資料2-3-1 発表資料

不登校をした人の手記

発表者 苅谷和幸(神奈川県・24歳)

 私は現在24歳で、東京農業大学へ通う4年生です。私は中学1年の9月に不登校になり、中学3年の春休みまで家でひきこもりました。その後フリースクール東京シューレに7年間所属し、高卒認定試験をうけ、21歳で大学に進学しました。
 これから不登校になったきっかけや、家でのこと、フリースクールでのこと、今の進路を選んだ訳をお話しいたします。

 私が不登校になったきっかけは夏休みの宿題が終わらなかったことです。え?そんなこと?と思われるかもしれません。夏休み明け大量の宿題をやり残していた私は、少し休んで宿題を仕上げようと思い、学校を休みました。そのまま一週間学校を休んでしまいましたので、さすがにこれはまずいと思い学校へ行きました。授業は1週間分進んでいます。授業を聞いている時、どうしようもなく「もうだめだ」と思いました。次の日から学校へ行けなくなりました。

 それから2年間は家で引きこもることになります。親からしたらなんとしても学校にいってほしいですから、お願いだから学校に行ってくれと言われます。ですが行けないんです。実際に体にも症状が現れます。行こうとするとおなかが痛くなり、どうしても無理なんです。1度車に乗せられて、学校の校門の前でおろされたのですが、中にはどうしても入れず歩いて帰りました。
 私も親もお互いにストレスがたまります。母親に本を投げるとゲーム機が投げ返されてくるようなケンカをしていました。お前さえ学校に行ってくれればいいんだと言われました。ですけれど行けないものは行けないですから、辛かったです。その頃、家に私の居場所はありませんでした。私は弟にカッターナイフを向けるようなこともしていました。
 少し状況が変わります。1年半も引きこもっていると親も疲れてくるんです。あまり学校へ行けと言われなくなりました。そうすると不思議な事にこちらにも余裕が出てくるんですね。安心感みたいなものでしょうか。それまで家から1歩も出なかったのに、プールにちょっと行ってみたりするようになりました。そんなときに母からこんな場所があるよと、フリースクール東京シューレのことを聞きます。1回行ってみてダメならやめよう、そう思っていたのですが、自分に合っていたのか6年間通うことになります。

 フリースクールに行ってまず驚いたのが、皆明るいんですよ。もっと不登校って暗いイメージがありましたから。ある人はマンガをよんでる、ある人はトランプをしてる、ある人はギターを弾いてる。最初私はマンガを読んでるだけでしたが、楽しそうな雰囲気でここならいいなと思いました。同じ鉄道が趣味の友達ができてますますそこへ行くのが楽しくなりました。

 東京シューレでは週1回ミーティングを行い、子供たちが来月の予定などを話し合って決めます。ギターがやりたいからギター講座を作ってほしいとか、来月のスポーツはフットサルがいいとか、どんどん決めていきます。
 大きなイベントもあります。フリースクールフェスティバルという文化祭みたいなものを作っている時、友達が音楽室をアマゾンにしたいって言い出したんですね。音楽室の天井に全部深緑色の布をはって、うっそうとした感じにしていました。心にパワーを持ってる人が結構いるんです。
 私は少し勉強がしたくなったので、スタッフに相談して高卒認定対策講座を作ってもらいました。そのかいあって、17歳のときに高卒認定試験に合格しました。

 高卒認定試験には合格しましたが、将来自分がやりたいことは全然分かりませんでした.でも友達はいろいろな進路を自分で決めていきました。
 20歳で通信制の高校へ行く人、専門学校へ行く人、大学へ行く人、バイトを始める人、中には15歳でサラリーマンになる人と様々でした。そんな時期に、私は歩き旅をしました。
 18歳の12月、神奈川県の江の島から、新潟県の直江津まで2週間かけて歩きました。12月でしたから長野は氷点下でしたし、途中から雪が降ってきました。長靴を買って、腰までつもっている歩道の雪を横目に歩きます。とても景色の良いところもありますが、1日10時間歩いていると、暇になりました。歩きながら自分のしたい事を考えました。
 もし勉強するなら食のことがしりたい、それじゃ広すぎるから、食を作る側のことがしりたい、それは農業だろう。農業のこと知るなら農学部のある大学へいこう。
 400km歩き終えて、新潟の海を見ているとき、そう心に決めていました。

 旅から帰った私は翌月から予備校に通い、2年勉強したのち東京農業大学の農学部へ合格し今にいたります。
 大学では、サークルの会計をしたり、所属する植物病理学研究室の副幹事をしながら、卒論と就活にまい進しています。いずれは農業にかかわる仕事につきたいと思っています。
 歩き旅の方は趣味になりまして、去年横浜から福岡までの1100キロを1か月かけて歩いたりしています。

 今は毎日忙しくすごしておりますが、前は家から1歩も出ない引きこもりの時期がありました。
 私にとって必要だったのは、安心して家にいれる時間と、フリースクールにいながら安心して通える事でした。そのことが今の自分につながっています。
 学校へ通う人とはだいぶ違う道になりましたが、これはこれで良かったなと思います。
 当事者としてはフリースクールが社会に認められて、また多様な育ち方が受け入れられるようになれば良いなと思います。

前北 海(千葉県・30歳)

 私は中学校1年生の秋ごろから不登校になりました。この体験談を書くにあたって当時のことを思い出してみると、とても辛かった記憶ばかりです。いじめなどの学校に行けない決定的な理由はありませんでしたが、毎日もやもやしながら中学校に通っていました。学校生活の素朴な疑問を先生に問いかけても「学校のルールだから」の一点張りで、私は問題解決に向けて対話を求めていたのですが何も話が出来きませんでした。中学校生活は常に「イライラ」し「モヤモヤ」していたのを思い出します。そして秋にあったテストが終わった後、様々な身体症状があらわれ学校に行けなくなりました。その後2年間引きこもりました。

 そして不登校をするより不登校になった後のほうが辛かったです。学校で様々な辛い体験をして、自分(子どもの)の力ではもう解決できない時に不登校になります。そして学校に行かないと当然のように親や友達そして先生からも「何で学校にいかないの?行ったほうがいいよ」と再登校へプレッシャーを受けます。自分の味方だと思っていた人が全員敵に見えてきてしまい自分の味方は居ないと思うようになり次第に孤立していきました。そして「学校に行けない自分はダメだ」と自己否定しまるで悩みの底なし沼に入り込んだ感覚でした。しかしこれは学校以外の選択肢が無いことによる「不登校の二次被害」を受けているわけです。私はフリースクールに行かずに育ちましたがフリースクール等が公的に認められ、選択肢の一つになれば不登校の二次被害が大きく緩和されるはずです。

 私の場合は学校の先生と折り合いが悪かったので不登校の問題は学校の中だけでは解決できないことが多いと感じています。また不登校になった時点で学校に不信感を感じているのでその象徴である先生が問題解決に動くことは無理があるのではないでしょうか。また私が病気になったから不登校になったわけではなくて医者やカウンセラーに会おうとも思いませんでした。私が安心できたのは不登校だった経験者に会ったときです。「自分は自分でいいんだ」と根拠の無い自信が湧いてきました。肩の荷がスッと下りたのが今でも思い出せます。

 最後にですが私は不登校になって一番思ったことは「再登校できるようになりたい」ということでもなく「フリースクール等に通いたい」ということでもなく「ただただ休みたかった」ということです。私の場合回復への道筋のポイントはここでした。ですがフリースクール等の支援が子どもたちにとって誰かの何かのチャンスになればいいと思っています。

彦田 来留未(埼玉県・24歳)

 私は小学4年生のときに学校に通えなくなりました。転校先の学校に馴染むことができず、胃の中に重苦しい感覚を抱えながら、毎日がんばって通っていました。担任の先生がいつもぴりぴり、イライラしていることや、女の子へ嫌がらせをする男子がいること、勉強へついていけない、友だちとたのしく遊べない、などの焦り、極度の緊張が重なり、学校へ行くことが心の大きな負担でした。腹痛、頭痛、気持ち悪い、眠りが浅い、と、体の不調が出ていました。何よりも悲しかったのは、家族の気持ちがばらばらになってしまったことで、私が“明日の学校のこと”を考えて泣き出し、両親とけんかになってしまうことでした。2学期の始め、布団から出ることができず学校を休みました。

 学校に行けなくなった日から、学校へ行ったり行かなかったりの日々が始まりました。家で休んでいても、他の人は学校へ行っているのに、自分は布団で横になっている。罪悪感でいっぱいで、なかなか休まることはありませんでした。学校に行きたくないと言えたならどんなにか楽なんだろう、という気持ちとは裏腹に、学校に行かねばならないという焦りから「学校に行きたい」と言い続けていましたが、心も体も限界になり完全に学校へ行けなくなりました。しかし、学校を休んでもまだ気持ちや体が休まることもなく「学校へ行けない自分はなんて最低なんだ!生きている価値なんてない!」と、母親にこぼし、自分を否定し、責め続けました。

 些細なことをきっかけに何時間も泣き続け、家族で休日出かけても、テレビをみても、楽しい気持ちになることが出来ず、笑っていることもいけないんじゃないか・・・そう思うことにすら疲れ果ていた頃、母がフリースクール東京シューレの存在を教えてくれました。ここで学校に行っていない人が生き生きと楽しそうにしている姿を見て、やっと心が晴れ、徐々に自分も楽しんでいいんだ!みんなみたいに、いろんなことに挑戦してみたい!という気持ちが湧いてきました。違う年齢同士でも、おとなと子どもでも、対等に会話し、ミーティングで考え合い討議しながら一緒に活動していくことを初めて経験し、毎日がわくわくする気持ちでした。学校だけが子どもの学び方じゃないのだと知って、やっとほっとして、安心して休んだり、活動していくことができました。
 中等部年齢はほとんどを家で過ごす日々になりました。自分に向き合いながら、家事や読書、創作と、生活の中でじっくりと学び、時間を気にせず安心して毎日を過ごすことができるホームエデュケーションの生活でした。それまで学校で感じていたストレスや疲れを休めることもできたように思います。

 その後15歳で初めてのアルバイトを経験し、自分にもできるんだ、働くって楽しいんだ!ということが大きな喜びと自信に繋がりました。様々なアルバイトをし、中には人間あつかいされていない、と思うような仕事もあり、自分が自分でいられなくなるような、不登校をしたときに似た気持ちになることもありました。自分の気持ちが穏やかでいられないと他の誰にも優しくなれないのだと思っています。今は障がいを持つ人と関わる仕事にたどり着き、楽しんで働き、相手の心の声に耳を傾けられる自分でいたい、と思えています。働く今も、学校外の居場所を選び過ごした経験が大きな軸になっています。
 学校に苦しみながら通っている子ども、不登校で自信をなくしている人が、安心して学び育つことのできる世の中になっていくことを願っています。

馬場耕介(東京都・21歳)

 私は2004年、小学5年生の時に不登校になりました。
 きっかけは担任からの「連帯責任」という名の罰でした。クラスでは5、6人一組の班に分かれており、班の中で宿題を忘れたり、指名されて答えられなかったり、給食を食べきれなかったりすると班全員で連帯責任をとらなければいけませんでした。休み時間に教室に残される、教室の後ろにずっと立たされる、放課後ずっと残されるといったことです。毎日どこかの班が連帯責任を受けており、一緒に遊べない友達が常にいたり、授業中も気になったりと、やられていない時でも辛い思いをするようになってしまいました。そして、徐々に学校や担任に対する不信感から学校に行けないようになってしまい、夏休みの前に不登校になりました。

 自宅に半年以上引きこもりの状態を続けておりましたが、学力や将来に対する不安から何かしなければならないという気持ちが沸いてきたころ、母からフリースクール東京シューレ王子の存在を聞き、小学6年生に上がるころに入会をしました。
 フリースクールでは、同じように不登校をしている同年代から上の年代の人たちが多く在籍しており、居場所としての安心感を得られた部分が何よりの救いでした。そこでは学力に対する不安から、スタッフ(フリースクールの職員)が教えてくれる数学や英語の講座を受講しました。また、何かにチャレンジしたいという気持ちが強かったため、演劇の活動に参加し、鬼怒川・滋賀・長野などで600人以上の方々を前に公演を行いました。7、8歳以上年上の方々と演劇活動を行ったことで、同年代とは違う様々な考え方や価値観を学ぶことができました。そして、中学1年生の時には同年代の友人と3人で、北海道5泊6日の合宿を企画し、30人ほどの人数で合宿に行く経験をしました。

 このような経験から、どんどん何かをやっていきたいと考えた私は、高校・大学に進みたいという気持ちを強く持ちました。それと時を同じくして、中学2年生の時に東京シューレが葛飾中学校という不登校児専門の中学校を開設したため、そこに通い学力をつけることを決めました。
 葛飾中学校の特徴は少人数制で一人一人にあった教育を行うことです。数学や英語などは習熟度別に分からないことをきちんと教えてくれ、体育や音楽では全学年でクラスをつくり、子どもがやりたいことを尊重しながら授業を計画してくれました。私は数学や英語が苦手だったのですが、勉強をして分かる面白さを感じることができました。
 もう1つの特徴は、子どもが主体となって動ける部分です。「それ活」と呼ばれる部活動の時間では、シューレ通信編集部と演劇部を立ち上げて、スタッフの見守りのもと子ども主体で活動を行っていきました。演劇部では練習時間よりも話し合いの時間を多くとり、全員が納得いくまで議論を重ねました。また、修学旅行の行き先を自由にプレゼンテーションできるため、私は実行委員長となって広島への修学旅行を企画しました。

 これらフリースクールと葛飾中学校の経験によって、学力以外の主体性や積極性を身につけることができました。何かすることは楽しいんだ、どんどんチャレンジしたいという気持ちが強くなり、大正大学へ入学後は学園祭の実行委員会に所属をし、イベントの企画や裏方の作業などを行いました。現在は就職活動中ですが、グループディスカッションなどの議論や発表の場では、経験を活かして積極的に発言を行うことができていると感じております。

谷本 希(長野県・18歳2010年当時)

 現在、不登校が増加している。新聞などを見ると、学校に行かなくなった児童や生徒の人数の増減や、学校側に考えられる問題点などが取り上げられている。このような記事では、不登校の子どもたちを少なくすることが、この問題の解決だととらえられているようだが、はたしてそうなのだろうか?私は不登校という問題に対しては、教育の多様性を社会が認めていくことが大切だと考える。
 私は小・中学校の頃に不登校を経験している。その際に、全国の学校に行かない子どもたちが集まる大会に、参加したことがあった。そこで出会った人たちは、いじめなどの人間関係であったり、学校のシステムが合わなかったりと、様々な理由で登校拒否を選択していた。またフリースクールに通ったり、ホームエデュケーションという形であったり、それぞれ自分に合った方法で、日々の生活を送り学習していた。子どもたちの性格や興味はそれぞれであり、その個性にあった教育が存在する。もちろん、普通の学校が性にあう子もいる。実際に、私の友人にも、中学校で勉強と部活を楽しんでいる子は多かった。
 しかし、今の社会では、学校にいて集団生活を送り、授業を受けて勉強することだけが当たり前になっている。学校に行かなければ勉強ができないとか、集団生活が送れなくなる、というような考え方もある。実際はそうとは限らないのに、そのような考えや周囲の目のせいで、悩んでいる不登校の子どもやその親は多い。
 したがって、子どもたちの個性に合わせた教育の多様性を、社会的に認めていくことが必要である。学校に通っている子どもが強いストレスを抱えるようになったら気楽に心身を休めたり、自分が望む教育を選択できるような周りの環境を作っていく努力を社会全体でやっていくべきである。

鈴木海斗(東京都・17歳)

 小学校1年の終わりからクラスが騒がしく授業にならない事が増えた。そんな中暴力や暴言を受けていた。担任に相談しても解決しなかった。親には言えなかった。喘息の悪化や起立性調節障害等で体調が悪くなり、カウンセリングを受けるようになった。母も学校に相談していたが解決しなかった。百マス計算の時決められた目標タイムに届かなかった事で副校長から「バカ」と言われ、更にいじめられる事になった。保健室登校になり死ぬ事ばかりを考え、実行しようとして母に止められた。
 5年のある日、担任に「学校に来ていないのはお前だけだ」と怒鳴られ、学校へも行けなくなった。両親は学校へ行かなくてもいいと言ってくれ、家で過ごした。
 6年になる時、ホームシューレに入会した。ホームシューレは家庭をベースに成長している子どもと親達の支援を目的とし、1993年に生まれた。今まで1600以上の家庭が参加した。
 中学は東京シューレが作った葛飾中学へ進んだ。3年になり進路を考え、シューレと提携している三和高校に決めた。最初はフリースクールの存在を知らず、高校資格が取れる事に魅力を感じての進学だった。シューレでは小学生から高校生までの子がいる。家族みたいな感じがして安心して過ごせる。また、自分が学びたいと思う事を納得いくまで学べ、スタッフも全力でサポートしてくれる。
 入学して子どもの権利条約と不登校の子どもの権利宣言に出会い、集会やイベント等で色々な事を学びその活動は今も続けている。権利宣言は、2009年8月、不登校の子が集まる夏の全国合宿「ぱおぱお」で採択されたものだ。宣言文に出会い小学校時代の僕は当たり前の事が守られていなかったと知った。
 今、僕は説明会や研修等でシューレに来た多くの人の前で自分の経験を話している。以前の僕では考えられない。僕の将来の夢はこの経験を生かして子どもに関わる仕事に就く事だ。まだ何にするか決めていないが、困っている子どものためになる仕事がしたい。それは、不登校経験をした僕だからこそ言える夢だと思う。

中島瑞季(東京都・19歳)

 私は幼稚園生のころ、泣いては注意されてばかりいました。
 子供の私にとって泣くことは助けを求める手段でしたが、先生は子供のことを集団でしか見てくれず、どんな理由があっても集団を乱す子供が注意の対象となっていました。
 そのため、助けを求める手段である「泣く」こともできず、理不尽なことがあってもただひたすら耐えて、集団を乱す「失敗」もできない幼稚園生活を送っていました。

 そんな経験から、小学校でも「ちゃんとしなければ」という不安と焦りの中で学校に通っていましたが、小学4年生の春休み明けに限界をむかえ、ついに不登校になりました。
 学校に行けなくなってからは、「学校に行かない事は良くないこと」という価値観が当然のように身についていたため、自分の事を責め、罪悪感を感じました。「学校に行っていないのに遊んでいいのかな」という思いから、近所の友達と遊ぶことをやめ、家で一人で過ごすようになりました。
 最初のうちは勉強が遅れたらいけないと思い、学校から出された宿題をやったり、母から勧められた通信教育をやっていましたが、結局長くは続かず、余計に自己否定をするようになっていきました。

 その後ホームシューレに入り、不登校に対する罪悪感や劣等感を乗り越え、自分らしくやりたいことを追求している先輩方の姿を見ることで、いつしか「自分もこう生きていきたい」という憧れを抱くようになりました。
 さまざまな葛藤の末、ホームシューレの発行する会員誌『ばる〜ん』の編集部員として活動するようになってからは、『ばる〜ん』の特集作りのために、どういった内容を読者が求めているのか、相手の立場になって考えてきました。
 そうするなかで多くの失敗をしながらも、正しい言葉を覚え、Wordの使い方を学び、デザインする力を得、物事を深く追求し、それを文字に起こす能力が身についたと思っています。特に、特集を決める会議で、他の編集部員とディスカッションすることにより、相手の考えを受け止めつつ自分の意見を正確に伝える力がついたことは、とても自信になりました。

 振り返ってみれば、それが私の『ホームエデュケーション』だったなと思います。
 今後も、型として作られた『ホームエデュケーション』ではなく、型のない自由な学びができる『ホームエデュケーション』が広まることを願っています。

井上聡志(東京都・16歳)

 自分は、小学校2年生時に、親と離れるのが嫌になり不登校になりました
不登校になってからは、周りと違うことをしていたのでとにかく後ろめたかったです
でも、小学4年の終わりごろからホームシューレの掛川サロンに行き始め知り合いも増え少しずつ気持ちも明るく過ごせるようになりました

 こうしてホームエデュケーションに切り替えてから平日にいろんなところ(公園や動物のいる施設、博物館など)に出かけ、それらは結果とても良い経験になっていたかなと思っています。他にも料理を作ってみたり卓球をすごい練習したりカードゲームではカードの効果や強い組み合わせなどを調べそれらにどうやって勝とうか沢山研究したりもしました。旅行(那智勝浦、伊賀上野、伊勢、姫路他)もいっぱい行き、何か勉強しに行ったわけではないですが充実した時間になりました。

 将来、自立をするのが目標ですがそのために一体どんな生活にしたいか、
今はまだ決まっていないのでそれを探す意味でも今年から通信制の高校に
入ることにしました。

(親から)
 子が不登校になり、どこにも通わずホームエデュケーションとなったことで、我が家はなにものにも代えがたい家族のつながりができたと思っています。不登校前は親は仕事が優先で、子供、家庭は二の次でした。もし不登校にならなかったら親がうつになったり、体を壊したりしていたでしょう。人生においてなにが大切かを見直すきっかけとなり、子供と共に貴重な時間を共有してきました。ホームエデュケイションは子供の関心にダイレクトに寄り添うことができ、実は最もぜいたくな教育法じゃないかと感じております。 ただ現在の日本ではマイナー過ぎて、誇りを持って生きるのが難しく、かつ資金的にもサポートされていないため親は厳しい場面があります。学校教育にはその良さがありますが、ホームエデュケーションにもそれとは違う良さがあると感じており、多くは学校に行くとしても「ああ、あなたはホームエデュケーションなのね」と普通にとらえられると子供はもっと自信を持ってのびていけるのではないでしょうか。

佐藤 森(神奈川県・18歳)

 私が不登校になったのは、小学校の二年生の時でした。
 私が行った小学校は人数が多い所で、友達作りが大変でしたが、担任の先生が優しかったので、通えました。
 私の不登校のきっかけは、いじめにあったとかではなく、進級で先生が変わり、大好きだった先生と会えなくなったり、友達と話を合わせるのが辛かったりと小さな出来事が積み重なった結果、自分の許容範囲を超えてしまったのだと思います。
 学校に行かなくなった当初は「行きたくないから行かない」だったのが、だんだん他の子とのギャップを感じ「行けないし行きたくない」に変わっていきました。
 結局、小学校はほとんど行かず、中学校は入学式と卒業式の二日しか行きませんでした。
そろそろ中学校卒業という時に、将来に不安を覚えたということもありますが、自分が普段興味を持たないような広範囲の知識も身に付けたいと思い立ち、通信制の高校を探してみたのですが、説明を聞きに行くだけで緊張して泣きたくなり無理だろうなと思いました。今迄どこかに通うということをまったくしてこなかった私には月に一回通うのも辛かったのです。
 しかし、卒業間近の二月にシューレが北海道の高校と提携し、ホームシューレ・コースを始めると知り、説明を聞きに行きました。そこで通うのは年に四日の東京スクーリングと北海道での本校スクーリングだけと聞き、そこにしようと決めました。
 それでも、スクーリング初日は行きたくないと泣き、断るために親と一緒にスクーリングの場所に向かいました。そこでスタッフの方から、見学だけでもしていかない?と言われ、その後断ろうと思い、とりあえず出ました。しかしこれに出たことによってずいぶん気が楽になり、その後は一人でもスクーリングに通えるようにもなり、ひいては一人で色々な所に出かけられるようになりました。
 勉強の内容もただレポートを出すのではなく、解らない所まで遡って教えてくれるサポートや、実際に町を歩いてその町の歴史を知る、など苦しいこともありましたが全体的にとても楽しく、勉強っておもしろいと思うまでになりました。
 今、私は大学に入学しました。三年前の自分からは考えられません。不安はありますが、ホームエデュケーションで学んだ事は確実に自分の力になってくれています。
 これから私の様な子も後ろめたさを感じずに学べる社会ができることを切望します。

お問合せ先

初等中等教育局フリースクール等担当

初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係

(初等中等教育局児童生徒課生徒指導室生徒指導第一係)

-- 登録:平成27年06月 --