資料2-3-3 発表資料

不登校の子どもの保護者手記

2.家を中心に育って

発表者 京藤裕子(ホームエデュケーション保護者)

我が家のホームエデュケーション

 我が家の息子は、小学校一年で不登校になってから、ホームエデュケーションを基本にフリースクールや通信制高校なども利用して学び育ち、今年大学に入学しました。

 ホームエデュケーションとは、家庭を拠点に、子どもの個性や人格を尊重し、その興味や意欲を大切にしながら、家庭や地域の教育資源を活用して、親が子どもの成長に責任を持ってやっていく学びの方法です。そのやり方は、家庭によって様々ですので、あくまで一つの例として、我が家の場合を振り返って、ご紹介したいと思います。

 息子が小学校一年で不登校になったときには、落ち着きのない子とか集団行動が苦手な子と言われ、学校のやり方には合わないと思いました。けれども、好奇心が旺盛で好きなことには集中力を発揮する子で、私たちは、これを個性と考え、まず、息子の興味のあること、やりたいことを存分に追求できるように励まし、得意なことの力が伸びていけば、そこから、やがて苦手なこともできるようになるのでは、と考えました。そして、そのために、ホームエデュケーションを選びました。

 はじめは、親子で、鉄道や恐竜、宇宙の話を楽しんだり、工作を一緒につくったりする日々を送り、そして、息子はその後、東京シューレのフリースクールや葛飾中学などに在籍して、そこで活動することもありましたが、基本的には、家庭をベースに自分のペースで学び育ってきました。

 家庭での学び方は、息子に合ったものを探って、学校の教科書的な学びとは違うやり方になりました。

 たとえば、息子は、宇宙や天文が好きなのですが、群馬県立ぐんま天文台では、観察用望遠鏡の操作の講習を受けて操作資格を得ると、個人でも一晩中自由に望遠鏡を利用できる制度があり、初め、シューレのある親の方に誘われて一緒に星を眺めて感動して、今度は、自分でその資格を得て、共に天文台の望遠鏡を利用して星空を観望しました(現在では、利用時間が短くなっています)。そして、2009年の皆既日食を見に九州まで行き、また、科学館や博物館の国際天文年関連の企画、大学の公開講座や、サイエンスカフェに参加したりして、楽しみながら、宇宙への関心を深め、さらに、物理や化学地学などへの興味も広がりました。

 また、ぐんま天文台の帰りに、世界遺産になる前の富岡製糸場を見学して、新しい学びのきっかけを得ました。当時の建物や設備の迫力などに、明治の日本の近代化と絹産業、蚕や養蚕について、などを入口にして、予想以上にいろいろなことに興味と関心が広がりました。

 このように、時間をたっぷり使って本物や本格的なものに触れる体験とその感動を大切にし、さらに「もっと知りたい」と興味と意欲がたかまり、様々なことを調べたりしていました。

 そして、シューレが提携している通信制の札幌自由が丘学園三和高校では、学科以外の、スポーツ、仕事体験、フリースクールフェスティバル、北海道スクーリングなど、みんなと一緒に活動する体験を通し、また、ホームエデュケーション家庭のネットワークであるホームシューレでのアートコースなどにも参加し、苦手だったコミュニケーションにも少しずつ自信がついてきました。

 そして、今年、天文宇宙とそれ以外の科目も、もっと学びたいと希望し、広く学べる大学を、自分で選んで受験しました。親としては、「本人が希望することだから勿論応援するけれども、まだ力が足りないのではないか」と思っていましたが、幸運にも合格し、息子は「今まで、勉強のつもりではなくて色々知りたいと思って読んだものが力になっていたんだ」と言いました。

 大学で、今後どのように学んで成長していくか、まだまだ未知数ですが、
今までを振り返ってみて、ホームエデュケーションは、

 学びたいことを、学びたいように、自由に学べたことで、自分に自信をつけ、苦手なことにも、学びの可能性をさらに広げることができたこと、
・ 家庭をベースにしながら、フリースクール、葛飾中学、通信制三和高校、などの多様な学びの場を必要に応じて活用できたことで、

息子の学びと成長にとって、とてもよかったと思います。

 また、親としては、正規の学びと認められない中でホームエデュケーションを進めていく上で迷ったり、悩んだりすることもありましたが、そんな時、親同士のつながりで、相談し、考えあい、親も学ぶことで、ここまでやってこられました。

最後に、今後の希望として、

 このようなホームエデュケーションが、不登校というネガティブな見方ではなく、学びの一つの形として、社会や周りから認められてほしいと思いますし、

 また、このような学びはやはりお金がかかるので、経済的な支援があるとありがたいですし、

・ そして、一人一人の子どもに合ったオリジナルな学びを創るために、いろいろな情報を得たり、相談できる場があり、誰でも利用できるようになるとうれしく思います。

以上

牧野 恵(埼玉県)

埼玉県在住です。娘二人が不登校、ホームエデュケーションで育ちました。
学校からの働きかけが大変だったのは、主に二女のほうです。小学生の時です。今年で21歳になる二女は小学校一年から学校に行っていません。

進級前の三学期になると校長先生から、「このままでは進級させるわけにはいかない」と、一年生から校長が退職する五年生まで、毎年言われ続けました。校長の裁量権が行使される可能性があることから、とても怖く感じられました。

学期ごとに通知表などを受け取る、お返しをするため親が学校に出かけて、担任に娘の様子を話していました。校長とは進級前の三学期末に会うことがほとんどでした。

校長からは、娘さんの姿を見ていないから信用できない。責任があるから、このままでは進級させられない。直接会えないのなら、自転車の後ろに娘さんを乗せて学校のそばを通ってくれ、その際は通る時間を連絡してくれ。何か娘さんのつくったものを見せてほしい‥。

ざっと覚えているだけですが、進級前に言われたことのいくつかです。
できることはやってきましたが、それでも信用できないと言われるのはこたえました。
ちょうど、ネグレクトという言葉がたびたび聞かれるようになった頃で、ネグレクトということもありえますからとさらりと言われたときは、つらく、情けない気持ちでした。

自転車で通ることも、学校と距離を置きたい娘にはまず無理なことでした。
あまり外出もしたがらない時期でしたし、通る時間を連絡と簡単に言うけれど、連絡するとき、出かけるための準備など、いつもと違う空気から娘は何を感じるのか。

学校へ行かないこどもたちは、驚くほど、何気ないことからでも学校とのつながりを見い出します。こどもが健やかに育つために、その子が安心して育つことができる環境は必須だと思われます。学校に行かないで家で育つこどもは、家が安心して過ごせる場でなくてはならないでしょう。
娘にとって家を安心できる場所にしたかった。そのためには不自然な行動は避けたかったのです。

説明しましたが、わかってもらえたかは不明です。

大岡桂子(福島県)

わが子が不登校になったとき

 長男は、小学校6年の5月の連休明けに、風邪のような症状を訴えて学校を休んだあと、学校へ行けなくなりました。当初は何とかして学校へ戻そうと、その方法を求めて学校側と連絡をとり、校長先生の言うとおり子どもを連れて校長室へ訪れたり、教育センターを訪れたりしました。学校の行事だけでも参加させようと、少年自然の家の宿泊学習には、行き渋る子どもを車に乗せて親の送り迎えで参加させました。ハイキングやキャンプファイヤーなど、楽しいはずの行事が、当時の子どもにとっては苦行だということに気づきませんでした。ハイキングで撮ったクラスの集合写真には、元気なときとは別人の青白い顔をした息子が写っていました。その後も教室に入れるようになるための保健室登校をしたり、先生との信頼関係が大事と親が画策したりもしましたが、今考えると子どもの気持ちを理解することなく、親の不安をなくすための行動をあれこれとして、子どもを苦しめていたのだと思います。

 そんな時、地元の新聞に「登校拒否トーク」が開催されるとの記事が掲載されました。不登校の子どもたちが、バンド演奏をするというのです。また、不登校の子どもを持つ親たちが自らの体験を語るシンポジウムも開くというのです。私は子どもを連れて参加しました。このときが、私と長男の「ふくしま登校拒否を考える会」との出会いでした。

 親の会の例会に参加するようになると、わが子の不登校を経験した親の方々の話に目からうろこの連続でした。そして、不登校の子どもにしてはいけないことを次々としていたことに気づかされたのです。それからは、同じ体験をした親の会の方々に、様々な局面で悩みを相談することができました。親の会の全国ネット主催で行われる夏の全国合宿に参加することで、多くの当事者に出会い、多様な学び方があることを知り、成長への希望を持つことができました。

 現在35歳になる長男は親の会と出会ったことで、不要な自己否定から開放され、多くの友人を得て自分らしく学び成長していきました。親子ともども親の会との出会いが社会を見る目も育ててくれたと自負しています。

下村小夜子(千葉県)

≪小学生からの体験≫
息子6歳からいじめによる不登校。腹痛、不安神経症的な状態になる。

≪状況を悪化させたこと≫
・担任からの電話・訪問 → 本人は倒れて動けなくなった。あとで聞くところによると「親が学校と結託したらどうしよう」と不安の極致だったという。
・無理に本にを説得して登校させようとした。 → 腹痛がひどくなり、チックが始まった。
・生活の中で電車に乗る練習、通信教育等させようとした。 → 吐き気、体のあちこちの痛み、不安が強くなり、母親から離れられなくなり、トイレにもついてくる。「宇宙人が攻めてきたらどうしよう」等など、強い不安にとらわれるようになった。

≪状況をよくさせたこと≫
・親が親の会に行って先輩の親たちの話を聞いた。 → 親自身が安心して孤立感がなくなった。
・会での情報で学校にはプリント、訪問、電話などすべて断った。 → 本人の腹痛などの症状が治まった。 → 休む生活を認め、本人を肯定的に見られるようになった。
・本人に対し、生活の中で何かを教えようとしたり、練習させること(電車、大勢の人の中に入る等)をやめた。 → 本人の表情が明るくなり、よく眠るようになった。
・精神科に本人を連れていったり、カウンセリングなどには全く行かなかったが、親の会のネットワークで先輩の失敗談、体験者の若者たちお話、当事者を否定しない考え方の専門家などの話をたくさん聞くことで、充分に対処していけた。

息子は家を中心に約15年間、マンガ、ゲーム、TV中心の生活を続けながら10代後半から親の会でつながった仲間とバンド活動や人権啓発活動に参加するようになった。現在34歳、結婚し、社会福祉法人に就職。

後に本人が語った話によると・・・。
・ひきこもることを親が認めてくれたのがよかった。
・大学に入る前、マンガもゲームも充分やりきった。まだやっていないことは勉強。次は勉強をしようと思った。

以上、親が成果を求めることをやめたことで、本人は精神的に休息がとれて、充電ができ、自分からやりたいことが自然とできたのだと思います。

萩原喜好(栃木県)

ふたりの子の体験

現在40歳の息子と35歳の娘がほぼ同時期に不登校でした。

二十数年前の息子が中学1年から2年半、娘が小学2年から中学3年の6~7年間のできごとでした。

当時は不登校に関して現在のように社会的に認知度が高くなく家族も学校も、また地域も当事者を責めるようなことが多く、子供たちと私たち夫婦はつらい日が続きました。
当初、担任の教師に朝我家に立ち寄ってもらい、中1の息子の寝床に行って起こしてもらい、支度させて教師の車に乗せてもらい登校。下校もその車でしたが、長くは続きませんでした。
自宅に籠る生活をいつまで続けるのか、取っ組み合いをしたこともありました。その時、私は息子に首を絞められそうにもなりました。
小3の娘は、新任の男性担任が我家に来た時、家じゅうを逃げ回り押入れの中に身を隠したこともありました。

私が、地域で呼びかけ親の会を作ったのは平成2年の1月でした。月1回の例会を足かけ12年ほど続けました。
そうした活動を通して、良かったと思えることは、まず親の心を安定させることができたことです。常に不安は付きまといましたが、自分の子供たちを追い詰めることのないように励ましあえたこと。

市内の小学校全てを訪問し、校長先生に私たち親の会の存在を知ってもらいました。幸いにも学校から登校を促すような働きかけは、殆んどありませんでした。中学校からもそれはありませんでした。それは当人にとって、とてもありがたかったことと思います。
私のふたりの子どもたちは、中学を卒業するといづれも自分で選んだ高校生活を始めました。

紆余曲折はありましたが、息子は自営(イベント関係)、娘も漫画家として生きています。
辛くて死にたいと思い詰めたこともあった息子、そして私。
それでも今思うと「生きていれば何とかなる。死ななくて良かった。」と、思います。
どうか皆様、不登校の子と親を追い詰めないでください。

谷本徹子(長野県)

 娘は小5から中学卒業まで不登校で過ごした。最初は学校生活に疲れて、お昼すぎても起きて来られない程、長時間ねむっていた。学校のクラスの子どもが連れだって、家を訪ねて来ても、出ることができず、布団の中に潜り込んで息を潜めていたことを、帰宅した私に話してくれたこともある。眠りにつけない、幼児帰り、「死にたい」という、など不安はいろんな形で現れた。

 しかし私は、学校に行かなくても、どこか外に出かけて行かなければならないと、まだ心も元気になっていない娘を無理やり色んな場所に引っ張り出そうとした。車で目的地に着いて、娘が頑として車から出てこないということを何度も繰り返していた。かなり、娘を苦しめたと思う。

 その後、親の会や不登校の子の居場所に出会い、親も子も徐々に不登校を安心して受け入れることができ、元気を取り戻していった。私は同じ不登校の親同士、語り合い、学びあって、子どもを受け入れることができたし、娘も学校や年齢は違っても同じ不登校の子どもたちと出会って、仲間がいることを知り、安心できたことを話してくれた。そして様々な子どもの「やりたい」という気持ちから始まった、いくつもの活動を通じて、学校という場でなくても、元気に育っていくことができた。

 中学時代はホームエデュケーションや居場所を主に過ごし、学校側も私たち親子の過ごし方を認めてくれていてありがたかった。(私たちが地域の中でよく知られている不登校の親と子の会とつながっていることで、学校側も安心してくれたのではないかと思う)中学卒業後は全日制の高校で学び、自分の学びたいことを見つけて、今年22歳で大学を卒業した。

お問合せ先

初等中等教育局フリースクール等担当

初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係

(初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係)

-- 登録:平成27年06月 --