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「人格育成」も「一人一人」も否定しないが、主題はあくまで「学力」や「探究心」に存し、また今や「一人一人」が束ねられた一定のマスに対して実施検討する時期にさしかかっているように思う。 |
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人格全体の育成の観点につき、人格形成は、「飛び入学」を導入した方が平均して良好に行えるように思っている。一つの理由は、学生によってはより「大海」での経験が多感な時代に得られやすい。 |
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個々の大学の教育観によって、早期入学制度を受け入れる大学もあれば、拒否する大学もあるだろう。それでよい。 |
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もし、我が国に、まともな文化的大域的国家戦略がないなら、飛び入学に、そんなに力を注ぐ必要はない。また、まともに世界情勢を見るなら、「教育は人にあり」という基礎理念に基づいて、とにかく「まともな指導者の養成が急務」。 |
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個人的には、飛び入学の制度がその趣旨である稀有な才能を有する者、特に能力の伸長が著しい者への例外的な措置として設けられていると認識しており、この趣旨を生かす方向で進めるべきと考える。 |
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現実的には、飛び入学者が多すぎても少なくてもいけないだろうと思う。しかし、現段階では、もう少し出てきてもよいのではないかと思う。 |
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高等学校の教育を個々人の評価をきちんとできるシステムとし、大学での評価を社会に公示できる評価とする事が出来るならば、特別な支援をする事なしに学び進む流れの中で場合に応じて遅速を選ぶのはあたりまえのことになろう。原級留め置きが対になって、飛び入学をするかなりの数の生徒が普通に存在するであろう。人格全体(知、情、意)の育成と、理解と応用の手順を学ぶ科学部分(学校教育が担いやすい文理の知の部分)のいびつな進行を高大間の接続部分に集中して論ずるのは無理であろう。人格の総体的陶冶を教育機関に求めるのであれば、その仕掛けを作っておかねばならないであろう。旧制高等学校はエリート層に対するそのような仕掛けであったと思う。にもかかわらず、多くの俗物が輩出した。本来なら、とびにとんだ人が、ある日、自らの欠落に気づいて、広い勉強を始めるのが本筋であろうと思う。繰り返すが、飛び入学者に対する特別な扱いは限度を超えてはならないであろう。10000人に500人を飛ばすか、10人しか飛ばさないかはまったく別なことである。10人なら別扱いでも済むが、有意なパーセントを飛ばすなら分布を描いて其の95パーセント、50パーセント、25パーセント、5パーセント部分をどう扱うかを教育システム全体として設計しなければならないであろう。新たな高等教育の崩壊が、飛び入学から始まったという事にでもなれば、皮肉ではすまない深刻な事になる。 |
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やさしい一般大学での飛び入学の拡大は高等教育の崩壊そのものにつながるような感じがする。 |
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特別な分野に優れた学生に、早期にその分野の学習を深める機会を提供することは重要だが、彼らの全人的成長・発達を期待しなければならないと考えるので、早期入学後、受け入れた大学へ配慮してほしいことを提言する必要はないか。 |
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グループ単位の活動の奨励(人間関係を豊かにする)、スポーツ・音楽などをすることの奨励(体力・情緒面の豊かさを養う)、地域のボランティア活動に参加・参画することの奨励(自分以外の様々な能力・環境に生きる人を知る)など、これらの幅広い活動を通して、バランスのとれた人格を育成し、与えられた優れた能力を自分の地位のためだけでなく、社会に還元することも視野に入れられる人物となるよう教育することが重要であると思う。 |