子どもの徳育に関する懇談会(第11回) 議事要旨

1.日時

平成21年7月6日(月曜日) 14時~16時

2.場所

合同庁舎7号館東館(文部科学省庁舎)3F1特別会議室

3.議題

  1. 「審議の概要」について
  2. その他

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊び場づくり協会副代表)
大野  裕  委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
加倉井 隆  委員(江東区深川第一中学校長)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会理事)
馬場 喜久雄 委員(財団法人総合初等教育研究所室長)
森  隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
山折 哲雄 委員(宗教学者)
鷲田 清一 委員(大阪大学学長)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)
  

文部科学省

塩谷文部科学大臣、玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、
德久大臣官房審議官、森本政策課長、森社会教育課長、高橋教育課程課長、
磯谷児童生徒課長、有松企画・体育課長、池田青少年課長、
塩原専修学校教育振興室長、大谷幼児教育企画官、塩川児童生徒課課長補佐

(国立教育政策研究所)
 中岡国立教育政策研究所教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

5.議事要旨

(1)開会

(2)議事

 「審議の概要について」

 ※事務局より、資料2の説明。その後、資料について議論。

【鳥居座長】 本日は前回に引き続き、審議の概要というふうに名前をつけてある資料についてご審議をいただきたい。最終的には報告書を取りまとめるわけだが、その一歩手前で報告書の案の段階がある。そのもう一歩手前の段階で審議の概要が考えられるわけで、その審議の概要について今ご審議をいただいているということをお互い念頭に置いて、審議を進めたい。
  それでは、事務局から、いろいろ今までの議論を踏まえて、取りまとめた、審議の概要について説明をお願いしたい。

【事務局より資料2の説明】

【鳥居座長】 事務局は修正点を中心に話をしたが、事前に皆様にはお送りしてあるそうなので、全体をお目通しくださっていると思う。私も事前に目を通したが、文章も要らないところをそいだり、わかりにくいところはわかりやすく書いたりということで、大分改善されていると個人的には思っている。
  さはさりながらまだ大分長いので、これを実際に国民一般の方々が読んでくださる場合に、どういうふうに皆様に響くか少し心配もあるので、そういう点についても、この審議の概要の文体、あるいは文章、そして全体の構成も含めていろいろとご意見があると思う。また、内容についてもいろいろとご意見があると思うので、ぜひ今日は審議の概要の取りまとめの最終回というふうに位置づけたいので、いろいろなご意見を出していただければと思う。

【天野委員】 前回も山折先生のほうからご意見があり、それはすごくありがたいという話をしたが、こういう1冊にまとめる形ではなくて、もっと多様な意見があるのだということで、「おわりに」という場所ではなく、明快に徳育に関してはこういう考えだけではないということをメッセージとして出してほしいと思う。
 というのは、前回も言ったが、基本的にこの流れは承服できない。これは子どもを生かすことはとても思えない。現場から来ている人間として、子どもの顔が一人一人浮かぶ。あの子たちにとってこれがどういう力になるだろうかということを僕は考える。あの子たちにとって力になるものであれば、受け入れたいと思うが、これが力になるとは到底思えない。ということを考えると、これを承服するわけにはいかない。
  1つ、子どもに対してどういうふうに見るかということだが、がき大将としてとても力のある子がいて、たくさんの子たちの人気を集める子がいて、そういう子はプレイパークに集中している。その子たちが学校で必ずしも先生にそういう評価を受けているかというと、全然そんなことはない。むしろ、そういう子はどういうふうな評価を受けるかというと、先生の決めたクラス運営を邪魔するという評価である。要するに子どもたちの社会の中ではとても徳のある子である。小さい子の面倒をよく見る。小さいことにも気がつく。いろんな知恵も持っている。だけど、そういう子は先生が例えば決めたような学校経営、クラス運営をしようとしたときには、すごくやりにくい子になってしまう。自分の意見を言うから。嫌なことは嫌だとはっきり言うから。そういう子はあまり大事にされないから大人がどういう視点で子どもを見るかということで、子どもの評価は分かれる。私はとてもすてきな子だと思っているのに、そうではないというふうに評価する大人たちもたくさんいる。
  だから、子どもが問題というよりも、大人がどういうふうに子どもをとらえているかが問題だというふうに思っている。つまり子どもというのは、大人がとらえた風景の中でとらえられていく。だから、こういうものを必要とするということは、子どもをこういう対象としてとらえているのだろうなというふうに感じるが、私の子ども観はここには全くない。であるから、これを決めるに当たっては名前を外してほしいし、そういう意見ではないということをはっきりと言わせてもらいたい。ほかの委員の方たちにもひょっとしたらいらっしゃるのではないか思っている。

【鳥居座長】 天野先生は現場から来ておられる代表のようにおっしゃいましたが、我々もそれぞれの教育現場から来ているし、それぞれの教育の経験を持っている人たち、あるいは子育ての経験を持っている人たちがここに集まっておられるので、ほかの方のご意見も伺ってみたい。
  天野先生のご意見の焦点はどこにあるのか。キーワードで言うと、何か。どこが承服できないか1つ挙げていただきたい。また、ご主張のキーワードは何なのかを挙げていただきたい。

【天野委員】 端的な話で言うと、子どもは大切にされれば人を大切にするようになるという、単純にそういう話だと思っている。なので、その1ページで済むと思う。

【鳥居座長】 子どもは大切にされれば人を大切にするということが、ここでは脱落しているということか。

【天野委員】 それだけでいいと考えている。つまり子どもに人を大切にすることを求めることではなくて、大切に育てられた子、大切に扱われた子は人を大切にするようになる。それだけでいいと思う。

【鳥居座長】 例えば6ページあたりを見ていただくと、日々の教え、10のおきて、五常、こういうことを教えることは人を大切にすることではないのか。

【天野委員】 親からきちんと大切に扱われれば、その親に対して敬いの気持ちを持つ。だから、子どもに教えることではなくて、大人が子どもを大切に扱えばいい。そうすれば、大人に対して敬いの気持ちを持つ。

【鳥居座長】 質問が食い違っている。こういうことを教えることは子どもを大切にすることと相反するのか。

【天野委員】 親を敬うというのは、子どもに対して言っているのですよね。だから、必要ないと思う。親が子どもを大切にすればいい。大人が子どもを大切にすればいい。

【鳥居座長】 ということは、子どもに教えることは一切なしに子どもを大切にするということか。

【天野委員】 そんなことはない。大切に扱われることを教えるのである。教えなくていいとは言ってない。大切にされるとは一体どういうことか、大事に扱われるとはどういうことか、人が人として尊重されるというのはどういうことか。大人がそういうふうに子どもを扱えば、そういうふうになる。だから、それだけで結構。それをやらないから、おかしなことが起こる。

【鳥居座長】 ご意見が1つ出たので、それを1つの意見として伺った。次の意見をどうぞ。

【馬場委員】 社会学者、法学者、心理学者、教育学者、教育者、全部自分の方向から述べられていて、どういうふうにまとめられるのかなということを感じた。今の遊び場からの天野先生、小学校の立場の私、中学校の立場の加倉井先生、それからPTAの立場と、それぞれの立場でみんな述べていて、まだいろいろな意見を交流してないという感じがある。そういう中ではよくまとめていると思う。
  天野先生が言われる中の最後の「おわりに」とある部分の汚いとか、危ないとかということは、確かにいろいろなことで私は感じている。これは親に対しての言葉として感じている。ただ、私は子どもが全部を大切にすることは大賛成だが、先ほどのようにきちんと親がそういうことを教えること自体がとても大切であると思っている。
  それから、まだ物足りないと思うのは、前回、森先生からきずなとか、迷惑をするという言葉を入れてほしいと言われた一方で、天野先生からは、迷惑を強調すると、子どもによくないかもしれないという話があった。その辺の議論がまだ進んでないが、それは第2弾として行えるから、今までのところでは審議の概要なので、現段階では、これで十分まとまっていると感じた。

【渡辺委員】 私自身は第1回目の会議から繰り返し申し上げているが、せっかく今、ニューロサイエンスのいろんなデータもあり、現場の声もある中で、特に子どもの乳幼児期の発達が大事であって、乳幼児期の発達のためには、一人一人の子どもが大切に扱われて、そして安心したお父さん、お母さんや近所、そういう人々のオーケストラの中に置かれるということをもう一度国は保障し直さなければいけない。そういう努力を抜きにして立派な何かを掲げるのではなく、天野先生は子どもと言ったが、私どもが発することは、今、現場で育てにくい赤ちゃんや育てにくいやんちゃ坊主を育てているお母さんたちがほっとして、目の前の子どもの一人一人のよさを十分に認めた上で、その子どものユニークな個性と社会の流れがかみ合っていけるような、日々の積み重ねを工夫していけるようなご家族やクラス運営、地域社会をつくっていくことの役に立っていきたい。
  そういう意味では、例えば特に13ページから14ページ、16ページなどの発達に関して、新しいニューロサイエンスに基づいた発達論はもう少しソフトで、もう少し幅があって、おもしろいので、もしできたら、そこの部分、文言がとてもまじめで、きちんといらっしゃると思うが、かたいし、場合によってはお父さんとお母さんたちに大きな緊張感を与えるので、子どもの発達段階の問題というのはほんとうに最新のいいものを文部科学省の委員会から出していきたいと思う。
  例えば感化という問題が一番大事で、多分、天野先生がおっしゃっているのは、子どもが思わずこの大人をまねしようと思う感化、感化力のあるいい大人の人間関係をつくっていきたいということで、それにはまず大人が大人の要求を後回しにして、子どもの安心できる空間、安心できる時間を子どもに返してあげないといけない。実際にこれは国連の子ども人権条約の委員会が日本の受験競争とか、おけいこごととか、クラスの数が多いということに対してもう何十年も言い続けていることであり、そんなに飛躍した一個人の話ではなくて、私どもが子どもの精神科医として絶えず外圧から言われていることなので、そういう日本の得意とする集団的なまとまりのよさは残しておいて、もう少し個別の子どもに対して、天野先生がおっしゃったような丁寧な、ほんとうに大事にされているという実感が積み重なっていくような、先生が安心して一人一人の子どもが受けとめてくれるような形づくりと。特に13ページあたりのところは私ももう一度、一緒に考えさせていただければと思う。
  新しいニューロサイエンスの視点や愛着というものがどんどん、概念が脱皮してやわらかくなっているが、この文言だと、古いという感じがするので、この議論の中では時間がないが、私なりに参考、ヒントを出させていただければと思う。

【鳥居座長】 そのヒントをいただきたい。14ページを(1)の乳幼児期のところに丸が打ってあって、乳幼児期は母親、父親などの特定の、この「特定の」というのはぎこちない言葉なので、普通の親や大人との間に愛着関係を形成する時期であるというのは間違っていないと思うが、その次に乳幼児は愛情に基づく情緒的なきずなによる安心感や信頼感の中ではぐくまれながら、さらに複数の人とのかかわりを深めて、興味や関心の対象を広げて、そして認知や情緒を発達させていくという、このあたりはどこか書き直したほうがいいのか。

【渡辺委員】 これは1970年代、1980年代の。

【鳥居座長】 具体的に先生のご提案は、どういうふうに書き直せばよいのか。

【渡辺委員】 乳幼児期の発達権利がこの文言のように守られた環境が今失われている。これは平均な期待される環境ということで、ハルクマンなど1970年代、80年代の工業化社会の人がみんな言ったことで、1990年代にはこれは特に都会では全くなくなった。こういうことが実現できるだけの子ども中心、命中心の環境は失われている。そこで、乳幼児精神保健や新しい救済、介入のための保健などが出てきている。これは1980年代であれば道理だと思うが、これを見せられた保健現場などは絶句すると思う。

【鳥居座長】 ここに書いてあることは間違っているのか。

【渡辺委員】 間違っていると思う。なぜかというと、乳幼児期はかつて思われたよりも、ものすごく赤ちゃんは敏感なので、仮にお父さんやお母さんが一生懸命育児しようと思っても、例えば家庭の中にあまりにも人工的過ぎる機械環境や、あるいは蛍光灯を切ったり、忙し過ぎる生活があると、どんなに父母が頑張ってケアしようと思っても、敏感な子どもは脳が発達しないということである。

【鳥居座長】 乳幼児は愛情に基づく情緒とか、きずなによる安心感、信頼感の中ではぐくまれないといけないというのは間違いなのか。

【渡辺委員】 その実態が、物質的にも、情緒的にも工業化社会では確保できないくらいである。

【鳥居座長】 それはわかるが、ここに書いてあることは前提として、その上でこれが確保されていないということか。

【渡辺委員】 そうであるが、この前提というものをきつく出し過ぎると、まじめな人はないものねだりのところを一生懸命やろうとして、かえってあつれきが生じる。今の工業化社会というのは、既に子どもにとっては非常に劣悪な、あるいはお母さんたちにとってはとても育児のできるような環境ではない中で、私たちはもう一度そういうあるべき姿の言葉ではなく、実態から入っていこうと。ほんとうに一人一人の子どもが安心して生きていく実態から入っていかない限りは、すべての情報が親や家族、地域社会の保健師や現場の人にとってのプレッシャー以外の何物でもない。

【鳥居座長】 要するに基本は上の丸で書いてあって、次のところに「現在の我が国における」、ここは「世界における」でもよいが、この「現在の」というのは先生の言葉で言うと、脱工業化社会か。そういう新しい時代の乳幼児期の子育ての課題としてはという問題としてここに書くべきことをもう少し詳しく書けばいいということではないのか。

【渡辺委員】 乳幼児期は……そうである。もう少し端的に乳幼児の事実をいうと、乳幼児期は血のつながりがあろうとなかろうと、生まれ落ちた環境に触れていく人間関係の調和がないと、子どもは育たないということが第1問のところに入るくらい変わってきている。母親、父親などとではなくて、だれであれ子どもが生まれ落ちたところの人間関係、人間環境に赤ちゃんはものすごく豊かな鋭いアンテナを張るということが明らかになっているので、仮にお父さんやお母さんがいなくても、そこの人間関係が温かいウェルカミングな関係であれば、赤ちゃんはどんな赤ちゃんでも育つ、障害があっても。だから、父親や母親などというのが表に出過ぎると、これは実態と少し違うという感じがする。
  つまり人間の赤ちゃんは人間のオーケストラの中に生まれてきて、その中でお父さんやお母さんがどんな子どもであっても安心産んでよかった、生まれてきてありがとうと言えるようなオーケストラの中から人間としての出発があるという、乳幼児期の書きかえが起きている。それは精神医学、精神分析もみんな書きかえないといけないということを世界の専門家たちが言っているので、少し父親、母親論というものが核にあっても、表現がもう少し微妙に、領域がなくならなければいけないという感じがする。

【鳥居座長】 わかりました。どうぞ、柳田先生。

【柳田委員】 座長と渡辺先生は完全に食い違っているので、私なりに理解した範囲内で半分意見的なことを申し上げると、渡辺先生がおっしゃっているのは今の時代生易しくない、いわば時代的な社会状況、人間環境、それもただごとではないということで、それをはっきりと踏まえて、赤ちゃんを壊していくこの環境は何なのか、それに対して何をするのかという文脈にならないと、きれいごとでここでうたっているだけになってしまう。愛着が大事です、お母さんたち頑張ってくださいで終わってしまう。これは頑張っても頑張れない環境が生まれている。そこをどうするかをしないと、今の経済事情にしろ、家族関係にしろ、少子化、核家族にしろ、あるいはメディア環境にしろ、いろんなものが重圧のように覆いかぶさってきて、マンションの中で1人のお母さんが1人の赤ちゃんに向き合って、深夜まで孤立しているという状況の中で愛着関係をしっかりしなさいとかけ声をかけても、これは実効性、現実性がないのではないかということではないか。
  しかし、例えば鎌田實先生は1歳で捨て子になり、タクシーの運転手に育てられたけれども、心臓病のお母さんがベッドに1歳の實少年をいつも引き寄せて抱きしめて、保育園から帰っても、小学校から帰ってもそういう環境で育つからこそ、このお母さんを治す医者になりたい。こういう育ち方をするわけだ。だから、ほんとうにそういうことを可能にする条件は何なのかということを述べないと、うたい文句で終わってしまうのではないかというのが渡辺先生のおっしゃっていることではないか。そこを座長先生は、文章だけの範囲内で今足りているのか、あるいはどう直せばいいのかとおっしゃっているが、もっと根本的な文脈の問題ではないかと思い、また渡辺先生の意見に同意する。

【鳥居座長】 わかりました。それから、今の問題について、天野先生と渡辺先生からそれぞれのお立場で意見が出ているが、何かご意見がありましたらどうぞ。では、この問題はこの問題として、さらにほかの問題にご意見があれば、それも承りたい。どうぞ、鷲田先生。

【鷲田委員】 この報告書の中に論理的なぶれがないかどうかということが気になっている。5ページのところ、ここで道徳とか、道徳性ということについて、ある種定義的なことがあるが、私はここで道徳ということがあまりにも、公徳心というか、あるいは公共心というものにぐっと傾き過ぎていると思う。具体的に言うと、(2)の1行目では、道徳性の主たる事例としてマナーとか、エチケットとか、ルールということがまず挙げられている。けれど、これはある意味では緩い法のようなものであって、法と道徳というのは全然違う。つまり法と道徳はどう違うかというと、例えば法にかなっていても、悪いことはある。あるいはまた、人として法に反してでもしなければならないことというのが出てきたりする。そういう道徳と法というのはかなりシビアな緊張関係の中にあるものである。したがって、ここではその道徳が非常に法に近いもの、法の緩やかなものとして交際のルールのようなもの、あるいは共同生活のルールみたいなところでのみとらえられているというのが非常に狭い感じがする。例えば昔だったら心のみさおとか、節度とでもいうのか、あるいはもう少し今ふうに他人を愛する心とか、思いやりとか、他人を大切にする心、こういうものがむしろコアになければ、道徳というものにならないのではないかと思う。
  そうすると、2番目の丸のところでも、道徳性を教える、はぐくむということ、つまり徳育というのが3行目だが、どの時代でも、社会でも、国においても、訓戒や習俗、法などを通じて行われてきたと書かれている。習俗というのはわかる。人々の習わしとしてやる。ところが、訓戒とか法を通じて、ほんとうに徳というのは伝えられるのだろうか。それよりもむしろ、母親の無制限な愛情を浴びることによって、人としての一番大切なものを自分の中に刻み込まれたという体験であるとか、あるいは大人たちがやっていること、大人たちが自分たちの賢さだけではなしに、愚かさをも子どもに見せるような、例えば昔であれば神前での相撲のような儀礼があって、あえて愚かさまで見せた。いずれ自分たちもそういうことをやらないといけないとか、あるいは大人が直接に教えなくて、子どもたちの自治に1度託してみる。これは柳田国男が言っているが、つまり先輩、年長者が年少者に教える、それを大人は少し離れて見ているという形で伝えられたりする。道徳というのはそういう面があると思う。
  これは私自身が哲学をやっているから、一つの情報としてお伝えすると、ヨーロッパの倫理思想、あるいは道徳思想というのは、規範とか規則に根拠を置く道徳思想と、それからもう一つは価値に何がほんとうによいことなのか、よいものなのかという、ルールじゃなしにほんとうによいものは何かということに基礎を置く道徳思想と2つの流れがある。キリスト教圏なので、ちょうど旧約と新約聖書に対応するわけで、掟の倫理と愛の倫理という対立である。これが例えばこの1ページの右の例えば五常においては、仁と義のようなものに対応するのかもしれない。あるいは今の『天地人』という大河ドラマで景勝は義で、景継は愛とやっているが、あれはすごく西洋的キリスト聖書的な解釈になっている。義と愛という、その両方がなければならないというテーマになっている。
  ということで、ここのところ、今、私はだからどれをどう直そうということはすぐには言えないが、この全体はもう少し道徳が単に緩い法ではないということである。そのことを書き込まなければ、単にこれは公徳心とか、あるいは公共心に縮込められた道徳論になってしまうのではないかと思う。

【鳥居座長】 今のお話はここに書かれている書き方をもう少し広げるという意味か。

【鷲田委員】 そのとおり。具体的に言うと、例えば17ページに具体的なことが書いてあるが、この中には、要するにルールをしっかり身につけようという徳目と、そうではなくて、人を思いやろうとか、あるいは謙虚な気持ちを持とうとか、自己肯定感を持とうというような2つが混在しているから、こちらは両方とも含まれている、公徳心的なものとある意味では広い意味で道徳と言われるもの。ただ、5ページでは道徳がすごく狭い公徳心、公共心に縮められているというところが首尾一貫していないと思う。

【鳥居座長】 鷲田先生のおっしゃったルール的なもの、17ページの一番下から18ページにかけて列挙してある事柄の中には、両者がまさに混在しているのはおっしゃるとおりだと思う。これを分け書きしたほうがいいのかどうか迷うところ。例えば真ん中辺に自己肯定感という言葉を使っているが、もう少しほんとうに自然に自分が持つ自尊心とか、そういうものをここでは書きたかったと思う。そういう心、そういうものをもう少しここに出したほうがいいと私も思う。、ここには確かにルール的なものが主として書いてあるが、その辺のところを少し検討するという形で、先生のご指摘を吸収することはできるか。

【鷲田委員】 5ページの考え方というのをもう少しはっきりと明確に広げるということが大事かと思う。また文章を考えさせていただく。

【鳥居座長】 わかりました。はい、どうぞ、柳田先生。

【柳田委員】 17ページで、箇条書きにしてあるのはさまざまなジャンルのものが混在していて、一体どういうことを具体的にすることになるのかなと思うのは、例えば最初の父母や祖父母などを敬い、家族を愛することということが子どもの心の中に育てばいいなということで挙げているのだろうと思う。
  それから、6つ目に自己肯定感をもつことというのが書いてある。これも子どもが自己肯定感を持てればいい、そうなるような形で徳育を通じて身につけるべきとなっている。今の子どもたちは、お父さんやお母さんを敬うより何よりも、まずは自己肯定感持てない。そういうのがものすごい覆いである。
  私の具体的な身近な個別の例で、小学校1年生の女の子が体育が苦手で、鬼ごっこやってもいつも鬼ばかりになる、あるいは鉄棒やっても回転できないとか、そういう中でずる休みする。それをお母さんはしからなかった。お母さんはじいっと聞いてやって、次の日、1冊の絵本を持ってきた。『大切な君』という翻訳絵本で、だめな小人の話である。その小人の村でだめな、できないやつはみんなだめ印をペタペタ貼られる。それで、絶望したパンチネオという名前の小人は、小人をつくってくれた彫刻家のところへ会いに行って、自分の悩みを訴えると、彫刻家はそんな印なんて関係ないよ、おまえはおまえ、この世に1人しかいないとか言ってくれる。
  それでほっとしてというような云々があり、それをお母さんが次の日、小学校1年生の娘に買ってきて、何回も何回も読み聞かせて、それでユリちゃんはユリちゃんなんだよと言う。あなたは体育が苦手だって本は好きじゃない、歌が上手じゃないと言う。それで、ものすごくその子は救われて、次の日からずる休みしなくなって、自信を持って体育の授業にも、できなくてもいいのだというので参加できるようになった。これは自己肯定感をお母さんの太陽で芽生えさせたわけである。
  それから、ある中学生の女の子で、年中自傷行為をやっていた。それは小学校3年のときからいつも虐待の対象になっていたから。いじめの対象、虐待で。それでいつも死のうと思っていて、自傷行為をする。ところが、中学校へ入ったときに、たった1人の女の子が友達になろうねと初めて声をかけてくれ、ぱあっと青空が広がったような気持ちになって、その子と仲よしになれたおかげで私は死ぬことはやめたと思えるようになったと、自己肯定感を初め友達の一言とつき合いの中で回復できた。
  自己肯定感を持つということはものすごく難しい。理屈ではない。徳育で自己肯定感を持てるようにするということが、具体的イメージとしてこの言葉の文脈から浮かんでこない。どういうことをすれば自己肯定感を持つかということは、徳育という概念と少し違うところなのではないか。ほんとうに人間として根源的に、まさに赤ちゃんのときからの育てられ方、先ほど天野さんがおっしゃったみたいに、子どもは全面的に受け入れられたり、ケアされたり、とにかく羊水の中にいるような安心感を持てるということが自己肯定感の原点ではないかと、いろいろな身近な事例を見ていて思う。 であるから、ここで箇条書きにしてあることがいろいろなステージのものなり、あるいは分野の違うものが羅列してあって、とても混乱しているように思う。そのあたりはとても大事な問題なので、きちんと徳育という中で達成できるものがこんなにたくさんの項目、丸ポツがあるが、みんなそれぞれにこうすればああするという簡単な論理構造の中で達成できるものなのかどうか。もう少しきちんと分析しないといけないのではないかと思う。皆さん専門の方々なので、そのあたりはもう少し議論すれば、明確に分類できることではないかと思う。
  自己肯定感を持つことができると、他者に対する理解力も非常に出てくるし、あるいは逆に他者に対する理解力を持てば、自己肯定感が持てるようになるという、そこは循環関係にあるが、他者に対する理解力というのも自分が愛された経験がなければ人を愛することもできない。これはほんとうに「いろは」の「い」の話であり、そこまで原点に立ち返って見直すべきではないかというのが、天野先生や渡辺先生がおっしゃったことではないかなと理解した。私も現実にいろんな作家活動の中でさまざまな子どもたちを見たり、あるいは身近な事例を見たりして感じていることにみんなつながるもなので、発言させていただいた。

【鳥居座長】 ありがとうございました。どうぞ、大野先生。

【大野委員】 今の流れで少し分析、お話をさせていただく。今、柳田先生がおっしゃったことを考えると、人の心というのは心だけで存在するのではなくて、人とのかかわりの中で存在するのだというふうに考えられると思う。今の17ページにしても、この全体のトーンが、心というのは個人が持っていて、個人がどう心を律するか、それをどう教えるかという、どうもそういうふうな雰囲気を感じてしまう。
  というのは、前回も紹介させていただいたが、人というのはいろんな考え、いろんな立場があって、いろいろな気持ちがあって、それをお互いに理解し合うところで相手を尊重するし、自分も尊重されるという、そういう人とのかかわりの中での在り方、そして人の多様性をどう認めるかという、それが大事なのではないかと思う。どうもこの17ページのリストというのは、心というのはその人の中にあって、それをどうするかみたいな発想になっているので、もっと人の多様性とか、人のかかわりというのをつけ加えていただくといいのかなというふうに思った。
  もう一点、それをするときにここに出されている体験事例というのはそれぞれ非常に立派だと思うが、体験だけではなかなか心の中に残ってこないのではないか。それを言葉にして学習するなり、自分のものにしていくというプロセスがあってもいいのではないかと思う。そこが学校が果たせるところ。つまり知をこの徳の中にどう組み込んでいくかという発想が、学校教育の中に入ってきてもいいのではないか。そのあたりを追加していただくと、私にとってはこれはすごくいいように思う。ただ、親として見たときに、最初の徳のいろんな項目はなかなかこうはできないよねというところで終わってしまうのではないかというところが懸念される。

【鳥居座長】 今のお話のやり取りを伺っていると、17ページと18ページに2度列挙してある事柄は若干直さなければならない面があって、一番肝心なのは、例えば親や祖父母などを敬い、家族を愛することは大事だということを書く。そのもう一つ前に親の愛の中で育つということが大事だというのがここに書いてない。本人の心のことばかり書いていることになるということだと思う。そういう修正を大いに加える必要があると思う。
   それから、17ページと18ページの四角の中とは大分ダブっているので、この書き方をどうするかはもう少し工夫したほうがいいと思っている。そのほかにご意見いかがでしょうか。どうぞ、山折先生。

【山折委員】 この間も少し話したが、この報告書(案)、概要の流れは大体この会が今まで議論を重ねてきた、いろんな方々のご意見を取りまとめた意味では、過不足なくまとめていると思った。前回の場合よりもかなりまとまっていると思う.。
 ただ、その上で先ほど来のご意見を伺いながら考えたのは、徳育といったような問題を考える場合に、これは私自身の心構えのようなものなのだが、1つは自分自身の教育現場での経験、これは非常に大事である。それぞれの委員の先生方の現場からのご発言がいろいろあった。そういうところからこの問題は発想しなければならないと思う。
 もう一つそれと同時に大事なのは、人類が経験してきた事柄をいわば継承しつつ、それをどのようにこの徳育の問題に結びつけていくか。こういう観点、これは非常に重要だと思う。人類が経験してきた徳育に関するさまざまな知恵とか、経験というものは、垂直の軸で教え伝えていかなければならない事柄だと思う。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。それはしばしばおきてのようなものでもあるし、教訓のようなものでもあるし、家訓のようなものでもあるし、あるいは聖書や仏典に書かれてきた十戒、五戒の問題にもある。これは人類が何千年となく経験してきたことである。それはやはり垂直軸。教師が生徒に、親が子どもに、会社においては上司が部下に、そういう垂直の軸というのはどうしても人間の教育においては欠かすことができない。
 それと同時に、この現代社会の複雑な構造の中で横の連絡をどうするか。学校・家庭・地域・企業。そういう横の連携をどのようにこの問題に絡めて教育のネットワークをつくり上げていくか。これはむしろ水平軸にかかわる問題だと思う。
 やはり人間教育というのは、いつの時代、どこにおいても垂直軸と水平軸が交わる立体的関係性の中で考えていくことが原理的に必要だと思う。私はそれはずっと考え続けてきたし、この懇談会においてもその意見が両方交錯して出されてきたと思う。それをこの報告書(案)では整理をして、前半、理念、普遍性ということを問題にする場面では、垂直軸に沿った人類の経験をいわば結晶された形で、象徴的な形で出しているところだと思う。これは非常によくまとまっていると思う。
 問題は、そういう人類の経験を今日の現代社会のさまざまな問題を含む社会にどう適用していくか。これは水平的な感覚で教育のネットワークを考え出していかなければならない。これについても実にさまざまなご意見が出されたわけで、それがこの報告書の後半部分にいろいろ具体的に議論、取り上げられている。その構造全体というか、この(案)の全体構成はこれで私はいいと思う。これ以外ないだろうと思う。どれかを削るというわけにはなかなかいかないだろう。
 問題は、今問題になっている後の後半部分のところ、17ページのさまざまな項目がここに出されているのは、私はこの間申しました。実は学校教育、地域の教育、家庭、家族の問題についてさまざまな意見が出されて、時には対立するような意見、相入れないような意見が随分出されてきた。これは当然のことで、その場合、それぞれの意見をいわば5項目なり10項目なり提出して、それを問題提起の形で国民の皆さん方に考えていただく。選択肢をいわば公表する、この懇談会で。そういう意味を込めて私は申し上げたつもりである。
 であるから、1項目、1項目が論理的に必ずしもつながっていなくても、あるいはディメンジョンがそれぞれ違った発言であっても、それはそれとして出して、皆さんにお考えいただくという提出の仕方のほうが、委員会としてこういうふうにまとまったからということで差し出すということよりも、もっとお読みになっていただく、受け取っていただく方々にそのつもりになってお考えいただく契機になればというつもりだった。
 特に重要なのは、今、学校の先生方は、現場で道徳教育という科目があるにもかかわらず、それは現状では空洞化している。何をどう教えていったらいいかわからない。それならば、それぞれの先生には個性があり、背景が違う、興味・趣味も違うわけであるから、自分はこういうことなら何とか道徳教育の中で具体的に教えていくことができる。あるいは別の先生にとっては、そんなことよりも全然別なこちらのほうを選択する。その選択できるような具体的な項目を掲げたほうがいいのではないかと申し上げて、それがこの17ページの項目になったのではないかと思っている。ある先生は先祖を大事にするとか、親孝行の問題を大事にするということ、これを集中的に1年取り上げてもいいだろうし、別の先生は自己肯定感という問題を集中的に取り上げてもいい。そういう選択肢を差し出すということであって、そういう点ではこれから国民全体がそういう問題を考えていく時期に入っていく。これが数年たてば、この10項目なり20項目の提案というもののどれがどの程度採用されて、実践されたかということで統計がとれる。その都度そういうことをベースにして提言書の内容、選択肢というものを変えていく。道徳教育というものはこれはこうだと上から押しつけるような形でないほうがいいという意味で、特に選択項目を10項目なり、あるいは15項目なりで提言の形で出したほうがいいと申し上げた。
 しかし、基本は、特に知育、体育に対して徳育という教育の重要性というのは、先ほど申し上げた人類の歴史的経験に回る垂直軸の線というものと、それから現代社会の複雑な諸問題を抱え込んだ水平軸の問題を交じ合わせるという、その垂直軸の教育軸が戦後60年間非常におろそかにされてきたと私は非常に強く思っている。それが今日の教育の一種の荒廃というか、人間関係の崩壊というか、そういうものにも強く影響を与えているのではないのかと思う。であるから、人類が経験した垂直軸にかかわる問題は決して単なる理念、単なる道徳律等との問題にとどまらない、非常に具体的な問題だというふうに思っている。
 そう考えた場合、どうしても、これは最初から申し上げていることだが、道徳を道徳のレベルだけで考えてもこれは行き詰まる。先ほどの鷲田先生の話もそうである。その背後に横たわっているのは依然として宗教の問題である。宗教の問題を抜きにして歴史的な道徳の問題は考えることができない。それは今日においても同じだと思う。しかし、それについても意見が分かれる。道徳教育という現場で宗教と道徳をどのように教えたらいいのかということについてはいろんなご意見があるわけで、意見が分かれる。分かれるのは当然だと思うので、そこまで我々が考えたんだよと。それはこれから国民みんなで考えようではありませんかという問題提起の仕方が必要ではないのかというふうに考えている。

【鳥居座長】 山折先生が垂直の軸と横の軸というふうにおっしゃったのを、私は別の言葉で考えていた。明治5年にエデュケーションという言葉を何という日本語にするかという話になり、ヨーロッパから帰ったばかりの大久保卿が教カと訳した。教えカけると書いて教カと。何にも知らない者に教えるという意味で教カという言葉を使うのがいいとおっしゃった。そのときの文部卿が森有礼で、彼は教育と訳した。教え育てるという言葉を提案されて、結局、教育という言葉が実際に採用されて、今日に至っているが、森有礼の仲人だった福沢諭吉が数年たってから、どうも君らのやっている仕事は1つ抜けているのではないかと言った。エデュケーションという英語の原語はラテン語のエデュセレで、そこには引き出すという意味がある。人間が内在的にもともと持っている力を引っ張り出してやるという意味がある。どうもうまく出てないと。ただ、自分には提案するべき言葉がないから、内容だけ言っておくが、そういうことだとおっしゃったのを書いたものがある。その両方なのだろう。その両方を私たちはこの問題についてもやらないといけない。そのときに、まさに何千年来積み重ねてきた文明の継承という意味の教えていくということも大事だが、同時に人間が中に持っている力とか、考えとか、徳とかいうものを引っ張り出してやることも大事だと。どうも我々はその両方を今日は議論しているような気がした。

【森委員】 17ページに議論がいっていたので、この17ページから18ページにかけてのたくさんの徳目は、だれが見てもこれは無秩序・無原則な羅列にすぎないのではないかと皆さんもおっしゃっていた。教育再生会議が親学について提案したときに、食事のときはテレビを消そうとか、劇、オペラを見ようとか、いろんなものが羅列されていて、思いつきの羅列だと言われたが、山折先生の縦軸、横軸というのは賛成だが、縦軸、横軸に具体的に何を置くのかということを議論しないと、先へ進まないのではないかと思う。
  私は「早寝早起き朝ごはん」というのは非常に人口に膾炙してよかったと思うが、その次どうするのかという、その後がない。一歩進むにはどうすればいいかというので、あまりよく考えていないが、例えば、具体的に朝御飯をどう食べるのかということ。よくかんで食べるという、かむというのが出てこない。我が家のルールづくり、ここにもあるが、私はその審査を3日にやっていまして、1万幾らの応募の中でかむというのはたった2つしかない。かむというのは脳の活性化にもいいので、どうして出てこないのか。
 それから、姿勢を正すというのもない。姿勢を正すというのは、姿勢を正せば人間、緊張して元気が出るが、逆にリラックスできなくなる。正座というのは最近、日本人だけが正座をするそうだが、日本の伝統文化で茶道、剣道、柔道、それから仏事でも正座をしている。だから、日本人だけが正座している正しい姿勢。司馬遼太郎はそれを野木将軍の馬上の姿だと。馬上の姿というのはみんな姿勢がいい。姿勢が悪いと落ちてしまうから。そういう意味で、食事のときには姿勢を正してよくかむということ。
 もう一つは、前回も言ったが、「ごちそうさま」というのは日本だけの言葉らしい。アメリカの人と結婚した日本の女性が、アメリカへ来て一言だけ日本語を教えた。それは「ごちそうさま」であるという、その詩を載せたのを見たが、それをここで紹介したらお礼のはがきが来て、今度、息子が2人アメリカから来るが、「ごちそうさま」のほかに何を覚えているか気になってということがあった。言いたかったことは「早寝早起き朝ごはん」に続くようなインパクトのあるものが出てこないということである。だから、姿勢を正してよくかんで、ごちそうさまとか、これはちょっとリズムが悪いが、そういうものが必要なのではないか。
 それと、この17ページが、14ページの発達段階というところと一致してないような気がする。発達段階に合わせて書かれているとよいのではないか。18、19のほうにそれが書いてあるということになるかもしれないが、それが第1点。  第2点は、乳幼児のころの愛着関係とか、いろいろ難しいことをヒアリングでたくさん聞いた。私は外国の話を随分聞いたが、日本の研究の話はあまり聞かなかったので、何とも言えないが、最近読んだ本では子どものときに2つのことをまず教えないといけない。小さいときにはハイハイできるようになると、何でも口に入れる。これは危険なんだと。だめなものはだめだという、安全というか、危険を回避することを徹底的に、これは理屈ではなくて教えるべきだと。もう一つは、それと同時に他人に害を与えてはいけないということを教えるべきだと。その2つでいいということをおっしゃる人もいる。
 それから、道徳教育の中身の問題になるが、私は中身も大切だが、方法論が一番欠けていると思う。前にも話したかどうかわからないが、道徳の時間のいろいろなカリキュラムとか方法があるが、あれは学校教育全体を通じて教えると指導要領に書いてある。学校教育全体とは何かというと、これはほとんど教科が80%ぐらいなので、教科と特別活動、その他ということになるが、教科を通じて道徳教育をどう教えるか。教科には国語から算数、理科といろいろあるが、算数の時間にどうやって道徳教育を教えるのか。そういうことを言っている人は聞いてもだれもいない。
 私は道徳の時間の道徳の指導と、算数の時間の道徳の指導というものを、あるいは国語の時間でもいいが、考えるべきだと思う。算数の時間に先生が教えるのは、算数のカリキュラムに従って教えている。教えるのが上手だとか、いろいろ言われる。ところが、同じ算数を教えるにしても、どういう先生が教えるかで無意識的に道徳教育ができる。だから、そういうことを考えると、算数のカリキュラムというのは紙に書かれたカリキュラムで、先生の人格が算数の時間の道徳教育である。
 どういう態度で算数を教えているかということで前に話したような気がするが、算数の時間に先生が新調の背広にチョークがついて慌てて払って、新調したのにと言えばしらけてしまう。それをチョークを払わないで熱心に教えている姿に子どもは、この先生は私たちのために一生懸命、新調の背広にチョークがついても払わないで教えてくれると感動する。そういう先生が道徳の時間に道徳とはとか、向上心とはとか、そうすると非常に効果が上がると思うが、そういうことが学校教育の中でほとんど議論されないのが非常に不満である。
 それから、もう一点だけ、全体の構成だが、山折先生もおっしゃったが、討議の流れをまとめるとこういうふうになると思う。その点では異論はないが、一番大事な具体的な提案のところが少し弱くて、頭のほうが重い感じがするが、これは逆のほうがいいと思う。前にも言ったので、これ以上言わないが、その辺をもし考えていただければ。
 それから、話は飛び飛びになるが、公徳心と自分の個人の心というのを別々のように考えるのはどうかなという気がする。人間というのはまさに1人で存在するわけではないので、自分の心の成長というのは社会との関係で成長する、あるいは家族との関係で。外山滋彦さんがなかなかいいことをおっしゃっていて、自動車の運転で車間距離があるように、人間関係も人間(じんかん)距離が必要なのだと。人間(じんかん)距離のルールを通じて我々は感謝するとか、ありがとうとか、人に害を加えてはいけないということが生まれてくるのではないかと思う。
 それで、私はある大会のときのアンケート調査で、日本語で一番美しい言葉は何か1つずつ書いてくださいという、200人ぐらいのものをやったことがある。一番多かったのは「ありがとう」という感謝だった。人間は感謝しながら成長していくので、ごちそうさまなんてだれに言うのだなんてくだらないことを言うモンスターペアレンツがいたそうだが、給食費を払っているのに何でごちそうさまと言わなきゃいけない。とんでもない話で、自然の恵みに感謝するということすらわかってない親がいるのだなとそのとき思った。
 最後に提言のところ、これは私がいいと思ったのが落ちたので、ここはちょっと。22ページに優秀作品……となっていて、文部科学省からそのうち公式に発表されるので、その中身はここでは言ってはいけないので言わないが、落ちたというか、私がいいと思ったのは個人的にはいいのではないかと思うので、ひとり言をいう。親が手本、我が家のルール。これは少し編曲して私がつくったが、それに近いのがあった。我が家のルールは親が手本だと。そうすると、親がどきっとする。
 この応募作品はほとんど子どものために、子どもがわかりやすく、いろんなのが出ているが、親にインパクトを与えるものはないのかといったら、親は道徳教育は手おくれだから、子ども用でいいのだという発言があって私はびっくりした。乳幼児や子どもを教育する、しつけるのが親なのに、その親にはっとさせないでどうやってするのかと思ったが、それ以上議論はしなかった。我が家のルールは親が手本といえば、親はうっかりできないので、緊張してというはかない希望を持っている。

【鳥居座長】 この件についてはまた後ほどご議論いただくことにして、今、塩谷大臣がおいでになりましたので、塩谷大臣からお話をいただきたいと思う。それでは、塩谷大臣、せっかくの機会ですので、おいでになる前に随分高度な議論をしましたので、ほんとうは聞いてもらいたかったのだが、大臣からのお話をお願いいたします。

【塩谷文部科学大臣】 改めて、文部科学大臣の塩谷立でございます。この子どもの徳育に関する懇談会につきましては、昨年の8月から鳥居座長のもとで皆様方に大変熱心にご議論いただいて、今日はその一つの審議の概要ということで、まとめの議論をしていただいていること、心からまずもって感謝申し上げる次第でございます。
 私はそれこそこの懇談会が始まった後、9月に文部科学大臣に就任させていただきまして、その後、教育基本法の改正に基づいて学習指導要領も改訂され、そういう中で基本法の理念として道徳、公共心というものを明確に学校教育でどうするかという議論をしていただいたわけでございまして、私も改めてその点が大変重要な点だととらえ、私なりに心をはぐくむ5つの基本とか、いわゆる意義、基本というものをしっかりと教えることが、教育の再生に向かって大事なことだということで幾つか提言をさせていただいておりまして、まさにそういったことの具体的な議論をしていただいて、感謝を申し上げる次第でございます。
 その中で、今、森先生からもお話がございました家庭のルール、これを募集したところ、実はどのぐらい来るかなと心配していたら、かなりたくさん来たということは非常に勇気づけられまして、まだまだ捨てたものではないなという気がほんとうにしております。
 いずれにしましても、我々が生きていく中でまずは道徳というものはどういうことかということ、かつては家庭とか地域社会で当たり前に行われたことが、今はあえて家庭教育とか、地域教育とか、そういうことをしっかりと、これは教育基本法で明記したのですが、そうしないとなかなか伝わってこない。いわゆる家庭での家庭教育の大事とか、あるいはいろんな体験の大事さとか、そういうことは昔は親がどこかでいろんなことを体験させたり、あるいは家庭でのしつけをしたり、そういう中で社会規範というのは生まれてきたのだと思いますが、今、残念ながらそういったことが家庭、地域社会、あるいは学校での役割がどうも薄れてきて、質、量が混乱しているような状態だと思っておりますので、ここをしっかりまた学校教育の中で、そしてそれが家庭や地域社会と連携して行われればいいし、また私は例えば日本の教育の中で制度とか、そういったものは課題はあるけれども、基本的には問題ないと思っております。 あと、子どもたちが生きていくためには、いろんな体験が必要だろうと。あるいはコミュニケーションが必要だろうということだと思っているんです。それをどう具体的に日々の生活の中に入れていけるかなということで、その基本は生活習慣ではないかなと。先ほど「早寝早起き朝ごはん」というお話がございましたが、あれはまさに生活習慣が子どもたちにどう身についてくるのか。こんなことを考えることはほんとうはおかしな話なのですが、残念ながら今、生活習慣というのはばらばらというか、何をやってもいいような、そういうことですから、いわゆる社会規範自体、道徳自体が、あるいは常識が全くなくなっているような社会状況になっていると思いますので、もう一度基本からどうするかということで、今日いろいろと議論の大変整理されたのは、それぞれもっともなことが整理されていますので、これをいかにこれから具体的にどうするかということが非常に問題だと思っております。その辺もまたご指導いただいて、道徳の時間というのは非常に難しいと思っておりますので、その辺のいい指導方法を見出していただければありがたいと思っております。
 ほんとうに熱心な議論に改めて感謝申し上げると同時に、この道徳の教育に対して一つの正しい方向性を示していただければありがたいと思いますので、ぜひ今後ともよろしくお願いしたいと思っております。今日はほんとうにありがとうございました。

【鳥居座長】 大臣、どうもありがとうございました。また、この後、審議を続けさせていただきますが、大臣のお仕事、ご公務がおありでしょうから、適宜ご退室をいただきたいと思います。

【鳥居座長】 恐れ入ります。それでは、我々のほうの審議を続けたいと思います。今の森先生のお話に続いてどなたかありましたら、お願いしたい。大野先生。

【大野委員】 少し話題を変えるようだが、親子の関係というのはすごく大事だと思う。家庭での教育は大事だと思う。ただ、一方で、学校において、友達同士で教え合うということが非常にまた大事だと思う。どうもその部分がここに十分に入ってないように思う。お互いに教え合うような関係をどうつくり出すか、それが大事だということを入れていただけるとよい。

【鳥居座長】 ありがとうございました。これは子どもたちの人間関係、あるいはいじめの問題から、最近はお互いに危害を加えられるところまでいってしまっている問題とか、いろんな問題の根幹にかかわる問題で、もっと子どもたちがお互いに仲よくやっていく、そういう環境をつくってやることが大事だということでどこかに書き込んだほうがいいかもしれないので、また考慮したいと思う。

【天野委員】 僕は先ほどの鳥居先生の教育は引き出す力というのがあるという話に大変感銘を受けて、実は僕は教育に対して遊育という言葉を勝手につくって使っている。教育というのは教えるという字なので、解体するとその後育てるだろうと。そうすると、教える、育てる主体は大人の側にあるということを考えると、そういう言葉だなと思う。
 一方で遊育というのは遊ぶという字なので、育つということである。子どもはみずから、生まれたときからと言ったらよいか、精子と卵子が出会ったときから、これはその子の意志の問題ではなく、あるいは親の意志の問題でもなく、命というのは自分で生まれ出ようとして、生きようとする存在としてこの世の中に出てくる。つまり子どもにはそのまま育とうとする力はそもそも備わっているというふうに僕は感じている。それをどうやって邪魔しないでおくのかという発想も大人には必要。つまり教育ということで、教えて育てなければならないところがあるが、子どもは遊ぶことが仕事なので、遊びながら自分で試行錯誤を繰り返しながら育とうとしている。例えば階段の2段目から飛べたから、次、3段目という、自分の1つ上の限界というのに常に子どもは挑戦しながら、自分の世界を育てていっている。
 そういうようなことをどれだけ保障していくことができるのか。そこの部分が今、大人が主役になり過ぎているという懸念を僕は非常にいつも持っている。子どもがみずから育とうとする力、その中にこそ引き出すための大きな宝物がたくさんあって、そこのところをとても大切にしていくということはすごい大事だと実は思っている。
 前回も言ったが、子どもがまだ大人たちの目をエスケープして生きていられる時代のときには、大人が教育力を発揮しても大丈夫だった。つまり子どもがエスケープしていたので、エスケープした世界の中で生き延びていた。うるさいなではないが、子ども同士の中で結構悪さもしながら、危ないこともやりながら、そういうことをしながら自分たちの世界を保ち続けることができたのだが、これだけ大人と子どもの力の差が逆転してくるというか、都市化がこれだけ進んで、子どもを徹底して管理しよう、逃がすなという。逃がすと、なぜ逃がしたのだということで、責任が問われていく社会になってくると、間違いなく子どもは大人のひざ元の中に常に引き戻されていく。つまり常にとも綱をつけられた犬と一緒である。
 この状況の中で大人が教育の価値観だけを子どもの側に言っていくと、子どもは主体としては全然息ができなくなっていくという、僕はこの怖さのほうを今すごく感じている。だから、先ほど鳥居先生のおっしゃった引き出していくという、その感覚をもっともっとこの中に持ってほしい。つまり、その方向性が出てきたら、僕はこれに関してはそんなに違わないと思っているが、これは大人の価値観、大人の教育観、子どもはこうあるべし論みたいなものが前面に出ている。確かにこれでよかった時代もある。それで子どもがエスケープしていたから、生き延びられていた時代があるが、今はもはやそういう時代ではなくなっているというのが1つあるだろうというふうに思う。
 ここに書いてあるわけではないが、よく言われることには迷惑をかけるなという話があるが、あれも僕から言わせると、地域というか、コミュニティが成り立っている時代だから、あの言葉には有効性があったが、今のように地域が崩れていて、迷惑をかけないように生きるといっても、これは完全に人間関係は分断されていく。逆に言うと、人は、迷惑をかけずに生きていることなんかできない。つまり、どこで迷惑を自分はかけているのかということをちゃんと知ること、例えば自立といっても、ほんとうに自立しながら生きていかれる人間なんて一人もいない。それこそ先ほど森先生がおっしゃったように、魚はだれがとっているのだとか、肉はだれがとっているのだとかと考えたときに、依存しないと人なんて生きられない。
 そうすると、自分はいろんな人に迷惑をかけながら依存しながら生きているということを自覚して、僕はそれで初めて感謝が生まれてくると思うんです。僕はそれは「お互いさま」という言葉、これは日本語の中でとてもすてきな言葉だと思っているが、「もったいない」と同じように、世界に広げたいと思うぐらいにすてきな言葉だと思う。「お互いさま」と。
 でも、迷惑もかけないし、依存もしない、自立もするという話になったときに、どこでお互いさまを感じることができるのか。私のことにもう触れないで、あなたのことはほっておくから、私のこともほっといてみたいな、私、あなたに迷惑かけてないでしょ、私はあなたに依存もしてないでしょという関係で人間関係がこれ以上進んでいってほしくはないと思う。
 そのためにも、縦軸というふうにおっしゃった。僕はそれは人の命の尊厳だというふうに思っている。その尊厳をその時代、その時代を横で切っていったときにどのようにしてメッセージを出していくかということは、過去に参考例はあるが、今までのこの社会というのは過去に類を見ないほど工業化、都市化が発達してきている。つまり過去の価値観で持ってきても、それだけでは到底太刀打ちできないと実は僕は思っているので、そこのところを何とかして生み出していかないといけないのではないかというふうに考える。

【鳥居座長】 なかなか難しい問題であるが、両方書かないといけないのではないかという感じを持って天野先生のいつものお話を今日も聞いているわけだが、例えば今のお話に出てくる肉を食べているとき、肉のお世話になっている。それは子どもたちに押しつけて教えてはいけないというふうに我々には天野先生の件は聞こえてしまうが、そうではなくて、いつかのどこかの段階で、実は屠殺というものがあって、それで生きている牛や豚が死んだ肉になって、我々の口に入るのだという事実を子どもたちに教えないといけない。その教えるときに、手を合わせてありがとうとか、あるいは人間であることのありがたさとか、そういうことを教えるのは道徳の教育なのではないか、両方書く必要があるのではないかというふうに感じる。その辺が冒頭に先生と私とで議論した問題だと思う。

【天野委員】 実は私たちの遊び場は夏にキャンプをやっていてが、ニワトリを飼っている。行っている場所が電気もガスも水道もないところで、山の中で川の水をそのまま飲んで、トイレも自分たちで掘って、全部暮らしをつくっていくということをやろうとしている。それで肉は肉としてとっておくと腐るので、生きたものを飼っている。それで、食べるときにそれをいただくみたいな感じになって、それはだからほんとうに食べるために飼っている。
 そうすると、子どもが今おっしゃったとおり、勝手に手を合わせるようになっていく。それを僕たちは言葉で教えているわけでは決してなくて、ニワトリを食べるときに首をはね、毛をむしりというところからやる。そのことがものすごく子どもの中での抵抗がある。けれども、そうやりながら食べていくということを、1週間も行っているので、子どもはやはり肉を食べたいから、どこかでそれをやる。そのときに手を合わすということをやっていく。
 だから、必ずしもそういったほうがいいという話ではないが、今おっしゃったのはほんとうに同じ、そうだなと思うのは、そういうことこそ体験の中、今、暮らしの中から全部排除されている、そのプロセスそのものがすべて排除されて、何かインプットしたら結果だけが出てくるみたいな、間が全部ブラックボックスになっている。これが、だから都市化というものの一つの姿なのだと僕は思う。お金さえ払えば物がすべて手に入る。
 つまり、お金を払うということで結果だけを手に入れる。結果がちゃんとしていれば、プロセスはどうでもいいみたいなのがあって、点数が高ければプロセスはどうでもいいみたいな、そういうような話では多分なくて、子どもが育つということはプロセスの中にこそある。だから、このプロセスをどのようにして子どもが体験していかれるのか。このプロセスの部分を大人が奪ってしまうことで、子どもは人生が乗っ取られてしまうと僕は思う。だから、結果だけを押しつけると、そのプロセスがなくなる。

【鳥居座長】 それはわかるが、手を合わせるのは自然に子どもが手を合わせるようになるという側面と、それから何千年来のうちにできてきた、それぞれのいろんな宗教の教えの中にも同じようにして自然にできてきた教えとして手の合わせ方とか、戒律とか、祈りとか、そういうものが人間の大事な遺産として、さっきそれを山折先生は垂直という言葉で表現されたが、そういうものがある。そういうものについて一切無知というか、全然知らないまま一生過ごすのと、自分が手を合わせていたのと経典に書いてある教えとが実は同じことなのだということに子どもがいつの日か気がつくような教育が、一生かけてでいいから、世の中に存在するのとでは後者のほうが上等な社会ではないかということを私は言いたい。だから、それは表現の違いだと思う。

【柳田委員】 先ほど大野先生が友達に教えられるという、子どもを育てる人間関係がとても大事で、親との関係だけではなくて、子供たちに教えられるということなのだが、すごくそれは大切なことで、そういう中でこそ初めていじめの問題だとか、あるいは自己肯定感というのも、ほんとうに本物が生まれてくるのだろうなと思う。例えば小児がんの子どもたちのサマーキャンプというのをボランティア活動でお医者さんたちが中心になって10年間やってきて、それをずっとイトウセイイチさんという監督が記録してきて、子どもたちの折々の表情と言葉、そういったものを実に綿密に記録してきて、そのビデオ作品、映画をたくさんつくってきたが、今回、10年の集大成したものが先だって完成して、それで知り合いの中で試写をして見せてもらったわけだが、子どもたちがお互い白血病という重い病気を背負いながらサマーキャンプをしている中で、命に対する自覚が生まれてくる。親が感動する、子どもの心の成長を見ていて。親が教えるという次元ではない。片やサマーキャンプに参加した女の子が3カ月後に亡くなってしまって、その関係性というものを次のサマーキャンプでまた思い返したりとか、そしてあの子は亡くなっても私を今支えているとか、子どもが生の言葉で語るときの迫力というのか、すごい感動性がある。
 この徳育の報告書全体を見ると、大体において健常児だけの社会を考えているみたいな雰囲気である。実はほんとうに大事なことを学ぶのはクラスの中にいる障害を持った子を中心にどういうかかわりを持つかとか、病気を抱えている子、あるいは小児がんになって緩解状態で教室に戻ってきた子、その子を囲んで子どもたち同士の中で何を自覚したり、学んだりしているのかとか、そういうことが大事なので、それを具体的に書けと言っているわけではないが、人間理解や人間として本来生きる力や、あるいは心を揺さぶられるような感動性、そういったものから本物が生まれてくるだろうと思う。残念ながら、そういったことがこの文章からはどこからも感じられない。
 また、そういう目とはまた別な視点から、この報告書を事前に読んできてくださいというので、深夜に読んだが、最初の数ページは苦痛でした、読むのがほんとうに。これを読みながら、どういうことを要するにやればいいのかと言いたくなるぐらい、いわく因縁をずうっと述べられていく。一体この報告書はだれがために書き、だれに読んでもらい、そしてだれが何をしてほしいのかということがリアルに立ち上がってくるような報告書になって初めて大きなインパクトを持つのではないかと思う。
 ちなみに、どうすればいいかというと、例えば会社なり、あるいは閣議なり、そういうところで社長の前に何か報告するときに、今度こういうことをやりましたと、これを全部ずうっと読み上げたら、それはいい、要するに何なんだと言われるわけである。だから、閣議だと、A4・1枚だけに限るとか言われる。あるいは社長を含めた取締役会で事業計画というのを報告するときに、A4・1枚で説明しろと言われる。
 徳育の問題などはそんな簡単なものではないので、そうしろと言っているわけではないが、これをごく簡単に言うと、初めに延々と述べた経過や問題点の指摘、そして大きな意味での1の徳育の意義・普遍性、このあたりをコンパクトに2ページぐらいでおさめて、そして最も今回議論した2、3に早く移るということ。そして、問題点は、事務局の方々それぞれみんな頭がいいので、いろんな要素を書き込もうとして延々やるわけだが、私なんかも悪いくせなのだが、だんだん長くなって、大長編になってきてしまうような、言葉が落ちてあったりして、特に哲学者が書くとそのあたりがこれになって、別に鷲田先生のことを言っているわけではないが、あるいは小説家でも野坂昭如だの大江健三郎なんていうのは、とにかく文章が長くて、理解するのが大変だとか、いろいろあるわけだが、なるべくそのあたり、こうした公的文書なので、簡潔にわかりやすく、一番問題なのはこれだということが早くわかるようにして書いて、そしてここではいろいろな解説と事例の紹介等がずっといわば毎ページ注をつけるように書いてあるが、これは全体を把握する上では損だと思う。この解説的なものは詳細編とか、あるいは詳論とかの形で別にして、まず全体何が言いたいかというのを数ページぐらいにおさめて、そして詳論というところでいろいろ解説して、そして具体的事例の紹介ということで、それは奔放に手法を出してもいいだろう。だが、そういうのが間に入ってくると、本質論と具体事例というのがわかりやすく見えながら、実は全体としてぼやけていってしまう。あまり得な全体構成ではないのではないかと思う。
 そういったことを感じながら読み終えたときに、何が残ったかということを考えたときに、これは大変だな、いっぱい問題があってということが残った。もう少し簡潔に、読み終えて残るもの、そういうのが明確に出るように。
 そしてまた、山折先生がおっしゃったように、縦軸と水平軸の問題はあるが、その問題は3の課題というところではっきりとあらまほしき理念なり、あらまほしき徳育論という分野と水平展開的に今の社会の中でやらないといけないことを大きくこの課題ということではっきり明示すれば、取り組む具体的ないろんな提言がより生き生きと受けとめられるのではないかというふうに思う。そのあたりが非常に混在しながら論旨が展開されているので、これはつかみ取るのが大変だと思う、教育現場にしろ、一般の父兄にしろ。世の若いお母さんにしろ、子育て中のお母さんにしろ、そういう人たちがどうなったかわかるようなものでないと、ほんとうに地域における何とかづくりとか、あるいは世の親たちへのアピールという力を持ち得ないおそれがあるのではないかと思った。

【鳥居座長】 私はかつて6年間、中央教育審議会をやって、会長として何本か大きな報告書をまとめるたびに実は今柳田先生がおっしゃった要約というのを最初にくっつけて、それから本文を書くというのでほとんどやってきたが、今回、それを事務局に提案しようかどうしようか迷って、もう時間切れであるのと、彼らが非常に大変だということで、そこは遠慮して言わなかったが、もしこれを今おっしゃるようにやるとすると、今日ここにある本文、これが本文で、この手前に要約がついているという形しかできないと思うが、そういう形でトライすることならできると思う。
 ただし、今度はそれをやると、あれが書いてない、これが書いてないという話がまた出てくる心配がある。というのは、一つ一つの大事な言葉がそれぞれ読む人の人生体験の中からイメージが違っているはずである。それが少し怖いが、それでもなおやるかということである。例えば思いやりということは私にはすごくよくわかるが、私にとって思いやりが大切だというのは、今、柳田先生がおっしゃった点についていえば、私は40年間、ずっと知的障害児の施設を見てきており、おつき合いしてきているが、かつて5歳、10歳だった人たちは今50歳を超えている。昔、タロウちゃん、ジロウちゃんと呼んでいた人たちは、今でもタロウちゃん、ジロウちゃんと呼ぶが、それがもうおじいさんになっている。だから、その人たちの親はもういない。そういう施設の人たちを思いやる心なんていうのをイメージしてもらいたいなと思って、僕は思いやりという言葉を書くわけだが、そんなことは普通の人には体験がないに違いない、ほとんどないだろうから、期待できない。
 だから、なかなか難しいが、それでもトライするか。

【柳田委員】 一言だけ。いろいろと私は報告書の素案を役割を持って書いたことがあるが、行政官庁レベルや、あるいは企業レベルでやったが、3日徹夜するとこれぐらいのことはもっときちんと整理できる。次の会が多分8月にあると思うが、1カ月なんて要らない、3日あればできるのではないかと。ただ、徹夜しないといけない。

【加倉井委員】 あれが書いてない、これが書いてないというのは少し低次元になってしまうかもしれないが、私は学校にいて、前回も道徳教育のかなめとしての道徳の時間ということがなかなかうまくいかないのだと。例えばいじめの問題を考えても、ほんとうに正義をかざしたいじめみたいなのもある、何か欲しいのだということで。逆に今度は思いやりばかりになってしまうと、ぬるま湯になってしまうと。そういうような条件によっても違うので、心の問題というか、内面の問題というのは大変難しいのだろう。そういうようなものを指導していく道徳の時間というのは、なかなか充実していくのが難しいのだろうというふうに思っている。したがって、例えば教員養成段階での充実であるとか、今、免許状改正で10年ごとにそういうような研修もあるので、例えばそういうところで必修にしていくようなことも一つの提言になるのかと思った。
 それからもう一つ、先ほどの手を合わせる祈りのことから出発されしているが、あれが書いてない、これが書いてないという視点なのだが、最初にこの懇談会の提言で、一番「はじめに」のところの丸の3つ目あたりに「人間を超えたものへの畏敬の念云々」と書いていて、「宗教的情操を大切にし」と書いてあって、真ん中ではそれは全然触れないで、一番の最後の「おわりに」の一番最初に宗教と子どもの徳育の在り方についてということでは「様々な意見がある」で終わっているが、こういう感じでどうなのかなと私は思っている。情操というものと宗教そのものは違うと思うし、そういうものもどこかに触れていきながら、要するに自分の傲慢さと言うと変だが、だれも見ていないからいいのだという発想であるとか、悪いことをしたり何かしたら、少なくとも自分自身は知っているのだとか、何かいいことをやるのでも何かの評価を期待してやるわけではないから、その辺のところが道徳教育なのだろうと思うので、私はそういうものもどこかで触れていく必要があるのかと思う。

【森委員】 全体の構成のことで、頭が重いと言ったが、3日徹夜しなくてもできないかと考えてみた。引用とか、事例というのは、モーゼとか仁、義でいろいろあるが、こういうのは外国の事例と。最後の注2は付録に回すとかすれば、少し頭が軽くなるのではないかということが1つ。
  それからもう一つ、ほかの報告書では最初に黒枠の中で5~6行でまとめて、読めば大体わかるようになっているが、今回はそれがない。だから、そういう方式をとれば、あまり我慢しなくても読みやすくなるのではないか。 

【森田委員】 1点は報告書の内容にかかわるお願いだが、3ページ、4ページ、細かいところになるが、まず教育基本法の第一条で、「人間の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」という文言がまずある。これは大きな日本の教育の目的だが、これを体現した形でおそらく「徳育を通じて身につける資質・能力」というのを受けて、4点掲げられていると思う。これはいずれも大事なことだが、とりわけ主として「他の人とのかかわりに関すること」、あるいは主として「集団や社会とのかかわりに関すること」というのが同じように1つのところでまとめられている。両者の関係を考えると、なかなか分けるところが難しい。今、4ページのちょうど丸ポツの2つ目である。
 この中で、その観点から、「社会性・人間関係能力の形成、規範意識」というぐあいになっている。もう一つこの中で、社会や集団の場での責任の観念というか、責任の倫理観というか、こういうものが必要ではなかろうか。それでないと、架け橋をかける一つの架け橋が薄くなってくる。どうしても個人レベルに収れんしていってしまう気がするので、この点は工夫していただければと思う。
 公共心、公徳心というのは、先ほど鷲田先生は法、あるいは規範のルールという限定をされたが、むしろ公共心、公徳心というのはそういう社会の中での果たすべき義務、責任という倫理観の問題、これが一つはかかわって形成されていくものだろうと思うので、その点、一つ工夫を。単にこれは社会的責任感という言葉を一言入れていただくだけでも十分だろうと思うが、工夫していただけたら。

【鳥居座長】 今の森田先生のご意見、4ページのこの記述は学習指導要領をそのまま引っ張ってきて書いているのか。

【高橋教育課程課長】 上のポツは主として自分自身に関すること、主として他の人とのかかわりに関すること等は指導要領をそのまま入れているが、その下のものは書き足しているので、必ずしも指導要領そのままではない。

【鳥居座長】 では、それは可能である。

【森田委員】 もう一点、提案。子どもの心を大切にとか、沿ってとかいうことが出ていて、山折先生は非常に適切に縦軸、横軸というのは水平軸とおっしゃった。我々は人類として長年蓄えてきた知恵、知識、あるいはいろんなものがあるが、それを教えていく。つまり縦の社会化というぐあいに思う。それを横の水平軸で時代に合わせて、どういうぐあいにそれを工夫し、おろしていくかという点、その結節点のところに人間とか、子どもというものがあるのだろう。
 私たちはこういう立場に立つと、人間、子どもというものに対してどうしても上から見る制度がある。しかし、我々の社会の中の人間の生きざま、あるいは生活というものを考えてみると、もう少し子どもが持っている力、あるいは人間が持っている力、こういうものを信じたいと私は思う。その結節点にあるそれを信じることによって、先ほど大野先生がおっしゃったが、これは規範でも、あるいは道徳でもみんなそうだが、縦の社会化と横の社会化というので、この縦の社会化というのは上から下へのある意味ではいろんな力関係、パワー関係によって教えていく。こういう教育の「教」のほうにあたる。引き出し、そして育てるというところは横の社会化によっても可能になってくる。つまり、お互いに学び合い、あるいは縦から来た規範、ルールを修正したり、あるいは改変したり、新たなルールを自分たちの中でつくり出していく。あるいは道徳にしても、観念にしてもそうです。それを時代と、それから上から教えるものとの結節点の中でつくり出していく、この力というのを我々は信じたい。
 そうすると、あまり具体的にいろいろな項目を書き込んで、方法はどうだ、あるいはこの提言に基づいてどういう工夫が要るということではなくて、ある程度のレベルでとどめておきながら、国民、子どもたち、あるいは教育現場でそれぞれについてのやり方、道徳というのは多様な意見がある。一つのものをめぐって、一つに平板に決めてしまうというわけにいかないので、それを多様に展開していっていただく。そのある程度の我々の最大公約数的なスタンダードをいろんな形で示す。
 だから、17ページにしても、それは確かに羅列ではある。しかし、あまりきれいに整理してあったり、あるいはそれを具体化していくということは、さて、どうかなと。しかし、あまり羅列過ぎるとこれまた問題があるので、鳥居座長がおっしゃったように、多少はまとめることも要るかと思うが、ほぼ今まで私たちから出てきた議論を踏まえると、そろそろこのあたりで出尽くしているというか、出ている論点はかなり盛り込んでいただいていると思う。ただ、1点今日の議論でも欠けているのは、子どもたちの力、あるいは人間が持っている力そのものをもう少し信じたい。あまり上から何でもかんでも押しつけて全部決めて、あなた方はそういう存在なのだという決めつけは非常に傲慢なやり方のように思うので、このあたりで一つは論点が尽くされていると思っている。レベルもこのレベルでとどめておいてよかろうかと思っている。

【鳥居座長】 1年間かけていろんな議論を出し合って、そして今日も随分お互いの理解が深まったと思う。特に今、最後におっしゃったこと、これは天野委員からも、渡辺委員からも、柳田委員からも出た点だが、人間、特に小さい子どもたちの中に内在する、持って生まれた力というものをどう引き出すかということが徳育というか、そういうものの原点であるということを重視しないといけないという議論が随分と改めて出されたと思う。
 同時に、先ほど山折先生がおっしゃってくださった垂直の軸、縦の軸というものも我々は無視してはいけない、大事にしなければいけない。その両方ではないかというふうに思う。その両者がこの中に書き込まれているかというと、そこは少し書き足さなければならないと思う。その辺の修正を十分に、今日いろいろとメモをとってくださっていると思うので、そのメモに基づいて今日の皆様のご意見を修正の中に入れさせていただき、そしてそれを場合によってはお一人一人の委員の方々に事前にお見せして、もう一度ご意見を伺った上で、最終的な取りまとめを私がやらせていただくということで、この審議の概要の審議というのを終わりにして、パブリックコメント、要するに一般の国民のいろいろな関係者からのご意見を伺うという段階に入ることにしたいと思うが、いかがか。よろしければそのようにさせていただきたいと思う。

【玉井文部科学審議官】 お任せする。

【鳥居座長】 ありがとうございます。それでは、そのようにさせていただく。今後のスケジュールは、審議の概要を公開して公の意見を伺った上で、改めてこの懇談会にお諮りし、さらに議論を深めていって、最終報告書に向けて審議を続けたいと思う。大変ありがとうございました。それでは、最後になるが、玉井文部科学審議官からごあいさつをいただきます。どうぞごあいさつをお願いいたします。

【玉井文部科学審議官】 昨年の夏、暑い日でございましたが、今日も暑うございますけれども、大変熱い議論を続けさせていただきました。ほんとうにありがとうございました。心から御礼を申し上げたい。
 この問題というのは非常に難しいとそもそも思いながら、きちんとした議論をそれぞれの多様な立場の方々からしていただかなければならない時代に入っている。そして、それをまた一人一人の大人、あるいは子どもを取り巻くいろんな関係者が問題意識を持って、自分たちはどうしていけばいいのか、そういう議論をすべき時代に入っているのではないか。そういう問題意識から、この懇談会を設けさせていただいたわけでございます。特に鳥居座長には大変難しい、一人一人ご意見の違う中でのお取りまとめを進めていただきましたこと、大変申しわけなく思います。どうも積極的にやっていただきましたことを心から感謝申し上げたいと思います。また、各委員の皆さん方にも引き続き団体等からのご意見を聞きながら、最後のまとめに持っていきたいと思っておりますので、さらにまたそれぞれの立場からのご意見、そしてまた子どもたちのためにどうしたらいいか、あるいはこの社会をどうしたらいいかということをさらにまたご議論いただけると大変ありがたいと思っております。これまでのお礼と今後の助言を改めてお願い申し上げさせていただきまして、これまでのごあいさつとさせていただきます。ほんとうにありがとうございました。

【鳥居座長】 今、玉井文部科学審議官からお話がありましたとおりで、今後ともどうぞご協力のほどお願いを申し上げます。では、今日はこれにて終わりにさせていただきます。ありがとうございました。

 

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