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別紙

平成16年11月史跡等の指定等 答申予定物件

《史跡の新指定》 13件

 カリンバ遺跡(かりんばいせき) 【北海道恵庭市】
 カリンバ遺跡は、道央に位置し、千歳川支流の旧カリンバ川に面した低位段丘面とその北側の低地面にかけて立地する。平成11年度に恵庭市教育委員会が土地区画整理事業に伴い発掘調査を行ったところ、縄文時代後期後半から晩期初頭にかけての竪穴住居、土坑、土坑墓、焼土などを検出した。土坑墓は低位段丘面に多数密集して分布し、複数の人骨が出土する合葬墓と単一の単葬墓があり、後期末の時期には長径1.5メートル以上、深さが1メートル近くもある合葬墓が増加し、多数の赤漆塗り櫛の他に頭飾り、額飾り、耳飾り、腰飾り帯、紐状製品など、これまで例を見ない漆製装身具類の他に玉類などが出土している。その後の確認調査により、遺跡全体で東西約160メートル、南北約120メートルの範囲に3000基ほどの土坑墓があるものと推定されている。また、低地面からは貯蔵穴、柱穴、焼土の他に赤色顔料、赤色顔料入りの土器、赤色顔料を粉末にする際に使用したと推定される板状の礫などが出土し、この区域が作業空間及び生活空間として機能していたことも判明した。本遺跡は、北海道を代表する縄文時代後期後半から晩期初頭の大規模な墓地であり、豊富な副葬品を持つ土坑墓群や数多くの合葬墓は縄文時代の埋葬習俗、装身文化、漆工技術を考える上で極めて重要である。

 達谷窟(たっこくのいわや) 【岩手県西磐井郡平泉町】
 岩手県南部、奥州藤原氏の拠点平泉の南西約6キロメートル、達谷西光寺の境内西側には、東西長約150メートル、最大標高差約35メートルの岸壁があり、その下部の岩屋に懸造の窟毘沙門堂が造られている。さらに、この西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。これらの岸壁を中心にした建物と磨崖仏が達谷窟を象徴するものである。『吾妻鏡』によれば、源頼朝が平泉を攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に「田谷窟」に立ち寄ったとされる。これが史料上の初見である。毘沙門堂の南側にある蝦蟇が池は発掘調査により、平泉の最盛期の12世紀から存在したことが確認された。この成果から考えると、現在の蝦蟇が池は藤原氏の時代までさかのぼり、仏堂の前面に池が伴うという浄土庭園に通じた空間構成がすでに形成されていたと考えられる。達谷窟は、藤原氏の時代から象徴的な岸壁の岩屋に仏堂を造り、その前面に池を伴う寺院であり、中世には周辺に子院を有していた。平泉における宗教施設の実態を理解する上でも欠くことのできない重要な意義をもっている。

 骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき) 【岩手県一関市】
 骨寺村荘園遺跡は岩手県南部、奥州藤原氏の拠点平泉の西約15キロメートルに位置する、中尊寺経蔵別当の所領である。中世の骨寺村に関しては、重要文化財に指定されている二葉の「陸奥国骨寺絵図」及び文書が中尊寺に伝えられており、絵図には骨寺跡、六所宮、ミタケ堂跡、白山、不動窟、若神子社、慈恵塚(じえづか)などが文字と図で記され、村の範囲や景観、内容を具体的に知ることができる。骨寺村の中心地はその遺称地、本寺(ほんでら)地区の、東西に流れる磐井(いわい)川沿いの小盆地にあり、絵図に記された寺社や岩屋などの施設が現存している。また、当時の在家の可能性のある遺跡も発掘されている。この周辺はいまも圃場整備が行われておらず、現在の用水体系や不定形の水田区画に往時の面影をとどめている。東北地方の中世村落でかつ平泉の中尊寺を支えた荘園の具体的様相を知る上で欠くことのできない遺跡であり、周辺の地形や環境、景観がともに極めて良好に保存されており、現地で絵図の世界を実際にうかがうことができる稀少な事例である。荘園を構成する遺跡として、山王窟、不動窟、白山社、駒形根神社、伝ミタケ堂跡、若神子社、慈恵塚、大師堂、梅木田遺跡、遠西遺跡、要害館跡について史跡に指定するものである。

 井野長割遺跡(いのながわりいせき) 【千葉県佐倉市】
 井野長割遺跡は、千葉県北部中央に位置し、印旛沼南の平坦な台地上に立地する。昭和44年の学校建設に伴う整地工事の際に発見され、平成10年からは確認調査が行われ、盛土遺構が環状を呈する「環状盛土遺構」であることが明らかとなった。環状盛土遺構は少なくとも5基の盛土遺構が南北約160メートル、東西約120メートルほどの楕円形に展開し、盛土内側には独立したマウンド状の盛土遺構が2基存在することが確認された。また、盛土北東側と南側では、環状盛土遺構内から延びる幅5から8メートルほどの道路跡が検出され、それらに沿って北東側では土坑墓、南側では埋設土器が存在することも明らかとなった。現存する盛土遺構は、環状盛土遺構の2基と盛土内側の2基の計4基で、環状盛土遺構南側の盛土は最大であり、比高約2.5メートル、最大長約50メートルを測る。盛土遺構の形成は縄文時代後期中葉から開始され、晩期中葉まで続いていたものと推定されている。また、盛土遺構内並びに盛土からは竪穴住居、貯蔵穴などが検出されており、環状盛土遺構内に集落が形成されていた可能性が確認された。盛土中からは土器、石器の他にシカ、イノシシ、ヤマトシジミ、コイ、ウナギなど当時の生業や環境を示す遺物や土偶、土版、石棒など祭祀に関係する遺物が多数出土しており、環状盛土遺構内で祭祀が継続して行われていたことを示している。本遺跡は、一部が欠失しているものの大規模な環状盛土遺構が現地表面でも明瞭に確認できる状態で遺存しており、極めて重要である。また、盛土遺構の実態の解明や縄文時代の社会や文化を考える上でも重要な遺跡である。

 鎌刃城跡(かまはじょうあと) 【滋賀県坂田郡米原町】
 鎌刃城跡は、米原町の東部の標高384メートルを頂点とする山稜に所在する中世の山城跡である。城跡が位置する山稜は、近江の京極領(きょうごくりょう)と六角領(ろっかくりょう)の領境であり、周辺には佐和山(さわやま)城・菖蒲嶽(しょうぶだけ)城・太尾山(ふとおやま)城・磯山(いそやま)城などが所在し、境目の城として機能した。築造年代は、明らかではないが、応仁の乱の時期には築城されていたものと考えられており、戦国期には京極家の家臣である堀氏が在城したことが知られる。元亀(げんき)元年(1570年)に堀氏は織田信長に内応するが、天正2年(1574年)に改易され、鎌刃城跡は廃城になったとされる。城跡の遺構の分布する範囲は、東西約400メートル、南北約500メートルに及び、江北(ごうほく)地方では浅井(あざい)氏の小谷(おだに)城跡に次ぐ規模である。城跡は、主郭を中心に北・南・西に曲輪を配し、主郭と一部の曲輪は、石積みを構築している。尾根の先端は全て堀切で防備され、西方尾根には連続竪堀群がみられる。平成10年度からの発掘調査の結果、大規模な総柱の礎石建物や主郭の虎口の構造などが確認され、廃城による破城の状況も確認された。遺物も16世紀後半の時期のものが出土している。このように石積み構造や大規模な礎石建物が確認され、戦国期における山城の築城技術の到達点を見ることができ、かつ廃城による破城された実態が確認された数少ない城跡として重要である。

 西求女塚古墳(にしもとめづかこふん) 【兵庫県神戸市】
 兵庫県南東部、六甲山系と大阪湾に挟まれた標高6から8メートルの扇状地上に立地する、古墳時代前期初頭の大型前方後方墳。古墳規模は全長98メートルで、埋葬施設は後方部に1基の竪穴式石室がある。この石室は慶長元年(1596年)の慶長伏見大地震による地滑りで全体の3分の1が崩れていたが、遺骸の埋葬された主室と副葬品だけが納められた副室からなっていること、石室石材にはベンガラの上に水銀朱を塗布していたことが明らかとなった。副葬品としては、主室から三角縁神獣鏡7面を含む青銅鏡12面、鉄製武器・武具、副室からは多数の鉄製武器、鉄製工具ならびに紡錘車形石製品などがある。また、後方部墳頂部を中心に山陰系の鼓形器台等を含む多数の土器片も出土している。
 古墳時代前期初頭、大陸と近畿地方を結ぶ重要な交通ルート上にあたる瀬戸内海沿岸から淀川流域には前方後円墳や前方後方墳が点々と築かれたが、西求女塚古墳はそのひとつである。副葬品は三角縁神獣をはじめ豊富であり、出現期古墳の副葬品組成を知る上で貴重な例であるとともに、石室石材への赤色顔料の塗布や、墳丘から出土した土器のあり方から、当時の葬送儀礼の様相を知ることができる。このように、出現期古墳の構造や葬送儀礼、その時代の社会を知る上で重要な古墳である。

 八上城跡(やがみじょうあと) 【兵庫県篠山市】
 八上城跡は、兵庫県の中央東端部、篠山盆地と山陰道を見下ろす丘陵に立地する、奥丹波地方を代表する有力国人波多野氏が室町時代から戦国時代にかけて本拠地とした山城跡である。標高約460メートルの高城山と標高約340メートルの法光寺山を中心に築城され、東西約3キロメートル、南北約1.4キロメートルの広大な城域を有する。波多野氏は石見国出身の土豪で、応仁の乱の戦功によって多紀郡(たきぐん)小守護代となり、15世紀後半に八上の蕪谷(かぶらたに)に奥谷城を築いた。16世紀には高城山に八上城を築き、奥谷城を登城道を守る出城に改修した。波多野氏は、管領細川氏の有力内衆として活躍し、16世紀中頃には三好長慶や松永久秀と対立して一時八上城を奪われたが、永禄9年(1566年)に奪回した。これらの抗争に備えて法光寺山に出城を構えたと推定される。波多野氏は、織田信長が上洛すると服従の姿勢を示したが、のちに毛利方につき、天正4年(1576年)に明智光秀を敗走させた。八上城は、同7年に光秀の兵糧攻めで落城して波多野氏は滅亡し、慶長14年(1609年)の篠山城築城によって廃城となった。奥丹波地方の支配拠点の中世山城跡であり、明智光秀による丹波攻略の主戦場としても著名で、我が国の歴史を考える上で重要である。

 山陰道(さんいんどう) 蒲生峠越(がもうとうげごえ) 【鳥取県岩美郡岩美町】
近世の山陰道は、鳥取と京都を結ぶ主要街道として鳥取藩が整備し、鳥取側では但馬往来(たじまおうらい)とも呼ばれた。鳥取藩は鳥取を起点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726年)の『因幡国大道筋里数(いなばのくにおおみちすじりすう)』によれば、鳥取から蒲生峠までの里程は6里12町であった。山陰道蒲生峠越は、鳥取県北東端の岩美町内の峠道で、岩美町塩谷で国道9号線から分かれて山道に入り、兵庫県境の蒲生峠で県道に合流する。県道は明治25年(1892年)に付け替えられた新道である。山陰道と県道の合流点付近には、往来人の安全を祈願して明治25年9月に建立された「延命地蔵大菩薩」の台座が残されている。岩美町教育委員会が平成10年度から12年度にかけて、土砂崩壊箇所の修復、石畳の露出、雨水処理の側溝・排水溝設置、案内板・説明板・標識の設置、東屋・ベンチの設置等を行い、峠越の山道約2キロメートルを復旧整備した。現在も林業や地域住民の生活用の道路として利用維持され、遺存状態及び景観も優れており、我が国の交通史を考える上で重要である。

 大廻小廻山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと) 【岡山県岡山市・赤磐郡瀬戸町】
 大廻小廻山城跡は、岡山市の北東部、瀬戸町と境を接する標高198.8メートルの独立小山塊の大廻小廻山に所在する古代山城跡である。城跡は、土塁築成の城壁が約3.2キロメートルにわたり山頂部から谷部まで取り囲み一周しており、3箇所の谷部には水門を伴う石塁が所在する。当地は、地元の研究者により天智朝の朝鮮式山城の可能性などが提起されてはいたが、昭和48年からの分布調査で3箇所の石塁を伴って囲繞する土塁線の全周が確認されたことにより、初めて古代山城跡として学界の注目するところとなった。その後、昭和59年からの発掘調査の結果、神籠石様の列石を版築盛土の基礎とした土塁線の構造や折れを伴った列石線、一の木戸の石塁の構造と水門の吸水・排水口、二の木戸の石塁構造などが確認された。また、城門遺構・城内建物等の遺構や年代観を示す共伴遺物は検出されていないが、類似の古代山城跡の構造からほぼ7世紀に築造された山城跡と推定できる。このように、列石を伴った土塁線及び水門を伴った石塁などの古代山城跡の遺構が発掘調査により確認されたことは、我が国古代の歴史を考える上で重要である。

10  津屋崎古墳群(つやざきこふんぐん) 【福岡県宗像郡津屋崎町】
 玄界灘に面した津屋崎町東部に広がる丘陵上には、5世紀前半から7世紀前半にかけての古墳群が南北7キロメートル、東西2キロメートルの範囲に分布する。これらは北から勝浦高原古墳群、勝浦古墳群、新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群、生家(ゆくえ)古墳群、大石岡ノ谷古墳群、須多田(すただ)古墳群、宮司(みやじ)古墳群等からなり、津屋崎古墳群と総称している。
 その中で、宮地嶽(みやじだけ)古墳は全国屈指の長さの横穴式石室をもつ7世紀前半築造の古墳で、国宝に指定されている金銅製頭椎(かぶつち)大刀、金銅製鏡板、金銅製杏葉、金銅製鞍金具、金銅製壺鐙、蓋付銅椀、銅盤、ガラス板、ガラス丸玉等が出土したことも特筆される。
 このように、津屋崎古墳群は玄界灘に面した宗像地域における5世紀前半から7世紀前半にかけて連綿と築かれた首長墓群として位置付けることができる。地理的位置を考え合わせると、海上交通を担い、沖ノ島祭祀に関わりを持つ胸形君一族の墳墓群であるという可能性が高い。なかでも、宮地嶽古墳は天武天皇妃尼子娘の父親である「胸形君徳善」を被葬者とする説が有力である。地域における首長墓の系譜がたどれる重要な古墳である。

11  唐原山城跡(とうばるさんじょうあと) 【福岡県築上郡大平村】
 福岡県東南部、周防灘に注ぐ山国川河口付近に所在する新たに発見された古代山城跡。独立した丘陵上に立地し、北方の周防灘に向かった眺望は極めて良好である。
 丘陵周囲には花崗岩製の切石列と土塁を確認し、列石線は、推定で約1.7キロメートルを測る。城内には3つの谷を取り込んで築造しており、それぞれの谷部には第1から第3水門を築成している。第1水門は北側に延びる谷部に位置し、最大の規模をもつ。石列の前面は2段積みで、奥に向かって人頭大の川原石を敷きつめている。石列の東端には城門、石列西端には花崗岩切石を多用した大規模な暗渠を設けている。第3水門は東南の谷部に位置し、中央部に花崗岩切石を用いた暗渠を設ける。水門の両側には、それぞれ2条の土塁がつながっており、付近から礎石建物も検出した。
 唐原山城跡は7世紀後半の古代山城跡で、対外関係が緊張した時代に北部九州防衛の一翼を担い、瀬戸内海方面への侵攻を食い止める目的で築造された可能性が高い。こうした性格の遺跡は対馬から近畿地方まで約30箇所で知られている。唐原山城跡は、7世紀の対外関係を示す遺跡として極めて重要である。

12  野津古墳群(のづこふんぐん) 【熊本県八代郡竜北町】
 熊本県のほぼ中央部、九州山地西麓部の標高90から110メートルの台地上に立地する古墳時代後期の4基の前方後円墳からなる古墳群。
 物見櫓古墳は墳丘長62メートルで、周濠は伴わない。埋葬施設は複室構造の横穴式石室と推定され、陶質土器や垂飾付耳飾などが出土した。姫ノ城古墳は墳丘長86メートル、周濠を含めた総長は115メートル。多数の石製表飾品を伴い、その量は福岡県岩戸山古墳に次ぐ。中ノ城古墳は本古墳群の中では最大であり、墳丘長102メートル、周濠を含めた総長は117メートルに達する。端ノ城古墳は墳丘長68メートル、周濠を含めた総長は80メートルで、埋葬施設は横口式家形石棺または石棺式石室であったと考えられる。4基の古墳は6世紀初頭から中頃にかけて築造された。
 中九州地方において、総長60から100メートルの古墳が密集する古墳群は他になく、被葬者を「火の君」一族に比定する説がある。『肥後国風土記』には、筑紫国造磐井の乱の後、「火の君」は自己勢力の温存と伸長を図ったと記されており、当該地域における古墳時代後期の政治状況を知る上で重要である。

13  角牟礼城跡(つのむれじょうあと) 【大分県玖珠郡玖珠町】
 角牟礼城跡は、大分県西部にある玖珠盆地の北側の標高577メートルの角埋(つのむれ)山に所在する中世の山城跡である。この地域は、豊前に抜ける交通の要衝地に立地し、三方を急峻な斜面で囲まれた角埋山は、天然の要害と呼ぶにふさわしい切立った険しい岩盤が露出している。城は15世紀中頃には存在していたことが史料に見える。玖珠盆地は平安時代から玖珠郡衆によって支配され、城は共同管理されていた。天正年間の島津氏による豊後への侵攻に対しても、角牟礼城は玖珠郡衆が共同で立て籠もって守ったことが知られ、当地域の拠点城郭であった。大友氏が豊後を離れたのちは、豊臣秀吉の蔵入地となり、家臣の毛利高政が入城している。平成5年度からの発掘調査の結果、本丸地区から毛利時代の櫓跡及び虎口、大手門地区から礎石立ちの門の遺構、二の丸地区から桁行5間、梁行3間の礎石建物、搦手門(からめてもん)地区から大手門地区と同規模の門跡を検出した。また、搦手門地区には穴太(あのう)積みの高さ約7メートル、長さ約100メートルに及ぶ石垣が残存している。出土遺物としては、輸入・国産陶磁器が主で、16世紀後半のものが中心であった。このように角牟礼城跡は玖珠地方の拠点的城郭であり、土造りの城から石垣を主体とした城への変遷並びにその築城技術の地方への伝播を知る上で重要である。

《名勝の新指定》 2件

 イーハトーブの風景地(ふうけいち)
鞍掛山(くらかけやま) 七つ森(ななつもり) 狼森(おいのもり) 釜淵の滝(かまぶちのたき) 五輪峠(ごりんとうげ) 種山ヶ原(たねやまがはら)
【岩手県花巻市・岩手郡雫石町他】
 日本の代表的な詩人及び童話作家である宮澤賢治(1896年〜1933年)の作品には、岩手県地方の独特の風土を表す自然の風景地が多く登場する。それらは理想の大地として賢治が名付けた「イーハトーブ」を構成する場所であり、今もなお美しい風景を伝えることから、日本中の多くの人々に愛されている。
 立地と形状から、岩手山に先行する成層火山の山体の一部が残存したものと賢治が指摘した「鞍掛山(くらかけやま)」をはじめ、「屈折率」など多くの詩作の題材となった7つの小独立丘から成る「七つ森(ななつもり)」、小岩井農場の敷地内にあり、人間関係を表す象徴的な存在として描かれた「狼森(おいのもり)」、台川(だいかわ)の峡谷底から球形に盛り上がる岩床の表面を舐めるように水が洗う「釜淵の滝(かまぶちのたき)」、仏教世界において物質の5元素とされた空・風・火・水・地をそれぞれの石に象った五輪塔にその名の由来がある「五輪峠(ごりんとうげ)」、日常生活の外側の異界へとつながる空間として描かれ、岩塊が露出することから賢治が「種山モナドノック(残丘)」と名付けたことで有名な「種山ヶ原(たねやまがはら)」の6箇所の美しい自然の風景地から成る。

 旧観自在王院庭園(きゅうかんじざいおういんていえん) 【岩手県西磐井郡平泉町】
 観自在王院は、奥州藤原氏の政権中枢として12世紀に繁栄を誇った平泉の浄土伽藍である。12世紀半ばに奥州藤原氏第二代基衡の妻が自らの居所を寺としたのが最初で、その後変転を経て、元亀4年(1573年)の一揆に伴って発生した火災により大阿弥陀堂及び小阿弥陀堂などの堂宇が完全に焼失したとされている。これまでの発掘調査により明らかとなった庭園の特質を十分踏まえ、その本質的価値の顕在化を目的として昭和48から53年度に修復・整備が行われ、現在見る旧観自在王院庭園の景観が再現された。
 滝石組は豪快な意匠・構造であるのに対し、池の護岸をはじめ庭園全体の意匠・構造は簡素であり、特に遣水は優美に湾曲する意匠ではあるが、ごくわずかの石材のみを用いたほとんど素掘りに近い構造を成す。平泉に造営された浄土伽藍の庭園の中でも独特の意匠と構造を持ち、日本庭園史上における価値が高いだけでなく、庭園全体の地割及び景観構成、遣水・滝石組・汀線等の細部の意匠・構造においても芸術上、観賞上の価値が極めて高い。

《天然記念物の新指定》 1件

 田光(たびか)のシデコブシ及(およ)び湿地植物群落(しっちしょくぶつぐんらく) 【三重県三重郡菰野町】
 三重県北部、菰野町北東部の田光にある湧水に涵養された湿地とその周辺の植物群落。鈴鹿山脈東端の扇状地性台地の下部に位置する小さな谷で、谷斜面の砂礫層から冷湧水が湧出している。三重県、愛知県、岐阜県などの東海地方の周伊勢湾地域には、このような砂礫が露出し土壌の発達の悪い湿地とその周辺を中心に生育する、固有または隔離分布する植物群があり、東海丘陵要素植物とよばれている。シデコブシはモクレン科の落葉性小高木で、この植物群の代表的な植物の一つである。
 対象地は標高約80から90メートルの、谷に沿った幅100から200メートル、長さ約700メートルの範囲である。この地域はシデコブシの日本有数の生育地であるとともに、豊富な湧水に涵養された湿地とその周辺には、東海丘陵要素植物、寒地性の植物など多くの希少な植物が生育している。また、かつては一部が水田耕作や薪取りなどに利用されたことにより、良好な光環境が維持されてきたことも、この植物群落の維持にとって重要な要因であったと思われる。シデコブシをはじめとした東海丘陵要素の植物群及び湿地生の植物群落が良好な形で保存されており、学術的価値の高い地域である。

《特別史跡の追加指定》 1件

 熊本城跡(くまもとじょうあと) 【熊本県熊本市】
 肥後一国の領主となった加藤清正によって築城された城跡で、宇土櫓をはじめ多くの重要文化財の建物が残る。今回、熊本城跡北西部の三の丸と呼ばれ、旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)や市立博物館が所在している武家屋敷跡部分を追加指定する。

《特別史跡及び特別天然記念物の追加指定》 1件

 日光杉並木街道附並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどうつけたりなみききしんひ) 【栃木県今市市】
 東照宮への参詣のために江戸初期設けられた街道で、杉並木が良好に残る並木敷の両外側各20メートルの範囲について、杉樹根保護のために継続して追加指定している。

《史跡の追加指定及び名称変更》 4件

 王塚(おうづか)・千坊山遺跡群(せんぼうやまいせきぐん) (王塚古墳(おうづかこふん)) 【富山県婦負郡婦中町】
 古墳時代前期の前方後方墳である王塚古墳に、これと相前後して展開する弥生時代末から古墳時代前期の有力な墳墓・古墳及び集落を追加指定し、併せて名称変更するもの。北陸地方におけるこの時期の地域における動向を具体的に示す代表的事例である。

 北条氏邸跡(ほうじょうしていあと)(円成寺跡(えんじょうじあと)) (北条氏邸跡(ほうじょうしていあと)) 【静岡県田方郡韮山町】
 北条氏が平安末期から鎌倉時代まで本貫地の伊豆北条に営んだ邸宅跡と、その跡に一族を弔うために建てられた円成寺跡のうち、韮山町教育委員会の発掘調査によって寺跡の遺構の広がりが確認された山裾部とその背後の山林を追加指定し、併せて名称変更する。

 豊前街道(ぶぜんかいどう) 南関御茶屋跡(なんかんおちゃやあと) 腹切坂(はらきりさか) (豊前街道南御茶屋跡(ぶぜんかいどうなんかんおちゃやあと))
【熊本県玉名郡南関町・三加和町】
 参勤交代等に使用された近世の重要な交通路で、道沿いには御茶屋など各種の施設が設置され、人々や文物の流通に活かされてきた。腹切坂は、阿蘇溶結凝灰岩の急峻な斜面であり、路面整備及び標識・道標・説明板が整備されたため追加指定し、併せて名称変更する。

 大友氏遺跡(おおともしいせき) (大友氏館跡(おおともしやかたあと)) 【大分県大分市】
 戦国大名大友氏の館跡と、鎌倉末期から戦国時代までの大友氏菩提寺の万寿寺跡のうち、館跡の北東隅部付近と主要建物跡推定地周辺部、万寿寺跡の北東部、寺跡の北側の武家地・町屋跡の各一部を追加指定し、併せて名称変更する。

《史跡の追加指定》 15件

 鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと) 【茨城県鹿嶋市】
 『常陸国風土記』にもみえる我が国を代表する古社。南に隣接して8世紀から10世紀にかけての鹿島郡家跡(役所跡)が所在し、郡庁院、正倉院、鍛冶工房跡等の遺構が見つかっている。今回、条件の整った郡家跡の周辺一帯を追加指定する。

 小山氏城跡(おやまししろあと)(鷲城跡(わしじょうあと) V園城跡(ぎおんじょうあと) 中久喜城跡(なかくきじょうあと)) 【栃木県小山市】
 関東の名族小山氏の中世城跡群のうち、室町時代から戦国時代にかけて小山氏が本拠地としたV園城跡の南端地区の一部を追加指定する。

 下野国分寺跡(しもつけこくぶんじあと) 【栃木県下都賀郡国分寺町】
 奈良時代の国分寺・尼寺建立の詔に基づいて国ごとに設置されたもので、南大門・中門・金堂・講堂が中軸線上に並び、中門と金堂が回廊で結ばれ、回廊の東方東側に塔を持つ伽藍配置が確認されている。今回、南大門前面を中心とする地域を追加指定する。

 下布田遺跡(しもふだいせき) 【東京都調布市】
 武蔵野台地南縁部に位置する縄文時代晩期の遺跡。方形配石遺構、合口甕棺墓、配石甕棺墓、土坑、焼土、集石遺構等、祭祀や墳墓にかかわる遺構と遺物を確認している。今回は条件の整った部分と新たに良好な遺物包含層を確認した地域を追加指定する。

 武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと) 【東京都国分寺市、府中市】
 奈良時代の国分寺・尼寺建立の詔に基づいて国ごとに設置されたもので、発掘調査の結果、8世紀から11世紀にいたる3期にわたる遺構の変遷や東西8町、南北5町の寺院地などが確認された。今回、南大門南西部と寺院地南方で確認された参道口を追加指定する。

 斐太遺跡(ひだいせき) 【新潟県新井市】
 新潟県南西部の高田平野を臨む丘陵の尾根上に立地する、弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての高地性の環濠集落跡。保存状況が良好で、当該時期の集落構成を知る上で重要である。今回、既指定地南側の丘陵部で確認された竪穴住居等の密集している集落部分を追加指定する。

 九谷磁器窯跡(くたにじきかまあと) 【石川県加賀市・江沼郡山中町】
 九谷焼は近世前期では希有な色絵磁器で、加賀南部の山間部、九谷の地で生産開始されながらまもなく生産停止した。発掘調査で明らかになった九谷の磁器生産工房遺跡と近世後期に山代の地で再興された吉田屋窯跡を追加指定する。

 高天神城跡(たかてんじんじょうあと) 【静岡県小笠郡大東町】
 戦国時代に遠江の支配権をめぐって武田氏と徳川氏が争奪を繰り返した山城跡のうち、大東町教育委員会の測量調査で遺構と旧地形の広がりが確認された丘陵の一部を追加指定する。

 紫香楽宮跡(しがらきのみやあと) 【滋賀県甲賀市】
 奈良時代中頃に聖武天皇が造営した都城。内裏、大極殿、朝堂院に相当する施設や官衙群をも備えた本格的な宮殿跡が新たに判明した。奈良時代中頃の宮殿遺跡として極めて重要であり、今回追加指定する。

10  難波宮跡附法円坂遺跡(なにわのみやあとつけたりほうえんざかいせき) 【大阪府大阪市】
 大阪上町台地上に所在する、7世紀から8世紀末まで存続した古代の宮跡。前後2時期の遺構が見つかっており、後期難波宮は聖武天皇の時代、前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とする見方が有力。今回、条件の整った部分を追加指定する。

11  土塔(どとう) 【大阪府堺市】
 奈良時代の神亀4年(727年)、僧行基と彼に従う民衆等が築いた、大野寺の塔跡。土を盛ってその上に瓦を葺いた十三重の塔で、頂部をカットした方錐形をなす。行基に従った人々の名前をヘラ書きした瓦が多量に出土。周辺部を追加指定する。

12  法華寺旧境内(ほっけじきゅうけいだい)(法華寺境内(ほっけじけいだい) 阿弥陀浄土院跡(あみだじょうどいんあと)) 【奈良県奈良市】
 奈良時代、平城京に所在した寺院。藤原不比等の邸宅、光明皇后の皇后宮を経て天平17年(745年)に宮寺、ついで大和国分尼寺となった。光明皇太后追善のため築かれた子院の阿弥陀浄土院の園池も見つかっている。今回、阿弥陀浄土院跡の周辺を追加指定する。

13  石見銀山遺跡(いわみぎんざんいせき) 【島根県大田市・邇摩郡温泉津町・仁摩町】
 14世紀初めに発見されたと伝えられ、16世紀初めに灰吹法による銀精錬が行われる中で銀山開発が急速に進み、産銀量が増加し、我が国有数の銀鉱山となった。また、大航海時代において、アジアを中心に大量の銀流通をもたらすことにより、東アジア経済に影響を与えた。今回、積み出し港につながる街道と発掘調査によって確認された工房跡を追加指定する。

14  穴観音古墳(あなかんのんこふん) 【大分県日田市】
 古墳時代後期の円墳で、代表的な装飾古墳。横穴式石室の壁面に幾何学文や人物、舟、鳥などを赤・緑色で描いており、装飾古墳として古くから著名である。今回、確認調査で新たに判明した周溝部分を含む地域を追加指定する。

15  指宿橋牟礼川遺跡(いぶすきはしむれがわいせき) 【鹿児島県指宿市】
 縄文から平安時代の集落遺跡で、縄文土器と弥生土器の新旧をはじめて層位的に証明した遺跡として学史的に著名。平安時代の集落跡が開聞岳の火山灰に覆われて良好に残り、『日本三代実録』の噴火記事と対応する。今回、新たに条件が整った地域を追加指定する。


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