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小林副センター長) まず、簡単な自己紹介をさせていただく。
「科学技術コミュニケーション」に対して、何かやってみようと思う人間がどういう出自であるかを理解していただきたい。これは今後、こういうタイプの教育を推進していく上でどういう人材が必要になるかというときの参考資料になればと思う。
私自身は理系、理学部出身で、落ちこぼれたというところである。実験が下手で、諦めようと思ったわけである。もともと進路を文学部か理学部かで迷ったので、理学部の実験科学者になる道から、やや文系的なものに変えようと思った。しかし、文系で簡単に大学院に入れるようなところはない。そのとき、全国で唯一、理系の枠組みでありながら中身は科学史、科学基礎論を扱う、そういう大学院があったので、そちらに文転した。
また、コンセンサス会議といったものに関与したというのが私のキャリアの1つになっており、ここにいらっしゃる高柳委員と一緒に取り組んだものである。これは、簡単に紹介すると、社会的に対立のあるような科学技術のテーマ、例えば遺伝子組み換えといった技術に関して、その専門性を持っていない普通の市民が集まって、専門家と議論した上で素人だけでレポートを書く、そういうヨーロッパで開発された参加型のテクノロジーアセスメントの一種である。これを日本で最初にやったわけである。
もう一つ、やはり私がかかわったものとして、科学技術社会論学会というものがあり、これは西洋ではSTSと呼ばれており、サイエンス・テクノロジー・アンド・ソサエティの相互の作用や関係を議論するような学問領域である。日本では、この分野を研究するような機関はほとんどないに等しいけれども、私は、需要は確実にあると思っていたことに加え、設立の趣旨の綱領文書においても「21世紀における科学技術と社会の新しい関係を考えるための学会だ」と宣言した。今日、文部科学時報5月号のタイトルがまさしくそういう言葉になっているので、不思議な気がするが、この学会をつくったのは2001年である。それから、私がコンセンサス会議を最初に、試行的に小さくやったのが98年、そして農林水産省に依頼を受けて本格的に始めたのが2001年であるから、たかだか七、八年でこういうふうな会議が行われるというのは隔世の感。私は、時代の変化の速さを感じている。
今年4月1日に「コミュニケーションデザインセンター」を立ち上げた。我々の社会には、様々な場面で、コミュニケーションがうまくいっていないことによって生じている問題がたくさんある。例えば、医療の場面での患者と専門家の関係、あるいはまちづくりにおける様々なトラブル、あるいは科学技術の関係でも、生命技術や遺伝子組み換え技術、原子力発電所、そういったところで紛争は絶えない。これは、それぞれ個別の領域で様々な取り組みがなされているが、そういうものを「コミュニケーションがうまくいっていない」という横串で集めてみると、共通の問題があるはずだと考えた。いわば、この会議でこのようにテーブルを並べること自体が一つのコミュニケーションのスタイルになっているので、そのスタイルをどう変えたらどういう結果が出てくるだろうか、あるいはもっといいスタイルはないだろうかと考える、これがコミュニケーションデザインである。それと同時に、大阪大学なので、やはり大学院に重点化し、大学院生たちは将来、社会において専門家たるべく教育を受けている。その専門家たちが信頼される専門家になるということがこれから非常に重要になると思うので、そのような専門家を育成していきたいと考えている。それから、近年は産学連携という言葉がよく使われるが、大学の社会的機能というのは産業界に対してだけではなく、もっと広く、社会に対して大学の知を提供すべきであり、そこから学ぶべきであろう。そういう意味で「社学連携」という言葉を掲げ、そのような拠点をつくることを狙いとしている。
この図は、現代の問題状況を「コミュニケーション不全」と捉えるということを表している。そして、そのために、専門家と、社会の非専門家である市民の間のコミュニケーションの回路をデザインしたいという狙いがある。
最近は「双方向性のコミュニケーション」という言葉がよく使われるが、これは非常にナンセンスである。双方向性がなければコミュニケーションではないので、わざわざ「双方向性」という言葉を使うということは、今までいかにそういうコミュニケーションをしてこなかったかということのあらわれだと思う。現実に我々が考えていることは、専門教育として大学院生に対してトレーニングを施し、実際に社会―市民と協同の活動をやってみるということであるがなかなかそう簡単にはできない。スタッフの数は、各研究科からの移籍が9名、新規採用予定5名の14名が中核の部隊である。そして任期制で9名、現実には12名採用した。それ以外に、各研究科が兼担教員という形で協力するという構造になっている。ただ、14名中、科学技術コミュニケーションを担当する人間は、私を含めましてたかだか4名程度であるということをご理解いただきたい。先ほども話したように、コミュニケーションというのは様々な領域において問題が生じており、医療や防災などの観点で取り組む専門家もこの中には入っている。いわゆる科学技術のコミュニケーションに携わるものはこの中の4名ぐらいである。
最初にお話ししたいことは、「科学技術コミュニケーション」という言葉が非常に多義的に使われているという現状である。この懇談会でも常にこのような論点が出てくると思うけれども、1つは、やはり若者の理科離れを克服するということが、このような言葉に込められることが多い。それから、「基礎科学」と政府の方では呼んでいるが、私は基礎科学という言葉は余り好まないので、「純粋科学」と呼ばしていただくけれども、純粋科学への社会的支援を獲得していくことが、純粋科学に携わっている方にとっては重要な課題である。そこからコミュニケーションという議論が出てきているということが1つあると思う。それから、社会的に科学技術をめぐって生じている紛争を解決する、これについては社会に疑問の声を上げたり反対する人々もいるわけであるが、そういったところでのコミュニケーションが、やはりうまくいっていない。BSEに関しても、うまくいっていないと思う。
もう一つは、産業界のニーズあるいは視点と、大学の中の研究者の志向やニーズは必ずしも予定調和ではないので、産学連携における円滑な活動を実現するためには、その間をうまく取り持つようなメディエーターが必要であるという議論が出ている。
また、供給過剰となりつつある博士号取得者の新たなキャリアを生み出すことも最近は議論されている。ただ、このための切り札として、こういう科学技術コミュニケーションをただ言うだけでは、私はうまくいかないだろうと思う。これは後で渡辺上席研究官がお話しになると思うが、科学技術政策研究所が出されたディスカッションペーパーの中から資料をいただいてきた。これはその中の科学技術コミュニケーションの広がり、裾野と山腹という議論である。大阪大学では当面、この図で山腹の部分を中心に、進めていきたいと思っている。その理由は将来、社会の中で専門家になっていく大学院生を大量に養成しているということを考えると、この山腹の部分で、きちっと議論するような能力を持っている専門家を我々の大学がいかにして養成するかというのが社会的な課題だと思っているからである。
裾野の部分は広義の科学教育ということになると思うけれども、これは一定は必要ではあろうと思うが、ただ、現在のような知の爆発状況を前提にすると、この裾野の部分に知識を伝えることには、おのずから限界があるのかもしれない。例えば、DNAという概念があるけれども、私より上の世代は、高校の生物の教科書に「DNA」という言葉は載っていない。したがって、概ね50歳以上の方々は、必要に応じて、あるいは様々なメディアを通じて社会的に後年獲得していくことにならざるを得ない。こういうことが、これからどんどん繰り返されていくので、どの時点でどのような知識を習得するかというのは、その世代ごとに随分違ってしまう。それを平準化するための努力は必要だと思うけれども、限界はあるだろうと思う。
そしてまた、仕事にも使わない科学技術の高校の知識を、卒業した後もずっと維持し続けることが可能であるとすれば、それは奇跡に近いことであり、普通は忘れるものだと思う。
そういう意味で、科学技術コミュニケーションを考える上では、やはり視点を幾つかに切り分けなければいけない。私自身は、まだ十分整理できてないが、例えば、純粋科学をテーマにしているのか、科学技術をテーマにしているのかで「コミュニケーション」と言っても違うだろうと思う。それからターゲットとしても、現在、既に専門家になっている方及び専門家の予備軍のコミュニケーション能力を考えるのか、あるいは非専門家と呼ばれている人々の科学技術リテラシーの方に着目するのかによっても違うであろう。それから、既に物理学や化学やさまざまな領域の専門家のセンスアップなのか、それとも、センスアップするための教育をするために、こういったものをきちっと考えて議論していく新しいタイプの専門家をつくるという議論もやはり必要になる。それから、科学技術リテラシーの向上に視点を置くのか、それとも産学連携も含めて社会的にトラブルが起こっている具体的な問題の解決に焦点を当てるのかによっても違う。それから、わかりやすい知識、あるいは知識の共通のベースをつくっていくという方向で議論するのか、それとも、そもそもコミュニケーションというのは何か、コミュニケーションのスタイルの方に力点を置くのかというふうに、視点はいろいろある。
これは全部、相互排他的ではないが、やはり場面に応じて分けて考える必要があるだろうと思う。ただ、一般的に、いわゆる欠如モデルと言われる発想であるが、コミュニケーションがうまくいっていないのは、どちらかに知識が不足しているからである。したがって、それを注入すればよろしいという考え方がある。しかしこの欠如モデルだけではうまくいかないので、内外の研究を通じて欠如モデル自体が見直されている。このモデルを別に無視する必要はないけれども、私どもは、それよりも、いかに聞く力をもった専門家を養成するかが重要であろうと思っている。
大阪大学で当面行う予定なのは教育プログラムの開発だが、このセンターは学生を持たない組織でもあり、各研究科へ大学院の新しいタイプの教養教育として提供したいと思っている。今年度は将来の専門家としての大学院生をターゲットとして試行プログラムをやりたいと考えている。一応の狙いは「思いやりと確かな社会的判断能力を持って市民と十分なコミュニケーションをとり得るような院生・若手研究者の育成」である。
その第1段階として、多様な研究科の院生を、20名程度1つのグループにする。その専門家予備軍同士で1回コミュニケーションをやらせようと思っている。現在、専門家同士のコミュニケーションでさえうまくいっておらず、それぞれの分野の専門家が持っている専門性を横でつなぐようなトレーニングをする場もない。したがって、人文系から理工系まで全部含めて、幾つかの研究科から数名ずつ若手の院生を集め、その院生たちに、例えば現在問題になっているBSEに関して議論させる。その議論の仕掛けについては、今、いろいろと案はつくっている。これは講義ではなく、実践的な活動でやらないと身につかないので、ロールプレイングを通じて自らの専門性を相対化するような経験を与えたい。つまり模擬コンセンサス会議のようなものを考えている。どうしてこういうことをやるのかというと、私は、コンセンサス会議を経験して、専門家と市民の価値観、意識が非常にずれていることがよくわかったうえに、専門家同士のコミュニケーションもうまくいかない。それから、専門家と政策立案者のコミュニケーションもうまくいっていないことに気付いた。その結果として、専門家及び政策立案者に対する信頼の崩壊というものが起こっているのではないかと感じたからである。証拠として挙げられるものを1つだけ持ってきた。これは「人間が幸せになるために、人間は自然とどのような関係を取り結ぶべきでしょうか」という問いを1950年代から2003年まで経年的にとったデータである。
これで見ていただくとわかるように、1950年代から68年までは、自然を征服していくことに対して人々は共感していた。そして、自然に従うなどというものに対しては、余り共感していなかった。ところが、68年から73年で、それがきれいにクロスしている。そして、それ以後、二度と「自然を征服する」ことに支持は集まってこない。つまり、我々の社会では、1970年ぐらいから、科学技術に対する期待の構造が少し変わったと思われる。60年代までの高度成長期においては、科学技術がもたらすものを社会はほぼ福音と見なし、それを肯定的に評価していたが、70年代以降はケース・バイ・ケースで反応するようになってきている。そして、そのときのキーになる概念が、「自然に従う」というイメージである。
大阪大学では、こういうことをやろうと思っているが、現状の課題をご説明すると、やはりコミュニケーションというのは少人数でするもので大人数講義ではできない。大阪大学の大学院生数は博士前期で4,200人、後期でも3,600人。そして、私どもの試行的プログラムが20人なので、到底全員に対してまともにやることは不可能な現状であることをご理解いただきたいと思う。したがって、時間がかかる。しかも、専任が少なく期限付教員でまかなう体制。5年間の任期付という形になので、その先どうするのかは深刻な悩みである。しかも、このような取り組みは一種の漢方薬のようなもので、一年二年で目にみえる成果がパッと出るわけではない。─教育というのは本来そういうものだと思うけれども、そういう問題があります。
それから、教員の意識の問題がある。最近の院生は、比較的こういうものに取り組む意欲があるが、現実の教授、助教授の方のこういう問題に関する感受性は、まだ低い。それから、正規のカリキュラムに組み込むことが非常に難しい。それから、こういう科目を運営するための人間を養成する。つまり、コミュニケーターだけではなくて、コミュニケーターを養成するための新たな専門家の養成組織、拠点が必要だけれども、現状、日本にはほとんどない。また、単に科学技術のコミュニケーションだけではなくて、もっと幅広く、演劇、アートとの連携も、今、大阪大学では考えている。そして社学連携のプログラムとの組み合わせも考えているが、科学技術コミュニケーション・プログラムは、それ単独として成立するものではなく、大学院あるいは大学のあり方そのものと結びついているものである。それで我々は、「新たな教養教育」などという言い方をした。だから、従来の日本の大学になかったような新しいスタイルを導入することとセットでなければ、こういうコミュニケーション教育というのはうまく定着していかない。それを通じて、科学技術に対する信頼される専門家が育成されていくような、そういう風土ができていくだろうと思う。そういう意味では、本質はマニュアルづくりではないと思っている。
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北村理事) 国立科学博物館では現下の課題であるコミュニケーション能力について、伝統的には学芸員のあり方や学芸員の資格などで色々と努力してきた。しかし科学における様々な分野でのコミュニケーション能力養成となると、大学との連携によってそういうことができないだろうかと考え、今、大学パートナーシップというものを募集している。大学パートナーシップについては次のような連携形態がある。「学生の無料入館」、「サイエンスコミュニケーション実践講座開講などの教育活動の連携」、「自然史講座開講などの教育活動の連携」などである。このうち「サイエンスコミュニケーション実践講座開講などの教育活動の連携」は、サイエンスコミュニケーション能力あるいはサイエンスコミュニケーターの育成を目指したものであり、博物館という実践の場を活用したサイエンスコミュニケーター育成のプログラムはいかにあるべきかということで、現在、検討中である。これらの取組は我が国の場合、先例がなく、今、学芸大学とか東大とか、5大学が一緒にやってみようという状況になっており、私どもとしては、さらに広げていきたいと考えている。
博物館を使ってどのようなことができるかということであるが、先ほど申し上げた学芸員実習プログラムなどの経験も踏まえ、各大学との連携を大いに図りたいと考えている。ただ、内容が非常に広範にわたる話なので、国立科学博物館においても関係者に集まっていただき、有馬座長にもお願いし、現在、サイエンスコミュニケーション能力の育成プログラムについて検討会議を設けている。
ただ、大学の募集では、大学によりカリキュラムやスケジュールが違う面があり、また取り組みの度合いも様々であるため、これらの多様性も考慮しつつ、先行するさまざまな研究も含めて勘案して、ぜひ具体像をつくりたいと思っている。
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渡辺上席研究官) 今日はまず、我々科学技術政策研究所の第二調査研究グループで科学技術コミュニケーションに関してどのような提案を行ってきたか、発表させていただきたいと思う。今年2月に開催した「国際コロキアム サイエンスコミュニケーションの広がり」の内容を中心に説明させていただく。この会合は、ここにおられる有馬座長に開会のご挨拶をいただき、2月7日にコクヨホールで開かれた。イギリス、アメリカ、韓国から講演者を招待し、サイエンスコミュニティーについて話し合いを行った。まず、マニング教授とマーギュリス教授に基調講演をお願いした。マニング教授はもともと動物行動学者でエジンバラ大学の名誉教授であり、大学の教授を退官後、BBCの科学番組のキャスターになるというように幅広く活躍しておられる。マニング教授の講演の内容をかいつまんで申しあげると、まず、科学と芸術は違う。これは小柴先生もよくおっしゃっているけれども、例えば芸術家であるモーツァルトの代わりは出ないだろうけれども、アインシュタインがいなくても、相対性理論というのはやがて誰かが発表したであろうという意味では、科学と芸術とは違う。ただし、どちらも同じ人間の心が行うことだから、その間に境界はないはずだ。そういう意味で、科学と文化といった分け方は本来無いものであり、シームレスカルチャーは必要であり、実現可能である。シームレスカルチャーというのは「この世には幾つも文化がある」といった考え方をまず取り払って、つなぎ目のない文化を実現し、科学を一般の文化の中に定着させて広めていくにはどうしたらいいかというコンセプトのもとに提案した言葉で、今回の、このコロキアムのサブタイトルとして採用したものである。
次に、マーギュリス教授はアメリカのマサチューセッツ大学の教授で、細胞共生説を発表されたことでも有名で、その後もサイエンスコミュニケーションに関するさまざまな活動を行っている。その中で、マーギュリス教授自身が科学教育のプログラムを開発されており、このコロキアムでもその一端を紹介していただいた。それは、ユウコウチュウという化石生物を窓口にして、プログラムに参加した人たちが各自で体験し、あるいは発見しながら科学の発見のおもしろさを感じるといったプログラムである。その中でマーギュリス教授が一番強調したのは、科学というのは知識ではない。教科書から学べるものではなくて、自分が実体験することによって身についていくものである。したがって、教科書やクラスで教えられるだけではなくて、自分たちが実体験をしながら学んでいく工夫が必要であろう。そういう意味で、自分もそういうプログラムの開発を行っているという発表であった。
次に、ミラー教授というのはロンドン大学ユニバーシティカレッジのSTS講座、社会と科学を結ぶ講座の中のサイエンスコミュニティーを担当している学科長の先生である。もともとは物理学者だけれども、ヨーロッパのサイエンスコミュニティー・ティーチャーズ・ネットワークの会長もなさった方で、言うなればEU諸国の中でサイエンスコミュニティー教育、要するに、教員の立場からサイエンスコミュニティー教育をどうやったらいいかということの中心にいる方である。ミラー教授の講演では、EUにおける取り組みの歴史を概観していただいた。まず、80年代には、それまで行われてきた科学理解増進運動に対して欠如モデルという指摘があり、従来の科学理解増進運動では不十分であるという反省から、双方向的な意見の交換が重要であるということで、サイエンスコミュニケーションという活動が出てきた。その中で1つ重要なのは、誰が、誰に、何のために伝えるのか。あるいは研究者が一般の人々に説明する場合も、相手がどういう知識を持っている人で、どういう立場で、どういう生活を送っている人かということをまずとらえて、そういう文脈を踏まえた上でなければお互いのコミュニケーションが成り立つはずがない。そういう意味で、例えば研究者が一般の人に話す場合でも、一般の人たちが何を考えて、何に興味があるのかということに関する意識が研究者側になければ、そもそもコミュニケーションも成り立たないだろうという意味での文脈モデルというものが、最近は言われてきている。そういう運動がイギリスを中心にEU各国で行われているわけだが、その中で、アウトリーチ活動、いわゆるコミュニケーションに熱心な研究者もたくさん出てきてはいるけれども、やはり公的な支援を続けていかないと、そういう人たちが孤立してしまう。支援には財政的な支援もあるけれども、研究者としての評価もあり、多角的な支援をしていかなければいけない。その中の1つとして、まず、突然「コミュニケーションをとりなさい」「アウトリーチをしなさい」と言っても無理なので、やはり組織的にコミュニケーションスキル、トレーニングを行うことも重要であろう。もう一つ、イギリスでは2000年ぐらいに科学技術庁のレポートが出て、やはり一般人の科学に対する感心を高めるためには、マスメディアにもっと科学を取り上げてもらう必要があるという提言がなされた。ただ、それに対するミラー教授の意見としては、マスメディアには独自の価値観があって、国あるいは科学技術政策の立案者あるいは実行者の意識とはおのずから違うものであるから、余りマスメディアに期待してもだめだろう。マスメディアというのは、どちらかというと社会的な問題としての科学を取り上げる割合が高いのであって、必ずしもそれはいいことばかりではないはずであるし、科学に対する好感をはぐくむとは限らない。科学に対する関心あるいは意識を高めることには役立っても、それには限界がある。そういう意味で、メディアに対して行政側として余り期待してもだめだろう、そういう話であった。
次に、韓国の科学技術財団のチョ博士からお話を伺った。韓国では科学財団が中心になって、かなり積極的に科学コミュニケーションに関する支援活動が行われている。日本との一番の違いは、韓国の場合は色々考えてから動くのではなく、とにかく始めてしまってから軌道修正していくという国柄であり、とにかく色々なプロジェクトを走らせている。ただ、その中で、現在はむしろ人材養成にシフトしつつ、科学技術者の養成だけではなくて、科学と文化の交流を図るための人文系の人材の養成にも力を入れているという話であった。
次のチャバイ博士というのは、もともとはアメリカ・スタンフォード大学の物理科学の研究者だったけれども、現在はフリーになって、サイエンスコミュニケーションのコンサルタント業を行っている。彼はコンピュータゲームが科学教育のプログラムとして有効ではないかと提案した。それは、単に1人で遊ぶコンピュータゲームではなく、チームを組ませて行うことによって、子どもたちの間にコミュニケーション能力を養うことも重要であろう。あるいは、一般的なゲームという文化を通じて、子どもの中に科学という文化を組み入れる工夫が必要であろうということであった。
最後に、私と日本大学芸術学部の木村教授から、一般の人々の科学に対する関心を高めるためには、アートとの組み合わせが重要なのではないかといったことを中心に発表した。
このコロキアムでは第3部として、高柳委員に司会していただきディスカッションもあったけれども、それはちょっと省略させていただき、最後に、一般のレセプションとは違って、「科学茶房」という新しい試みを行った。これは、レセプション会場に科学を題材にしたアート作品を持ち込むことによって、その場の雰囲気を盛り上げて、新たなコミュニケーションの場として活用していただこうという試みである。
最後に、このコロキアムにも招聘したけれども、間に合わなかったためこの3月に行ったアルフレッド・A・スローン財団のウェーバー氏の講演会についても補足させていただきたいと思う。スローン財団は、1934年に創設された、ゼネラルモータースの元会長のアルフレッド・A・スローンの私財を投じてつくられた科学技術振興のための民間財団である。現在、年間6,500万ドルの援助を行っているけれども、そのうち、このウェーバー氏がプログラムマネジャーを行っている理解増進プログラムが、ウェーバー氏1人が運営しているお金が1,000万ドルである。彼のプログラムは、主にメディアを中心に行っている。例えば、脚本家に科学を題材にした脚本を書いてもらい、それを支援したり、あるいはサイエンスライターの出版を補助するとか、あるいは学を題材に映画とかテレビ番組作成を支援している。例えば、病院が部隊になっているドラマ「ER」や科学捜査班など、現在、アメリカの人気テレビ番組ベスト10のうち3つが科学に関係している。そういう生活の中の科学技術がドラマとして提供されることによって、一般の人々が「科学技術というのはこういうものなのか」あるいは「医者というのはどういうものなんだ」「科学捜査官というのはどういうものなんだ」という窓口を通じて科学に親しむだろう、そういう非常にユニークなプログラムを行っている。
こういうメディアを中心にした支援ということを考えると、やはり国の財政援助には限界があるので、日本でも、民間の財団がこういうユニークな援助を行ってくれることを期待して、ウェーバー氏を招聘して講演会を開いた次第である。
これは先ほど小林先生からもご紹介があったけれども、このような図を考えており、一般の人々の科学に対する関心、意識を高めるには、やはりまず裾野の部分(一般の人々)に重点を置き、「科学は意外とおもしろいじゃないか」という潜在的な好奇心を刺激する工夫が、これからは一つの柱として重要になってくるだろう。それとは別に、山腹の部分では意識の高い人たちが積極的に科学の運営にかかわっていくことが、これから重要になってくるのではないかと考えている。
これは大まかな図だけれども、やはりその中心としては、高等教育を通じて、必ずしも科学コミュニケーションの専門家だけではなくて、一般教養としての科学教育にもう一度重点を置くということと、コミュニケーションマインドというものをすべての学生、大学院生、研究者、教官に植えつけるための何らかの取り組みが必要であろう。その中から一部、興味のある人たちに専門教育を行う。その専門教育を行う場合でも、大学だけが舞台ではなくて、先ほど国立科学博物館のプログラム紹介があったけれども、科学館や博物館も有機的に組み込んで、いろいろな場所で、だれが、どこで、どのような方法を使ってコミュニケーションすればいいかというような手法を、これから開発していく必要があるのではないかと考えている。理想的には、このバラ色に書いたところはあくまでもバラ色の目標を目指すところである。ただ、これはかなり先の理想としてだけれども、やはりある程度、まず科学に携わるあらゆる人に科学コミュニケーションのマインドを養成することを考えていかなければいけないのではないか。
最後に、このような会でこのようなことが取り上げられていることからもわかるように、サイエンスコミュニケーションあるいは科学技術コミュニケーションの必要性が非常に叫ばれているわけだが、具体的にどうしたらいいかということになると、ヨーロッパ、アメリカにおいても必ずしも確立された手法があるわけではない。しかも、日本では文化、風土が違っているから、日本の文化、風土に合った方法、取り組みをこれから開発する必要があるだろう。
その場合でも、だれが、どこで、どのように科学を語るのかというときに、その言葉とか文法とか場所とか、そういうものもこれから考えていかなければいけないのではないかと考えている。
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「文脈モデル」というのは何か。
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渡辺上席研究官) 研究者が誰かと、例えば一般の人々と話す場合に、相手がどういうことを考えているのか、その場その場に応じた言葉遣いとか考え方とか説明の仕方を考えないと話は通じないよ、そういう意味で、お互いの立場の背景を理解し合ってから話をしましょうという意味である。
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資料3の で、科学技術コミュニケーター養成についての論点を考えた。まず、今の講演の中にも何回も出てきたが、なぜ養成が必要なのかという話。それから、養成をするに当たっての教育の仕方ということがある。
2番目は、「研究者」にしてあるのは、単にコミュニケーターとしてというよりも、研究者一般の教育という観点でどうかということで書いてある。
こういったことについて、これを推進するために、今後の課題をどうしていったらいいのかといったことでまとめてある。
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小林先生に聞きたいことがある。何度かお話を聞いていつも気になっていたことであるが、小林先生が皆さんとコミュニケーションするときに、まず「落ちこぼれ」という言葉を出す。私たちは確かによく知っているので、本心ではなくて謙虚さから使っていることがわかるけれども、つまり、研究者ではなくて文化系ではなくて、その中間のところに今いますよということで「落ちこぼれ」だけれども、これは非常に誤解されると思う。なぜかというと、落ちこぼれだったら社会は小林先生を必要としない。ところが今、大阪大学で、そんなすばらしい科学コミュニケーションのポジションで、社会から期待されている。それは落ちこぼれどころか、まさにそういう要素の人が必要だということである。これがなぜ大事かというと、小林先生が個人で色々なことをやられるときは構わないけれども、ある1つの大きな組織の中では、これから若い人たちが科学コミュニケーターに憧れて、ここを目指して、専攻してくれないといけない。そういうときには、やはり落ちこぼれではなくて、「これ自身がちょうど谷間の、融合した新しい領域ですよ。ですからここはおもしろいのです。たまたま私のような両方持った人間が、こういうポジションでこれから仕事をするのですけれども、皆さんにもそういう2つの領域が必要ですよ」というふうに言っていただけると、若い人たちは「やっぱりそうだ、そこに行きたいな」と思う。だから、謙遜されているのはよくわかるけれども、若い人たちには、そういう悪い影響を与えるのではないかと思う。
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小林副センター長) これは一つの文脈モデルである。今、「落ちこぼれ」という言葉はネガティブな印象を与えるとおっしゃった。それは確かにおっしゃるとおりである。だから、ここで言うべきではなかったかなという気はするけれども、もう少し言うと、今まで私は、こういったタイプのことの重要性を普通の理工系の先生方に対して話をするときに、いかに受け入れられないかという経験をしてきた。そのときに、「私は実は理系出身ですよ」と言うことによって、相手は一定、話に乗ってくる。「だけれども、皆さんのように、このカッティングエッジのところでやっているようなハードなサイエンティストではないのですよ」と言いながらも、「でも、こういうのもおもしろいですよ」ということを言うための一つのレトリックである。しかも、逆に言うと、今度文系の方に説明するときにも、このレトリックが必要になるときがある。というのは、サイエンスと言うと、あるいは理系だと言うと、高校のときのような正解がバチッと決まっているような、ああいう教育を受けた方々がたくさんいる。そして、毛嫌いしている方がいる。それで、私が文系的な顔をしながら科学技術のこういう議論をすると「おまえ嘘だろう、文系じゃないだろう。元理系じゃないか」「いや、だから理系から落ちこぼれたんですよ」と言うと相手が安心する。
そういうふうな構造が、少なくとも私が98年にコンセンサス会議を始めたときにはあった。今、若い人々に対してこういう言葉遣いをしてはいけないとおっしゃった、それは確かにそのとおりだと思うし、これからの院生に対しては、私はそういうことは言わない。もちろんそれはわきまえている。そういう意味で、文脈モデルで話をする。これが文脈モデルということの意味であり、そういう意味では、今回私がちょっと外したという批判は甘んじて受ける。
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科学的なコミュニケーションというものを今の大学生なら大学生のレベルで、大学院生なら大学院生のレベルで考える、そういう意味でのデザインという意味だろうと思う。基本的に、コミュニケーション不全というものの前に、今の子どもたちには社会化不全というものがあるのと思う。それは動物を見ているとよくわかるけれども、幼いころに社会化不全をした動物は、全くコミュニケーションができずに、群れの中に入ることができない。そういうふうに考えていくと、今の子どもたちのコミュニケーション不全というのは、その前に社会化不全があって、その延長線上にコミュニケーション不全があるのではないかと考える。だから、その部分だけをいかにスキルアップしても、本当のコミュニケーションというものは完成しないのではないか。したがって、コミュニケーションデザインの前に、キャリアデザインのような年代に応じたコミュニケーションのスキルというか、感性みたいなものがないと、単なるスキルの研究だけに終わってしまう。そういう文脈の研究に終わってしまうという気がすごくして、今、日本のこの世界で一番求められているのは、むしろキャリアデザインというか、そういう社会化不全をいかに正常なものにしていくかということで、その延長線上にコミュニケーション不全をどうするかという問題があるのではないか。そのようにトータルに考えるべきではないか。
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日本の学生が中国人にまじって発言する機会があったのだが、その時、私が非常に心配したことが1つある。それは日本人の教育である。中国人の発言の方は、日本語の子もいたけれども、自分の言いたいことを非常に明確に言う。ところが日本人の留学生の発言は論理が通らない。まさにコミュニケーションの訓練をしていないような感じがする。
というわけで、今、理科教育の前に社会コミュニケーション不全という話をなさったけれども、まさに、もう少しうまく話をする訓練というのを文科省としてお考えになったらどうだろうか。ディベートが下手だとよく言われるけれども、どうもその辺の訓練が足りなかった気がする。
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私がトルコ大使をしていたときにも、日本の学生とトルコの学生との交流の会議がありまして、おっしゃるとおり、トルコの学生たちは極めて明確に、はっきり用語で言う。ところが、日本を代表する学生たちは本当に自己主張ができない。これはかなり根本的な問題だと思っている。それは、日本の教育がどうしても、これまで受験中心であったということで、今、大きく見直しが始まっている。いかにして自ら考え、自ら主張できるかというのが新しい21世紀型教育の目標になっていると思うけれども、これをカリキュラムにどのように反映してくかということが、今後の大きな課題だと思う。
今の科学技術コミュニケーションのお話を聞き、大変興味深く思ったのだが、「科学技術コミュニケーション」と言う場合に、科学技術の先端を走っているような研究者がその角度から一般の市民ないし子どもたちにその中身を教える、あるいは関心を広げるというミッションと、それから、一般的に科学技術リテラシーのような基礎的な教養みたいなものをこれからどう持つべきかというミッションと、2種類あるように思う。
これは小林先生にお聞きしたいのだが、大学の教育において、学部ないし大学院のときに理系をしっかり持った人が、その角度から物理なら物理、あるいは工学なら工学というベースの上に、そういう人は、科学技術に関する他の色々な分野でも説明する基礎知識がしっかりしているわけだが、そういう知識、技術の上に立ってコミュニケーションの能力を付加していくのがいいのか、それとも一般教養的なものを終わった段階で科学技術コミュニケーションという角度の新たなプログラムで新しい専門家をつくっていくのか、どちらを推進していかれるかどうかは、狙いを何処に定めるか、あるいは方法論は何かといったことを考えていくのに非常に大事ではないかと思うので、今のお考えを聞かせていただきたい。
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小林副センター長) それは大変重い問題であり、先ほどコミュニケーションをツールのように考えてはいけないという声があったから、そういう意味では、学部の段階でのコミュニケーション能力の育成は、科学技術コミュニケーションと「科学技術」という言葉をつけずにやるという意味では、私は、やってもいいと思う。大学院のレベルでは、将来、社会の中で専門家として振る舞わなくてはいけないという責任感を持つ人材が、しかし、社会の中で専門家として働くために自分はどういうスタンスを持たなくてはいけないかということを教える、そういう意味で、我々は、とりあえず大学院に焦点を絞っている。それは、いわば信頼される専門家になってほしいということなのである。その専門家になる人々というのは、当然のように、従来どおりの科学技術に対する専門的な研究能力を保持した上で、社会から信頼される専門家的な能力をできれば身につけてほしい。現実問題としては、これは全員は無理かもしれないけれども、そういうことが重要だという意識を大学院の段階で与えておくことが、将来において、そういう活動に対してネガティブな意識をお持ちにならなくなるだろうと思う。その2段構えでやっていかないとうまくいかない。学部生は、またちょっと別の対応を考えている。
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先ほど渡辺先生のお話の中で山腹と裾野というお話があった。小林先生は、山腹のところを意識しているということだったけれども、私は、それよりむしろ山頂から直接コミュニケートする専門家、要するに科学を社会に広めていく、そういう意識も非常に重要だと思う。それは、山頂にいるすべての人間ができる仕事ではない。それぞれの持ち味というか、特性があって、非常にそれに関心を持ち、意欲を持ち、なおかつ最先端の研究を進めている、そういう人がいる。この中にも何人かおられると思うけれども、そういう方々のコミュニケーションの実績というのは、ものすごく効果がある。そうでない方は、コミュニケーションはそういう方に任せて、研究に邁進してもらいたい。それから、先ほどの図の山腹に相当するところはむしろ最先端の研究よりも、むしろコミュニケーターとしての仕事に熱意を持つ、そういう方がいてもいい。だから、小林先生のところで大学院全体でそういう研究をなさっているということは、全員にそういった素養を身につけさせようというお考えなのかなと、まず最初に不思議に思ったのだが、それは先ほどのご説明を伺って、そうではないことがわかった。
ただ、私は、その両方があっていいと思う。大部分の科学者にはその必要性に対する認識を持ってもらう。その中で、特にそれに対してすぐれた才能を持っている最先端の研究者には、大いにその力を発揮してもらう。その前者について言うと、これは一般的に言えることだけれども、今の日本の大学、研究者の養成機関はどこでもそうだが、コミュニケーターとしての実績に対する評価が必ずしも備わっていない。この評価をどうするか、それを持ち込まなければいけない。そうすれば一般の教育者も大いにそれに関心を持つ。また、自分はそんなことよりも自分の研究がおもしろいから、一生懸命やる。それはそれであっていいと思う。したがって、2本立てでいい。
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小林副センター長) 全員には無理だと申したが、できるだけそういう感覚を持つ人が増える方がいい。それから、評価とおっしゃったが、これは評価という言い方でいいのか、最終的には評価につながると思うけれども、大学全体としてに、コミュニケーション能力は大学人の当然の能力なんだというカルチャーを持つことがすごく重要である。
もう一つは、この「コミュニケーションをする」とか「コミュニケーションを考える」という分野は、理科系の研究をしている人が片手間でできるほど簡単な仕事ではなく、こういう問題を考えるための議論をする、そういう専門家がどうしても必要になる。大量には要りませんが、余りに日本では少な過ぎるために、コミュニケーションの需要だけは広がっているけれども、今、こういうものをちゃんと大学でやろうとするときの人材は全然足りない、そういう状況である。だから、そういう意味での新しいタイプの専門家は要ると思う。
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私のようにメディアにいると、「落ちこぼれたからメディアに来た」と言う人が結構多い。私はそういう人に会うと、そんな人が市民に科学技術を伝えられるのかと憤りを感じていた時期がある。改めて、では、私は落ちこぼれたのかなと考えることがある。そのときに、自分が携わっていた科学というのは、市民とか社会にとって一体どういうものだったんだろうかとか、それから、もし自分が研究者をやめても、外から何らかの形で応援できるのではないかとか、メッセージを伝えられるのではないかとか、いろいろなことを考えた。そういう意味で、文脈の話はとてもよくわかって、小林先生の話も「ああ、そうか」と私は肯定した。
それで、今、私が見ていて、科学技術コミュニケーターについて色々なところで考えられているが、1つ気になるのは、自分の研究をわかりやすく伝えることは皆さんお上手になるけれども、科学というのは市民にとって何なんだろうということも、一般の人は知りたい。昔は科学者でも大御所と言われる人たちが、そういうことをきちんとおっしゃっている。つまり、自分の研究をわかりやすく言うだけではなく、自分がなぜ科学者になったか、科学者として社会でどういうふうな生き方をしたらいいかということをちゃんとおっしゃっている。そこまでコミュニケートできる人を専門家の中につくってもらいたいという意味で、研究者に対する科学技術コミュニケーション教育というのは、私はあっていいと思う。また、裾野の話は色々なレベルで、それぞれのコミュニケーションの役割というのがあるはずである。現実に、専門家にならずにそのまま社会へ出てくる人のうち理系出身の人がメディアに入ると、科学はどんな分野のことでも知っていると思われる。ところが、今の科学教育を受けていると、何々学のどの分野のどの物性のどこという専門家はいるけれども、科学の全ての分野を理解しているわけではないので、科学部に入って「人類学の特集をやれ」と言われたら、専門分野ではない理系出身には大変である。もし専門家をやめるなら、そういうことにもすぐ対応できるような、その前のステージのコミュニケーションをやれる人を養成してもいい。
これだけ世の中みんなコミュニケーションが必要だと言っているなら、役割分担すべきであるが、いろいろな試みをみると非常にオーバーラップしている。切り分けもきちんとすべきである。そうしないと、それに費やすエネルギーが無駄になっているような気がしてしようがない。
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今の話の例を考えてみたけれども、例えば音楽を例にとってみるとどうか。そうすると、音楽をつくり出す作曲家がいる。それはオリジナルの新しい音楽を五線譜につくり出す人。それから、演奏家がいる。演奏家というのは聞かせてあげる人。しかし、演奏家と言っても単に演奏家ではなくて、いろいろなレベルの人がいる。例えば、チェロのヨーヨー・マのように毎日研鑽して、どうやって自分の腕を磨いて、どうやって伝えるかという人もいるし、ピアノができるからと子どもたちに教えるぐらいというか、趣味でひく人もいる。恐らくこの科学技術コミュニケーターというのも、研究者が作曲家だとすると、演奏家に相当するのかなと思う。その科学技術コミュニケーターが、では自分はどこに位置するのか。ヨーヨー・マになろうとしているのか、そこの部分も今、必要だと思うし、小林先生のところは、科学者というのは何か、科学というものが社会でどういうことを意味するのかということを伝える本当の専門家をどんどん育て上げてくださることが大事だと思う。それと同時に裾野の、例えば科学館でおもしろ実験、不思議実験をやって、今まで全然興味なかった人に理科のおもしろさとか興味を起こさせる、そういう人も必要だと思うので、むしろ新しい大学院の学生を教育するというなら、そこの部分、あなたはヨーヨー・マになってほしいんですよというところが新しく、今、専門としてできたのかなという気がする。
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議題2の話に入ってしまうかなと思ったので言わなかったけれども、コミュニケーターという枠組みの中では、大学の中で単に科学技術コミュニケーター養成だけではなく、科学記者の養成というのも大事になってくるのではないかと考えている。
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小林副センター長) やはり純粋科学と科学技術とでは、少し話を分けた方がいいのではないかという気がした。最近も、工学院系の大学院生からこんな相談を受けた。私は、便利な物をつくって社会の人々の役に立ちたいと思って一生懸命研究してきた。それで頑張って研究しているけれども、その結果、何かみんな忙しくなるばかりで、ちっともみんな便利になっている気がしない。だから、もうやめてしまおうかみたいなことを結構深刻な顔をして言う若手の研究者がいます。片一方で、そういうことは全く考えずに、狭いタコ壺の所でひたすら業績を上げることだけに走っている、両極分化してしまっている。私は、それは割と深刻で、次の世代の大義名分みたいなものが彼らにはうまくつかめていないということが一番重要なポイントではないかという感想を持っている。
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瀬川部長) 私はアメリカで4年、特派員生活をしたけれども、研究者の話し方や説明の仕方は、さすがに毛利委員のレベルの研究者は少ないが、全体的にみて非常にわかりやすい。日本の研究者は、わかりやすい人がたまにいるけれども、先ほど言われたように特異な存在である。まず研究者、技術者の一般的な、それこそリテラシーとして、スキルとしてみなさんに持っていただきたいという気持ちがある。もう一つは私の取材経験から言えるのは、大学、研究所の広報の仕方もアメリカは日本の説明能力よりも上だった。大学がサイエンスライターを抱えており、非常にわかりやすく広報資料をつくって報道機関に流してくる。そうすると、日々たくさん流れてくる情報の中から記者がどれかをピックアップするときに、とてもわかりやすく役に立つ。例えばAAASのEurekAlert!というウェブ上のサイトを見ていただければ分かると思う。そういう意味での科学技術の山腹の層を日本でもっと充実させてほしい。ただ、1点、これは非常にわかりやすい図だが、やはり山の形の図にすると上から落ちこぼれてしまう。落ちた人はどんどん下に行くので、これはやはり横に並べていただきたい。
私自身は、いろいろなところで挫折はしたけれども、落ちこぼれたとは思ってないし、ジャーナリストの仕事に非常に誇りを持っているという意味では、図を横にしてほしい。
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図は上も下もなしにすればいい。丸くかいて、ここのところは専門家、ここのところは啓蒙家と書けば上下関係がなくてよいと思う。
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