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資料2

「本協議会において協議するべき事項の整理(案)」に対する各委員のお考え(概要)

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1.大学への早期入学(飛び入学)制度の適切な運用及びその活用の在り方について

1−1 これまでの飛び入学の実施状況等

 特別手厚い支援を前提にしてきた「現在のシステム(特例)」は、高校から大学への連接の早い側のみについての手当てである。その限りにおいては一定の評価があってよい。

1−1−1 これまでの大学・高校改革、規制改革の中での飛び入学の位置付け

 当然、本協議会も規制改革(緩和)の流れのなかで浮上し、何かしらの新展開を模索すべく立ち上げられたもの、と私は信じている。
 人材育成の観点から妥当な位置づけと考えている。
 物理、数学などに早い時期に能力あるいは才能を伸ばす機会を与える意味で、大学への飛び入学、さらにそれに続く大学院への入学を含めての『飛び入学』は、「学習転機の切り替えポイント」として意義は大きかったと思われる。音楽などについてもそうかも知れない。しかし、人文系はどうだろうか。早い時期での技術の習得や課題との取り組みなどより、ゆっくりと醸成したプロセスの方が良いように感じられる。

1−1−2 千葉大学、名城大学における取組、これまでの取組の評価の在り方

 自己評価もさることながら第三者評価にも関心あり。
 人材育成という点での評価については、長期的にとらえる必要があるが、画一的年齢制限について突破口を開き実施している点は評価される。
 千葉大学の視察に参加させていただいて、いち早く、早期入学制度に取り組んだ千葉大の先進性が、着実に実を結びつつあるという意を強くした。その原動力は、何と言っても、人的なネットワークが、さまざまな障壁を抱えながらも、早期入学を核に作り上げられたという点にあるのではないかと思われる。
 多くの学生たちにとっては、高校生活を3年間通して謳歌したいということもあるだろうし、人より早く大学に行くことに魅力は感じないようであった。そういう高校生活を送れる学生が多くいること自体は、むしろ健全なことであり、その意味でも、早期入学者の数が急速に伸びないから、早期入学制度が意味がないという短絡的な考え方は避けねばならないと思われる。「浮きこぼれ」も含めて、特別な才能のある学生たちが、学校生活に適応できずに埋もれていくということもないわけではなく、また、千葉大の早期入学者にもいたように、国際的な流動性もあって、帰国子女などの中には、大学へ早期入学することがむしろ自然ということもあるだろう。要は、そういう多様化が進む中で、その多様性を受け入れる受け皿を、日本の教育の中で、しっかりと位置づけていくことができるかどうか、その点が日本の教育の力になっていくのだろうと思う。
 千葉と名城の例:限定された枠組みの中で成功したと思う。一般化は容易ではない。ゆっくりとくる生徒に対しての、落ちこぼれとしてではない対応の基本システムがない。リターンマッチが用意されていない。飛びと遅れは常にワンセットで考えないと本質を誤る。

1−1−3 平成17年度、18年度からの新実施大学の状況

 まだ寒々しい。
 もう少し大学数が増加することが望ましい。

1−1−4 これまで飛び入学の件数が伸びてこなかった原因

 「制度導入の成果に確信がもてないから」以外の答えはありえまい。
 何であれ一つの事業は、所期の目的が達成され、それがまた次の生産的な課題を生むのであれば、かつて新機軸であったものを修正のうえ一般化しながら、規模拡大するのが普通だろう。とすれば端的にいって、早期入学にはこのサイクルが機能してこなかった。
 そもそも、同じ学費で、より恵まれた環境を得る者がある仕組は、私学では学生への説明責任に耐えられない。
 受験者数については、受験したくとも高校が推薦しない場合がかなりある。また、大学数が伸びない理由については、業務の増加を好まないためと、大学自体がこれまでの教育上の意識下にあること、と考える。
 早期入学の制度が、今の評価の時代に、投入した人・金・物・時間等の諸々のリソースに見合う成果が示せないと、なかなか継続していくことも難しくなるということも出てくるのではないかと思われる。この種の何年も先の成果を見込んだ、また、早期入学者の誰でもがそういう成果を示せるというものでもなく、世界的にもトップクラスの研究者に育つということは稀にしか起こりえないことでもあり、そういう特殊な事情を社会的にわかりやすく説明できる方策も講じておくことも必要とされるのではないかと思われる。これも、千葉大が高校などへの説明を根気強く積み重ねていったのと同じように、社会全般に対して、この種の教育の意義を啓蒙していく必要があるだろう。他の多くの学生にとっては、早期入学者は、特別扱いされて見えるという、ある種の不平等性も感じさせることでもあり、教育における「公平性」「平等性」の考え方自体も変革して、日本の中に新たな文化として根付かせていくということも必要となるだろう。
 本来なら、与えられているはずの国家戦略、そして、現在の情勢をどう捉えるかに沿って、評価・判断がなされなければならない。飛び入学件数がのびないのは、現在の国際情勢、教育情勢の判断が甘いからであると考えられる。
 世間は様子見をしていると思われる。
 飛び入学の良さや成果がまだ見えておらず、飛び入学が広く理解される状況ではないと感じている。
 優れた環境にある大学での実施が少ないと感じている。このことが、飛び入学に対する関心の膨らみを鈍くしていると思う。

1−2 年齢との関係

1−2−1 各国における年齢要件の捉え方、我が国における年齢要件の捉え方

 成熟した16歳があれば、幼稚な20歳もある。高校修業年数の1年程度の差は、大きな問題ではない。
 外国での大学入学年齢は我が国に比べてフレキシブルである。我が国は、若者の力と可能性をもう少し信頼すべきと考えられる。
 年齢的な制約は、欧米の状況なども鑑み、できる限りの柔軟性を持たせていくべきではないかと思う。要は、受入れ側が、しっかりとしたビジョンの下に、受け入れることができるかどうかにかかっている。そのためにも、早期入学や才能教育で対象となる「能力」をどう捉えればいいのか、その点についてはある種の合意を得ておく必要があろう。欧米の才能教育などでは、まずは、「才能」をこのように捉えるとか、そういう定義からはじまっているのが通常のようであるが、日本の議論では、そこの部分の検討が十分深められていないように思う。少なくとも、先行の諸研究で言われているように、アクセラレーション、エンリッチメントなどに対応する才能教育のあり方を踏まえておく必要があるだろう。当然、むやみに先に進んでも、どこまでも伸びるというものでもなく、ある壁にぶつかった際にどう対処することができるのか、「多様」な教育のコースのそれぞれにおいて、十分に検討しておくことが望まれよう。
 これまで放置されてきた英才教育として、子供本人が希望し、大学が受け入れるのであれば、何歳からでも大学あるいは大学院に受け入れればよい。
 一年二年の飛び入学など(遅れ入学・浪人と同様に)、全く特別なことではない。むしろ、(能力・成長の個人差を無視して)年齢などという偶然の結果を重視した平等がホントの平等だと考える我が国の文化的風土、そして、どこで何を与えるか、与えざるべきかを考えずに、漫然と入試に備えている教育界の方が問題。
 真に優れた才能を見極める方法があれば、あるいは審査する機関や方法が整えば、本来、年齢とは関係なく相応しい環境に置くべきであろうが、残念ながら、現状は難しい。
 平等感の強い我が国においては、かなりの時間が必要と思われる。
 はっきりとした成果が出てきた段階で、年齢等の制限を見直していくとよいと考えている。
 高等学校2年が妥当なところかと思う。

1−2−2 全人格的成長、発達段階の観点を踏まえた飛び入学の捉え方

 全人格的成長を担保したいなら飛び入学など導入しないことだ。
 全く心配はない。
 早期入学が進むことによる一つの心配は、いわゆる「エリート化」が進んでしまうことではないかと思う。その枠組に組み込まれることが、過剰な競争を新たに産み出すようであれば、これはまた大きな社会問題へとつながっていくことは火を見るよりも明らかなことであり、その点も踏まえて、バランスを維持していく方策を講じておくことも大切なことである。現時点では、千葉大で進められていることは非常にいいバランスが得られているのではないかと思う。いずれにしても、早期入学への要望が増えていくと、その制度に適合しない学生が組み込まれてくる確率も増えていくことになるが、そうなると、大学に入って早期入学生が落ちこぼれるという別の問題もおきかねない。そのような際に、上から下に部分的にでも下りて学習できる余地を制度的に残すことも考慮の余地があると思われる。つまり、高校の授業に大学生が出席できるというような余地である。そういう柔軟性を持った教育システムを実現していくことは、早期入学などのある種のリスクを冒す勇気を高校生に与えることにもなるだろう。
 むやみに先の勉強をさせてしまうことは、かえって動機づけを低めてしまう危険性もある。メンターなどの学習状況をモニターできる役割を作っておく必要があるだろうと思う。
 飛んでもその後の速度が無理であれば減速する事が必要であり、余力があればさらに複線的に学ぶといった大学での教育設計と評価の厳密化・公開化が必要。同時に高等学校で飛ぶ事と原級留め置き(昔は落第と称した)や針路変更等が一組になっていないと、飛び入学部分のみの議論は意味を持たない。
 米国では小学校に入学する際において、子供の体の大きさや精神の発達状態によって入学の時期を延ばしたりすることが最近多いと言われる。飛び入学においても人格的成長や発達段階を十分考慮し、極端な低年齢化は避けるべきと考える。

1−2−3 高校生が飛び入学に求める魅力

 「高度な学問への期待」や「現状の高校教育への不足感」などが挙げられる。
 いたずらに早期入学者を増やすためのインセンティブを導入することは急ぐべきことではないと思われる。当面は、個々の領域の学問を深める意欲の下に、早期入学が進められるべきではないかと思う。そういう面での社会へのアカウンタビリティの取り方が問われていくことになるが、あくまで、学生の学業成果物や、大学への適合度などで示していくことが肝要ではないかと思われる。つまり、楽しく充実した大学生活を送っていること、そして、魅力ある学業成果が公開されていくことを通して、それに魅力を感じる高校生徒たちが、それに引き続くべく、早期入学にアプライしてもらえればいいのではと思う。
 能力が十分にあり、時としては有り余ってしまって、高等学校教師の力を超える生徒がある割合でいる。高大連携も良いが、適当な時期に飛ばしてしまえばよい。高校時代における不足を悟れば高等教育レベルに進んだ後でも彼(女)らはもっと本質的な学修を主体的にするであろう。

1−3 今後の飛び入学制度の在るべき方向性

 高校2年生でも、一般の大学入試を受験して大学に入学できるだけの力を有する生徒はいる。学生に対する特別な配慮を伴わない「飛び入学」についても、きちんと検討してみる必要があるのではないだろうか。
 各種審議会等の報告でも、個性・柔軟なカリキュラム・科目の自由の選択・飛び級・スーパーサイエンススクール等の言葉といわゆるアメリカ等の公教育にある「優秀児教育(Gifted Education)」の関連をどうしても考えざるを得ません。
 大学の早期入学は、そういうこと及びそれを踏まえた入試制度等改革とも関連すると思いますが、現時点で、早期入学については「各大学のアドミッションポリシーの中で考える」ことでしょう。

1−3−1 高校生の約50パーセントが大学又は短大に進学する中での飛び入学の位置づけ

 進学率自体と飛び入学制度導入は、直接は関連付け得ない。
 今後の飛び入学の位置づけにつき、制度として強化して良い。高校の義務教育化、大学の庶民化が進んだ現在、一層飛び入学やインテンシブ高等教育の必要性が高まっている。
 高等学校をほぼ全入型とし、しかも原級留め置き、針路変更、バイパスの用意なしにしておいて、定型的画一的な学部学科方式の大学に飛ばせる事に本質的な意味を感じがたい。飛ぶ事が出来るというショウウィンドウのようなものを増やす必要はないと思うし、教育システム全体としても奇形的な感を免れない。今のような部分志向では、未来に事柄が展開するためのさきがけとなりうるような風穴にはなり難いような気がする。

1−3−2 人格全体の育成の観点からと、一人一人の能力を伸ばしていく観点からの、適切な方向性

 「人格育成」も「一人一人」も否定しないが、主題はあくまで「学力」や「探究心」に存し、また今や「一人一人」が束ねられた一定のマスに対して実施検討する時期にさしかかっているように思う。
 人格全体の育成の観点につき、人格形成は、「飛び入学」を導入した方が平均して良好に行えるように思っている。一つの理由は、学生によってはより「大海」での経験が多感な時代に得られやすい。
 個々の大学の教育観によって、早期入学制度を受け入れる大学もあれば、拒否する大学もあるだろう。それでよい。
 もし、我が国に、まともな文化的大域的国家戦略がないなら、飛び入学に、そんなに力を注ぐ必要はない。また、まともに世界情勢を見るなら、「教育は人にあり」という基礎理念に基づいて、とにかく「まともな指導者の養成が急務」。
 個人的には、飛び入学の制度がその趣旨である稀有な才能を有する者、特に能力の伸長が著しい者への例外的な措置として設けられていると認識しており、この趣旨を生かす方向で進めるべきと考える。
 現実的には、飛び入学者が多すぎても少なくてもいけないだろうと思う。しかし、現段階では、もう少し出てきてもよいのではないかと思う。
 高等学校の教育を個々人の評価をきちんとできるシステムとし、大学での評価を社会に公示できる評価とする事が出来るならば、特別な支援をする事なしに学び進む流れの中で場合に応じて遅速を選ぶのはあたりまえのことになろう。原級留め置きが対になって、飛び入学をするかなりの数の生徒が普通に存在するであろう。人格全体(知、情、意)の育成と、理解と応用の手順を学ぶ科学部分(学校教育が担いやすい文理の知の部分)のいびつな進行を高大間の接続部分に集中して論ずるのは無理であろう。人格の総体的陶冶を教育機関に求めるのであれば、その仕掛けを作っておかねばならないであろう。旧制高等学校はエリート層に対するそのような仕掛けであったと思う。にもかかわらず、多くの俗物が輩出した。本来なら、とびにとんだ人が、ある日、自らの欠落に気づいて、広い勉強を始めるのが本筋であろうと思う。繰り返すが、飛び入学者に対する特別な扱いは限度を超えてはならないであろう。10000人に500人を飛ばすか、10人しか飛ばさないかはまったく別なことである。10人なら別扱いでも済むが、有意なパーセントを飛ばすなら分布を描いて其の95パーセント、50パーセント、25パーセント、5パーセント部分をどう扱うかを教育システム全体として設計しなければならないであろう。新たな高等教育の崩壊が、飛び入学から始まったという事にでもなれば、皮肉ではすまない深刻な事になる。
 やさしい一般大学での飛び入学の拡大は高等教育の崩壊そのものにつながるような感じがする。
 特別な分野に優れた学生に、早期にその分野の学習を深める機会を提供することは重要だが、彼らの全人的成長・発達を期待しなければならないと考えるので、早期入学後、受け入れた大学へ配慮してほしいことを提言する必要はないか。
 グループ単位の活動の奨励(人間関係を豊かにする)、スポーツ・音楽などをすることの奨励(体力・情緒面の豊かさを養う)、地域のボランティア活動に参加・参画することの奨励(自分以外の様々な能力・環境に生きる人を知る)など、これらの幅広い活動を通して、バランスのとれた人格を育成し、与えられた優れた能力を自分の地位のためだけでなく、社会に還元することも視野に入れられる人物となるよう教育することが重要であると思う。

1−4 飛び入学制度の活用方策

1−4−1 安易な運用を抑止しつつも、意欲があり成績が優れた生徒の期待に応え、かつ大学側が設定しやすい支援・指導体制等(支援・指導体制、資格要件、選抜方法、高等学校との連携方策、保護者の理解を深める方策例等)

 「大学側が設定しやすい」の句に、これまで等閑視されてきた感のあるコスト問題もが包含されている、と読みたい。
 実施する大学の「教育レベル」「体制」に関する実績について、審査を厳しくすることによって、社会(高校、両親など)の理解が得られる。現時点では、大学院があるからといってどの大学でも導入して良いとは限らない。高校によっては、推薦基準が決められているが、飛び入学受験希望者の高等学校による推薦について、一考の余地はある。
 活用方策は、組織としての大学において、大幅改革が可能かどうかによる。もし不可能なら、これ以上の活用は困難である可能性が大きい。またもし、それが可能であり、学問の真の総合化と、その人材が養成できるとすれば、大学の「人材」と小・中・高生に自由な「時間」と「お金」と「場所」を与えることによって、活用は大きくのびると思われる。なお指導者養成という見地からも、中高の先生の引率・指導参観・参加も望まれる。
 入学定員の1パーセントぐらいの数であれば、大学の自己努力でどんなことをしても良いであろう。国の制度は飛び入学の邪魔をしないという事でよいであろう。現状に近い。其の場合の支援策は、文部科学省のGP制度や、学生支援機構の特別支援を考えればよいであろうし、その大学のやりようが評価に耐えなければ支援を打ち切ればよい。

1−4−2 「特に優れた資質」の具体的な捉え方

 難問。比較的それが計りやすい理数系や、主観的評価が通用する芸術系が、飛び入学が実施される主たる分野である理由でもある。
 学校の成績にすぐ表れる「天才的学力・記憶力」だけが重要なのではない。「ねばり強さ」、「あふれるアイデア」なども重要である。また、「特に優れた資質」がなくとも、「それなりの資質」が有れば、多くの高校生が17才大学入学に耐えられると思われる。
 「個性」や「特に優れた資質」を日本の公教育の中でどのように位置決めするのか、という問題が背後にあると思います。
 「優れた資質」をある割合を超えて評価し飛び入学を広く認めようとすれば総合的なシステムを設計し、その一部としてことを進めざるを得ないであろう。比較的特化した優れた資質をとりあえず重要と思う分野が飛び入学を自己責任でするのが良いと思う。一般の学部学科で限定的に特別に導入する必要はないと思う。
 早期入学を振興するためには、やはり、稀有な才能を有する者、特に能力の伸長が著しい者であるかの判定方法等の確立が求められる。

1−4−3 その他の方策

 生徒一人一人の個性の伸長や優れた才能を発見し、より一層の伸長を図ることをめざす中高一貫教育と早期入学制度の活用は、趣旨をほぼ同じくするものである。
(留意点1) 中高一貫教育校では、修業の最終年度(高校3年次)における必履修教科・科目の精選等を図るなど、教育課程の工夫と改善により、飛び入学に対する教育環境は整えることができる。
(留意点2) 現行制度では、飛び入学した場合、高校卒業を認定することができない。いわゆる中途退学の形態である。大学入学後の履修単位を高校での「みなし修得単位」として認定するなど、高校卒業の認定制度を検討する必要がある。
(留意点3) 中高一貫教育校は、6年間をとおして人格と能力の育成をめざす学校であり、これまでの制度改革の背景及び経緯からは、当初から早期入学を主眼とした教育を行うことにはやや問題があると考えられる。

1−5 その他

1−5−1 制度導入に際しての留意点

 導入に際してはさまざまな説明責任がつきまとうだろう。
 前向きにとらえ、かつ楽観的(前向き)にとらえることが必要。若者は予想以上にたくましいことを理解する必要がある。場を与えると成長は早い。
 現時点では、具体案が思いついているわけではないが、器を整備すればいいと言うことではなくて、人のネットワーク作りが促進されるような制度を導入すべきだと思う。
 教育は人であって、組織ではない。
 高校生の青田買いであってはならないし、そのように受け止められるようなことにならないように留意する必要がある。あくまでも稀有な才能を有する者、特に能力の伸長が著しい者への特例措置であるべきと考える。

1−5−2 過去の旧制中学校・旧制高等学校への早期入学等との相違

 旧制時代の制度を参照することに生産性があるだろうか。
 現在の飛び入学は、あまりにも若者を心配しすぎているように思える。過去の早期入学は、入学後、余分に時間をかけて卒業することも「社会」は楽観的に観ていたようである。その結果、若者が甘えずがんばり、努力をした。
 昭和24年までは飛び級(当時は飛び級と呼んでいたように思う)による旧制中学4年からの旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校への進学が普通に行われていた。特に県立のトップクラスの中学から旧制高等学校への飛び入学はクラスの5−10パーセントにも及んでいた。旧制高等学校が基礎学と一般教養(語学を含む)中心であった事も意味を持ち、能力があれば必死についていく事も可能であり、能力の高い飛び入学生(いわゆる秀才)は5年もしくは予備校経由で入ってきた普通の学生を尻目に悠々と学んでいたようである。また、旧制専門学校へ飛び入学で進んだ学生は、実学志向であり、早く役に立つ学問をする事で専心学修することに違和感がなかったようである。旧制専門学校を卒業して、大学に入学する人も少ない数ではあるがいた。新制大学になって、専門学校も旧制大学もみな新制大学になって現在のような形になった。

1−5−3 大学の個性・特色(博士課程に重点、教養教育に重点等)に応じた飛び入学の在り方の相違

 半ばの共通認識として大学院、しかも後期課程に、進学することが想定されたものとして、飛び入学は設計されてきたし、いまなおその想定は正しいのではないか。
 いろいろなやり方があって良いが、それなりの「レベル」以上の大学に限るべきであると思う。現在の学校教育法による規定だと、非常に多くの大学で導入できてしまい、不安がある。
 早期入学については、まだ日本では実践事例も少なく、何が成功に結びつくのか試行錯誤の部分もあり、大学独自の早期入学への取組を尊重するような制度枠組にしておくべきであろうと思う。徐々に淘汰されて一定の枠組が定まっていくのではないか。

1−5−4 飛び入学制度で育成された人材の地域への還元

 なぜ「地域への還元」なのか、私には意味不明。
 意外と問題ないのではないかと思います。

1−5−5 大学学部の3年卒業・大学院への飛び入学の活用等、大学学部・大学院段階における取組

 院への進学時にも学修年数の短縮は当然ありうる。
 大学3年間で悠々と4年の課程修了と同等な学力を身につけるものがいることは事実です。大学院でもインテンシブ教育が必要でしょう。
 高等学校が学年制をとることがどうしても必要ならば、原級留め置きが不可欠であり、飛び級は難しい。そうなると、飛ぶことが出来るのは唯一大学入学・大学院進学など学校制度の変わる時である。大学・大学院の教育・学習を学部学科学年制でなく、プログラム単位制とした教育機関のプログラムへの組み込みを可能にすれば、飛び級などという概念は消えて、学習進行過程の遅速のみの問題になり、連続的に学生の意思と能力の学習システムへの投影・対応が無理なくなる。学校側の都合を重視した社会システムの転換期にきている。近代産業社会の教育システムは方々で綻びがき始めている。

1−5−6 制度改正の必要性

 現行制度下でも十分運用可能と考えるが、一段の飛躍を求めるなら、GPのような助成策導入もありえるだろう。
 社会情勢を考えると、大学に飛び入学しかつ大学を卒業したものに対して高校の卒業資格を申請できるようにすると尚良いと思います。飛び入学が可能な大学としてとしては、現在の規定を厳しくし、博士修了者を「定常的に輩出」している大学に限った方がよいように思います。
 「学び」が進むという一つの大きな要因に、動機づけの問題があることは疑いのないことで、関心のないところに、広く学ぶ必要があるからと言って、幅広く学ばせても、十分な効果が得られないことは必定であり、むしろ、早期入学生に千葉大で会った印象では、彼らは知的好奇心も旺盛であって、自ずと幅広い領域の知識を吸収しようとしているし、また、教員との少人数による接触を通して、教員のもつ教養的な部分にも近く接することができるであろうから、少なくとも、制度的に、幅広さを組み込むことにあまり多くの力点を持たせる必要はないのではないかと思う。せいぜい、私の最近の印象では、ダブルメジャーを目指すくらいの枠組はあってもよく、ひとつのみならず、二つ程度の領域に深くのめり込んでみる経験を積み重ねることは、それなりに意義のある試みになっていくのではないかと思う。
 文部科学省が、このような制度の一律導入を要請あるいは強要するのは困る。
 「飛び入学」制度を「人材育成」の一方法として定着させていくためには、実施大学数を増やすとともに高校側でも実験校として2年又は2年半の課程で「修了」し大学に進学させる高校を認め、研究させてはどうか。大学進学率が50パーセントを超える現在では、高校生の学力や意欲にも様々な差があり、一律の制度でしか大学進学を認めないというのもおかしい。全人格的な教育を高校・大学を通じてどのように行うかなどは、高校と受入れ大学が共同で研究していかねばならない面もあり、組織的に試行してみる意味があるのではないか。
 「システム優先から人間優先へ」、「(学問記憶の手段としての)細分化優先から(学問利用・理解のための)統合化へ」、「人間(先生・生徒)の評価を記憶・試験技術優先から、理解・利用・意志・努力優先へ」もちろん、「年齢など偶然に応じた平等から能力に応じた平等へ」などを考えています。
 教養課程のカリキュラムの構造と内容をしっかりと吟味して運用している短期大学に、多くの優れた生徒を飛び入学させて、いわゆる教養教育・一般基礎教育をしっかりと学修させて、4年制大学の3年次に編入させるバイパスラインを作る事も一つの方法であろう。
 高等学校の種別化が進んでいるようであるが、それも一つの方法であるが、スロウゴーイングの能力発揮の仕組みがない。ゆっくりいってもレベルに達したら大学院プログラムを受けられるような、教養と基礎を学ぶコースの専門学校への併置、もしくは有名大学への編入の制度を作る必要がある。
 手取り足取り特別待遇を国が制度化する必要はないと思う。早くいける人を邪魔しないことで十分である。ゆっくり行く変人もしっかりと認めてやることが必要である。一芸に本当に秀でていたら、選考入学して教育を支援できる力量のある大学だけが自己責任(学生と大学)で飛び入学を行えばよい。

2.高等学校と大学との接続における一人一人の能力を伸ばすための連携の在り方について

2−1 地域の高校・大学間の連携の強化の在り方

 連携強化が、この少子化の時代になって声高に叫ばれる「意味」を、きちんとふまえておきたい。
 高校生の将来の進路決定のうえで、大学で行われている教育研究の内容に触れることは最も重要であり、出前講義や出前実験さらには大学での実習などが各地で進んでいるのは、実に有意義と思われる。しかし、週5日制および学習指導要領による制限のため、このままでは大学の支援によるカリキュラムも高校の授業には組み込みにくい現状がある。併せて、大学受験のシステムに有利とはなりにくい。文部科学省にも一考いただきたい。

2−1−1 高等学校と大学との間における連携協議会の設置、高校教員と大学教員の交流・連携ネットワークの構築

 いずれも実施中・構築中。負担大なるも得るところも多い。
 原則として必要です。高大連携のもと大学教員による高校生の教育が無差別に行われるようになっているが、平均的には高校教員の知識改善の方が現在は重要と思われる(ただし理系の場合についての経験から)。教員免許のあり方の改善は必須かつ急務でしょう。
 現在、高校と大学間の情報交換は、校長協会など管理職レベルでのものと、研究団体である各県の高等学校進路指導協議会を通じての教員レベルでのものの二つがある。進路指導研究協議会は任意団体であるため、組織の運営などは幹事の教員頼みの面があり、大規模な交流会を単独で運営するには限界がある。国大協に地方ブロック別の組織が存在するか知りませんが、いくつかの県の進路指導研究協議会と大学のブロック別の組織が共催して情報交換会を開くということがあればとよいと思います。(高校側が大学に関して得る情報のソースは校長も教員も受験産業を通じてのものが圧倒的に多いので、受験情報中心になりがちです)。
 真に連携するためには、大学は大学らしく、高校は高校らしくあることがまず必要と考えます。
 協議会によって何が討議され、ネットワークによって何をするかが重要でしょう。ネットワークでも協議会でもいいから、日本人向けに「共同作業」に持ってゆくことが重要と考えます。
 高校側のPTA活動の中で地域の大学の施設や教育力を活用したり、地域の大学に進学している卒業生の協力を得たりして、高校と大学が親しくなることが第一歩である。こうした交流を促すとともに、特徴的な事例を集約し、各学校への周知が肝要である。

2−1−2 大学と教育委員会の連携

 実施中。しかし教育委員会間で温度差(熱心か否か)は大きい。
 教育委員会が肥大化し、小回りがきかない状況では、個々の大学と教育委員会組織との連携関係の構築より、教育委員会と各学校との関係改善の方が急務。高大連携のある範囲の交通整理などは教育委員会が担当することはよいかもしれないが、一律化しそうです。
 (一部を除いて)教育委員会こそ意識を改革すべき、かもしれない。
 等学校と大学とを仲介したり相談できるグループや機関があれば、かなりの促進が図れるものと期待できる。

2−2 高校生に対して、大学レベルの教育研究に触れる機会の促進策

 内実ある機会提供を目指すと当然、対象者の絞込みが必要となる。
 分野によることだと思うが、大学の講義にいきなり参加させるというよりも、最近の大学で初年次導入教育などの一環でやられているゼミナール形式の授業などに参加する余地を多くしていくなどの余地はあるのではと思われる。いずれにしても、ただ交流の機会を増やすというだけでは、いいことばかりでなく、問題点も拡大することになるので、やはりメンターなどの配慮が求められることになるだろう。
 現実に必要なのは、高校生だけではなく高校教員の方である。大学を卒業してから何十年もたち、学問研究の最新の動向を知らない教員が高大の連携接続の意義を十分に理解することや、キャリアガイダンスを適切に行うことは困難である。大学側が努力して設けている現行の諸機会はそれぞれ有効であり進めていただくことは高校にとってありがたいが、一人の教員が適切に大学の情報を把握すれば数十倍の高校生にキャリアガイダンスができる。行政側が主導し大学に協力も求めての研修機会ができないであろうか。
 一般的に生徒の移動がむずかしい。このネックのない高校と大学の位置関係であれば、積極的に何らかの連携を図るように国や教育委員会が研究指定などして進めるとよい。連携のきっかけづくりとして有効である。
 例えば、特色GP的な枠組によって、高大連携の促進のためにも一定の予算が準備されるなどの工夫を考える余地はありそうに思う。
 生徒の進路指導の観点で大学情報が欲しい多くの高校、さまざまな形での情報の提供で志願者増を目指す多くの大学、これが現在の高大連携の実態である。
 各都道府県の教育委員会の指導力、企画力、予算を活用すべきである。愛知県の例が大変いいと思っている。全国的に広まるといい。とにかく、各高等学校にはお金がない。できるのは一時的な講演ぐらいである。
 国が、各都道府県の教育委員会が企画する高大連携施策に対し、強力に補助することとなれば、一気に拡大し進展すると確信する。
 これまでの経験から、全体的に、「選抜した学生」が参加できるものと、そうでないものを分けた方がよい様に思います(この発想が高校になくなっています)。現在の公立高校の問題は、公平さにこだわるあまり多くの教育効果を逆に犠牲にしてしまっているようです。(個々の取り組みの問題点を正しく整理することが重要)。
 高等学校の欲する連携内容を把握し、各大学に周知させる方策が有効である。高等学校は過密気味な教育課程を実施する上で、また、生徒指導の面からもそれぞれ多忙を極めている。さまざまな事情の中で奮闘しているので、多くの選択メニューがあれば自校に合ったものを見出し必ず活用してくる。

2−2−1 科目等履修生

 附属校生徒について実施中。対象拡大の可能性あり。
 最先端の学問に触れさせるなら、大学入試さらには大学の中での教育体系を何とかしないと、どうしようもなくなる。

2−2−2 聴講生

 高校生対象には実施していないし、今後も予定なし。
 今の高校生に高等教育に興味を持たせ大学に向かわせるという基盤づくりとして、聴講生としてチャンスを与えることは非常に良いと思う。ただし地方都市では困難と思われる。

2−2−3 公開講座

 一般市民対象の講座に高校生が参加、はありえる。また、オープンキャンパスにおける模擬講義も実質、高校生向けの同種企画。

2−2−4 大学等の教員による講義等(出前講座、土曜講座等)、ポスドク等の参加

 大学の協定校プログラムでは、院生のTAもが活躍中。

2−2−5 スーパーサイエンスハイスクール(SSH)、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)、サイエンス・パートナーシップ・プログラム(SPP)

 それぞれSSHとSELHiの認定を受けた2附属校と連携プログラムを実施中。附属校以外とも連携したいが概して認定校は国立志向。
 何にせよ、「教育にお金をかける」ということは大事なことです。

2−2−6 インターネットを活用した授業配信

 充実した高大連携を提供しようとすればこそ、複数の高校に同時に提供する仕組として、IT技術の活用は必須である。
 本来の大学レベルの教育に関してはあまりインターネットを信用していません。

2−2−7 大学入学前の既修得単位の認定

 附属校向けプログラムで一部実施。ダブルカウントには賛否。
 大学入学前の既修得単位の認定、及び、大学等における学修を高等学校の単位として認定については、大学へ入ってから時間を作って、自分のやりたいことをやるためならいいと思います。

2−2−8 大学等における学修を高等学校の単位として認定

 高校側の努力によって一部実施されつつある。今後も拡大基調。

2−3 高大連携を進める上での留意点

2−3−1 個々の生徒の能力の把握の方法

 一定水準以上/以下の判断を超える部分は、大学側では無理。
 高校教員が自信を持って判断すること(自信がなさすぎるように思います)。
 個々の生徒の能力の把握というときに、短絡的に標準化された能力測定試験を開発するなどという方向に進まないように注意すべきであろう。早期入学の対象者となるような生徒に対して、メンター的な役割の人(教師を含む)を適切に割り当てられるかどうかということが問われていくだろう。その生徒の事情を十分に把握した上で、学習の進捗状況を把握しつつ、どういう学習機会を選んでいくべきか、生徒と共に議論し合えたり、考えていくことのできる存在の養成の方が急がれると思う。
 個々の生徒の能力の把握の方法については、体育会的に、どこかで「ピンとくる」ことを大事にしてはと思います。フランスでは特にそうです(アメリカのAPも先生が推薦してくる)。そのような先生を作ることが最も重要ではないでしょうか。

2−3−2 個々の生徒の実態を踏まえた上での高大連携事業の実施

 マスとしての生徒の実態を踏まえたプログラム構築が肝要である。
 選抜というキーワードを持つことが必要(ただしいつも選抜するという意味ではない)。

2−3−3 大学の単位の安易な付与への留意

 安易さは当然避けたい。
 高校教育が予備校によって一部崩壊してしまったように、大学教育があまり高校に入り込むと高校教員がもっと崩壊する危惧が大きい。
 大学の教育は、各大学の教育の理念に基づき、教育の目標を立て、育成するべき具体的な人材像を明確にし、それに基づいてカリキュラムを編成している。したがって、授業科目は相互に連結した一つのシステムであって、一部を切り離すことはできないし、一部を学んでも意味がない。
 現在の「生徒は全てから守るべきもの」という哲学はどこかで矛盾します。
 高校生個人が、大学の教育プログラムを選択するという場合、高校の単位に認定するのであればあまり問題はありませんが、大学の単位に認定するのだとすると、話は容易ではありません。包括的な単位互換がなされない限り、取得した大学の単位はいかされないことになるからです。
 高校への見本サービスとして、高校生に大学の授業を体験させることはよい。しかし、それに単位を認定するのは、高等教育機関としての大学の見識が問われる。

2−3−4 その他の留意点

 高校は大学に対して連携に遠慮がちになる面がある。高校の方に大きな利があるからである。また、連携先が私立大学であれば、内外から特別の関係か勘繰られる向きもある。
 高校には高校の、大学には大学の教育がある。高校や大学、文部科学省の都合で、促成栽培のひ弱な若者を大量生産するのだけはご免蒙りたい。
 各高等学校はさまざまである。必要な生徒が参加できるような在り方がよく、強制と受けとられないようにすることが大切と思う。
 高大連携については、ここでは1人1人の能力を伸ばすということが主要な目的になっていますが、要はできる者の能力を伸ばすということですね。その場合も、大学と高校とが組織的に連携するのと、ある高度な教育プログラムを個人が利用する仕組みをつくるというのは別の問題です。小規模な組織的な連携であれば、これまでにもいくつかの取り組みはおこなわれていますし、高校や大学が生徒や学生の学力によって階層化されている状況においては、比較的容易に各種の取り組みが可能でしょう。
 連携を構成する最低の単位(ユニット)は、いうまでもなく大学教員が高校生に向けておこなう個別・単発の講義である。この最小単位を複数化あるいは体系化し、そうして高大連携を高度化する、そのイニシャティヴはこれまで高等学校側が有し、他方、求めに応じて講義提供してきた大学には、どう高度化するかではなく、コスト負担にどう耐えるかの問題が課せられるばかりであった。
 教育委員会が介在して地域の、主として公立の複数高校への授業提供をコーディネートする仕組も、試みられていないわけではないが、ここでもまだ大学側が主体的に高大連携のプログラムを練り上げるところまではいっておらず、そこでわれわれは、コスト問題を解決しつつ内容も高度化する手法としてIT技術をとりいれたプログラムを創出した。
 いったい文部科学省によって/において立ち上げられた協議会が、高大連携という連立方程式を解くにあたってこの地域間格差という変数を考慮しないといったことが、ありえるだろうか。

2−4 その他

2−4−1 アメリカにおけるアドバンスト・プレイスメント(AP)の考え方

 よくわかりませんが、日本独自のものがあって良いのではないでしょうか。
 アメリカでは飛び入学と並んでの早期才能教育の制度としてアドバンスト・プレイスメント・プログラム(AP)がある。全米で約60パーセントの高校が何らかの形で参加し、36のコースがある。生徒の実態に応じて各高校は自由選択科目や習熟度別授業の形で教育課程に組み込んでいる。生徒は、自校で開設されていない科目については近隣の学校でも受験できる。統一テキストで大学レベルの授業を高校教員が行うが指導マニュアルも完備しており、教員への支援プログラムによって授業レベルを維持している。地元の大学とも連携している。
 日本では、高校教員が学習指導要領に基づく教育課程以外にこうした教育を実施するのは前例がないだけに困難である。現実的な方策としては、放送大学の選科履修生・科目履修生制度の活用が考えられる。放送大学の平成17年度の高校生の選科履修生・科目履修生は179人で、教養学部単科大学であることと、放送による授業配信の特性上、実習科目はない。また、他の大学と同様、修得した科目の単位は放送大学の全科履修生として入学したときにのみ既修得単位として認定される。しかし、我が国で現在、大学レベルの授業を全国どの地域ででも均質に受講できるシステムは放送大学しかなく、受講後の単位認定試験のノウハウをもつのも放送大学だけである。放送大学と単位互換協定を締結している大学・短大は10月1日現在264校あるが、これは大学間の互換であって高大間のものではない。放送大学で修得した大学単位がAPのように全国の大学で通用するならば、相当程度インセンティヴになると思われる。また、放送授業を理解させるための補講プログラムなども学校で(また予備校で?)組まれることにもなり、教員の研修にもなるかと思われる。
 アメリカといわないでも、「(年齢という偶然ではなく)能力に応じた教育」という考え方は当たり前。むしろ、そうでない方が不思議です。
 アメリカでは、同国の大学入試協議会の主導によって、大学初年次教育の一端を高校教員が担う「アドバンスト・プレイスメント・プログラム」(AP)が実施されており、かかる例から示唆を得た(何でも自由化すればよいとする俗諺に抗ってなす)護送船団方式の更新に、逆説的に今日の教育行政の行き方があるように思われる。
 大学初年次教育の一端を高校教員が担うことは、個別教員の力量向上だけでなく、高大連携全体の底上げになる。

3.高等学校と大学との接続において、一人一人の能力を伸ばす教育を展開するための、早期入学・高大連携の振興方策について

 総論的に述べる――今こうした協議会が立ち上げられるのは時宜に適ったもので、つまり政策による誘導さえなされるべき時期だと思う。
 そもそも、飛び入学をすればそれで良いというわけでなく、その中で学生の能力を如何に伸ばすかの教育の仕掛けが大切である。したがって、飛び入学と同様に、教育の連続性を重視した高大の連携を進めていただきたい。成熟した社会構造となってしまった日本では如何に早く大学に入学させるかの始点と、卒業させるかの終点を設置することより、個性を伸ばしながら一連の継続した教育あるいは勉強できる環境を整えてあげることが最も重要と考える。
 いま、高等学校の教科学習、特別活動、部活動などひとまとまりのカリキュラムを外して、早期入学・高大連携を振興しようとする意義、必要性、期待を再確認し、広く説明できる根拠を共通理解するために、早期入学・高大連携振興の意義の再確認をしてはどうか。

3−1 早期入学、高大連携の関係について

3−1−1 早期入学と高大連携の共通点、区別して考えなければならない点

 「高大連携」の広い問題圏の一隅に「早期入学」の特殊問題がある。両者の関係を示すのにこれ以外の絵図はないが、答申の類では、「高大連携」一般と「早期入学」は別個にとりあげざるを得まい。
 特に理工系では大学は本来(先進国で言う大学)学部4年+大学院5年を基本とします。その9年間の高等教育を考えたとき、高校教員の多くはほとんど「大学」を知らないといって良いと思います。また文系と理系を比較すると、高校や大学の教育から離れた日常生活では、自ら研鑽できる道は文系では多々ありますが理系ではほとんどありません。すなわち、理系と文系での高大連携のあり方も随分違っていて当然なはずです。高大連携の目指すものに応じて分けて考える必要があるのではないでしょうか。また、それは当然高校によっても違うでしょう。
 早期入学の問題は、決して、早期入学の問題だけで閉じているわけではなく、関連課題と相俟って論じられていくべき性質のものである。領域固有の専門知を早期入学生を中心に育てていくということのみならず、また、早期入学の意義だけを高校等にわかってもらうということのみならず、底辺を広げていくための高大連携のあり方の模索という視点も求められていくであろう。
 早期入学と高大連携の共通点、区別して考えなければならない点については、もし大学が大学として確立していれば、そんなに区別する必要はないでしょう。しかし現在のように、入試だけが隔てる状態では、学問というより講義・講演の共有が連携、入試部分の改善が早期入学でしょうか。
 高大連携が適切な早期入学者の発掘に役に立つに違いない。
 しかし、高大連携は早期入学者の発掘のためのみに行うものではない。
 これからの早期入学、高大連携を考える時、いわゆる『エリート教育』と、個々の子供たちの対応した教育『日本全体としての子弟教育』の両面を考えての対応が、もっと必要と思われる。また、大学全入時代となる今後、学生確保のために安易に利用されることのないようにお願いしたい。
 飛び入学と高大連携とは全く問題が別なので、それはきちんと区別して扱うことが必要だと思います。飛び入学は、大学が優れた才能をもつ者を早期に発見して一本釣りして、その才能を開花させるものです。したがって、それをどのように運用していくか、たとえば、何を目的とするのか、どのような方法でもって才能の有無を判断するのか、どのような領域の才能を早期に開花させるのか、などは全く大学側の問題となります。そのとき、それをどこまで拡大させるのかということです。きわめて少数の個人を対象にするのか、ある程度の数をもくろむのかによって、とるべき方策は異なります。また、学生の学力やコストなどの点で、できる大学は限定されてしまします。拡大をねらうのであれば、まず、目的を明確にすることです。ただ、受験学力がある者を早期に選抜するというだけでは無意味で、そうすることで個人にとって、ひいては、大学や社会にとって何のメリットがあるのかを明確にし、大学でどのような教育をするのかについても明確にすることが重要です。四修のようなものを考えるのであれば、逆に落第も復活させる必要がありますね。

3−2 早期入学・高大連携の振興方策

 教育に護送船団方式は不可欠。その上での各校の特色ある試み。

3−2−1 高大連携を活用した「バーチャルな意味での大学生」

 「バーチャルな意味での大学生」という短絡的発想は、高校教育の高度化を放棄すること(高校自身の教育力の低下)につながり、心配です。高大連携の一つは、「厳しさ」と「高度な学問の楽しみ」を同時に与えることのように思います。国としても、「高大連携」が対象とする生徒集団に応じて多彩な目的を持ちうるものととらえた方策をとることが望まれます。
 「バーチャルな意味での大学生」ということでは、放送大学もそうだが、いわゆるe−learningを利用したバーチャルな大学生の出現も今後は避けられない事態となっていくだろう。要は、そういう人材養成を、制度的にも今後の視野に入れておくことが望まれるのではないかと思う。

3−2−2 飛び入学や高大連携事業を適切かつ総合的に活用した、一人一人の能力を伸ばす教育の展開

 飛び入学の特殊問題はさておき、高大連携を真剣に考えない高校も大学も、これからはありえまい。

3−2−3 国における方策

 地域間格差と学力低下の両問題を視野に入れた施策を。
 (従来の足して二で割って、みんなの顔を立てたようなものでなく)ホントの国家戦略を一刻も早く樹立し、その中に教育をしっかり位置づけること。さらに、(はこものでない、見えない中身に)しっかりお金をかける覚悟をすること。

3−2−4 大学における方策

 入試広報的なものから、入学者受入れとも連動した施策へ。
 学問、その教授法に対する完全な意識改革が必要。

3−2−5 高等学校、教育委員会における方策

 教育レベルではどうにもならない地域間格差は国家的視点で。
 もし、教育に対するホントの国家戦略ができあがったら、その中心を会得して、その実状に会わせて個性的に実現して欲しい。我が国を取り巻く状況は生易しいものではない。

4.その他のご意見等について

 飛び級問題や高大連携問題も大事だが、日本の将来を担う若者の高等教育については、教育の質・大学の質の高度化を真剣に考えるべきである。
 勉強しない多くの大学生、その様な学生に安易に単位認定し、卒業資格を与える多くの大学、研究しない多くの教員、日本の大学の惨憺たる実情をこそ、まず早急に改善すべきである。
 同時に、無免許の大学教員に、教育資格認定制度を導入して欲しい。
 センター入試と同様の、卒業試験(学士号認定試験)制度の創設を検討して欲しい。そうすれば、遊学生や泡沫大学は自然淘汰される。
 この協議会の目的とはやや異なりますが、高大連携をいうとき、高校における生徒の達成度を測定することを考えてもよいように思います。いわゆる卒業試験制度のようなものです。これまでの日本は大学が選抜の主体であり、それも学力による選抜が可能であったために、入試が学力のゲートウェイの役割を果たしていました。しかし、現状ではそういった機能を入試に求めることは無理な状況にあります。補習や導入教育を大学がやらざるを得ないなか、高校卒業の意味をどこに求めるか、それも課題のように思います。
 これまでの経験では、大学教官を迎えての模擬授業などは、すべての教官が高校生にも分かりやすく話ができるわけではない。好評なのは、高校生と年齢の近い院生などが実験実習の補助をするような場合であった。現在、高校改革の推進調査では高大連携について出張授業や模擬授業、講演会、大学授業の聴講・科目等履修などが調査されているが、院生やポストドクターの活用などは入らないでしょうか。

(以上)

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