学校法人ガバナンス改革会議(第3回) 議事要旨

1.日時

令和3年8月20日(金曜日)13時00分~14時00分

2.場所

オンライン会議

3.議題

  1. 海外私立大学のガバナンス等について
  2. その他

4.出席者

委員

増田座長,石井委員,岡田委員,久保利委員,戸張委員,西村委員,野村委員,八田委員,松本委員

文部科学省

小谷高等教育局私学部私学行政課長,相原高等教育局私学部私学行政課課長補佐

オブザーバー

株式会社経営共創基盤共同経営者(パートナー) IGPIグループ会長 冨山和彦

5.議事要旨

<議題1 海外私立大学のガバナンス等について>
・座長より冨山和彦氏の紹介が行われ、その後冨山氏より資料1について説明。
 
【冨山氏】
 私から個別の海外の私立大学の話をだらだらやっても退屈というか,多分そういう資料は皆さんのほうで回っていると思うので,むしろ今日の議論の中心はそういったものも含めて,これは政府であろうが,あるいは企業であろうが,あるいは大学であろうが全ての組織に共通のガバナンスの要諦というところを,まず私なりの見方というのでしょうか。自分は学者ではないので経験的な部分がベースになりますけれども,そういったことをお話しさせていただいて,その中で別の会議等で随分海外の大学の研究はしているので,いろんな大学の研究なり,私なりに話を聞いたり,いろんなヒアリングをする機会があったので,ある種の共通項的な課題みたいなものを,抽出したものを後半で申し述べたいと思っています。
 まず,基本的にガバナンスという言葉は英語ですけれども,なかなかきれいに日本語にならない米語でありまして,あえて説明っぽく言うと,ここにお書きしたとおりで,基本的には組織統治の仕組み,もっと機能論的に言うならば,組織運営上の権力構造を健全に機能するための仕組みの話です。
 だからガバナンスが効いているというのは,要はしっかりと組織運営上の権力構造が健全に機能しているという意味ですけれども,形の議論としては,当然のことながら組織制度,あるいはそれを規定する規範ということになります。ですから国家で言えば,当然,憲法が一番上にあって,そこに民主主義と三権分立という原則が書いてあって,それに基づいてその統治機構,さらにはそれを具現化する下位規定,制度があるわけです。
 会社で言えば,実は最上位機能はガバナンスでいうと会社法です。会社法に何が書いてあるかというと,これは資本民主主義による議院内閣制でやれと書いてあります。要は株主総会で,国では国会議員に相当する取締役を選んで,その取締役会が総理大臣に相当する経営者を選んでという仕組みになっています。
 またその下に今,ガバナンスコードみたいなソフト的な,一般的な,一般規定が下位規定としてあって,さらには個別の企業ごとに取締役会規定であって,そういう定款であるとかいうものが下にあります。これは形の議論です。
 もちろんこの制度というのは形の要素と,仕組みというのは形と実があるわけで,実という関連で言うならば,要は制度を担う人材と運用実態というのが実を決めているわけで,世界中,形だけ民主主義の国はいっぱいありますけれども,実質的に民主主義の国はあまりないので,まさにそれを担っていく人材がどうかという人材の質の問題と,実際どう運用されているかという話になってきました。
 さらには,このガバナンスの機能性というのは,これも企業などでもよくある話ですが,やはりしっかりとこの実において実績が積み重ねられることが統治される側からの信頼感を生むので,それがまたガバナンスの権威を高めることになります。
 ということで,そういった信頼感というのがある種,ガバナンスの権威機能性をつくります。下にいってもらえますか。
 次に,こういう組織統治において,これが機能するための幾つかの基本原則があると思っているのですが,一つは統治権に正統性の源泉がないと,みんな要するに言うことを聞かなくなるわけです。そういう意味で言ってしまうと,大きく権力的な契機。要するに実際のハードパワーとしてそれを担保するような仕組み,力を制度的に担保されているかという問題と,それからもう一つ,ソフトパワー的に,やはりみんなが共感して権威的に認めてくれないと誰も言うことを聞いてくれないと。毎回人事権を行使しているわけにいかないですから,日常的にはむしろのこの共感や権威的な契機でガバナンスというのは機能します。
 では,どう機能するかということですが,いろいろあるのですけれども,結局集約すると,権力をつくることとその権力を抑制することに私は尽きると思っています。ですから,企業であれば経営者,あるいは国なら総理大臣もです。総理大臣の持つ権力をつくる,内閣が持つ権力をつくるけれども,その一方で内閣が持っている権力を抑制するというのがガバナンスの役割だと。その仕組みとして三権分立というのが出てきました。
 したがって,そこで抑制ということは何が大事かというと,実はこれは2つの暴走があって,作為の暴走,不作為の暴走があります。実際,企業で多いのは,日本の場合,不作為の暴走です。作為の暴走というのは,ゴーン事件なんかは作為の暴走ですけれども,実際はむしろ不作為なまま崖に向かって誰もブレーキを踏まずに走っていってしまうみたいなケースが,これは実は野村委員が昔言ったことの受け売りですけれども,そういうケースが実は多いです。
 大体その会社が本当におかしくなる根源というのは,私が経験したカネボウ、JALなどはみんなそうですけれども,やるべきことをやらないでいるうちにとんでもないことになってしまうというのが多いです。
 だから,一般に守りのガバナンスというのは,作為に対してとんでもないことをどう防ぐかということですけれども,攻めのガバナンスは,どっちかというと不作為の放置プレーをどう是正するかという,多分両面あります。ですから,その権力をどう牽制するかという意味で言ってしまうと,この2つの暴走への対応力ということになると思います。
 あともう一つ,時に,みんなで決めたガバナンスメカニズム自体を壊そうとするものがいるので,これは昔のナチスなんかがそうです。だから,そういったガバナンスメカニズム自体への攻撃からガバナンスを守ることがすごく重要な意味を持ちます。
 繰り返しになりますけれども,ガバナンス力,統治力というのは結局,形式面と実質の掛け算になるので,よく形式か実質かという議論をするけれども,私はナンセンスだと思っていて,これは掛け算です。だからあくまでも形式がしっかりとして,そこに実質が伴って掛け算になるので,足し算ではないというところが,実はこのメッセージのポイントであります。
 次に,この実際のガバナンスを機能させるときのディレンマというのがあって,とりわけ現代的に言うと,競争激しい,環境激変激しい,DXやら何やらとんでもない破壊的イノベーションが起きます。そこに金融危機がやってきてみたり,あるいはパンデミックをやってみたり危機が来る時代で,こういう時代はどうしても強いリーダーシップが必要になるのです。こういった状況に対応するためには,トップダウンで大胆な戦略的意思決定を行わせる必要があるわけです。ここが実は企業,国家,大学,恐らく今,全ての法人組織に共通の要請です。
 ただ一方で普遍的な課題として絶対権力は絶対に腐敗するので,要は物すごく強力なトップリーダーシップの権力をつくらなければいけないのだけれども,その強い権力を抑制することもガバナンスの今日的な挑戦課題なので,みんながガバナンス,ガバナンスと言い出したのは,こういう背景があるのです。強い権力をつくるという意味でも大事だし,強い権力を抑制することは弱い権力を強くするより難しいので,両方の意味でガバナンスを強化しましょうという議論になるのだと,私は自分自身の経験を含めて感じております。
 その中で生々しく現実的な課題として一つあるのは,一方でトップを強くするということと同時に,経営執行のトップをボスのいないトップにしないことが現実には一番重要な課題になります。結局,ガバナンス主体の存在の重要性ということになるのです。会社で言えば,取締役会です。結局,執行のトップとその経営チーム,会社で言えばCXOクラスが健全に機能しているか監督する主体,通常はボードのような合議体になるのですが,それがしっかりと存在していて,その監督機能を担保するにはトップに対する人事権を名実ともに持っていることが,私は必須だと思うのです。
 結局,モニタリングや何とかいったって,人事権のない人がモニタリングしたって全然される側はなめてしまうに決まっているわけで,だからやはり人事権を持っているということが必須で,これが統治権の私は実態だと思うのです。
 ですから,これを裏返して言ってしまうと,トップリーダーシップの強い権力をエンドースするのも,この統治権の主体がエンドースをすべきです。これが曖昧だと,権力は極端に強くなり過ぎてしまったり,極端にぼんやりしてしまったりするのです。日本の会社は,意外とこれが曖昧な場合が多くて,誰がこの社長を選んだのかよく分からないぞと。OB5人ぐらいで決めたらしいなどという話になってしまって,そうすると全然法律的な実態がないので,急に変なふうに首が飛んでしまったりするわけです。
 この前,中西さんが亡くなったので,追悼文を川村さんが今,『東洋経済』に書いていますけれども,川村さん御自身がなるときに,実はOB会,名誉何とかを彼は全部やめてもらっているのです。明確に自分は株主から選ばれたトップとして,これからの再生改革をやるということを明示して,御自身も任務が終わったら,すぱっと辞めているのです。だから,あれはすぱっと辞めるような取締役会にしているのです。
 だから日立の再生の鍵は,実態的なことと同時に,やはりあのようなガバナンスをきっちり整備したので,その後10年間にわたる改革が続いたと理解しているのですが,やはりその統治権の主体,実態というものをしっかりとしなければいけないというのが,実はこのガバナンス改革のすごく大事なところです。
 そうするとガバナンス主体,あるいはガバナンスボードが持つ統治権の正統性をどこに求めるかという先ほどの議論に戻るのですが,これはどうしても基本的にはステークホルダーということになります。要するに当該法人,だから国で言えばステークホルダーは国民です。その法人が機能することによる受益者が正統性の源泉ということになるので,したがって,国家であれば選挙民が一義的なステークホルダーで,選挙民から民主的な選挙で選ばれた全国民の代表で構成される国会が国権の最高機関として持つ正統性が,実はガバナンスの正統性の根源になっています。
 会社であれば株主が一義的なステークホルダーですから,株主から株主総会で選ばれた取締役,今の考え方は株主だけではなくて,様々なステークホルダーの共同利益を代表する取締役で構成される取締役会が持つ正統性ということになります。
 ここまではいいのですが,形としてそれをつくったとして,この実効性の議論が今,会社の中でも議論されているわけで,政府の機能においても実効性が常に疑問視される場合が多いのですけれども,要は賢明にして有能なトップを選任し,監督し,有能なら再任し,逆に駄目なら再任しない,さらには解任する実質的な能力を,それは制度上あるということに加えて,ガバナンスボードあるいはガバナンス主体を担う人,立憲君主制だと王様がそれを担っている場合もあるのですが,要は個々の構成員並びに合議体としてそれを持っていることです。
 今,言われているのが,一生懸命,私も当事者なので言いにくいのですが,大分,会社のガバナンスを整備してきたのだけれども,やっている連中はどうなのかという,なんちゃって小遣い稼ぎ社外取が多くいるのではないかみたいなことを言われていて,やや真実なので,ここは何とかしなければいけないと思ってはおりますが,ここが結局実質論の一番怖い面です。
 加えて,そういった人たちがしっかりと仕事をして,真剣にガバナンス業務に貢献していることがやはり見えることが,先ほど申し上げた統治をされる側から見たときの権能行使の正統性を高めます。
 ですから,例えば指名委員会をつくって,指名委員会でぽこっと選んだ,エンドースで形をつくったって指名委員会は実はダメなわけで,やはり指名委員を構成する人たちが真剣に時間も手間もかけて,次のトップをどうしていくかということに対してすごく働いている姿が社内外に見えていないと,そこで選ばれた社長はあんまり正統性を持たないのです。なので,急に決める直前に集まって,事務方から出された名前について,いいですよと言ってしまう運用では駄目なので,ですから,やはりその運用実態というのが重要だということです。
 そこでこういった議論を大学に当てはめるときの難しさですが,例えば政治の世界だと,やはり一義的にステークホルダーは明確に国民なので,ある意味で分かりやすいです。会社の場合も,やはり一義的には株主です。これは会社法上,明確になっています。
 大学の場合,複数の拮抗する多様なステークホルダーがいるので,これは皆さん,今日,大学関係者が多いので釈迦に説法ですけれども,教員もいれば,学生もいれば,職員もいれば,アラムナイもいれば,寄附者もいれば,私学も助成をもらっているから一応納税者もいるわけですね。それから社会全般と非常にいろんなステークホルダーがいるので,多様なステークホルダーかつ割と異質なステークホルダーがいる中で,ガバナンスボードとガバナンスストラクチャーをどう設計するかというのはやはり難しいです。すごく幅が出てしまうのです。
 だから諸外国の大学もパターンはすごく多様で,アメリカでもやはり結構多様性があるわけです。同じアメリカでもハーバードとスタンフォードは大分違いますし,あとイギリスはかなり違うわけです。イギリスは本当に沿革的に出来上がった仕組みなので。したがって,これをどう設計していくかということは,あまりシンプルではないという意味では難しい。ただ,その設計するときのポイントは今まで申し上げたことと同じであるということは変わりないということになります。
 それからあと,要するに教学の独立性という問題があって,これは微分していってしまうと,個々の教員や学部学科の独立性という問題があるので,その問題と全体としての経営最適化の関係が難しいです。例えば資源配分の入替えや,学部学科の改廃みたいな問題の間には常に緊張関係があります。これはアメリカだってすごくあります。
 ですので,この緊張関係をどうハンドリングしていくかというのもガバナンス上の,シンプルにどちらかの原理が優先すると簡単に整理がつかない問題だけれども,ただ,今の状況においてはどちらかが絶対優位ではないのです。常にこの両方をどうバランスを取っていくかというのが今の大学の経営になりますので。
 加えて,現代的な課題としては,やはり大学にも経営という概念がすごく重要になってきていることは事実です。大学も非常に厳しい競争にさらされていますし,学生が集まらないという問題にも直面していますし。したがって,要はこの教学の独立性の問題と経営最適化の問題でいうと,昔よりはこの経営が重くなってきているという流れは明らかにあると思います。
 ですので,そういった意味で,東大の五神さんは「運営から経営へ」という言葉を言っていましたけれども,どちらかというとやはり運営という一種のオペレーションだけをやっていればいいのではなくて,むしろ経営、マネジメントをしなければいけないということです。
 それともう1点,これは大学によって差はあるのだけれども,アメリカの大学の歴史を見ていくと,むしろ大学自身の稼ぐ力の強化とそのチャンスの広がりという一つの流れがあります。これも経営の強化とリンクするのですが,これは私が1990年にスタンフォードに留学していたのですけれども,この頃のアメリカのスタンフォード大学はスーパーウルトラ財政難でした。
 アメリカは,政府も70年代から80年代は実はとても財政難だったのです。スタンフォードもばんばんばんばんフェデラルバジェットで切られて,すごく貧乏で,中にある噴水は止まっているし,地震で壊れてしまった教会はそのままずっと閉鎖だしみたいな,もうとても貧乏でした。
 今,日本もそうですけれども,当時とてもフェデラルバジェットが切られている時代に,とにかくこれは自分で稼がないともうどうもならないという状況が実は当時,明確にありました。ハーバードは古い大学で,既に結構エンダウメントを持っていましたけれども,まだスタンフォードは新しい大学だったので,その頃からとにかく稼ごうという話と,もう一つは,ちょうどその90年代に,御案内のようにデジタル化であるとか,バイオなどというのがイノベーションの時代に入っていて,結構大学が稼ぐチャンスが広がっていったのです。だからこの2つが相重なって,経営というものがすごく鍵になって,その後の成功の時代になったのです。かつ,そうやってとても稼げるようになったお金で教学にばんばんお金を突っ込むという好循環です。そういう時代になっていきます。ですから,その稼ぐということと教学というのが,ややトレードオフだったものが,今トレードオンにしていかなければいけない時代になっているという時代認識を私は持っています。
 そこで,現代の米国の有力大学のビジネスモデルとガバナンスモデルはいろいろあるけれども,あえて最大公約数をここに書いています。
 一つは,やはり今申し上げたような循環メカニズムのビジネスモデルになってきているということなので,大学に資金とレピュテーションをもたらしてくれるアラムナイ重視のガバナンスモデルがより顕著になっています。アラムナイが明確に強くなっています。だから,ガバナンスボディーというのはかなり有力アラムナイが支配するという構造にはなっていて,そのアラムナイというか,ボードです。アラムナイがメインになっているボードがエンドースした形で,強力かつ長期政権の経営者タイプの学長が出現しています。これはイエールの有名な彼もそうですし,スタンフォードもそうです。ですから結局,どちらも20年ぐらいやっているのかな。そういった学長が出現するようになっています。
 このメカニズムをもう少し解析的に言うと,結局,卒業生が経済,政府,アカデミアで出世して富裕層や有力者になる。あるいは最近は起業で大成功することで大きな富を手にして,多額の寄附をしていると。あるいは産学連携を通じて研究資金をもたらします。大学もステークを持っているベンチャーに投資をしても,そこでまたもうけます。さらには,巨大化した基金が大きな運用益を生むという形で巨大な資金が大学運営に流れ込み,それが潤沢な基礎研究や充実した教育システムへの投資に回ります。
 実は一番この中でみんな口をそろえて言うのは,結局,人材の取り合いです。何をやっているかといったら,グローバルにすごい勢いで人の引き抜き合いを研究者に関してもやっているし,あと実は,学生は入れてあげるという感じでは必ずしもなくて,例えばビジネススクールでいうと,ハーバードとスタンフォードの入学者で,同じ学生の取り合いが結構すさまじいです。最近はさすがに私も年を取ったので要請が来なくなりましたけれども,昔はとにかくリクルーティングリクエストというのが来て,日本人で両方とも受かっている人のところに電話をして,とにかく絶対スタンフォードに引っ張ってこいと。だから,学生のアドミッションのところでリクルーティングという言葉を使っていました。要は,将来ものになりそうな人をとにかくうちの学生にしろと。それがスタンフォードアラムナイになるか,ハーバードアラムナイになるかで将来のスタンフォードビジネススクールの財政が決まるのだみたいな感じです。そういったところにお金とエネルギーを使います。
 あるいは最先端の研究施設への設備投資を行うことで,イエールもスタンフォードもそうですけれども,教学面でも大きな成果を上げるというサイクルを幾つかでうまくつくれたのが,この30年間ぐらいの状況です。
 その背景として,産業構造が先ほど申し上げたように知識集約化,デジタル化,ゲノム化が進んできているのです。そうすると,大学の持つ先端的な知がかなり直截に巨大な富を生む時代にシフトしてきたので,その中でこの資金循環の輪が巨大化してきたのがこの30年余りの経緯であり,またエンダウメントが,さすがにハーバード,イエールは昔からあるのですけれども,スタンフォードは私がいた90年代初頭は数千億円しかなかったと思います。この30年間でいきなり3兆円ぐらいの規模になったのは,だから30年前はそんなに今の日本の大学と,私学と大差ないのです。もちろんお金持ちの大学でしたけれども,壊れた噴水を直せないぐらいお金がない,ランニング的に見たらお金がなかったので,アセットはありましたけれども。そんな感じだったので,やはりこの30年の間に物すごく差がついたというのが,特に私立大学に関して言うと,そういう状況が起きているのかなと思っております。
 なので,大学のアメリカのモデルの中で,もちろん日本に持ち込めるものと持ち込めないものがあると思います。ただ,それぞれの国々の環境の中で,今日の前半で申し上げたようなガバナンス上の基本原則というものは変わらないはずなので,だから国だろうが,企業だろうが,大学だろうが,日本だろうが,アメリカだろうが変わらないはずなので,そういったリクワイアメントを日本の私立大学の中にどう生かしていくのかというのは,多分ここでも考えられるのだろうなと思っている次第であります。
【増田座長】  
 それでは,今の講演について早速,質疑,意見交換の時間としたいと思います。まず,最初に私から質問をしたいと思いますけれども,先ほど御紹介した在り方検討会で議論のテーマの中にガバナンスの抜本改革があり,その中に学長の選出について選挙を禁止したらどうかというのが入っているのです。これについてどういう考え方があるのか,その辺を御紹介いただけるとありがたいと思います。
【冨山氏】
 あの議論の本質は,結局,基本はステークホルダーガバナンスです。そうしたときに学長選挙をやってしまうと,どうしてもワン・オブ・ステークホルダーにすぎない,その選挙権を持っている教員のガバナンスがとても強くなってしまうのです。それと違う人を選ぶのがとても大変なので,それはやはりまずいのではないかと。だから,例えば本当にそれは一つの参考意見としてだけだったらいいのだけれども,大体は選挙で1人にしてしまうのです。
 ちなみに,違う話ですけれども,今は辞められたのですが,かつてスタンフォードビジネススクールかな。どちらかがアラムナイに結構票を持っていて,それで一応誰がいいかというのを出すような仕組みがありました。けれども,それで1人には決めていなかったのです。むしろそこでやるのは5人ぐらいか,10人かのノミネートには使っていましたが,そういう民主投票制的なものはノミネーションには使っていたけれども,誰かを1人選ぶのには使っていませんでした。やはりそれをやってしまうと弊害があるということでそれは排していたので,あのときの議論はとにかく従来の,東大などもその典型ですけれども,東大で総長選と違う人を総長にできたケースは一回もないのではないかと思うのですが,やはりそれだけの歴史もあるので,そういう沿革的なものも含めて結局ステークホルダーガバナンスにならないので,この際やめてしまったらいいのではないかという,そういうことだったと。
【増田座長】
 1つのステークホルダーに偏ってしまうということですか。
【冨山氏】  
 そうです。そこに決めてしまうので,あんまり。結局,それで決まってしまうのだったら,ほかのことをやる必要ないとなってしまうのではないですか。
 その弊害を防ぐために,確か東大の場合,5人の候補を絞り込むときにはコミッティー方式でやっているのですけれども,私はあれを順番が逆だと思っていて,あれでやるのだったら,ノミネーションについて例えば教員投票みたいなものをやってもらって,ノミネーションでそれは参考にするけれども,最終的に1人を選ぶのは理事会なり,学長選考で選んだほうが,私は健全だと思います。最終的なマルチステークホルダーを代表しているのはボードであって,選挙ではないので。本当に選挙をやるのだったら,アラムナイにも全部投票権を開くべきです。
【松本委員】
 2点教えてください。
 ディレンマのところで,強い権力をつくることと強い権力を抑制することが大事というのはよく分かります。そこでどういう人を選ぶのかが問題になるわけですが,それは選ぶ人をどうやって選ぶか,そしてその選ぶ人をどうやって選ぶかと延々と続いていく。この辺りについて,イエール大学やスタンフォード大学はそのように整理しているのでしょうか。これがまず1点。
 それから2ページ目,ガバナンスボードの実効性をいかに高めるかのところです。3行目で,さらには「解任する実質的な能力を」と書いてあります。解任する能力と解任する実質的な能力はどのような違いがあるのか教えてもらえませんか。
【冨山氏】
 1つ目のポイントですが,例えば私はスタンフォード大学しか知らないのですが,スタンフォード大学のボードに選ばれるということは,大変名誉なことです。ほぼ全OBが,下手すると日本の何とか大綬章よりもはるかに,間違いなくOBとして勲章よりはるかに勲章です。
 ということは,ボードメンバーというのはある意味,極めて厳格なクラブ組織です。要するに,何だかなという人は欠格で外されてしまいます。要は,そのクラブ組織の中で高級ゴルフクラブの会員に選ぶのと一緒です。とてもエクスクルーシブないろんな条件をクリアして,いろんな評判やレファレンスも取って,この人ならボードの同僚にしていいという人を選ぶというピアレビュー型です。
 だから,本来あるべき姿としては弁護士会などもそういう形だと思うのですけれども。なので,そういうピアレビューで本当にみんながリスペクトできるような人を相互リスペクトで選んでいくという仕組みなので,やはりさすがに変な人は選ばれていないです。とても成功しているけれども,この人は人格的にどうかなみたいな人は選ばれていないので。そういう構成でやって,それがずっと沿革的に,先ほどのまさにソフトパワーではないですけれども,歴史的にその積み重ねがずっとあるので,やはりこういう歴史のあるメンバーの中で,この人たちは変なことをやらないだろうと大学関係者はおおむね思っていると。時々変わったサマーズみたいな人が選ばれてしまうと,ああやって首になってしまいます。そういう感じです。
 だから,ここは制度的というよりはとても沿革的です。やはり英米の仕組みというのは,物すごく経験主義的に出来上がってきているアプリオリではないので。どちらかというと,そういう沿革的な運用の中で極めて判例法的に権威を積み上げてきたという歴史なので,だから先ほど言った鶏,卵,鶏,卵とずっと連鎖していってしまうという意味でいうと,最後は,みんなこの人たちは立派よねというものに対する信頼をするという感じです。
 それからあと実質と形式の問題,首にするという観点で言ってしまうと,要はこの人はもう焼きが回って駄目なのではないかと思ったときに,一応学長はそれなりに偉い人ですから。だからその人に対して,すいません,再任はないですけれどもと要するに言わなければいけないわけです。
 だから言うためには,やはり言う側にそれなりの自分自身の自信なり,覚悟なりというのも必要で,割と結構みんなびびって言えない場合が多いです。森さんに辞めてもらうとき,なかなか組織委員長に首を言うのは大変だったでしょう。あのような現象がやはり起きるのです。だから,それは相当な人が,逆に言うとボードの中にいないと難しいという意味合いで,実質という話をしました。
【戸張委員】
 教えていただきたいのですけれども,前段の環境の激変という中で,日本は少子高齢化のトップランナーみたいなことで,子供の数が減っているというところが非常に学校経営に難しくなっているところがありまして,名の知れた大学はまだいいのですけれども,多くの大学が定員割れをして経営が行き詰まっているという現状が日本の中ではあります。
 その中でガバナンス的に見て,経営的な視点からすると,どういう視点に力点を入れたらいいのかというのを先生から御意見をいただければというのと,それから一度出来上がった学校が,日本ではそのままずっと存続することを前提にしております。
 アメリカ等の事情で分かっていれば教えていただきたいのですが,例えば生徒が集まらないような学校はアメリカでも存続がずっとできているのか。それともやはり市場からなくなるなど,その辺の御事情等も分かっていれば,ガバナンスの面と市場がどうなっているのか,その辺のところを教えていただければと思います。
【冨山氏】
 多分,今の2つの御質問は,実はとても同じ問題の表裏みたいな関係だと思うのです。結局,経営が危機的になっているわけですから,当然経営しなければいけないということになるのです。
 経営するということになると,当然,資源配分あるいは売り物をどうするか。結局,普通の平均的な大学の場合には,学生にどう売り物を提供するか。要するに学生がどういう教育を受けたいかということになるので,学生が集まるということは結局,平均的な大学ではやはり就職のことが気になっているわけだから,就職に役に立つようなことを教えることになっていくわけです。
 多くの場合,私が見てきた形式というのはそこにすごくフォーカスするということと,必ずしも教員の皆さんの思いがかみ合わなくて,やはり僕はシェークスピアを教えたいんだという先生がいるので,シェークスピアをやっても仕方ないのではないかと言ったら,5年ほど前に私は炎上してしまったのですけれども。そのかみ合わないところを結局,かみ合わないままだと大学経営が成り立たなくなってしまうわけですから,それをかみ合わせなければいけないというのは,まさにトップのお仕事です。
 当然,それはそういう抵抗を超えて学部の改廃をやらなければいけない,教えている中身を変えなければいけない,場合によっては先生にも替わってもらわなければいけないということになりますから,だからそういったことでやっていこうと思ったら当然,相当強いリーダーシップを形式上も実質上,持たせなければならない。そうすると,そういった改革ができるか,できませんかということになります。
 そうするとまた戻ってしまうけれども,結局それは統治権の主体がやるしかないわけです。その統治権力の主体がしっかりと主体性を持ってはっきりしていないと,これを要はみんなのコンセンサスでやっていると100年かかるので,コンセンサスをつくっている間に多くの私立大学がなくなります。なくならせないためにどうなるかというと,文科省が財務省に頭を下げて,お金を出してくださいということになるか,また文科省が自治体に頭を下げて自治体に引き取ってもらうというパターンになってしまうのです。
 そうなってしまうと,あれはもう実際は倒産しているわけです。だからそうすると,少なくともその事態を最小化しようと思ったら,少なくなっている子供なりにその若者が来てくれるような経営改革をやりなさいということなりますから,ということはまたぐるぐる回りで,やはり強いリーダーシップをしっかりとエンドースする。そういったガバナンスにしなければいけないということにはなるのだと思います。これが一つ。
 ただ,その一方で,そういった努力をしても駄目なケースが出てくるわけです。私が聞いているアメリカのケースは,やはり結構廃校になっているケースがあるようです。
 問題は,そこで学生さんをどう救うかという問題なので,多分そこは州が介入しているのだと思うのですけれども,やはりその学生をどこかに移すであるとか,要は学位を取らせてやらなければいけないので,学生をどう救済するかを考えざるを得ないです。
 このときにやはり必ず問題にあるのは,大学内の世論としては,先ほど言ったようにやはり現状は教員ガバナンスが強いので,ファカルティーガバナンスが日本の大学は圧倒的に強いですから,大体大学の統廃合や,潰れる,潰れないという案件,私も関わったことがあるのですけれども,実態としては教員の雇用確保が優先してしまうのです。やはり学長はまず教員の雇用のことを考えなければいけなくて,学生を救うことよりも,そちらの優先順位が高くなってしまうことが多いです。
 ただ,これはもちろん教員の皆さんの雇用も大事なことは大事なのですけれども,国の立場で,例えばいざ公費を投入して何とか破綻処理をする,あるいは廃校処理をする,あるいはどこかに合併されることを考えたときに,申し訳ないけれども,どう考えても優先順位は明確に学生です。だからその優先順位がしっかりとついているような,今後統廃合のスキームというのを私は用意しておいたほうがいいと前から主張しています。
 国費を直接投入してゾンビ状態を延命させるか,国立大学や公立大学に引き取ってもらって,結局それって結果は同じなのです。それは地方交付税交付金からもらって,結局そこで延命すれば,結果は同じなのです。だからそれはナンセンスな部分で,そこはどこかで整理するということを考えていかないと駄目だし,あともう一つあるとすれば,毎回問題なのは現有教員をどうするかなのです。
 何でシェークスピアを教え続けなければいけないかというと,シェークスピアの先生を首にして,その代わり実用英語の先生を雇うのです。だけど,お金がないですから首にしないと雇えないのです。それで首にできないから,そのシェークスピアの先生にTOEFLなどを教えるようにしてよねとお願いするのだけれども,そもそも向いていない人たちなので大体うまくいかないというのが,私が見てきた景色ですので,そこをどうしていくかというのは,一つの大きな課題かなと思っております。
【野村委員】
 その中で出てきた論点として,教学とそれから経営理事会の関係というのは非常に論点として難しくて,これは制度的な問題としては,例えば学長は理事に必ずなるという制度がいいのかどうかという問題が形式的にはあります。
 ただ,実質問題としてこの関係をどうするかというのはとても難しくて,御案内のとおり,先ほども議論がありましたが,学長の選出を教員選挙でやりますと,最初に空手形でこの学部は絶対に潰しません,あなたのシェークスピアは守りますとか言った人が学長になるのです。
 そうすると結局,その学長選挙自体でもうその構造は決まってしまっていて,学長はその教学を守る人,つまり経営的な観点からリストラクチャリングしなければいけないという意見に対して抵抗する人という構図になっているわけなので,ここはやはりどうすべきかという論点だと思います。
 理事会性善説もなくて,特に私立大学の場合にはファミリービジネス的な学校がたくさんあるのです。もともと寄附行為の中に込めた理念というのは,私が延々と名が残るためにこの学校をつくっているのですみたいな,そういう社会情緒的資産みたいなものに対するコミットメントをこの学校経営の中で求めている人たちもたくさんいて,そうするとそれを守ってくれる,例えば地域の中で私を地域の名士としてくださるような方々,役所で権威のあった方を教員としてお迎えしますみたいな。そうすると教員サイドから見ると,この人は何の業績もないでしょうみたいな話が当然出てきます。
 この両方ともにこういった問題点を抱えている中で,この非常に困難な問題をガバナンス論としてどのように解決するかという名案みたいなものはありますでしょうか。
【冨山氏】
 なかなかクリアな答えがあったら私も聞きたいぐらいですけれども,まずファカルティーガバナンスと外部ステークホルダーです。基本的には,アメリカの場合にはほぼアラムナイですけれども,そのアラムナイガバナンスというのは,割とアメリカでもデュアルガバナンスになっているのですけれども,最終的にどちらが上に立つかといったらそれは明確で,ステークホルダーガバナンスが上に立ちます。それははっきりさせなければ駄目だと思います。ですから,もし野村委員が仰ったように,現状,学長がファカルティーガバナンスの代表者であるとすれば,その上にもっと偉い人がいなければ駄目だということです。
 だからある種,経営サイドが,アドミの長がそこにいるとして,ファカルティー側に学長がいるとしたら,その上に本当の,それを総長と呼ぶのか呼び方は分かりませんけれども,アメリカでいうプレジデントはそういう意味です。今の感覚でいってしまうと,プロポーザルと同じになってしまうので,だからアメリカの大学で言っている学長というのは,デュアルガバナンスのもっと上のレイヤーなのです。そのレイヤーをつくらなければいけないということと,そのレイヤーを仮にガバナンスボードでエンドースするとすれば,そのガバナンスボードがとんでもなくなってしまうわけで,これは例の自律的契約関係のときに国立大学でも議論したポイントですけれども,それをまた文科省が選んでしまうと話がおかしくなってしまうので,要はどんな人物をボードにしているのかということが,要するに私学助成というのを私は一つの契約行為だと思っているのです。
 だから私学助成という契約的な資金拠出をするときに,当然,立法当事者である国は税金を使うわけですから,だから何かの反対給付があるから税金を出しているのです。あれは助成という言い方も間違っていると思っていて,要するに,その当該私学が何らかの公益的な貢献をするから,その対価として公費を出しているのです。そのように契約関係で明確に規律をつけるのであれば,その契約の中に,どういうボードを立ててくれたらいいですと。こんなボードだったら悪いけど,お金は出しませんと。国民を代表して,このような契約は結べませんと契約を切ってしまえばいい。そういう関与の仕方かなと。要するに,ある種コントラクチュアルなガバナンスです。そういうのが一つの方法かと思います。
 本来そういうのは,まともな大学であればアラムナイがあれを効かせるわけです。何でこんな人物がこんなに偉そうにしてとなるわけです。やはり金の出し手というのが一番シリアスに,その問題に対して,自分が出したお金が有効に使われてほしいわけだから,それを何か知らないけれども,あの野村修也さんの名前を銅像のために使われちゃまずいわけです。
 野村さんのポケットマネーでつくっていただければいいので。それはまずいわけだから,そういうことかなという感じはしています。
 ちなみに国立大学のほうで調べたのですけれども,カリフォルニア大学の,あれは一応州立というのは日本的な州立ではないのです。5年に1回ごとに契約を更新していて,5年契約で一定の州税を払います。それに対して反対給付はこれ,これ,これですということを毎回契約し直しているのです。
 だから実は5年ごとに,もう州立をやめようかという議論が出るのです。もうプライベート,普通の私立大学になってしまおうかという議論がずっとあって。というのは,やはり州から金をもらうといろいろうるさいものがあるので,もうもらうのをやめようという議論はしょっちゅう出ています。私が行ったときも出ていました。
 だからそういった意味でアメリカ的に言ってしまうと,日本の私立大学はほとんど実は国立なのです。私学助成をもらっているということは,アメリカの感覚で言うと国立大学なのです。だからそういう意味で言うと,私は議論を聞いていて,国立大学ももしその方向を目指すとすると,だんだん国立大学と私立大学の境目がなくなっていってしまうのです。
 要するに,国のお金を契約ベースで使っているという意味で,本質は同じなのです。仮に国立大学のガバナンス改革で,本当にトップクラスを目指す大学がそういう契約関係ベースのアメリカ的国立大学になるとすると,もうあれは実質的には私立大学です。このような感じを持っています。
【岡田委員】
 今,大学のガバナンス改革で話し合っている中で非常に関係しているなと思ったのは,例えば作為の暴走を防ぐ,あるいは不作為の暴走を防ぐというところに対応するということなのですが,我々がすぐ思い浮かぶのは理事長など,そういう方々の牽制ができていないということで,もう少し評議員会による牽制が効くような形にしようと議論しています。
 あるいは,作為の暴走を防ぐとしたら監事にやってもらうなど,監事の独立性を高めなければならないという話の流れとしては,冨山氏のおっしゃったようなことは意識しながら議論をしているところですけれども, 2ページ目の,いかにガバナンスボードの実効性を高めるかというところで,おっしゃっていることはもっともなのですが,これを抑えられるような人がいるのかと。
 例えば評議員に選ぶとしても,ここに書いてある多様なステークホルダーの存在,その中からどういう人をどうやって選ぶか。これは単に選べばおしまいということではなくて,強いて言えば私利私欲に縛られない高邁な理想を持った人になってもらいたいのですが,そもそもそういう意識があるのか,あるいはそういう訓練を受けているのかということが大変気になるところです。形はできたとしても,その後,人を選ぶときに大変苦労するのではないかと思いました。
 先ほどのアメリカの例でアラムナイが選ぶと,しっかりとした人が大体選ばれるのですよというお話だったのですけれども,日本で同じようなやり方をした場合にどうなるか大変関心があるところですが,レッセフェールといいますか,やりたいように何かをやればできるものでもないと思いますので,その辺りのアメリカでの御経験からいって,どういう人をどうやってそのボードに選ぶか,その人たちをどのようにいわゆる訓練をするかというところを,もし御意見があれば伺いたいのと,それからもう一つは,我々も今,開示というんですかね。大学のいろんな資料,あるいは体制をディスクローズすべきではないかということを話しているのですけれども,この辺りはアメリカの制度になっているのか分からないのですが,やはりステークホルダーは必ずしもここに書かれたような人の中の,一般の方々も含まれるわけで,そういう人たちにどういう資料をどのように出すのか,強制力はあるのか,あるいは御覧になったことがあって,参考になることがあれば教えていただきたいと思います。
【冨山氏】
 いずれもすごく答えることが容易ではない質問で,ということは大事な質問ですけれども,結局ボードの実効性という脈絡からいうと,これは役所が仕掛ける会議もそうですけれども,人数が多いやつは駄目です。
 もう役所主導で答え先に在りきで,しゃんしゃんで済ましたいやつは30人とか,40人とかすごい人数で,税調や何とか財政審などはやたらめったらいるのです。だから例えば評議員が30人,40人いたら,それは評議員会の意味はありませんと言っているのにほぼ等しいです。
 ですから,ガバナンスボードというのは,実質的にはしっかりとインナーで,仮に人数が見かけ多くても実質やっているのはせいぜい5人や,6人です。だから逆に人数を絞ってしまってもいいのですけれども,そんなに人数は必要ないので。本当にやる気のある人の少人数で組んだほうが,ガバナンスボードが私は機能すると思います。だから人数はそんなに必要ないです。
 結局,日本の理事会は理事長が一番偉くて,ほかの理事は何か業務執行理事みたいな理事長の部下みたいになってしまっているから,あれはやはりまずくて,アメリカのボードでいったらボードはあくまでもガバナンスボードなので,そこが学長を選ぶという形式ですから。最近学長に対してCEOという名前までつけてしまって,CEOを選ぶという仕組みなので,その関係性はしっかりと整理しなければいけないのと,ですからもし評議員会をボードと位置づけ,理事会というのは経営執行会議と位置づけるのであれば,それは評議員会をもっとスモールサイズにして,そこに本当に人材を得ることが必要になると思っています。
 実際,どういう人で構成されているかというのは,ほとんどがその大学を卒業した著名な経営者,弁護士などそういう士業の人,それから一部学者です。そういう構成で,学者もどちらかというと大学経営をやっていた人が多いです。
 アメリカは,御案内のように,大学の先生のラインが,途中から大学の経営に行く人とずっとアカデミアにいる人に割とキャリアが分かれるのです。プレジデントも,もっと一流の学者というケースが多いです。
 それはやはり理由があって,さすがにさっき言ったようにファカルティーガバナンスの上にも立つので,どっちかというと,学者としてもすごかった人が座っているほうがみんな言うことを聞くので,そういう経緯があるから,純粋な民間経営者が有名大学のトップになることはあまりないです。
 逆に,ずっと研究室に籠もっていた人がある日突然プレジデントになるわけではなくて,例えばですが,最初ハーバードに行った先生なのだけれども,大学経営の道に進むというので,もう少し格の下がる大学のプレジデントをやって,その次に例えばスタンフォードをやって,最後にハーバード,あるいは逆にハーバードをやってスタンフォードというケースが多いです。そういった人間がボードに入っているケースもあります。元学長もいました。
 ですから,そういった人間を引っ張ってくることになるのですけれども,これも鶏,卵で,結局人数を絞ったとしても,そういうボードを構成しようという意思がどこかに存在しないと,そういうボードは強いボードになってしまうのです。だから実は,久保利委員や,戸張委員,野村委員みたいな人をボードにするのを日本の会社も嫌がるわけです。だから,有名な割に意外と声がかからなかったりするのです。特に指名委員になるときなど。結局だから選ぶ側がそういった明確な意思を持たせなければいけないので,そういう意思を持つようにどうプレッシャーをかけるかという問題です。
 それで,適任者がいないという議論は,これを言い始めてしまうともうずっと鶏と卵なので,とにかくベストエフォートを5年,10年続けろということだと思うのです。これは会社でも言われています。適任者がいない,いないとみんな言うけれども,そもそも努力してから言えよなという感じはあって。だから,最近は一般の人は1人でもいいのです。それだけでも全然変わってしまうので。だから,そういったことの積み重ねかなと私自身は思っております。
【八田委員】
 今日のテーマと直接関わらないですけれども,私も大学の教員として常々思っていることは,冨山氏がかなり前から大学の在り方に関して,L大学とG大学,いわゆるグローバルか,ローカルか,あるいはそこで行う教育の内容ですよね。あれに私は非常に感銘を受けているのですが,残念ながら日本のシステムは,いわゆる規制業種という,学校の場合は文科省の下において一律規制を受けるわけです。
 今日もアメリカの話をされていますけれども,私が知る限りでは,やはりアメリカは州立大学でも運営している予算の半分ぐらいしか州からもらっていないのですよね。だから日本と違うわけですよね。
【冨山氏】
 全然違います。
【八田委員】
 ということで,日本は要するに規制も受ける代わりに抱っこもしてもらって,補助金ももらって,準国立大学みたいになってしまっているわけです。
 そこで今,改革会議をやっていても,どこにターゲットを絞るかがなかなかはっきりしないのですが,基本的には,今日のお話にもありましたように,いわゆる大学,学校法人をベースに見直すことになっているのですけれども,世の中には幼稚園があったりいろいろあるわけです。そこで,文科省の仕事かもしれませんが,東証でもプライムは市場を区分しますよね。
【冨山氏】
 ほぼグローバルとローカルに分けてしまうのですね。
【八田委員】
 そうですよね。ああいう形で,法律でやるのではなくても,私立学校のガバナンスコードもあるのですけども,そういうところでいわゆる国際的に遜色ない形,そしてガバナンス上も社会的にも納得できる姿を実施できる大学と,そうではないところ,若干緩和的な,そういうのを分けて議論していく考え方はいかがでしょうか。
【冨山氏】
 実は,国立大学側の今の改革の議論は最初から分けるつもりでやっています。国立大学でさえ,はっきり言ってグローバルにスタンフォードだ,ケンブリッジだと競争できる大学が幾つあるのだよという議論が実態としてあって,もちろん学部レベルで丸々大学,この学部だけは世界クラス,それはあるのです。それはアメリカだってあるのですけれども,大学トータルで見たときに,オリンピックやワールドカップに出ていて,あるいはマスターズで出場できるものが幾つあるみたいな話になると,それは物すごく格差が開いていることは事実で,そういう意味で言うと私立はそのばらつきがもっとです。そのばらつきがすごくある中で,ばらつきをばらつきとして,それはそういうものを前提に議論を進めるというのはもともと私の考え方です。
 これを言うと,大学間格差を固定化する気かとまたすぐ怒られるのだけれども,格差はどんどん空いてきたのだから,固定化しなくたって広がっているではないかと,何を言っているのだ,という感じだけれども。割と左寄りの先生方に批判されてしまうのです。結局,八田委員がおっしゃるように,一律の1つの軸でやるから格差になってしまいます。けれども,それを多様性と捉え直せば,これは東京大学でさすがに簿記を教えるのは実際問題として不可能なわけです。だけど,簿記会計を本当にしっかりと教える大学があってもいいわけで,それは恐らく私立大学のほうがやりやすいわけです。
 そう考えると,要は実務家教育,だからそういう意味で職業大学をつくったのだけれども,私はあの職業大学みたいな話というのは,むしろ既存の普通大学の半分以上があっちにシフトしたほうがいいと思っているのです。
 私の知っている友人がやっている大学で,熊本に崇城大学があるのですけれども,これはそんなに偏差値が高くない私立大学ですが,あそこは普通科大学なのにパイロットになれるのです。いつも定員が満員になるのは,そういう航空関係だけです。だけれども,それ以外の一般教育は学生を埋めるのにやはり苦労しているのです。
 だからもう社会のニーズは明々白々で,少なくとも偏差値50前後以下の大学に関して言ってしまうと,もうこれは誰がどう考えたって,僕の言葉でL型,職業教育型になっていかないと学生が集まらないです。現実に対しているから,それを大学の側のほうがよく分かっていると思いますけれども。だとすれば,八田委員が言われたように,上は早稲田,慶應,中央という大学から,こっちの偏差値30台まで同じ一律で規制するというのはあり得ないでしょう。それはワールドカップに出るような人たちと,その辺で市民大会のサッカーをやる人と同じ基準になってしまうから,私はもともと分けろと言いたいです。
 ただ,そのときに一つのラインで,先ほど言ったように序列化してしまうと,それは決して健康的ではないのでやはり役割分担だと思っています。八田委員も御案内のように,アメリカは事実上,役割分担になってしまっているのです。やはりそれは同じ州立でもカリフォルニア大学,カリフォルニアステートと,あとコミュニティー大学で完全に役割が違うわけです。
 当然そのシフトはあるのです。だからコミュニティーカレッジに入った人が,3年次にUCに移るということは当然あるわけですけれども,やはり役割が明らかに違っていて,みんなそれぞれの目的を持ってカレッジに行くわけです。だからそうなったほうが私は豊かだと思っているので,ここでの議論もそういう多様性を前提とした議論にしてもらったほうがいいのかなという感じはしています。
【久保利委員】
 冨山氏のおっしゃるとおりで,問題は,結局冨山氏から私は何を聞きたかったかというと,アメリカはこうで,日本はこうで,アメリカのいい点はこういう点なのだよということをお聞きできればと思ったのです。
 今の先生の総括を聞いていると,要するにアメリカは私立大学といっても,州立大学といってもみんな私立大学なのだと。日本はみんな私立大学といっても,国立大学といっても,みんな国立大学なのだという大きな違いがあって,そこで補助金でみんな飯を食っている。
 学者の先生たちはやはり昔ながらのことを教えてやっていくという旧態依然たるものが,もうもたなくなったということなのだと思うのです。もたなくなったらば,だけれども,残念ながら文科省もその昔の旧態依然を引っ張っているところがあるので,結局この会議でそこを全部根っこからひっくり返して,ガバナンスという観点から変えてくれということが多分,この骨太の中で法律を改正していきたいということなのだろうなと私は理解をしています。
 そういう点で,問題は,だから多様性のあるそういう大学,あるいは偏差値が違う,あるいは本当に能力が違う,教員の能力が違うのは違うでしようがないので,それはもうオリンピックに行くのは諦めなさいというだけの話ですから。だけれども,運動してはいけないと言っているわけでもないし,スポーツをやってはいけないと言っているわけでもないです。
 とすると結局,解決策としては文科省がしっかりとそこを見ていって,この学校には金をもうやらないよとなっていけば,その学校はなくなっていくと。現実にロースクールがなくなっていったときは,そういう形でなくなっていったわけです。
【冨山氏】
 国にやらされました。
【久保利委員】
 だからそういう状況を考えてみると,何もロースクールだけいじめて潰したってしようがないので,普通の大学もそれなりに違う方向性で生きていきなさいという指導をしながらアメリカの州立大学のような中期の契約をやっていく。そういう形で変えていく方法しかないのかなと僕は思うのですけれども,冨山氏がこのメンバーだったとしたらば,どういう提言を根幹に据えられますか。
【冨山氏】
 だから実はこの議論をしていくと,先生がおっしゃるように国立大学の議論も,この議論も全部同じ答えになってしまうのです。結局それはどのようにディシプリンを働かせるかに尽きてしまうわけで,このディシプリンというのは結局,契約に基づいてお金が払われるのだと。当然そのお金と契約のところにディシプリンを生かすということになるわけで。その契約の枠の中であとどうやろうがそれは大学側の勝手で,その契約が履行されなければ,5年後に契約更新しないだけの話なのです。というような話なので,もうそれでいいではないかというのが,私は国立大学,私立も一緒だと思います。
 ただ,問題は更新しないと潰れることがあるので,潰れてしまったときに学生を守ってあげなければいけないわけだから,その学生をどう救済するかということは一方でしっかりとセーフティーネットを用意しなければいけないのだけれども,そのときにその銅像を撤去されてしまうファミリーや教員というのは,大学の教員は社会的に言ったら一応エリートですから,エリートの人はそんなに守ってあげる必要はないと私は思っていて,そういう整理です。
 だから全く久保利委員と同じ意見で,本来国立大学の側で進んでいる議論。中でも国立大学で言ってしまうと,この議論にむしろ耐えられるのは,逆に言うと国立でも上のほうになってしまっているのです。だから上のほうの国立大学は,事実上カリフォルニア大学化しなさいと。要するに東京大学も含めて,国立のような私立大学になりなさいということなのです。ということだし,結局私立はもともと本来私立なのだから,私立の本源に戻って国から契約でお金をもらうという形になってもらっていくという点でいうと,向いている先は同じだと私も思っています。
 ですから,そういう答えになっていくと,あっち側で議論している話とこっち側で議論している話というのは,だんだん1つに整合していくのかなという感じがあって,どっちつかずで残ってしまうのは,これは一番難しいゾーンだけれども,微妙な地方の国立大学や,微妙な地方の公立大学をどうするかというのは,これはまた別のゾーンであるのだけれども,そこまで全部やろうとすると話がぐちゃぐちゃになってしまうので。取りあえず私の頭の中でいうと,私立大学の問題と,要は一部の世界に伍していかなければいけない国立大学の問題は,私は答えがかなり一緒だと思います。
【久保利委員】
 冨山氏と私も同じ考えだというので,大変心強く思いました。
【野村委員】
 今日の議論の中で,ある意味では倒産法制といいますか,そういう話が出てきました。実は,前のガバナンス改革に関する有識者会議のとき,冒頭に私は,現在の法律の中に合併などの手続が不十分だということを発言していて,若干一行だけ,前の報告書にも載っているのですけれども,今回の論点整理の中には必ずしも表に出ていませんでしたので,もう一回改めて出口戦略のところを書き込んでいただければと思いましたので一言,付言させていただきます。
 
<議題2 その他>
・事務局(相原私学行政課課長補佐)より,次回は8月23日(月)15時~17時に開催するとの案内があった。

―― 了 ――

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文部科学省
高等教育局私学部私学行政課

(高等教育局私学部私学行政課)