。その中でも、不安そして懸念が示されているのも事実でございます。その最も大きなポイントは、道徳の、教科化にしたときの評価の問題でございます。一、二、三、四、五とかA、B、Cとか、そういった評価がなされるという誤解もまだ少なくありません。
 そこで、道徳の評価について、文科省の基本的な考え方と今後の検討の在り方についてお伺いをさせていただきたいと思います。

○小松政府参考人
 道徳科の評価についてお尋ねでございます。
 パブリックコメント等も終わりまして、現時点での私どもの基本的な考え方、御説明させていただきたいと思います。
 今御指摘ありましたように、今回の道徳の特別教科化は、昨年十月の中教審の答申を踏まえて行っているところでございます。
 その基本的な考え方は答申において述べられているわけでございますけれども、評価のことにつきましては、児童生徒一人一人のよさを伸ばし、成長を促すための適切な評価を行うということが必要であるということが述べられております。そして、数値などによる評価は不適切という提言でございます。
 そこで、この内容に沿いまして本年二月四日に公表しております学習指導要領改正案においては、児童あるいは生徒の、「学習状況や道徳性に係る成長の様子を継続的に把握し、指導に生かすよう努める必要がある。ただし、数値などによる評価は行わないものとする。」という形にしているところでございます。
 それから、この道徳科の評価の問題につきましては、パブリックコメントでも非常に関心が高く、様々な御意見が出ております。記述式で評価するからこそ教師も意識して指導に当たることができるといった御意見もございますし、教師の求める発言をする子供がふえたり本音で語ることができなくなったりする道徳教育は避けるべきだという御指摘などもございます。
 そこで、私どもとしては、これらを踏まえまして、この評価の問題は専門性が非常に高いところもございます。平成二十七年度に、評価や道徳教育、あるいは発達障害等のこともございますので、専門家による会議を設け、道徳科の評価に関する専門的な検討を行った上で、教師用指導資料の作成や指導要録の改正を行うという手順で進めたいと思っております。
 その際、文部科学省といたしましては、数値による評価ではなく記述式であること、それから、ほかの児童生徒との比較による相対評価ではなくて、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受けとめて励ます個人内評価として行うこと、それから、今申し上げました、ほかの児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないということに留意する必要があること、そうして、個々の内容、項目ごとに細かく評価をするのではなくて、おおくくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと、また、発達障害等の児童生徒についての配慮すべき観点等を学校や教員の間で共有すること、そして、現在の指導要録の書式におきましては、「総合的な学習の時間の記録」、「特別活動の記録」、「行動の記録」、そして、「総合所見及び指導上参考となる諸事項」といった既存の欄もございます。
 こういった在り方も総合的に見直すことといった基本的な方向性をお示しした上で、それを前提に専門的な検討を行ってまいりたいというふうに考えております。

○浮島委員
 基本的な方針のもと、専門的な検討をしっかりと行っていただきたいとお願いをさせていただきたいと思います。
 ただやはり、入試において道徳を評価するという取扱いはとても重要なポイントだと私は思っております。入試のために道徳科の授業で点を上げたいと、言いたいことも言わず、また言えず、先生の考えていることを先取りして発言するなどということがあっては本末転倒でございます。ここでは、考える、議論する道徳にしっかりとしていかなければなりません。
 そこで、一人一人の子供たちが、答えが一つではない問題に向き合い、考え、議論する道徳教育への転換という今回の特別教科化の趣旨と、受験生を公平に比較して公正に選抜するという入試の趣旨とはなじまないと私は思いますが、大臣の見解をお伺いさせていただきたいと思います。

○下村国務大臣
 もともと道徳は教科ではありませんので教科書があるわけではないわけでありますが、ただ、過去の教師の指導書というのがありまして、教材に対してこの教材はどんなふうに指導していったらいいかということをチェックしてみますと、やはり教師が教材の中の物語はこんなふうに読み取るべきだ、こんなふうに考えるべきだということが指導書の中に書いてあった部分がありました。
 これは、御指摘のように、子供たちが主体的に自ら多様な価値観の中で道徳について考えるという価値観ではありませんので、これを変えて、その物語も立場立場によってそれぞれ違うと思います。正義が一つだけではなくて、違う角度から見たときそれぞれが正しいという考え方はあるわけでありまして、そういう意味で、これからの特別の教科の道徳は、考え、議論する、そして、それぞれの子供たちが主体的に見ることに対してどれがいいとか悪いとか、そういう評価ということではない。それがアクティブラーニングとしても必要ではないかと思います。
 そういう点で、高校入試の選抜方法や調査書の書式等、これは基本的には都道府県の教育委員会や設置者が決定するものでありますが、高等学校の入学選抜においては客観性、公平性の確保が求められるということから、学力調査の結果と調査書における各教科の評定等によって行われております。
 この中で、例えば、学校生活全体にわたって認められる生徒の行動を道徳性の育成等の観点から評価する行動の記録を点数化して合否判定を使用するといったことは、承知している限り、行われていないというふうに思います。

○浮島委員
 是非とも、内申には書かせないなど、そういった配慮も必要だと思います。これによって子供たちが、何というか、いい子ぶりっ子になってしまうということもあってはいけないと思いますので、是非ともそこは慎重にしていただきたいと思います。
 もう一つ、パブリックコメントにもありました懸念は、教科化されることにより、道徳教育が偏狭なナショナリズムにつながるのではないかという点がございました。我が国の道徳教育はあくまでも教育基本法にのっとって行われるもので、この懸念は当たらないと考えています。
 以前から道徳の内容事項として位置づけられている、我が国や郷土を愛することは、身近な郷土を慈しむことから始まり、国際的視野に立った開かれたもの、その考え方をいま一度御説明の上、どのように改めて周知徹底するか、お伺いをさせていただきたいと思います。

○小松政府参考人
 現在の学習指導要領の道徳の内容項目における、国あるいは郷土を愛する心を持つといった規定は、教育基本法において「教育の目標」として、伝統と文化を育んできた我が国や郷土を愛する態度を養うと定めているのと同様の趣旨であって、我が国や郷土を愛する態度と心は教育の過程を通じて一体として養われるものである、まずこれが現行の考え方でございます。これまでも政府答弁等で明らかにしているところでございます。
 したがいまして、今回、道徳の特別教科化の前後にかかわりませず、学習指導要領の道徳の内容事項に規定している国の趣旨はこれと同じでございまして、その国が、政府や内閣などの統治機構を意図するものではなく、歴史的に形成されてきた国民、国土、伝統、文化などから成る、歴史的、文化的な共同体としての国を意味しているものであるという考え方でございます。
 それから、以前から学習指導要領の解説において明らかにしておりますように、社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め、地域社会の一員としての自覚を持って郷土を愛する心を国という広がりで考えれば、国を愛し、国家及び社会の発展に努め、すぐれた伝統の継承と新しい文化の創造に努める心につながるものであるという位置づけでございます。
 国を愛する心を持つということは、偏狭で排他的な自国賛美ということではなく、国際社会の一員として自覚と責任を持って国際社会に寄与しようとするものである、そういうことにつながっていくというものであって、我が国や郷土を愛することと、世界の中の日本人としての自覚を持ち、他国を尊重し、国際的視点に立ってその発展に努めることは切り離せない関係であるということなど、我が国や郷土を愛することが国際的な視野に立って開かれたものであることが重要と考えます。
 そこで、文部科学省におきましては、こうした趣旨を、学習指導要領の解説、あるいは、これから各種会議、それから様々な場面での研修等機会が用意されてまいりますが、その機会等を活用いたしまして、教育関係者、それから保護者の方々もあろうと思います、あるいは、教科書が出てまいりますので民間教科書会社等もあろうかと思います、幅広く多くの国民の方々に対して誤解のないよう、広く周知をしてまいりたいというふうに考えます。

○浮島委員
 誤解のないようにしっかりと周知していただくよう、お願いをさせていただきたいと思います。
 そして最後に、今回の道徳の特別教科化は、学習指導要領に位置づけられてからの六十年ぶりの大きな改革になります。しかし、先日の予算委員会で大臣もおっしゃった、明治以来百三十年続いてきた学校についての固定観念からの脱却という視点からも、重要であると思います。
 教師や保護者だけではなくて、地域の方々や専門家、芸術家やスポーツ家などの様々な専門家の多くの大人が子供たちと真正面から向き合う中で、子供たちの道徳性を高めるために今回の特別教科化をどう生かすか、最後に大臣の御所見をお伺いしたいと思います。

○下村国務大臣
 今回の道徳の特別教科化の趣旨は、従来の読み物道徳と言われたり軽視されたりした道徳教育から、教科書を使って、子供たちが答えが一つでない問題を道徳的課題として捉え、考えたり議論したりする道徳へと転換することにあります。
 そのためには、教科書の充実や教員の資質向上に加え、地域や家庭との連携が欠かせないというふうに思います。
 具体的には、道徳科におきまして、教科書や地域教材の課題を机上で学ぶだけではなく、保護者、地域の方々、各分野の専門家などの知見も活用しながら、子供たちが道徳性を高め、それぞれの人生をよりよく生きていこうと考えるきっかけとなるような授業展開が重要となってくると思います。
 そのため、今回、学習指導要領上、地域の人々に加え、各分野の専門家などの積極的な参加や協力を得ながら、問題解決的な学習や道徳的行為に関する体験的学習といった指導上の工夫を行うことの重要性を明記するとともに、引き続き、外部講師の活用や地域教材の作成、家庭、地域との連携など、各地域の実情を踏まえた、特色ある道徳教育の推進を支援してまいりたいと思います。
 今回の道徳の特別教科化を契機として、社会全体で子供たちを育てていこうという機運を高めていくとともに、各地域、各学校における道徳教育のより一層の充実に努めてまいります。

○浮島委員
 豊かな心を育てるための、育んでいくための道徳教育になるよう私たちも一緒に戦っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 質問を終わります。ありがとうございました。

平成27年4月9日(木曜日)参議院 予算委員会 議事録(抄)

○那谷屋正義委員
 まず、総理大臣、間もなく、道徳の教科化というふうなことが今進んでおりますけれども、この道徳の教科化というものの目的について、総理の口からお述べいただけたらと思いますけど。

○安倍内閣総理大臣
 道徳教育は、子供たちに規範意識や公共の精神、豊かな人間性を育む上で極めて重要なものであり、平成十八年に改正した教育基本法においても、教育の目標として道徳心を培うことを規定したところでございます。
 一方、これまでの道徳教育は、教師の指導力に差があること、他教科に比べ軽視されがちであること、形式的な指導に偏りがちであることなど、多くの課題が指摘をされていました。また、いじめの問題等に起因して尊い命が絶たれるといった痛ましい事案も生じています。こうした状況の下、教育再生実行会議等における検討を踏まえまして、道徳を特別の教科として位置付け、充実を図ることとしたものであります。
 道徳の教科化に当たっては、答えが一つではない問題について、考え、議論する道徳に転換するなど、指導内容や指導方法を改善充実すること、検定教科書を用いてより体系的な指導を行うこと、指導資料の作成や研修の充実により教師の指導力を向上することなどに取り組むこととしています。これらにより、各学校において道徳教育が抜本的に充実されるものと考えております。

○那谷屋正義委員
 道徳の大事さというものについては、現場を経験した私にとってもそれは否定するものではありませんし、やはり今まさに充実させていくべきものの一つだろうというふうに思っています。しかし、それを教科化するということになると、これはまた様々問題が起こってくるのではないかというふうに思っています。
 この教科化というのは、ちょっとお尋ねをしたいんですが、教育現場からこういうふうにした方がいいんじゃないかというような声が上がってきたのかどうか、お聞きをしたいと思います。

○下村国務大臣
 道徳教育については、平成二十四年度に実施した道徳教育実施状況調査の結果におきまして、効果的な指導方法が分からない、また適切な教材の入手が難しいといった各学校自身が考えている実態が明らかになっております。
 また、平成二十五年二月の教育再生実行会議第一次提言におきまして道徳の時間の新たな枠組みによる教科化が提言されたことを受けまして、文部科学省に設置した道徳教育の充実に関する懇談会や中教審においては、歴史的経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮がある、あるいは教員の指導力が不十分である、また他教科に比べて軽んじられている、あるいは読み物の登場人物の心情理解のみに偏った形式的な指導が行われる等の例、そういうふうな課題が指摘をされました。
 これを踏まえまして、中教審におきまして、道徳の時間については、学習指導要領に示された内容を体系的に学ぶという教科と共通する側面がある一方、道徳教育全体の要となっている人格全体に関わる道徳性を育成するものであり、原則として学級担任が担当することが望ましいこと、また数値などによる評価はなじまないことなど教科とは異なる側面があり、道徳の時間を従来の教科とは異なる特別の教科として新たに位置付けることと提案されました。また、道徳科を要とした効果的な指導をより確実に展開するために、検定教科書を導入することが提言されました。
 文科省としては、これらの指摘を踏まえまして、道徳の時間を教育課程上、特別の教科に位置付けたところでございます。
 このことにより、全国の小中学校において、従来の読み物道徳と言われたり軽視されておりました道徳教育から、教科書を使って、子供たちが答えが一つではない問題を道徳的課題として捉え、考えたり議論したりする、そういう道徳へと質的転換が可能になると考えております。

○那谷屋正義委員
 今言われた、その答えが一つではないというふうなことは、現実に今でもそのように道徳の授業の中では行われておりまして、一つの例えば事象があったときにいろんな対応、態度、そういったものが子供から出てきます。さあ、そして、ほかの人がこういうことを考えているけど私だったらどうするんだろうという、そういう考えをまとめていく、そういうふうなことを経験するということが求められた教科だというふうに思うんですが、今、教科化ということについて言えば、教科化というとやはりどうしてもそこに評価というものが伴うというふうに思うんですけれども、それについてはどのように今お考えでしょうか。

○下村国務大臣
 那谷屋委員も長く学校の先生をされておられましたから、道徳も教えられたのではないかと思います。私も昔の教師の指導書を読みますと、この物語はこんなふうに解説すべきだと、こんなふうに読み取るべきだというのがありましたが、それは、先ほど申し上げましたように、これからの時代は、一方的に教師の価値観、指導書の価値観を与えるということではなくて、正義というのもいろんな角度によって考え方が違いますから、子供たちに議論をさせることによって、より社会において生かし合う、生きていく、そういう意味での道徳を活用する必要があると思います。
 ですから、これは絶対的な他の教科のような評価はなじまないというふうに考えておりまして、他者との比較ではなくて、個々の子供がどれぐらい道徳的な観点から人間的に伸びようとしているのかということについて教師が記述式で表すような形、つまり絶対的あるいは相対的な評価はしない、それが特別の教科化という意味でありまして、評価についても、他者との比較ではなくて、子供がどれぐらいその学期の中で伸びているかというのを記述式で書いたらどうかということが今議論として進められているところであります。

○那谷屋正義委員
 評価の方法として、言ってみれば数値化をしない、記述でやるというお話でありますけれども、実は、今でも様々な子供の学期末におけるお知らせ、通知、昔でいうと通知表、そういったものに道徳的なものも含めて日頃の行動の様子、子供たちの発達の様子を記述でお知らせをしているわけでありまして、改めて、そこに、道徳教科というところの欄にそのことを書くということは非常に困難性を伴うというふうに私は思います。これは、書く方も受ける方もそういうふうに思うと、そういうふうな危険性があるというふうに言わざるを得ないと。
 一つには、例えば、この四月一日から改正地教行法が施行されました。首長が一定、教育に関してこれまで以上に関われる、関与できるようになったわけでありますけれども、首長主導のおそれというものがこの道徳教育においてないかどうか、その辺についてはどのようにお考えでしょうか。

○下村国務大臣
 御指摘のように、今年の四月一日から地方教育行政の組織及び運営に関する法律、地教行法が改正されました。首長と教育委員会が相互の連携を図りつつ、より民意を反映した教育行政を推進するため、首長による大綱の策定や総合教育会議の設置について制度化されたわけでございます。
 その際、首長が大綱や総合教育会議の場において教育内容について取り上げることもあると考えられますが、新制度におきましても、教育委員会は従来どおりの職務権限を持つこととし、首長から独立した教育行政の執行機関として最終的な決定権限を有するということは、これは変わっておりません。したがって、道徳教育の内容についても、教育の政治的中立性、継続性、安定性の確保が図られるわけでございます。

○那谷屋正義委員
 道徳教育、いわゆる心の教育というのは、時代背景に様々大きく影響されやすいものでありますし、非常にナイーブなものもあります。そういう意味で、首長が一定の観念を子供たちに押し付けるような、そういうふうなことがあっては私はならないというふうに思います。今大臣言われたように、教育の中立性、継続性、安定性というものが確保されるように、今後とも文科省としてはしっかりとそこは注視していただきたいというふうに思います。
 さて、評価ということについて、ちょっとこれもまた視点変えた形でお尋ねをしたいと思います。
 総理、総理は余りふだん電車には乗られないと思うんですが、夜、電車に乗っていた、座れたんですけれども、そこに大分お酒を飲んだ酔っ払った人がかばんを持ってやってきました。そして、そのかばんを網棚の上に置いていった。で、その酒を飲まれて大分酔っている方が、前に乗っていた人よりも早く降りたわけです。ところが、かばんを網棚に置いていったまんまだった。このとき総理は、もし総理がその前に乗っていた人だとすると、どんなふうな対応を取られるでしょうか。

○安倍内閣総理大臣
 そのときの状況によりますが、これはやはりかばんを忘れたということを認識すれば、そのかばんを駅員さんか誰かに、さっき乗っていた人がこんな人だったけれども、忘れ物ですよといって届けるのではないかと思います。
 かつて、中学校時代だったかな、傘を忘れた人がいて、それを届けて、駅員さんにいい子だと褒められたことを覚えております。

○那谷屋正義委員
 それは、そのかばんを持って駅員さんに届けるという、そういうことですか。なるほど。
 じゃ、ちなみに、道徳の教科化の一番の主導者である文科大臣、文科大臣だったらどうしますか。

○下村国務大臣
 一般的には、瞬間的に言えば、その忘れた人にすぐかばんを届けるようにするという行動を取るというのがパターンとしてあり得ると思いますが、ただ、今総理からも答弁がありましたが、具体的な状況によって対応も異なってくることはあると思います。場合によっては、今のように、総理の子供のときのように、駅員とか車掌さんに伝えたりするとか届けるとかいうこともあるかもしれませんので、一概にこれはこういうパターンだとは言えない部分があるというふうに思います。
 しかし、先ほどもちょっと答弁させていただきましたが、これまでの道徳教育というのは、ともすれば、読み物を読ませて、この物語からこのような価値観を読み取るべきだという一方的に指導する嫌いがやっぱりあったと思います。しかし、次代を担う子供たちの道徳性を育むためには、必ずしも答えは一つではない、そういう課題を子供たちに投げかけて、そして子供たち自身が考え、議論する道徳へと転換することが必要でありまして、今のようなお話も、これだけが答えで、それ以外は不正解だということではないというふうに思います。
 そういう中で、自己や人間の生き方を考え、主体的な判断の中で行動して、そして自立した人間として他者とともにより良く生きようとする、そういう道徳心が育まれるものではないかと考えます。

○那谷屋正義委員
 文科大臣は様々大局的に物を言われましたけど、総理はさすがに模範的な解答を示されたなというふうに思います。
 ただ、私だったらどうするか。そのときの気分次第ですね、まずは。自分の疲れ度合いとかいろいろあると思います。だけど、基本的には、やっぱりなるべく早くその人に気付かせてあげたい、なるべく早くその人に戻してあげたいという、そういう気持ちがどうしてもありますから、つい持っていってあげる、その人に忘れましたよってやってあげたいなという思いもあるんではないかというふうに思うんですけれども、法務大臣、突然で申し訳ありませんけど、法務大臣でしたら、この点はどのようにやられますか。

○上川国務大臣
 法務大臣ということではなく一人の人間としてということだと思いますけれども、今のようなシチュエーションというのを、どういう状況でどういう電車なのかとかいろんなことがあるので、なかなか一概に答えることはできないんですが、今先生から、非常に自然な形で飲んでいらっしゃってうっかりと忘れられたというような場面だとするならば、大きな声でお忘れになっていますよというふうに声を掛けるというのが、まず第一段階の反応を私はすると思います。

○那谷屋正義委員
 この問題を取ってもいろんな答えがあったなというふうに思います。
 実は、この問題、若い、若いと言っていいかどうか分かりません、とにかく二十六歳の女性がそういうふうなものを見て、その荷物をその人に、慌てて網棚から荷物を取って忘れましたよということで届けようとしたんです。で、電車から降りた瞬間にがちゃっと手錠が掛かっちゃったという、こういうことであります。
 つまり、今ちらっと言われていましたけれども、いわゆる通称置き引きというふうな、そういうふうな罪に問われてしまう。その人は親切心からやったにもかかわらず、そういうふうなことがあるということの中で、やはりこれ、なかなか難しい問題なんだろうなと、我々も電車に乗っていて注意しなきゃいけない話じゃないかなというふうにも思うので、ちょっとここで言わせていただきましたけれども。
 そういうふうにして、非常に一つの問題取っても様々な対応がある、そして、あるいは法的なものが絡んでくるということがある中で、やはり評価というものは難しいんじゃないかと思うんですけれども、いかがでしょうか。

○下村国務大臣
 今回の道徳の特別の教科化は、昨年十月の中教審答申「道徳に係る教育課程の改善等について」を踏まえて行ったものでございます。
 この答申におきまして、評価に関して、児童生徒が自らの成長を実感し、学習意欲を高め、道徳性の向上につなげていくことや、評価を踏まえ、教員が道徳教育に関する目標や計画、指導方法の改善充実に取り組むことが期待されることなど、一人一人の良さを伸ばし、成長を促すための適切な評価を行うことなどが必要と提言されました。
 同時に、道徳性は、今御指摘がありましたが、極めて多様な児童生徒の人格全体に関わるものでありますので、個人内の成長過程を重視すべきであって、特別の教科、道徳については、指導要録等に示す評価としては、数値などによる評価は導入すべきではないということも併せて提言されたところでございます。
 今回の道徳の特別の教科化は、考え、議論する道徳へと質的に、これまでの道徳から質的に転換することを目的としておりまして、教師の求める発言をする子供が増えたり、本音で語ることができなくなったりするような、そういう道徳教育は厳に避けなければならないと思います。
 このため、文科省としては、子供たちがいかに成長したかを積極的に受け止め、励ます評価の確立のために、平成二十七年度に、評価や道徳教育、発達障害等の専門家による会議を設けまして、道徳科の評価に関する専門的な検討を行った上で教師用指導資料の作成や指導要録の改正を行うこととしたいと思います。

○那谷屋正義委員
 道徳の教科化については、また今後、委員会の中でも議論をさせていただきたいと思いますけれども、今は予算のことであります。
 今年度の道徳教育に関する予算というのはどのぐらいなんでしょうか。

○下村国務大臣
 二十七年度予算案において、道徳教育に関して、まずは「私たちの道徳」という教材がございますが、これを全国の小中学生へ配布するのに六億円、また道徳の指導方法等に関する教師用資料の作成、配布に一・六億円、また教員研修など各地域の道徳教育の改善充実を図る取組の支援として七億円など、道徳教育の抜本的改善充実に必要な経費として十四億六千万円を盛り込んでいるところでございます。
 これらの施策によりまして、従来の読み物道徳と言われたり軽視されたりした道徳教育から、考え、議論する道徳へと質的転換を図ってまいりたいと思います。

○那谷屋正義委員
 今、「私たちの道徳」というお話がございましたけれども、これは先ほど大臣言われましたけれども、道徳が教科化されると同時に検定教科書を導入するというふうに言われていますけれども、その際、この「私たちの道徳」というのはどうされるんでしょうか。

○下村国務大臣
 道徳教育の充実を図るためには充実した教材が不可欠であり、小学校は平成三十年度、中学校は平成三十一年度から全ての子供たちに道徳科の教科書、これを無償で給与されることとしたいと思います。それまでの間においても、道徳教育の充実が求められることはもちろんでありまして、今年三月の学習指導要領の改正に伴い、この四月から各学校の判断で、特別の教科、道徳の先行実施が可能となっております。優れた教材が必要であることは変わりなく、「私たちの道徳」は引き続き配布をしてまいりたいと思います。
 しかし、特別の教科化された際には、これは教科書が新しく作成されて、検定教科書として配布されることになりますので、「私たちの道徳」はそこではもう配布は終わりということになります。

○那谷屋正義委員
 それが引き続き行われるようでは国定教科書的な感じになってしまいますので、それは安心しましたけれども。
 さっき予算聞いたらば、合計大体十五億程度と。この額が大きいか小さいかということでありますけれども、今でも様々な資料がございます、「私たちの道徳」という資料も見させていただきました。そして、実は同じ題名の副読本がたくさんいろんな会社から出ています。そういったものを見ても、どれを取ってもそんなに引けを取らないんじゃないかなというふうに思うんですけれども、それよりも、今言われたように、道徳をより充実させる意味では、非常にその環境整備が大変だなというふうに思います。要するに、これまで以上に子供たちの一人一人の成長の様子を教師が見なければいけない。もちろん、そのことは使命ですけれども、しかし、今の環境の中ではなかなかそういう状況になっていかないという問題があります。
 ですから、道徳を教科化するよりも、よりそういう意味で、子供たちの教育を強化するという意味では、何かほかにいい方法というのがあるんじゃないかと思うんですけれども、いかがですか。

○下村国務大臣
 もっとよくいい方法として教員の定数改善ということを御指摘されたいんだと思います。それは、それの部分も必要だと思います。ただ、教員が子供たちと向き合う時間を確保することは必要ですから、教職員の指導体制の整備を図ると、これは是非やっていきたいと思います。
 そのため、平成二十七年度予算におきまして、教員が授業に一層専念できるようチームとしての学校の教育力、組織力を最大化するとともに、いじめ等の問題行動等の課題に対応するため、新たな定数措置を講じたところであります。
 他方、我が国の道徳教育を全体として捉えると、歴史的な経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮があることや、教育関係者にもその理念が十分に理解されておらず、効果的な指導方法も共有されていないということ、また、各教科等に比べて軽視しがちであるというような多くの課題が指摘されているところでもございます。
 いじめ問題等に起因して、子供の心身の発達に重大な支障が生じる事案や尊い命が絶たれるといった痛ましい事案まで生じておりまして、いじめを早い時期で発見し、その芽を摘み取り、全ての子供たちを救うことが喫緊の課題でもあります。
 教員が子供たちと向き合う時間を確保するための条件整備とそれから道徳教育の充実強化は、二者択一的なことではなく、この双方を同時に行っていくことによって学校が本来の役割をしっかりと果たすことができるように応援してまいりたいと思います。

○那谷屋正義委員
 双方がというふうな今お話があり、私もそのとおりだと思います。しかし、今その双方の片方がなかなか十分になっていない中でのこの教科化というのは、やはり私は問題ではないかと。教育現場からもあるいは保護者の方からも非常に不安の声が多く寄せられているということ、現場からの必ずしもニーズではないということ、こういったことをここで申し上げておきたいというふうに思います。

平成27年4月16日(木曜日)参議院 文教科学委員会 議事録(抄)

○神本美恵子委員
 中教審が答申を出しまして、文科省としては、その答申を受けて、道徳を今の特設時間、道徳の時間から教科にする、特別の教科にするという方向で、今パブコメも終わって、学習指導要領も改訂をされて、この四月から先行実施も可というような状況になっていることは承知しておりますが、私は、この道徳を教科にするということについて、こんなに簡単にと言っては悪いですけれども、国会で十分な議論もなしに行われていくことについて大変な危惧を持っております。そういう問題意識から今日は質問させていただきたいと思います。
 先月、三月十六日の参議院予算委員会で自民党の議員から、八紘一宇という言葉を使いながらこれを肯定的にする、そういう質疑がございました。
 八紘というのは、四方、よもと四隅のことですけれども、転じてこれを天下、全世界と表して、宇というのは屋根のことであります。言葉そのとおり解釈すればそういうことであります。つまり、世界を一つの家とするという考え方です。
 太平洋戦争期に、この言葉は日本の海外侵略、進出を正当化する標語として用いられたことは皆さんも御承知のことだと思います。ですから、この言葉は戦後はほとんど使われておりませんし、政治家の認識もそのように持っているものと承知しています。
 一九八三年、昭和五十八年ですけれども、一月の衆議院本会議で、当時の中曽根康弘総理大臣は本会議の中で、「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」というふうに述べられています。
 さきの参議院のあの発言に対して、八紘一宇本来の言葉の意味は違うんだというようなコメントが、ネット上でも擁護するようなコメントが見られますけれども、言葉、特に政治家が使う政治的な言語というのは、それが語られた歴史的な文脈の中で理解すべきであって、本来の言葉の意味はこうだああだというようなことは通用しないと私は思います。
 そこで大臣にお聞きしますけれども、中曽根元総理の認識、こういった八紘一宇に対する認識ですけれども、それと下村大臣の認識は同じでしょうか、それとも違うでしょうか。もし違っているならどの点が違うのか、お聞かせいただきたいと思います。
 そしてまた、政治的な言語、標語などは、それが用いられた歴史的な文脈の中で判断されるべきではないかという点についても御見解をお示しいただきたいと思います。
 あわせて、そう言うのも、道徳のことを聞きたいのに何で八紘一宇なんだと思われるかもしれませんけれども、道徳もまた同じでありまして、それが用いられ人々の規範となった時代や歴史の文脈を抜きにしては考えられないというふうに私は思っているからであります。
 大臣は先日、那谷屋議員から、教科化することが現場からの要請なのかと問われたのに対して、こうお答えになっています。歴史的経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮があるなどの課題が文科省に設置された道徳教育の充実に関する懇談会や中教審によって指摘されているということを紹介されておりましたけれども、では大臣御自身は、道徳教育が戦前そして戦後たどってきた歴史的経緯をどのように認識され、今回なぜ教科化するという判断をされたのか、お答えいただきたいと思います。三つほどお伺いしておりますが。

○下村国務大臣
 まず、八紘一宇でありますが、これは自民党の三原じゅん子議員が三月十六日の参議院の予算委員会で発言されたことであります。私も、それは同席しておりましたから聞いておりました。
 元々、三原委員がおっしゃっていたのは、八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、天の下覆いて家となさむとおっしゃったことに由来している言葉であるということで言われている中で、この八紘一宇というのは、世界が一家族のようにむつみ合うこと、一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない、一番強い者が弱い者のために働いてやる制度が家であると、それが本来の初代神武天皇の即位のときの趣旨であると。それはそうであろうというふうに思います。
 中曽根元総理がどんな発言をこのことについてされているのかということは、全てにおいて承知しているわけではありませんが、中曽根総理のときの御発言の中で、戦前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであったというような御発言とか、それから、私は、中曽根総理、当時ですね、八紘一宇という言葉には戦前の限定された意味が非常に強くありまして、私自身はそういうものは取りませんと発言されていますが。
 元々も、確かに神武天皇の頃の、これは八紘一宇という言葉ではなかったと思いますが、趣旨はそういう趣旨で、それ自体はすばらしいお考えだというふうに思います。
 ただ、歴史的な経緯を見ますと、この八紘一宇というのは、これは昭和十三年の「建國」という書物の中で初めて出てきた言葉だというふうに承知しておりますので、やはり八紘一宇という言葉自体の四字熟語が、中曽根当時総理が言われたように世界では取られているし、また我が国でもそういうふうに取られているという部分がありますので、私は、今この時代にもう一度、八紘一宇という言葉を使って、趣旨はともかくとして、しかし定義としては戦前のある意味では軍国主義の象徴のような言葉としてやっぱりイメージされていますから、これは、私自身、使うこととしては適切でないというふうに考えております。

○神本美恵子委員
 それともう一つ、道徳教育が戦前戦後たどってきた歴史的経緯をどのように認識されているかということもお聞きしたんですが、併せてお願いします。

○下村国務大臣
 まずは歴史的な経緯ということで申し上げたいというふうに思いますけれども、これは、道徳の教科化が実現してこなかった過去の議論ということでありますが、平成二十年の学習指導要領の全面改訂の際に道徳の教科化についても検討をされましたが、このときの結論としては、指導内容をより体系的なものに見直すことや道徳教育推進教師を配置することなどによりまして指導の充実を図ることとして、教科化は見送った経緯があります。
 しかしながら、平成二十五年二月の教育再生実行会議第一次提言におきまして道徳の時間の新たな枠組みによる教科化が提言されたことを受けて文部科学省に設置されました道徳教育の充実に関する懇談会や中央教育審議会においては、歴史的経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮があると。
 この歴史的経緯というのは、これは戦前の修身、この修身の徳目についても、基本的には今の時代に合うものがほとんどだと思いますが、しかし、全てではなくて一部、これは戦前の徳目であるけれども今の徳目に合わないという部分があります。これは基本的に教育勅語から来ていると思いますが、そういう中で、その教育勅語そのものが戦前の軍国主義を更に加速させるための思想的なバックボーンになったのではないかというようなことがあることによって戦後それも教えられなくなったと、そういうふうな歴史的な経緯、影響があるというふうに思います。
 それから、教師の指導力が不十分である、また他教科に比べて軽んじられている、あるいは読み物の登場人物の心情理解のみに偏った形式的な指導が行われる例があるなどの課題が今現在も存在することが指摘をされました。
 また、平成二十四年度に実施した道徳教育実施状況調査の結果では、道徳教育実施上の課題について、各学校も、指導の効果を把握することが困難である、あるいは効果的な指導方法が分からない、また適切な教材の入手が難しいと考えている実態も明らかになりました。
 中教審においては、これらの現状を変えるために、道徳の時間を従来の教科とは異なる特別の教科として新たに位置付けるとともに、道徳科を要として効果的な指導をより確実に展開するため検定教科書を導入することが必要と提言をいたしました。
 文科省としては、これらの指摘を踏まえ、道徳の時間を教育課程上の特別の教科に位置付けるというふうにしたものでもございます。

○神本美恵子委員
 大臣自身、戦前の修身というこの道徳教育の教科については、軍国主義的な考え方を植え付ける上で問題であったというような、その徳目の中も、今通じるところもあるけれどもそういう問題はあったという御認識は示されたんですけれども、その後、戦後またたどってきた歴史的経緯というのもまたあると思うんですね。
 その歴史的経緯をどのように認識されて今回教科にするというふうに判断されたのかということについては、ちょっと今お答えは明確になかったんですけれども、昨年十月にまとめられた中教審の答申では、教科化が必要な理由について、道徳の時間は各教科等に比べて軽視されがち、道徳の要として有効に機能していないことも多く、このことが道徳教育全体の停滞につながっているということを挙げておりますけれども、道徳の時間として充実を図るのではなくて、なぜ教科という形を取らなくてはならないのかということが私には分からないんですね。
 もう一度お聞きしますけれども、道徳を教科にしなければならない解決されない課題とは何なのかということをお答えいただきたいと思います。

○下村国務大臣
 道徳教育は、人が人として生きるために必要な規範意識や社会性、思いやりの心など豊かな人間性を育み、一人一人が自分に自信を持って、また社会の責任ある構成者として幸福に生きる基盤をつくる上で不可欠なものであるというふうに考えます。
 戦後の我が国における道徳教育は、学校教育の全体を通じて行うという方針の下に進められてきたという経緯があったと思います。特に、昭和三十三年の改訂で初めて告示として制定された学習指導要領におきまして、教科とは別に、小中学校に各学年週一時間の道徳の時間が設置されて以降、この道徳の時間が学校教育全体で行う道徳教育の要として位置付けられてきたという経緯がございます。
 そして、先ほどもちょっと申し上げましたが、平成二十年の学習指導要領の全面改訂の際には、教育再生実行会議、これは当時は教育再生会議ですね、教育再生会議などにおける議論も踏まえて道徳の教科化についても検討をされましたが、結論としては、指導内容をより体系的なものに見直すことや道徳教育推進教師を配置することなどによりまして指導の充実を図ることとして、道徳の教科化というのは見送ったという経緯がありました。
 しかしながら、我が国の道徳教育を全体として捉えると、歴史的な経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮があることや、読み物から一定の価値観を読み取るべきとする一方、形式的な指導も見られることなど各教科等に比べて軽視しがちであることなど、多くの課題が指摘されております。
 また、いじめの問題などに起因して、子供の心身の発達に重大な支障を生じる事案や、尊い命が絶たれるといった痛ましい事案まで生じておりまして、いじめを早い段階で発見し、その芽を摘み取り、全ての子供を救うことが喫緊の課題ともなっております。
 こうした状況の下で、教育再生実行会議の第一次提言、道徳教育の充実に関する懇談会報告や中央教育審議会答申を踏まえて、今回、道徳の時間を従来の教科とは異なる特別の教科として新たに位置付けたものであります。このことによりまして、その目標や内容等を見直すとともに、検定教科書も導入し、また見方や立場によって答えは一つでない課題、道徳は特にこれだけが正義でこれだけが正しいとは言えない部分があると思います。自分の問題として考え、捉え、そして真剣に議論するための道徳、アクティブラーニング等もここに入れる必要があるのではないかと思います。そういうふうに質的に転換をし、学校の道徳教育全体の真の要として機能する、そのことが可能になるのではないかと考えております。

○神本美恵子委員
 私がお聞きしたかったのは、道徳を教科にしなければ解決できない課題というのは何なのかということをお聞きしたかったんですが、戦後の道徳がどのように扱われてきたのかということの御説明が今あったんですけれども、中教審が言っている、さっき私申し上げました、ほかの教科に比べて軽視されがちであるとか、道徳教育全体が停滞しているというようなことを挙げて、だからこれを教科にしようというように受け取れるんですけれども。
 それだけでは全く、私も現場感覚でいえば、各教科に比べて道徳の時間が軽視されているというよりも、各教科の中でも受験科目以外の芸術とか体育とかそういうものは本当に軽視されているんですね、もう実態的に。道徳の時間だけではありません。受験科目に振り替えたりというような、現場ではそういう現実対応といいますか、ことが行われているその中の一つとして、確かに道徳の時間がほかの受験科目に変えられたりという実態はあるかもしれませんけれども。
 むしろ、今の道徳の時間の扱いというのは、学校教育全体で行う道徳教育の要としてそこに一時間あるのであって、あとはもう日常的に、本当に道徳教育上の課題というのは、私も経験がありますけれども、朝学校に来て子供同士トラブっている、それを解決しないと一時間目の授業に入れないというようなことが現実的に、道徳の時間一時間ではとても解決できない問題が山ほどあって、例えば一時間目の国語の時間に朝の会が食い込んで、トラブルを収めて解決を何とかして気持ちを授業に向かせて、そうすると国語の時間が減っているわけですよね。その分をどこかで取り返さなければいけないというような、まあ学校は小学校も中学校も学級担任がそういう工夫をしながら、道徳教育といいますか、学級集団づくりといいますか、特別活動といいますか、そういうことを柔軟にやっているので、決して道徳の時間を使っているから使っていないからとか、副読本を使っている使っていないとかいうことでは測れない。
 そういう現状があることを考えれば、これを教科にしたからといって、そして検定教科書を配って、そして一定の評価をしたからといって、道徳教育が充実したものになるとはとても思えないので、教科にしなければならない解決されない課題とは何かということをお聞きしたかったんですけれども、逆に、これを教科にするということは、以前、那谷屋議員が質問したように、学校現場からの要求、要請ではなくて、別なところにこの教科にするという、何かあるのではないかというふうに私は危惧を持たざるを得ないわけです。
 そこで、道徳教育の歴史というものを振り返ってみたいと思います。
 私は、国会図書館などにもお手伝いいただいて、戦前からの道徳教育の始まりからずっと、どのように議論されて今日に至ってきたのかということを私なりに勉強させていただきました。そうすると、やはりこれを教科にして、検定教科書、まあ戦前は国定教科書ですけれども、それを作って、そして評価をするということは、大変別な意味で危惧がある、危険性があるということを歴史を学べば学ぶほど思うわけです。
 それで、限られた時間ですけれども、先ほど大臣もちょっとおっしゃいましたが、戦前は修身として登場したこの教科は、改正教育令で最も重要な首位教科と位置付けられて、国語、算数、体操みたいなのの三科目ぐらいしかない中の一番上に修身というのがあって、首位教科なんですね。重視されて、先ほどおっしゃったように、明治天皇の名で出された教育勅語をその修身の時間に暗記をさせて仁義忠孝の心を植え付ける。そのためには、これは改正教育令で書かれているんだと思いますが、「幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スル」、つまり幼少時から洗脳することが必要だとされてこの修身が位置付けられ、そしてそれが、国に殉ずる、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」というその教育勅語の文言で分かりますように、殉国思想や皇国史観が子供たちに幼少の頃から植え付けられていったという、これは紛れもない我が国の道徳教育の始まりの歴史であるわけですね。
 首位教科、筆頭教科として位置付けられてそういうことが行われてきた、そのことは何もそうやったからそのとおりになったということはないかもしれないとおっしゃるかもしれませんけれども、当時、国民学校の教員であった作家の三浦綾子さんは、実際に自分が少年航空兵募集のポスターを指しながら、まだ小学校三年生の子供たちに、大きくなったらあなた方もお国のために死ぬのよと語ったという。これは私も、戦前母親が教員をしておりましたので、母親にそんなことを問い詰めたこともあります。子供にそんなことを教えてきたのというように問い詰めたことがあるんですけれども、そういう事実や、また、修身教科書の内容を徹底する上で成績評価や入学考査が重要な役割を果たしてきていたことは、国民学校の当時、子供だった作家の山中恒さんはこう証言しております。上級学校に進学を希望する場合、何が何でもいい内申書を書いてもらうために先生に気に入られるように振る舞ったと。
 このことは、戦前だからということではなくて、今でも、検定教科書が配られてそれに基づいて教科として評価をされるということになれば、こういう懸念が、これからはそんなことはないとは言い切れないというふうに思うんですね。そういう危惧を非常に強く抱くわけですけれども。
 私は、その後、もう少し紹介したいと思うんですけれども、一九四五年、敗戦を迎えて、占領軍が修身教育はこれは廃止をしました。当時、文部省は、高等学校用教科書、文部省が教科書を出していたらしいんですけれども、「民主主義」という教科書の中で、民主社会では、政府が教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは最もよくないことであると述べて、修身のような教科を設けずに学校教育全体を通じて行うことにしているんですね。
 それからずっと、先ほど大臣が紹介されたように、教育課程審議会や中教審や教育改革国民会議などで何度も教科にすべきというような意見も出たようでありますけれども、それはよくないということでずっと来ていたわけです。
 なぜよくないかというと、道徳教育を主体とする教科あるいは科目は、ややもすれば過去の修身科に類似したものになりがちであるのみならず、過去の教育の弊に陥る糸口ともなるおそれがあるというような、文部省、その後の文科省、一貫してそういうスタンスでずっと来ていたわけですけれども、これらの考え方というのは、私は今日でも全く当てはまる、こういう懸念という、危惧というものは当てはまると思うんですけれども、今回、こうした過去の議論が根底から覆されて、教科にする、明確な教科にしなければならない、道徳教育が充実できないということはお答えがなかったんですけれども、その覆された理由は何なのかということをもう一度お伺いしたいと思います。

○下村国務大臣
 まず、神本委員は現場で教師をされておられた、その体験からのお話でもありますから、大変に重いものがあるというふうに思います。
 おっしゃるとおり、学校教育全体がある意味では子供たちにとって道徳的な環境であるというのはもうそのとおりでありまして、道徳を特別の教科化にすれば、そこだけに特化すればいいという話では全くないというふうに思います。
 ただ、一般的にも、やっぱり教育というのは、知育、徳育、体育の三つをバランスよくきちっと教えるべきだと。徳育に対する社会からの、子供たちに対する、学校現場に対する期待というのは大変大きなものがありまして、どんな世論調査でも、道徳についてもっと力を入れるべきだと、あるいは、道徳を特別の教科とすべきだということについては、六割から高いところでは八五%ぐらいのそういう賛成があるということでありまして、なぜそれはそうなのかということを考えると、本来は家庭で徳育の部分についてはきちっとやるべきところが、家庭力が弱くなってきている部分があるし、また地域力も弱くなっている部分があるので、家庭教育、地域教育、学校教育ということであれば、学校教育に対して更に期待をしたいと、そういう表れが道徳をもっと教えてほしいという、そういう世論調査の結果にも出ているのではないかというふうに思います。
 ただ、今回、なぜ教科にするということについては、戦前のような修身教育を復活しようということではないということが基本的にあります。これは、今回の道徳の特別の教科化は、昨年十月の中央教育審議会答申、「道徳に係る教育課程の改善等について」を踏まえて行うものでありますが、この答申におきまして、評価という先ほどのお話がありましたが、評価に関しては、児童生徒が自らの成長を実感し、学習意欲を高め、道徳性の向上につなげていくことや、評価を踏まえ、教員が道徳教育に関する目標や計画、指導方法の改善、充実に取り組むことが期待されることなど、一人一人の良さを伸ばし、成長を促すための適切な評価を行うことが必要と提言されていると。これは今までなかったことだと思います。
 つまり、先ほどの危惧の中でもお話がありましたが、道徳を他の教科と同じように一、二、三、四、五の例えば通知表で付けるということはやっぱりなじまないということの中で、教科化にすることについては慎重な意見があったわけでありますが、そもそもそういう評価そのものをやめようということからこの中教審の答申もスタートしております。
 そして同時に、道徳性は極めて多様な児童生徒の人格全体に関わるものであるから、個人内の成長過程を重視すべきであって、特別の教科道徳について指導要録等に示す評価として数値などによる評価は導入すべきでない、こういう提言がされているというのは今申し上げたとおりであります。
 そのために、文科省としては、子供たちがいかに成長したかを積極的に受け止め励ます評価の確立のために、平成二十七年度に評価や道徳教育、発達障害等の専門家による会議を設け、道徳科の評価に関する専門的な検討を行う上で、教師用指導資料の作成や指導要録の改訂を行うこととしております。つまり、他者との比較ではなくて、一人一人の子供がトータル的にどのように伸びているかどうかということについて記述式で教師が書くというような、他者との比較検討ではない。
 ですから、さらに、この道徳の時間も、教師が教科書にのっとって一方的に講義をする、説明をするということでなく、まあ、これは道徳だけでなく、これからの我が国において、教育全体、他教科にも必要な部分として、例えばアクティブラーニングというのがあると思います。受け身だけの教育ではなくて、子供たちが自ら積極的な主体性を育むような、あるいはコミュニケーション能力を育むような、そういう意味で、道徳というのは、正義は一つだけではないと、いろんな角度から見たときにいろんな考え方があるという典型的な、それを指導できる科目にもなるのではないかというふうに思いますし、そういうような形で、子供たちの広い意味での徳育、それは、一方的に教師が何か価値観を教科書によって与えるとかいうことではない、そういう新しい道徳ということをこれから是非考えていく必要があるというふうに思います。

○神本美恵子委員
 いろいろおっしゃいましたけれども、道徳性の向上の状況を記述式で評価をする。評価ですよね、これはね。航空兵のポスター見ながら、あなたたちも立派な大人になってお国のために死ぬのよというようなことは言わないまでも、教師が何らかの形で記述であれ評価をしていくということは、その方向性がそこで方向付けられるといいますか、私はこの評価というのは本当に問題だと思います。この道徳の評価じゃなくても、内申書、特別活動の記述式の評価などにおいても、もう内申書に影響するといって、やりたくもないボランティアをやるとか、高校生がやっているふりをするとか、中学生ですか、そういう話も過去に何度もあったわけですね。
 ただ、これを普通の教科、科目であったら検定教科書を使って評価をするというような、一応そういうふうな考え方があるんですけれども、特別な教科であればこれは評価を要件としないということも可能じゃないですか。そんなことはできないんですか。

○下村国務大臣
 基本的にどのように評価することかと、評価すべきかということの今検討でありますが、まず一つは、数値による評価ではなく、先ほど申し上げました記述式の評価がいいだろうと。また、ほかの児童生徒との比較による相対評価ではなくて、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め励ます個人内評価として行うことが望ましいのではないか。また、他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないということに対してきちっと留意する必要があるということ。それから、個々の内容項目、このことについてはきちっとやれているとかやれていないとか、そういう生徒に対する評価ではなくて、全体的な大ぐくりなまとまりを踏まえて評価を行うべきではないか。それから、発達障害等の児童生徒についての配慮すべき観点等を学校や教員間で共有をすることであると。それから、あとは現在の指導要録の書式における総合的な学習の時間の記録とか、それから特別活動の記録、また行動の記録及び総合所見及び指導上参考となる諸事項、こういうふうな既存の欄も含めて、その在り方を総合的に見直す必要があるのではないかということが、今基本的な方向性を前提に専門的な検討を行っていきたいと思います。
 ですから、御指摘のような、何か教師にとって、あるいは教師に対して、いわゆるいい子のような態度を取ることが、それがその評価につながるというようなことでない道徳の特別の教科の評価、検討をしていきたいと考えております。

○神本美恵子委員
 それが不可能だと言っているんです。これも現場経験からですけれども、むしろ国語、算数、理科、社会のように、何らかの知識のテストをしたりして、そしてここまでは到達したからといって数値で評価をするというのは、これはもうはっきりとした根拠が子供にも分かるし、保護者にも分かるからいいんですけれども、文章表現でやる評価というのは、本当に教師自身の受け止め方とかになるわけですから、さっき山中恒さんのことを紹介しましたけれども、この成績、修身の評価によって自分の上級への進学に影響するから教師の気に入るような人間になろうと、そういう振る舞いをしようというようなことに、これはもう確実になる。そういう弊害があるということで、そういう弊害が単なる教師の気に入るようになろうというだけではなくて、教師がどういう人間を育成しようとするかによって一つの方向に行くということを私は戦前の歴史から学ぶべきだという意味で、評価はすべきでないというふうに思います。
 なぜ、なぜ教科にしなければいけないのか、なぜ教科にしたいのかということについて、やはり私はどうしても危惧が拭えない。それは、敗戦後、修身が占領軍によって廃止された。その後、日本が主権を回復した後も、教科にしようというような動きがあったりしたけれども、それでも文部省は教科にしない、評価をしない、検定教科書を使わないということでずっと来たのに、なぜ今こういうことをやろうとしているのかということについて、私は、安倍内閣の戦後レジームからの脱却、第一次安倍政権のときにおっしゃっていましたし、今第二次政権になってから、その間も学習指導要領の中に愛国心というような言葉が出てくるようになった。前から出てきていますけれども、それを低学年からやるという、愛国心を強調しようとしているというようなそういう動きを考えますと、教科にして評価をする、検定教科書については今日はちょっと触れる時間がありませんでしたけれども、評価をするということは、これはやっぱりやってはいけないことだというふうに思いますけれども。
 これからどういう評価をしていくかということは検討されるとおっしゃっていますけれども、もう一度聞きますが、その検討の中で評価をしないということも可能性としてあるのかどうか、お伺いしたいと思います。

○下村国務大臣
 まず、今、神本委員がおっしゃったような、まあこれは危惧というふうに申し上げたいと思いますが、それは当てはまらない。そういう教育を、つまり何か全体主義的な、国民主義的な教育を復活させようとか、そういう思いは毛頭ないということを申し上げたいと思います。
 先ほど内申書のお話をされましたが、私の方も内申書、いわゆる指導要録のことを申し上げましたけれども、そこの内申書へどう記述するかどうかということがその具体的な評価につながっていくのではないかと、そういう危惧だと思いますが、これは、内申書、指導要録について、先ほど申し上げましたように、総合的な学習の時間の記録とか特別活動の記録とか行動の記録とか総合所見及び指導上参考となる諸事項、これは全部記述式で書くことになっておりますが、そこに新たに道徳の、特別な教科化になったらどう記述をするのかということがやっぱり出てくるというふうに思いますので、既存のそういうふうないろんな欄も含めてトータル的にその在り方を総合的に見直すことにしておりますので、道徳だけの記述を書き込むかどうかということについては、今のような御指摘も踏まえながら専門家の方々に検討をしてもらいたいと思います。
 少なくとも、先ほど申し上げましたように、これから目指す特別の教科道徳というのは、一方的に例えば教科書とかあるいは教師が一つの価値観を子供たちに教えるということではなくて、アクティブラーニング、子供たちが議論をしながら、一方で、やはり人が人として生きるということはどういうことなのか、幸せというのはどういうことなのかという基本的なそういうことを子供たちにきちっと考えさせる、議論をさせると、また、その中で必要な教材に教科書を使ってそれを考えさせるということはやっぱり大切なことなんではないでしょうか。数学も英語も国語も大切でありますけど、同時に、人が人として生きるという基本的なそういう意味での徳育、これは偏向教育とか特別な価値観を与えるということではなくて、主体的に子供たちに自ら考えさせると、そういう時間を持たせるということについては大切にすべきだと思います。

平成27年4月23日(木曜日)参議院 文教科学委員会 議事録(抄)

○斎藤嘉隆委員
 別のちょっと話題に変わりたいというふうに思いますけれども、これまでも議論を再三されて、再三でもありませんがされてきました、先般の委員会でも議論されていました新しい道徳教科化について少しお伺いをしたいと思います。現場目線でお伺いをしたいというふうに思います。
 今日は評価の問題についてであります。道徳ですから、子供たちの心情、内面を評価をするということでありますけれども、外形的な記述とか発言、表情、こういったもので評価をしていくんだろうというふうに思いますが、私自身がもし現場の教員であるとなかなか容易ではないなというふうに率直に思います。
 道徳の教科化に当たって私が一番危惧をしているのはこの評価の問題でありまして、評価をどうしていくか、このことについては慎重に今後も検討していかなければいけないというふうに思いますが、その前に、これはもう局長でも結構です、そもそも教科というのは、定義は何ですか、教科の。

○小松政府参考人
 教科について法令上、一般的に詳細な定義をしたものはございませんけれども、基本的には、各お勉強をする領域を構成するそれぞれの分野について体系的、組織的、計画的に区分をいたしまして、これを各学年に配当いたしまして、学校教育法上の目的に定める目標を達成するように授業を展開する、その固まりのことというふうに考えております。

○斎藤嘉隆委員
 二〇〇八年に中教審がこの教科について一定の見解を出しています。これ一般的に教科というのは、専門の教員が指導をする、それから教科書を用いて指導をする、それから一般的には数値的なもので評価を行うと、これが教科だと、一般的なところでいう教科だという、そのような見解を示しているんですね。
 今回は特別な教科ということであります。じゃ、どこが特別なのかということでありますけれども、特別な教科であれば、私は特段、一般的な教科の定義に合わせて教科書とかそれから評価というものを、どうしてもそれを導入しなければいけないという考え方に立たなくてもいいんではないかというようにも思います。
 これ、実はなぜこのようなことを申し上げるかというと、ちょっと現場で聞き取りをしてきました。さっきの定数の問題にも関わるんですけれども、今、例えば小学校で通知表とか指導要録などに文章をもって記述をする中身がどれくらいあるかというと、これは自治体とか学校ごとによってまちまちでありますけれども、例えばどこの地域でもあるのは、行動全般、学習も含めた総合的な部分での所見、これは大抵どこでも通知表に記載をします。あと、これ以外に特別活動の記録、これも多くの学校で記載をする。今は総合的な学習の時間の評価というのも文章表記をすることになっていますから、これも必ずあります。これ以外に最近では、総合的な学習の時間の評価以外にですよ、小学校の高学年では外国語指導の評価について書くという実は自治体、学校も増えてきています。これ以外に、それぞれの教科について、小学校でいえば観点別の三段階評価って一般的なんですが、これを行います。そして、学年末にはそれを基にした評定、三段階であったり五段階、五、四、三、二、一という数的なものですね、こういったものも出すわけですよ。
 今、例えばこういうところでクラスに四十人の子供がいて、これだけのものを担任の先生一人で作られるんですね、毎回。学校によってはそれを管理職の方がチェックをしますので、一々、一覧表にして全て出すわけです。何枚もです、何枚も。今この評価というもので、今説明責任も求められますから、大変な労力がここに注ぎ込まれている、時間的なものも含めてです。これに、今文科省の方で議論をされている道徳の評価が加わる。僕、もう本当にぞっとするんですね。
 これ、なぜここまで、ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、教師を子供たちから遠ざけるのか、なぜここまで教員たちを机に縛り付けるのか、そのような政策ばかりが次々と出てくるのか。本当に今の現場の多忙な状況、TALISでも出ていましたけれども、が本当に理解されているのかというのが、率直に申し上げて非常に疑問なんです。
 このことについて、特にこれ、道徳の評価というのが一個加わることによる、また、この多忙な状況に拍車を掛けるということがあるんですけれども、この観点から、この道徳の評価についていかがでしょうか、大臣、お考えを。

○下村国務大臣
 現場経験からの御質問だと思います。
 我々は、もちろん教師を更に多忙化の中で机に縛り付けるような施策をするつもりは全くございません。
 御指摘ありましたように、なぜ教科化、特別の教科化にしたというのは、教科というのは、教科書があって、そして指導する専門の先生がいて評価をすると。しかし、その評価はほかの教科とはなじまないということの中で、特別の教科という位置付けをしたわけであります。
 この評価については、これから専門的な検討をしていただくことになっていますが、御指摘のような教員の負担にも十分留意しつつ、数値による評価ではなく記述式にすること、また他の児童生徒との比較による相対評価ではなく、児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め励ます個人内評価として行うこと、他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること、個々の内容項目ごとではなくて大ぐくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと、また発達障害等の児童生徒についての配慮すべき観点等を学校や教員間で共有することが必要だと思います。
 そのために、御指摘ありましたが、現在の指導要録の書式における総合的な学習の時間の記録、それから特別活動の記録、また行動の記録及び総合所見及び指導上参考となる諸事項など、さらに外国語も入っているというお話がありました。このような既存の欄も物すごく膨大な確かに量になることは事実です、この道徳の特別の教科化の記述も入れればですね。ですから、その在り方そのものも総合的に見直そうと、そういう基本的な方向性を前提に専門的な検討を行うことによって、負担増にならない、既存の記述式も含めた指導要録の書式についても併せて整理することを含めて検討してまいりたいと思います。

○斎藤嘉隆委員
是非、これまでは、新たなものが加わってきた、どんどん加わってきて膨大になってきていますけれども、例えば総合所見には、通常、道徳的な視点でも書くんです、いろいろその子供を評価、評価というか、について所見を申し述べるときに。こういったものに僕はもう組み入れて精査もできるんではないかなと。総合所見のところに道徳的な評価を含んだ表記をするというようにしていただければ要録の方も精査できますし、そんな意味での是非検討を、今大臣おっしゃったのは多分そういうことだと思いますので、是非していただきたいというふうに思います。

平成27年6月9日(火曜日)参議院 文教科学委員会 議事概要(※文部科学省において作成)

○秋野公造委員
 道徳教育と発達障害、特に自閉症についておうかがいしたいと思います。小・中学校の発達の段階に応じてカリキュラムが組まれており、そのことは大変重要だと思います。改正後の学習指導要領においては、児童生徒の発達の段階を考慮するとなっているが、それだけでは不十分です。児童生徒の発達の段階が一様ではないということだけではなく、障害のある子供がいらっしゃるからです。そのような児童生徒にも、しっかりとした配慮や指導が行われるべきと考えますが、文科省の見解をうかがいたいと思います。

○小松政府参考人
 委員御指摘の通り、発達の段階ごとの特徴はもちろんありますが、児童生徒一人一人は違う個性をもった個人であり、また、それぞれ能力・適性、興味・関心、性格などの特性等が異なっていることから、教育課程の編成や、指導内容や指導方法を考える上では、個々人としての特性等から捉えられる個人差にも配慮することが求められると思います。
 特に道徳科は、社会性をもちつつ真摯に自己に向き合い、自分との関わりで道徳的価値をとらえ、一個のかけがえのない人格としてその在り方や生き方を深めていくことを重視しています。指導に当たっては、発達の段階とともに個々人としての特性等から捉えられる個人差にも意を用いる必要があり、その観点から、様々な手段を講じてまいりたいと考えております。

○秋野公造委員
 道徳科については、数値による評価は行わないものの、中教審答申では、「道徳性については多面的・継続的に把握し、総合的に評価する」とされています。私が心配しているのは、発達障害の児童生徒がその評価において、その年齢において見られる発達の段階というものが評価の尺度になった場合、はじめから不利な状況になるのではないかということです。以前、我が党の浮島議員からの質問に対し、発達障害の児童生徒への配慮の必要性について答弁いただきました。私もその点については重要であると考えており、そのような児童生徒への評価の配慮については、今後、しっかりと検討していただきたいと考えますが、文部科学省は今後どのように取り組まれていくのかお伺いしたいと思います。

○小松政府参考人
 道徳の評価については、昨年10月の中央教育審議会答申の「一人一人のよさを伸ばし」、「成長を促すための適切な評価を行う」ことが必要であり、「指導要録等に示す評価として、数値などによる評価は導入すべきではない」という観点を踏まえ、どのような評価の在り方が適当か専門的な検討を行うため、本年5月に評価や道徳教育、発達障害等の専門家による会議を設置し、今月15日に第1回会議の開催を予定しています。
 この会議においては、発達障害等の児童生徒についての配慮すべき観点等を学校や教員間で共有することなどといった基本的な方向性を前提に、専門的な検討を行っていく予定であり、今後、会議での検討などを踏まえ、今年度中に、教師用指導資料の作成や指導要録の改正を行う予定です。こうした取組を通じまして、道徳の評価が適切に行われるよう努めてまいりたいと思います。

○秋野公造委員
 発達障害だけでなく、自閉症についても検討いただくということでよろしいでしょうか。

○小松政府参考人
 自閉症も含めてしっかり検討してまいりたいと思います。

○秋野公造委員
 よろしくお願いいたします。現在は、文科省が作成した「私たちの道徳」などの副読本が用いられているが、特別の教科になると教科書を使わなくてはならないということになります。その学年の教科書しか使えなくなるのではないか、これでは個々の発達の段階に応じた対応は限定的になるのではないかと懸念します。この点にどのように対応していくのか、また、副読本は使えなくなるのかという点についてお伺いしたいと思います。

○小松政府参考人
 「考え、議論する」道徳教育への転換を図るためには、主たる教材を安定的・継続的に提供する必要がある。同時に、民間発行者の創意工夫を生かし、バランスの取れた多様な教科書を認めるという観点から、国の責任により、全ての児童生徒に無償で給与される検定教科書を導入することが適当であると考える。
 検定教科書が無償給与されることとなった後も教科書以外の補助教材を使用することは可能であり、各自治体で独自に作成している教材などと検定教科書の両者をうまく使用し、児童生徒の個性にも配慮した道徳教育の充実を図ることが重要であると考えます。

○秋野公造委員
教科書だけではく、多様な教材を使うことが必要であるということは理解しましたが、その上で、どのような配慮が必要であると考えているのか伺いたいと思います。

○小松政府参考人
 発達障害の児童生徒への学習指導に当たっては、その特性を踏まえた上で、例えば、視覚を活用した情報の提供や実際的な体験の機会を多くすること、学習活動の順序が分かりやすくなるよう活動予定表を活用することなどの配慮を行うことが有効であり、文部科学省においては、これらの教育的支援を促す資料を作成し、教育委員会に配布しています。
 道徳科における指導においても、このような観点から、教科書とは別に写真や図面など視覚を活用した教材を併用するなど、授業において扱う道徳的な課題を分かりやすく示すなどの工夫が考えられるところであり、今後、道徳科の評価に関する専門的な検討の中で具体的な創意工夫の事例を集め、教師用指導資料に盛り込むなどの取組を行ってまいりたいと考えます。

○秋野公造委員
 道徳の教科化には期待をしています。発達障害の子供への対応を進めることが、全体として物事をよい方向に向かわせるのではないかと考えますが、大臣の見解を伺いたいと思います。

○下村国務大臣
 道徳の「特別の教科」化に当たっては、自閉症を含めた発達障害などの子供たちに対しても十分な配慮を行う必要があると思います。先日も、特別支援学校を視察して、改めて感じました。
 具体的には、今回の「特別の教科」化により、道徳の授業において、答えが一つではない課題に子供たちが自分なりに向き合う「考える道徳」、「議論する道徳」に転換する中で、例えば、自閉症の子供については、その特徴を理解し、専門性のある指導体制を整備したり、視覚的な情報を多く活用するなど、教材の提示に配慮したりすることなどが考えられると思います。
 文部科学省としては、道徳科の評価や指導方法の在り方について、来週15日から専門家会議で議論を深めることとしています。その中で、自閉症を含めた発達障害のある子供たちに対して、いかなる配慮や工夫が効果的かなどについても検討し、全国の小・中学校の教員への情報共有などに努めるとともに、指導体制の充実を図ってまいりたいと思います。

○秋野公造委員
 どうぞよろしくお願いいたします。

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