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グローバル化に関する文献抜粋(波線部事務局)

■ 新井敬夫(亜細亜大学国際関係学部准教授)
『グローバリゼーションと経済開発』−世界銀行による政策研究レポート
ジュプリンガ・フェアラーク東京株式会社、2004年

  • グローバリゼーションは一般的には貧困を軽減する。統合度が高い経済はより早く成長する傾向があり、普通、この成長は広範囲に浸透するからである。低所得国が製造業やサービス業の国際市場に参入するにつれ、貧困層は農村における悲惨な貧困という脆弱な生活基盤から逃れ、大小の都市での仕事へと移ることができる。また、グローバリゼーションは勝者と敗者を作り出す。これは国家間でも国内でも言えることである。国家間で見ると、今のところグローバリゼーションは不平等度を低めている。約30億人が「新たなグローバル化している」発展途上国に住んでいる。1990年代に、先進国の成長が2%だったのに対し、このグループでは一人あたり所得が5%の成長を遂げた。また、このグループの中の極度の貧困者数は、1993年から1998年までの間に1億2,000万人減少した。しかし、多くの貧しい国(約20億人を抱える)はグローバリゼーションの進行から取り残されている。
  • グローバリゼーションは諸々の力関係を変える。国際関係のレベルでは、先進国と発展途上国の力関係を変える。国内政治のレベルでは、政府、企業、市民社会の間の力関係を変える。最も根元的なところでは、グローバリゼーションは平和への展望を変えることになる−国内においても国家間においても。グローバリゼーションは文化の多様化を促進することもあるし、阻害することもあり得る。コミュニケーションやマーケティングの力、あるいは移民によって外国文化がもたらされる時、グローバリゼーションは文化の多様性を促進する。もし外国文化が自文化にとって代わる時、グローバリゼーションは多様化を阻害する、と言える。この両方ともに問題となることがある。
    グローバリゼーションは世界のほとんどの地域で所得を上昇させ、競争を激化させ、それによって可能となった消費水準の向上は、環境汚染という脅威を招いている。競争の激化もまた「底辺の競争」と「汚染受け入れ場所」を生み出す。各国政府は環境基準を低くすることによって、競争優位を獲得しようとするかもしれない。つまり、保護主義における近隣窮之化問題が、グローバリゼーションにおいては自己窮之化問題に置き換わったのかもしれないのである。このようなグローバリゼーションによる悪影響を打ち消すのは、グローバリゼーションによる所得上昇に従って、人々は環境の質を第一に考える余裕ができるようになる、ということである。
  • 京都議定書の提案では、2015年までに、ある目標排出水準にするという合意を形成した上で、この排出枠を世界各国に比例配分する。先進国にとっては、現在の排出水準をかなり下回る排出枠配分になるだろうし、発展途上国の枠は現状を上回ることになろう。ここに、排出許容量の「市場」が存在するということになる。貧しい国は割り当てられた排出許容量の一部を「売る」ことで、所得を得られよう。つまり、豊かな国も貧しい国も両者ともエネルギー節約的な政策を導入する強いインセンティブを持つのである。さらに民間企業は新しく、よりクリーンなエネルギーを開発するインセンティブを持つであろう。グローバリゼーションに対する明るい展望が持てるか否かは、このような革新的なアイデアがどのようにして、すばやく取り入れられ、支持を得られるか、にかかっている。

■ 上条勇(金沢大学経済学部教授)『グローバリズムの幻影』 梓出版社、2006年

  • グローバリゼーションは、アメリカ化、世界をアメリカ一色に塗りつぶしていく傾向でもある。もともと同じ資本主義といっても、国とか地域によって制度が異なる。西欧諸国では「社会福祉国家」、日本では、労使関係の日本的システム、政官財癒着のもとで官僚主導型「計画」システムが築かれてきた。もともとアメリカは、資本主義諸国のなかでも市場重視型を特徴としていた。それが1970年代にはいってケインズ主義の権威失墜を受けて、「市場機能万能論」を説く新自由主義(新保守主義)経済力が勢いを得るにしたがって、いっそう拍車がかかる。1980年代には、新自由主義的な考えが、民営化、規制緩和、財政支出の削減を内容として政府の政策として採用されていく(アメリカにおけるレーガノミックス、イギリスにおけるサッチャーリズム)。新自由主義は、グローバリゼーションのイデオロギー的基礎をなした。そして、市場経済重視と経済の自由化は、アメリカの対外政策としても積極的に追求されたのである(アメリカン・グローバリズム)。こうして、グローバリゼーションは、世界の市場経済化・自由化(アメリカ化)の傾向に貫徹していく。
  • 今日、新自由主義をイデオロギーとするグローバリゼーションのさまざまな弊害が指摘されている。格差社会の形成、南北経済的格差の拡大が指摘されている。確かに多国籍企業の自由な移動は、進出国における新たな雇用機会を与える。他方で、その工場閉鎖と転出によって進出国の地域と住民に打撃を与える。また、後進国への進出の場合、その劣悪な労働諸条件と低レベルの安全規制、自然環境規制が多国籍企業にとって利潤機会となる。後進国においてはとくに先進国による経済的支配、外資の支配が問題となる。確かに技術と資本の不足する後進国が外資の利用によって経済的に発展するケースもある。また、今日、技術力と資本力のあまりの懸隔ゆえに、先進国に対抗して後進国が自力で発展するのには限界があることも指摘できよう。
  • グローバリゼーションとは、簡単に言えば、東西冷戦体制の終了とIT革命を背景にして、もはや社会主義を気にすることなく、市場経済と資本の論理をより純粋に貫徹させる傾向のことである。つまり、経済の自由化を推し進め、世界を舞台に利潤と効率性を追求したメガ・コンペティションを展開する傾向のことである。アメリカは、この傾向を意識的に促進し、経済的巻き返しの機会とした。そして、アメリカの「一人勝ち」を背景に「アメリカ・スタンダード」の名で知られるごとく、世界をアメリカに似せて作り直す「アメリカ化」を進めたのである(アメリカ・グローバリズム)。市場経済重視はもともとアメリカの特徴をなしたが、1990年代のグローバリゼーションは、こうした世界のアメリカ化によっても特徴づけられている。

■ レスター・C・サロー(マサチューセッツ工科大学経済・経営学教授)
『知識資本主義』 ダイヤモンド社、2004年

  • いかなる国も、グローバルな供給網の一端を担い、多国籍企業の投資を受け入れることを押し付けられているわけではない。いかなる国も、マクドナルドを食べなくてはならないというわけではない。しかし、グローバル経済に参加した国々は、参加しない国々よりも速いペースで裕福になる。参加した国々は専門化や、規模の経済や、技術移転や、直接海外投資や、市場アクセスや、また参加することのみで得られる特殊な経営ノウハウを取得することができるなどの恩恵を受けることができる。しかし、その代わりにグローバル・ビジネスの要求に応えなければならず、そのためには教育、インフラ、よい治安などを提供する必要がある。そうしなければ、それらの国々は世界経済に見捨てられ、置き去りにされていく。
  • 資本主義の問題とその批判に真剣に取り組んだ結果、資本主義システムは事実上守られ、異なる形の資本主義がつくられた。つまり、活発な金融・財政政策と義務教育が合わさった社会福祉国家であり、それは資本主義に本来固有の経済的不安定さと所得格差の拡大をコントロールしようとするものであった。グローバリゼーションについても同じことができるはずである。
  • グローバリゼーションはもっと緩やかなペースで進むべきだと議論するには、それがいかに可能なのかを答えなければならない。国はグローバリゼーションから身を引くことならできるが、グローバリゼーションというものは政府によってそのペースを決められるわけではない。政府ではなく、民間企業がグローバル経済のバベルの塔建設のペースを決定しているのである。
     変化しようとする力は、必然的にそれに対抗する力に直面せざるを得ない。人間は習慣に従う。経済的、そして技術的な変化に対して自ら意志でこれまでのやり方を変えたとしても、それはゆっくりと徐々にでしかない。急激な変化には抵抗する。急激な変化を人々が自ら受け入れることは稀である。そしてグローバリゼーションは急激な変化である。その結果、人々の反応は、アンチグローバリゼーションの意見に見られるように、合理的と非合理的な議論が同時に混ざり合った、いかにも奇妙で感情的なものに陥ってしまうのである。
     アメリカに支配されたグローバル文化が、一国の文化を侵略し、それを変えてしまうのではないかという懸念は、詰まるところ、自らの文化は、自国の若者にとって魅力的でないと信じなければ無意味な議論となろう。同様に移民たちが自国の文化を破壊してしまうという懸念も、結局のところその国の人々が、自国の文化は外国人にとって魅力的でないと考えない限り成り立たない議論である。このような議論に対する合理的な反論は、自国の文化をもっと魅力的にするために努力するべきだということである。グローバリゼーションを攻撃し、それによってグローバル文化と移民を締め出そうとするのは非合理的な反応である。しかし、それは非常に人間的な反応であるといえる。

■ マンフレッド・B・スティーガー(イリノイ州立大学政治学/行政学教授)『グローバリゼーション』 岩波書店、2005年

  • グローバリゼーションという現象の中核に、四つの明確な性質ないし特徴が存在している。第一に、グローバリゼーションは新たな社会的ネットワークや社会的活動の創出と、既存のそれらの増殖とをともなっており、そのことによって、伝統的な政治的、経済的、文化的、地理的な境界は次第に克服されつつある。今日の衛星通信ニュース会社の創出は、局地的なものを超越する新たな社会秩序の出現を可能にした、専門的なネットワーク化、技術革新と政治的決定という複合的な事情によって、可能になったのである。
    第二の特質は、社会的な関係、行動、相互依存の拡大と伸長に反映されている。今日の金融市場は地球全体に広がり、電子取引は二四時間行われている。巨大なショッピング・モールがすべての大陸に出現し、世界のあらゆる地域の商品を購買力のある消費者に提供している。第三に、グローバリゼーションは社会的な交流と活動の強化と加速をともなう。インターネットは離れた場所の情報を数秒で伝達し、衛生は遠くで起こっている出来事のリアルタイム画像を消費者に提供する。第四に、社会的な相互連結と相互依存の創出、拡大、強化は客観的・物質的なレベルにおいてのみ生じているのではない。グローバリゼーションとは、社会的な相互依存のさらなる顕在化と社会的相互作用の急激な加速を、人々がますます意識しつつあることをも指しているのであり、それを見落としてはならない。
  • 文化のグローバリゼーションは、ロックンロールやコカコーラやサッカーの世界的な普及に始まったわけではない。広い範囲にわたる文明の交流が近代のはるか以前からあったのである。とはいえ、現代の文化的伝播の量と広がりは、それ以前の時代を凌駕している。インターネットやその他の新しいテクノロジーの後押しを受けて、私たちの時代を象徴する支配的な意味体系−たとえば個人主義、消費主義、多様な宗教的言説−は、かってなかったほど自由に、そして広範囲に流通している。
  • グローバリゼーションは、その現象それじたいに関するさまざまな規範・主張・信念・語り口に満ちたイデオロギー的次元を含んでいる。たとえば、グローバリゼーションが果たして「善い」もの、「悪い」もののどちらを表象するものかをめぐって、イデオロギーの領域で激しい世論の応酬が生じている。したがってグローバリゼーションのイデオロギー的次元を探索する前に、私たちが行うべきなのは、分析上の重要な区分として、グローバリゼーション−さまざまな、またしばしば矛盾する仕方で描写されてきた、グローバルな相互依存を強化する社会的な諸過程−と、グローバリズム−グローバリゼーションの概念に新自由主義的な価値と意味とを与えるイデオロギー−とを区別することである。
  • 九.一一のテロ攻撃は、グローバリゼーションという名の下に進行する社会的過程の形態と方向性に深刻な影響を及ぼした。人類がまた別の重大な転換を迎えている。グローバルな不平等を、個別主義的保護主義の暴力的な勢力が新兵を確実に補充できるような水準にまで悪化させないよう、グローバリゼーションの将来の進路を改良主義的なアジェンダに結びつけなければならない。グローバリゼーションの帰結として社会的相互依存がより大きく顕在化することは決して悪いことではない。しかしながら、これらの変容促進的な社会的過程は、世界を特権的な北と不利な南に分割するグローバル・アパルトヘイトという、現在の抑圧的構造に挑戦するものでなくてはならない。そうすれば、グローバリゼーションが真に民主主義的で平等主義的なグローバル秩序の到来を告げるものとなるだろう。

■ ジョセフ・E・スティグリッツ(コロンビア大学教授、2001年ノーベル経済学賞受賞)
『世界に格差をばら撒いたグローバリズムを正す』 徳間書店、2006年

  • グローバル化が特定の価値を押し付ける手段として利用されてきた、という批判は正しい。しかし、グローバル化自体に罪がないことを、私はここで強調しておきたい。グローバル化を導入したからといって、必ず環境が悪化するわけでも、必ず不平等が広がるわけでも、必ず一般市民の福祉を犠牲に企業の利益が図られるわけでもない。東アジアでみられるとおり、適切に管理されたグローバル化は、途上国と先進国の双方に大きな利益をもたらす。問題がグローバル化自体にあるのではなく、グローバル化の進め方にある。
  • グローバル化の定義は幅広い。発想や知識の国際的な流出入も、文化の共有も、世界的な市民社会も、地球規模の環境運動も、すべてグローバル化に含まれる。しかし、狭義のグローバル化とは、経済面において、商品、サービス、資本、労働のフローが増加することにより、世界各国の経済がさらに緊密化することである。
  • 問題のかなりの部分は、経済のグローバル化が政治のグローバル化に先行してしまっていること、またグローバル化の経済的な結果が、われわれのグローバル化を理解し方向づける能力や、政治的な手続きでその結果に対処する能力を凌駕してしまっていることにある。
  • グローバル化にもっとうまく対応するすべを学ぶべきだと論じてきた。同時にわたしたちは、貧しい国々に、そして豊かな国の貧しい人々に、さらには利益やGDPを超える価値にもっと気を配って、グローバル化をもっとうまく機能させるすべを学ばなくてはならない。問題は、ここまでのグローバル化の営まれ方に民主性の欠如が認められることだ。ゲームのルール作りとグローバル経済の運営を託された国際機関(IMF、世界銀行、WTO)は、先進工業国の利益のために、もっと正確に言うなら先進国内の特定の利権のために動いている。
  • グローバル化をうまく機能させるためには、考え方を変える必要がある。もっとグローバルにものを考え、行動しなくてはならない。今日、そういうグローバルな帰属意識を持つ人があまりに少なすぎるようだ。古い金言にあるとおり、すべての政治は局地的であり、また、ほとんどの人が局地的に生きているわけだから、グローバル化が局地政治のごく狭い枠組みで進められてきたのも意外なことではない。世界経済が相互依存の度合をどんどん高めていっても、局地的な思考がなくなることはないだろう。この局地政治とグローバルな諸問題の乖離こそが、グローバル化への多々ある不満の根源なのだ。
  • グローバル化とは、発想や知識、物品やサービス、そして資本や人的資源が国境を越えて行き来しやすくなったことにともなって、世界のある地域の出来事が他の地域へ波及することを意味する。世界の国々の結びつきが強まるにつれて、相互依存の度合も高くなる。相互依存の度合が高まれば、共通の問題を解決するために、協調行動をとる必要性も高くなる。協調行動の方針は、グローバルな共同体にあまねく恩恵をもたらすために、必要不可欠な項目に絞り込むべきだろう。それ以外の項目は取り上げないほうがいい。

■ ジョセフ・S・ナイJr.、ジョン・D・ドナヒュー編
『グローバル化で世界はどう変わるか』 英治出版株式会社、2004年

第1章 序論−グローバル化の実態 ロバート・O・コヘイン(デューク大学教授(政治学))、ジョセフ・S・ナイJr.(ハーバード大学ジョン・F・ケネディ行政大学院長)

  • 最近のグローバリズムには、これまでと根本的に違う点があるのだろうか。どの時代も、それ以前の時代を土台としている。歴史をひもとくと、現在と同じ現象が必ず過去にも見られるものだが、今日のグローバル化は「これまでより速く、安く、深い」。グローバリズムの厚みが増すことによって、ネットワークの密度が高くなり、「制度の速度」が増し、国家を超えた参加が増えている。
  • これらに共通するのは、グローバリズムの厚み−相互依存関係の網の目の緻密さ−が、これまでになく増しているだけではないことだ。厚みがあると、さまざまな相互依存関係に、より多くの、より深い接点ができる。ある地域の、ある側面に起こった出来事が、他の地域で他の側面に深い影響をおよぼす。複雑系のカオス理論や、天候システムに見られるように、どこかで起こった小さな出来事が触媒作用を起こし、やがて他の場所で甚大な影響をもたらすことがある。こうした仕組みは理解しにくく、影響を予測するのが困難だ。しかも、それが人間によって作られたシステムである場合、人間は予測不可能な行動をとることによって他者を出し抜き、経済・社会・軍事的優位に立とうと躍起になりがちだ。つまり、グローバリズムには不確実性が付随している。複雑さと不確実性が競いあうよう拡大しつづける一方で政府や市場参加者などが、このつながっているシステムの掌握や管理に追われることになる。
  • グローバリズムがガバナンスにおよぼす影響について、数多くの論文が発表されている。最も説得力のあるものは、国家の重要性は変わらない、グローバル化とその影響に適応するときの鍵となるのが国家の内部構造だ、といった一般的な結論に集中しているように思われる。
  • グローバル化は分配の政策と不平等に大きく影響するかもしれないが、今日のグローバル化に対するこの影響は、一九世紀の場合ほど明白ではない。不平等が拡大している、「貧者がますます貧しくなる」と普遍的に言い切るのは単純すぎる。まず、国内と国際的な不平等を分けて考えなければならない。一般的にいって先進国では、ヘクシャー=オリーンの理論から見て、不平等が拡大すると考えられる(豊富に存在する要素である資本と技能労働者が、未熟練労働者を犠牲にして利益を得るので)。一方、発展途上国では、少なくともある程度は平等が拡大するはずである(少なくとも市場部門で雇用されている労働者に関する限り)。グリンドルの第8章で示すように、現実は理論より複雑かもしれず、途上国では政治システムの性格と制度の脆弱さが結局はすべてを決めるのかもしれないが、要するに、先進国と途上国では基本的に経済に予期されるものが違うはずである。
  • グローバル化が国家におよぼす影響は、政治・経済の体制によってかなり違う。この点について、「生産システム」から考えてみよう。市場制度では、技能労働の市場価格が競り上がり、分業が広がるので、グローバル化は所得の不平等をもたらす。社会民主主義的な福祉国家では、移転支出によって所得の不平等は制限されるが、失業が生じる。日本のような制度では、グローバル化によって終身雇用制度や、企業を通して福利厚生を提供する制度に圧力がかかる。総合すると、グローバル化と国内政治は互いに影響しあうものであり、グローバル化はどこでも同じ影響をもたらすというのも(ましてや福祉国家を崩壊させるとか、国家権力を失墜させるというのも)、グローバル化は無関係だというのも正しくない。グローバル化の影響に対応するのに、歴史、機構、意識によって異なるいくつかの方法があり、たった一つの「黄金の拘束服」といったものは考えられない。

■ 中谷義和(編)『グローバル化理論の視座』 法律文化社、2007年
「グローバル化—自由民主政の終焉」ヨアヒム・ヒルシュ(フランクフルト大学教授)

  • グローバル化は、したがって、経済法則の単純な表現ではないし、一部の政治家や科学者たちが主張し続けているにせよ、近代化の一般的傾向の所産であるともいえない。グローバル化とは資本主義社会を、とりわけ、階級構造と制度化された階級関係を根本的に再編しようとする指導的な経済・政治エリートの決定的戦略の所産にほかならない。この戦略の中心は貨幣と資本の自由化や規制緩和をグローバルな規模で展開しようとするものである。
  • グローバル化戦略のなかで、国家と国家システムは大きく変わり、国家と社会との関係を根本的に変えることになった。とりわけ、経済のグローバル化のなかで、国家の国際化に強い弾みがついた。
  • 第1に、政治と経済の構造の分権化が求められる。つまり、ある意味で、政治と経済の「脱グローバル化」が必要である。より精確には、下からのグローバル化に着手すべきである。これは、ローカルとリージョナルなレベルで政治の単位を強化し、連接型の政治・経済体制を構築すべきことを意味している。
  • 第2に、現在の「新自由主義的立憲主義」と対峙する必要がある(Gill/Law 1993)。というのも、国際的組織とルールのシステムによって私的所有と市場諸関係が保証されているだけに、個別国家が民主的立憲主義の視点から民主的決定を下しえない状況にあるからにほかならない。こうした立憲主義には、たとえば、参加・協議・情報の権利を制度化することで国際組織を民主化するとともに、その機能を少なくとも公的なものとし、できるだけコントロールに服しうるものに変えることが、また、個別の市民権とは別に政治的・社会的な基本的人権を保障することが含まれる。
  • 第3に、「国際的市民社会」の構造を強化すること、これがナショナルとインターナショナルなレベルで諸過程を民主化するための中心的前提条件となる。これには自主的組織型のプロジェクトとネットワークや非政府組織(NGO)のような団体が含まれる。こうした組織は国家や国際機構からのみならず、私的企業からも自立していて、無視されている利益を代表しうる存在であるだけでなく、固有の知識と情報の普及に努めうるものでなければならない。この数十年間に、この種の政治組織は急増したが、グローバル化や国家の国際化の、また、自由民主政の後退の所産でもある。

■ ヤン・ネーデルフェーン=ピーテルス(イリノイ大学社会教授)
『グローバル化か帝国か』 法政大学出版局、2007年

  • 過去20年間、支配的な政策アプローチは新自由主義的なグローバル化であった。といっても、グローバル化に向かうすべてのものが新自由主義的だという意味ではなく、新自由主義的グローバル化がグローバルな体制になったという意味での話である。グローバル化にたいする大部分の抵抗が新自由主義的グローバル化にかかわっており、しかも、おそらくまちがいなく、グローバル化そのものというよりも、むしろこうしたかかわり方の方が現実の問題となっているのである。現代のグローバル化は、いうなれば、情報化(情報技術の適用)、柔軟化(生産と労働組織における脱標準化)、そして地域化や国家再編のような多様な変化を含む総合政策である。
  • グローバル化とは、一部の人間にとっては統合された領域であるとしても、多くの者にとっては徹底的に分断された領域なのである。(中略)グローバル化のもつ光の部分が、流動性の高まりとボーダレス化の急速な拡大であるとすれば、影の部分は、貧困と分裂や紛争の増大が支配するあまりにも慣れ親しんできた世界である。この二つの側面は、どのように相互作用するのか。装いを新たにした封じ込め政策と予防戦争が、この二つの側面に接点をもたらすことを回避する手段となっている。

■ ジャグディッシュ・バグワティ(コロンビア大学経済学教授)
『グローバリゼーションを擁護する』 日本経済新聞社、2005年

  • 経済のグローバリゼーションとは、貿易や対外直接投資(企業および多国籍企業によるもの)、短期の資本移動、労働者をはじめとする人びとの海外移住、テクノロジーの普及などを通じて、国内経済を国際経済に統合することである。
  • 「グローバル・ペシミスト」が「英語は文化における疫病さながらに世界中に蔓延し、現地の言語を駆逐する殺戮言語だ」と主張しても、私としてはイギリスの知識人チャールズ・レッドビーターに与する。レッドビーターは著書「それでもグローバリズムだけが世界を救う」のなかでそのような批判にこう応じている。「変種の言語や混成言語がいくつも出現している。白か黒のどちらかでしかないペシミストの世界は、言語や通商やテクノロジーの分野で人びとが異なる要素を結合して、豊かに実らせる可能性があることを認めない。だが、人はそうやって混成物をつくりだすことで、変化に対応してきたのではないか」
  • 二十一世紀における大きな二つの力は経済のグローバリゼーションと、富裕国と貧困国とを問わず多くの国で著しい成長を見せている市民社会であり、この二つの力を合わせてグローバリゼーションを正しく管理すれば、全世界が成功を共有できるということだ。
  • 世界経済への統合あるいは統合の過程でかならず生じるマイナス効果に適切に対応するには、新しい政策と制度が必要である。第二次大戦後に自由貿易へと大きく政策転換した富裕国は、すでに対応策として制度を整備しているが、貧困国はそれが充分にととのわないまま、自由化の進む世界経済において厳しい難問に対処しなくてはならない。しかし、新しい制度および政策の設計と資金調達は、これら貧困国の政府に任せきりにしておくわけにはいかない。国際的な開発機関や富裕国は、政策実施に必要な資金を財政難の政府に融資したり、市場開放による困難に対応するための制度作りに手を貸したりすることで貢献できるのである。
  • 社会的課題の達成を加速させるには、三つの有望な方法がある。第一に、道徳心に訴えるように勧告すること、第二に、さまざまな含みを考慮して社会的課題に取り組むことを目的とした国際機関による調査と、監視機能を強化すること、そして第三に、民主政治と司法に関する積極行動によって、多様性を考慮し地域の状況や伝統への配慮を失わずに、国際規範を効果的な国内法規に移し変えて施行しようとする気運を高めていくこと、この三点である。

■ トーマス・フリードマン(ニューヨーク・タイムズ紙コラムニスト)
『フラット化する世界〔増補改訂版〕』 日本経済新聞出版社、2008年

  • 無敵の民である若者を増やす−つまり「コンピュータやロボットがもっと早くやることができない仕事や、優秀な外国人が安い賃金でやることができないような仕事」を身につけるには、たえず右脳のスキルを発展させるような教育に的を絞る必要がある
  • フラット化時代の富は、次の基本的な三つの事柄を手に入れる国に転がり込む傾向が強くなっている。一つ目は、フラットな世界のプラットホームにできるだけ効果的に、そして迅速に接続できるインフラ。二つ目は、国民がそのプラットホームでイノベーションを行なって付加価値の高い労働ができるような理想の教育プログラムと知識スキル。そして最後の三つ目は、適切なガバナンス(中略)によって、フラットな世界の流れを勢いづけ、なおかつ管理すること。
  • 私は「思いやりのあるフラット主義」を提唱する。フラットな世界における進歩主義というのが、私の定義する思いやりのあるフラット主義である。地政学的な暴発がいくつかあるのを除けば、世界はいよいよグローバル化し、フラット化しているし、それは夜が来ればやがて夜が明けるのと同じくらい確実である、というのが私の理論の前提になっている。(中略)といっても、従来の福祉国家を強化するのではないし、それを捨てて市場の暴走を許すのでもない。現状に合わせた体系に作り変えて、国民の展望や教育やスキルやセーフティ・ネットを充実させ、フラットな世界のよその国の個人と充分に競争できるようにする。
  • 生涯にわたって「雇用される能力」という筋肉をつけるうえで、政府にはもう一つ重要な役割がある。アメリカの労働人口全体の教育水準を高め、刷新することだ。第7章で、新ミドルの仕事に向いた教育について論じた。だが、学ぶ方法を学び、適切な頭脳を育て、適応し、合成するようになるには、きちんとした基礎をまず学ばなければならない。理想の教育は、きちんとした基礎教育の上に成り立っている。読解、作文、算数、小学校で教えるような科学。こうした基礎学力を固めた国民を増やさないかぎり、われわれの生活水準の向上を維持するのに充分な新ミドルを確保することはできない。

■  D.ヘルド(ロンドン経済政治大学院教授)、A.マッグルー(サザンプトン大学国際関係論教授) 『グローバル化と反グローバル化』 日本経済評論社、2003年

  • グローバル化とは、簡潔に言えば、社会的相互作用の超大陸的なフローとパターンの規模と範囲から広がっているだけではなく、そのインパクトも強まっていることを表すものである。人々の組織が遠隔のコミュニティと結びつき、世界のリージョンと大陸を越えて権力関係を広げているが、その程度に変化ないし変容が起こっていることを示している。とはいえ、調和のとれた世界社会が出現しつつあるとか、広くグローバルな統合が進むなかで文化と文明の収斂減少が起こっていると受け止めるべきではない。相互関係が深まっていると考えられる一方で、新しい敵対関係や対立状況が起こっている。また、反動的政治や根深い排外感情も煽られかねない状況にもある。世界の人々の大部分がグローバル化の恩恵から排除されているだけに、グローバル化とは深い分裂と激しい対立の過程でもある。また、グローバル化の作用は不均等なだけに、ひとつの普遍的な過程が地上で一様に展開されているわけではない。
  • 政治生活の性格と形態にひとつの移行が起こっている。現局面において浮上しているのは「グローバル政治」という特有の姿である。これは、政治のネットワーク、相互作用、ルール設定の形態が不断に広まっていることを意味している。世界の一部における政治的決定や行動が直ちに世界的規模で波及しうる状況にある。政治活動と意思決定、あるいはいずれかの舞台は、急速なコミュニケーション技術によって複雑な政治的相互作用のネットワークと結びつきうる。こうした政治の「広がり」と結びついて、グローバルな諸過程の強化ないし深化が起こっていて、「遠くの活動」が特定の地域ないしコミュニティの社会状況や知の世界に浸透している(Giddens 1990:ch2)。その結果、経済・社会・環境のいずれを問わず、グローバルなレベルにおける諸展開はほとんど即時に個別の場に影響しうるし、また、逆のことも起こりうる状況にある。
  • 国内と国際、領域と非領域、内部と外部という区別は、長く国家間の政治や「政治的なもの」についての伝統的概念に底流し続けてきたが、グローバル政治という考えはこの区別に挑戦するものである。この考えは、また、グローバルな秩序において国家と社会を超える規模の相互連関の豊かさと複雑さを照射するものである。さらには、グローバル派が論じているように、グローバル政治の対象は伝統的な地政学的関心にのみならず、きわめて多様な経済的・社会的・エコロジー的問題にも向けられている。環境汚染、麻薬、人権、テロは多くの超国民的な政策争点のひとつであり、領域的管轄権や既存の政治的協力関係を超える問題であるだけに、その実効的解決には国際協力が求められることになる。

■ 水岡不二雄(一橋大学大学院経済学研究科教授)『グローバリズム』八朔社、2006年

  • グローバリズムとは何かを考えるには、3つの類型がある。結節空間だった世界が、競争を通じて均質空間になってゆくと唱える新古典派経済学の考え方、企業の規模が大きくなれば、完全な競争にはならず、特定の企業が、特定の国で市場を支配してしまい、そこから取り残された国は、貧困のままにおかれると考えた多国籍企業論の考え方、高所得国が途上国を収奪する国際的システムとしてグローバリズムを捕らえようとした従属理論の3つである。
  • 西欧的な個人主義・自由主義の考え方と合体して、貨幣により媒介される社会的分業システムである市場経済を分析しようとする理論的枠組みが新古典派経済学であり、ネオリベラリズムの政策を支えている。
  • 米国は1985年頃を過ぎると、口では市場主義を唱えながら、実際には貨幣にグローバルな覇権の力をすべて委ねるのではなく、世界最大の軍事力とそれに裏づけられる政治力を駆使しながら、米国のグローバルな覇権の永続をめざすようになっていった。
  • グローバルなスケールでは、米国によるネオリベラリズムの制度的な押しつけ、そしてアフガニスタンとイラクへの軍事攻撃が、米国から距離をおこうとする多くの国々を生み出し、世界政治システム多極化への大きな契機をつくりだした。現在、米国の一極覇権を嫌う国や人々によって、グローバリズムの多極化とリージョナリズムの台頭という、新しい世界政治の空間が編成されつつある。
  • よりローカルな空間スケールでは、ネオリベラリズムに対抗し、市場原理主義に対抗するオルタナティブな社会組織の理念を再発見し、実践する試みが、世界各地でなされはじめている。これは、ポランニーが提起した「互酬」という概念を基盤とするものである。この概念を実際の社会で動かす担い手としてのNGOやNPOの役割を強調する動き、そしてまたインターネットや格安航空券のような草の根の人々が比較的自由に加われる新たな通信・交通の様式を活用する動きなどがある。
  • 地球規模の空間がもつ積極的意義は大いに認めつつ、ネオリベラリズムではなく、また多国籍企業の主導でもなく、互酬の社会原理に立った草の根からの新しいオルタナティブなグローバリズムを追求しようとする社会運動が動きを増している。
  • オルタナティブなグローバリズムが目指さなければならない方向性とは、社会を人格的な共同社会という極に、そして個人を利他的で共生を目指す性善的人間類型という極に強く引き寄せるベクトルを追求すればよい。
  • 今日のグローバリズムが抱える問題を解決するための基本的な戦略は、ネオリベラリズムのグローバリズムを改革して、より互酬的なグローバリズムを目指すこと。社会組織の在り方は変わるが、グローバルという空間スケールは変わらない。グローバリズムというのは、あくまで空間スケールにかかわることがらであり、ネオリベラリズムは、経済・社会組織である。本来、両者は別物であり、混同しないように注意しなければならない。

■ J.ミッテルマン(アメリカン大学国際関係学部教授)
『オルター・グローバリゼーション』 新曜社、2008年

  • ネオリベラル・グローバリゼーションの文脈における文化的喪失の問題を例にとってみると、われわれそれぞれの言語は思考を一意的にとらえて表すし、そうしたわれわれの使う言葉がすたれてくれば、思考もまた消失するということに留意することは重要である。もしある言語が消滅すれば、多様な諸観念も含めて文化の諸側面は一緒に消滅することになる。支配的な諸言語はそうでない諸言語と長年接触を繰り返してきたが、それによってあまり普及していない諸言語を消滅させるプロセスが加速化しているという証拠もある。
  • ますます多くの分野・要素をグローバル化しようとする巨大な圧力の渦巻きのなかで、フランスは抵抗を試みている国家である事を例証している。すなわち多くの規制、(学校教育、医療制度、就業、退職制度、失業手当などの)寛大な福祉予算関係費、そして信頼できる地下鉄や鉄道網のような国営の社会インフラを維持している国家であることを示している。アメリカの失業率をはるかに凌ぐフランスの失業率、増大する財政赤字、市民の日常生活を混乱に陥れないまでも不便をかける頻発するストライキやデモ、分かりにくい労働立法や銀行コード、それに技術革新を阻害する教育システムを、フランスの政策の批判者たちは指摘するのが常である。英米流のネオリベラルなモデルに直面し、アメリカ的解決策を採用するよう迫られて、フランス大統領ジャック・シラクは「フランスは国自体がグローバルであるという感覚を持っており、今までの生活様式を維持すべく(英米流グローバリゼーションと)戦っていく」と答えたのである。「フランスはフランスであり続けるつもりである」ともシラクは言ったのである。(Truehart 1997より引用)。グローバルな規模で強まる経済的圧力に対抗するための民営化とか規制緩和の強化といった不人気な変化に直面して、グローバリゼーションによって不利益を被っている社会階層からばかりかいくつかの国家からさえも、国家主義的反発が起こってきている。もちろんフランスの抵抗は、ネオリベラルなグローバリゼーションに体現された利益に奉仕するいくつかの国家によって演じられる「高級売春婦(courtesan)」の役割からはほど遠い異形のものである。
  • グローバリゼーションへの対応にはいくつかの方式と、そのための制度改革の提案がいくつもあるのである。対内的局面では、行政官庁や立法過程—たとえば移民政策の分野に関して—はグローバリゼーションによってもたらされる問題のいくつかを緩和することができる。(中略)セイフティーネットや社会条項の主唱者たちは、この方針に突き進むが、懐疑論者はこれら主唱者はもっと根本的な問題から注意をそらす広報媒体として貢献しているのかもしれないと主張する。
  • グローバリゼーションの弊害を緩和し、公正な方法で機会を人々に配分できるようにグローバリゼーションの諸力を作り変える試みをオルター・グローバリゼーションが意味するならば、批判者たちはこれがどんなに多様であっても賛成するのである。

■ 嶺井正也編著(専修大学経営学部教授) 『グローバル化と学校教育』
八千代出版、2007年

  • 本書の編者でもある嶺井正也は、その著書「現代教育政策論の焦点」のなかで、以下のように述べる。 「グローバリゼーションの進展とかかわって日本の教育政策を考える場合、三つのパターンが考えられる。いずれも、いわゆる国民国家というスクリーンを通過するなかで、その国なりの着色が行われてきた「国際化」時代の教育政策とは違い、かなりストレートに教育政策の策定・実施が進んできている。そのパターンには三種類ある。
  • 国際機関によるグローバル・スタンダードの設定と教育政策
  • 教育政策における規制緩和、地方分権化とナショナリズム
  • グローバル・イシューへの対応」(嶺井正也[2005:17]、下線部筆者)
     本章の課題意識に沿うならば、国家的に総括された教育制度・政策・施策の実施というパラダイムが大きく変容しているのである。どこかの先進事例、あるいは失敗を「参照」しながら自国の政策・施策へと「導入」する、あるいは学的に自国の特質を解明する、という枠組みが通用しないのである。
     同書の「国際機関によるグローバル・スタンダードの設定と教育政策」の解説で触れられているが、OECDのPISAが各国の教育政策に影響を与えている。一位であったフィンランドへの各国教育関係者による視察が続いている。確かにこの光景は、先進事例の吸収のよう見えるが、これまでの数多くの「国際学力調査」は、これほど諸国に影響を与えてこなかった。「こうしてPISAの結果が、ストレートに日本の教育政策に反映されるようになった。これは、教育政策史上、新たな段階に入ったことを意味している。」(嶺井正也[2005:18]
     2000年から始められたOECDの国際学力調査は、直接、各国の教育政策に影響するという点において、これまでの国際学力調査とは明らかに異質である。特に「悲惨な結果」となったドイツでは「『PISAパニック』が出現し、「フィンランド詣」が盛んである。
     こうした「ストレート」な反映は、二つめの「教育政策における規制緩和、地方分権とナショナリズム」という各国(さしあたって先進国)共通の基盤を「グローバル化」が形成しつつあることが背景にあると思われる。PISAの反響の大きさは、それ以前のグローバル化対応のための新自由主義的な教育政策の浸透を受けたものだ。
     1990年代とりわけ顕著になったのは、「世界同時進行」的な教育改革の動きである。学校を見ると、各学校への権限委譲、それに伴う自己決定権の強化、カリキュラムの大綱化、その成果の測定のための学校評価・教員評価、弾力的な運営、業績主義、予算配分の変化などがあるだろう。教育行政を見れば、NPM(ニューパブリックマネージメント)の浸透、親の選択・決定権の強化などである。こうした動きは、各国によって様態の異同や強弱はあるものの、何らかの形で議論され促されてきた。教育の「グローバル・スタンダード」の形成である。
     また、嶺井が指摘する三番目の項目である「グローバル・イシューへの対応」も各国にとって大きな課題だ。環境教育、シチズンシップ教育などグローバル化への対抗的な可能性を持つ教育も各国独自の在り方で出現している。そこで「国際機関の構造と役割を分析しつつ、国民国家、市民社会そして市場と教育の関連構造を押さえる必要がある。」(嶺井正也[2005:30])

■ イグナシオ・ラモネ(パリ第七大学教授)、ラモン・チャオ(フリー・ジャーナリスト)、ヤセク・ヴァズニアク(挿絵)(漫画家)
『グローバリゼーション・新自由主義批判辞典』 作品社、2006年

  • かつては商品だけに限定されていた国際貿易の自由化を、サービスにまで拡張しようという決定は、1994年にまでさかのぼる。1994年の4月に批准された「サービス貿易に関する一般協定」(GATS)は、自由化すべきサービスのなかに、すでに教育の分野を包摂していた。この協定の範囲外にとどまるためには、一国の教育システムが財政的にも運営的にも国家によって完全に掌握されていなければならないが、そのような国はどこにもない。
     サービス分野で準備されているこの自由化の新段階は、きわめて深刻である。これは一方で、市場の論理のグローバル化、全地球的規模の競争を狙いながら、他方で、教育や保健といった、そうした論理や競争になじみにくい活動分野まで各国で市場化をはかろうとするものである。
  • グローバリゼーションとは、なによりもまず、あらゆる活動に課せられた(あるいは課せられようとしている)経済的な掟のことであり、しかもその掟が課せられるにあたって、いかなる国境や自然環境や性質に関する議論もなされることはない。これは絶対的かつ全面的な優越事項として進められ、「友好的」であるか暴力的であるかを問われることもなく、ただ支配的な経済的観点からのみ語られるだけである。
     したがって、次のような幻想をもちつづけようとしても、まったく無駄なことである。すなわち、グローバリゼーションとは、外部から強制しなくても、多様性(社会的・教育的・文化的などの)を守り、促進し、発展させていく、などという幻想だ。
     実際に、新自由主義によるグローバル経済が、それらの多様な文化や教育に対して提示するのは、たった一つのモデルだけである。それはつまり、産業化のモデルであり、それがどのような部門であっても、その原理と機能する方式は、同じではないまでも、似たようなものである。大学、専門教育、映画、美術館、本、スペクタクルな演劇、音楽などなど。グローバル経済が文化や教育に提示するのは、せいぜいそれが「よく管理されているか」といった指標であるが、それは実際には、その経済的利益をあげるために「よく管理されているか」というだけの話である。つまり投資するために「最適化」された金融管理のことであり、そのではグローバル経済は「家族のよき父親」の役割の自任するのである。そして、これが君臨する場所が、家族から、すべてのものが依存し、いずれそこに戻っていくはずの「地球」となったのである。
     新自由主義グローバリゼーションは、特殊な性格をもっている。つまり、あらゆるものを商業化する性格であり、文化までもがそこに含まれる。グローバリゼーションがこの領域に対しても商人の論理を押しつけ、文化資源の消費の規格化へと導いているのはまったく明らかである。

■ J・C・リュアノ=ボルバラン(パリ第五大学(グローバリゼーションと国際関係論))、シルヴァン・アルマン(『人間科学』誌学術ジャーナリスト)
『グローバリゼーションの基礎知識』 作品社、2004年

  • 教育の世界では、新自由主義的グローバリゼーションや「教育の商品化」に反対して、危惧の声が高まっている。教育の民営化は、従来の教育システムを急速に変えることになるだろう。
     それはすでにはじまっており、とくに第三世界の国々では「世界銀行」のエキスパートたちの指導にもとづいて、国の経済発展を念頭においた基礎教育に力をそそごうとしている。もちろん、どの国でも、そうした方向をとっているわけではないが。
  • 一般的に言って、途上国は、教育を民間の手に、つまり西洋の大きな機関にゆだねなければならないのが現状である。しかし、この民営化の傾向は、先進国においても見られる。アメリカやヨーロッパの大学や高等教育機関は、教育コストの増大に直面して、新たな財源を見つけなくてはならなくなったからである。教育の規制緩和が、教育における不平等や荒廃をもたらすことを、多くの人々が恐れている。
  • ともあれ、こうした状況のなかで、高等教育や職業教育の専門家たちは、通信教育がもっとも経済的な解決策であると見なしている。例えば、フランス教育相クロード・アレーグルに高等教育についての報告書を提出したジャック・アタリは、この意見を支持しており、次のように述べている。
     「教育とは、サービス活動である。学生が多ければ多いほど、教員はたくさんいるし、教室もたくさんいる。需要にともなってコストは増す。レコード産業やヨーグルト生産の場合には、こうしたことは起こらない。提供されるサービスと生産コストが切り離された経済システムに教育が移行すれば、大学は悠々と大量の学生を抱え込むことができるようになるだろう。私がインターネットを活用して、どれほど多くの学生に講義しても、生産コストは同じだから収入は増すのである。(『エクスパンシオン』二○○○年)
     (中略)
    その一方で、コミュニケーションや出版分野の企業が、インターネット企業と協力しながら進出しようとしてくるだろう。さらに、「テレコム」など遠距離通信にたずさわる大企業、ハードやソフトの情報関連企業などが、教育や技術者養成といった分野に特別の関心を示してもいる。
     この出現しつつある新たなセクターは、今のところ、国家が教育に投入している予算に比べたら、まだごくわずかな範囲に進出しているだけである。この二〇年間、先進国も途上国も、だいたいにおいて、常に国内総生産の五%を少し上回るほどの割合の額をつぎ込んできた(ユネスコによる統計)。これは、経済成長を考慮に入れると、教育の価値が常に高まってきたことを意味する。経済発展のためには、教育が戦略的価値をもつことは認知されている。識字率は増加しつづけているし、教育を受ける人々の割合も同様に増えている。現在、一二億人ほどの子どもたちが学校に通っている(非就学児童は一億人ほど)。しかし、教育の提供の拡大は、多くの場合、教育システムの市場化と引き換えに起こっている。
     とはいっても、国家は、学校の教育基準や学校プログラムを管理しつづけてもいる。義務教育に関しては、国家の特権は不可侵である。世界各国の教育システムは、その国の歴史教育やアイデンティティを規定する価値観、あるいは優先言語の教育などと密接不可分に結びついており、国によって根本的な相違がある。グローバリゼーションは、こうした根元的な機能に対しては、ほとんど影響力をもちえないだろう。

※ 著者・編者の役職は著書・編書発行当時

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