資料7 第1~4回会議における主な委員意見

1.社会環境

【子どもの問題と社会が抱える問題・病理】

○ 子どもたちが抱え込んでいる様々な問題のほとんど全ては、実は大人社会が抱え込んでいる問題の写しなのではないか。教育について論じるということは、大人社会の自己点検・自己反省を伴ものでなければならない。

○ 子どもの問題については、子どもだけに目を向け、戦後教育との関係といったようなことが、よく語られるが、社会が抱えている病理との関係はもっと大きいのではないか。犯罪状況を見ても、戦前よりも、むしろ近年の方が安定しており、一方では、60代や70代の犯罪についても近年よく聞くようになっている。

○ モラルの低下は、子どもだけの問題ではなく、最近4~5年では高齢者の犯罪が急激に増えている。また、人間関係の希薄化についても、いろいろな調査を見ると、どうも一番希薄化しているのは50代男性らしく、この世代は生身の人間と接する機会が仕事以外で少ないという状況が見られる。

【メディアの影響】

○ ITメディアの及ぼす影響として、人間関係の生身の接触、生身のコミュニケーションが非常に希薄化してくるということを特に重視する必要がある。例えば家族の中の情景について考えてみても、ITメディアがなかった時代には、親子やきょうだいは、何もないところでよかれあしかれ一緒にいたが、テレビが入ってきたことによって、食事中であれ、自然と関心がテレビに向かってお互いに向き合わなくなり、そこにゲームに登場したことによって、子どもが同じテレビを家族がみんなで見るところからも離れていき、さらに携帯ネットが登場したことによって家族の乖離現象が起こった。
 お父さんがテレビでスポーツ中継を見ていると、お母さんはパソコンでネットオークションか何かをやっており、子どもは携帯でメールをしているというような情景は5年前にはなかった、あるいは10年前には全くなかった。

○ 特に家族関係におけるケータイ・ネット・ゲームの「負の特質」として、
 1 独りで熱中し、他者への関心が全くなくなってくる
 2 親をも虜にし、子どもに関心を向けなくなる(「授乳中のケータイ」といった、アタッチメント欠落の象徴的な現象も起こってくる。)
 3 きょうだいや友達と遊ぶ、あるいは親と遊ぶという時間が極めて少なくなる
 4 バーチャルと現実の境目がなくなってきて、非常に危うい心の風景になってきている(物を壊したり、暴力を振るったりという粗暴な行動も、バーチャルと現実が区別つかないため、日常生活においてそれをやってしまう)
 5 自己中心的になり、他者へ心を配慮できなくなる
といった点を挙げることができる。

○ ノーテレビデー・ノーゲームデーを導入している学校もあらわれているが、そこでの保護者アンケートなどを見ると、親子、夫婦の会話が戻った、みんなで読書をしたりトランプをしたり、散歩したりして、家族の輪が戻ったとか、特に重要なのは早寝早起きがしっかりできて、朝からすがすがしくきちんと御飯を食べて出ていくようになったとかいったことが報告されている。これは、便利な機器や楽しい機器が入ると、子どもたちと家族の生活がいかにゆがんでくるかということを逆に証明しているようなものではないかとも思う。

 ○ メディアの情報環境が生活時間の大半を占めるようになった中で、子どもたちに「現場・現物・現人間」の経験をどのようにさせるのかが課題である。例えば、絵本などは、よりリアリティに近いメディアとしての役割を果たし得る可能性を秘めていると考える。

○ 名作や名文が人の心をよい方向に導いていくものであることを実感している。世の中には様々なメディアがあるが、基本はやはり対面して伝えることである。子どもたちの実態を見ると、姿を見せないコミュニケーションの分量が多くなり過ぎているのではないかと危惧している。

○ 子どもには、胎教だとか、モーツアルトとかのよい音楽を聞かせるとよいと言われているけれども、脳科学の茂木健一郎氏の講演では、それよりも生の歌のほうがよい、モーツァルトよりも音痴なお父さんの歌のほうがよいと言っていた。
 子守歌とか、童謡とか童話の価値を見直す、親が乳幼児を抱っこ・おんぶして子守歌を歌ってやるといったことも、いろいろ考えていかなければならないことかと思う。

○ いじめはよくないというニュース番組の後、同じテレビ局で、出演しているタレントをあたかもいじめているような番組が放送されており、これでは、ジキルとハイドのような二重人格ではないのかとも思う。

○ 情報倫理というものがいまだ成熟していない。情報倫理をどうやったら定着できるのかについては、今、教師でさえわからなくなっている。情報倫理に関する教育研究は一部の大学では行われているが、子どもたちの教育、徳育に直結するような形で有効な方法論は生み出されていない。今までの倫理学や徳育などでは取り上げなかった情報倫理というものを、今後学問的にも、教育カリキュラムの中でも確立する努力をしなければならず、速やかな対応が必要である。

○ 携帯が悪いとか、ゲームが悪いということではなくて、それらをどう使うかというのをだれもきちんと把握してない、それがきちんと体系的に教えられてないところに問題があるように思う。携帯については、うまく使えば非常にいいツールにもなり得るものであり、その使い方の教育が、新しいものとして必要なのではないか。

○ 何か新しいものが出てくると、それに責任を押しつけがちになりやすいは、思い込みに基づかず、きちんと実証的な調査データ等に基づいて議論をしていくことが重要なのではないかと思う。例えば、社会学の学会などでは、メールや携帯をやる人が道徳的に低いわけじゃなく、むしろメールや携帯の利用が多い人ほど、例えばごみを捨てないとか、そういう意味での道徳心は高いのではないかといった調査結果も出されている。よく考えてみれば当たり前で、メールや携帯が多い人というのは友達が多くて明るい人が多いわけだから、そういう人は配慮するようになり、逆にメールや携帯を使わない人は閉じこもりがちになって、道徳心が醸成されないといったような問題も考えられる。

○ 調査というのは、数字の読み取りでいろいろ変わってくる。学級の中多くの子どもが携帯持っているクラスと、持っている子どもが少ないクラスとを比較した調査では、携帯を持っていないクラスの方が、学力やクラスのまとまりがよかった。メールや携帯の利用が多い人ほど道徳心が高いといった調査結果もある一方、こうした調査結果もあるので、一概に調査結果を語るのは難しいと思っている。

○ 携帯電話でも、インターネットでも、大人世代は、それらがない時代を経た上で、いま使っているが、今の子どもたちは生まれてきた瞬間からその中に入っている。成長のある時期において生身の人間を相手につくらないといけない関係性というものがあるとも指摘されるが、現代社会は、ひょっとするとそういう生身の人間とのつながりを除いても成立するような環境をつくってしまっているのかもしれないし、非常に重要な時期に、そういう環境を与えてしまっているのかもしれない。携帯電話を子どもからすべて取り上げろと言うわけではないが、生身の人間との関係づくりについても、そこを通り過ぎると、もう一度やり直すことが難しい臨界期があるのだとすれば、人としての思いやりや感性をはぐくむために、いつまで生身の人との接点・接し方を大事にすべきなのかということを、明確にしないと危険なのではないか。生のやり取りを経験した後に、初めて新しいメディアの環境を与えるようにすべきか、また、その際、どれだけ与えるべきかといったことも議論が必要ではないかと思う。

○ 問題なのはゲームや携帯ではなくて、リアルのほうに力がないということである。ゲームや携帯を超えるおもしろい世界に子どもが今触れることができない中で、それらを取り上げたところで、つまらない世の中は変わらない。そういう点では、ゲームや携帯であっても、ないよりはまだましであると思える節すらある。つまらない日常を生かされていて、発散するものを発散できない子どもは、ゲームの中で発散している節があると感じる。ゲームや携帯よりもおもしろい人間関係がリアルにあるのであれば、子どもは、バーチャルな世界に簡単にのみ込まれたりはしないが、リアルに力がないから、問題が起こっている。力のあるリアルとは何かというと、やはり遊びであり、楽しいからやるということが決定的であると思う。

○ ネットに関しても、高校生等が海外の人とメールで文通をして、国際理解を深めるといったようなコミュニケーションがなされているケースもあれば、もちろん有害なサイトにいって、犯罪をするケースもある。携帯についても、携帯がないと仲間外れになってしまうという現状があり、携帯はいけないというふうに言ってしまうと、持ってない子がだれからも誘われなくなるといった現実がある一方、使い過ぎによる依存などの問題も実態として出てきている。我々が考えるべきは、ちょうどよい新しい形の常識というか、ちょうどよさであり、つまり全くネットやメディアをやめてしまうのではなく、またそれはけしからんというわけでもなく、放置するわけでもなく、これぐらいのところがちょうどよいといったような新しい形の常識を提示していく必要があるのかと思う。

【価値観の都市化】

○ 社会の変化として、価値観の都市化ということが大きいと思う。例えば、最近の子どもは、かなりの農村部であっても、自然があろうがなかろうが、もはや外では遊ばなくなっている。つまり、これは都市化そのものではなく、価値観が都市化しているということだと思う。都市化された価値観とは何かと言えば、突き詰めて言えば、消費と合理化、システム化ということではないかと考えている。都市化された価値観の下では、合理性が何よりも優先され、プロセスというものをどれだけ省力化するかということが求められるのだと思う。しかしながら、子どもというのは、本来、そのプロセスを生きている存在である。人生の試行錯誤だとか、いろいろな物の考え方とかも、プロセスの中に重要なことがたくさんあって、結果がどうであるかというよりも、そのプロセスをいかに踏んだかということが本当は重視されなければならない。大人の価値観がシステム化・合理化していく中で、大人は、そこのところに関しほとんど見ようとしなくなっており、そのことが、子どもの心を非常に押しつぶしていると思う。

【経済状況の悪化等】

○ 親の経済状況が苦しい中で子育てをしている親が増えている。明日の生活がどうなるかわからない親にゆとりある心を持って子どもを教育することは無理であり、そのような中で、我々に何が出来るのか考えなければならない。

○ 最近の親を見ていると、遊興費を稼ぐために働き、子どもの帰宅時間に家にいなかったり、海外旅行に安く出かけるために、終業式の2,3日前から子どもを欠席させたりといったことがあるが、これらは、むしろ経済的には豊かな家庭の方で起こっている問題というように感じる。

○ いろいろなところで二極化が進んでおり、親の状況も多様化している中で、こういうふうにしろとか、1つのことだけを言うのはなかなか難しくなっているのではないか。

【その他】

○ 現代の子どもには、今の時代にある意味で適応し、さらにはその先をいくようなプラスの特性もあるはずではないか。そういうものも拾いながら、問題点を指摘していくという論じ方が必要だと思う。

2.子どもの発達

○ 母親が安心している時は母親と赤ちゃんとのやりとりが綺麗にブレンドし、母親がせかせかしている時などはいくらあやしても赤ちゃんは黙ってしまったり泣いたりする。そのような微妙なところから、育児の難しさや子どもの発達の偏りが実は生まれている。

○ ヒトは、赤ちゃんであっても社会にアンテナを張り、インターディペンデントな関係に自ら入ろうとする脳の仕組みや、社会的に響き合う脳の構造を、生まれながらに持っている。赤ちゃんの反応が親や周囲の人の育児行動を触発し、触発された親等の直感的な育児行動がまた赤ちゃんの応答性を高めるという、互恵的な交渉が絶えず起きており、その中で、赤ちゃんの脳も発達している。

○ この懇談会では、年齢の発達に応じ、徳育というものをどういうふうに段階、段階でやろうかということを、まず基本に認識しようとしているが、現実には子どもの心の発達は極めてばらばらで、しかも7~8歳ぐらいの幼児性を持って中学生ぐらい、あるいは高校生になっている子がいる。基本形だけで徳育の問題を考えていると、そういう精神発達の遅れた子に対してどういう社会性を身につけさせていくかという最も重要なところが見落とされるのではないか。

○ 道徳性の発達にとっては、「知」「情」「意」の発達が大切である。「知」と「情」のことはよく言われるが、それだけでなく、意志力の発達がどのようになされるのかも、本懇談会の提案の中で生きてくればよいと思う。

3.教え・身に付けさせるべき内容・方法

 (1) 何を教え・身に付けさせるのか(内容)

【 何をもって「徳」とするのか 】

○ 徳育の「徳」とは一体何であるかについては、限定した上で議論していかないといけない。例えば、「道徳性が芽生える」といった場合、1よい・悪いといった価値観がわかるようになることとも取れれば、2してはならないこと・してよいこと・しなければならないことといった、ある種の規範の意識が芽生えることとも取れるし、3他人を思いやれる想像力、イマジネーションが働き出すこととも、4逆に自分を調整する、自分を意識するというリフレクションが芽生えるということとも取れる。5あるいは、「一人一人考えが違うのだ」、「自分もOne of Themであり、一つの社会的な存在なんだ」ということを意識するようになること、6先生から教えられたようにルールに従うということを理解できるようになることなど、いろんなものが考えられる。一口に「道徳性の芽生え」といっても、どのような「徳」を言うかによって、それが芽生える時期も違ってくるのではないか。 

○ 本懇談会の議論の中では、どちらかというと価値的な側面というものをどう扱うかということが問題になっているが、発達心理学の中での道徳性というものは、どちらかというと社会性の一つの領域、例えば相対性とか、向社会性とか、擁護性という他者との関係の中でうまくやっていくというものの一つだというふうに考えられてきている。
 そこでは、基本的には価値というものでなく、うまく生きていくということを中心に発達を捉えており、赤ん坊も含めて子どもが自分の持っている機能を使ってうまく生きていくという、社会の中で円滑に生きていく、そういう適応的変化が発達だというふうに考える。
 議論を進めるに当たっては、人の心性・心の働きの中で、どのあたりに徳育というものを置くのかを考えていく必要がある。例えば、倫理・道徳への感性が、生得的なものであるとすれば、我々がなすべきは、環境を整えることということになるし、そのことは、教育の課題としては、当然、学習のプロセスの中で扱っていくということになる。

【徳育固有の領域】

○ 知育や体育、食育といった分野の問題と、徳育の問題とは、どこが根本的に違うのかということを考えたとき、一つは、論理的・合理的に説明することのできない部分に踏み込んだときに、徳育が始まるということ、もう一つは、徳育の領域にかかわる問題は、いずれも禁止形・命令形で言われるものであるということに気付く。  ※ 例えば、「もったいない」という日本語を、国際語として説明するとき、最近では、リデュース(消費の抑制)、リユース(再利用)、リサイクル(資源の再使用)の3Rで説明する仕方がなされる。こうした論理的な説明は、国際的な理解を進める上で妥当と思うが、ただ、「もったいない」という言葉には3Rでは説明し切れない、もっと重要な価値観が含まれている。それは日本人の歴史の中ではぐくまれてきた価値観と密接に結びついているものであり、論理的・合理的に説明することのできない部分を含むものである。3Rの説明は知育の段階で、あるいは食育の段階でできるが、その先に踏み込むときにおそらく徳育の領域が広がっている。
 ※ 食育の段階では、栄養のある食物をバランスよくとりましょうという考え方は含まれるが、「腹八分目」の考え方、「そんなに食べるなよ」というメッセージは含まれていない。このメッセージに入っていくとき、徳育的な領域が広がっていくのだと思う。「もったいない」は、「物を大事にしなさい」という命令であり、「そんなに食べるなよ」は命令形・禁止形である。
 ※ 「命を大切にしよう」というメッセージは、現在、社会が認めている強力なメッセージとなっているが、これは、何千年も前からあらゆる宗教を超えて言われてきた「殺すな」という言葉の、現代的な言い換えであると思っている。「命を大切にしましょう」というメッセージは、体育や知育、食育のレベルでの合理的な説明もできるものであり、これをいくら言っても徳育の主要な問題にはなり得ないだろう。これを徳育の問題として受け取るとき、「殺すな」という問題性に入っていくのだろうと思う。

 人間は、さまざまな命令形、禁止形の言葉を言い続けて、なおかつ毎日のように、それを裏切り続けてきている。そのことを承知の上でそういう禁止形、命令形の言葉を人類は言い続けてきたと私は思います。そこがまさに徳育の中心的な問題性ではないかと思っている。例えば小学生、中学生に殺すな、そんなに食べるな、物を大事にしろと言ったとき反発が来る。なぜ人を殺してはいけないのか。その質問、反逆、反発、批判が徳育を考えていく上で極めて重要だと思う。そこで悩みが始まる、苦悩が始まる。成長期における子どもたちを導いていくときに、その葛藤と悩みの体験を社会的な形で課す。これがなければ、いくら徳育と言っても、結局、それは最後のところは体育に回収されたり、知育に取り込まれてしまったり、単なる食育の領域に回収されてしまうのではないか。禁止形とは何か、命令形とは何かという問題は、200年、300年の近代的な諸科学の分野だけでは解き得ない問題を大量に含んでいる。そこで初めて宗教の問題が出てくる、哲学の問題が出てくるのだろうと思う。

【 自律、善悪の規範、「徳」 】

○ 自らを律すること、「自律」ということが非常に重要であるが、それがなかなかできなくなっている。日頃の精神の鍛練といったものを、家庭でも、社会でも学校でも忘れてきたし、あるいは、後ろ向きなことばかり考えてきたということが、そのことの原因として大きいのではないか。

○ 何がよいことで、何が悪いことかを教えるだけなく、よいことをすれば、こういう結果になり、悪いことをすればこうなるといったような、勧善懲悪をはっきりさせること、因果応報をはっきり教えることが必要ではないか。

○ 最近の発達研究の領域では、道徳については、それを知識として知る前に、感情や感性といった直感的なものがあるとする説が出され話題になっている。知識の形での道徳と同時に、「なぜしてはいけないのか」を感じる感覚・感性といったものを、教育の中でどのように位置付けていくかを考えたい。

○ 徳というものは、例えば、「気がついたらそういう行動に出ていて、その行動が人間としての規範や社会の価値観・秩序に合致している」というようになった時に初めて、それが主体化され、社会化されたのだと言える。そうなるためには、非常に長い時間がかかるが、そのような全体のプロセスを考えていくことが一番重要なのではないか。

【 きまり,ルールとの関係 】

○ よいこと,悪いことをしっかり教えることが基礎となるのはもちろんだが、子どもが親を尊敬してないと、親がよいことを教えていても素直に聞かない。今の時代は、「目上を尊敬しなさい」とか、「目上を大切にしよう」、「目上の言うことに耳を傾けましょう」ということが、すごく欠けているように思うが、実はそういうことが子どもにルールを守らせていく教育に大きくつながるような気がする。

○ 環境の中でよりよく生きていくため、子どもたちに決まったルールを与えるだけでなく、一つの徳育の形として、子どもたち自身が一緒に何かを考え、ルールを変えたり、作ったりしていくということも、大事なことなのではないかと感じる。

○ 子どもは、子どもたちどうしでよい関係・よいコミュニケーションを築いていくために、自律的にルールを作っていくことができる。徳育について議論するのであれば、そうした力を養っていくこと、子どもが自律していく形をどうやったら作れるか、ということを考える必要がある。

○ 子どもとルールとの関係では、子どもたち自身が作るルールもあるし、例えば、「廊下を走らない」のように、自身が作ったのではないが守らなければならないルール、子どもたちだけでは作れないルールもいくつもあると思う。また、ルールとは別の次元で、「してはいけないこと」というのもあるのではないか。「ひきょうなことをしない」、「うそはつかない」、「人を傷つけない」といったことは、ルールではなく、ルール以前に「やってはいけないこと」であり、それをどのように子どもに伝えていくかというところが、難しいところなのではないかと思う。

【社会習慣・生活習慣、マナー】

○ 人間が生きていく上では、社会習慣・生活習慣のようなところで支えられている部分も大きい。徳育の観点では、そうした習慣形成といった要素も重視すべきではないか。

○ 指導要領の改訂に関する中教審の審議の中でも、モラルとマナー(公徳心)を分けた議論があった。モラルについては、本当にどちらがよいのか・悪いのかという議論が常に生まれるが、マナーは、あくまでこの時代・この社会のもの、ここでの話であって、逆に言えば、だから絶対きちんと教えなければいけないし、教えることができる。産業界が求めているのも大体マナーの部分である。

【 他者との人間関係の形成、社会的スキル 】

○ 個人が、自分を律すること、社会との関係を築くことは確かに重要であるが、同時にその間にある課題として、人と人との触れ合いや、共感というものをお互いに感じ合うような力を育てることが、やはり大事なのではないか。

○ 幼児どうしがケンカをし、そこから相手との関係をことばで調整していくということは、すごく大事だと思う。人が喜んでいることを一緒に喜べる能力を育てるということも、人と人との触れ合いの中で、ことばを使いながらやっていくことだろう。

【市民性、共同性・公共性、社会的信頼】

○ 徳育の問題というと、個人の心構えの問題に収斂されやすいが、あらゆる領域で個人化・私事化が進む今の社会状況の下では、共同性・公共性というものをいかに築けるかが重要となる。社会の担い手となる人格を形成するために、いかにして市民性を育んでいくかということが、大きな課題となるのではないか。

○ 社会学の世界では、社会的信頼を、一種の交換体系として捉える。AとBの2人がギブ・アンド・テイクの関係として相互に行為を交換するツーウエイの交換体系(互酬性モデル)は、通常にもよく見られ、イメージしやすいが、これとは別に、AからBへ、BからCへ、CからDへと連続し、いつかは自分のところへ返ってくるかもしれないし、返ってこないかもしれないという、一方向的なワンウェイの交換体系もある。このような、いつ返ってくるか分からない、ワンウエイの交換体系(互酬性の遅延)を社会の中にいかに築いていくかということが、ソーシャルなレベルでの社会的信頼感を増す、あるいは連帯感を作り出す元になっている。そういう互酬性の遅延という観念をいかに子どもたちの中に形成していくかということが重要なのだろうと思う。

○ 一般には、誰にも依存しないこと・すべて自分で責任とることが、自立すること(インディペンデンス)だと捉えられているが、人は一人では生きていけないのであり、自立とは、本当は、困った時に助けてもらえるネットワークや仕組みを活用できるよう、自分で設定できるということなのではないか。そのように考えたとき、社会的信頼というものが非常に重要になってくる。相互のディペンデンス(インターディペンデンス)ということが社会的信頼の実質を成すのだろうが、現実を見れば、追い詰められた時、誰にも助けてもらえないというのが、現在の子どもたちにとってのリアルなのではないか。

○ 社会が高度にシステム化されている中で、個人は、自分の力など何の働きもしない、自分は何の役にも立たないという実感を持つ。そのような個人が何を支えに生きているかといえば、社会的信頼であるが、最近の子どもたちにとっての社会的信頼は、非常に小さなサークルの中で濃密な関係として存在している、社会的信頼の範囲が極限まで狭まっているといった傾向があるのではないか。

【縦の社会化と横の社会化】

○ どの時代にあっても、人間社会の歴史、現実のドラマは、個人の意思自由とその統制という2つの拮抗する力の中で展開されてきた。その中で、今の時代の特徴としては、自由意思なるものが非常に拡大し、個人を超えて、社会全体でコントロールしていかなければいけないもの、全体の安寧・福利にかかわる社会統制の技法が説得性を失っていること、個人の自由・主体性の論理のもとにそれが押しやられるようになっていることがある。そのことが、今の時代状況の中で様々な矛盾も引き起こしていると思う。

○ 例えば徳性なり、規範意識というものを考えたとき、縦の社会化と横の社会化の両面が相まって、これらのの内面化が働いていくという作用が見い出される。横の社会化というのは、互いの対人関係の尊重、共感に基づいて規範が内面化されるということであろうし、縦の社会化というのは、ある意味では支配・服従の中で上から押し込まれてくるような作用でもあろうが、これら2つが相まりながら、時には場面、TPOに従って規範・道徳を修正しながら適応し、相手あるいは集団に合わせてやっていくという営みが出てくるのだと思う。だからこそ、教育のにおいても、これらの両面を確保しておかなければならない。価値観が多様化し、倫理も相対化してさまざまな可能性が社会の中にあることは否定しないし、それは大事なことで、尊重していかなければいけないと思うが、規範の中にも守るべきコアの部分と、相対性を持ってよい部分、ある意味で逸脱が許容される部分といったグラデーションがある。それらを一律に議論することはできないし、相対化され得る部分だけを見て議論するようなこともしてはならないと考える。

○ 伝統芸能などの世界でも、まず型を身に付け、守ってから、それを破り、そして離れるという1つのパターンがある。社会の中には、一種の大きなコンセンサス、常識といったものがあり、そういうものは、ある意味無条件に子どもたちに教えていかなければならない。いろいろなルール、マナー、あるいは文化もそこの中に入るが、そういうものを「守」としてまず教え、次いで、場面や状況に合わせながら、それを修正する能力をうまくつくっていく「破」というプロセスがあり、さらに「離」として自分なりのパターンをつくり出しながらやっていくという「守」「破」「離」のステップが、規範の内面化の際にもあると思う。このステップは、おそらく乳幼児期には「守」の部分の比重が非常に大きいだろうが、徐々にその比重は薄まるとしても、いろいろな段階で、この「守」「破」「離」という局面が、発達段階のそれぞれでやってくる。そういう形でやり、縦の社会化と横の社会化と言われるものをうまくミックスしながら、徳育の中に生かしていくことが必要なのだろうと思う。

【 その他 】

○ 今の子どもは、何か悪さをやっても、実は自分がやったということをなかなか教師に言えず、最後の最後まで「僕じゃありません」、「どういう証拠があるんですか」という形になってしまうことが少なくない。そういうときに、他の誰かは知らなくとも、少なくとも自分自身は知っているだろうという感覚を小さいときから養っていくこと、ルールを教えるとかだけではなくて、客観的に自分を見ていける資質というもの育てていくことも、大事かと思う。

○ 子どもたちが、日本人としての誇りを持ち、自信をもって生きられるように育てていかなければならない。

 (2) どうやって教え・身に付けさせるのか(方法)

【 手 法 】

○ 道徳といってもビデオを見せるだけだとか、単にたばこを吸うのは悪いというだけだとか、こういうのはいい、悪いということを、知識として提示するだけになっていないだろうかという懸念がある。例えばアメリカ等ではディベートであるとか、ロールプレイングであるとか、カウンセリングセラピーの手法を用いて、さまざまなことを半分遊びながら身に付けさせているという例もある。何を教えるかも大切だが、どのようにということが今後問われてくるのではないかと思う。

○ 心は見えないが、言葉や行動でわかるものでもある。そうであるなら、言動を逆説的に活用して、心の教育をすればよいのではないかと考えている。そういう意味で、「言葉で育つ豊かな心」、「心を傷つける分別のない言葉」ということを考えるべきである。その具体的な方法として、学校段階では既に遅いので、家庭の中で、子供が生まれたら家訓を作ろうということも考えている。

○ フランスでは、二歳児就園に取り組んでおり、その中で、言葉の教育をしっかりとやることにしているという。道徳的関係をつくろうと思えば、言葉をどうしつけていくか、言葉によってどういう会話をしていくかというのがポイントになると思が、我が国では、そのあたりの言葉の教育というのが抜けているような気がしている。言葉の発達という部分をしっかり押さえて、それへのフォローを大人とともに、社会の人々と一緒にどうやっていくかということをもっと提案していければいいのではないか。

○ 子どもの課題ということが強調され、遅れている面・足りない面を補っていこうとする姿勢が強すぎて、子どもが受け身的になり、自信をなくしていっているように感じる。
 子どものよさに目を向け、よいところを伸ばすという視点も道徳の中に盛り込めていけたらと思う。

○ 少子化が進む状況下では、子どもどうし、が学校や地域で生でぶつかり合う体験をし、そこで共感し合い、そうしたことを通じてコミュニケーションスキルを伸ばしていくといったことが必要なのではないか。

○ 学校の道徳の時間では、副読本を読んだり、映像を見せて授業を進めていくが、「何かおもしろかったか」と聞いても「別に」だとか、「この人の生き方についてどう思うと」聞いても「普通であるとか」、すごく平坦な答えが返ってくるだけで、本当に心に響いてない。
 一方、ボランティア体験の活動の中で、耳の聞こえない方の話を直接聞いたときには、子どもたちもなるほどということで何かやはり心を動かされている。
 聞いた話や伝達された話よりも、じかにその人が実感している話というのはとても印象に残る。直接的に体験しながら子どもが感動していくというのは、とても大事なんじゃなかろうかなというふうに思う。

【 教 材 】                                                             

○ メディアの情報環境が生活時間の大半を占めるようになった中で、子どもたちに「現場・現物・現人間」の経験をどのようにさせるのかが課題である。例えば、絵本などは、よりリアリティに近いメディアとしての役割を果たし得る可能性を秘めていると考える。〔再掲〕

○ 名作や名文が人の心をよい方向に導いていくものであることを実感している。
 世の中には様々なメディアがあるが、基本はやはり対面して伝えることである。子どもたちの実態を見ると、姿を見せないコミュニケーションの分量が多くなり過ぎているのではないかと危惧している。〔再掲〕

○ 明治初期の道徳教育の原形の一つとしては儒教があり、また、江戸時代からのいろいろな伝統的な教えもあったが、さらに新しいものをつけ加えるため、福沢諭吉がヨーロッパの寓話を紹介したりして、それらがだんだんに一つにまとまって、明治期・大正期の道徳教育ができてきた。修身の教科書も、そういったものを相当研究して、融合しながら作られている。昭和期に入ってそれがだんだん変わってくるところもあるが、よく言われるように、軍国主義教育のために修身教科書が作られたというのは当たってないし、そうではなくて、もっと人間教育のために考えられたものだったと思う。

○ 戦前文部省では、修身の教科書以外にも『礼法要項』というものを出しており、道徳教育は、いろいろな形でなされていた。

(3) その他(留意点)

【宗教との関係等】

○ 日本人のほとんどは、本当の意味での宗教を持っていない。どこの国でも刑法は、宗教の戒律を元に出来ているが、宗教を持たない日本では、子どもに対する規律の教育の中で、宗教を発信地とした教育をしていない。

○ ヨーロッパでは道徳教育を宗教に依存して実施しており、フランスでは、水曜日は教会へ行きなさいということで、学校が休みになる。
 ドイツの場合は、学校に牧師や神父が来て、宗派別に宗教教育をやっている。最初は親の宗派で宗教教育を受けるが、ある年齢に達すると、プロテスタントとカトリックのどちらにするか、子どもに選ばせる。ところが、最近では、ドイツでも、無宗教の人が増え、宗教によらない道徳教育を考えなければならないことになってきており、宗教によらない日本の道徳教育は先進性だという意見まで出てきている。

○ 多神教的・多元主義的な自然観に基づく日本人の信仰心と、一神教的な風土に花開いた西洋の信仰心・宗教とでは質が違う。明治以降の日本人は、自分たちの伝統社会における宗教心を西洋の一神教的な原理に基づいて分析し、解釈し、批評してきたが、明治以降放置されてきた、「西洋とは違うのだ」という問題から、もう一度考え始めなければならないのではないか。

○ 戦後日本におけるこれまでの教育は、科学技術の振興と、社会科学の重視の2つに主軸が置かれ、芸術、宗教、スポーツ、文化は周縁的なものとして位置付けられてきた。今ここに至って、第3の教育軸としてこれらを位置付けし直す必要があるのではないか。

○ 宗教というものは、それ自体固有の世界を持っているものであり、宗教を利用して何かをするという発想には、宗教家の側も不快感を持つであろうと思う。宗教が道徳的な世界にプラスに働いているとしても、それはたまたま宗教性という人間の性質の部分で重なっているだけのことであり、道徳教育のために宗教を引き合いに出すといったような扱い方には、抵抗を感じる。

○ 必ずしも宗教と結びつけなくたって、日本人は立派な道徳生活をやってきたのではないか。例えば、江戸時代は、儒教的・儒学的な伝統があったにしても、あまり宗教的でない時代であろうし、そんな江戸時代の日本人の公徳心は立派なものであったと思っている。

【大人の子どもへのかかわり】

○ 子どものために大人がやろうとしていることは、結果的には子どもの力になってはおらず、むしろ子どもの力を削ぐ方向に進んでいるのではないかと感じている。

○ 子どもの遊びの世界から見ていくと、子どもの行動規範は善悪にではなく、快・不快(情動)の方にある。善悪を早いうちから子どもにたたき込もうとすると、情動のほうが殺されていくということを強く感じている。このことが、子どもの中の子ども性を殺していて、そこから起こっている問題が実はたくさんあるのではないか。

○ 大人は、子どもが大人の決めたルールから外れたとき、その子が悪いという言い方をするが、それは本当なのかということも振り返りが必要だと思う。大人の決めたルールを守れない子どもを何とかしようとしてきたことが、子どもから主役の座を奪い、子どもが自律ができなくなってきた最大の原因なのではないか。

○ 子どもがやってみたいことというのは、危ない、汚い、うるさいの三大形容詞で言い表すことができ、子どもが遊ぶとそうなる。大人はこれらを極端に嫌い、危ないから、汚いから、うるさいからやめなさいということを、しつけだというふうに思っているが、小さいうちからそれをやられることで、遊ぶという意欲と力がどんどんたたかれていっている。この危ない、汚い、うるさいということの中に子どもの活力が実はあって、このことを大いに楽しめるような社会にしていくことが、子どもが子どもとして息吹を吹き返していく最低のところだと感じている

○  子どもは大人が求める子どもを演じることを強いられている。子どもは、自分を演じなくていい場所があって初めて演じている自分を知るが、そういう場所を知らない子どもは、仮面をかぶったままで、それが生きていることだと錯覚している可能性が高い。そのことが本人の「生きるということ」を奪っている。

○ 子どもが他者との関係性をどのように感じることができるか、その関係性の中に自分自身を見出せるかということが非常に大きな問題だが、関係性を見出せるようになるためには、まず、核となる自分自身が立たなければならない。やることを大人に決められてしまっている今の子どもには、そのことが非常に難しくなっている。

○ 徳育を考える上で、子どもとの関係そのものが道徳的であるということが重要であるとすれば、そのときに、相手に対する尊重と共感があるかが問われる。子ども同士の関係も、相手に対する尊重と共感があれば、随分違うだろう、いじめも起こらないだろうといったことを考えるが、もとより、尊重の感じというのは尊重されてこないと育たない。そこで、尊重と共感ということを、大人が子どもに対してどれくらい丁寧にやっているかということが、一番大きな問題となるのではないか。

○ 終戦直後については、大人がしっかりしていた、教師に権威があったということもあるかもしれないが、もう一つ大事なこととして、子どもが自由に群れていたのだと思う。当時の大人は、今のように子どもに手もかけてなかったし、子どもは、大人の支配からエスケープして遊んでいた、自身が主役となって過ごす体験も格段に多くあっただろう。エスケープを許さない現代のような時代に、大人が子どもに示さなければならない徳というのは、多分、当時のそれとは異なるのではないか、大人の責任として子どもに不足しているものを提示していこうというのが当時の道徳だったとしたら、今は違うのではないかというふうに感じる。

○ 人間の脳には、(鏡のように、見たものと同じ反応を脳内で起こさせる)ミラー細胞という神経細胞があり、赤ちゃんの脳では、ただじーっと見ているだけでも、相手がやっていることと同じようなシミュレーションしているときの電気放電が起きると言われている。子どものいる場では、感化ということが刻々と起きているのであり、大人集団の雰囲気、香り、あるいは不協和音を、子どもは見ているんだという認識がないといけない。学校や小児医療の現場では、子ども子どもと言っていながら、子どもが本当に大事にされていない。子どもを決めつけて排除して、親を叱って、親を追い詰めていっているのが現実であり、これがプロフェショナリズムだとは思えない。子どもにすてきな感化を与え得る大人集団として機能しているかということが、すごく問われていると思う。

○ 乳幼児の新しい発達理論、特に間主観性の発達理論の中で言われていることで、人間性の中には「シンリズミア」というものがあるという考え方がある。シンリズミアの語源はギリシャ語で、シンは「共に」、リズミアは「二度と戻らぬことのない川のせせらぎ」のこと。海に打ち寄せる波はサイクルを帯びているので、繰り返すことができるが、小川の流れは二度と戻らない。つまり、生まれて今をともに生きる、このかけがえなさということを、母子の関係においても、あるいは社会的な集合体においても大事にしていこうというのがシンリズミアである。ばらばらに見えていても、実はそのシンリズミアというものを保つために、人の生活の中には共同体として、あるいは親子としての生活のチューニングということが、生まれ落ちてから絶えずいい形で、楽しい形で起きているという。危ない、汚い、うるさいことを子どもが好きなのも、子どもは子どもでそれを乗り越える練習をともにしようとしているんだと見ることもできる。そういうふうに考えると、子どもたちにゆだねなければいけない基本的な練習体験、知有空間というものを大人がどのように責任を持って守るかということにもつながると思う。

4.家庭・学校・地域等の役割

【 総 論 】

○ 道徳教育について考える上で、家庭・地域の背景というものは無視できない。また、しつけや教育に携わる大人やメディアなどが、将来の社会に生きる子どもたちに対してどのような姿を示していくかということも大事ではないか。

○ 知育と徳育の違いとして、知育は自習できるが、徳育はできないという点がある。自習できない徳育は、自習できる知育以上に大事であり、これは大人や学校が教えなければならない。

○ 終戦直後の学校には、GHQの指令により、道徳の時間に相当する授業がなかったが、その時代は、親の世代がしっかりしており、また、学校の教員もしっかりしていたのだと思う。教科書はなくても、いわゆる広い意味での道徳教育は、当時の子どもにも行われていたと言えるのではないか。

【公教育と私教育】

○ いろいろな教育議論の中で、公教育と私教育を分けた議論が行われないことについて常々不満を持っている。公権力がかかわる教育の部分と、完全に親が自分の子どもたちを教育する私教育の部分は明らかに違うわけで、そこが近代の教育思想あるいは教育制度のいわば原点だと思う。公教育の中でやれる徳育というのは何なのか、私教育のほうでお願いするべきことは何なのかということについて議論をはっきりさせていただかないと、どうしても拡散してしまう。公教育の話の中に自分の娘や息子の教育を議論するような私教育の観点を持ち込むのは、非常にナンセンスな話だと思うし、そういう議論ががまかり通るということ自体が、まずは問題だと思っている。

【 家 庭 】

○ 道徳教育を考える際にも、特に親子での共通体験というものが重要だと思う。共通体験のある親子は、思春期に子どもが離れそうになっても、ひとつの共通体験によって心が戻るという経験則がある。

○ 子どものしつけは親がするが、親のしつけは誰がするのか、それは具体的にどんなふうにしたらよいのか、親自身は家庭でどうしたらよいのか、という問題もある。

○ 親教育こそが大事である。例えば、学校や地域で「早寝早起き朝ごはん」や「ノーテレビデー」といった取組を進めるときも、数%ぐらい協力しない保護者、家庭がある。そのこと自体がまず問題で、そういう親にどうしたらいいのかということこそが非常に重要となる。
 また、様々な困難を抱える家庭もあり、そういう家庭的背景をもつ子どもには、地域ぐるみ、あるいは学校、保護者、全体が取り組んでいかなければならない。そういう親教育の問題というテーマを1つ取り上げて、この徳育の問題というのも対応していく必要があるんじゃないかということを痛切に感じております。

○ 子どもにとっての親の存在は非常に大事で、親の問題もいろいろ指摘されている。「問題」としてしまうと親を責めることになってしまうが、重要なのは、むしろ親をどう支援していくかなのではないか。おそらく問題がある親というのは、親自身が悩んでいることが多いわけで、そういう親への支援というのが必要だと思う。
 例えば、子育て中の親には公園デビューだとかいろいろあり、アメリカなどでも教会に小さい子どもさんを連れて集まってきて、情報交換するという場があるが、きちんと情報を提供しながら親を支えていく、その中で子どもを育てるという視点も入れていく必要がある。

○ 人間の赤ちゃんは物に対する感性よりも、対人関係に対する感性の発達がすごくすぐれているということが実証的に明らかになってきている。そういうことを考えると、感化というものをいい形で及ぼしていけるような家庭環境を支援していくこと、つまり子育て中の夫婦が自らどういう家庭づくりをしたいのかということを、安心して語り合い試行錯誤し、失敗も許されながらやっていけるような、親への応援となる情報を、商業主義に負けない形でつくっていく必要があると思う。

【 地 域 】

○ 大阪における「親を学ぶ」講座のように、親になるための学びを進める勉強会やワークショップの取組が、地域のボランティア等により草の根的に展開されている例もある。参加者は、そうした活動の中での気付きを通して、子どもへの接し方を変えていったりしている。親としての資質といったものは、元来、家族の中で自然に学ばれたものだったかもしれないが、そうしたことが実際には難しくなっている。これらを踏まえれば、「親になるための学び」を提供する社会的機能については、コミュニティーの中で担っていくのも一つの方法かと思う。

○ 地域ボランティア活動というものが、徳育から、特に子どもたちの日常生活(ライフスタイル)、特に社会生活において、新しく切り開く必要があるのではないか。例えば、終末医療では今やホスピスボランティアが不可欠になっているし、阪神・淡路大震災では、災害地におけるボランティア活動が、コミュニティの復活や、孤独死の防止など、いろいろな形でなくてはならない新しい世界を開いてきた。学校だけでは子どもに対応し切れないし、家庭もだめとなったときに、このボランティアの新しい姿が、これらをつないでいく役割を果たしていくことを期待したい。核家族化と地域の冷め切った孤立化の中で、子どもが地域のボランティア活動にどう入り込めるのかは、発明していかなければならないことだと思うし、それがなくれは地域の再生もできないのではないかと思う。

【 学 校 】

○ 「勉強ばかりやっているから心が荒れる」といった話が、一般にはスムーズに受け入れられるが、自分の知っている学校では、むしろ、きちんとした学習習慣を身につけることによって、短期間で子どもたちが落ち着いた生活をするようになっている。

○ 日本の学校では、生徒指導や、学級活動・ホームルームなど呼び方はさまざまだが、例えば、頑張ることを教えるとか、団結して皆のためになるような活動をする時間として、特別活動の時間が考えられてきた。また、以前は、掃除当番をサボるとホームルームで取り上げて議論するといったように、ある意味で学級で民主主義を実践するという意識が非常に強かったと思う。その弊害もたくさんあったとは思うが、このように広い意味での道徳性の教育が、特別活動により担われてきたという点が、欧米とは異なる特徴だと思う。最近の学校におけるカリキュラムでは、どうしても教科の教育に重きが置かれ、このあたりに十分配慮し切れていないという問題点もある。そういう意味では、改めて道徳と特別活動の位置付けやその中身というものについて、考える必要があると思う。

○ 中学校の部活動も、単に運動能力を伸ばすとか、チームで勝つというだけではなくて、授業では十分吸収し切れない子どもたちの伸びたい気持ちを生かし、規律ある生活を可能にしていくという点で、大事な意味を持っていると思う。

○ 戦後の学校では、道徳の時間ができても、実態は、ほとんどビデオ・テレビを見せるだけとか、あるいは学校行事で犠牲になるとか、形骸化している面があると思う。

○ 戦後、民主主義で平等ということが非常に強調され、学校では、教師が教壇に上がって偉ぶるのはおかしいからと、教室から教壇がなくなったが、これは戦後の民主主義の最大の誤解だと思う。教壇は、マックス・ウェーバー流に言えば制度的権威にかかわるものであるが、権威にはさらに人格的権威もある。近づきがたいけれども親しみがあるという矛盾した要素を持っている教師が、人格的権威のある教師ということになるようだが、戦後の教室の実態を見ると、子どもと教師の関係は友達関係になってしまい、権威どころではなくなっている。

○ 学校・家庭・地域が連携する中で学校がどんな役割を果たすかということが大きな課題だと思う。そのときに、学校では、社会の中でまじめに生きている大人たちと接触できる機会というのが少ないような気がしている。例えば、鹿児島市の学校では、全部の学校に公民館が敷地内にあり、そのことを通して、その学校に通う子どもが、大人とのかかわりを自然と持てるようになっていく。学校が、集団宿泊施設的な役割も果たしたり、あるいは、合同で祭りなどをやっていくような場としても位置付けていける。公民館もありながら、そこで大人と一緒にいろんなことができる、ふだんの生活の中で接していけるようにするといった視点からの学校改革的なものも必要ではないか。

【家庭・学校・地域等の連携】

○ 一人一人の子どもの資質を見抜いていけるような雰囲気の関係を、親と教師と社会のみんなで作り、みんなで学んでいけば、フリーターやひきこもりの子どもたちの可能性や希望がもっと立ち上がってくるように思う。

○ 学校・家庭・地域が連携した道徳教育が重要である。これまでは、学校に努力を求めることが多かったが、ある意味で、それではもう限界である。

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