育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会(第10回) 議事要旨

1.日時

平成25年11月22日(金曜日)10時00分~12時00分

2.場所

文部科学省 3階 3F2特別会議室

3.議題

  1. 教育目標,指導内容,学習評価を一体的に捉えた教育課程の在り方について
  2. 教育課程の基準における資質・能力の示し方について(国立教育政策研究所より発表)
  3. その他

4.出席者

委員

安彦座長,無藤副座長,天笠委員,奈須委員,西岡委員,松下委員,村川委員

文部科学省

塩見教育課程課長,大金教育課程企画室長,橋田教育課程企画室専門官
勝野教育課程研究センター長,後藤総括研究官,西野総括研究官,松尾総括研究官,白水総括研究官 

5.議事要旨

(1)教育目標,指導内容,学習評価を一体的に捉えた教育課程の在り方について,事務局より説明があり,その後,意見交換が行われた。

【委員】 次の学習指導要領改訂に向けて,国から発信するメッセージは絞っておくことが大事。最優先で考えるべきことは,各教科における深い思考力の育成であり,これを進めていくことで,汎用スキルや教科横断のテーマ,メタ認知などは自然と身に付いてくると考える。

【委員】 学習指導要領における目標の示し方を構造的に整理することが必要。知っておけばいいレベルの目標と,児童生徒自身が身に付けて使いこなすことが求められる重要な目標とを分けて示すべき。資料2の7ページの丸の四つ目に挙げられている「包括的な『本質的な問い』や重点的指導事項例を明示することが有効」という意見は,【教育目標の示し方】に該当する。世界的潮流に倣い,教える内容を示す「内容スタンダード」から,内容を身に付けた結果として,子供たちが到達する姿を示す「パフォーマンス・スタンダード」へと転換していくことが必要。深い思考力の育成の結果を評価することを想定すると,【評価方法・内容】に書かれている「活用型学習の成果は『評定』には使わない」という意見は,この流れに逆行するのではないか。活用型学習の成果も含めて成績付けの中にも位置付けなければ,形骸化してしまう。

【委員】 「課程主義」か「年齢主義」かという点について,集団編成は「年齢主義」で行いつつ,評価規準の設定は「課程主義」的に,チェックリストやルーブリックを組み合わせて行う方法が考えられる。カリキュラム編成の理論的な到達点から見ても,「課程主義」と「年齢主義」の2区分から,もう一歩前進して考えるべき。

【委員】 活用型の学習は,「教科で習得した知識が探究型の学習で使われていない」という批判から,習得型の学習を探究型の学習につなぐための道具的・媒介的位置付けとして導入された。これを評定に使うと,「探究型の学習の質を高める」という当初の目的を見落としてしまう。最終的なチェックは必要であるが,活用型の学習の成果を小テストなどで評価してしまうと,探究的な学習につながる前に終わってしまう。

【委員】 「年齢主義」と「課程主義」について,どちらか一方ではなく,両者の良いところを組み合わせるという意味で「半課程主義」が妥当と考えている。いずれにせよ,原則的な視点は決めておかないといけないのではないか。

【委員】 活用型の学習の測定について,学校現場では,全国学力・学習状況調査のB問題が強く意識されている。この数年,教科の学習においても,課題に対する自分の考えを書いたり,述べ合ったり,ワークシートに記述したりする取組が進められている。経年比較を見ると,思考力・判断力・表現力育成を重視し言語活動の充実化を図る取組に力を入れている学校は,B問題の成績が上がっている。学校現場では,期末テストや中間考査を通じて習得型の能力は測れるが,活用型の能力の測定は難しい。B問題でそのような能力の測定が可能となり,現場でもそのようなことを意識した授業改善が進められている。

【委員】 いわゆる従来型の学力を育てながら,「生きる力」という育成すべき資質・能力の両方を伸ばしている学校は,目の前の子供たちの実態や将来の世界像から,子供たちに身に付けさせる力を考え,それを基に教育目標を具体的に設定し,目標を達成するための授業作りや教育方法,学習方法を考えるというカリキュラム・マネジメントが実践できている。国において目標,内容,評価の一体化を考えた学習指導要領を作ることも大事であるが,各学校で目標,内容,方法,評価を一体的に捉え,カリキュラム・マネジメントを進めていくことの必要性を,国として具体的に示していくべきと考える。これまでも学習指導要領の総則には書かれていたが,学校の総意として,教職員全員が具体的な目標,内容,方法,評価について自分たちで考え,実行し,見直していくことができるよう,教員養成課程や現職教育の中で指導していくことが必要である。

【委員】 教育目標自体の捉え方を整理し,構造的に捉えることが大切。学習指導要領上に示された目標だけでなく,我が国の学校では,理念的で抽象度の高い学校の教育目標が掲げられているが,これと授業の目標との構造化がなされていない。各教科については,学習指導要領上の教育目標において,指導内容と評価を一体的に捉えることができるが,「関心・意欲・態度」などの人間形成に関わるものは,学校教育目標の中に位置付けられている。よって,学習指導要領上は,特別活動などの目標を含めて捉えることを第1段階とし,各学校の目標との対応関係など,教育目標全体を構造的に整理していくことが必要。

【委員】 カリキュラムの評価や教育課程の評価の議論においては,学校評価の視点も必要。教育目標や指導内容,学習評価だけでなく,学校の教育目標や学校評価まで含めて構造的に捉える中で,授業で目指す目標の議論を行うべき。これまでの教育目標は,重点や方針の羅列にとどまり,達成状況についての追究が不十分であった。まずは,教育目標についての構造的な整理をした上で,議論していく必要がある。

【委員】 活用型の学習の評定は,望ましい形とは思わない。活用力を測ることは必要であり,子供にどういう活用力が育ったのか評価することは良いが,それを育てるために媒介的に入れた活用型の学習の中身については,評定として点数を付ける必要はない。「探究型の学習へとつなぐ」というねらいに対して,うまく活用力の資質の向上を測れているか,先生方の活動をチェックする意味での評価はすべき。しかし,評定をしてしまうと,子供のやる気をそいでしまう心配がある。

【委員】 個人個人の学習の評定は行わない方が良い。全国学力・学習状況調査のB問題も,実際は,個々の子供の学力というよりも各学校の授業の質などを問うものである。その結果を通して,学校や教師自身が授業改善につなげるための評価として使うべきである。

【委員】 習得,活用,探究にはそれぞれの価値がある。活用は「構造化された問題を教科の枠の中で使いこなし,解決していくことを通じて得られる力を育てていくもの」,探究は「教科の枠を超えて,構造化されていない問題にまで子供たちが向き合う活動を通じて学んでいくこと」とすると,活用においても,ルーブリックやパフォーマンス課題を用いた評価が重要になる。評定という形ではなく,個々の子供たちが学んだ知識をどう使いこなしているかを評価し,授業改善にも生かしていくことを考えるべき。パフォーマンス評価やルーブリックは,探究にも一部関わるが,主として活用において重要な評価方法と捉えている。

【委員】 全国学力・学習状況調査のような大規模な調査では,評価の負担をかけず,かつ信頼性を保たなければならないため,簡略化された評価しかできない。それに対して,各学校や教室で行われているパフォーマンス課題やルーブリックは,もう少し複雑な内容を入れても良いものであり,両者を区別する必要がある。全国学力・学習状況調査のB問題は,結果として身に付いた学力を測るものであるが,この点数を上げることが目標になりがちであるため,そうならないようにしなければならない。

【委員】 例えば,理科の場合,「実験においてどうすることが条件制御なのか」というレベルであれば,B問題などの活用問題で簡単に評価できる。一方,本当に身に付けさせたい活用力は,与えられた物質の識別を行い,その性質を明らかにするための実験を,自分たちで計画・実施し,結果と考察を書けるような力である。これらは,成績付けにも入れられるレベルで評価できるものである。成績付けから外してしまえば,指導も評価も行われなくなってしまう。

【委員】 本来の目的である,探究的な,教科の枠を超えた質の高い活用力の育成につながるかという心配についてはどう考えるか。

【委員】 例えば,実際に社会科において,「本質的な問い」を追究するレポートを繰り返し書いたことにより,自分の中に探究すべき問いが生まれ,自由課題においても非常に深い問いを探究するレポートを書く例が見られた。これらを評価から外してしまうと,探究への媒介は机上の空論に終わってしまう。

【委員】 活用型の学習の成果を見て,探究的な学習につなげていくのが教師の仕事。教科の枠内で行った活用型の学習の後に,良いレポートを書いた力を,教科の枠を超えたところでも使えるようにすることが必要。

【委員】 探究も非常に大事であり,総合的な学習の時間で発揮されるような探究力を否定するつもりはないが,教科の中にも探究を入れるべきだと考える。

【委員】 教科の枠を超えたところが探究のレベルと考えている。

【委員】 総合的な学習の時間では,何が問いなのかも分からない状況において,生徒自身が問いを設定し,探究する力を育てなければならない。自らそうした深い問いを持つことができる力を育てるためには,教科の知識や技能を使いながら,作品やプレゼンといったパフォーマンス課題に相当する取組を行っていくことが必要。カリキュラム上への位置付けを考えると,活用型の学習も含めた評定を考えていかなければ難しい。

【委員】 途中までは同じ考えだが,教える方の先生が,活用型の学習が終わった時点で評定をすることで,学習が終わってしまわないか心配。

【委員】 現実問題として,学校現場では,全国学力・学習状況調査に出題されるB問題のレベルで活用力を捉え,その点数を上げることを目標化する逆転現象が起こり始めている。これが逆転現象であることを明確に位置付けることが必要。

【委員】 活用型の学習に評定を取り入れることが,逆転現象の解決になるのか。

【委員】 活用型の学習も含めて学校で保障すべき学力であることを示すべき。例えば,指導要録の「思考・判断・表現」の観点は,パフォーマンス課題などを通して評価すべきもの。成績付けにおいても,そうした課題による評価を,個別的な知識・技能の測定と同等あるいはそれ以上に重要なものとして政策的に位置付けなければ,ペーパーテストで測れるレベルの習得型学力にとどまってしまう。

【委員】 現状として,活用力やB問題への対応のため,習得から一気に探究・発展的レベルを目指した無理な指導が行われている。この状況を解決するため,中間的・媒介的なプロセスとして活用型の学習を取り入れた。活用型の学習では,最終的な成績まではつけず,優れたレベルの深い学習を,まずは教科の中で行うことが大事。この趣旨からすると,評定に活用型の学習のチェックまで含める必要があるか心配。

【委員】 この論争は簡単に片付けずに丁寧に考えた方が良い。指導要録については,中教審の学習評価のワーキンググループで議論し,報告書をとりまとめているが,当時の議論は途中段階のところがあった。報告書では,例えば,思考力の評価やスタンダードの明確化,パフォーマンス評価その他の評価法を取り入れる必要性などについて,幾つか課題を頭出し的に残していた。これらの課題をより深めた上で,学習指導要領などに反映させていく必要がある。

【委員】 評定については,そもそも評定が要るのかという議論を再度丁寧に考えるべき。要る場合は,どういう資料のもとでどういう目的のために使うのかを明確にする必要がある。例えば,評定を「学校の責任として一定の教育課程を履修したある結果の保障として見せるもの」とし,指導要録がそれに該当するとしても,子供や保護者にどうフィードバックしていくかは別の話。評価と評定を分けるとして,評価の多様かつ具体的な資料を極めて少数の評定に集約するというやり方や,その是非についてどう考えるか,丁寧な検討が必要。

【委員】 B問題のような成績が目標や基準になるという意見については,そもそも学校は一つの組織であるため,様々な指標を示されれば,その中の一番単純な指標に対して目標志向的に活動するようにできている。これは,何を示してもそうなるものであり,違うものを示せば違うものを目指すことになると考えられる。よって,B問題の成績が目標化してしまう状況を是正するためには,学校評価を充実させ,多様な指標で見ていく方法を考えるしかない。学校組織に任せ,そこに競争が入ってくれば,単純な指標に向かうのは仕方がない。

【委員】 思考力をどういう広がりと質のものと捉えるかによって,扱い方が変わってくることを念頭に置く必要がある。

【委員】 個別の授業のレベルでの評価は厳然と存在しているが,カリキュラムの評価や教育課程の評価というと少し怪しくなり,学校評価については次元が違ってしまっている。学校評価の中身としては,カリキュラムの評価が中核に据えられるべきであるが,現実には両者がうまくかみ合っていない。授業や学習の評価と,カリキュラムの評価と,学校の評価とが,整合され一体的に運用されるような方向性を目指すことが大切。その中で,核心的な問題として,学習の評価が組織の問題とどう関連しながら作られていくのか,本検討会の議論の中から示唆や提言,方向性が生まれてくると良い。

【委員】 各学校で設けている学校の教育目標や目指すべき生徒像等の中には,本検討会で議論しているような「育成すべき資質・能力」を含んだものが掲げられている。しかし,具体的な授業の中に,それらを達成する手だてがないため,目標と実際の授業とが遊離してしまっている。学校サイドで,学校レベルの目標を授業レベルまでつなぎ,授業の中でそれを見直していくというサイクルが機能していないのではないか。

【委員】 学校の教育目標がお題目的で,実質性を持っていない。裏返せば,教科で身に付ける力が天下り的であり,学校がそれを主体化できていない。その一因は,教科内容を教えた結果について,育成すべき資質・能力や,子供が成長した姿で語られていないことにある。個々の内容がどれだけ身に付いたかをベースに評価をしてきたために,教科学習の学力観や評価観,授業論と,育てたい人間像を示した学校教育目標とがかい離してしまっている。今回の議論において,これを資質・能力のレベルで議論し,教科の学習を通じて育てたい子供の姿を考えることによって,学校の教育目標と各教科の目標・評価が実質化して結び付く可能性が出てくる。国として,今後こうした目標構造論やカリキュラム論をどういう形で出していくか,ロジックを提示していくことが大事。

【委員】 ルーブリック等の児童生徒との共有化について,この教科を学ぶとどんな「本質的な問い」があり,どんな子供に育つのかを明示する必要がある。そして,それを学校全体で共有するとともに,子供や保護者との間で共有していくことも必要。これによって,本来一つの説明責任として提示されている学校教育目標と,各教科等の目標が結び付き,一体化したシステムとして整備される可能性が出てくる。

【委員】 学校の教育目標の実現のために様々な教育活動があり,学校の教育目標と整合するように,教育活動を学校独自に組織しようとする考え方があるが,各教科や特別活動,総合的な学習の時間を天下り的に理解していると,両者が実質化せず結び付いてこない。今回の資質・能力の議論により,各教科・領域の教育内容と,その結果として育成される資質・能力等が明確化・共有化され,全体の教育課程としてバランスよく学ばれることで,総体としての育てたい子供像がイメージしやすくなるのではないか。

【委員】 今まで上からだったものが,下からの動きが出やすくなるという意見だが,「共有化」とは具体的にどういう形を意味しているのか。下から上がってくる方法や,下から出てきたものと上からのものとの違いが不明確であるため,楽観的には考えにくい。

【委員】 現場の教師や保護者の間には,どんな子供に育てたいかという漠然としたイメージがある。幼稚園の議論は,そうした育てたい子供のレベルで行われているため,整合性があるが,小学校に上がるとコンテンツベースの議論になるため,個々の指導項目の内容が身に付いたかという視点で教科を考えてしまいがちである。今回の議論は,「指導項目を教えることを通して,こんな資質・能力や態度,問題解決力,あるいは,世の中に対する関わり方ができる子供を育てたい」という議論を呼び起こす可能性がある。これにより,「本質的な問い」やルーブリックも,その教科を通して子供がどのように成長するかという視点を含んだものとなり,そうした各教科を学んだ総体としての育てたい子供の姿も,ボトムアップ的に描きやすくなる。これまではトップダウン的に漠然と考えていた子供の姿が,例えば,算数科や国語科で育てた力が,全体として育てたい力のどこに相当するのか,つながりが見えやすくなるのではないか。

【委員】 カリキュラム評価のレベルで評価対象にすべきことと,学習の成果や学力として評価対象にすべきことを区別する必要がある。「関心・意欲・態度」や人格特性・価値観に関わる部分などは,カリキュラム評価のレベルで対象化する必要があるが,それを一々学力評価の中に埋め込むのはナンセンスである。例えば,社会科のレポートで明治維新の社説を書く場合,富国強兵政策に賛同するか,自由民権運動の推進と考えるかなどの価値観の選択については成績付けの対象にすべきではない。しかし,レポートを書く際に,どれだけの情報を総合し,社会科の概念や資料活用のスキルを使いこなし,自分の考えを説得的に主張できるかについては,学力評価や学習成果の評価の範囲として位置付けなければ,教科のカリキュラムから抜け落ちてしまう。

【委員】 全国学力・学習状況調査には一定の意義があるが,筆記テストの形式で測定できるのは知識・技能と浅いレベルの思考力までである。学校単位で成績を公表する議論も出始めているが,学校評価をこの文脈の中に位置付けることにより,全国学力・学習状況調査の成績だけで学校評価がなされる構造になりかねない。「学力評価は全国学力・学習状況調査で測ることができる範囲で良い」と言ってしまうのは,最も危険なことである。

【委員】 学校評価は大事であるが,評価方法がまだ十分に開発されておらず,現場でもアンケート調査程度のことしか行われていない。まずは,個々の学校が置かれた状況からカリキュラム改善を図るための支援にベースを置くことが重要。その上での評価は次の段階にしておかないと,形式的な学校評価が一般化してしまう危険性がある。

【委員】 カリキュラムを実体化することが学校評価であり,カリキュラムを通してどんな子供が育ったのか,あるいは育ち切れていないのかということを,学校として関係者の間で確かめ合うことが必要。授業方法の工夫の範囲を超えて,様々なファクターを視野に収める中で,学校として教育課程の評価を実体化させていくことが学校評価の意味。しかし,現状はそうした実体化が不十分であるという意味で,言葉としての「学校評価」や「カリキュラム評価」にとどまっている。どういう取組を進めることで,多くの学校で実体化していくのか,今回の議論が結び付くと良い。

【委員】 具体的にはどうすればうまく結び付いていくと考えるか。

【委員】 学習指導レベルに下ろしたときに,各教科の学習評価は相応に存在しているが,総則レベルの評価という観点では手つかずの状況。一つの方策として,総則の在り方について,目標と評価との対の関係において見直していくことが必要。

【委員】 一体的に捉えることの中には「両方から突き合わせる」という意味が含まれている。特に総則レベルでは,下からの観点では済まない部分があり,いずれ議論が必要。

【委員】 初等中等教育における授業,カリキュラム,学校の三つのレベルと,大学における授業科目と,学科や学部,大学全体とは,アナロジーで捉えられる。大学全体でどういう資質・能力を育てたいか,さらに,それを学科や学部レベル,個々の授業科目レベルにどうつなぐかという視点は,実践においても幾つか事例が出てきている。そのような事例とも照らし合わせながら,初等中等教育の目標も考えられていくと良い。アルヴァーノ・カレッジの場合は,大学全体で育成すべき能力を決め,学科,科目に落としていくという上からの形であったが,初等中等教育の場合は広がりがあるため,下からのボトムアップと上からのトップダウンの両方をかみ合わせていくことが必要。

【委員】 「資質・能力」のうち,能力や深い問いについては,「教科内容に根差した中核的な問い掛け」と言い換えられる。「教科」とは,「深い問いを中核として成り立つ知識」であり,その育成を目指すことが,学校教育で育てる能力の重要部分を占めることになる。一方,「関心・意欲・態度」については,学校教育法に規定されている学力の「主体的に学ぶ態度」に関わるものであり,一般的な人格特性・価値観とは異なった「学びに向かう力」,最近の英語圏の言い方で言えば,「ラーニング・ディスポジション」,「ラーニング・アティテュード」の問題といえる。これらは,教科横断的に捉えられ,総合的な学習の時間が育成の重要なパートを担っている。「関心・意欲・態度」をより発展させた形で捉え,パフォーマンス評価で一定部分は捉えられ育成できるものであると,積極的に考えて良い。

【委員】 「ディスポジション」などと呼ばれるものには価値意識が入っている。価値があるかどうかは子供の自由であり,「これは大事なものなのだと思え」という形で教育が行われるのは抵抗がある。レポートを書く中でどれだけ深く考え,書き方を身に付け,前向きの姿勢で取り組んだかについては測れたとしても,レポートの方向性や見方については,良いか悪いかを言われたくはない。この点は教育の自由として大事な部分。両者の区分は時代によっても異なり,微妙な問題ではあるが,区分をした方が良いという観点は注意して持っておく必要がある。

【委員】 教師側が,子供がどういう価値観を持って授業,学習に取り組んでいるかを観察し,理解することは重要であるが,それと学習の評価とは別の話。価値観にまでつながるような深い学びができているかについて,授業評価に返していくことには意味があるが,その子供の評価とはしないという点は,教育学者の間では共有できているのではないか。

【委員】 学力の要素の中に「関心・意欲・態度」や動機付けを含めることは大事。ただ,態度主義学力批判の立場からすると,それを個人評価に含めることによって,例えば,明治維新をめぐって両方の立場でエッセーを書けるという場合に,自分の考えではなくより良いエッセーが書ける立場を選択するという戦略的行為を取る可能性がある。一方,心理学の立場からすると,動機や動機付け自体が一つの能力であり,それは正当に評価すべき部分といえる。このように,振る舞おうと思えばそう振る舞える態度としての動機について,どう厳然と分けていくかが議論になる。

【委員】 今の指摘は大事な論点であり,非常に微妙な難しい問題。

【委員】 それがある種のヒドゥン・カリキュラムになる。教育的には,より誠実であるためや,自分の主張をしっかりと通すためにスキルを使おうとすることが望ましいが,学校の構造として,「そう振る舞った方が社会的に高く評価されるならその方が良い」ということを結局教えてしまう。それを避けるためにも,慎重な議論が必要。

【委員】 学校現場では様々な評価方法が使い分けられている。例えば,知識・理解はペーパーテストを中心に,興味・関心は日頃の様子を観察することで測っている。思考・判断に関しては,最近はワークシートも工夫されており,個人の考えやグループの考えに加え,グループや学級での話合いを通じて自分の考えがどう変わったかなど,自分がどう評価されているかを意識させない形でしっかりと書かせている。そして,これらは成績に反映するかどうかは別として,教師が子供にどんな力が備わったかを見るために使われている。このように目標や育むべき力に応じた様々な評価方法の使い分けが重要である。

【委員】 育てたい資質・能力やそれに向けた迫り方について,授業と接近させるためには,単元として表現することが大切。授業者としてこれを目指していくことで,授業改善にもつながるのではないか。1時間の授業をどう設計するかという点に比べて,単元で表現し授業を進めていくという点は,広がりと深まりがまだ弱い。授業をどう考え,どういう力を育てたいかを単元として表現し,それを情報交換したり議論したりする風土を作り出していくことを期待していきたい。

【委員】 カリキュラム学者として,単元レベルの授業研究の重要性を主張してきたが,なかなか現場で広がらなかった。現場では,単元レベルの取組は行われているが,そこで行うテストが評定用のテストになっているため,学習活動の改善やカリキュラムの改善に結び付いていない。改めて,単元を現在行われているものではなく,資質・能力を育成する上での位置付けや性格のものに変えていく必要がある。

【委員】 一般的に「教育課程」というと,教務主任以上の先生の仕事であり,他の先生方には関係ないというイメージがある。本来は,例えば,小学校の先生であれば,1年間かけて各教科の目標・内容を押さえながら,育てたい子供の姿やそのために必要な学習環境の整備や指導の在り方について,一体的に考えざるを得ない。単元レベルに落として考えると,一人一人の先生方が,目標,内容,方法,評価を一体的に考える必要が出てくるため,その力量をしっかり育てることが大事である。

【委員】 目標,内容,方法,評価を一体的に考えるということは,例えば,中学校の英語の先生であれば,3年間かけて英語の教科を教えながら,子供にどんな力を付けるのか,そのために具体的にどのような授業をして,どのような方法で評価するのかということを,トータルに考える必要があるということである。教科書をこなすのが教師ではなく,教科書も道具として使いながら,1年間あるいは中学・高校では3年間を通じて,自分の教科をどう教えるかについて一人一人が考える必要がある。ただ,現状ではそのようなことが先生方に十分に捉えられていない。

【委員】 カリキュラムを作るときに,年間指導計画や卒業までの3年間というマクロのレベルの設計と,単元レベルのミクロの設計とを往復させて考える発想を,カリキュラム・マネジメントの中核的視点として共有することが必要。

【委員】 先ほど活用力等を評定の対象とすべきであると発言したが,それは指導要録の「評定」欄を残すべきという主張ではない。「思考・判断・表現」と「関心・意欲・態度」とは,分離して評価できるものではない。よって,指導要録では,これを統合して評価する観点と,「知識・技能」を身に付けているかを評価する観点の二つを残し,この2側面から学習状況を評価していく方向性を目指すべき。ただ,この方向性の定着にはかなりの労力を要するため,リソースを集中的に位置付けていくことが重要。全国学力・学習状況調査の拡大や学校評価も大事ではあるが,例えば,指導主事の力量向上に力を入れる方が現実的。授業日数・時数についても,最低基準のみを示し,具体的配当を学校に任せるという方向は,授業時数の肥大化を招き,ドリル学習を0時間目と7時間目にやるような学校を生み出す懸念がある。

【委員】 観点別学習状況の観点をどうするかという論点が挙げられていないが,ルーブリックの観点や基準とも関わる問題であるため,議論しておくことが必要。現時点で具体的なアイデアがあるわけではないが,きちんと整理しておかなければ現場に混乱を招きかねない。

【委員】 プラクティカルに考えると,観点別の評価は,教師が指導の反省に使ったり,子供に返したりするなど,幾つかの機能を持っている。ルーブリックやその他の評価資料と結び付けていくことを考えると,各観点の数字自体ではなく,数字の下にある具体的な事実や子供の姿を見ることが大事。そのためのくくりとして観点があるということを明確化することが重要であり,最終的に観点の数は問題ではない。

【委員】 指導方法に関しては,各教科で歴史的に多くの方法が開発されてきた。国としては,様々な教育研究団体の研究や実践を事例として示すことはできても,これがいいという方法は示せない。評価に関しても,評価方法の工夫が必要であるが,指導資料や参考資料集という形で例示し,最終的には各学校で方法や評価を選ぶ形とすべきである。大事なのは,一人一人の先生方が方法や評価の問題を自分の事として捉え,授業改善を行っていくことである。

【委員】 教育再生実行会議において出されている達成度テストの案では,発展レベルはルーブリックのようなレベル分けのイメージが提案されているが,基礎レベルは1点刻みで良いという議論になっている点が,もったいない。高校教育が過度に縛られないという点では,希望者のみの受験にとどめるべきだが,どんな学力層の生徒たちにも「本質的な問い」を自分なりに探究し追究していく学習機会を提供することが必要であり,その方が学力向上にもつながると考えられる。この観点を,基本原則として達成度テストなどの議論の中にも入れておくべき。

【委員】 入試に多くの機能を持たせないようにした方が良い。従来は,入試の在り方を変えることで,特に下位の学校種の教育の正常化や望ましさを求めようとしてきたが,そうしたやり方は切りがなく,全てを入試でカバーし切れるものでもない。入試は入試であり,選抜なら選抜を目的として,学校教育の改善は別途手だてを用意することが望ましい方向。入試を念頭に置こうとすると,入試に配慮した組み立て方や,一体化の議論に流れてしまう。

【委員】 入試では習得型の能力を測ることが中心であっても,実際には,習得型の学力の育成を目指している学校より,探究的・活用型の授業を重視して取り組んでいる学校の方が,進学実績が上がっている。むしろ,習得型の授業ばかり行っている学校は,伸び悩んだり子供たちのメンタル面で問題が生じたりしている。こうした事実をデータとしてまとめ,国としても発信していくことが大事である。

(2)教育課程の基準における資質・能力の示し方について,国立教育政策研究所より発表があり,その後,質疑応答が行われた。

【委員】 学校教育は,人類が蓄えてきた協働的な知の在り方に参入することを助ける場であり,子供同士のグループの中の協働性だけではなく,人類全体との協働性についても考える必要がある。子供が自分自身で考えていくという学習観については,半分賛成であるが半分疑問。

【国立教育政策研究所】 人類全体との協働性を考えるために,教科内容が重要。例えば,「『電流が流れると磁石になる』という概念は,子供は多様な考え方で良いため分からなくても良い」ということではなく,そこは全員に分かってほしい。その際,最初は「磁石になるわけがない」と思っている子ほど,結論にたどり着いたとき,他の物質も磁石になるのか疑問を持つ。教科内容を大切にしながら,頭に押し込むのではなく子供自身が考えて概念を獲得することによって,その先に分からないことが見えてくるという形で,人類との協働と子供同士との協働を考えていきたい。

【委員】 資質・能力の水準や系統表について,水準をどう作っていくかが課題。資料4の24ページに示されている構造(案)では,左側に教科内容,右側に言語活動やプロセスの形で整理しているが,例えば,「比較する」ということについて,幼小中高の段階付けをするのは極めて難しい。結局は,左側の教科内容に寄ってしまう可能性があり,しっかり考える必要がある。

【国立教育政策研究所】 「比較する」の水準の区分は難しい。個人的にも,資質・能力の系統表には少し疑問を持っている。

【委員】 有意味な文脈として,日常的な文脈であることが強調されているが,教科内容としての文脈についても考えるべき。例えば,「比較する」ということは,それ自体で成り立っているわけではない。理科の溶解の場合,粒子という考えのもとで比較をしており,認知科学的な言い方をすれば,メンタルモデルを持ちながら比較しているのであって,単なる比較ということはあり得ない。もし単なる比較であるならば,比較の水準は成り立たない。よって,教科内容の文脈を結び付ける必要があり,資料4の24ページの左側と右側は,もっと密接に絡み合うものと考えられる。

【国立教育政策研究所】 文脈には日常的な文脈だけでなく,教科内容としての文脈も重要だと強調している。教科内容と学習活動を切り離さないようにすることが必要。何かを比較する際は,どこかの教科と結び付けて学習することで,子供にとっての有意味な文脈が生まれるのではないか。比較のみを目的とした思考のトレーニングを行っても,子供にとってはどんな文脈かが分からない。例えば,「『電流を流すと鉄がどうなるか』という問いに今日は答えを出す」と分かっている文脈において,比較が一体的に使われて初めて有意味な文脈と呼ぶことができる。

【委員】 資料4の24ページのスライドの構造が非常に分かりやすい。議論の前提として,カリキュラムの総則レベルや汎用スキルのレベルで考えるべきことと,各教科のレベルで考えるべきことを区別しながら関連付ける方針は妥当。ただ,スキル,ストラテジー,プロセス,プラクティスといった用語で言われている,要素的に身に付けさせるべきものと,そうしたスキルやプラクティスと言われているようなものを結合してパフォーマンスをしていくことが,同じ「能力」などの用語で語られるため,混乱が生じやすい。次の学習指導要領改訂に向けて,用語の共通化を図る必要がある。特に,24ページのスライドでは,スキル,ストラテジー,プロセス,プラクティスに当たるものが「学習活動」とされているが,これは混乱を招くのではないか。21ページの3番にあるように,学び方や技能のうち,大事なものを厳選していく観点から,ここで「活動」という言葉を使わない方が良いと考える。

【国立教育政策研究所】 スキル,ストラテジー,プロセスなどの用語については,認知研究をベースに完全に相互排他的に整理するのは難しく,様々な用語が絡み合っている。そこで,教育政策上のストラテジーとしては,便宜的に全て一まとめにしておき,その中で大中小の粒度を決めて考えるのが妥当と考えた。現在は,左側に教科内容,右側に学習活動と分け,その中での粒度を整理していくことを提案している。これは,教育を考えるときには良いが,今後,子供が活動を通して技能やスキルをどう学ぶかについて整理するという課題が残る。

【委員】 概念とスキルを総合させて使いこなすことを,個々の子供たちに保障していこうと考えると,NGSSのような埋め込みモデルでは縛られ過ぎるという指摘は同感。ただ,結果として到達してほしい姿のイメージは,概念やスキルの整理と同時に伝えておくことが必要。その場合,「内容や活動」で示すのか,「本質的な問い」を示して何らかの活動を通してそれを探究してほしいとするのか,「育てたい子供の姿」を示すのか,どの表現が適切か,もう少し検討が必要。参考資料のレベルでは,NGSSのような埋め込みモデルを示すことも大事ではないか。学習指導要領のレベルでは,埋め込みモデルの記述より膨らみを持った実践が生まれるような自由度を残す観点から,問いを示す方法が有効ではないか。

【国立教育政策研究所】 学習指導要領を指示書ではなくリソース的に捉えてもらうためには,一例を示した後に,他の事例がどれだけ多様に見えるようになっているかが重要。例えば,オーストラリアでは,指導事例をウェブに掲載しているが,それは実際の授業が見えたり,近くの良い実践例が蓄積されたりしていくことを意図した取組。「本質的な問い」について,全国どこでも,例えば,「エネルギーについては高3の終了時にはここまで分かっていてほしい」という目標は統一した上でその実現は多様に行える基盤を整え,様々な実践例が豊富に手に入る体制を作ることが必要。

【委員】 教科書の存在は非常に大きいと考えられるため,実際にニュージーランドやオーストラリアではどんな教科書がどんな手続で作られているのか,具体的な例を見せてほしい。我が国でも,多くの会社が各教科の教科書を作っている。諸外国のこうした事例の紹介によって,教科書作成に携わる各教科の研究者や現場の先生方の間で様々なアイデアが生まれ,豊かな授業につながることが期待できる。

【委員】 資料4の24ページの図の中で,資質・能力として(汎用的能力,高次スキル,メタ認知,学習観)とあるが,狭過ぎるのではないか。本検討会の議論では,「資質・能力」という場合に,内容まで含む広義の意味と,内容を取り除いた狭義の意味の2種類が用いられている。例えば,汎用性については,重要な概念や根本的な概念を身に付けることも,汎用性を持つことになる。確かな学力には,能力と知識とを両方併行して入れるべきであり,内容とスキルを掛け合わせ,それを学習活動としてまとめ上げる描き方もできる。

【委員】 資料4の33ページに「今後の課題」として,教科間の共通性や相違性に基づいて,総則と教科の間にある関係を教科群として捉えていく中庸モデルの可能性が挙げられている。この議論と,資質・能力を詰めていく議論との関係をどう捉えていくか,あるいは,教科再編の議論にもつながっていくのか,後も関心を持ち続けたい。

【委員】 発達の視点をどこかに位置付ける必要がある。「資質」という言葉の中に,人格的な部分を入れないのはまずい。埋め込みモデルか分離モデルかについては,作り方次第ではパッケージ化やマニュアル化を招く危険があり,それを避けるためのチェックの方法についても考えることが必要。

── 了 ──

 

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