子どもの徳育に関する懇談会(第4回)が、以下のとおり開催されました。
平成20年11月26日(水曜日)9時30分~12時
合同庁舎7号館東館3階 2特別会議室
鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長) 安彦 忠彦 委員(早稲田大学教育学部教授) 天野 秀昭 委員(特定非営利法人日本冒険遊びづくり協会理事) 大野 裕 委員(慶應義塾大学保健管理センター教授) 押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授) 加倉井 隆 委員(江東区深川第一中学校長) 河合 優年 委員(武庫川女子大学教授) 小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括) 坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事) 馬場喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長) 森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長) 柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家) 山折 哲雄 委員(国際日本文化研究センター名誉教授) 山田 昌弘 委員(中央大学文学部教授) 渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師) (ヒアリング講師) 小笠原 道雄 広島文化短期大学長
銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、德久大臣官房審議官、 高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、磯谷児童生徒課長、鬼澤企画・体育課長、 池田青少年課長、岸田生徒指導室長、大谷幼保連携推進室長、塩原児童生徒課課長補佐
天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)
(1)開会
(2)議事
資料確認・説明
※ 事務局から、配付資料の確認があった。
※ 柳田委員から配付資料について説明があった。
<柳田委員より>
ITメディアや携帯ネット社会の中で何が起こっているのかということについて、ここ1年ぐらいの政策の中では有害アクセスへのフィルタリングが焦点になったわけだが、それはほんの一部であり、個別的な問題であって、基本的にはこういった機器が入ることによって子どもたちの生活や物の考え方、心の成長が大きな影響を受けるということだと思う。その中でも一番重要なことは、生身のコミュニケーションが希薄化してくるということ。我々が育った頃の何もなかった時代には、良かれ悪しかれ家族と一緒に居たわけだが、テレビが入ってきたことによって関心がテレビに向かい、お互いに向き合わなくなった。そこにゲームが登場し、同じテレビを家族みんなで見るところから子どもがさらに離れ、そこへ携帯ネットが登場したことによって、家族の乖離現象が起こった。これはなにも機器だけの問題ではなく、核家族化や親の価値観・ライフスタイルの変化が背景にあり、父親がテレビでスポーツ中継を見ていると、母親はパソコンをやっていて、子どもは携帯でメールをしているという、こういう家族の中の情景というのは、5年前・10年前には全くなかった。
このような中での家族関係における負の要素を差し当たり5項目ぐらい並べたが、1番目に、ひとりでパソコンや携帯、ゲームに熱中していると、他者への関心が全く無くなってくるということ。
2番目に、親も熱中して子どもに関心を向けなくなる。その象徴的なものは、授乳中の携帯という恐るべきアタッチメントの欠落。
3番目に、兄弟や友達、あるいは親と遊ぶ時間が極めて少なくなってきているということ。
4番目に、バーチャルと現実との境目がなくなってきて、非常に危うい心の風景になってきたということ。少年院の先生や事件を起こした子どもたちのカウンセリングや分析をしている方々によると、7~8歳ぐらいで発達が止まっている子が多いと聞く。この懇談会においては、年齢の発達に応じた徳育をどのような段階でやろうかということをまず基本認識しようとしているわけだが、現実には子どもの心の発達は極めてばらばらで、しかも7~8歳ぐらいの幼児性を持ったまま中学生や高校生になっている子どもがいる中で、基本形だけで徳育の問題を考えていると、そういった精神発達の遅れた子どもに対してどういう社会性を身につけさせていくのかという大事なところが見落とされるのではないか。バーチャルと現実との境界線の喪失という点では、物を壊したり暴力を振るったりするということは、子ども時代における愛される経験やアタッチメントの不足、さらには虐待やネグレクトなど様々な心理的抑圧があったことの反作用として起こるわけだが、それを加速させるのがゲームや映像メディアからの凄まじい情報であるという捉え方ができるのではないか。バーチャルと現実の区別がつかないので、日常生活においてそれをやってしまう。
5番目に、自己中心的になるということ。
全国さまざまな学校や教育研修所などを歩いているが、皆さん子どもたちの命の教育、はぐくむということに非常に悩んでおり、様々な試みがなされている。ノーテレビデー・ノーゲームデーをやる学校が表れていて、アンケート調査などを見ると、親子・夫婦の会話が戻り、家族みんなで読書をしたりトランプをしたり、早寝早起きがしっかりできて、清々しくきちんと朝御飯を食べて出ていくようになったとかいうことが報告されている。便利な機器や楽しい機器が入ると、子どもたちと家族の生活がいかに歪んでくるかということを証明しているようなものではないか。ただ、このノーテレビデーをやめて欲しいと言う父兄はゼロではなく、父親が暴力まで振るってテレビを消すのをやめさせたということで、二度とノーテレビデーなんかやって欲しくないというお母さんからの訴えもあったとか。絵本の読み聞かせについて、胎児の段階から始めた子は、生まれてすぐに喜びを表現し、ものすごく食いついてくるという。お母さんが胎児に読み聞かせているので、お母さんの声に対する親和性というものができているわけである。バーチャルな体験ばかりが多く、感動体験、現実体験がない。現場、現物、現人間という、生身でさまざまな経験をしていくことの重要性というのは、これからますます意識的にやらないと、欠落していくのではないか。
当面の問題点を整理すると、1番目に、情報倫理というものを、学問的にも教育カリキュラムの中でも確立する努力をしなければならないということ。どうすればこの情報倫理を定着できるのか。一部の大学で情報倫理というものをやってはいるが、子どもたちの教育、徳育に直結するような形で有効な方法論は生み出されていない。一番象徴的なのは裏サイトにおける集中いじめだが、匿名発信で日常的に快感を得る日々を過ごしていると、二重人格的性格に偏っていくことは明らかで、そのまま社会人になることの恐ろしさを感じる。
2番目に、地域ボランティア活動を徳育から、特に子どもたちの日常生活、ライフスタイル、社会性において新しく切り開く必要があるのではないかということ。例えば、ホスピスボランティアは今や終末医療では不可欠になっており、災害地におけるボランティア活動はコミュニティの復活や孤独死の防止など、様々な形でなくてはならない新しい世界を開いてきたが、子どもというものが今の核家族化と地域の孤立化の中でどのように入り込めるのか。それがなければ地域の再生は出来ないのではないか。学校だけでは子どもに対応し切れない。家庭もだめで、それを繋いでいく役割というのがあるのではないかということを、ボランティアの新しい姿として考えている。
3番目の親教育こそ大事だろうと思っていて、例えば早寝早起き朝御飯やノーテレビデーをやると、数%ぐらい協力しない保護者・家庭がある。そのこと自体がまず問題で、そういう親をどうすればいいのかということこそが非常に重要。徳育の取り組みをカリキュラム的に出すとき、乗ってくる親は問題ない。福島県のある小学校で本を読んだり語り合いをしたりしたのだが、落ち着きのない子、多動症的な子が目に入ったとき、その子の目を見て、絵本の絵をうまく見せるようにして語りかけると、1時間ついてくる。終わってから珍しいと言われたりもするが、先生たちがそういった向き合い方をしていないのかなと思うのと同時に、その子の背景に何があるのだろうかと必ず思う。そうすると、例えば父親の暴力を日常的に受けていて、それゆえに母親がうつ病になっており、他の2人のきょうだいは素直にお母さんの言うことを聞くが、その子は多動症的で母親の言うことを聞かないので、例えばスーパーに買い物に行くと、2人を車に乗せて連れて帰るが、その子は置いてけぼりにするそうである。そういう子どもが大きくなることによって問題が起こるわけで、そのような子どもにどう対応すればいいのかということを、地域、学校、保護者の全体で取り組んでいかなければならない。親教育の問題というテーマを1つ取り上げて、徳育の問題に対応していく必要がある。
1.各発達段階における子どもの成長をめぐる課題等について
※事務局から配付資料2について説明があった。
<質疑応答>
《陰山委員》
実証的な根拠を出していくことが必要。社会学会で様々な調査データを見ていると、例えばメールや携帯をやる人が道徳的に低いわけではなく、逆に、メールや携帯をする人ほど道徳心はむしろ高いのではないかという調査結果が出ていた。よく考えてみれば当たり前で、メールや携帯をする人は友達が多くて明るい人が多く、逆に、メールや携帯をしない人は閉じこもりがちで、道徳心が醸成されないといった問題がある。新しいものに責任を押しつけがちになるが、こういった思い込みに基づかず、実証的な調査データ等に基づいて議論をしていくことが重要。
《馬場委員》
子守歌や童謡・童話、親が乳幼児を抱っこして子守歌を歌ってあげることなどについて考えていかなければならない。調査というのは、数字の読み取り方で変わってくる。学力やクラスのまとまりについての実際の調査では、携帯を持っていないクラスのほうが良かったという調査結果もあるので、一概に調査でというのは難しい。
《小泉委員》
倫理や道徳については、通常考えられている以上に幼児期に大きな芽生えがあり、十分な感受性を持っている。幼児期の徳育、倫理といった問題についても光を当てていただきたい。
《天野委員》
遊び場で子どもとやり取りをしてきたという経験から、子どもの遊びというものが非常に重要で不可欠であると考えている。子どもが遊ぶということは、自分がやりたいと思うことをやることであって、こういう場では大人側の要求をどう子どもに満たしていくかという話になりがちだが、子どもが自分自身の要求を自分の手で実現したり、満たすことができるという体験が圧倒的に足りなくなっているということが根本の問題。大人が子どもを乗っ取っているということが、子ども本人の実存というか、アイデンティティーみたいなものを根底から脅かしている。それは、子ども自身が何度も口にしていることで、そういう子どもも遊び込んでいくことで自分自身を好きになってきた。このことについては、決してこの会議では避けて通ってはならない。
子どもの行動原理は善悪ではなく快か不快。大人は善悪を教えたいと考え、それが徳だと感じるのだろうが、それは価値観の世界である。不快なことというのは命を脅かすから不快である。快なことというのは命を活き活きとさせるから快である。この情動の部分を小さい時からいじくられているということが最大の問題。脳科学の世界でも、この情動というものが大脳皮質の発達に大きな影響を与えているということが分かってきているという話を聞いたが、この情動の世界、快・不快の世界、この体験が子どもには圧倒的に足りていない。
《河合委員》
発達をどのように捉えるかということについて、発達心理学では時間に伴った変化ではなく適応的な変化と捉えているので、子どもが自分の持っている機能を使ってうまく生きていくという適応的変化だと考えている。うまく生きるということは、社会の中でうまく生きていくということ。徳育の議論の中では価値的な側面をどう扱うかということが問題になっているが、発達心理学の中で道徳性というものは、社会性の一つの領域、例えば相対性や向社会性、擁護性という他者との関係の中でうまくやっていくというものの一つだと考えられている。これからの議論で考えて頂きたいのは、徳育を人の心性、心の働きの中でどのあたりに置くのかということ。脳科学等の話もあったが、そもそもそういったものは生得的なものなのか、そうであるとすれば我々は環境を整えるということになるし、教育であるとすると、学習のプロセスというものの中で扱わなければならないということになる。エビデンスベースでの議論は必要だと思うが、それを並列的に並べるのではなく、その仕組みという視点から議論すれば、発達心理学の立場からも意見を述べることができるかと思う。
《大野委員》
親という視点からお話させていただきたい。子どもが子どもとして活動することはとても重要だが、その環境を整える親の存在が非常に重要で、参考メモでも親の問題が指摘されている。ただ、これを問題とすると親を責めることになるので、むしろ親をどう支援していくかということが肝要。例えば公園デビューについて、アメリカでは、教会に小さな子どもを連れて集まり情報交換するという場があるが、そういった情報を提供しながら親を支え、その中で子どもを育てるという視点も取り入れる必要がある。おそらく問題がある親というのは、親自身が悩んでいることが多く、そういう親への支援が必要。携帯の問題については、使い方の教育をきちんとする必要がある。携帯やゲームが悪いのではなく、どう使うかということを誰もきちんと把握していない、体系的に教えられてない。むしろ、うまく使えば非常にいいツールにもなり得る。
《鳥居座長》
携帯やテレビを通じて流れてくる中身に問題がある。番組のコンテンツがマスコミの世界で崩れていっており、その影響を親や子どもたちがすごい勢いで受けている。
《渡辺委員》
子どもの命を生き生きと守る、その一番身近にいる家族が情報に脅されているという現実を日々の病棟で感じている。発達の適応的な変化というとき、何に適応していくか、どういう原理が背景にあるかということを、大人一人一人が考えられる資質が非常に重要。赤ちゃんは生まれ落ちてから人環境にアンテナを細かく張り、その人環境が愛情に満ちたものであれば入っていこうと思うが、操作的で押しつけがましく、情動をいじくり回そうしているものであれば、おかしいということがわかるという間主観性の研究がなされている。人間の赤ちゃんは、物に対する感性よりも、対人関係に対する感性の発達が優れているということが実証的に明らかになってきていることからすれば、感化というものをいい形で及ぼしていけるような家庭環境を支援していく、つまり、子育て中の親たちが、どういう家庭づくりをしたいのかということを安心して語り合い、試行錯誤し、失敗も許されながらやっていけるような支援を商業主義に負けない形で作っていく必要がある。
《河合委員》
携帯電話でもインターネットでも、我々はそれらのない時代を知っているが、今の子どもたちは生まれてきた瞬間からその中に入っている。臨界期の話が前回あったが、例えば、重要な時期に生身の人間を相手に作らなければならない関係性というものを、生身の人間を除いても成立するように環境そのものが作っているのかもしれない。彼らにとって携帯電話というのは生まれながらに存在する快適に生きるための道具なわけで、生のやり取りというものを経験した後、初めて新しいメディアという環境をどこまで与えていくのかということを議論しなければならない。クリティカルピリオドというのは、そこを通り過ぎるともう一度やり直すのが難しい時期であり、もしそれがあるのだとすれば、人としての有り様、思いやりや感性というものを育むためには、いつまで生身の人との接し方を大事にすべきかについて明確にしなければ、非常に危険なのではないか。
《天野委員》
問題なのはゲームや携帯ではなく、リアルの方に力がないということ。ゲームや携帯を超える面白い世界に子どもが触れることができない。子どもにとっては、無いよりはましと思っているような節すらある。そうでなければ子どもはつまらない日常を生かされ、発散するものも発散できないので、ゲームの中で発散している。リアルの方に力があるということは遊びである。大人の世界の中では時には嫌なことを進んでやるということがあるかもしれないが、人間が動く行動原理は快なので、子どもが遊ぶということは、やってみたいと思うその子の強い思い。その強い思いは快を感じるかどうかということに支えられている。ただ、子どもがやってみたいことは「危ない、汚い、うるさい」。これを大人が極端に嫌っていて、危ないからやめなさい、汚いからやめなさい、うるさいから静かにしなさい、これをしつけだと思っている。小さい頃からこれをやられることで、子どもが遊ぶ意欲と力が叩かれていく。実はこの中に子どもの活力があり、これを大いに楽しめるような社会にしていくことが、子どもが子どもとして息吹を吹き返していく最低のところであり、その点についても一緒に考えて頂きたい。
《鳥居座長》
子ども中心主義的な話があれば、一方にはそうでない話もあるのが現実の問題。明治維新のとき、エデュケーションという言葉をどう日本語にするかについて様々な意見があった。大久保利通は、何にも知らない子どもにいろんなことを教えてやらなければならないという意味で「教化」と訳したが、それに対し文部卿であった森有礼は「教育」、教える育てるという言葉が正しいとし、それが今定着している。一方、森有礼の仲人だった福沢諭吉は、うまい言葉は見つからないが、語源がエデュセレというラテン語なのだから、本人が持っている能力を中から引き出してやるという意味があるのではないかと言った。教育には様々な意味があり、それぞれに大事なことである。一方、その3者の中で宗教という問題について、子どもの育て方の中でどう考えるかについて具体的なことを述べたのは福沢諭吉であり、明治5年に書いた『童蒙教草』の中では、再三にわたって『イソップ物語』や、アレクサンダー大王が母親を大事にした話などが出てくるわけだが、ヨーロッパにはキリスト教という根幹があるということを理解した上でその本を書いているということを見習わなければならない。我々が忘れてはならないのは、サッチャーが1979年に首相に就任し、直ちに幾つかのモラルに関する教育についての具体的な提案を行ったが、その一つがお祈りをしようということ。ただし、アングリカンチャーチもいればプロテスタントもいる。ユダヤ教もいればイスラムもいる。更に言えばアジアの宗教も入っているので、みんながそれぞれの神に向かって黙祷しようということになった。
2.
ヒアリング
※ 小笠原道雄 広島文化短期大学長より「諸外国の徳育について・・・ドイツを中心に・・・」発表があった。
これまでの当懇談会における先生方の指摘事項に目を通させていただいたが、多くの点で共感している。ただ、徳育に関する問題というのは、人類が長い間悩み通して今日に至るも、未だ解決されていない問題や、解決するには様々な課題や問題を孕んでいるという認識が必要ではないか。ソクラテスは「徳は教えられるか」という問いに対し、「教える教師がいないから、徳は教えられない」と結論づけた。この結論づけは、「徳」の問題を考える場合、家庭では保護者が、学校では教師が、そして広く社会では大人が、「徳」を行為において提示できない。あるいは知っている方もいるかもしれないが、提示できていない、そういう人間存在の一つの悲しい実像を示しているのではないか。このような徳育をめぐる本質的な困難性というものを踏まえながら、学校教育でいかなる方策が可能なのかということを考えていかなければならない。
最近のドイツを事例に紹介したいと思うが、「ドイツの教育」と一律に語れない事情が存在する。ドイツの場合、16の各州ごとに教育監督庁が存在しており、独自に教育課程基準を設定している点で、各州の独立性・独自性が存在している。これは、プロテスタントの多いハンブルグやカトリックの多いバイエルン州など、宗派の相違を微妙に反映している。ドイツの価値教育ないし宗教教授に関する動向を見ると、ドイツの場合も世俗化という方向が非常に強くなってきている。国民教育の基本的理念を示すドイツ連邦共和国基本法は、キリスト教と民主主義を基底とする価値体系を基礎とし、基本的人権・自由としての信仰・良心・信仰の自由を保障した上で、「宗教教授は公立学校においては、非宗派学校を除き、正規の教科である」と第7条で規定している。この正規の教科としての宗教教授が、言ってみれば道徳・価値の教育と密接に結びついた関係にある。今日では道徳教育や倫理教育、価値教育は同意義として使われていると考えていい。そういう意味では旧西ドイツの学校教育においては、宗教教育は重要な位置を占めていた。現在では基本法が定める宗教教授は、単に新・旧両派のキリスト教のみではなく、ユダヤ教やイスラム教などといった他の宗教も包括されるものと解釈されている。そのような中で、ベルリン市は政治的背景のもと非常に特異な事情があり、宗教教授は公立学校における選択科目で、宗教教授を受けるか否かは生徒が自己決定できるとしていた。そのほか、ブレーメンやハンブルグでは、独自の特色ある宗教教授が行われていた。他方、旧東ドイツでは宗教が学校から追放されており、社会主義的な倫理に従って政治教育や世界観教育が行われていたが、統一後はブランデンブル州を除くすべての州で基本法第7条に基づく法令が施行されていて、宗教教授が正科として導入され、同時に倫理科の類が宗教教授の代替科目もしくは選択科目と規定されている。
1998年7月に各州文部大臣会議(KMK)は、宗教の代替授業に関する初めての報告書を公表し、すべての州において、宗教の授業に代わる倫理や哲学などの授業が提供されているということが明らかになった。この背景には、授業への参加というのは、義務教育段階では親に決定権があるということがある。宗教の授業に参加しないことも認められていて、不参加の生徒のために1970年代に倫理などの代替授業が開始されたが、近年は宗教と距離を置く人々が増え、その代替授業に対する政治的な関心が高まってきた。報告書によれば、倫理、哲学、価値と規範などの呼称で、宗教の授業に参加しない児童生徒には必修とされていることが確認されている。
ベルリン市の公立学校において価値教授というものが2006年に導入された。価値教授とは、宗教や信条にとらわれることなく、子どもたちにあらゆる価値について学ぶ機会を与え、価値判断能力を養い、価値を形成していけるように導くことを目的にしている。価値教授導入計画の内容は、2006年度に1週間に2時間で行うということから進めており、これをどんどん増やしていくという傾向にある。第7年以上の全生徒に義務づけているので、問題はもっと下の幼稚園などをどうするかだが、親がこういう価値や宗教の問題について責任を持つということになっているようである。また、価値教授を補助ないしは強化する教科として改めて社会科を位置づけるとともに、新たに倫理学や哲学を選択科目として設置している。大綱カリキュラム委員会を組織し、価値教授の教員の養成もしている。日本では環境教育が非常に重要だと言っていても、環境教育の専門家を養成するというところが遅れてしまう。同様に、価値教育を一つの科目として考える場合、教員の養成をきちんとしておかなければならない。ドイツではそれを実際にやっている。現実に、ベルリン市民は価値教授のカリキュラム化に対してどういう反応を示しているかというと、ベルリン市の80%が宗派中立的価値教授に賛成しているが、司祭は「ベルリンを含む多くの都市で神の忘却が起きている」と嘆いているとある新聞記事に書いてあった。学校でも宗教教授に代わるものとしていろいろと考えているのに対し、就学前教育段階における価値教育ないし宗教教育の振興施策として、フォン・デア・ライエン連邦家族大臣・高齢者・女性・青少年大臣によって「価値は子どもや親に、拠り所や方向性を与えてくれる」というスローガンのもと『教育のための同盟』が行われている。ドイツでは最近、就学前保育・教育の充実に力が入れられていて、この背景には、2001年に始まったPISAの点数がドイツは非常に悪く、幼児教育においてもう少し読み書き計算といったようなことをやった方がいいと言われていることがある。また、移民の子どものマジョリティー化をきっかけとした学校内での暴力事件が頻発しているといったようなことから、就学前教育あるいはもっと基礎学校段階の子どもたちに対し、徳育の教育をやっていかなければならないといったようなことが言われてきている。
最後に、個人的な思いが入っているものの、徳育に関してまとめたい。教育の歴史上、最も印象深いドキュメントの一つであり、一種の全体的な教育理論を含んでいると思われる作品として、J.H.ペスタロッチのシュタンツの孤児院での教育実践の「報告書」である『シュタンツだより』というものがある。ヨーロッパの小学校の始まりである孤児院で彼が言っていることを少し読んでまとめとしたいが、彼は「児童各自の粗野と全体の無秩序とは、いくら信頼して事に当たっても、いくら熱心に事に当たっても、まだ取り去ることはできなかった。わたしは事の全体的な秩序を維持していくために、さらに一個の高い基礎を求め、しかもそれをいわば創造しなければならなかった。教授も経済も学習も先走った計画からではなくて、むしろ子供とわたしの関係から発展すべきだった」と言っている。大切なことは、子どもに対する関係ではない私の関係が道徳的行為を結果としてもつことができるのは、その関係そのものが道徳的である場合、ひとつの道徳的生活形式を示している場合に限られるということ。ですから、私たちは関係そのものが道徳的であるというものを考えていかなければならない。この道徳的生活形式を構成するものとして、「子供とわたしの関係」から出発し、「兄弟姉妹と家庭」というもの、そこでの「内的なものを鼓舞すること、そこを包んでいる情調」、さらにこの関係を土台にした「注意、活発」、それが「道徳的行為」を導くことになるとJ.H.ペスタロッチは体得したとされている。教育理論を考えている人間にとっては、このあたりが教育の原点なのだろうと思っている。教育的に見て、責任のとれる生活形式とはどのようなものなのか。あるいは、正しい生活を、子どもたちに向けてどのようにして責任のとれる生活形式として代表的に提示していけるのか。
教育問題の一番の原点と言っていいのが、乳幼児期の子どもと親との関係をどう構築するかということは理解されているが、その構築の仕方ができない。問題は、生涯教育といった場に来ないお母さん方をどうするかということ。学校教育を受けている子どもたちが、道徳的な生活形式を体験しないで大人になりつつあるので、2世代そういうものが続いている。これに対し、私たちはどこで、どういう形で歯止めをかけていくのかということをきちんとやらなければならない。
3.社会構造の変化と徳育の課題について
※
事務局から、資料4,5,6及び参考資料2について、説明があった。
《鳥居座長》
今、世界が大きく変わろうとしていて、アメリカは共和党的、内向的な考え方、規制緩和の考え方からオバマ的な考え方に舵を切り直そうとしている、そういう時期に我々はいる。メディアがどんどん変わっており、それが子どもたちに影響しているということもある。
《山田委員》
1点目として、社会変化は子どもだけではなく大人の世界にも浸透している。モラルの低下というのも子どもだけの問題ではなく、ここ4~5年の間に高齢者犯罪が急速に増えてきている。先ほど人間関係の希薄化という話があったが、これもいろいろな調査を見てみると、50代男性が生身の人間と接する機会が仕事以外で少ないということが出ているので、そういう問題を含め、子どもの問題というものを考えていかなければならない。
2点目は、受験勉強を必死にする子どもと全くしない子どもへの二極分化があれば、共働きで高収入の人もいればフリーター同士で生活に困窮している人もいる。親の状況が多様化している中で、1つのことだけを言うのは難しくなっている。例えばネットに関し、海外の人と文通をして国際理解を深めるといったコミュニケーションがなされているケースもある一方、犯罪を犯すケースもある。携帯については、携帯はいけないと言ってしまうと、持っていない子が誰からも誘われなくなるという現実がある。ネットやメディアをやめてしまうのではなく、新しい形の常識を提示していく必要があるのではないか。
3点目は、社会変化の中で徳育に対して何が求められているかという点について、何を教えるべきか、どのような資質・能力を身につけさせるべきかということに関しては、それほど対立がないのではないか。人に迷惑をかけてはいけないといったことや、長時間インターネットやゲームをやったら健康によくないといったこと、そういった常識的なことに関しては合意できると思うが、問題はそれをどのように教育すべきかというところ。道徳といっても知識を提示するだけになっていないだろうか。アメリカではディベートやロールプレイング、カウンセリングセラピーの手法を用いて、様々なことを半分遊びながら身につけているという例もあるので、何がということも大切だが、どのようにということが今後問われてくるのではないか。
《天野委員》
子どもの「危ない、汚い、うるさい」は本当に悪なのか。例えばこの感覚で子どもをしつけようと思うと、子どもは簡単にはこの悪の姿を変えないので、しつけがうまくいかないと悩み、可愛く思えなかったりする。子どもの姿をそのまま社会が受け入れないということが、しつけができない親たちを生み出していて、このことが虐待の底辺にあるのではないか。子どもをどのように捉えるのかという子ども観が重要。道徳的な関係という話で、思い浮かんだ言葉は尊重と共感。子ども同士の関係の中でも、相手に対する尊重と共感さえあればいじめは起こらない。尊重は、尊重されてこないと育たないわけである。この尊重と共感を、大人が子どもに対してどのくらい丁寧にやっているのかということが一番大きな問題。社会的な変化という点では、価値観の都市化ということをずっと言ってきた。農村部であっても、もはや子どもは外で遊ばなくなっている。都市化そのものではなく、価値観が都市化している。価値観とは何かということについては、消費と合理化、システム化だと考えている。合理性を優先すると、プロセスをどれだけ省力化するかということが求められる。大人は結果だけを重視するが、それは子どもの価値観そのものを都市化させようとする動きである。ところが、人生の試行錯誤だとかいうものは、プロセスの中に重要なことがたくさんあり、結果がどうであるかというよりも、そのプロセスをいかに踏んだかということが重視されなければならない。そのことが十分やられている世界が遊びであって、その時々のプロセスの中で子どもは遊んでいるのである。以前は教育や社会も国家レベルではなく、共同体の規範で済んでいた。日本という国を見据えた価値体系を作っていく必要があるということでやってきたのだろうが、もはやその時代とは違う。大人が子どもに対して果たすべき徳とは、子ども自身に対する尊重と共感なのではないか。
《鳥居座長》
価値は子どもや親に拠り所や方向性を与えてくれるものだというお話があったが、そういう価値観と天野先生の価値観とは大分違う。小笠原先生はどのような感じを持っているのか。
《小笠原学長》
世界で最初に幼稚園をつくったフレーベルの教育思想を研究しているが、フレーベルは、子どもの遊びが自己活動を生む一番の原因だと言っている。天野先生は遊びは内発するものなので、それが人の価値を構成すると考えているが、私が理解しているフレーベルの遊びにおける価値というのは、遊びの中に一つの規則性があり、それを予感するという、そういう予感を感じさせるものがいわゆる価値なのだと理解している。そのように考えると、子どもの実態、生命のリズムとかいったようなものの中から、子どもにおける価値というものを考えていった方がいいのではないか。遊びというのが子どもの内発性を誘致し、心よさといったものを導くのはそのとおりだと思うが、それはなぜなのかというと、人間として持っている生命のリズムみたいなものを感得するからなのではないか。
《小泉委員》
欧州の事例から見ても、宗教の問題と幼児期の問題がこれから避けて通れない点であると感じているが、社会の構造変化ともリンクしている話だと思う。特に日本のような国で宗教と道徳・倫理、あるいは社会規範をどのように関係づけていくのか。統計から見ると、世界的に宗教的な基盤というものが薄れる方向にある中で、表面的なところではない本質的なサイエンスをもう一度見直してみようという議論が海外で起こっている。例えばキュリー夫妻の場合、両者は宗教的には非常に薄い方であったが、科学を原点に大変倫理的に生きた。このように、倫理の基盤とサイエンスの基盤は必ずしも矛盾しない、そういう連携の方法があるのではないかということを哲学者・宗教学者とも議論している。
《小笠原学長》
宗教教育と宗教性の教育は分けて考えたほうがいい。科学が合理性を求めるのに対し、宗教性は非合理性だけと考えるのかどうか。問題は、それを分けて考える場合、接点がどこで成り立つのかということで、そこの探求をする必要があるのではないか。人間の生命のリズムというのは非合理的に聞こえるかもしれないが、脳科学などの報告書などを見ると、人体の中には偶然性も含めた規則性というものがあり、それと何かが結びつくのではないか。特にベルリンの場合、キリスト教ではない宗教の方が多くなってきた。あるいは、宗教を否定している方々が非常に多い中で宗教性の教育や価値の教育をやっていく場合、宗教性は非合理的なものでサイエンスは合理的なものとして二者択一的に考えていこうとする考え方は克服しなければならない。1つの例として、Pierre
Teilhard de Chardinがカトリックの司祭でありながら考古学などをやっているように、そのような考え方が教育を考えていく場合に必要ではないか。
《小泉委員》
いろんな宗教があるが、頂上(サミット)は同じで、そこに至る道のりが違うだけではないかという議論をバチカンの科学アカデミー関係者らとしている。そうであれば、サイエンスもまたサミットは同じであって、両方が連携できるのではないか。
《安彦委員》
論じ方について幾つか申し上げると、1つ目は、徳育の議論になると、子どもの悪いことばかりを問題にしているが、今の時代に適応し、さらにその先をいくようなプラスの特性もあるはずではないか。そういうものも拾いながら問題点を指摘していくという論じ方、構成を考えていただきたい。
2つ目は、家庭・学校・地域との役割分担について、様々な教育の議論の中で公教育と私教育が分けられていない。公権力が関わる公教育と、親が自分の子どもを教育する私教育は明らかに違うわけで、近代の教育思想あるいは教育制度の原点だと思っており、公教育の中でやれる徳育というのは何なのか、私教育にお願いすべきことは何なのかということについてきちんと分けて議論しないと、どうしても拡散してしまい、同じ扱い方で議論しまう。公教育の話の中に私教育の観点を持ち込むのは非常にナンセンスであり、そういう議論がまかり通るということ自体が問題。 3つ目に、小笠原先生の出されたまとめのところに「道徳的生活形式」という言葉があるが、徳育的な観点でいえば生活習慣、ある意味では社会習慣の形成。社会習慣あるいは生活習慣のようなところで支えられている部分を、もう少し徳育の観点で重視すべき。中教審でも議論があったいわゆる公徳心というものがあるが、私の勉強になったことの一つはマナーとモラルを分けたこと。マナーは公徳心なので教えられるし、教えなければいけない。しかしモラルになると、本当にどっちがいいのか悪いのかという議論が常に生まれるので、そういう意味では分けられる。また産業界が求めているのはマナーの部分。
宗教との関係だが、宗教を利用して道徳教育をとかいう発想をとられるのであれば強く反対したい。宗教は固有の世界を持っており、それが道徳的な世界にプラスに働いているとしても、ある意味でそれは偶然的に宗教性という人間の性質の部分で重なっているだけであり、これを前提にするのは待って欲しい。むしろ、明治より前の江戸時代など、儒学的というような伝統があったにしてもあまり宗教的でない時代でも、日本人の公徳心は西洋人が認めるほど立派なものだった。そういう観点からすれば、必ずしも宗教と結びつけなくても、日本人は非常に立派な道徳生活を送ってきたのではないだろうか。いろいろ問題点はあるが、戦後の日本の道徳教育についても、外国でかなり高い評価を得てきたところではないか。
《森田委員》
もともと教育というのは、未分化なものからある1つの特定の文化へいくもの。教育はグラインド効果を持っており、様々な能力や資質は可塑性を持っている。その中からある教育という営為を行いながら、その社会、文化、時代というものにふさわしく特性を伸ばす、グラインドしていくというか、そういう作用がある。そういう意味で意思自由というものと、もう一方の教育を統制と捉えると、2つの拮抗する力の中で我々の社会の歴史や現実のドラマが展開されてきた。現代については、私は私事化という単語で捉えているが、個人化という時代としてその歴史の中に置いてみると、自由意思なるものが拡大してきている。社会統制という技法が言葉の説得性を失っていくような状況の中、個人の自由や主体性という論理のもとにそれが押しやられているということが、今の時代状況の中で様々な矛盾を引き起こしている部分だろうと思う。それに対し、改めてこの教育というものに関わるとき、縦の社会化と横の社会化の両面が相まって子どもの規範の内面化なり、道徳の内面化が働いていくという作用がある。例えば伝統芸能なんかでは「守」「破」「離」という言葉がある。山田先生がおっしゃった規範の内面化でも、ある意味では常識やコンセンサスというものがある。規範というのは色々とあって、法律から風俗、風習、基本的な生活習慣から流行まで、もちろん価値や道徳もその中に含まれる。そういう広がりの中で、ある意味で一つの大きなコンセンサスが社会の中にある。山田先生が常識とおっしゃったものは「守」という部分に入る。これは、無条件に子どもたちに教えていかなければならないものである。型、ルール、マナー、あるいは文化もそこの中に入るが、そういうものを「守」として教えながら、それなりに場面や状況に合わせ、それを修正する能力をうまくつくっていく「破」というプロセスへ。「離」というのは、自分なりのパターンをその中でつくり出すというステップがある。そういう形でやりながら、縦の社会化と横の社会化をうまくミックスし、徳育の発達の中に生かしていくということが必要。現在、様々な問題が現れてきているのは、余りにも自由化され、個人化され、相対化され、ある意味では揺り動く中での個人の意思自由、あるいは社会の中の主体性の方へシフトし過ぎた社会の状況の中から現れてきた一つの様相ではないかと思う。もちろん様々な可能性が社会の中にあることは否定しないし、尊重していかなければいけないが、守るべきコアと言われるものと相対性を持っていい部分と、逸脱が許容される部分と完全に逸脱する部分というグラデーションがある。それらを一律に議論して、相対化の部分だけに着目するというわけにはいかない。
《山折委員》
徳育というのは、知育や体育、食育といった分野の問題とどう違うのかということを考えてきた。
具体的な事例を挙げると、例えば「もったいない」という日本語がある。これは社会化され、国際語としても通用し始めているが、説明の仕方が、3Rという英語で説明する傾向が定着し始めている。最初のRがリデュース、消費の抑制。次がリユース、再利用。3番目がリサイクル、資源の再使用と、大体日本語としての「もったいない」という言葉が持つ意味の論理的な説明とされている。ただ、この「もったいない」という言葉には、3Rでは説明し切れないもっと重要な価値観が含まれている。それは、日本人の歴史の中で育まれてきた、ありがたいとか尊い、大事にしなさいとか恐れ多い、恥ずかしいといった価値観である。そういう言葉を全部外国語に翻訳できるのかと言えば、今の段階ではそれは出来ない。集約的な言葉を発見していく努力が必要だろうと思うが、論理的、あるいは合理的に説明することのできない部分を含んでいる。その領域に踏み込んだとき、徳育が始まる。3Rの説明は知育や食育の段階で、その先に踏み込むときに徳育の領域が広がっているのだということが1つ。
2つ目は、早寝早起き朝御飯というメッセージが、教育界はもとより、だんだん国民の間で共有され始めている。私もこのメッセージは非常にいい、価値のある、意味のあるメッセージだと思っている。食育の段階では栄養のある食物をバランスよく規則的にとりましょうというような考え方が含まれているわけであるが、ここにも私は大いなる不満がある。どういうことかと言うと、そんなに食べるなというメッセージがどこからも聞こえてこないということ。若者たちと時々居酒屋なんかに行くが、飲み放題・食い放題の店がどれほど多いことか。食育と言いながら、それをコントロールするメッセージが含まれていない。それをコントロールするメッセージとして、日本人の長い歴史の中で育まれてきたいい言葉がある。例えば腹八分という言葉があるが、食育だけではなく、エネルギー問題や食料問題など、すべてにわたりこの腹八分の心構えというものは重要な価値観を含んでいる。ただ、その腹八分の中身を具体的にどう説明するのかということが問題で、例えば、食育は重要なことだと思うが、そんなに食べるなといったメッセージに入っていくとき、徳育的な領域が広がっていく。
3番目は、社会が認めている、共有しているメッセージに「命を大切にしよう」という言葉がある。強力な、いかにも現代の価値観を含んだメッセージになっているが、先祖たちは何と言っていたかというと、「殺すな」と言っていたと思う。これはほとんど普遍的な言葉で、あらゆる宗教を超えて主張されてきたことである。凶悪な犯罪が続発し始めたころ、ある中学生が大人に向かって「なぜ人を殺してはいけないんですか」と問うたことに対し、大人のほとんどは絶句したということが社会的な話題になった。今、この問題は正面から取り上げられることはなく、相変わらず命を大切にしようと言ってきた。人類の歴史を長いタイムスパンで考えたとき、一種の現代的な言い換え、さらに厳しく言えば無心の時代の現代的なごまかしと言えばいいのか、真実を覆い隠す言い換えと思っている。そういう点で命を大切にしましょうというメッセージは、体育のレベルでも、知育のレベルでも、食育のレベルでも、誰でも容易に子どもたちにも、他者に対しても説明することができる。だから、命を大切にしようということをいくら言っても、これは徳育の主要な問題にはなり得ない。それを徳育の問題として受け取るとき、「殺すな」という問題性に入っていくのだろう。それは、宗教的な問題であるとか道徳的な問題であるとかいう以前に、人間とはそもそもどこから来て、どういう歴史を築いてきたのかという問題に深く関わることだから。
以上を考えた上で、徳育的分野と仮に呼んでいるが、先ほどのもったいない、腹八分、殺すな、この領域に共通する考え方は何か、徳育の原理と言えばいいのか。言いにくいことだが、いずれも共通するところは禁止形・命令形で言われているということ。もったいないというのは物を大事にしなさいという命令。無駄にしてはいけません、腹八分という禁止。自然に命令形・禁止形が出る、その最大のものが殺すな。そういう命令形・禁止形の言葉を言い続け、なおかつ人間は毎日のようにそれを裏切り続けてきているわけである。そこがまさに、徳育の中心的な問題性ではないか。例えば小学生や中学生に禁止や命令をすると反発が来る。その質問、反逆、反発、批判が徳育を考えていく上で極めて重要。そこで悩みが始まり、苦悩が始まる。成長期における子どもたちを導いていくとき、葛藤と悩みの体験を社会的な形で課すことがなければ、いくら徳育と言っても、結局それは体育や知育に取り込まれたり、単なる食育の領域に回収されてしまう。この会で深めていこうとするならば、問題は、禁止形とは何か、命令形とは何かということにいくだろう。それは近代的な諸科学の分野だけでは解き得ない問題を大量に含んでいて、そこで初めて宗教や哲学の問題が出てくる。宗教や哲学の歴史と近代的な諸科学の歴史は、それだけで比較したりすることは出来ない。
《渡辺委員》
乳幼児の最新のニューロサイエンスで言っていることが実は深い歴史的な背景の観察に基づいているということを実感した。例えばフレーベルの言っているスピール、それは大人も子どももともにやり取りしているときのあの一致していく予感、響き合い、そこに楽しさ、生きがい、かわいさ、成長力が出てくるということ。現在、この領域はコミュニケーション的音楽性という分野で、実証的にニューロサイエンス的に音声波形で分析されており、人間は生まれてから死ぬまでともに生きるための音楽的なセンターがあるとされている。リンチはそれは0.7秒が一つの基本になっていると言った。トレバーサンは赤ちゃんの段階から将来の宗教や芸術の型の原型になっていくようなやり取りの儀式があるのだと言う。共により良い生き方の原型として共有する儀式がある、型があると言っている。だから、乳幼児の新しい発達理論、特に間主観性の発達理論は人間のルーツのところ、過去のさまざまな歴史や宗教、哲学で観察され、記述されてきたところをもう一度科学的に、特に人間の持つ音声学的なものを使おうとしている。そして、そこの中で言われている理念というのは、シンリズミアという言葉。シンはともに、リズミアはギリシャ語だが、二度と戻ることのない川のせせらぎのこと。もったいないということにも通じるかと思うが、生まれて今を共に生きる、このかけがえなさということを母子の関係においても、社会的な集合体においても大事にしていこうという貫くものとして、人間性の中にはシンリズミアというものがあると。だから、ばらばらに見えて、実はそのシンリズミアというものを保つために、私たちの生活の中には共同体としての生活の、あるいは親子としての生活のチューニングということが、絶えず生まれ落ちてからいい形、楽しい形で起きている。そして、危ない、汚い、うるさいということを子どもが好きなのは、それらを克服することによって人間は破壊とか殺戮とか、お互いの弱肉強食を乗り越えたからである。そのように考えると、これはただ自由奔放ということではなく、子どもたちに委ねなければならない基本的な練習体験、知有空間というものを、どのように教育が責任を持って守るかということにも繋がると思う。
《河合委員》
徳というものは、相対的な価値や絶対的な価値ではなく、様々なことを経験していくことによって、みずからの価値というものを形成するものだと理解したが、そうであれば、具体的にこのようなことを教えているというものはあるのか。
《小笠原学長》
具体的な場面に接したことはないが、アメリカでもよく言われているカジカットを体験させて、そこでいろんな議論をさせる。そういうことを通じて、価値の学び方を学んでいくということ。徳の問題というのは、実体があって何だということではない。そういうものを生活の中で示すことによって、子どもがそれに気づいていく。そういう気づきの方法を、価値教育の中で場面を設定してやっているというのが実情。
《押谷委員》
道徳的関係を作るということについて、その根本は言葉によってなされると思うが、その言葉の教育をドイツではどのように取り組んでいるのか。
《小笠原学長》
言葉の教育ではフランスが一歩進んでいると思う。特に、ディクテという書かせること、それにはフランス教育の歴史があり、それによって人間性が発達すると信じられている。
《押谷委員》
フランスは2歳児就園に取り組んでいて、2歳児からしっかりと教育をやっていき、その中で言葉の教育をやる。それは、いわゆる規範意識を育てるとかいうところと通じてくるのだと聞いたことがある。社会変化の中で道徳的関係を作ろうと思えば、言葉をどうしつけていくか、言葉によってどういう会話をしていくかということがポイントになると思うが、そのあたりが抜けている気がする。この発達徳性云々のところで、言葉の発達という部分をしっかり押さえ、それへのフォローを社会の人々と共にどうやっていくかということをもっと提案していければいいのではないか。そういったテキスト的な共通教材のようなものもここから提案していくのはどうか。
次に、学校・家庭・地域連携が大きな課題としてあるが、その中で学校がどのような役割を果たすかということが大きな課題。学校のような社会の中でまじめな大人たちと接触できる機会が少ない気がする。鹿児島市の学校は全部の学校の敷地内に公民館があって、そのことを通して自然と大人と関わりを持てるようになっていく。今の子どもたちは人間関係が持てていない。関わりを持とうとしないので、強制的にそういう場を作ってあげなければならない。学校というのは集団宿泊施設的な役割も果たしている。お祭りなんかをやれるような場としても位置づけていける。普段の生活の中で大人と接していけるものとしての学校改革的なものも必要ではないか。
3つ目は「知」「情」「意」。これは道徳性の発達にとって大切なのだが、「知」とか「情」はよく言われるが、意思力の発達はどのようになされていくのか。その部分が道徳教育にとっては大切だと思う。
4点目、ソーシャルキャピタルという話があったが、社会的財産と言えばいいか、この視点を日本はしっかり持っている。それを今日的な状況の中でどう維持発展させていくのかという部分をもっと前面に押し出すことによって、文化や道徳の大切さが強調できるのではないか。
《加倉井委員》
学校現場の姿から話をさせていただきたい。子どもが感動するということが欠けているのではないか。道徳なんかをやっても心に響いてない。昨日はボランティア体験ということで、老人や耳の聞こえない方と、体験活動をしながら話を伺った。例えば耳の聞こえない方が電車の中で一番困ることとして、電車が止まって、何が起こっているかわからないということがある。テロップも車内放送も流れているが、自分には全然わからない。そんな時、自分が一番パニックに陥るらしい。これは我々の気がつかないところだと思うが、そういったことを聞いていて、子どもたちはなるほどと何かやはり心を動かされているので、伝達された話よりも、直にその人が実感している話というのはとても印象に残る。今の子どもは悪さをやってもなかなか正直に言えない。極端に言うと、証拠があっても私じゃありませんと言う。そういう時、少なくともあなた自身は知っているというものを育てていく教育というのが重要。そういう感覚が小さい頃から養われていくことにより、中学生ぐらいになってもそういう気持ちが養われていく。ルールを教えるといったことだけではなく、客観的に自分を見ているというものもあるのではないか。自然を生きたものとして捉えるといったような情操を養っていくことにより、少なくとも自分自身は知っていて、そういうものから自分の客観的に見ていける資質が養われていくのではないか。
(3)その他
※ 次回会議の日程について、事務局から説明があった。
~ 次回会議日程については、調整の上、後日連絡。
(4)閉会
塩原、片山
電話番号:03-5253-4111(内線3054)