資料2-3-2 発表資料

不登校の子どもの保護者手記

1.居場所・フリースクール・親の会に関わって

発表者 谷川智惠(フリースクールりんごの木・埼玉県)

 息子は現在16歳。元々幼稚園の年長から行きしぶりがあったが、ほぼ完全に不登校になったのは、小学6年生(平成22年)。

 まず、不登校の経緯から申し上げますと、小4(平成20年)の6月頃にクラスの数人からいじめを受けていたことがあった。その頃より、息子から「下校時は迎えに来て。早く家に帰りたいから。」と言われ、毎日の迎えが始まった。また、同時期には担任から「隣席の子にちょっかいを出したり、テストの答えをふざけて書いたりと落ち着いて授業に参加できておらず、授業がたち行かないので、病院等に相談に行ってはどうか?投薬によりおとなしく授業に参加している子もいますよ。」と言われ、児童相談所や小児精神科を受診。

 結果、「あえて診断名をつけるとすれば、広汎性発達障害の高機能自閉症です。」とのことだった。また、「担任との不適応や二次障害に発展しつつある。」とも言われた。

 小5では五月雨登校がはじまる。親が仕事で不在時に担任が家まで迎えに来て、勝手に学校へ連れて行ったことや、教室から担任が携帯電話で、いじめをしている子と話をさせたりされたことなどがあった。

 そのような時に息子は「いつも僕ばかりが怒られる…僕なんかいない方がいいんだ。もう学校には絶対に行きたくない!」と泣きながら壁に頭を打ち付けたり、家から飛び出して行ったことがあった。本人にとって、とても辛く苦しいことであったと思う。と、同時に親として申し訳なく思った。
 小5、2学期からは、ほぼ欠席し小6の6月に「フリースクールりんごの木」に行くまでは家で過ごす。

―フリースクールとの出会い―
 NHK教育テレビで放映された(平成21年末か22年)「フリースペースえん(たまりば)」の様子を視聴したことで、息子が「学校に行っていないのは自分一人だけと思っていたけど、他にもいるんだね。ここに行ってみたい。」と、ほっとしたように言った。

 それをきっかけにインターネットで色々と調べたところ、「フリースクールりんごの木」の ”みんなのルール”「自分のことは自分で決める。みんなのことはみんなで決める。みんなで決めたことはみんなで守る。」という一文が気に入り、見学に行ったその日が始まりだった。

―フリースクールに行って良かったこと―
 子ども自らが主体的に、積極的に行動をするようになり、明るさや健康を取り戻したこと。
 学校へ行っているときは、頭痛、腹痛など体調不良を訴えることがよくあったが、フリースクールに行き始めてからはそれらが全くなくなった。そして、フリースクールに行くことやイベントに参加することが楽しい、と表情も明るくなった。

 また、JDECや、夏の全国合宿での色々な「ひと」との出会いを得られたこと。親の気持ちもラクになり、新たなものの見方を得られたこと。

―フリースクールで困ったこと―
 私たち親子にはフリースクールの存在があって良かったが、義務教育期間中の親としては、月々のフリースクール会費や弁当代、交通費などの家計負担が大きく大変だった。他の小中学校に行っている子らと同じように、フリースクールに通う子どもにも、国から何らかの支援が必要であると思うので、国は支援の仕組みを考えてほしい。

―将来のこと―
 高校卒業資格を取得するのか、高等学校卒業認定試験の合格を目指すのかは考慮中である。

 以上、言葉足らずではありますが、私の思いをお話しました。

荒木秀子(東京シューレ王子・千葉県)

 私の娘は学習困難があり、中学1年の秋から不登校になりました。学習困難といっても知的な遅れはないのですが読み書きが大変でした。知的な遅れがないがゆえに、お友達と自分は違う、努力をしても報われないという思いに悩まされてきたのです。小学校では先生方から理解を得ることができ、自尊心を保つことができていましたが、中学校はそうではありませんでした。娘の困難性や限界、これまで努力してきたことを伝え、ご協力を仰いだのですが、残念ながら願いかなわず、娘はだんだん自己嫌悪がひどくなり「死んでしまいたい」と泣くこともありました。娘は本来大変朗らかで、傍にいる人の心まで温かくしてくれる子です。それなのに、学校に行くたびに輝きが失せていく様子を見るにつけ、親として悲しく思っておりましたので、「学校に行かなくていいよ」と私は娘に言いました。しかし、娘は世の中に置いて行かれまいと、友達に自分の弱みを隠しながら学校に通いました。そしてとうとう朝起きられなくなり不登校になったのです。中学校というのは非常に管理的な指導で成り立っており、その枠に合わないものは置いて行かれます。「一人ひとりの個性を大切にしよう」というスローガンとは裏腹に、みんなと同じでないとダメなのです。
 その後、幸い娘は東京シューレに出会い、自信を取り戻し生き生きと学習することができるようになりました。そして高等部になってから初めてのアルバイトに挑戦しようとしたときです。面接時、履歴書を見ながら「シューレって何だい?」と聞かれ「不登校の子ども達の居場所であり、学びの場所です」と答えると「不登校?それはあんたが弱いからじゃないのか。自分の弱さから逃げているだけだ」と延々と否定され傷ついて帰ってきたことがあります。不登校に対する偏見はあちこちにはびこっているのだと再確認させられた出来事でした。そこから1年、社会に出ることの恐怖感がぬぐえず、アルバイトへの挑戦は休止していましたが、シューレの活動を熱心にしていくことで、ようやく勇気がわき、今アルバイトを体験しています。

 子どもは大人の鏡です。 大人の価値観が変わらない限りいじめは起こり、また無くなる ことはないでしょう 。そして、その大人価値観を変える指針となるのが法律なではいしょうか。多様な人、多様な学び、多様な生き方を受け入れ、認め合う社会を目指す日本であってほしいと切に願おります。
ちっぽけな母親の願いです。どうかよろしくおたま娘は 今、アルバイトから就職に向けて頑張っております。

小野坂祥子(東京シューレ王子、東京シューレ葛飾中学校・東京都)

 息子は小学校一年生で不登校になりました。小学校四年生まで家庭を中心に過ごした後、フリースクール東京シューレに通い始め、次に東京シューレ葛飾中学校で三年間を過ごしました。その後都立竹早高等学校を経て、現在は京都大学理学部物理学科の三年生になりました。

 息子は元来好奇心が旺盛で、友達と遊ぶのが大好きな子どもでしたから、不登校になるとは青天の霹靂でした。担任の先生によるといじめは無いようでしたし、 本人にも学校に行けない理由は分かりませんでした。学校の先生や友達との交流はありましたから、先生に誘われて学校行事や学習に参加することもありました。特に理科が大好きで、実験をすると先生から聞くと、理科の授業の時間に登校することも度々ありましたが、落胆して下校することが常でした。息子は先生の言う通りのやり方で実験をしなければならないのが不満でした。曰く、「先生のあとについてやったら成功するに決まっているからつまらない」とのことでした。息子のやりたいことが学校に受け入れられることはありませんでした。

 ところがフリースクールは学校のやり方とは全く違いました。フリースクールとは、息子の興味の持ったことを全面的に支援してくれるところでした。息子はスタッフの支援の元、思う存分に遊びました。遊びを通して、息子は自分の興味、関心の幅を広げていきました。息子は他人に強制されることが嫌いでしたが、フリースクールは息子のそうした気持ちも尊重してくれました。息子はこうした環境の中で、「主体的に生きる」ということを身に付けたのだと思います。そして、不登校になってから自己否定の強かった息子でしたが、ありのままの自分を受け入れられることによって、自己肯定感も生まれてきたと思います。息子は京都大学入学を機に、初めての一人暮らしを経験し、現在大学の陸上部に所属して週六日活動しながら、塾の講師のアルバイトもしています。そして学業も、子どもの頃と変わらぬ好奇心を持って熱心に取り組んでいます。

 息子の成長を振り返ってみると、子どもの育ちには、子どもの気持ちを尊重して見守ることが大事だということが分かります。そのためには、子どもが強制されることなく、やりたいことが自由にでき、ありのままの自分を受け入れてもらえる環境が必要です。息子にとって家庭以外に、そのような条件を満たしたフリースクールと出会えたことは幸いでした。

中村みちよ(フリースペースつなぎ・宮城県気仙沼市)

 娘が不登校になったのは、東北大震災の3か月後、中学校1年生の6月でした。幸い自宅等への被害はありませんでした。しかし、娘は小学校6年生の秋にいじめにあい、みんなと一緒に卒業はしたものの、まだ十分に心の傷が癒えてはいませんでした。震災のあと、遅れて中学校の入学式があり、学校は再開しました。しかし混沌とした学校生活の中で、思うように練習ができないイライラを部活の先輩から娘に向けられ傷つく経験をしたり、教師側も小学校からの引継ぎがされておらず、「おおらかに受け止めない娘がよくない」という見方をされたり、人間不信に陥った娘は、再び学校に行けなくなってしまいました。

 「まさかうちの娘が不登校になるなんて…」不登校の親ならば、誰でも思う悩みを抱えてどうしたら、娘が元気になってくれるのか、藁をもすがる思いで、本やインターネット、知人友人に救いを求めました。その中で、一番、親の立場になって親身になって話を聞いて下さったのは地元で長年、不登校の親の会をしていた方々でした。ただ当時は、震災で公民館など被災して使えなくなった建物が多く、月一度公民館で開催していた気仙沼の不登校を考える親の会も休止状態が続いていました。そのため、すぐに相談できるところということで、親の会の方の紹介でNPO法人「東京シューレ」の親子の集まりに参加することができました。「学校に行けない自分が悪いのではないか」そう自分を責め続けていた娘は、その集まりに参加し、不登校の多くの子どもたちの明るさに励まされ、「自分ひとりではないんだ」と安心感をもったといいます。それは親も同じで、真っ暗なトンネルの中の一筋の光のようでした。

 娘はシューレのように安心できるフリースクールに通いたいと話しますが、気仙沼にはフリースクールはありませんでした。そこで、家を居場所にしてすごしたりしている子ども・若者の集まりの組織である「ホームシューレ」に入会することにしました。ふだん会えないものの、月一度届けられる機関誌のイラストや文章に心がなごみ、笑顔が少しずつ戻ってきました。その後、仙台のフリースクールに通う機会にも恵まれたり、気仙沼にも東京シューレや気仙沼の親の会の尽力でフリースペースができました。その中で、普通に学校に通っていただけでは経験できなかったことを学んでいきました。気仙沼の親の会も再開され、先輩のお母さんたちの話を聞いたり、勉強会に参加したりする中で私自身も、「学校だけが勉強する場所ではないんだ」「学校に行く行かないではなく、どの子もかけがえのない価値があり、ありのままに認められることで大きく成長していくのだ」ということを学ばされました。

 今、娘はこの春高校二年生になりました。親元から離れ、下宿しながら元気に毎日仙台の高校に通っています。もし、親の会がなかったら、フリースクールのようなところがなかったら…娘や私も今も笑顔はなかったと思います。東北の震災地では、いまだに数多くの子どもたちが不登校になって苦しんでいることを娘は知っています。娘は、そうした子どもたちのために心理学を学んで、助けになりたいという夢をもつようになりました。同じ不登校という体験をした親・子ども・若者だからこそ、共感し合い、助け合い、成長し合っていけるのだと思います。これまで、そして現在もなお、娘や私を支えてくださっている親の会、フリースクールの関係者の皆様に心より深く感謝しております。

石井美佐緒(東京シューレ葛飾中学校・東京都)

 息子は現在、都立チャレンジスクールの4年次です。軽音楽部に所属しバンドを組み、仲間にも恵まれ、充実した学生生活を送っています。昨年秋からアルバイトもはじめ、仕事や人間関係もうまくこなし、卒業後は進学を希望、自分なりに考えている様子です。
 日々よく笑い、私との会話や配慮もあり、心身ともに健やかに成長しています。

 が、実は、幼少期から特に小学校では入学当初から、大変苦労しました。大勢の中で緊張し、上手く立ち回れず孤立し、結果的にいじめを受け、4年生から不登校になりました。当時カウンセラーからは、自己肯定感がとても低い、もし登校を続けていたら、今存在していなかったのでは・・・、とまで言われました。
 その後、家庭で穏やかに過ごし、少しずつ元気を取り戻したかのように見え、5年生2学期より再登校しました。はじめ順調に見えましたが、担任の配慮不足から次第に苦しみ追い詰められ、6年生2学期末から再び不登校になり、さらに状態がとても悪く、医療機関を要しました。当時、フリースクールも考えましたが、我が家は母子家庭故、費用面が大きな壁でした。最も苦しい状態での進路決め、適応指導教室も選択肢の一つでしたが、公立中学に席すら置きたくない息子の思いを尊重し、東京シューレ葛飾中学校に入学しました。
 シューレ中での3年間は、単に通いやすいだけでなく、自分をしっかり見つめる大事な学びをしました。行事等を通して、今の自分はやれるのか?、無理をしていないか?等、その都度自問自答をしました。自分を見つめる・・・時に重く苦しいものでしたが、次第に自分を客観視する力をつけました。更に、地域やタイプの違う仲間たちとの関わりや、様々な不登校経験を知ることで視野を広げ、何より、不登校を受け入れ、決して否定しないスタッフ達との関わりで、息子自身も、不登校経験は汚点ではなく、今の自分はその経験の上にあると捉えるようになりました。
 もし、今尚不登校を否定し続け、自分は駄目な人間と思っていたら、現在の生活はなかったと思います。息子の不登校から9年経ち、あの時の選択は間違っていなかったことを確信し、環境が人を変えることを痛感しています。

土屋聡子(東京シューレ王子・東京都)

 私の息子は、小学五年生のとき、いじめが原因で学校に行けなくなりました。私は必死の思いで情報を求めて「フリースクール東京シューレ」の存在を知りました。
 学校で深く傷付いた息子は、すぐには、フリースクールに通えるようにはならず、五年間の家での休養を経て、この四月からやっと、東京シューレの高校コースに通えるようになりました。不登校だった五年間、学校に通えていたら本来学べたであろう事、経験出来たであろう事が息子には出来ませんでしたが、今、フリースクールでゆっくりと学びの時間をとりもどしています。
 フリースクールに来ている子どもたちは、みな「学校」というレールから外されて、暗闇の中、「誰も自分のことを助けてはくれない。」という絶望を味わい、やっとの思いで、フリースクールにたどり着いたのだと思います。子どもやその親たちは、子どもの命を守るために、子どもが自分という存在を大切にするために、フリースクールを選んだのです。それなのに今までは「フリースクールに通っている」と言うと、世間の人たちからは理解ざれず、認めてもらえず、悲しくつらい思いをしてきました。私達は何も悪い事はしていないのに、何故こんな「引け目」を感じなくてはならないのだろうと、思っていました。
 昨年、首相自らがフリースクールを視察して下さった事により、フリースクールの存在を肯定的に捉えていただいたことは、子どもにとっても親にとってもとても嬉しく、勇気づけられる出来事でした。
 また首相がフリースクールに対して公的支援を検討して下さるとお聞きして、大変心強く感じました。
 フリースクールに来る子どもたちは、不登校になった年齢も様々です。学習面でも心理面でも一人一人に合わせて、きめ細かい対応が必要となってきます。
 また経済的にも、もっと安心してフリースクールに通えるようになれば、今よりももっと多くの不登校の子どもたちがフリースクールを選択する事が出来て、ここで自信を取り戻していけるようになると思います。
 一人でも多くの不登校の子どもたちの心が救われることを願っています。
 「学校」が合う子どもは、「学校」に行って学べば良いと思います。でも、学校に行けなくなった子どもや学校よりもフリースクールでの学びのほうが自分には合っていると思う子どもは、フリースクールに自信を持って通えるようになる日が早くおとずれるといいと思います。
 子どもたちが、安心して自己肯定感を持ちながら、楽しくフリースクールに通うことができますように、今後ともご支援の程、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

増田良枝(フリースクールりんごの木・埼玉県)

卒業生(現在31歳・男性)のケース

 小学4年生の時に友人との関係が悪くなり不登校になった。学校では、給食当番、掃除などを班ごとで活動していたが、同じ班の他の児童全員から一人だけ仲間外れにされていることを担任が知ることとなり、他の児童は担任から注意を受けた。それを逆恨みしてか、仲間外れがエスカレートしていき、不登校になった。両親は担任と随時連絡を取り相談していた。
 小学5年、父親の転勤で転居することになり、担任にクラスでお別れ会をやるから学校へ来るようにと誘われ、学校に行ったが、ドリルをやらされ担任から説教をされただけであった。本人は非常に憤慨し、先生に不信感を抱くことになって、転居先でも学校に行くことはなく、1年半後に埼玉に戻るまで不登校だった。学校には行かなかったが、転居先でも数人友人ができ、放課後は毎日のように友人が迎えにきて外で遊んでいた。
 埼玉に戻ってからも学校に行くことはなく、フリースクールりんごの木に通所し野球やサッカーをして過ごした。中学は不登校を通し、中学卒業後もりんごの木に在籍し、2年ほどして通信制高校に入学。軟式野球部に所属して4年間おもいきり野球を楽しんだ。独学でスポーツ関係の書籍を読み漁り、野球部のキャプテンも務めた。そのような体験を活かして、将来はスポーツトレーナーになりたいと、スポーツ科学を学べる大学を探し受験、二浪するも何とか合格。在学中に健康運動指導士の資格を取得し、27歳で大学を卒業、整形外科のクリニックのリハビリ室に勤務した。29歳の時に理学療法士を目指して専門学校(夜間部・3年)に入学、昼間はアルバイトをしていた。2015年3月に国家試験に合格し、総合病院(都内)の小児整形外科の理学療法士として就職でき、4月1日より勤務している。

齋藤さき子(上田子どもサポートセンター・長野県)

今、思うこと

 上田子どもサポートセンターの存在を知ったのは、中学3年生の息子が「学校に行くことが辛い。とても疲れて、そこに居ることが苦痛だ」という状態になりつつあった中学1年の秋頃だったと思います。
 今思えば、すでに1学期の後半から行き渋りの状態であったのに、「まさか家の子が不登校なんて」と子供の現実を受け止められなかった為に息子に苦しい思いをさせてしまったなと反省ですが、 欠席がちになっていた息子の相談に行っていた学校で渡されたチラシの中にサポートセンターの紹介のビラが入っていました。
 その時は「へえっ。親の会ってあるんだ」くらいの認識でしたが、その後度々お世話になり、親としての苦しい心境を聞いて頂いたり、子どもを理解する為のヒントやアドバイスを頂いたりして、今では私にとってなくてはならない大切な場所になっています。

 「親の会」は、不登校やひきこもり経験者の方や保護者の方がスタッフとして関わり、今現在悩みの真っ直中にある私の不安を受け止め、上から目線ではなく同じ苦しさを経験した仲間として話を聞いてもらえる事がとても有り難いです。学校現場で不登校が問題になってからすでに数十年が経っているにもかかわらず、その理解のされ方や対応の内容にはあまり進歩がないと感じます。学校の先生方やスクールカウンセラーの先生のお話やアドバイスは、どこか形式的で、未熟で甘えている子供に『大人が色々と教えてあげますよ』的な指導で、本当に一人一人の子供の内面を見てもらえていない気がします。

 実際に不登校を経験した人や息子の話を聞いたりすると、物事を様々な面から捉え深く考えている事に驚かされます。「親の会」に参加していろいろお話をお聞きすると、子ども達が不登校になる原因は様々でも、苦しい時子供達がとる行動や言動には共通の事柄が沢山あります。また、子供達が不登校の生活の中で感じる事や元気を取り戻し自分なりに歩き出す時にも、やはり共通の事柄や周囲の人との関わり方があるように思います。「こうした方が良い」「これはしない方が良い」という指標のようなものは、経験者やその保護者の方のお話から沢山教えて頂くことが出来ます。
 また、サポートセンター主催のフォーラムで講演してくださる講師の方々のお話も、多くの子供達の「言葉」を真剣に聞き、そこから見えてくる子供達の苦しい心境を、私達親にわかりやすく伝えて下さっています。けれど、このとても参考になる貴重なアドバイスの数々を学校の先生方からお聞きする事は、残念ながらあまりありませんでした。不登校生の現実と学校や一般社会が持っている不登校生の認識に大きなズレが未だにあるからだと思います。このズレが修正されない限り、不登校で苦しむ親子は減らないのではないでしょうか。
 不登校経験者やその保護者、当事者の声を聞く事でわかってくることがあります。そうして見えてきたものが正しく学校現場に伝えられたら、子供も親も必要以上に自分を責めることなく過ごせるのではないかと思います。息子が不登校になった事で、親としてのあり方や親子の関係を見直すきっかけになりました。子供が与えてくれたこの機会を大切にして、新たな親子関係を築いていきたいと思います。

松田恵子(ブルースカイ・長野県)

我が家の体験談

 長男が小学校3年生の時「絶対に先生を許すもんか」という衝撃的な言葉を残して学校に行かなくなりました。学校に相談しても担任は「何もないですよ」「それより介護のおじいさんがいたり、小さい弟、妹さんがいるのでお宅に問題があるのではないか」と言われ落ち込んで帰ってきました。「子どもは学校にいくのが当たり前、子どもの仕事だ」くらいに思っていた私たち両親は、何とか行かせようとおだてたり、なだめたり、時には力づくで車に押し込めて学校に行かせようとしていました(今では虐待で訴えられてしまうような親でした)。私たち親も「このままこの子が学校にいけないと、この子の将来は駄目になってしまう」という思いで必死でした。その後「友だちのいじめ、先生の無理解で傷付いた」ことが分かりましたが、もうその時は息子の心の傷に塩をぬるような事をしてきてしまったので、息子の体は変化していきました。

 「胸が苦しいぉ~」と訴え、笑顔がなくなり、夜泣き、おねしょ、円形脱毛、脅迫的症状など不安からくるいろいろな症状が出てきました。下の弟・妹も不安になり、みんな母親にべったり、母親として精神的にも肉体的にも辛い毎日でした。
 「これ以上学校に行かせ続けたらこの子がおかしくなってしまう」と感じた私たち両親は、様々な相談機関を探したり、関係する本を読みあさりました。その中で親として経験された方が書いた本や、親の会で少し先を歩いている方のお話は「親子で死のうか」と思っていた私たちを救ってくださいました。

 学校や近所の方々は「学校に子どもを行かせないと大変なことになるよ」友だちのお母さんからは「不登校がうつるから遊んではいけない」と伝染病扱いされ、とても悲しい思いを親子でしましたが、経験者が立ち上げた親の会や居場所ではじっくり話を聴いていただき「大丈夫」と個々の経験談を話して下さり、親子で元気をいただき、今は長男も一社会人として働いています。そういう場所や仲間がいなかったら、私たち親子はこの世に生きていたかわかりません。

草深幸子(ブルースカイ・長野県)

 三人の息子の内の二人が不登校の経験をしました。
 いじめや学級崩壊があったわけではなく、なんとなく「行きたくない」と、小学校の中学年頃から頻繁に発熱や腹痛がでて、行きしぶりが始まり、4・5年生ではほとんど学校へ行っていません。6年ではたまにある行事などへ選んで行っていました。
 最初の子の時に私は、子どもをどうしても学校へ行かせたくて、行かせなければならないと思っていて、泣いたりわめいたり怒鳴ったり脅したり、病院めぐりに相談機関めぐり・・・毎日が嵐の中を漕ぎ行く小さな小舟の気分で孤独でした。子どもの方はゲームに没頭して自分の世界をガードしていたかもしれません。昼夜逆転、人には合わない、どうせ俺なんかと投げやりな時期もありました。
 不登校が始まってだいぶ経ってから親の会に出会い、やっと私の拠り所を見つけて参加し始めると、子どもは巣立って行ってしまいました。
 そんな中での二人目の不登校。小学校から行かなかったらまた基礎学力できっと苦労するのだろうと上の子を見ていたからこそ学校へ行くという多数派になって欲しいという思いがムクムクもりあがってしまいました。が、親の会に関わっていたおかげで私の価値観や自分自身を見直す気持ちの幅が広がり、親子共にいろんな体験をするという、不登校ライフを楽しんで過ごしてきた気がします。学校とは連絡を取りあっていましたから強く出席を求められるということはなく「我以外皆師なり」と家での活動を認めてくださっていたのではないかと(希望的)関わっていただいた方々に感謝しています。

 親の会に関わって来て、あっという間の二十数年、時代はホームスクーリング・フリースクール・支援学級・さまざまな形式の高校・・と子どもたちの進路選択の幅は広がって来ていますが学校の中身はどうなんでしょう。親の会ではだんだん子どもの姿が見えなくなっています。親たちの生活も時間的・経済的に余裕のない人が増え、福祉・医療の支援との連携が必要、高校年代以上の若者の居場所・支援が必要な事を感じています。

阿部直子(ネモ ちば不登校・ひきこもりネットワーク・千葉県)

 20歳、18歳、15歳の3人の息子たちが、それぞれ小4、小2、幼稚園の年長組から不登校・不登園で育ち、ここ数年は、それぞれNPO立のシューレ大学、通信制高校、フリースクールなどに通うようになりました。
 この3月に三男がまったく登校しないまま中学を卒業し、長年にわたる小中学校とのおつきあいが終わりましたが、その間、数多くの先生方とやりとりしてきました。してほしくなかったことは、特に小学校時代ですが、クラスメートに誘いに来させたり、翌日の予定の紙を毎日持たせたりすること、クラス全員からのお手紙を渡されること、放課後でも別室でもいいから来ないかと言われること、週1回など頻繁に、親が学校に出向いて子どもの様子を報告するよう要求されたことなどです。
 誘いに来てもらったりお手紙をもらったりしても、それで学校に行けるわけではないので、親子ともども困惑します。「放課後でも」「別室でも」と言われますが、行けないものは行けないし、そうやって少しずつ慣らせば行けるというものでもありません。子どもの様子もそんなに変化があるものではないし、頻繁に学校に出向くのは親にとっても精神的負担が大きいです。
 逆にうれしかったことは、登校していなくても自分の生徒のひとりには変わりないという態度で、温かい交流を持とうとしてくださった先生が何人かいらしたことでした。無理に登校をうながすよりも、そうやって親以外の大人と心を通わせる機会を作っていただく方が、子どもにとって得るものがずっと大きいと思います。
 私は子どもが不登校になってすぐ、近くの親の会を探して参加しました。同じ経験をした人と知り合いたい、その方たちがお子さんにどう向き合い、日々をどう過ごされているのか知りたいという気持ちが強かったのです。そこで、多くの先輩ママや不登校を経験した若い人たちと出会うことができ、学校に行かなくても子どもはちゃんと成長していくということを教えていただき、少しずつですが「うちの子どもたちもきっと大丈夫」「不登校は悪いことでもかわいそうなことでもない」と思えるようになってきました。そして、共感してもらえる仲間ができたことが私の心の安定につながり、私が落ち着くつれ子どもたちの不安も少しずつ和らいでいくのを感じました。
 現在、私は不登校支援団体のNPO法人ネモ ちば不登校・ひきこもりネットワークで理事をし、息子たちもそこやNPO法人東京シューレでお世話になっていますが、民間のフリースクールや支援団体は財政的に苦しく、保護者の出費が多く、スタッフも低賃金で働かざるを得ない状況です。子どもの育ちを支えている私たちのような団体、そして家で過ごしている子どもたちの家庭に国や自治体の助成がなされることが、何より子どもたちが自信を取り戻し、少しずつ動き出せるきっかけにつながると思います。

大村美恵(不登校を考える豊田の会「まちあいしつ」・愛知県)

不登校の親の会(自助グループ)の必要性

私は、不登校経験者の親です。
長男1980年生まれ・次男1985年生まれです。
次男が小学校2年生の時、不登校がはじまりました。
学校側の対応は、無理してでも子どもを学校につれてくるようにと、何度も言われました。次男には、身体的症状が出ていたので、無理には行かせませんと、はっきり学校側に伝えました。しかし、学校側は、「学校に行けないなんてかわいそう。小学校低学年は『動物』と同じですよ、お母さん」と言われひどく傷つきました。
当時は不登校の親の会は名古屋にしかなく、相談に行きました。
「学校につれて来るように何度も言われてるんですけど、、、」と悩みを相談しました。
名古屋の親の会では、多くの事を学びました。
「不登校は親の育て方が悪いわけではない」「登校は子どもの義務ではない」「学校に行かなくっても、子どもは育つ」etc、etc、
悩みを相談することができて、自分の考えは正しいかったんだと、確信を持ちました。
そんな親の会の重要性を実感し、地元でも親の会をたちあげました。
はじめてのお母さん方は、不安ですが、不登校の先輩のお母さん方の話を聞くうちに、心が落ち着いてくるようです。

次男に続きその後長男も不登校を経験しましたが、2人とも大学を出て、今は社会人となっています。

不登校の親の会は、不登校の親にとって、たいへん大切なものだと強く感じています。

お問合せ先

初等中等教育局フリースクール等担当

初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係

(初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係)

-- 登録:平成27年06月 --