法学教育の在り方等に関する調査研究協力者会議 (第4回)議事要旨 |
法学教育の在り方等に関する調査研究協力者会議(第4回)議事要旨 1 日 時 平成11年6月28日(月)10:30〜13:00 2 場 所 文部省5B会議室 3 出席者 (委 員) 池田辰夫、伊藤 進、柏木 昇、川村正幸、北川俊光、小島武司、小林秀之、 椎橋隆幸、田中成明、永田眞三郎、浜田道代、藤原淳一郎、安永正昭 (意見発表者等) 村上淳一 桐蔭横浜大学法学部長、ハンス・ペーター・マルチュケ ハーゲン通信教育大学講師 (文 部 省) 佐々木高等教育局長、遠藤大臣官房審議官、清水大学課長、関大臣官房企画官、馬場大学改革推進室長補佐 (オブザーバー) 房村法務省司法法制調査部長、小津法務省大臣官房人事課長、太田法務省司法法制課長、 團藤法務省司法法制調査部付、中川法務省大臣官房人事課付、吉村最高裁判所事務総局総務局付 4 議 事 (1)事務局から配付資料の説明が行われた後、村上淳一氏から「ドイツにおける法学教育と法曹養成について」意見発表があり、ついでマルチュケ氏からドイツにおける法学教育の現状について説明があった後、意見交換が行われた。 (□:意見発表者、○:委員) 【村上氏の意見発表概要】 ドイツにおける法学教育と法曹養成について、日本の法学教育と比較しながら普段考えていることを申し述べたい。したがって、ドイツの事情そのものについてはやや紹介が手薄になるが、ハンス・ペーター・マルチュケ氏に補足をお願いする。 法学教育改革は司法改革と連動している。司法改革に当たっては、司法というものがどうしてもブラックボックスになる傾向があることにかんがみて、それを開くためにどういう改革が考えられるかという問題を検討しなければなるまい。 司法のブラックボックス化に歯止めをかけるためには、裁判システムと外部との法的コミュニケーションを重視しなければならない。そのためには、マスメディアの解説に国民の法的啓蒙を期待し、あとは専門家を信頼して任せてほしいと訴えるだけでは足りない。法廷で展開される法律論、判決で示される法律論そのものが、非法律家にとっても多かれ少なかれ理解可能なものになってはじめて、ブラックボックスが多少とも開かれることになる。社会の複雑化に対応して法律論も複雑化せざるをえず、非法律家にとって理解困難にならざるをえないという見方は、一面では当たっているが、そもそも法律論は真理発見の手段ではなくコミュニケーションのための手段であること、そして現在では法的コミュニケーションを非法律家にまで広げない限り裁判システムの存在理由さえ問われかねなくなっていることを、見逃している。 法律家は、一方では社会の複雑化に対応して、多種多様な法令と判例を参照し、様々の複雑なシステム(個人・企業・経済システム・政治システム等々)のインタラクションを観察しながら自己の責任で決定を下さざるをえないが、他方ではその決定を簡明な法律論にまとめ(法律の条文に事実をインプットすれば結論が出てくるという線形的因果性=三段論法の使用)、外部とのコミュニケーションを図らなければならない。そうしなければ、法システムは今後ますます、ブラックボックスを開けという「外圧」(外国ばかりでなく国内の政治・経済や市民一般からの圧力)にさらされることになる。 「国民の司法制度への関与」との関係で言えば、陪審員に事実問題の判断のみを委ねる陪審制よりも、一般市民から選ばれた参審裁判官が職業裁判官と対等の資格で、事実認定ばかりでなく法律問題の判断に加わる参審制にこそ、わかりやすい法律論による法律家と非法律家のコミュニケーションの途を開く可能性を期待できる。参審裁判官として合議に加わる市民が、「法律論は難解でわかりませんから専門家(職業裁判官)にお任せします」と言うとは限らないし、それを期待するようでは参審制をとる意味がない。参審裁判官が法律論についても責任を負う以上、職業裁判官はどんなに複雑な法律問題についても、参審裁判官がある程度理解できるような簡明な法律論を組み立て、懇切に説明する労を惜しんではならない。「国民の司法制度への関与」を口先に終わらせないためには、こうした負担を引き受けることが必要であろう。 法学教育と法曹養成の最重要の課題は、コミュニケーションの手段としての法律論を自在に展開できる法律家を生み出すことであり、それが「外圧」に対抗する唯一の方法であると思う。 法律論にとって何よりも重要なのは、法的コミュニケーションはフィクション(仮構・擬制・約束事)のレベルで展開されるものだという前提の下で、その仮構を保つための論理的な思考能力・表現能力を身につけることである。この能力は、仮構としての市民社会が発達した欧米では、ある程度まで市民一般に備わっている。来栖三郎の「文学における虚構と真実」は、批評家中村真一郎の次の文章を引用している。「市民というもの‥‥‥は、実は実感以上の範囲を生活圏としている。ということは、現実をひとつのフィクションとして把握している、という意味である。‥‥‥つまり、手近な例で言えば、小切手という紙片を金だとお互いに考えて授受するような仮構──無数のそうした仮構の総合として現実を理解している。実感の及ばない遠いところをフィクションによって捉えることにより、市民は生活を成り立たせている。」これは、私小説批判の前提として置かれた指摘であるが、法律の世界とはまさにそのような仮構の世界なのであり、法律家にとって必要な教養とは、何よりもまず、こうした西洋市民社会の常識を身につけることであろう。フィクションとしての「建前」を軽んじ、「本音」を重視する日本では、軽んじられたフィクションが本音を正当化するために実在視されて作為を制約するというパラドクスに陥る例が少なくない。例えば、人権というものも一つのフィクションのはずで、それがいつの間にか実在視される傾向が日本にはある。フィクションに過ぎないからそれを軽視していいというわけではないが、そのフィクションをどういう場合に使うかということについては別の問題として絶えず議論しなければいけないはずである。しかし、実際には、人権だからと言えば、葵の御紋の印籠を出すのと同じようにみんな恐れ入るはずだと考えられているのではないか。これは、社会をフィクションとして捉えないという日本人の傾向が背後にあるからであろう。つまり、フィクションの意義を軽視する本音主義が作為の可能性を狭めているのである。中等教育でそのことをよほど強調し、仮構を維持するための論理的思考と表現の能力を訓練する機会がない限り、法学部に入学した学生は、そこで初めてフィクションとしての社会秩序に直面し、論理的な思考と表現の意義を知ることになる。 法学部廃止論は、日本においてフィクションとしての市民社会がないこと、建前としての秩序という観念が非常に希薄だということの認識に欠ける議論であると思う。法学部がいらないということになると、すべて本音主義でいくしかなくなってしまう。法学部において市民社会のフィクショナルな(作為の所産にほかならない)ルールによるコミュニケーションの技法を教える実体法教育を行うことの意義は、ここにある。紛争解決に直接役立つからといって実体法よりも訴訟法の意義を強調する傾向、そして本音のぶつけ合いから和解に至ることを最上の解決とみなす傾向は、本音重視を増幅させ、紛争の解決を法/不法のコードに乗せて法的コミュニケーションを行うための技法の習熟を阻害することになりかねない。 むろん、実体法の法律論は複雑化する一方だから、それを微に入り細を穿って学生に伝えることは無理である。実際には、学生向けに執筆されたはずの解説が専門的な知識の披瀝になってしまっている例が少なくないが、複雑な現実を線形的な論理の積み上げによって完璧に捉え尽くそうとする限り、法律論が複雑・難解になることは避けられない。批評家のノルベルト・ボルツも『意味に餓える社会』の中で、「システムがある限度を超えて複雑になり、大規模になると、それを規制するためにはほぼ同程度に巨大なシステムによるしかないのだ。それは、旧東独の国家保安部が経験したことである」と言っている。しかし、法律論は、正しい結論を得るためというよりはコミュニケーションの手段として必要だということに思いを致すべきである。実体法学者は、複雑化する社会において発生する複雑な法律問題の観察に努めるとともに、そうした問題の処理を法的コミュニケーションに乗せるための法律論をできる限り簡明化し、複雑性を縮減して、学生とのコミュニケーション、そして非法律家とのコミュニケーションを可能にする論理を考案するように努めるべきであろう。そういう意味でボルツは、「われわれはつねに『かのように』的な構成と取り組まなければならない」と言っているのである。 アメリカのロー・スクールにおける教育にしても、ヨーロッパ大陸諸国における法学教育にしても、ますます複雑化する「仮構の総合としての現実」についての認識があることを前提として、法律論を教えるものであろう。大陸諸国では法律の解釈、アメリカでは主として判例からルールを読みとる技術を教えているが、そのトレーニングに際して重視される「事実」は、あくまでもナマの事実から切り取られ、「構成」された事実、複雑性を縮減した事実である。これに対して、「仮構の総合」として現実を捉える伝統に欠ける日本では、法学部における法律科目とくに法史学・外国法・法社会学・法哲学等々のいわゆる基礎法学や、政治学関係の授業および異文化の的確な観察に裏打ちされた外国語の授業・教養科目の授業によってまさにそのような前提を教え(例えば、経済学の授業は経済モデルが仮構にすぎないことを知るための絶好の機会になる)、その前提の下での論理的思考能力・表現能力の訓練を第一歩から始めるしかない。そして、市民社会が「仮構の総合」として捉えられている訪米諸国においてさえ、相当程度教育に特化した教授たちないし教授を補佐するための助手たちを擁してはじめて法律家の養成が可能になっているとすれば、その前提の教育から始めなければならない日本ではなおのこと、論理的な思考と表現の訓練が必要になる。そのためには、口頭のディスカッションばかりでなく、テストやレポートの頻繁な添削を任務とする相当数の有能なチューターを擁し、その仕事のためのスペースを確保することが必要だと言わなければならない。それは、世界水準の研究者たることを目指す学者に研究時間を確保するということでもある。 ドイツの法学部の教授は、秘書の他に1〜2名の上級助手と数名の学生助手(優秀な学生から選ばれて校費によって雇われる。ただし、フルタイムではない。)を擁し、これらの助手にチューター的機能および教授の研究の補助機能を果たさせており、教授個室、隣接する秘書室の他に上級助手室と学生助手室をも含む自己の研究室を運営している。優秀な成績で法曹資格を取得した者から採用される上級助手には、研究者を目指す者のほか、博士の学位を得てそれにふさわしい待遇で官庁や企業に就職する者もいる。国(ドイツの場合は州)がこのような上級助手の任用と学生助手の雇用およびその仕事のスペースの確保について相当なコストを負担し、官庁・企業も博士号取得者をそれ相当の処遇で迎える用意がなければ、ドイツ型の法学教育は機能しないと思う。日本でアメリカ型のロー・スクール構想の実現を目指すとしても、チューター的機能に特化した教授を厚遇するなど、コストの面で十分な配慮が必要であろう。ダグラス・ヘイグによると、これからの学者は、1)研究エリートとしての学界スターたち、2)自分の成果を教育用学説という集積物に積み重ねる学界エージェントたち、3)時代に合ったプレゼンテーションのスケッチを引き受けるメディア・コンサルタントたち、4)教育コンサルタントたち、すなわちチューターたち、という4つのカテゴリーに分かれてくるとされるが、コストを節約して「学界エージェントたち」にチューター的機能をも果たさせようとするなら、虻蜂取らずに終わる公算が大きい。 日本でもソクラティックメソッドを試みた例がないわけではないが、定着していないようである。日本の学生の口を開かせるには、講義と並んでユーブング(練習)の場を数多く設定して討論を行う方が効果的ではないか。それと並んで、チューターを多く配置し学生に文章を書かせてそれを添削するというやり方の方が有効でないかと思う。 いずれにしても、現在の日本における法学教育の改革は、多額のコストの問題を度外視しては解消されないであろう。 三段論法を中心とする法律論は、法的コミュニケーションのための手段として役立つものであるが、その技術を教えるのに実務家の助力が不可欠だとは言えない。むろん、法学の授業に実務家の協力を求める意味がないわけではない。しかし、それが社会生活の本音を教えるにとどまるようでは、ほとんど意味がない。社会における本音と建前の懸隔を教え、それにもかかわらず建前、つまりフィクショナルな法律論がコミュニケーションの手段として不可欠であることを理解させない限り、実務家の話は「面白い経験談」として無味乾燥な法律論のオアシスたるにとどまるであろうと思う。 実務家が複雑きわまる社会生活のナマの事実から法的に意味のある「事実関係」を、どのようにして構成しそれを法的コミュニケーションに乗せてゆくか、どのようにして複雑性を縮減するか、を、学生に共体験させる場合にこそ、実務家の協力は有意義であろう。ただし、もしかすると、日本の実務家はナマの事実から法的に意味のある事実を切り取り、構成した上で、その構成された事実に法条を逐次適用してゆく作業に携わっているのではなく、「諸般の事情を総合して」法律を一括適用しているのではないか、これでは到底欧米の法律家に太刀打ちできないのではないか、という疑問を学生に抱かせることがあるかも知れないが、それもまた有意義な経験であろう。この場合、日本の実務家は複雑性の縮減(三段論法の使用)による法的コミュニケーションを行っているのではなく、アウトプットをインプットにフィードバックする「循環的なプロセス」によって「インタラクションの安定的な形式が生まれてくる」ことを期待しているわけである。配付資料の『「法の解釈」と「構成主義」』に述べてあるが、それは、線形的な因果関係による予測ができなくても、長年の慣行によって一定の固有の傾向が読み取れるようになること、「理論的にはそうかも知れないが、実務はこうなるものだよ」という長年の知恵を働かせることを意味する。しかし、それは、われわれ自身が組み込まれている文化圏の、固有言語、固有習慣、固有値にすぎず、ローカルな秩序化形式にすぎない。欧米においても、裁判とは実際にはこうした「循環的なプロセス」にほかならないのであり、そのことが意識されてもいるが、それでも、線形的な論理による説明が法的コミュニケーションの手段として主役の座を下りることはないであろう。これに対して、日本の法律実務家が没論理的な経験主義(それは文学における実感主義に対応する)に埋没し続けるならば、日本はやがて欧米法律家の草刈り場になるかも知れない。 いずれにせよ、司法試験受験の要件として法学部在学中に主として弁護士事務所や企業、行政官庁における3ヶ月の実務経験を要求しているドイツで、それに携わる学生に守秘義務を課していることは、学生にナマの事実に接してそれを仮構の世界で処理する作業を見習わせるという実務家の協力の態様を雄弁に物語っている。修習生の実習を引き受けることさえ負担と感ずる日本の実務家に、学生の実務経験への協力まで期待することは至難であると思うが、特に経済界が経済社会のニーズに合致した実務法学教育を大学に期待するなら、本来、民間企業の法務担当者の講師登用を要望するという及び腰の姿勢にとどまらず、ナマの事実の法的処理という課題を常時解決しているはずの企業自身が、実務教育の場としての負担を引き受けて当然であろう。 他方で、実務に直接触れることにより、法律論はフィクショナルな市民社会の秩序のためのフィクションだということ、それはフィクションにすぎないから無価値なのではなく、 まさにフィクションのレベルでコミュニケーションを行うことが情報化と国際化に対応する所以であることを、実地に理解する学生も出てくるかも知れない。彼らは、伝統的な固有値にとらわれない大胆な法律論を展開し、欧米の後追いを脱却する可能性を見せてくれるかも知れない。ボルツは、「概念は、適合するもの、現実に抵触しないもの、道を開けるもの、ブラックボックスを開くものであるときに合格ということになる。現代のまともな学問が到達している水準によれば、ある理論が現実に合っていることを証明するのは接続可能性と実行可能性だけなのだ。換言すれば、概念や観念や理論はそれ自体が宝物なのではなく、宝物殿の鍵にすぎないのだ」と言っているが、そういう宝物殿の鍵を手に入れさせることが、大学における法学教育の目的であろう。宝物殿の鍵を手に入れて使いこなせるのが、高いクオリティーを持った法律家であると思われる。 拙稿『転換期の法思考』の中で、クナックという法学教師の教えに従ったドイツの法学学習の手引きを引用したが、その本には「クオリティーとは、単なる専門知識を超えたものである。解決としては正しくすべての問題を洩れなく論じている解答も、クオリティーに疑問があれば(18点満点で)6点か7点(可の上ないし良の下)しかもらえない。クオリティーを測る要素は、解答の組み立て、議論の迫力、用語の厳密性、適切な重点の置き方、余計な部分がないこと、思考展開の明晰性、事物に即して論理的に議論する態度等々である。クオリティーが高ければ説得力は大きい」と書かれている。法律家の優劣は、専門知識の多寡を超えた、このようなクオリティーの有無によって決まるのではないか。そして、「判断能力は自己信頼を必要とする。自立的な判断の形成を妨げること多大なのは、『心配すること』である。心配は、多種多様な要素に基づく。勉強すべき科目の多さ、学習文献の氾濫、迷路のように見通しのきかない状態、満員の教室やゼミ室、時には自分自身の気分、受講証明書を揃えたり国家試験の準備をしたりしなければならないというプレッシャーなどが、心配を募らせる。逃げ道のない心配の悪循環が、ちょうど国家試験の準備にさしかかった多くの学生の頭を占領し始める」とも書かれている。とすれば、大学における法学教育の目的は、古色蒼然とした施設・設備のなかで、複雑化する一方の法律論によって学生を意気消沈させることにあるのではなく、快適な勉学条件の下で、複雑性の縮減に役立つ法律論を手にしたチューターたちの懇切な指導により、学生の理解を助け、自信をもたせて、外国の法律家にも太刀打ちできる論理的な議論の迫力を身につけさせることではなかろうか。 具体的な制度化の構想についてはレジュメのとおりであるので詳しくは解説しないが、とくに、事案処理のトレーニング専門のチューターたちを相当数任用することが必要であろう。予算がなければ、司法修習生に対し、修習期間中3ヶ月のチューター活動を義務づけることも考えられる。トレーニングを行うことは、チューター自身にとっても、将来本物の事案処理を行うためのトレーニングになるであろう。 【マルチュケ氏の説明概要】 ドイツにおける法学教育の目的は第1次国家試験(司法試験)に合格させることであり、試験の目的として、学生が法を十分に理解できるか、あるいは法にいかに適応できるか、さらには試験科目そのものと、試験科目の歴史的、社会的、経済的、政治的及び法哲学的な関連が十分理解できているか、をみることが、法律に規定されている。 大学では学生を試験に合格させるために講義やゼミのほかに、第1次国家試験の筆記試験に合格するためのテクニックについて訓練するユーブングを行っている。このユーブングは大学教育における司法試験準備科目として非常に重要な科目であり、学生は事例のさまざまな問題の解決のために法律をどう適用するかを学ぶ。 また、第1次国家試験の受験資格要件としては、大学以外の機関で3ヶ月の実務教育を受けなければならない。実務教育は6週間ごとに2回に分かれて実施される。はじめの6週間は弁護士事務所とか企業の法務部とかで実務教育を受け、次の6週間は法曹養成講習で行われることになっている。これによって学生は、実務的な経験をしながら理論的な法律問題をよりよく理解できるようになる。 ドイツは連邦主義であり、州によって試験内容(筆記試験の科目数や論文試験を課すかどうかなど)が異なるが、大学における法学教育の内容はほとんど同じであると思う。 【意見交換】 ○ 法学教育の改革については様々な角度からの議論があるが、今、相当思い切った改革が必要であるとの認識から具体的な提案をなさっていると思うが。 □(村上)法律家の量を増やすだけでなく質も高めていかなければならないというのが問題意識としてあると思う。その場合、質の高い法律家とはどういう法律家をいうのか。語学が達者とか、いろいろな細かい法律知識をもっているとかいうのが質の高い法律家なのか、といった問題について十分議論がなされていると思うが、論理的に理論を組み立てて迫力を以て主張ができる法律家が結局は議論に勝つのであり、そのような法律家を養成する必要がある。しかも、論理的なレベルでの議論というものはあくまでも議論のための議論であり、フィクションにすぎないから、議論が役に立たない場合には前提を切りかえて思い切った転換ができる能力のある法律家を養成しなければならない。 日本では、法律を変えようとする場合、まず諸外国の状況を調べ、審議会を設置し、結論が出るまで5年くらいかかるということになり、とかく諸外国に後れをとることになる。そもそも、法律の世界は約束事の世界であり、約束事というのは人間がつくった仮構のもので、都合が悪ければ一定の手続きによって変えることができる。だから西洋の法律家は絶えず法をどう変えればよいかということを考えている。日本はどちらかというと建前よりも本音のつきあいを尊重する社会であり、法律家もまた仮構の約束事よりも事実がどうであったかということを気にするが、日本でも西洋の法律家に太刀打ちできるような理屈に強い法律家を大学で養成していかなければならないと思う。 ○ ドイツでは大学で3ヶ月の実務教育を受けるということであるが、これは全州で第1次国家試験の受験資格要件になっていると理解してよいか。また、第1次試験合格後の就職先について伺いたい。 □(マルチュケ)実務教育はほとんどの州で制度化しておりこれが全国的な動きになっていると理解していただきたい。就職については、第1次試験に受かっただけでは資格にならず、第2次試験に受かってはじめて法律実務家になることができる。第1次試験に受かると司法修習生になる権利が与えられ、ほとんどの場合2年間の司法修習を経て第2次試験を受けることになるが、第2次試験に失敗した場合には就職の問題が残る。しかし、統計的に見ると第2次試験の受験者の約15%位は不合格となるが、彼らは正規の法律家としてではないにしてもどこかに就職していることは間違いないと思う。 ○ 法曹人口が増えすぎたことからそれを抑制しようという動きはないか。 □(マルチュケ)確かに法学教育を受ける学生は多く、卒業して司法試験を受ける人数も多すぎるとの話はあるが、それを抑制しようという政策は聞かない。 ○ 司法修習については、期間の短縮とか、廃止論の議論も出ているように伺っているが最近の状況を伺いたい。また、法律実務教育については一元論、あるいは二元論という体制があったように思うが最近の動向について伺いたい。 □(マルチュケ)司法修習期間は2年間である。修習期間の短縮については議論中であるが、民事教育、刑事教育、あるいは行政分野のどの分野を削るか具体的な結論は出ていない。 また、(2年間の修習期間を大学における法学教育と一本化する)一元論の試みは既に廃止されている。その理由としては、やはり法律家の法的知識の習得が一元化された教育制度を通じて十分に実現できなかったという事実がある。もう一つは、大学での法学教育と実務教育を同時に行うはずであったのが、理論的な法学教育を十分受けていない者を相手とする行政機関や裁判所など関係機関の負担が多すぎるという問題があり、廃止に至ったわけである。 ○ 私は学生に架空の問題を与えて論理的なコミュニケーション能力を高めるために大学院と学部の合同のゼミを行っているが、ゼミでは何を聞かれているかということを把握させる訓練を行い、次に何を法律的に議論するか、その要件事実を書く訓練をする。そして書いた文章を添削をし書き直させたりする。このような教育をやればかなり短期間に少なくとも方向性ぐらいは解るようになると思う。ただ、そのためには教員はかなりの負担を覚悟しなければならないと思うが、やはり教える授業というものをどう整えていくかが非常に大切であると思う。 □(村上)御努力に敬意を表したい。ただ、そういうことを嫌がらずに引き受けられる教員が必要であるとともに、そのための補助者を抱えないと十分な成果は挙がらないと思う。そのためには大学院学生等をチューターとして活用するということも有効であろうが、その処遇を考える必要がある。 ○ ロースクール構想の中では、カリキュラムの特色として実務教育を強調されていると思うが、つまり法律や契約書のドラフティングとか、事実認定の仕方とかをイメージされていると思うが、やはりフィクションとしての法秩序というものをきちんと理解させることが大学教育としてやれることであり、やらなければならないことと思う。 そこで、ドイツにおける司法修習の2年間のトレーニングと、第2次試験以降のトレーニングについて伺いたい。 □(マルチュケ)修習生としての実務教育は、法律の適用よりも事実認定の仕方を裁判官の指導の下で学ばせる。 (村上)つまり、生の事実から法的に意味のある事実を切り取って、それを法律論の形で表現する。生の事実の中で大事なものを切り取る、余計なものは落とすという訓練を修習期間に行うということである。ただ、それを最後は法律論の形で表現するということも重視される。ドイツの判例は日本の判例と違って論理的にできているとドイツ人が言うのはそのためである。 ○ 現行の司法制度について、コミュニケーション・ギャップあるいはブラックボックスとの表現があったが、その場合に、国民の側から見て裁判判決が見えてこない、あるいはよく理解できないという指摘には2つの理由があると思う。1つは、法律は難解な文章が多く、何なのか訳のわからない表現があったりして国民の側から見てわかりにくいことである。もう1つは、専門用語が多すぎるということである。同業者間ではある種の了解を得た言葉であるが、一般人にとっては暗号的に響く。ゼミでは日常用語を使いながら自分の主張を相手に納得させるような理論で行くよう指導しているが、このようなコミュニケーション・ギャップを解消するためには、少なくとも裁判判決の場面あるいは訴訟の場面においてできるだけ解りやすい日常用語を使用し、極力専門家仲間の合言葉だけでなくて、一般人も理解できるようなメッセージを発し得るようにすることであると思う。 □(村上)用語のわかりにくさ、専門用語の多用によって一般国民にわかりにくいという問題があるとの指摘であり、用語の専門化はある程度は避けられないが、その通りと思う。反省してみると、法律学者の間でも他の専門の人の講義が理解できないということが少なくないのではないか。 また、法学部の学生に教養科目を講義している先生で、歴史の先生が法のことをどれだけ理解しているか、社会学の先生はどうか、哲学の先生はどうかと考えてみると、必ずしも法学教育と関係するような講義の仕方ではなく、学生はむしろ全く関係ないものを押しつけられているように感じているのではないかと思う。百貨店式にいろんな事を教わっても意味がないわけで、これから法学教育の改革を考えるに当たっては、教養科目を講義する先生に法との間に橋を架けるような授業をしてもらうことが必要であると思う。 ○ 本音と建前の分離ということであるが、日本人は本音と建前を使い分けていて本音をなかなか言わず公の席では建前だけを話する。むしろ裁判の場面ではお互い建前ではなく本音と本音をぶつけ合ってそこから紛争のあるべき解決の結論を導き出すべきであろうと思う。逆に言うと、建前と本音を分離させないということが一つの方向性としてあるのではないかと思う。その場合、フィクションというのは言葉から言えばモデルだと思う。経済学の場合、市場経済のモデル論が今日本で横行しており、特に経済規制の面では規制緩和が横行しているが、そのモデル論と現実のギャップが非常に大きいと思うが社会はあまり気にしない。しかし、法律の方の裁判判決のモデル論なり、そこで使われた言葉と現実とのギャップが大きいと意識する。やはり個別の紛争に関わるということで、経済学で非常に空理空論のモデルあっても社会の人はあまり気がつかないが、法律の方のモデル論の方が現実とあまりギャップが多いと問題になるのでないかということであろうと思う。 □(村上)モデルと現実のギャップが大きすぎては困るだろうとの指摘であるが、それはそのとおりであり、都合が悪ければ建前の方をかえてギャップを埋めることが必要である。建前は人間が作ったものだから人間がいつでも組みかえられるわけで、だからといって何でも現実に妥協するわけではないが、絶えず建前を見直す努力は必要である。 ○ 日本の実務家は、必ずしも生の事実をうまく処理し切れていない可能性もあるので、本来の三段論法のティーチングとして向いていないとのことであるが、学者の方も、外国の法制度なり法理論を紹介するだけで日本の現実の問題に触れる人は少ない。また、外国のことをやらないと一人前の学者として認めてくれないため、40歳ぐらいまでは外国のことを一生懸命やり、ある程度名前が売れてきてからやっと日本の現実の問題を発言するという段階を経てきていることから、三段論法的な事柄に向いているかは疑問である。 どういう人材を研究者の卵として採用するかという場合に、外国語能力が優れていることが相当重視されていて、法解釈能力があるとか、社会科学をやる上で分析力があるとかは二の次になっている。 □(村上)外国のことばかり調べているとのことであるが、日本の法がそもそも外国から入ってきたものであることを考えると、日本人が気が付かないような盲点を知るためにも外国の議論を知ることは必要であり、そうした学者の努力を一概に無視できないと思う。最初から日本のことだけとなると視野の狭い法律家ができる可能性があり、兼ね合いの問題であろう。 ○ 新しいニーズに応じた法改正等の作業が鈍いという指摘であるが、これはやはり従来の法学教育が法解釈ということに比重を置き、法改正とか、立法論とか、法政策というものに比重を置いてこなかったことによると思う。なかなかこのようなトレーニングを受けていないし問題意識も少ない。今後は教育のレベルでもそういう要素をとり入れていく必要があると思う。 ○ ドイツでは第1次試験で法律家としてふさわしい能力があるかをみるということであるが、言うは易く行うは難しで、教育で何を教えるかという問題と、試験問題の中にそれをどう織り込むか非常に難しいと思う。実際にどのような工夫がなされているか伺いたい。 □(マルチュケ)試験では法解釈能力はもちろんであるが、条文の歴史的な背景や、立法的な背景などについても知識をみるようになっている。大学で法学教育を十分受けていれば合格できるということであり、試験に合格すれば質の高い法律家ということが証明されるわけである。 ○ 論理的思考能力や表現能力の育成は必要であると思うが、法的な知識とドッキングした形で行う方がよいと思う。 □(村上)そのとおりである。(だからこそ、法学部不要論を批判したわけである。) 5 次回の日程 次回は、8月4日(水)に司法研修所を訪問し、司法研修制度についてヒアリングを行うこととなった。 |