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子どもの徳育に関する懇談会(第5回) 議事要旨

子どもの徳育に関する懇談会(第5回)が、以下のとおり開催されました。

1.日時

平成21年1月13日(火曜日)14時~16時

2.場所

合同庁舎7号館西館12階 共用第2特別会議室

3.議題

  1. 諸外国の徳育について
  2. 社会構造の変化と徳育の課題について

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授)
天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆 委員(江東区深川第一中学校長)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
馬場喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
山折 哲雄 委員(国際日本文化研究センター名誉教授)
山田 昌弘 委員(中央大学文学部教授)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

(ヒアリング講師)
  石堂 常世 早稲田大学教育・総合科学学術院教授
  新井 浅浩 城西大学大学院経営学研究科教授

文部科学省

銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、森本官房政策課長、
上月生涯学習推進課長、森社会教育課長、高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、
磯谷児童生徒課長、鬼澤企画・体育課長、池田青少年課長、岸田生徒指導室長、
大谷幼保連携推進室長、塩原児童生徒課課長補佐 

(国立教育政策研究所)  
大槻国立教育政策研究所次長、中岡教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

5.議事要旨

(1)開 会

(2)議 事

1.ヒアリング ※ 石堂常世教授より「フランスの学校の徳育について―日仏比較の観点から―」発表があった。
  本日の発表は、第1部、第2部、第3部と話を分け、第一部ではまず歴史を、次に第二部で現況を、第三部では日仏比較から見たフランスの徳育の特質ということでまとめてみた。

第1部:フランスの公民教育の変遷と現況
 第1部の歴史について語るに当たり、まずは使用されている単語が時代によって変化するということを言っておく。日本語では一般的に公民教育と訳されているが、歴史的にはeducation civiqueとinstruction civiqueが入れ替わり立ち替わり使われている。そこにmoraleという形容詞をつけるかつけないかに、その当時の国民教育相あるいは大統領の教育に関する見解が表れる。 第三共和制は、今日のフランスの社会構造をつくりあげた政治体系であるが、1880年代にようやく政治が安定し、国民の教育という問題から教会の権力を排除したとことが、今日の公民教育に至る始まりになっている。教会を排除した後の世俗的な教育についてどこに依拠するのかが問題となり、哲学的・政治的に検討されたのが19世紀の終わり頃である。その頃は日本の明治時代と同じく国民教育イコール小学校という考え方なので、小学校で世俗的道徳教育というものをどう教えるのかということになり、フランス共和国の市民育成という理念で展開された。これらについてはJules Ferryの国民教育論、F.Buissonを経てE.Durkhemがソルボンヌで講義した『道徳教育論』などによって世俗的道徳教育論の骨格がまとまっていった。それは、1789年の人間と市民の権利に関する宣言、俗に言う「人権宣言」をまず最初に教え、フランス共和国理念を中心にした人民解放の歴史の意味、祖国愛教育、家族・社会生活・国家(共和国)への義務と責任というものを教える修身型の教育内容で始まった。1923年から’41年というVichy政権下を経て、’69年からいわゆる新教育というものが一部で迎え入れられるようになり、新教育系では、eveil原理という、子どもが内発的に覚醒するという言い方を使った。この原理にのっとった道徳・公民教育になった時、今までとは違った経験学習の導入、戦後フランスの解放史、植民地解放、旧植民地の国々との連携や国連やユネスコなど国際組織の意義を教え、広く政治組織・行政組織・司法組織の知識を与えるようになっていった。ここでいわゆるフランス共和国の市民育成という戦前型の理念が後退し、教育実践上あまり時間配分されなくなった。 第2期は、1985年から今日までである。戦後、公民性を育成することに拒否反応があったのだが、Chevenement国民教育相の誕生によって復活した。彼はMitterrand大統領と共に公民教育を再興するということを公約し、フランス共和国精神の伝統の強化、公民教育によるフランスの新生を図るということを打ち出した。その数年後に迎えるフランス革命200周年記念を活用し、フランスの精神を鼓舞したのである。さらに、戦後の自由主義的・個人主義的な生き方、これからの反省を促し、国民的結束を呼びかけ、集合精神の強化などを唱えた。Chevenement改革以降の教科書では、児童生徒の国民的アイデンティティーを高めるため、国旗・国家を積極的に教えるようになった。 2002年のLang国民教育相のときにやり方がだんだんと変わり、教科横断的領域設定という形をとり、特定時間を排除した。これは全教科、学校生活全体の中で市民性を育成するのがよいという考え方で、EUの時代における「共に生きる」というvivre ensembleの市民育成、コレージュではeducation civiqueよりも「市民性に向かう教育」l’education a la citoyenneteという表現になった。このときの重点基軸が同意と権利への教育、判断力の育成、責任性をめざす教育である。教科横断の全面主義的になったことで、結局は公民に力が入らなくなったのである。

第2部:現行の公民教育  
 次に第2部の「現行」であるが、Sarcozy大統領のもとでDarcos国民教育相が誕生し、公民教育の時間設定が復活した。初等教育ではinstruction civique et morale、前期中等教育ではeducation civiqueという名称のもと、積極的に市民性育成が強化された。最近、コレージュの教育課程がインターネットに出たが、歴史・地理・公民とがセットになり、高等学校のリセでやっていた形をとるようになったところに注目して欲しい。コレージュでは自由・権利・正義をテーマとして掲げ、例えばそれを2部構成で教える。そのうちの1部はフランスにおける自由の執行であるが、テーマとして細かく分かれ、個人的自由と集合的自由の違いという形で教える。自由の行使と社会的要請、他者の自由の尊重とで構成し、指導過程での留意事項と関連資料として国内・国際の法典・法令・既定を列挙しているが、これらを全て使うようにとか、時間配当など、詳しい学習指導要領が出された。例えば、小学校では1、2年生では公民の時間を配当せず、世界の発見とか国語などを通じて育成するという形になった。3~5年では、歴史・地理、公民と合わせた道徳教育をinstruction civique et moraleという表現で78時間使うということになり、ユマニスト(古典的)教養、芸術(造形・音楽等)の実践、歴史というものを学ばせていくということで、芸術教育が強調された。

第3部:フランスの徳育(公民教育)の特色:日本の道徳教育との比較  
 第3部の日仏比較に入らせていただくと、フランスと日本の類似点として、学校教育が特定の宗教に依拠しておらず、宗教から独立した世俗的道徳教育を貫いているところがあげられる。次に、戦前の国会主義あるいはナショナリズムを反省し、道徳教育に該当する特定の教科、領域を置かなかった時代があるということも共通している。さらに、両国とも道徳教育を推進しようとすると、それほど強力なものではないものの、反対意見が出るというところも共通している。そして、戦後のある時期から道徳教育に相応するような教科、領域を初等教育と前期中等教育のカリキュラムに配置したということも共通している。最後に、両国とも道徳教育を専門とする教師を養成していない。したがって、道徳教育単独の教員免許資格はなく、CAPESやAgregation資格取得では、法規・歴史・地理で一体化してこの系統を学ぶこととされている。なお、日本では学級担任であるが、フランスの公民の担当者は、学級担任、歴史・地理の先生、これらの人が出来ない場合にはフランス語、国語の先生が担当していた。 次に相違点であるが、フランスは公民教育の目的として、彼らの言うところの民主主義である共和国の構成員の育成を基本的目的としており、社会科学的な認識と自覚を基盤に据えた知育とディスカッションである。これに対し日本の徳育は、望ましいとされる人間的徳性を配列した信条道徳の感受と言うことになる。戦後の一時期、社会科を中心とした道徳教育が行われたが、成功しなかった。フランスは共和主義の原則を掲げて近代市民社会を樹立した国であるので、第三共和制が議会で教会から学校の管轄権を奪還した1881年の段階で、思想・信条といったものを抱え込むeducationよりも、共和政体の成員(市民)としての認識と実践力をはぐくむ公民教育を知育の次元で行う、知識を重視して教えることから入っていくという道徳教育形式を編み出した。フランス革命期のCondorcetが公教育論で展開した、知育に限定した国家による教育とも通じるところである。戦後に公民教育の呼称についてeducationを採択する場合は、公民性よりも自律的な市民、批判的精神を持った市民というものを強調したいという考え方や、新教育理念流の考え方である。 次に、フランス独自のこととして、市民育成の教育には哲学がある。古くは古代ギリシャ・ローマのシテ(cite(都市国家))の構成員の市民概念を重視しており、次いで18世紀のMontesquieuの『法の精神』にあらわれた、君主制国家や専制政治国家とは区別された共和国国家での教育ということになる。すなわち、政治的徳を教えることだとMontesquieuが言ったことを継承しているのである。Chevenementも公共の利益を優先させ、法律への愛、そして祖国への愛をはぐくむ教育となっていることに言及している。そして、J.Ferryの望んだ非宗教的教養が土台になっており、これは、先ほども言ったようにE.Durkhemがソルボンヌで講義した『道徳教育論』である程度理論的に完成している。 続いて、フランスの学校教育、特に徳育である公民と宗教とのが分離は非常に強固で、この分離の原則をライシテ(laicite )と呼んでいる。日本の場合、政教分離については法令的には早くから整備されていたものの、戦前は実態的にはざる法で、戦後、旧教育基本法ができてから宗教的情操性の教育をしたいということで特別委員会が設置された。ここに日本的特色があり、昭和44年以降の道徳教育の内容項目には、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」という形で盛り込まれている。フランスではライシテとの関係で、公立学校でのこうした教育は許容されないが、異文化・異宗教理解の推進と、青少年の教養の劣化への対応という今日の文化の中で、2002年からのR.Debrayの提唱もあり、全国シンポジウムを開催した結果、歴史やその他の芸術、国語などを通じて宗教の事実については教えるべしとなった。この事実というものと宗教的情操との区別は難しいところだが、彼らは頑固に事実というものにこだわるのである。同時に、いわゆる教養が劣化したということで、人文主義的情操を深化させるため、造形、美術教育を強化し、人間精神の奥深さの出会いや鑑賞を振興することになった。 次に、フランスの公民教育は原則として教科であり、地理・歴史と一緒に教えられてきた。教科書も指導書も副読本も児童生徒用の学習ノートもあり、1985年のChevenementの改革以降、カラー化・大判化され、内容がしっかりとしてきた。1985年の表紙のデザインに注目すると、学習指導要領改訂を受けた当初の表紙は共和国のシンボルが満載であったが、1990年代に入るとこうした傾向がやや後退し、「共に生きる」ことを象徴するデザインが好まれるようになった。日本の道徳の副読本や「心のノート」の表紙を見てみると、デザインではなく内容構成の差の問題として、甘さが漂う絵柄で、社会性の欠落という印象を受ける。

最後にまとめとして、学校における道徳の原理と指導方法というのは、その国の歴史発展と連動しているため、フランスの場合は19世紀末から宗教の影響から解放された政治的徳性・教養の育成を行ってきており、それがフランス革命に端を発する共和主義の国家哲学を軸としている。そして、Montesquieuの言う政治的徳性を育成するということを常に出しており、社会の諸原則・諸制度・あり方、人間の歴史と現状について考えさせ、深めさせ、自覚、自己表現、発表、討議を通して、社会で主体的に行動できる責任ある人間に至らしめるということになっている。小学校高学年から学校の歴史と原理、学校組織の体制をしっかりと教えている点は日本とは違う。また、人種偏見、差別撤廃との戦いについて強調して教えており、これらを実証的に盛り込んでいる点、正義の概念や人権の概念とを一緒に教えている点も注目される。フランスは子どもを大人にする教育を行うわけである。生まれた子どもの成長を図ること以上に、啓発された(eclaire)市民を育成することが公民教育の原則であるということになる。

 ※  新井浅浩教授より「諸外国における徳育について―イギリスを中心に―」発表があった。
1  イギリスの学校における価値教育の展開と社会的背景   
 イギリスはキリスト教国であるので、もともとは宗教教育によって価値教育を進めていた。当時から必修とされていたが、1960年代頃から社会が徐々に世俗化し、宗教に依らない道徳教育が徐々に展開されてきた。今日でも多少そういったところがあるが、教育を変えていくに当たり、まずは学校レベルで様々な取組がなされ、それが徐々に全国化され、最後に中央が追認するという動きであった。80年代頃から人格と社会性の発達のための教育と総称されるようになったPSEもしくはPSHEという形で、宗教教育と二本立てで展開されるようになった。90年代からも様々な動きがあり、21世紀に入ってからはシティズンシップとの3つで展開されていると理解して頂きたい。  宗教教育は現在も必修であり、シティズンシップは中学校のみが必修で、初等学校ではPSHEと連携することとされている。PSHEは必修ではないものの、必修に準ずるとされている。
a シティズンシップ教育  
 シティズンシップという言葉は、もともとは国籍や市民権という言葉があったが、そこに参加的な市民という意味が加わって、ブレア政権下の「市民性教育に関する委員会(クリック委員会)」により定義されたものである。その教育内容としては、社会的・道徳的責任、コミュニティへの関与、政治的リテラシーの3つで構成され、後にアイデンティティと多様性が加わった。シティズンシップが必修化されるまでの政治経済的・社会的状況については、90年代以降様々な動きがあり、福祉国家から自由主義的国家へと、個人と政府との関係が急速に変化していった。伝統的な公民的結束が凋落し、イギリスがヨーロッパにおいて新たに政治的に位置づけられ、グローバルな文脈での急速な社会経済的・テクノロジー的変化が起こった。若者の政治への無関心など、民主主義の赤字とも言われたが、これらは90年代以降の先進国に共通した現象であった。シティズンシップ教育が必修化されてから各学校が様々な取組を行ったが、それを別の形で捉え直してみるといった見方が出てきた。それは、3つのCとしてのシティズンシップである。1つはカリキュラム(Curriculum)におけるシティズンシップ学習であり、もう1つは学校文化(Culture)における機会と経験というものを通してシティズンシップを教えていくというもの、3つ目は校外のコミュニティ(Community)と連携して教えていくというものであり、この3つでシティズンシップ教育の有り様が説明できると言われていた。必修化されたのは2002年だが、必修化の決定後、新たな動きが起こった。1つはグローバルな文脈として、EUが更に拡大したということ、アメリカの同時多発テロ、イギリス国内で言えば、人種差別の問題が新たに指摘されたことや、2005年7月7日のロンドンでのテロ事件がある。それから、国籍移民難民法によって、国籍を取る場合にシティズンシップテストというものを課すようになった。さらにはスコットランド、ウェールズあたりの権限委譲の問題や、人権法が制定されるなどの動きがあり、必修化以降のさらに新たな動きとして、まず1つは能動的シティズンシップというものを強調するようになった。これは、各省庁が政策によってコミュニティにおける参加と貢献を一層強調するようになったということである。  
 次に、もともとは3つの要素でスタートした後にアイデンティティと多様性が加えられたのだが、これは、イギリスにおいて生活していることの歴史的文脈の理解と帰属感を醸成するということを狙ったものである。改訂されたナショナルカリキュラムにおいては、アイデンティティと多様性の要素が取り入れられた。イギリスは、イングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズで構成された多重国家であることの文脈的理解、移民のことやイギリス連邦と大英帝国の遺産、EU、公民権拡大といったあたりのことを学習領域として更に加えることになった。イギリス人、イギリス国民をブリティッシュネスと表現しているが、そういったアイデンティティを持つ人間がどれくらいいるのかというと、実はそれほどはおらず、ブリティッシュネスの理解を進めていくということが新たに入ってきたということである。イギリス型のシティズンシップ教育の特徴は、能動的市民性あるいはコミュニティを重視しているところにある。また、公民的共和主義の色彩が非常に強いということも言われており、対話的な民主主義を重視した取組である。学習の形態としては、活動型の学習を重視した取組になっており、教室の内外を問わず活動を重視している。カリキュラムとして取り入れるだけではなく、学校自体の民主化、地域との連携を重視した総合的な取組であり、市民性教育を学校教育の中心に据えている。また、PSHEとの連携が絶えず行われており、実践的蓄積と絶え間ない変化、ナショナルアイデンティティを軽視しないというのが、イギリス型のシティズンシップ教育の特徴である。
b 宗教教育  
 続いて宗教教育について、イギリスにおけるキリスト教徒は約71.6%、無宗教が23.2%、残りがその他の宗教で、その中で一番多いのはイスラム教で2.7%である。宗教に対する態度はここ40年ぐらいで大きく変わってきており、宗教活動に定期的に参加している人の割合は、1964年では全体の四分の三ぐらいだったのが、2005年には30%ぐらいに減っている。その一方で、どの宗教にも属していない人が、1964年ではかなり少なかったのが、2005年には30%ぐらいに増えている。イギリスの宗教教育の特徴について、キリスト教が中心になるものの、それ以外の諸宗教について知識的に学ぶという要素と、宗教から学ぶという視点を掲げている。これに付随し、例えば人生の意味を考える実践やスピリチュアリティというものを重視している。スピリチュアリティとは、人間の根源的な存在の意味を探求する心、あるいは他者との関係の中で、様々な経験を通して自己のアイデンティティを追求する心である。宗教から学ぶ実践については、宗教や信仰は神、真実、世界、人生、死後、人間の権利や責任、健康、富、動物の権利、環境といったことについてどのように説明しているのかということを学習する実践である。
c PSHE  
 3番目のPSHEについては、もともとはPSEと呼ばれていて、コミュニケーション・スキルの育成などを重視し、自分を知り、自己を守り、成長させていくスキルの育成、集団や社会の中で生きていくためのスキルの育成といったことに取り組んでいる実践である。現在は初等中等教育ともに全面主義的なアプローチを掲げているが、同時に特設時間を設け、キャリア教育やシティズンシップなどはかつてこの中で展開されていた。また、薬物教育や経済理解、インクルージョンや多様性の問題、持続可能な発展のための教育、健康教育、宗教教育、性教育、仕事に関連する教育など多様なトピックを扱っており、これらは知識・理解よりも活動法による体験を重視した取組である。その一例としては、初等学校でよく行われているサークル・タイムというものがある。

2 「共通の価値」の議論  
 イギリスの価値教育は3つで展開されていると言ったが、押谷委員が代表をされている「心を育てる研究会」の昨年夏の大会で発表させていただいた際に、3つの円が重なったところには何が来るのかという質問があった。そのときは不覚にもあまりきっちりとした答えができなかったが、実はイギリスが考えている共通の価値というものについて、10年ぐらい前にイギリス国内で大分議論がなされている。  
 そこでは、まず問題意識として、価値相対主義が蔓延し、共通の道徳的言語が失われてしまっているのではないかということからスタートし、それが英国に蔓延してしまった理由として、文化相対主義あるいは宗教的信仰が衰退してしまったこと、ポスト・モダニズムの支配、ポップ・カルチャーの消費主義といったことがあげられている。現代社会の問題は、社会的あるいは地域的な流動性、伝統的家族の崩壊、両性の関係、雇用のパターンが変化したり、あるいは地球規模での経済の拡大、コミュニケーションの革命、知識の革命というものが起こっているということ。
 このような中で学校が推進し、社会からの支援を期待できるような価値についての全国的な同意が必要だということで、「教育と地域社会における価値のための全国フォーラム」が1996年から97年にかけて展開された。教師や親、学校理事、宗教団体、雇用者、メディアなど150団体によって構成され、議論が進められた。結局、その価値を持つ根拠や実際の行動への移し方は様々であるとしながらも、地域社会の中で分かち合う主要な価値は存在すると結論づけられ、共通の価値というものをまとめた。政権交代を経ながらも全国的なコンサルテーションが行われ、自己、関係、社会、環境という4つの柱で価値の声明というものが示された。  
 この「共通の価値」のその後であるが、薄められた「政治的に正しい」価値になってしまったという批判もあるものの、現在も全国共通カリキュラムの教師用ハンドブックに入れられている。そこでは、「共通の価値」を、教え込むための最終物と捉えるのではなく、考察のための出発点として捉えることが重要だとされている。

3 子どもへの総合的サポートと学校・家庭・地域社会の連携 
 イギリスは今、子どもに対して総合的な取り組みを行っており、1989年に子ども法が出来て以来の様々な動きが徐々にまとまり、2007年の6月に子ども・学校・家庭省になった。子どもの計画が出されたりすることによって、学校の内外で子ども一人ひとりへのサポートをしっかりとしていこうということになった。このことは価値教育を進めていく上で重要だと思っていて、自分や他者を大切にするということを価値教育、徳育として教えていくに当たり、子ども自身が学校や先生、社会から大切にされているという実感があって初めて徳育は有効性を持つ。そういう意味で、イギリスのこの動きは、価値教育とともに見ていく必要があると考えている。

<質疑応答>
《鳥居座長》  
 フランスのジョスパン法では非常に細かいことが書かれているが、本日の話の内容はどれ位書かれているのか。法律で必ずやるようにと決められている徳育のようなものがあるのか。
《石堂教授》  
 道徳教育に関しては、いわゆる政策論であり、国民教育相が出したカリキュラム案の方が直接的なもので、ジョスパン法そのものが公民教育に直結しているという流れは、わりに意識する必要はないという考え方である。
《鳥居座長》  
 ジョスパン法の始めの方の何条かに、山の中に住んでいる子どもには必ず幼児教育をやるようにとかいったことが書かれている。そこまで細かく決めているのであれば、3歳児くらいに必ず授けなければならない徳育のようなものも想定されていて、山の中に暮らしていて、普通であればできないのを、あえて法律で、必ず教えなさいとやっているのかと思ったが。
《石堂教授》  
 2002年のLang国民教育相のところから、幼稚園の最終学年から公民に当たる教育をすると言うことが言い出されたが、それ以前はなく、また、現行でも、幼稚園でも最終学年より下の学年については、公民教育のようなことは一切言っていない。  むしろフランスの幼児教育(保育園・幼稚園)は非常におおらかで、教え込みは一切やらず、楽しく、明るくやっている。
《鳥居座長》  
 新井先生のお話について、サッチャー政権時代と宗教教育の問題、さらにブリティッシュネスとはどのように関係しているのか。《新井教授》  サッチャー政権時代にナショナルカリキュラムが入ったわけだが、市民性教育に関しては当初から意識されていた。内容的に多少の違いはあるが、能動的な市民についてはかなり言われている。この市民性教育が労働党政権下で必修化されるに当たり、クリック委員会が結成され、その中に保守党時代にサッチャー政権のもとで教育大臣をした人物が委員として入っていた。彼はナショナルカリキュラムを作った方で、そこから市民性教育については両党が望んでいたことだということがわかる。

2.社会構造の変化と徳育の課題について
 ○ テーマ別協議(子どもとメディアについて/子どもと体験について)
 ※ 事務局から、資料3、資料4、資料5について説明があった。
《馬場委員》  
 最近は、仮想体験ではあっても、親子や友達が揃って出来るゲームが出てきている。これは最近の新しい傾向として重要ではないか。
《天野委員》
 ゲームにも功罪があり、功は、禁止事項だらけの日常に生きている子どもが発散する場所としての世界がゲームにあるということ。罪は、やはりそれがバーチャルに過ぎず、本質的なガス抜きにはならず、本質的なコミュニケーションスキルを磨くために役立ってはいないということである。
《小泉委員》
 例えば、テレビ番組の中の暴力に関する言葉を拾っていくと、そうした言葉が全体に占める割合は非常に大きいことがわかる。勧善懲悪のようなケースにおいても、最後には力で解決するというパターンが非常に多い。民主主義のプロセスは長い話し合いが必要で、決して格好のよいものではないが、実はそこが重要なはずである。しかし、テレビで流れているのは、力を使うことによって問題が一挙に解決するような話ばかりであり、子どもたちが小さい頃からそういった番組ばかりを見て、そのような思考パターンを取り入れていくということに大きな問題がある。こうした視点もメディアの影響として考えなければならない。
《加倉井委員》
 昔は文化祭などで演劇をやると、真面目にシナリオどおり進んでいたが、最近の子どもはメディアの影響もあるのか、即興的に面白いことをやるのが得意である。ユーモアのセンスなど、新しい感覚を持っており、節度さえ守れば、皆が関心を持って一緒に笑えるような面白いことをやってみせる。ただ一方で、14・15歳の子どもが妊娠するといった話は、10年余り前まではテレビの中での劇的な世界だったが、最近では、それが珍しくなくなってきて、しかも、中学生の子どもの妊娠を、親が「おめでとう」と言って大変喜んでいるという状況に出会う。メディアの中で進んでいる刺激的な世界を、子どもや親が自然に追っていってしまっているということなのだと思うが、その感覚には、我々との間のギャップも感じる。
《柳田委員》
 問題を整理する上で3点ほど補足しておきたいのだが、1点目は、技術の進歩は人間のライフスタイルと心まで変えるということ。2点目は、子どもと大人の両者にとって、メディアの持つ意味は違うということ。3点目は、子どものメディアの問題は親の問題でもあるということ。
 ネットの負の部分について話すと、ここまでネットの仕組みが出来ているのでやめられないと反論される。その問題と、子どもにどの時点から接触させるのかということは全く別次元の問題なので、そのあたりを整理して議論しないと受け入れられないだろう。子どもの安全のためにと言いながら労をつぎこまず、携帯を持たせることで自分を安心させるようなことこそが問題である。携帯を持っていても事件が起きている現実を見据えていかなければならない。
《天野委員》
 テレビゲームは、現代的な遊びとしては優れていて、子どもの生活をそのまま反映している。昔の子どもは時間を忘れて遊んだが、今の子どもは何時から何をしなければならないと決められている。そのような限られた時間の中で、すぐに遊び始めてすぐに遊び終えることができ、遊び終えた時点から続きが出来るということは、友達同士の遊びの中ではあり得ない。しかもそれらは全て点数化されていて馴染みやすい。常に評価を受けてきた子どもたちにとって、学校的な遊びであって、一緒に遊ばなくても一緒に遊べているような気になれる。ゲームよりも面白いリアルを感じられる社会にどのようにしていくかということが、本質的な問題であるはずである。
《押谷委員》
 メディアを活用した教育の良さというものも一方では推進していかなければならない。学校の先生だけではもうお手上げで、情報メディア活用にあたっては、業者との連携というものを真剣に考えていかなければならない。そういうところへの助成というものがあってもいい。
《山折委員》
 メディアへの何らかの規制はなければいけないだろうが、それには限界があるし、根本的な解決には繋がらない。この20年ほど、若い世代の凶悪な犯罪、逸脱行為が大きな社会問題となっているが、それに対するメディアの反応が一様で、深く考えられてきていない。ある凶悪な犯罪が発生した場合、まず第一に人間の心理的動機を明らかにせよという社会的な要請がまず出てくる。同時に、社会的な背景を明らかにしろという事態になり、はっきりとしない段階で精神医学的な診断となる。私はこれを三種還元といっており、社会的還元、心理学的な還元、精神医学的な還元によって人間の異常行動を理解しようとし、最後にはわからず終いになる。こういう近代的な考え方に基づく人間観の底に問題があって、そこを抜け出さないと徳育という問題に入っていけない。教育、スポーツ、軍隊、芸術といったあらゆるものが野生化する人間をどう陶冶するかというところから出発してきたが、人間は簡単には陶冶されない。これは子どもたちの問題ではなく大人の問題であり、社会的根源の問題である。だからこそ今、このような徳育をどう考えるかという問題が巻き起こっている。道徳教育を宗教教育との絡みで考えなければならない。
《柳田委員》
 技術文明が宿命的に人間を変えてしまうことの象徴的な例として、母親が授乳しながら片手で携帯を触っているということがある。こうして育てられた子どもは、愛着の不足から大変なことになると思うが、そういうことを考えたとき、子どもたちには感動するというような原体験、あるいは遊びのおもしろさの原体験がない。親も原体験的なものを与える力を持っておらず、教師も、例えば、自然の中でのキャンプ生活の指導を出来ないといった状況がある。技術の変化の中で子供の心の育ちをどうやるのかということについては、大人のあり方も含めて議論を深めていかないと、単なる理念論としての徳育で終わってしまう。
《渡辺委員》
 メディアや携帯の問題を考えると、私たち自身がメディアや携帯によって随分と幻想に晒されていると思う。例えばスクリーンの中で見たご馳走は、それがどんなに美しくて満足しても、実際に食べたものにはかなわない。それくらい携帯やメディアというものはバーチャルであると思う。日本も早晩、イギリスあるいはフランス以上に多民族の国になっていくということを考えると、例えばインド人ならインド人が馴染んでいるカレーの匂いや、日本人が馴染んでいる出汁の匂いなど、そういった感覚的に違う人間が共存するときにどうするのかという問題について、今から考えていかなければならない。結局、携帯といったようなものは、使いこなせば意味があるが、それに使われ、商業主義のターゲットにされているのであれば、必ず犠牲になる。臨床現場で、現実にゲーム脳になった子どもや、ゲームをすることによって夫婦の亀裂を埋めてきた家族たちと向き合う時、ゲーム療法は取り得ない。今、生きているということを、小さな積み重ねの中で純粋に思いを込めていくという営みがなければ、10代の子どもも発達しなければ、家族も治っていかない。
 大人の不安を解消するためにやっていることは、すべて子どもから嫌われることである。大人が自分の世間体、競争心、不安を解消するためにありとあらゆることをやっても、その奥に痛みを感じてでも子どものためにやるというものがない限り駄目だと思う。
 携帯は使いようだが、それほど心に影響を与えるものではなく、それはそれとして、日本の子どもたちに子どもらしい乳幼児期、思春期というものを、大人や教師、地域が責任を持ってやっていかなければ、大人のすり替えになると思う。
《小泉委員》
 発達期のメディアの問題について、米国の学会で、赤ちゃんにはテレビを見せないという活動を起こしたことがよく知られている。日本でも対応したが、実証ベースのデータがあまりに乏しい。実証基調できちんとしたことが言えない。やはり実証基調のデータをしっかりと集めることが必要で、特に時間に沿って観察を継続する縦断的な研究が重要になる。
 また、ゲームは工学的に最先端の技術が集まっているものだが、そのような技術を使って人間に快感を与えるということについてもう一度考える必要がある。ゲームでは側坐核のようなドーパミン系のニューロンが刺激されるので、極端に言えば麻薬等の働きや賭け事などとも、メカニズムとしては共通性がでてくる。習慣性の問題など、考えるべき点は多い。
《河合委員》
 発達段階によってあらわれる行動はそれぞれ違うが、その根底にあるものについての議論を忘れてはならない。ゲームにも相互作用があるということだが、我々のルールの基本的な根底には他者がいる。今の日本を考えると、一番基本となる人間性というものが欠けている。
 自らを律するということが一番の根底であるが、自らを律するものは人との関係性であって、その根源には、母親が自分を持ち上げるのは投げ捨てるための動作ではなく、抱き止めてくれるための動作であるという基本的な信頼の部分がある。その部分が、我が国においては崩れているのかもしれない。自己と他者との関係を形成する原体験が、各発達段階において本当に達成できているのかどうかという観点からの議論を、どこかでしてもらいたい。
《山田委員》
 今の時代と昔の時代に大きな隔たり、変化があるのは確かだが、それがメディアによるものであるかどうかは疑問である。昔は、学校を出て、就職して、結婚して、一生同じ会社で働いてというように、アイデンティティの形成というものが比較的ルートに乗っていた時代があった。それが今崩れてしまって、就職しても失業するかもしれない、そもそも正社員として就業できないということで、自分のアイデンティティが確立出来なさそうな人が増えてきているということが、このグローバルかつ不安定な社会の根本的な問題にあるのではないか。そこに入り込んできたのがメディアやバーチャル空間だという印象を持っていて、メディアの中でしかアイデンティティを確立できない状況があるのではないか。メディアをなくしたから不安定なアイデンティティが復活するかといえばそういうわけではなく、現実社会で子どもが発達していく中で、自分が自分であることを確認する場や手段を作り出していくということが一番の手段だろう。
《森田委員》
 集団あるいは社会の中の自己としてのアイデンティティをどうとっていくかということが、人と人との関係が崩壊している日本社会の中で配慮しておかなければならないことである。
《渡辺委員》
 1989年にフランスの国会に招かれて働く女性と子どもの発達というシンポジウムに出た。それから20年たった今のフランスでは、出生率が伸び、働く女性にとっても子どもにとっても非常に住みやすい国になっている。加藤周一は、日本人の特性として「今、ここに」を重んじるということを指摘したが、それにプラスして、我々には、10年、20年後の幼い命に対しても全責任を持つという社会的意識が重要である。フランスの子育ての細やかさと、商業主義に食われ、しかも実態を大人が知ろうとしない日本を比べると恥ずかしく思う。

(3)その他
 ※ 次回会議の日程について、事務局から説明があった。  
  ~ 次回会議日程については、調整の上、後日連絡。

(4)閉 会

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