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科学技術理解増進政策に関する懇談会(第5回)議事要旨

1.日時   平成17年5月24日(火曜日) 14時〜16時30分

2.場所   富国生命ビル28階 第1会議室

3.出席者   【委員】
 有馬座長、伊藤委員、高柳委員、千野委員、遠山委員、中川委員、毛利委員
【招聘有識者】
 小林 大阪大学コミュニケーションデザインセンター副センター長、瀬川 毎日新聞社科学環境部長
【説明者】
 渡辺 文部科学省科学技術政策研究所上席研究官、佐々木 株式会社NTV映像センター事業局営業事業部次長プロデューサー
【オブザーバー】
 國谷 独立行政法人科学技術振興機構理事、北村 独立行政法人国立科学博物館理事、長崎 文部科学省国立教育政策研究所総合研究官、今井 文部科学省科学技術政策研究所総括上席研究官
【事務局】
 榊原基盤政策課長、佐藤基盤政策課企画官

4.議事    
 (1) 事務局より招聘有識者及び出席者の紹介後、配付資料の説明が行われた。
 (2) 議題1「科学技術コミュニケーター養成」について、小林 大阪大学コミュニケーションデザインセンター副センター長より「大学における科学技術コミュニケーション教育」について資料1−1、北村 独立行政法人国立科学博物館理事より資料1−2、渡辺 文部科学省科学技術政策研究所上席研究官より「科学技術コミュニケーション拡大への取組み」について資料1−3、事務局より資料3を説明後、質疑応答が行われた。(○委員、△事務局等)

 
小林副センター長) まず、簡単な自己紹介をさせていただく。
 「科学技術コミュニケーション」に対して、何かやってみようと思う人間がどういう出自であるかを理解していただきたい。これは今後、こういうタイプの教育を推進していく上でどういう人材が必要になるかというときの参考資料になればと思う。
 私自身は理系、理学部出身で、落ちこぼれたというところである。実験が下手で、諦めようと思ったわけである。もともと進路を文学部か理学部かで迷ったので、理学部の実験科学者になる道から、やや文系的なものに変えようと思った。しかし、文系で簡単に大学院に入れるようなところはない。そのとき、全国で唯一、理系の枠組みでありながら中身は科学史、科学基礎論を扱う、そういう大学院があったので、そちらに文転した。
 また、コンセンサス会議といったものに関与したというのが私のキャリアの1つになっており、ここにいらっしゃる高柳委員と一緒に取り組んだものである。これは、簡単に紹介すると、社会的に対立のあるような科学技術のテーマ、例えば遺伝子組み換えといった技術に関して、その専門性を持っていない普通の市民が集まって、専門家と議論した上で素人だけでレポートを書く、そういうヨーロッパで開発された参加型のテクノロジーアセスメントの一種である。これを日本で最初にやったわけである。
 もう一つ、やはり私がかかわったものとして、科学技術社会論学会というものがあり、これは西洋ではSTSと呼ばれており、サイエンス・テクノロジー・アンド・ソサエティの相互の作用や関係を議論するような学問領域である。日本では、この分野を研究するような機関はほとんどないに等しいけれども、私は、需要は確実にあると思っていたことに加え、設立の趣旨の綱領文書においても「21世紀における科学技術と社会の新しい関係を考えるための学会だ」と宣言した。今日、文部科学時報5月号のタイトルがまさしくそういう言葉になっているので、不思議な気がするが、この学会をつくったのは2001年である。それから、私がコンセンサス会議を最初に、試行的に小さくやったのが98年、そして農林水産省に依頼を受けて本格的に始めたのが2001年であるから、たかだか七、八年でこういうふうな会議が行われるというのは隔世の感。私は、時代の変化の速さを感じている。
 今年4月1日に「コミュニケーションデザインセンター」を立ち上げた。我々の社会には、様々な場面で、コミュニケーションがうまくいっていないことによって生じている問題がたくさんある。例えば、医療の場面での患者と専門家の関係、あるいはまちづくりにおける様々なトラブル、あるいは科学技術の関係でも、生命技術や遺伝子組み換え技術、原子力発電所、そういったところで紛争は絶えない。これは、それぞれ個別の領域で様々な取り組みがなされているが、そういうものを「コミュニケーションがうまくいっていない」という横串で集めてみると、共通の問題があるはずだと考えた。いわば、この会議でこのようにテーブルを並べること自体が一つのコミュニケーションのスタイルになっているので、そのスタイルをどう変えたらどういう結果が出てくるだろうか、あるいはもっといいスタイルはないだろうかと考える、これがコミュニケーションデザインである。それと同時に、大阪大学なので、やはり大学院に重点化し、大学院生たちは将来、社会において専門家たるべく教育を受けている。その専門家たちが信頼される専門家になるということがこれから非常に重要になると思うので、そのような専門家を育成していきたいと考えている。それから、近年は産学連携という言葉がよく使われるが、大学の社会的機能というのは産業界に対してだけではなく、もっと広く、社会に対して大学の知を提供すべきであり、そこから学ぶべきであろう。そういう意味で「社学連携」という言葉を掲げ、そのような拠点をつくることを狙いとしている。
 この図は、現代の問題状況を「コミュニケーション不全」と捉えるということを表している。そして、そのために、専門家と、社会の非専門家である市民の間のコミュニケーションの回路をデザインしたいという狙いがある。
 最近は「双方向性のコミュニケーション」という言葉がよく使われるが、これは非常にナンセンスである。双方向性がなければコミュニケーションではないので、わざわざ「双方向性」という言葉を使うということは、今までいかにそういうコミュニケーションをしてこなかったかということのあらわれだと思う。現実に我々が考えていることは、専門教育として大学院生に対してトレーニングを施し、実際に社会―市民と協同の活動をやってみるということであるがなかなかそう簡単にはできない。スタッフの数は、各研究科からの移籍が9名、新規採用予定5名の14名が中核の部隊である。そして任期制で9名、現実には12名採用した。それ以外に、各研究科が兼担教員という形で協力するという構造になっている。ただ、14名中、科学技術コミュニケーションを担当する人間は、私を含めましてたかだか4名程度であるということをご理解いただきたい。先ほども話したように、コミュニケーションというのは様々な領域において問題が生じており、医療や防災などの観点で取り組む専門家もこの中には入っている。いわゆる科学技術のコミュニケーションに携わるものはこの中の4名ぐらいである。
 最初にお話ししたいことは、「科学技術コミュニケーション」という言葉が非常に多義的に使われているという現状である。この懇談会でも常にこのような論点が出てくると思うけれども、1つは、やはり若者の理科離れを克服するということが、このような言葉に込められることが多い。それから、「基礎科学」と政府の方では呼んでいるが、私は基礎科学という言葉は余り好まないので、「純粋科学」と呼ばしていただくけれども、純粋科学への社会的支援を獲得していくことが、純粋科学に携わっている方にとっては重要な課題である。そこからコミュニケーションという議論が出てきているということが1つあると思う。それから、社会的に科学技術をめぐって生じている紛争を解決する、これについては社会に疑問の声を上げたり反対する人々もいるわけであるが、そういったところでのコミュニケーションが、やはりうまくいっていない。BSEに関しても、うまくいっていないと思う。
 もう一つは、産業界のニーズあるいは視点と、大学の中の研究者の志向やニーズは必ずしも予定調和ではないので、産学連携における円滑な活動を実現するためには、その間をうまく取り持つようなメディエーターが必要であるという議論が出ている。
 また、供給過剰となりつつある博士号取得者の新たなキャリアを生み出すことも最近は議論されている。ただ、このための切り札として、こういう科学技術コミュニケーションをただ言うだけでは、私はうまくいかないだろうと思う。これは後で渡辺上席研究官がお話しになると思うが、科学技術政策研究所が出されたディスカッションペーパーの中から資料をいただいてきた。これはその中の科学技術コミュニケーションの広がり、裾野と山腹という議論である。大阪大学では当面、この図で山腹の部分を中心に、進めていきたいと思っている。その理由は将来、社会の中で専門家になっていく大学院生を大量に養成しているということを考えると、この山腹の部分で、きちっと議論するような能力を持っている専門家を我々の大学がいかにして養成するかというのが社会的な課題だと思っているからである。
 裾野の部分は広義の科学教育ということになると思うけれども、これは一定は必要ではあろうと思うが、ただ、現在のような知の爆発状況を前提にすると、この裾野の部分に知識を伝えることには、おのずから限界があるのかもしれない。例えば、DNAという概念があるけれども、私より上の世代は、高校の生物の教科書に「DNA」という言葉は載っていない。したがって、概ね50歳以上の方々は、必要に応じて、あるいは様々なメディアを通じて社会的に後年獲得していくことにならざるを得ない。こういうことが、これからどんどん繰り返されていくので、どの時点でどのような知識を習得するかというのは、その世代ごとに随分違ってしまう。それを平準化するための努力は必要だと思うけれども、限界はあるだろうと思う。
 そしてまた、仕事にも使わない科学技術の高校の知識を、卒業した後もずっと維持し続けることが可能であるとすれば、それは奇跡に近いことであり、普通は忘れるものだと思う。
 そういう意味で、科学技術コミュニケーションを考える上では、やはり視点を幾つかに切り分けなければいけない。私自身は、まだ十分整理できてないが、例えば、純粋科学をテーマにしているのか、科学技術をテーマにしているのかで「コミュニケーション」と言っても違うだろうと思う。それからターゲットとしても、現在、既に専門家になっている方及び専門家の予備軍のコミュニケーション能力を考えるのか、あるいは非専門家と呼ばれている人々の科学技術リテラシーの方に着目するのかによっても違うであろう。それから、既に物理学や化学やさまざまな領域の専門家のセンスアップなのか、それとも、センスアップするための教育をするために、こういったものをきちっと考えて議論していく新しいタイプの専門家をつくるという議論もやはり必要になる。それから、科学技術リテラシーの向上に視点を置くのか、それとも産学連携も含めて社会的にトラブルが起こっている具体的な問題の解決に焦点を当てるのかによっても違う。それから、わかりやすい知識、あるいは知識の共通のベースをつくっていくという方向で議論するのか、それとも、そもそもコミュニケーションというのは何か、コミュニケーションのスタイルの方に力点を置くのかというふうに、視点はいろいろある。
 これは全部、相互排他的ではないが、やはり場面に応じて分けて考える必要があるだろうと思う。ただ、一般的に、いわゆる欠如モデルと言われる発想であるが、コミュニケーションがうまくいっていないのは、どちらかに知識が不足しているからである。したがって、それを注入すればよろしいという考え方がある。しかしこの欠如モデルだけではうまくいかないので、内外の研究を通じて欠如モデル自体が見直されている。このモデルを別に無視する必要はないけれども、私どもは、それよりも、いかに聞く力をもった専門家を養成するかが重要であろうと思っている。
 大阪大学で当面行う予定なのは教育プログラムの開発だが、このセンターは学生を持たない組織でもあり、各研究科へ大学院の新しいタイプの教養教育として提供したいと思っている。今年度は将来の専門家としての大学院生をターゲットとして試行プログラムをやりたいと考えている。一応の狙いは「思いやりと確かな社会的判断能力を持って市民と十分なコミュニケーションをとり得るような院生・若手研究者の育成」である。
 その第1段階として、多様な研究科の院生を、20名程度1つのグループにする。その専門家予備軍同士で1回コミュニケーションをやらせようと思っている。現在、専門家同士のコミュニケーションでさえうまくいっておらず、それぞれの分野の専門家が持っている専門性を横でつなぐようなトレーニングをする場もない。したがって、人文系から理工系まで全部含めて、幾つかの研究科から数名ずつ若手の院生を集め、その院生たちに、例えば現在問題になっているBSEに関して議論させる。その議論の仕掛けについては、今、いろいろと案はつくっている。これは講義ではなく、実践的な活動でやらないと身につかないので、ロールプレイングを通じて自らの専門性を相対化するような経験を与えたい。つまり模擬コンセンサス会議のようなものを考えている。どうしてこういうことをやるのかというと、私は、コンセンサス会議を経験して、専門家と市民の価値観、意識が非常にずれていることがよくわかったうえに、専門家同士のコミュニケーションもうまくいかない。それから、専門家と政策立案者のコミュニケーションもうまくいっていないことに気付いた。その結果として、専門家及び政策立案者に対する信頼の崩壊というものが起こっているのではないかと感じたからである。証拠として挙げられるものを1つだけ持ってきた。これは「人間が幸せになるために、人間は自然とどのような関係を取り結ぶべきでしょうか」という問いを1950年代から2003年まで経年的にとったデータである。
 これで見ていただくとわかるように、1950年代から68年までは、自然を征服していくことに対して人々は共感していた。そして、自然に従うなどというものに対しては、余り共感していなかった。ところが、68年から73年で、それがきれいにクロスしている。そして、それ以後、二度と「自然を征服する」ことに支持は集まってこない。つまり、我々の社会では、1970年ぐらいから、科学技術に対する期待の構造が少し変わったと思われる。60年代までの高度成長期においては、科学技術がもたらすものを社会はほぼ福音と見なし、それを肯定的に評価していたが、70年代以降はケース・バイ・ケースで反応するようになってきている。そして、そのときのキーになる概念が、「自然に従う」というイメージである。
 大阪大学では、こういうことをやろうと思っているが、現状の課題をご説明すると、やはりコミュニケーションというのは少人数でするもので大人数講義ではできない。大阪大学の大学院生数は博士前期で4,200人、後期でも3,600人。そして、私どもの試行的プログラムが20人なので、到底全員に対してまともにやることは不可能な現状であることをご理解いただきたいと思う。したがって、時間がかかる。しかも、専任が少なく期限付教員でまかなう体制。5年間の任期付という形になので、その先どうするのかは深刻な悩みである。しかも、このような取り組みは一種の漢方薬のようなもので、一年二年で目にみえる成果がパッと出るわけではない。─教育というのは本来そういうものだと思うけれども、そういう問題があります。
 それから、教員の意識の問題がある。最近の院生は、比較的こういうものに取り組む意欲があるが、現実の教授、助教授の方のこういう問題に関する感受性は、まだ低い。それから、正規のカリキュラムに組み込むことが非常に難しい。それから、こういう科目を運営するための人間を養成する。つまり、コミュニケーターだけではなくて、コミュニケーターを養成するための新たな専門家の養成組織、拠点が必要だけれども、現状、日本にはほとんどない。また、単に科学技術のコミュニケーションだけではなくて、もっと幅広く、演劇、アートとの連携も、今、大阪大学では考えている。そして社学連携のプログラムとの組み合わせも考えているが、科学技術コミュニケーション・プログラムは、それ単独として成立するものではなく、大学院あるいは大学のあり方そのものと結びついているものである。それで我々は、「新たな教養教育」などという言い方をした。だから、従来の日本の大学になかったような新しいスタイルを導入することとセットでなければ、こういうコミュニケーション教育というのはうまく定着していかない。それを通じて、科学技術に対する信頼される専門家が育成されていくような、そういう風土ができていくだろうと思う。そういう意味では、本質はマニュアルづくりではないと思っている。

北村理事) 国立科学博物館では現下の課題であるコミュニケーション能力について、伝統的には学芸員のあり方や学芸員の資格などで色々と努力してきた。しかし科学における様々な分野でのコミュニケーション能力養成となると、大学との連携によってそういうことができないだろうかと考え、今、大学パートナーシップというものを募集している。大学パートナーシップについては次のような連携形態がある。「学生の無料入館」、「サイエンスコミュニケーション実践講座開講などの教育活動の連携」、「自然史講座開講などの教育活動の連携」などである。このうち「サイエンスコミュニケーション実践講座開講などの教育活動の連携」は、サイエンスコミュニケーション能力あるいはサイエンスコミュニケーターの育成を目指したものであり、博物館という実践の場を活用したサイエンスコミュニケーター育成のプログラムはいかにあるべきかということで、現在、検討中である。これらの取組は我が国の場合、先例がなく、今、学芸大学とか東大とか、5大学が一緒にやってみようという状況になっており、私どもとしては、さらに広げていきたいと考えている。
 博物館を使ってどのようなことができるかということであるが、先ほど申し上げた学芸員実習プログラムなどの経験も踏まえ、各大学との連携を大いに図りたいと考えている。ただ、内容が非常に広範にわたる話なので、国立科学博物館においても関係者に集まっていただき、有馬座長にもお願いし、現在、サイエンスコミュニケーション能力の育成プログラムについて検討会議を設けている。
 ただ、大学の募集では、大学によりカリキュラムやスケジュールが違う面があり、また取り組みの度合いも様々であるため、これらの多様性も考慮しつつ、先行するさまざまな研究も含めて勘案して、ぜひ具体像をつくりたいと思っている。

渡辺上席研究官) 今日はまず、我々科学技術政策研究所の第二調査研究グループで科学技術コミュニケーションに関してどのような提案を行ってきたか、発表させていただきたいと思う。今年2月に開催した「国際コロキアム サイエンスコミュニケーションの広がり」の内容を中心に説明させていただく。この会合は、ここにおられる有馬座長に開会のご挨拶をいただき、2月7日にコクヨホールで開かれた。イギリス、アメリカ、韓国から講演者を招待し、サイエンスコミュニティーについて話し合いを行った。まず、マニング教授とマーギュリス教授に基調講演をお願いした。マニング教授はもともと動物行動学者でエジンバラ大学の名誉教授であり、大学の教授を退官後、BBCの科学番組のキャスターになるというように幅広く活躍しておられる。マニング教授の講演の内容をかいつまんで申しあげると、まず、科学と芸術は違う。これは小柴先生もよくおっしゃっているけれども、例えば芸術家であるモーツァルトの代わりは出ないだろうけれども、アインシュタインがいなくても、相対性理論というのはやがて誰かが発表したであろうという意味では、科学と芸術とは違う。ただし、どちらも同じ人間の心が行うことだから、その間に境界はないはずだ。そういう意味で、科学と文化といった分け方は本来無いものであり、シームレスカルチャーは必要であり、実現可能である。シームレスカルチャーというのは「この世には幾つも文化がある」といった考え方をまず取り払って、つなぎ目のない文化を実現し、科学を一般の文化の中に定着させて広めていくにはどうしたらいいかというコンセプトのもとに提案した言葉で、今回の、このコロキアムのサブタイトルとして採用したものである。
 次に、マーギュリス教授はアメリカのマサチューセッツ大学の教授で、細胞共生説を発表されたことでも有名で、その後もサイエンスコミュニケーションに関するさまざまな活動を行っている。その中で、マーギュリス教授自身が科学教育のプログラムを開発されており、このコロキアムでもその一端を紹介していただいた。それは、ユウコウチュウという化石生物を窓口にして、プログラムに参加した人たちが各自で体験し、あるいは発見しながら科学の発見のおもしろさを感じるといったプログラムである。その中でマーギュリス教授が一番強調したのは、科学というのは知識ではない。教科書から学べるものではなくて、自分が実体験することによって身についていくものである。したがって、教科書やクラスで教えられるだけではなくて、自分たちが実体験をしながら学んでいく工夫が必要であろう。そういう意味で、自分もそういうプログラムの開発を行っているという発表であった。
 次に、ミラー教授というのはロンドン大学ユニバーシティカレッジのSTS講座、社会と科学を結ぶ講座の中のサイエンスコミュニティーを担当している学科長の先生である。もともとは物理学者だけれども、ヨーロッパのサイエンスコミュニティー・ティーチャーズ・ネットワークの会長もなさった方で、言うなればEU諸国の中でサイエンスコミュニティー教育、要するに、教員の立場からサイエンスコミュニティー教育をどうやったらいいかということの中心にいる方である。ミラー教授の講演では、EUにおける取り組みの歴史を概観していただいた。まず、80年代には、それまで行われてきた科学理解増進運動に対して欠如モデルという指摘があり、従来の科学理解増進運動では不十分であるという反省から、双方向的な意見の交換が重要であるということで、サイエンスコミュニケーションという活動が出てきた。その中で1つ重要なのは、誰が、誰に、何のために伝えるのか。あるいは研究者が一般の人々に説明する場合も、相手がどういう知識を持っている人で、どういう立場で、どういう生活を送っている人かということをまずとらえて、そういう文脈を踏まえた上でなければお互いのコミュニケーションが成り立つはずがない。そういう意味で、例えば研究者が一般の人に話す場合でも、一般の人たちが何を考えて、何に興味があるのかということに関する意識が研究者側になければ、そもそもコミュニケーションも成り立たないだろうという意味での文脈モデルというものが、最近は言われてきている。そういう運動がイギリスを中心にEU各国で行われているわけだが、その中で、アウトリーチ活動、いわゆるコミュニケーションに熱心な研究者もたくさん出てきてはいるけれども、やはり公的な支援を続けていかないと、そういう人たちが孤立してしまう。支援には財政的な支援もあるけれども、研究者としての評価もあり、多角的な支援をしていかなければいけない。その中の1つとして、まず、突然「コミュニケーションをとりなさい」「アウトリーチをしなさい」と言っても無理なので、やはり組織的にコミュニケーションスキル、トレーニングを行うことも重要であろう。もう一つ、イギリスでは2000年ぐらいに科学技術庁のレポートが出て、やはり一般人の科学に対する感心を高めるためには、マスメディアにもっと科学を取り上げてもらう必要があるという提言がなされた。ただ、それに対するミラー教授の意見としては、マスメディアには独自の価値観があって、国あるいは科学技術政策の立案者あるいは実行者の意識とはおのずから違うものであるから、余りマスメディアに期待してもだめだろう。マスメディアというのは、どちらかというと社会的な問題としての科学を取り上げる割合が高いのであって、必ずしもそれはいいことばかりではないはずであるし、科学に対する好感をはぐくむとは限らない。科学に対する関心あるいは意識を高めることには役立っても、それには限界がある。そういう意味で、メディアに対して行政側として余り期待してもだめだろう、そういう話であった。
 次に、韓国の科学技術財団のチョ博士からお話を伺った。韓国では科学財団が中心になって、かなり積極的に科学コミュニケーションに関する支援活動が行われている。日本との一番の違いは、韓国の場合は色々考えてから動くのではなく、とにかく始めてしまってから軌道修正していくという国柄であり、とにかく色々なプロジェクトを走らせている。ただ、その中で、現在はむしろ人材養成にシフトしつつ、科学技術者の養成だけではなくて、科学と文化の交流を図るための人文系の人材の養成にも力を入れているという話であった。
 次のチャバイ博士というのは、もともとはアメリカ・スタンフォード大学の物理科学の研究者だったけれども、現在はフリーになって、サイエンスコミュニケーションのコンサルタント業を行っている。彼はコンピュータゲームが科学教育のプログラムとして有効ではないかと提案した。それは、単に1人で遊ぶコンピュータゲームではなく、チームを組ませて行うことによって、子どもたちの間にコミュニケーション能力を養うことも重要であろう。あるいは、一般的なゲームという文化を通じて、子どもの中に科学という文化を組み入れる工夫が必要であろうということであった。
 最後に、私と日本大学芸術学部の木村教授から、一般の人々の科学に対する関心を高めるためには、アートとの組み合わせが重要なのではないかといったことを中心に発表した。
 このコロキアムでは第3部として、高柳委員に司会していただきディスカッションもあったけれども、それはちょっと省略させていただき、最後に、一般のレセプションとは違って、「科学茶房」という新しい試みを行った。これは、レセプション会場に科学を題材にしたアート作品を持ち込むことによって、その場の雰囲気を盛り上げて、新たなコミュニケーションの場として活用していただこうという試みである。
 最後に、このコロキアムにも招聘したけれども、間に合わなかったためこの3月に行ったアルフレッド・A・スローン財団のウェーバー氏の講演会についても補足させていただきたいと思う。スローン財団は、1934年に創設された、ゼネラルモータースの元会長のアルフレッド・A・スローンの私財を投じてつくられた科学技術振興のための民間財団である。現在、年間6,500万ドルの援助を行っているけれども、そのうち、このウェーバー氏がプログラムマネジャーを行っている理解増進プログラムが、ウェーバー氏1人が運営しているお金が1,000万ドルである。彼のプログラムは、主にメディアを中心に行っている。例えば、脚本家に科学を題材にした脚本を書いてもらい、それを支援したり、あるいはサイエンスライターの出版を補助するとか、あるいは学を題材に映画とかテレビ番組作成を支援している。例えば、病院が部隊になっているドラマ「ER」や科学捜査班など、現在、アメリカの人気テレビ番組ベスト10のうち3つが科学に関係している。そういう生活の中の科学技術がドラマとして提供されることによって、一般の人々が「科学技術というのはこういうものなのか」あるいは「医者というのはどういうものなんだ」「科学捜査官というのはどういうものなんだ」という窓口を通じて科学に親しむだろう、そういう非常にユニークなプログラムを行っている。
 こういうメディアを中心にした支援ということを考えると、やはり国の財政援助には限界があるので、日本でも、民間の財団がこういうユニークな援助を行ってくれることを期待して、ウェーバー氏を招聘して講演会を開いた次第である。
 これは先ほど小林先生からもご紹介があったけれども、このような図を考えており、一般の人々の科学に対する関心、意識を高めるには、やはりまず裾野の部分(一般の人々)に重点を置き、「科学は意外とおもしろいじゃないか」という潜在的な好奇心を刺激する工夫が、これからは一つの柱として重要になってくるだろう。それとは別に、山腹の部分では意識の高い人たちが積極的に科学の運営にかかわっていくことが、これから重要になってくるのではないかと考えている。
 これは大まかな図だけれども、やはりその中心としては、高等教育を通じて、必ずしも科学コミュニケーションの専門家だけではなくて、一般教養としての科学教育にもう一度重点を置くということと、コミュニケーションマインドというものをすべての学生、大学院生、研究者、教官に植えつけるための何らかの取り組みが必要であろう。その中から一部、興味のある人たちに専門教育を行う。その専門教育を行う場合でも、大学だけが舞台ではなくて、先ほど国立科学博物館のプログラム紹介があったけれども、科学館や博物館も有機的に組み込んで、いろいろな場所で、だれが、どこで、どのような方法を使ってコミュニケーションすればいいかというような手法を、これから開発していく必要があるのではないかと考えている。理想的には、このバラ色に書いたところはあくまでもバラ色の目標を目指すところである。ただ、これはかなり先の理想としてだけれども、やはりある程度、まず科学に携わるあらゆる人に科学コミュニケーションのマインドを養成することを考えていかなければいけないのではないか。
 最後に、このような会でこのようなことが取り上げられていることからもわかるように、サイエンスコミュニケーションあるいは科学技術コミュニケーションの必要性が非常に叫ばれているわけだが、具体的にどうしたらいいかということになると、ヨーロッパ、アメリカにおいても必ずしも確立された手法があるわけではない。しかも、日本では文化、風土が違っているから、日本の文化、風土に合った方法、取り組みをこれから開発する必要があるだろう。
 その場合でも、だれが、どこで、どのように科学を語るのかというときに、その言葉とか文法とか場所とか、そういうものもこれから考えていかなければいけないのではないかと考えている。

委員 「文脈モデル」というのは何か。

渡辺上席研究官) 研究者が誰かと、例えば一般の人々と話す場合に、相手がどういうことを考えているのか、その場その場に応じた言葉遣いとか考え方とか説明の仕方を考えないと話は通じないよ、そういう意味で、お互いの立場の背景を理解し合ってから話をしましょうという意味である。

事務局等  資料3の1で、科学技術コミュニケーター養成についての論点を考えた。まず、今の講演の中にも何回も出てきたが、なぜ養成が必要なのかという話。それから、養成をするに当たっての教育の仕方ということがある。
 2番目は、「研究者」にしてあるのは、単にコミュニケーターとしてというよりも、研究者一般の教育という観点でどうかということで書いてある。
 こういったことについて、これを推進するために、今後の課題をどうしていったらいいのかといったことでまとめてある。

委員  小林先生に聞きたいことがある。何度かお話を聞いていつも気になっていたことであるが、小林先生が皆さんとコミュニケーションするときに、まず「落ちこぼれ」という言葉を出す。私たちは確かによく知っているので、本心ではなくて謙虚さから使っていることがわかるけれども、つまり、研究者ではなくて文化系ではなくて、その中間のところに今いますよということで「落ちこぼれ」だけれども、これは非常に誤解されると思う。なぜかというと、落ちこぼれだったら社会は小林先生を必要としない。ところが今、大阪大学で、そんなすばらしい科学コミュニケーションのポジションで、社会から期待されている。それは落ちこぼれどころか、まさにそういう要素の人が必要だということである。これがなぜ大事かというと、小林先生が個人で色々なことをやられるときは構わないけれども、ある1つの大きな組織の中では、これから若い人たちが科学コミュニケーターに憧れて、ここを目指して、専攻してくれないといけない。そういうときには、やはり落ちこぼれではなくて、「これ自身がちょうど谷間の、融合した新しい領域ですよ。ですからここはおもしろいのです。たまたま私のような両方持った人間が、こういうポジションでこれから仕事をするのですけれども、皆さんにもそういう2つの領域が必要ですよ」というふうに言っていただけると、若い人たちは「やっぱりそうだ、そこに行きたいな」と思う。だから、謙遜されているのはよくわかるけれども、若い人たちには、そういう悪い影響を与えるのではないかと思う。

小林副センター長) これは一つの文脈モデルである。今、「落ちこぼれ」という言葉はネガティブな印象を与えるとおっしゃった。それは確かにおっしゃるとおりである。だから、ここで言うべきではなかったかなという気はするけれども、もう少し言うと、今まで私は、こういったタイプのことの重要性を普通の理工系の先生方に対して話をするときに、いかに受け入れられないかという経験をしてきた。そのときに、「私は実は理系出身ですよ」と言うことによって、相手は一定、話に乗ってくる。「だけれども、皆さんのように、このカッティングエッジのところでやっているようなハードなサイエンティストではないのですよ」と言いながらも、「でも、こういうのもおもしろいですよ」ということを言うための一つのレトリックである。しかも、逆に言うと、今度文系の方に説明するときにも、このレトリックが必要になるときがある。というのは、サイエンスと言うと、あるいは理系だと言うと、高校のときのような正解がバチッと決まっているような、ああいう教育を受けた方々がたくさんいる。そして、毛嫌いしている方がいる。それで、私が文系的な顔をしながら科学技術のこういう議論をすると「おまえ嘘だろう、文系じゃないだろう。元理系じゃないか」「いや、だから理系から落ちこぼれたんですよ」と言うと相手が安心する。
 そういうふうな構造が、少なくとも私が98年にコンセンサス会議を始めたときにはあった。今、若い人々に対してこういう言葉遣いをしてはいけないとおっしゃった、それは確かにそのとおりだと思うし、これからの院生に対しては、私はそういうことは言わない。もちろんそれはわきまえている。そういう意味で、文脈モデルで話をする。これが文脈モデルということの意味であり、そういう意味では、今回私がちょっと外したという批判は甘んじて受ける。

委員  科学的なコミュニケーションというものを今の大学生なら大学生のレベルで、大学院生なら大学院生のレベルで考える、そういう意味でのデザインという意味だろうと思う。基本的に、コミュニケーション不全というものの前に、今の子どもたちには社会化不全というものがあるのと思う。それは動物を見ているとよくわかるけれども、幼いころに社会化不全をした動物は、全くコミュニケーションができずに、群れの中に入ることができない。そういうふうに考えていくと、今の子どもたちのコミュニケーション不全というのは、その前に社会化不全があって、その延長線上にコミュニケーション不全があるのではないかと考える。だから、その部分だけをいかにスキルアップしても、本当のコミュニケーションというものは完成しないのではないか。したがって、コミュニケーションデザインの前に、キャリアデザインのような年代に応じたコミュニケーションのスキルというか、感性みたいなものがないと、単なるスキルの研究だけに終わってしまう。そういう文脈の研究に終わってしまうという気がすごくして、今、日本のこの世界で一番求められているのは、むしろキャリアデザインというか、そういう社会化不全をいかに正常なものにしていくかということで、その延長線上にコミュニケーション不全をどうするかという問題があるのではないか。そのようにトータルに考えるべきではないか。

委員  日本の学生が中国人にまじって発言する機会があったのだが、その時、私が非常に心配したことが1つある。それは日本人の教育である。中国人の発言の方は、日本語の子もいたけれども、自分の言いたいことを非常に明確に言う。ところが日本人の留学生の発言は論理が通らない。まさにコミュニケーションの訓練をしていないような感じがする。
 というわけで、今、理科教育の前に社会コミュニケーション不全という話をなさったけれども、まさに、もう少しうまく話をする訓練というのを文科省としてお考えになったらどうだろうか。ディベートが下手だとよく言われるけれども、どうもその辺の訓練が足りなかった気がする。

委員  私がトルコ大使をしていたときにも、日本の学生とトルコの学生との交流の会議がありまして、おっしゃるとおり、トルコの学生たちは極めて明確に、はっきり用語で言う。ところが、日本を代表する学生たちは本当に自己主張ができない。これはかなり根本的な問題だと思っている。それは、日本の教育がどうしても、これまで受験中心であったということで、今、大きく見直しが始まっている。いかにして自ら考え、自ら主張できるかというのが新しい21世紀型教育の目標になっていると思うけれども、これをカリキュラムにどのように反映してくかということが、今後の大きな課題だと思う。
 今の科学技術コミュニケーションのお話を聞き、大変興味深く思ったのだが、「科学技術コミュニケーション」と言う場合に、科学技術の先端を走っているような研究者がその角度から一般の市民ないし子どもたちにその中身を教える、あるいは関心を広げるというミッションと、それから、一般的に科学技術リテラシーのような基礎的な教養みたいなものをこれからどう持つべきかというミッションと、2種類あるように思う。
 これは小林先生にお聞きしたいのだが、大学の教育において、学部ないし大学院のときに理系をしっかり持った人が、その角度から物理なら物理、あるいは工学なら工学というベースの上に、そういう人は、科学技術に関する他の色々な分野でも説明する基礎知識がしっかりしているわけだが、そういう知識、技術の上に立ってコミュニケーションの能力を付加していくのがいいのか、それとも一般教養的なものを終わった段階で科学技術コミュニケーションという角度の新たなプログラムで新しい専門家をつくっていくのか、どちらを推進していかれるかどうかは、狙いを何処に定めるか、あるいは方法論は何かといったことを考えていくのに非常に大事ではないかと思うので、今のお考えを聞かせていただきたい。

小林副センター長) それは大変重い問題であり、先ほどコミュニケーションをツールのように考えてはいけないという声があったから、そういう意味では、学部の段階でのコミュニケーション能力の育成は、科学技術コミュニケーションと「科学技術」という言葉をつけずにやるという意味では、私は、やってもいいと思う。大学院のレベルでは、将来、社会の中で専門家として振る舞わなくてはいけないという責任感を持つ人材が、しかし、社会の中で専門家として働くために自分はどういうスタンスを持たなくてはいけないかということを教える、そういう意味で、我々は、とりあえず大学院に焦点を絞っている。それは、いわば信頼される専門家になってほしいということなのである。その専門家になる人々というのは、当然のように、従来どおりの科学技術に対する専門的な研究能力を保持した上で、社会から信頼される専門家的な能力をできれば身につけてほしい。現実問題としては、これは全員は無理かもしれないけれども、そういうことが重要だという意識を大学院の段階で与えておくことが、将来において、そういう活動に対してネガティブな意識をお持ちにならなくなるだろうと思う。その2段構えでやっていかないとうまくいかない。学部生は、またちょっと別の対応を考えている。

委員  先ほど渡辺先生のお話の中で山腹と裾野というお話があった。小林先生は、山腹のところを意識しているということだったけれども、私は、それよりむしろ山頂から直接コミュニケートする専門家、要するに科学を社会に広めていく、そういう意識も非常に重要だと思う。それは、山頂にいるすべての人間ができる仕事ではない。それぞれの持ち味というか、特性があって、非常にそれに関心を持ち、意欲を持ち、なおかつ最先端の研究を進めている、そういう人がいる。この中にも何人かおられると思うけれども、そういう方々のコミュニケーションの実績というのは、ものすごく効果がある。そうでない方は、コミュニケーションはそういう方に任せて、研究に邁進してもらいたい。それから、先ほどの図の山腹に相当するところはむしろ最先端の研究よりも、むしろコミュニケーターとしての仕事に熱意を持つ、そういう方がいてもいい。だから、小林先生のところで大学院全体でそういう研究をなさっているということは、全員にそういった素養を身につけさせようというお考えなのかなと、まず最初に不思議に思ったのだが、それは先ほどのご説明を伺って、そうではないことがわかった。
 ただ、私は、その両方があっていいと思う。大部分の科学者にはその必要性に対する認識を持ってもらう。その中で、特にそれに対してすぐれた才能を持っている最先端の研究者には、大いにその力を発揮してもらう。その前者について言うと、これは一般的に言えることだけれども、今の日本の大学、研究者の養成機関はどこでもそうだが、コミュニケーターとしての実績に対する評価が必ずしも備わっていない。この評価をどうするか、それを持ち込まなければいけない。そうすれば一般の教育者も大いにそれに関心を持つ。また、自分はそんなことよりも自分の研究がおもしろいから、一生懸命やる。それはそれであっていいと思う。したがって、2本立てでいい。

小林副センター長) 全員には無理だと申したが、できるだけそういう感覚を持つ人が増える方がいい。それから、評価とおっしゃったが、これは評価という言い方でいいのか、最終的には評価につながると思うけれども、大学全体としてに、コミュニケーション能力は大学人の当然の能力なんだというカルチャーを持つことがすごく重要である。
 もう一つは、この「コミュニケーションをする」とか「コミュニケーションを考える」という分野は、理科系の研究をしている人が片手間でできるほど簡単な仕事ではなく、こういう問題を考えるための議論をする、そういう専門家がどうしても必要になる。大量には要りませんが、余りに日本では少な過ぎるために、コミュニケーションの需要だけは広がっているけれども、今、こういうものをちゃんと大学でやろうとするときの人材は全然足りない、そういう状況である。だから、そういう意味での新しいタイプの専門家は要ると思う。

委員  私のようにメディアにいると、「落ちこぼれたからメディアに来た」と言う人が結構多い。私はそういう人に会うと、そんな人が市民に科学技術を伝えられるのかと憤りを感じていた時期がある。改めて、では、私は落ちこぼれたのかなと考えることがある。そのときに、自分が携わっていた科学というのは、市民とか社会にとって一体どういうものだったんだろうかとか、それから、もし自分が研究者をやめても、外から何らかの形で応援できるのではないかとか、メッセージを伝えられるのではないかとか、いろいろなことを考えた。そういう意味で、文脈の話はとてもよくわかって、小林先生の話も「ああ、そうか」と私は肯定した。
 それで、今、私が見ていて、科学技術コミュニケーターについて色々なところで考えられているが、1つ気になるのは、自分の研究をわかりやすく伝えることは皆さんお上手になるけれども、科学というのは市民にとって何なんだろうということも、一般の人は知りたい。昔は科学者でも大御所と言われる人たちが、そういうことをきちんとおっしゃっている。つまり、自分の研究をわかりやすく言うだけではなく、自分がなぜ科学者になったか、科学者として社会でどういうふうな生き方をしたらいいかということをちゃんとおっしゃっている。そこまでコミュニケートできる人を専門家の中につくってもらいたいという意味で、研究者に対する科学技術コミュニケーション教育というのは、私はあっていいと思う。また、裾野の話は色々なレベルで、それぞれのコミュニケーションの役割というのがあるはずである。現実に、専門家にならずにそのまま社会へ出てくる人のうち理系出身の人がメディアに入ると、科学はどんな分野のことでも知っていると思われる。ところが、今の科学教育を受けていると、何々学のどの分野のどの物性のどこという専門家はいるけれども、科学の全ての分野を理解しているわけではないので、科学部に入って「人類学の特集をやれ」と言われたら、専門分野ではない理系出身には大変である。もし専門家をやめるなら、そういうことにもすぐ対応できるような、その前のステージのコミュニケーションをやれる人を養成してもいい。
 これだけ世の中みんなコミュニケーションが必要だと言っているなら、役割分担すべきであるが、いろいろな試みをみると非常にオーバーラップしている。切り分けもきちんとすべきである。そうしないと、それに費やすエネルギーが無駄になっているような気がしてしようがない。

委員  今の話の例を考えてみたけれども、例えば音楽を例にとってみるとどうか。そうすると、音楽をつくり出す作曲家がいる。それはオリジナルの新しい音楽を五線譜につくり出す人。それから、演奏家がいる。演奏家というのは聞かせてあげる人。しかし、演奏家と言っても単に演奏家ではなくて、いろいろなレベルの人がいる。例えば、チェロのヨーヨー・マのように毎日研鑽して、どうやって自分の腕を磨いて、どうやって伝えるかという人もいるし、ピアノができるからと子どもたちに教えるぐらいというか、趣味でひく人もいる。恐らくこの科学技術コミュニケーターというのも、研究者が作曲家だとすると、演奏家に相当するのかなと思う。その科学技術コミュニケーターが、では自分はどこに位置するのか。ヨーヨー・マになろうとしているのか、そこの部分も今、必要だと思うし、小林先生のところは、科学者というのは何か、科学というものが社会でどういうことを意味するのかということを伝える本当の専門家をどんどん育て上げてくださることが大事だと思う。それと同時に裾野の、例えば科学館でおもしろ実験、不思議実験をやって、今まで全然興味なかった人に理科のおもしろさとか興味を起こさせる、そういう人も必要だと思うので、むしろ新しい大学院の学生を教育するというなら、そこの部分、あなたはヨーヨー・マになってほしいんですよというところが新しく、今、専門としてできたのかなという気がする。

委員  議題2の話に入ってしまうかなと思ったので言わなかったけれども、コミュニケーターという枠組みの中では、大学の中で単に科学技術コミュニケーター養成だけではなく、科学記者の養成というのも大事になってくるのではないかと考えている。

小林副センター長) やはり純粋科学と科学技術とでは、少し話を分けた方がいいのではないかという気がした。最近も、工学院系の大学院生からこんな相談を受けた。私は、便利な物をつくって社会の人々の役に立ちたいと思って一生懸命研究してきた。それで頑張って研究しているけれども、その結果、何かみんな忙しくなるばかりで、ちっともみんな便利になっている気がしない。だから、もうやめてしまおうかみたいなことを結構深刻な顔をして言う若手の研究者がいます。片一方で、そういうことは全く考えずに、狭いタコ壺の所でひたすら業績を上げることだけに走っている、両極分化してしまっている。私は、それは割と深刻で、次の世代の大義名分みたいなものが彼らにはうまくつかめていないということが一番重要なポイントではないかという感想を持っている。

瀬川部長) 私はアメリカで4年、特派員生活をしたけれども、研究者の話し方や説明の仕方は、さすがに毛利委員のレベルの研究者は少ないが、全体的にみて非常にわかりやすい。日本の研究者は、わかりやすい人がたまにいるけれども、先ほど言われたように特異な存在である。まず研究者、技術者の一般的な、それこそリテラシーとして、スキルとしてみなさんに持っていただきたいという気持ちがある。もう一つは私の取材経験から言えるのは、大学、研究所の広報の仕方もアメリカは日本の説明能力よりも上だった。大学がサイエンスライターを抱えており、非常にわかりやすく広報資料をつくって報道機関に流してくる。そうすると、日々たくさん流れてくる情報の中から記者がどれかをピックアップするときに、とてもわかりやすく役に立つ。例えばAAASのEurekAlert!というウェブ上のサイトを見ていただければ分かると思う。そういう意味での科学技術の山腹の層を日本でもっと充実させてほしい。ただ、1点、これは非常にわかりやすい図だが、やはり山の形の図にすると上から落ちこぼれてしまう。落ちた人はどんどん下に行くので、これはやはり横に並べていただきたい。
 私自身は、いろいろなところで挫折はしたけれども、落ちこぼれたとは思ってないし、ジャーナリストの仕事に非常に誇りを持っているという意味では、図を横にしてほしい。

委員  図は上も下もなしにすればいい。丸くかいて、ここのところは専門家、ここのところは啓蒙家と書けば上下関係がなくてよいと思う。


(3) 議題2「マスメディアの役割」について瀬川 毎日新聞社科学環境部長より「科学ジャーナリズムについて」について資料2−1、佐々木 株式会社NTV映像センター事業局営業事業部次長プロデューサーより「科学関連番組視聴者ニーズ調査」について資料2−2を説明後、質疑応答が行われた。

 
瀬川部長) 今日は、日本科学技術ジャーナリスト会議の理事としても出席している。こちらの懇談会から日本科学技術ジャーリスト会議─JASTJ(ジャストジェイ)に、科学ジャーナリズムについて話してほしいという依頼があり、私が来ている。
 日本科学技術ジャーリスト会議というのは任意の団体、自主的な参加の団体でして、会員は今、160人位いる。新聞社、テレビ局、出版社、フリーの方も含め、ジャーリストのOB、現役、あるいはそれに関心のある人たちが、科学ジャーナリズムとはどういうものか、どうすれば高めることができるのかということを、色々考えている。科学ジャーナリスト塾という若い人向けの養成講座もやっている。
 先ほど科学コミュニケーターのお話があったが、では、我々が呼んでいる科学ジャーナリストの役割は同じなのか、違うのか。というのは、「ジャーナリズム」の語源がラテン語の「日々の」という言葉から来ており、科学ジャーナリストの役割として(A)にあるように、科学が関係する時事問題の報道・論評、そして方向性を示すということが入ってくる。それからもう一点、(B)として、科学をわかりやすく、楽しく、魅力的に伝える。これは単にわかりやすくという以上に、「楽しく、魅力的に」ということだ。私の個人的な思いとしてそういうものであるべきだろうと考えている。
 最近のITER(イーター)のことなども含め、科学技術行政あるいは科学技術のあり方等については、ジャーリストの考えは政府あるいは大学、企業と同じであるかもしれないし、同じでないかもしれない。その意味では、取材相手とは一定の距離を置くというのが基本的なスタンスである。
 一方、(B)の「わかりやすく伝える」という役割は科学コミュニケーターと重なる部分が大きい。今日は、この(B)の役割を中心にお話しさせていただきたいと思う。
 私たちが、なぜわかりやすく、楽しく、魅力的に伝える必要があるのかというと、先ほどの山頂‐山腹‐裾野の図で言うと、読者という存在は裾野の人である。特に、一般紙の読者は主婦が多いと言われる。文系というか、理科のことをあまりよく知らない人が多いと言われる。新聞記者は昔から「中学生にもわかる言葉で書く」と教えられて生きているが、科学記事では中学校の理科の内容をそのまま書いても、またこれはわからないということになりやすい。すべて平たく書くことが基本中の基本である。また、敬遠されやすい。読んでもらう、関心を持ってもらうためには、わかりやすいだけではだめだと思う。より読者層を広くしていくために、楽しく、魅力的ということも大切であろうと考える。
 先ほどお配りした「「理系白書」ができるまで」という一文にも書いたが、新聞社の編集局は、政治部、経済部、外信部、社会部というのが優位な組織でして、科学部、学芸部、生活家庭部というのは、日々の大きなニュースという中では少し立場が弱い。ただ、科学技術が絡む日々のニュースがその中では科学部は非常に重要な立場を持っているとはいえるが、少なくとも科学部対ほかの部で考えると、文系が優位の社会である。そういう組織の人たちが日々、商品としての新聞を出すわけだから、社内の人はいつも、科学記事を読んでああでもない、こうでもないという論評を加えてくる。そういう人々が読んで納得できるものでなければいけないという意味で言うと、日々これ研鑽の世界だ。
 一般に科学記事と経済記事が難しいというのが社内の声である。特に素粒子、先端研究、最近で言えば対象性の破れとか、そういう記事を、1面トップで出すわけだが、どこの新聞社でもその後、社内の紙面審査というのがあり、「うちの記事はわかりにくい」と指摘される。なぜかというと、他社の記事にはうちに書いていないことが書いてあり、両方読むと全部わかってくる。それで「他社の方が出来がいい」と言われるが、それは「隣の芝生」であり、実際は、どこの新聞記事も不十分でわかりにくいというのが現実である。
 主要な各社の科学部の陣容と仕事について、東京本社で数人から30人と規模はいろいろだ。取材対象は、今日の「科学技術理解増進」が対象とする科学技術の範囲より多分かなり広いと思う。宇宙、原子力、地震、火山、生命科学、そして医療、健康も入りますし、環境、食の安全。大きく分けると科学、環境、医療と言うけれども、かなり幅広い。文部科学省だけではなくて、実にさまざまな省庁が関係する。さらに、最近「科学技術が生活の隅々まで入ってきた」という現実を反映していると思うが、各社の科学部の名前が随分変わってきている。毎日新聞は、1996年に科学環境部という名前にしたし、日経は科学技術部、朝日新聞は二、三年前に科学医療部にした。つまり、科学というものを核としながら、幅広くいろいろなことをやっている、取材範囲がどんどん拡大しているというのが科学取材の現場だと思っている。では、どういう人が科学記者になっているかというと、実は、毎日新聞の場合は文系、理系ほぼ半々である。文系出身、理系出身でそれぞれに特色があり、その特色を生かしながらやっている。
 研究者の方からよく、日本の新聞の科学ニュースは少ないと言われることについてお話ししたい。実際にはたくさんの科学ニュースが載っている。(B)のところに宇宙を書き忘れたので追加していただきたいと思うが、こういう幅広いニュースの科学的意味や全体像を冷静に解説し、読者が考える際の座標軸を提供するというのが科学部の重要な役割の1つになっている。キャッチフレーズとして私が使っているのは、社内シンクタンクという言葉である。あるいは社内のいろいろな部署にかかわるニュースを科学部がコーディネートするというか、科学部がある意味で組織の潤滑油となって、いろいろな部と協力してやるといった構造にもなっている。
 2005年5月現在の科学関係紙面(科学・環境・医療・健康)はこうなっている。朝日新聞と読売新聞にこの赤で書いてあるが、「Be on Sunday」や土曜夕刊の「なっとく科学」で、むしろ若者や女性を意識した、わかりやすく、楽しく、魅力的な紙面を意識した科学紙面である。毎日新聞は、「よくわかるページ」で単発的に扱っている。また、毎日中学生新聞というのがあり、木曜日の朝刊で毎週科学面をやっている。若い世代に科学を伝えたいということで、わかりやすい、魅力的な話を意識している。
 ニューヨークタイムズは、火曜日のサイエンスタイムズという別刷りが8ページある。これは大変充実したページで、日本の研究者の多くは、このニューヨークタイムズを例に挙げて「日本の新聞は科学面が少ない」と言う。ただ、私が特派員時代に住んでいたワシントンの近くの新聞、ワシントンポストその他は、私が見る限り、定期的な科学面はなかったように思う。ヘルスとかメディスンというページはあったが、サイエンスという欄はなかったと思う。
 さらに科学記者も、ニューヨークタイムズは別格として、各社恐らく二、三人ではないかと思う。ただ、彼らはサイエンススタッフライターとして書くという形で、部ではなく個々の専門記者としての存在感を示している。印象論ではあるけれども、日本の新聞の方が日々の科学ニュースの本数も、科学面の面数も多いと思う。ただし、これが大きな悩みだが、1本の記事の分量が非常に少なく、背景説明まで書ききれない。その反面、アメリカの新聞やイギリスの新聞は、1つの原稿が長い。通信社電、AP電、ロイター電も長い。そういう面での十分な説明というか、相手がどこまで理解できるかということでは、日本のほうが負けている感じがする。それでは、読まれる科学記事というのはどういうものか。毎日新聞のネットで、アクセス件数が多い順のニュースランキングが毎日出るけれども、こういうものが日々ベスト10に入ってくる。最近では、ゆで卵を回すと立つ、それがどういう理由なのかという記事を書いたところ、ベスト10に入ってきた。以前、タコが二本足で歩くという動画付きのニュースがあったけれども、これも入っている。常時ベスト10に入ってくるのは、やはり恐竜物、天文物、さらに医療分野で、がんの画期的な最新の検査法とか、こういうものも上の方に入ってくる。コラムで言えば、毎日新聞で「なぜなぞ科学」という、日常的な疑問を問いかけて、それに科学的に答える、これはかなり読まれている。朝日新聞には「パズル横丁」というのがあるし、読売には「解いてみよう」がある。こういうものが読まれるということは、意外性、不思議さ、ロマン、身近な謎、健康、こういうところにキーワードが隠されていると思う。
 科学面のつくり方で言えば、「こういうものを開発しました」という研究開発の原稿だけだとページ自体が固くなって、読まれる率が下がるので、研究者の人間ドラマあるいはストーリーを取り上げて、思いを伝える記事を工夫している。毎日新聞の場合は「理系白書」という長期連載や「挑む研究者の素顔」で研究者にインタビューしたもの等がよく読まれる。
 これはブルーバックスの編集長に、1963年の創刊以降どういう本が読まれたかについてお聞きした表だ。長くロングセラーだった物理が1990年代ぐらいから余り売れ行きがよくなくなり、代わって生命科学が伸びてきた。化学は、公害が盛んに言われた頃はよくなかったけれども最近は少し人気で、「化学・意表を突かれる身近な疑問」は10万部を超えている。一般に、パズル形式、雑学物が人気である。私はブルーバックスを中学生の頃から読んだけれども、最近、中高生の読者はほとんどいないという。今は30代から50代のビジネスマンが主体である。ただし、大学生は読んでいるようだという話で、むしろ成熟度というか、こういうところに到達する年齢が少し遅れているのかなということかもしれない。そこは「可能性はある」という印象である。
 なぜ科学技術理解増進が必要かについて、私なりに考えてみた。(A)〜(D)4つの視点があると思う。まず、優秀な科学技術研究者、技術者の養成。それに、これは重要なことだけれども、科学は非常におもしろい、純粋におもしろいということを多くの人が知らない。知識好奇心。そういうことを知らないのはもったいないということで、むしろそこを伝えていくんだということ。私自身は(C)と(D)は非常に重要だと思っているが、非常に地球が狭くなった時代に、やはり人間が賢く生きていくため、地球とうまくやっていくために、あるいは宇宙とうまくやっていくための人間の知恵として科学的な考え方が重要ではないかというのが1つある。同時に、日本の政治、経済、社会のシステムをもっと創造的なもの、もっと活力のあるものに変えていくための基本的な素養のために必要だと思う。毎日新聞科学環境部でやっている長期連載「理系白書」の取材で、こういう必要性を感じてきた。つまり、日本はなぜか文系優位でずっと来ている社会で、歴史を知らないとか芸術がわからないと何となく卑下するけれども、科学がわからないと自慢する人がいるという、おかしな社会である。一般に、企業や組織も、論理とか科学的な思考よりも、人付き合いなどを優先し、戦略にも欠ける。そんな日本がなぜうまくやってこれたかというと、やはり研究者、技術者が非常に優秀で、いろいろな成果を出してきたことが、日本が高度成長できた原因だと思う。文系優位のままでもよかったのは、そういう研究者、技術者が見えない形で下支えしてきたからだと思う。ただし、バブル崩壊などで日本経済が行き詰まり、変わってきている。私たちの「理系白書」では今年1月から、1990年前後のバブル時に文転していった理系人を追跡する企画をした。そこから出てきた一つの結論だが、実は、金融業は文系の職場というわけでもないのではないか。つまり、理系センスが非常に重要な職場である。目を転じると金融業だけではない。科学的な思考、論理的な思考で判断する、あるいは技術を見る目、さらに物の限界、あるいはどこまで行けるかということを判断する力というのは社会全体で非常に大切な能力である。政治家も然りであろう。つまり、文理を問わずそういう素養は身につけておくべきであろう。これまでの日本は、それをやってこなかったということではないか。だから、科学技術リテラシーというのは色々な考え方があると思うが、どの知識が科学リテラシーとして必要か、必要でないかということではなくまず、様々な事象を科学的にとらえて判断する、そういう知的基礎体力として考えた方がいいと思う。
 理解増進のための仕掛けについてお話したい。例えば環境問題にしても、多くの人が重要な問題だと思っていても、なかなか興味を持って読んでもらえない。そのためには、やはり一つの仕掛けが必要である。その仕掛けというものを考えてみたときに、素地はあると思う。
 実は、理科離れと言われているけれども、子どもの進路としての理系はかなりの人気だと思う。今、実際に大学で起きているのは文学部離れだし、経済学部、商学部もそんなに人気はないと思う。理系の学部は、薬学部も含めて依然人気だと聞いている。今親も子も手に職をつけることを考えているということだと思う。
 朝日新聞の子ども向けの雑誌「かがくる」は非常に好評だと聞いているし、毎日新聞の「中学生新聞」も、実は、この10日間で4回は科学ニュースが1面トップに来ている。それはなぜかと聞くと、そういうものを読んだ方が子どもにとって得だということを親に知ってもらって、新聞をとってもらうという仕掛けとして考えているようだ。
 先ほど一般読者には主婦が多いと言ったが、彼女たちは健康記事や健康番組に非常に関心があるし、この好奇心はなかなかのものだ。その好奇心を科学全般に広げる手だてを考えていくということだと思う。最近見ていると、テレビの教養クイズ番組にも非常に人気があるものが多いが、その中に理科の問題とか算数の問題が必ず出てきて、とてもおもしろい。そして子どもたちも一生懸命考えていることをみると、やはりそこら辺は科学理解の素地として認識した方がいいと思う。
 今、考えられる具体的な提案として、主婦を対象に「暮らしの理科」というものをつくれないかなというのがある。
 もう一つ、理解増進のキャンペーンは、より国民の目に見える形で取り組むということが手法として重要だと思う。例えば、環境省は今年6月に、何十億円かかけて地球温暖化キャンペーンをする。新聞、テレビ局などのメディアの事業局とタイアップして、いろいろなことをやる。それを国民に広く目に見える形で紹介していこうとしている。
 もう1点指摘しておきたいことは、やはり役所のシステムは縦割りに過ぎるということだ。私のところに文部科学省のある外郭団体が、わかりやすい科学雑誌をつくりたいということで相談に来た。しかし、お金がないという。「ほかのところにいっぱい予算はあるんじゃないですか?」と私は言ったけれども、「いや、うちは違うからお金はないんです。だから新聞社と提携してやりたい」という話だった。とてもいい取組みなのになぜ予算がつかないのか。やはりその辺は、先ほど私が言ったコーディネーターというか、科学技術理解増進全体を見るしっかりした核をつくる。組織でなくてもいい。組織は今のままでいいが、きちんと全体を見ることができるシステムをつくって、全体がきちんと透明に、見えるようにすることが、こういうことをやっていく上で非常に重要ではないか。
 一つ提案である。疑似科学、血液型占いとか、そういうものを子どもたちは何となく信じている。それに科学者あるいは研究者が取り組まないといけない。真剣に取り組んで、「それはこうですよ」「実はこういうふうに考えられるんですよ」という考え方をきちっと見せていく。そんなものはうさん臭いからほうっておくのではなくて、ちゃんとそれに取り組むことが、科学的な考え方の重要性を示していくための一つの方法だと思う。
 そして、いろいろ取材していて何よりも重要だと思うのは、やはり小学校の理科教育である。そういう意味では、教員養成、あるいは高校の今の文理分けや大学の授業の根本的な見直し等やるべきことは様々あると思う。

佐々木プロデューサー) 昨年度、文科省の委託事業として「『研究者・技術者の研究成果発信』のあり方に関する調査研究─新しい発信形態とその開発のあり方に関して─」という調査の一環として、テレビというコンテンツ、媒体に注目し、科学関連番組視聴者ニーズ調査を行った。これは実は内閣府で平成16年1月、2月に行った科学技術と社会に関する世論調査の結果を受けて、それをさらにテレビに注目して深くしてみたらどうなんだろうということで行った調査である。調査は昨年11月から12月に行い、15歳以上の3,000サンプルにテレビ番組にご協力いただきたいということで、合意回答をいただいた方にアンケートを郵送する方法で行った。結果としては2,007サンプルだった。内閣調査も2,084サンプルだったので、ある程度は評価できると思っている。参考のために、内閣府の調査と同じ質問も行っている。科学技術関連ニュースの話題への関心であるが、これは、当調査では65.1パーセントの人に「関心がある」という答えをいただいた。これは内閣府の調査では57.7パーセントで、若干こちらの方が高くなっているけれども、これは私どもは郵送法で行ったが内閣府の調査は訪問で、実際に各方のところに係員が訪問して聞いたものなので、科学技術に関する関心がない人が返事をしてきていない可能性があるということで、若干科学技術に対する関心が高い方の答えとなっている。
 ちなみに、右側の「高関心層」というところだが、男性の方が女性よりも科学技術への関心が大幅に高い。女性が下半分だけれども、青い所は関心がない、黄色い所が関心が高いところなので、男性は関心があるけれども女性は関心がないというのが如実に出ていると思う。
 このグラフは、左が科学技術に関心を持ったきっかけ、右が科学技術に関する関心を喪失したきっかけについて聞いたものである。関心を持ったきっかけとしましては、「科学番組の影響」と答えた方が50パーセント以上で1位。第2位が「自然や生命現象にふれて」、第3位は「機械や製品や技術にふれて」、第4位は「不思議に思う物理・化学現象にふれて」となっている。テレビ番組の影響がいかに大きかったか。多分、NHK等で大型のテレビ番組を見て感動したという方ではないかと思う。科学技術への関心喪失のきっかけで一番多いのは、「わかりやすく伝えてくれるものがなかった」「難しくて理解できなかった」、これが関心を喪失した最も大きなきっかけになっているということが、きちっと出ている。
 このグラフ設問の結果を男女別に見てみると、科学技術に関心を持ったきっかけは、男性の2位、3位の「自然や生命現象にふれて」「機械や製品・技術にふれて」というのがほぼ同数なのに対して、女性では「機械や製品・技術にふれて」というのが極端に少なくなっている。あと、女性の方で大きく見られるのは、親や家族の影響が男性よりも多く見られるということである。科学への関心喪失の結果で見られるのは、女性は「学校の授業がわからなくなった」「科学技術が難しくて理解できなかった」ことが、男性よりも少し多い結果になっている。
 現在、何を科学技術関連の知識・情報ソースとしているかということだけれども、テレビが80パーセント、新聞が50パーセント、これが2つ大きな結果で、あとはもう10パーセント台なので、非常に少なくなってしまっている。大きく離れて雑誌、家族・友人との会話、科学館・博物館、インターネットと続くけれども、層別に見てみると、男性の若年層では新聞が少なくなって、その分インターネットが少し多くなっている。それから科学館・博物館は、子どもとの関係なのかもしれないけれども、男性が少なくて、女性の30代、40代が少し増えている。それから、女性は家族・友人との会話が情報ソースとして非常に多いことがわかる。
 この調査では15歳から19歳─内閣府の調査では17歳以降だったと思うけれども、15歳から19歳の10代の層もとっているが、学校の授業や教科書や科学技術関連の情報ソースだと、50パーセント以上の人が自信を持って答えている。テレビの方が多いけれども、やはり10代の方は、学校の授業が情報ソースですと答えているということである。
 ここからは、情報ソースとしても科学技術への関心を持った理由としても飛び抜けて高かった科学番組に少し注意して聞いた。最も好きな科学番組の選択理由は、「知らなかった知識を得られること」それから「わかりやすいこと」。見たい科学番組の条件としては、「社会生活とのかかわりがあるテーマをわかりやすく解説しているもの」となる。これを男女別に見てみると、最も好きな科学番組の選択理由としては「わかりやすい」「日常生活のためになる」「家族や知人との会話の話題になる」という点を特に女性が評価しているのに対して、男性は「知的好奇心」とか「夢やロマン」といった点が若干多いのが特徴である。
 今後、見たい科学番組の特徴に関しては、男性が「科学技術発達の背景・歴史がわかること」を望んでいるほかは、それほど男女に大きな違いはない。
 層別に結果が出ているけれども、見たい科学番組のテーマである。大きく医療、健康、食、あと環境、省エネ、フロンティアに関するテーマである。男女別にも見ると、男性の興味が高い分野として、新エネルギー、ものづくり、輸送関連機器、それから宇宙開発や海洋開発は特に男性が高い。女性の方は、やはり医療技術と福祉技術ということである。
 現在、実際に放送されている具体的番組を幾つかピックアップして、これは科学番組ですかもしくは科学的関心を喚起するものですかということを聞いてみた。視聴率の高い番組、「伊東家の食卓」、「ためしてガッテン」、「あるある大辞典」や「プロジェクトX」がよく見たことがある。これが科学番組かどうかはちょっと置いておき、私どもが、科学的要素を解説に含んでいるのではないかということでピックアップした番組である。
 ちなみに、JST(独立行政法人科学技術振興機構)のサイエンスチャンネルは、知っている人が10パーセント、見たことがある人は5パーセントぐらいしかいなくて、やはり地上波の番組に関すると、CATVとかCS、ディスカバリーチャンネルもそうだけれども、非常に不利だと思う。ただCATVということを考えると、10パーセントの人が知っているというのは大したものかなと私どもは思う。次に、この番組を科学番組だと思うかどうか、また、科学技術への興味が高まったかどうか聞いた。その番組を見たことがある人に聞いたものなので、純粋に見たことがある人数が多い順番になっているわけではない。見たことがある人の中で、科学番組だと思うものと思わないものということで挙げている。科学番組として認知されているものとしては、NHK教育の「科学大好き土よう塾」、NHK総合放送の「46億年・人類への旅」、ディスカバリーチャンネル、TBSの「生命38億年SP(スペシャル)」、NHK教育の「サイエンスZERO(ゼロ)」、サイエンスチャンネルといった順番で、これが科学番組であろうと。やはり「伊東家の食卓」とか「どうぶつ奇想天外!」は科学番組ではないのではないかという意見が多い。では反対に、科学技術への興味が高まった番組はということだけれども、「プロジェクトX」はNHKでは科学番組ではないというヒアリングの結果も出ているけれども、「プロジェクトX」。あとはディスカバリーチャンネル、サイエンスチャンネル、「生命38億年SP(スペシャル)」といった順番になっている。
 科学番組として認知され、科学技術について正確に解説している「科学大好き土よう塾」とか「サイエンスZERO(ゼロ)」などの番組、「サイエンスZERO(ゼロ)」は最先端の科学を紹介している番組だが、興味が高まる番組としては評価が少し下がっていく。だから、科学技術をわかりやすく紹介すれば科学的興味を上げるかというと、そうではない。先ほどのアンケートと若干逆の結果になるけれども、わかりやすく言えば科学的興味喚起に役立つのかというと、そうではない。ちなみに、「プロジェクトX」やディスカバリーチャンネルのようにドキュメントとして夢を与えるストーリーを持っているものは、科学的興味喚起に非常に役に立っているという結果が出ている。サイエンスチャンネルとかディスカバリーチャンネルが両方の上位にいるというのは、非常に健闘していると思う。ただ、影響ということで考えると、双方とも認知度10パーセントなので、「おもいっきりテレビ」や「どうぶつ奇想天外!」のような高視聴率番組に比べると、実際の効果はない。実際には、地上波1パーセントというと大体40万世帯が日本全国で見ている格好になりますので、10パーセント、20パーセントという影響力を持つ番組に比べると、影響力がないのは残念だなという結果である。
 以上、テレビという媒体がよくも悪くも科学技術への興味喚起だとか情報提供に大きくかかわっている現状がはっきりわかると思う。今回ピックアップした番組を見ていただいても、本当に科学番組と呼べるものが非常に少なくなっていて、NHKは「科学番組やりましょう」ということでやっていらっしゃるけれども、民放で言うと、科学番組はほとんどないのが現状である。この中で「科学番組だ」と自信を持って言っているのは「所さんの目がテン!」くらいで、ほかは科学番組ではない、生活情報番組に科学的説明が多少入っているといった括りになる。視聴者が科学技術を求めていると、民放でも科学番組が増えてくるという構図なので、これを民放的な理論で言うと、視聴者が科学技術を求めていない結果になる。
 今後、科学技術リテラシー、科学技術への関心アップ、理科離れ対策など様々な目的ごとに、テレビ番組という括りだけではなく、これはコンテンツとしての二次使用ということも考えられますので、コンテンツとして二次使用、三次使用したときにどういったところに役立つかということも少し考えていくと、おもしろい。地上波という非常に影響のある媒体をうまく利用して、コンテンツを増やし、そのコンテンツを二次使用することが世界で広がるとおもしろいという感想を持った。

委員  今のテレビの説明を聞いていて日本の文化の特徴が非常にあると思ったので、私が言える話を1つしておくと、恐らく最初にNHKで科学番組を始めたときには、BBCとか、海外の番組をすごく見習っている。昔、NHKで放送された科学ドキュメンタリー番組「明日への記録」や「科学ドキュメント」や「クローズアップ」等がそれだった。しかし、それがいつの間にか姿を消して、現在では総合テレビで科学番組と思われているのは「ためしてガッテン」のようなクイズ風番組と、NHKでは日本の文化や歴史を取り扱う人たちの伝統の中から生まれてきた「プロジェクトX」のようなスタイルのものになってきている。ところが、ディスカバリーチャンネルでは、NHKが昔先生として見習ったBBCの「ノバ」や「ホライズン」という、いわゆる海外の文化の中での科学ドキュメンタリー番組を今でも多く放送している。たまたま今年はアインシュタイン年だったもので、アインシュタインの夢にも触れた「エレガント・ユニバース」という海外でものすごく売れた本をアメリカのPBSがテレビ番組にしたものを、NHK衛星放送「海外ドキュメンタリー」の枠で2月頃に放送してもらった。
そのとき感じたことを申し上げると、本の「エレガントユニバース」は活字媒体なので、実に丁寧に細かく書かれている。しかしこの本を書いた同じ人がテレビでキャスターを演じているけれども、テレビはテレビらしく内容は薄くなったが感覚的には説得力を増やし、プレゼンテーションの仕方が異なるにもかかわらず、見事に成功している。恐らく理解増進に役立つ部分は、新聞とテレビというのは補完し合うところがあるはずで、それを意識しなければいけない、つまり、同じプレゼンテーションの仕方をしていては多分お互い有効に働かないのではないかと言うことをつくづく感じた。
 あとは、先ほどNTV映像センターの方がおっしゃったように、日本の文化の中で科学技術をどう見るかということである。恐らく日本の人々は「プロジェクトX」に描かれる様な、ブラックボックスになっている科学や技術の後ろに潜む人間のドラマがあるとか、そういうことにすごく興味を持つと思う。いわゆる純然たる科学ドキュメンタリーが日本で後退していった背景には日本の文化の特徴も影響している。ただ、NHKのために言っておくと、1年置きか2年置きにNHKスペシャルなで科学ドキュメンタリーの特集は今でもつくっている。それにしても、科学のドキュメンタリー番組が、日本の文化に影響を受けながら変質してきているような気がしている。

委員  新聞の方の立場から感想を申し上げたいけれども、今の、特に瀬川先生のご説明は、私から見ると正当派科学記者の説明を伺ったという感じがする。私自身が昨今痛感しているのは、いわゆる新聞記事における科学的アプローチというか、科学的説明を加味することの重要性である。
 最近の具体的な例を挙げるとすれば、例えば北朝鮮の核開発問題がある。核を何個持っているとか、核実験するのではないかという憶測、推測のような話がある中では、科学的見地から見てどうなのかという説明を、私が担当している社説の場で、そういう説明を踏まえた上で書くこと、報道することの重要性。いたずらにセンセーショナルに、例えば「死の灰が降ってくる」とか、そういう形での関心の持たれ方でないことが必要で、科学それ自体の番組、記事も大事だけれども、そういう姿勢が大事なのではないかと感じている。
 もう一つは、「新聞は社会の鑑」とよく言うけれども、人々の関心が非常に複雑になってきているし、高度化している中で、例えば、私が新聞記者になったころは、生活面で育児というそれ自体にまだ関心を持って読んでもらえた。しかし、今は真正面から育児の問題を新聞で取り上げるのにとどまらず、もっと他のアプローチが必要になってきている。産経新聞の場合、好評いただいている長いシリーズがあるけれども、それは「赤ちゃんを科学する」という、赤ちゃんの脳のメカニズムにアプローチして、そして今、最先端の研究がどう進んでいるのかということを取り上げながら、大きく育児の問題を考えるといった内容で読者からも関心が高い。これは昨年、アメリカの赤ちゃん学会の目にもとまり、記者が呼ばれて報告をするといったこともあった。
 したがって、科学の重要性というのは増していると私は思う。そして、瀬川先生もおっしゃっていたけれども、だれがコーディネーターをやるか。それは科学者なのか、あるいはほかの記者なのか、それはできるところがやればいいと思うけれども、そういう努力や試みがジャーナリズムの中でますます必要になってきているということを改めて痛感した。

北村理事) 先ほど申し上げたことだけれども、コミュニケーション能力独自のものなのか、その前のリテラシーの問題なのかというお話があって、多分、広くコミュニケーション能力をどのように高めるかととらえた場合、恐らくさまざまなアプローチがある。科学博物館では、大学等のパートナーシップでそういうものにチャレンジしようと思って募集した。そして既に5大学が「やろう」ということになっている。大学によって温度差というか、取り組みの程度が違って、来年4月に向けて大学院のマスターレベルのコースを立ち上げたいという大学もある。
 この10年ぐらい前には、サイエンス・インタープリターという形で、どのように科学の成果を伝えるかが非常に重要であった。そして国によっては、姉妹校は既に学部及び大学院レベルで、一つの正規のコースとしているところもある。それで、固有の大学院レベルのコースを考えた場合に、そうしたものが固有の専門領域として成立するのか、そしてまた、そこを出た学生の就職の問題も含めて、そういうものが立ち上がるのかどうか、余りにも多様な要素を含んでおり、その点が課題である。
 現在、大学院のコースは非常に多様になってきている。それが本当に専攻分野になり得たとしても色々な研究分野が想定でき、また、大学の中の人的資源だけではなくて社会の実務者の協力も求めて、色々なものにチャレンジしようという動きがある。先ほどの話の繰り返しになって恐縮だが、科学博物館を使う形の新しい大学院レベルの養成コースを設けようということについて、幾つかの大学からかなり意欲的な反応がある。科学博物館の中でも先ほどの先行する研究事例を調べて、どういったコース・カリキュラムがいいか、まだ検討が始まったばかりである。その辺の整理を行いつつ、有馬先生に科学博物館のサイエンスコミュニケーション有識者会議の座長役をかっていただいて、博物館側がどこまでできるのか、どういうことをやったらいいのかということを検討していきたい。またパートナーを組む大学は、場合によってはもう来年4月に専攻を立ち上げたいという状況になっている。
 したがって、今、そういう多様なことにとにかくチャレンジしてみる。その中で、実施した結果は当然問われるわけだが、そこを走りながら考えるという方針で行うつもりである。
 今日お話を伺っていて、大変だなと思いながらも非常に参考になったという感じである。

委員  マスメディアの役割ということで、瀬川先生からご紹介あったように、最近、新聞を中心として、科学関係の記事については大変努力がなされつつあると思っている。各紙ともに努力しておられて、これは大いに評価していきたいと思っており、これをぜひ継続していただきたい。科学記事の宿命というか、その日、見た人はそれで理解して、ある程度記憶に残るかもしれないが、新聞の場合、一過性である。ところが、科学の知識というのはできれば蓄積していく必要があって、そういったものを、各紙では「あの日、あのときにもう出してしまったから」と次の話題にいくと思うけれども、そこのところの蓄積を考えると、私は、そのジャーナリストの中で、できればいい科学雑誌をつくるような方向に持っていっていただけないかなと思う。「あそこに出ていた、だからあれはすごく大事なんだ」と国民が思えるような、そういったものを考えてもらう時期に至っているのではないか。
 それはなかなか販売的には成功しないけれども、それこそ科学雑誌でコンスタントに、人間の生活にとって、あるいは人類にとって、地球規模にとって大事なことをわかりやすい記事にして載せていく、あるいは最先端のものもわかりやすく解説をする、そういったことが国民の科学技術リテラシーを高めるために必要な時代になってきているのではないかと私は思っており、その辺は、文部科学省も大きな政策として考えてもらえないか。
 それから、ジャーナリストの角度から、新聞とかテレビを通じて、私は、女性たちだけをターゲットにというのはなかなか難しいので、家族がいつも夕食の話題にできるようなものを提供していただけないかなと思う。つまり、今の子どもたちの状況は、食をしっかり食べないし、家庭でもコンビニから物を買ってきてというようなことが、体力の問題とか知力の問題、それからマナーの問題、いろいろなことに関係しており、そのことからも、夕食はできれば家族が揃って食べて、そのときに科学的な話題も出てくるような、そのようなときに話題になるようなものを折々に提供していただくことが、ジャーナリストの方にお願いしたいことである。
 もう一つ、私は、やはり科学技術コミュニケーターはこれから大変必要だと思っている。それは最先端の科学ないしその研究者が、自らの説明責任を果たすためにそういう能力が必要だというだけではなく、やはり一般国民の、科学というのは自分たちの生活にとってすごく大事だというリテラシーを高める。その中で、子どもたちも「科学ってすごく大事なんだな、じゃ行ってみよう」と思うようなことをやっていく。その二重性において非常に大事だと思う。
 もう一つ、今の時代は科学技術の発達が非常に進度が早くて、私は、科学技術について専門的に説明する能力を持った人がいろいろな場で活躍できる時代に入ったと思う。それは科学記者であり、それからテレビの映像をつくる人であり、さらには博物館、科学館、同時に会社で広報に当たる人、あるいは研究所で広報に当たる人たち、それから大学で先端の研究の広報に当たる人たち、いろいろな角度でこういうコミュニケーターが必要になってきている。また、地域においては、そういう人たちが学校に行って、小学校の先生の能力のない人に代わって授業をしてみる様な、いろいろな場がこれから出てくる。その意味で、科学技術コミュニケーターをしっかり養成していく必要がある。
 その場合に、大学側への要請だが、1つは、最先端ないしは本当の研究者たちにも、そういうコミュニケーションマインドを常にリマインドしていただく、そういうカリキュラムをほんの少しでもいいからつくってもらうことが1つ。
 もう一つは、先ほど言った、コミュニケーターという専門性を持った人をつくるための新たなプログラムを開発していただきたい。そこは、むしろそういうプログラムを開発するための誘い水のプログラムを文部科学省ないし大学行政の中で考えていただく。それが1つモデルになって、そういうものを見ながら、各大学がゼロから始めるのではなくて、そういうものをモデルにしながら各大学で利用して、自らの大学の特色を出していくというような基本のものをつくっていただきたい。


(4) 議題3「議論のとりまとめについて」について事務局より資料4−1、4−2、4−3を説明後、質疑応答が行われた。

 
事務局等  まとめの議論ということで、資料4−1、4−2、4−3と、今後のスケジュールとして資料5がある。まず、資料5について、次回は6月27日に報告書の取りまとめを行いたいと考えている。それを前提に、今後の作業をどう考えるかということだけれども、資料4−1は「特にご議論いただきたい内容」ということで、どういった点について議論していただくことが必要だろうかと考えたもの。資料4−2は、これまでに出された意見あるいは資料に書いてあるようなことをまとめたもの。これは基本的に出されたものをそのままピックアップしてそのまま書いてあるだけなので資料4−1に戻っていただくと、特に大事な点は何なのか。優先づけだとか基本的な理念とか、そういうものが今、一つの大きな柱になろうかと思っている。
 あと、具体的な施策につながるような提言ということで、これは2に書いているけれども、各々の施策、取り組みなどを提言していただく。
 あと3として、各関係機関に対するメッセージが考えられるのかなということで、1、2、3の柱立てをしている。
 6月27日に向けての作業の我々の今の案だけれども、本日の議論を踏まえて3週間程度で原案をつくり、6月27日までに先生方にそれを1度お送りして、コメントをいただく。その1往復した後、それを6月27日にかけるようなイメージで、今日の時点では考えている。それでご議論いただきたいということで考えていたところである。
 資料4−3について、一番最初に各施策の取り組み状況みたいな絵をかいたけれども、各々の目的や、そういったこととの関係が不明確ではないかというご指摘を受け、なかなか目標までは書き切れていないけれども、一応各々の事業にどのような実績があるのか、わかる数字の範囲で拾ってみた。誤差なども含んでおり、十分な数字ではないものなのでまだ未定稿であるが、そこを拾い、日本全国の学校数ですとか生徒数などわかるので、それが総数に占める実数の割合を、一応示してみた。

委員  今の論点メモの2番目に属することだが、先ほど北村理事から国立科学博物館の取り組みについてご報告があったが、今日のサイエンスコミュニケーターという新しいジャンルの仕事、その内容について伺っていると、まさに科学博物館、それから日本科学未来館もそうだし、自然系博物館もそうだけれども、まさにジャーナリズムと大学の中間にあって、それをつなぎあわせる非常に重要なサイエンスコミュニケーターという、そういう位置づけを我々は自覚する必要があることをすごく強く感じた。
 特に最近そう思ったのは、新聞記事で、直立するレッサーパンダの風太君というのが大変な人気になっているということだけれども、ああいうことが1つ記事になると、博物館にそれに対する質問がいっぱい来る。そのときに、マスコミの風太君に対して、あるいは風太君の係累に対しての解説というのは、どうしてもあるレベルにとどまってしまう。しかし、あれだけの関心があって、新聞の写真を見ていたら7枚出ている。だとすれば、これはいろいろな人の目に触れているはずであり、あれをもし科学的に解説できたら、例えば動物が直立できるというのはどういう意味があるのか、あるいは遺伝的にどうなのかみたいなことに触れていったら、これはすばらしいサイエンスコミュニケーターの位置づけができるのではないか。
 たまたま今度、科学博物館から京都大学へ行かれた遠藤先生が京都大学に行ってされた仕事が、レッサーパンダの解剖的な所見、それからパンダの解剖的な所見をやって、「パンダの死体はよみがえる」という本を書いた。中公新書だったかな。それがすごく難しい本だけれども、それをやさしくコミュニケートするという意味で世に迎え入れられていることを考えると、やはり科学博物館、自然系の博物館と大学との関係は非常に重要で、それを一般のジャーナリズムとつなげると、サイエンスコミュニケーターというのが比較的丸くつながっていくのではないかという気がした。

委員  今、メディア関係あるいは先ほどの2件のお話を伺いしたけれども、私も現在、時間的余裕があるので、テレビを見る機会も多いし、新聞もかつてよりよく見ているつもりだが、それでつくづく思うことは、非常に努力なさって科学的な記事あるいは番組を掲載しているけれども、やはりすべてが皮相的な取り扱いになっている。日本の文化だと言えばそれまでのことかもしれないけれども、大変気になったのが、瀬川先生にご紹介いただいたアメリカの新聞との比較で、日本の新聞の方が本数は多いけれども1本の記事が短い。これはまさに日本の文化を特色づけている。そうすると、これは小学校教育にも言えることだが、ただおもしろおかしく紹介して、それで興味、関心を持ってもらえればいい、その後のフォローアップが、これは初等中等教育で言えば、中学、高校とだんだん段階づけていくことができるけれども、やはりサイエンスコミュニケーションという立場で考えると、商業的に採算が合わないことはよくわかるけれども、メディアにおいてもそういったフォローアップを十分にするような仕組みが何か必要ではないか。やはりそれに興味、関心を持った人が「どうしてなんだろう」というところで、もちろんそれの専門書に当たればいいのだけれども、それを新聞で何かの形、あるいはテレビの番組で、非常にその辺を突っ込んだ番組もあることは事実だけれども、それは特殊なものになってしまっており、日本の文化にはなっていない。その辺りをもう少し手当てしてもらえると、変わってくるのではないか。

委員  瀬川先生にお聞きしたい。あるいはジャーナリズムに関係する方にご質問したいのだが、それは、私も、アメリカなどに比べて、日本の新聞、テレビの科学番組がそんなに弱いとは思わない。努力もしておられると思う。圧倒的に弱いのは、科学雑誌。アメリカを見ると「サイエンティフック・アメリカン」とか非常に強いものがあるし、同じ環境問題や、みんなが旅行するときの参考になるような雑誌、例えばナショナルジオグラフィックスなどは素晴らしい。そういうものが何故日本で育たないのか。あったのだけれども、みんな潰れてしまった。平凡社や朝日新聞でも科学朝日をやっていたし、読売新聞もやっていたけれどもみんな潰れてしまう。今、残っているのは「日経サイエンス」それから「Newton」は残っているけれども、ああいうものが何故日本で流行らないのか。
 政府として頑張ってやったらどうかと、ちょっとそういう印象のご意見があったかと思うが、まず瀬川先生、それについてどう思われるか。それから、これをどうしたらいいか、国としてどうしたらいいか、お考えいただきたいと思う。

瀬川部長) 私も、科学雑誌というものが大変重要だと考えている。良質でかつ売れる科学雑誌が日本にできないものか、と思う。ただ残念ながら日本では、科学雑誌が流行らない。新聞は、総合的な紙面を持ち、ある意味で保護されたかたちで科学報道をやっているわけだが、雑誌というのは結局、部数が出ないと商業的に成り立たない。これはいろいろな議論があるけれども、いわゆる科学や科学的思考が欧米からの輸入物で日本の社会に根づいていないことが問題ではないか。例えば宇宙開発についても、アメリカは未知の世界の「開拓」に関心があるが、日本人は未知の探求より「宇宙と死生観」といったことに関心がある。論理より情緒を好む国民性というのがあるかもしれない。ただ、もう一方ではパソコン雑誌はいっぱい売れている。1980年代後半からパソコン雑誌がどんどん出てきて、それと並行して科学雑誌が売れなくなったということで言うと、日本人の特性というのは、そういうところにあるのかなと思う。科学の本質を理解するというよりも、コンピュータを一つの科学とするとその科学をうまく使うノウハウを知ることに関心がある。
 そうした傾向を私たちが理解増進に利用することはできると思う。そういう特質を利用して、その一歩先まで伝える。医療や健康、暮らし、自分の身近な関心から広げていく、科学につながっていく道を見せてあげる。大上段というか、科学そのものの体系を最初から本格的に打ち出しても一般の人には、それは多分受け入れられない。

委員  それからもう一つ、私が常々感じていることは、例えばアメリカやヨーロッパだと、いい教科書を書くと儲かる。アメリカの大学の研究者の中には、教科書を書くことで非常に有名になり、物理なり科学なりのいい教科書を書いたことによって評価される人が随分いる。それから、アシモフだとかガモフだとか、ああいう科学者が非常に有名な本を書ける。日本も具体的に名前を申し上げるのは控えるけれども、非常にしっかりした研究をなさりながらいい本を書いている。そういう人がなかなか育たない。いるのだけれども、育ちにくいというところがあるのではないか、そのことを非常に心配している。だから、高等学校や中学校の教科書でも非常にいいものを書いたらば、大学でもそうだけれども、少しそれを勇気づけるというか、そういう必要があるのではないかと思う。
 論点メモで私が1つ気になっていることは、今日瀬川先生たちのお話をお聞きした上で、映像とか新聞かとジャーナリズムをどう使うかということについて、やはりまとめられていない。私は、多分テレビはかなりブロードバンドに変わっていくのではないかと思う。要するに、パソコンにブロードバンドで放り込めば、もう新聞もなくてもいいしテレビもなくてもいいようになってくる。そのパソコンを一体どう評価していくか。先ほど瀬川先生からも、パソコンが流行り始めた頃から雑誌が減っていったというご指摘があったが、その辺をどう考えるか。すなわち、ブロードバンドのような最近のメディアのあり方をどう利用していくか議論した方がいい。せっかく今日、ジャーナリズムの面からお話を伺ったので、それを入れたらどうかということを、最後に私の感想として申し上げておく。

委員  先ほどの渡辺研究官の発表の中に、非常に大事なキーワードがあると思う。
 サイエンスコミュニケーションを広げるには、日本の文化、風土に合った方法の開発ということを述べられた。そうすると、ひょっとして「伊東家の食卓」というのは端から科学番組としてとらえていないけれども、日本的な科学番組としてとらえていいのではないか。それはなぜかというと、この番組は、家庭で起こる色々な物事を経験に基づいて、非常に科学的に、わかりやすく、役に立つ─役に立つというのがキーワードだと思うけれども、非常によくまとめられている。それが人気があるという一つの日本的な文化として、これは決して否定するべきではないのではないかと思う。もう一つ、では、日本の社会における科学の大きな問題というのは、いろいろな観点からあるけれども、学校教育という意味では、国際テストペーパーでも高い。だから、成績という意味では日本の学校レベルはある程度高いと評価していいと思う。
 それから私がちょっと問題だと思うことは、社会で実際に働いている人たち、ビジネスマン、特に一般の大人の人たちの成績が低いというのは、これから社会の物事、政治、経済、いろいろなことを考える一番責任ある立場の人たちに科学的な物の考え方、知識がないということで、ここの部分をどんなふうに上げたらいいかということだと思う。
 今、大学、研究機関、科学館、博物館、そういうようなところで科学技術コミュニケーションというものを大きくとらえようとしているときに、恐らく小林先生のところも含めて、そのシステムというのは欧米のシステムを、高い知識を論理的に扱う機関というのは、結局それが一番有効なのかなと思う。しかし、それはあくまでも、ある大学とか高等機関であって、一般の人たちに一番関心ある日常の科学というのは、こういうテレビ、「ためしてガッテン」とか、そういうようなものを私たちは謙虚に、「これは科学番組としてとらえてもいいのではないか」という発想を持ち込むのはいかがだろうか。

委員  いいと思う。先ほど私が日本のテレビの科学番組は決して悪くないと申し上げたのは、そういうことも含めて申し上げた。だから、それはぜひその方向でお進めいただいたらいい。


(5) その他(今後のスケジュール等)
次回懇談会は、6月13日(月曜日)13時30分〜15時30分に富国生命ビル28階第2会議室で開催することとした。


(科学技術・学術政策局基盤政策課)

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