1.算数・数学の学び

(1)考えることの教育

 「人間は考える葦である」は、フランスの哲学者B.パスカル(1623-1662)の名言である。そこには、人間から「考えること」をとってしまえば単なる葦のようにか弱く自然任せの存在に過ぎないが、「考えること」を身につけることにより「か弱く、自然任せの存在」が「ものごとに力強く立ち向かうことのできる存在」となることができたのであり、人間としての存在は「考えること」において実現されるとの思いがあったと見てよい。また、ドイツの哲学者I.カント(Kant;1724-1804)の「ヒトは教育により人間となる」も有名である。すなわち、ヒトは、生れながらにして人間としての存在ではなく、教育によってはじめて人間になり、教育がなければヒトのままである、ということである。
 二人の先哲に学べば、教育の本旨は、「考えること」を導き、その質を高め、自在に考えを巡らせる基に培うことと言ってもよいであろう。これを、学びの主体である子どもの視点から見ると、真に力のある子どもの姿は、例えば、自ら考えを巡らせ、それを振り返りその質を高め、さらにそれを楽しむことのできる子どもといいたい。もちろん、人間はときには一人になり,ときにはみんなと一緒に、ことに処することができなくてはならないし、それは生きることの最も基本にあることといってよい。すると、他に学ぶこと、他とともに学び合い互いを高め合うこと、さらにはそれらを通してよりよく自己を磨くことができることを認識し、日々実践できることはさらに重要なことである。

(2)考えることの動機と問題の定式化

 今から半世紀ほど前のことであるが、アメリカの数学者M.クライン(Kline;1908-?)は、数学の思想史をひもとき、数学の特性を整理している。それらは、仮説的思考すなわち研究方法、創造的な活動、記号的な言語、知識の体系及び合理的な精神の5つである。
 われわれは、なぜ考えてきたのか、また、考えるのか。考えることの動機といえるものを、「創造的な活動」としての数学における動機として、「社会的必要からおこる問題に応えること」、「自然現象に合理的な関係を与えること」、「知的好奇心と純粋な思考への興味」及び「美を追求する心」としている。いずれも、算数・数学を学んだり算数・数学で考えたりする際の動機として重要な意味をもつものである。
 これらの動機から誘発され、様々な疑問、問いが生まれる。それらは、算数・数学の問題として定式化される。そのことで、考えることは実質的な問題解決として開始される。その過程では既習のことから必要なことを選択し、組み合わせて活用することが必要となる。

(3)算数・数学の学び

 通常の授業における算数・数学の学びは、一定の意図・目的の下に教師により導かれるものであり、それは子ども一人一人において確かに実現され、子どもたちの未来の基礎に培われなくてはならない。ために、それを、教師と子どもたちとのかかわり方から見ていくつかの水準に分けてみる必要がある。
 第一は「出会う」局面であり、算数・数学の新しい内容との「出会い」である。教師には出会いの場を適切に組織し提示することが、子どもには学びの必然性とその対象を意識し自分のこととして意識することが必要になる。以下の各水準では、基本的に子どもたちの主体的な営みを中心とし、教師はそれを導き支えることになる。
 第二は「創る」と「使う」であり、算数・数学の新しい内容を、創ったり使ったりする活動を通してそれらの活動を実体験するとともに、出会った算数・数学を「しっかり受けとめること」である。
 第三は、第一第二の営みの過程で、あるいはそれらを振返って、算数・数学の新しい内容の必要性、はたらきなどに関心をもち、その「よさが分かること」である。いわば、情意の側面からの強化である。
 第四は、出会うこと、創ること、使うこと及びよさが分かることのそれぞれに「楽しみを見出し、実際にそれらを楽しむことができるようになること」である。まさに、このことは生き方の問題にかかわることである。
 もちろん、これらの水準には明確な順序性はなく、重なり合ったり順序が変わったりすることもあろうが、いずれにしても、それぞれ子どもたちの算数・数学の学びを導き高める授業の本旨から見て重要な水準である。

(4)算数・数学で「考えること」

-計算を例に-

 「考えること」を明示的に定義づけることは難しい。しかし、なぜ考えるのか、どのように考えるのか、考えることで何がもたらされるのかなど考えることの様々な側面について検討することにより、間接的にではあるが描くことができる。算数・数学における教育や学習で取り上げる内容は先人たちの考える営みによりもたらされたものであることである。
 算数・数学で取り上げている内容は、学習状況の評価の観点が示しているように、単なる知識や技能に留まらない。すなわち、まず、理解の対象となる知識である。次いで、表現や処理を手際よくしかも的確にするための技能である。さらに、それらを生み出す過程で先人がなした着想や方法及びそれらの背後にあるアイデアである。さらに、先人を知識や技能、着想や方法を生み出すことに駆り立て、それを首尾よく実現させるために働いたこと、すなわち、興味・関心、知的好奇心、態度などである。
 例えば、「計算」を例としてみてみよう。今日では、「計算」の対象は、数値や記号はもとより、論理や構造にまでも広がりを見せており、古い「計算」とはだいぶ変わってきている。計算の対象は確かにかなり広がってきているが、「変形・変換操作」としての特徴は保持されている。
 算数・数学の教育において、計算は一般に四則計算をさし、四則演算に基づいている。四則演算は“ fou rfundamental operations ”の翻訳であり、明治10年代に東京数学会社(日本数学会の前身)訳語会において統一された。ところで、”operation”には、操作の意味があり、その趣旨は「操ること」、すなわち、「ものごとに直接的にではなくて間接的にかかわること」にある。したがって、計算には、数量にかかわることなど、対象を間接的に処理する知恵や工夫が凝縮されており、そのことで直接的に処理することによる労力が肉体的にも精神的にも軽減されるのである。先人は、そのことに古くから気づき、さまざまな計算のアルゴリズムや工夫を生み出してきたのである。
 計算には、一定の手順やアルゴリズムにもとづいて手際よく正確に処理する力がその中核に位置づく。それは、これまで単に「計算」、あるいは「計算力」と言われてきたものにあたり、狭義の計算力である。
 しかし、この計算が生きて働くためには、それを支える要素に配慮する必要がある。その第一は、計算の対象や計算の仕組みについての理解である。それらがともなわないと、結果の見積りや確かめが適切にできず、処理して得た結果の確認ができないこととなり、それでは、計算は何の役にも立たないことになる。また、自ら新しい計算のしかたを生み出したり工夫したりする際のよりどころともなる重要な理解であり、ものごとを発展的、創造的に考え処理する基となることである。
 第二は、具体的な場面において数量の関係を的確に把握し、演算決定できることである。演算決定ができないとせっかくの技能を活かすことはできない。演算決定は、日常の事象などを算数・数学の舞台にのせること、すなわち日常の事象を算数・数学の言葉で翻訳することである。そうするのは、算数・数学の世界で結論を得ることのほうが思考の労力の節約になるからである。
 しかし、算数・数学の世界で得た結果は、そのまま基の場面の結論になるとは限らないので、基の場面にあてはめて結果を解釈することが必要がある。これが第三の要素である。
 第四の要素は、計算を生み出した動機である。例えば、常により手際よく、より簡単で、分かりやすい仕組ややり方を求め続けてやまない知的好奇心や興味・関心である。また、よりよいものに価値を置き、それらを求め続けてやまない精神である。
 狭義の計算力が生きて働くものとなり、かつ、自らよりよいものを生み出そうと粘り強くかつ楽しみながら努力を続ける精神などを、支える要素として加え、広義の計算力とし、それを狭義の計算力と区別するために「計算の力」とすると、計算で真に力のある子は、この「計算の力」を確かに身につけ、それを磨き使いこなせる子である。算数・数学の学びとその指導を通して、このような子どもたちを育成したい。

(5)数学に学ぶ

1.数学の探究方法としての「帰納」

ア 帰納

 算数・数学で問題解決を論ずるとき、基本文献として必ず参照されるアメリカの数学者G.ポリヤ(Polya;1887-1955)は、自身の数学の研究や大学で数学を指導した経験を踏まえ、創造的、生産的な活動を支える重要な方法として「帰納」を挙げ、その重要性を強調している。「帰納」というと、数学的帰納法が思い浮かぶが、これは1つの証明方法であり、ここでいう「帰納」の意味とは異なる。それは、「研究の進め方としての帰納」、あるいは「探究の仕方としての帰納」、「学習の仕方としての帰納」とみた方がよい。
 「探究の仕方としての帰納」は大きく二つの部分、「帰納的手続き」と「帰納的な態度」に分けられている。前者は、「暗示的な接触」と「支持的な接触」で構成され、この手続きを支える重要な態度として後者を挙げ、それを構成する重要な要素として「知的な勇気」、「知的な正直さ」及び「賢明な自制」の三つを示している。これらは、いずれもほぼ半世紀ほど前に言われたことであるが、算数・数学の教育の発展・充実を考える上で重要な示唆を今でも与えてくれる。
 ところで、「帰納的な手続き」については、「帰納的な手続きとは何ぞや」と言う形で展開しているのではない。このことを取り上げている節の見出しは「経験と信念」である。そこでは、まず、これまでに培われてきた、ものの見方、考え方は変わる可能性があるとしている。また、経験と信念は相互に深く関連しあっているとしている。さらに、様々な経験の中からいろいろな事柄や事実を見抜いたり構成したりして、私どもの信念をつくるということで最も重要な仕事をしているのが科学者であるとしている。科学者が新しいものを、つまり経験を整理したりそれらから抽出した事実をまとめたり、発見したりする過程でする手続きの中で最もよく使われるのが「帰納的な手続き」であるとしている。
 「帰納的な手続き」における暗示的な接触、すなわち、手探りから推測を引き出すことでは、対象に対する興味や関心、試行錯誤や試行接近が重要なはたらきをするという。また、支持的な接触、すなわち、推測を洗練し、数学的な事実を導くことでは、推測をさらに確かなものにする思考実験と証明が重要なはたらきをするという。

イ 帰納的な態度

 G.ポリヤは「帰納的な手続き」を支える態度として「帰納的な態度」につても触れている。これは、一般性をもっていて、算数・数学の学びに限定されるものではない。一般にものごとを考えたり処理したりしていくときに常に配慮しなくてはいけないことでもある。逆に言えば算数・数学を素材としてこういった側面を育てることができるのであれば、学校教育における算数・数学科の存在を、一層確かなものにできるのではないか。先に触れたように、G.ポリヤは、三つの要素を挙げている。一つは、「知的な勇気」である。これは、自分で気づくか、他から指摘されて気づくかはともあれ、自分のしたことや判断について「おかしい」とか「不十分なことがあるかもしれない」と思ったら、確かめたり、やり直したりできるようにすることであるとしている。すなわち、自分のしたことや判断について「確かめたり、やり直したりすること」を決断するには、勇気が必要であり、この勇気を「知的な勇気」としていると思われる。
 いま一つは、「知的な正直さ」である。これは、確かめたり、やり直したりした結果、その通りでよいことが分かった場合にはそれを受入れ、間違いや不十分なところが見つかった場合には潔く改めることができるようにすることにかかわる態度としている。
 最後は、「賢明な自制」で、これは、確かめたり、やり直したりした結果、明確な判断がつかない場合、優柔不断な態度をとらないようにすることとかかわっている。

2.署名な数学者の数学観に学ぶ

  先に触れたように、M.クライン(Kline;1908-?)は、数学の思想史をひもとき、それを基に数学の特性をまとめている。それらは、研究の方法としての仮説的思考、創造的な活動、記号的な言語、知識の体系、合理的な精神である。
 「研究の方法としての仮説的思考」に関しては、「注意深く概念の定義を行うこと」および「推論の前提を明示すること」を挙げている。また、「記号的な言語」に関しては、「注意深く、合理的かつ巧みに工夫されていること」を特性としてあげ、そのはたらきやよさについて「意味を明瞭にすること」及び「厳密であること」を明らかにしている。「合理的な精神」に関しては、「簡潔性と完全性を目指すこと」及び「完全なものへと人間の心を励まし力づけてくれること」を挙げ、「人間存在に課せられた問題の解決」、「自然を理解し統御すること」及び「既知の知識のより深い理解」などを根底で支えていることを明らかにしている。
 では、なぜ、M.クラインはこのような議論に関心をもつことになったのであろうか。彼は、当時の数学の授業に苦言を呈していることから、推測できる。それは、次の二つのたとえ、すなわち「絵画を色の構成で議論すること」と「人間を説明するのに骨の個数と名称を示してすること」による。皮肉たっぷりである。似よりの状況は今日の算数・数学の授業にもあるのではないか。
 およそ一世紀以前に今日の中等普通教育における数学教育の在り方が当時の欧米先進諸国で展開された。それは、数学教育改良運動と言われているが、その時の著名な数学者でこの運動に大きな影響を与えたといわれている人たちの数学観について見ておこう。いずれも、数学を通しての人間の教育を論ずる際の示唆となる。
 ドイツのF.クライン(Klein;1849-1925)、は「数学から応用をうばうことは、骨組みだけあって、筋肉も神経も血管もないような動物をさがすのと同じである。」と述べている。また、「公式は黙っているだけで、眠ってはいない。」とも述べている。これらは意味深長であり、数学とのお付き合いの仕方の急所を指摘している。
 ついで、科学者としても有名なフランスのH.ポアンカレ(Poincare;1854-1912)は「数学はいろいろの異なるものに同じ名前を与える芸術である。」と述べ、数学はものごとを発展的、統合的にみてより簡潔・明瞭・的確なものを求め続ける態度に支えられていることを主張している。さらに、論理と直観の関連について「論理によって証明し、直観によって考え出す」とも述べている。
 また、アメリカのJ.ヤング(Young;1879-1932)は「数学はその完成された形において演繹的であり、それをつくりだす過程においては帰納的である。」として演繹と帰納のはたらきや役割について端的にまとめている。
 いずれも、これまでの算数・数学教育を振り返り、算数・数学教育のこれからを展望する際に活かしたいものである。
 現行学習指導要領の主要なねらいとして「ゆとりのある教育活動を展開する中で基礎・基本の確実な定着を図り、個性を生かす教育を充実すること」があるとされている。これは教育課程審議会の答申において言われたことでもある。答申の概要は、英文にも訳されホームページ上で公開されているが、その作業の中で翻訳にもっとも困難を究めたものが「生きる力」と「ゆとり」であったと言われている。「生きる力」は”zest for living”で落ちついたが、「ゆとり」については議論の末“room to grow”に落ちついたと言われている。“room”は「すきま」であり、「あそび」である、したがって、子どもたちの成長に必要な、あるいはそれに資する「あそび」、そこにこそ「ゆとりの心」の趣旨があったと言えそうである。子どもたちにとって「うるおいをもたらすゆとり」となるためにも「数学の心」に触れ、本物の数学とのお付き合いができるよう導くことが強く要請されている。その際、先人の卓見は指標となろう。

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