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別紙

平成16年5月史跡等の指定等 答申予定物件
《史跡の新指定》 17件


 聖寿寺館跡(しょうじゅじたてあと) 【青森県三戸郡南部町】
 聖寿寺館跡は、青森県南東部、奥州街道と鹿角街道の合流点付近、馬淵川沿いの交通の要衝に立地する、南部氏本宗家の室町時代から戦国時代の本拠地である。南部氏は甲斐源氏の支流で、南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえた、東北地方を代表する武士団である。盛岡藩の史書では、南部氏は14世紀末頃から聖寿寺館を本拠地としたが、天文8年(1539年)に家中の内紛によって焼亡したとされている。発掘調査で掘立柱建物跡、竪穴建物跡、竪穴遺構等が検出され、北東部で検出された東西6.2メートル、南北14.2メートルの大型竪穴建物跡は、青森県内では中世で最大規模の事例である。出土遺物の年代幅は15世紀前半から16世紀前半で、聖寿寺館の存続期間が文献史料と一致することが確認された。南部氏の菩提寺の三光寺、氏神の本三戸八幡宮等の宗教施設も良好に残っており、東北地方の歴史を考える上で重要である。


 五所川原須恵器窯跡(ごしょがわらすえきかまあと) 【青森県五所川原市】
 五所川原須恵器窯跡は、青森県五所川原市東部に位置し、標高約35〜200メートル前後の丘陵上や前田野目川の支流沿いに点在する。小支谷に挟まれた丘陵先端部を利用して構築しており、1地点に1基あるいは2基が構築され、群在することはない。窯跡群は原子支群、持子沢支群、前田野目支群からなり、構造は無階無段の登り窯で、形態は持子沢支群では窯尻にかけて先すぼまりの形状を呈し、前田野目支群では幅が一定の形状を示すなど違いも見られる。操業時期は9世紀後半から10世紀後半と考えられている。生産された器種には杯、皿、蓋、鉢、壺、甕があり、いずれの器種にも文字や記号などのヘラ描きが見られる特徴がある。また、器種は当初食膳具、貯蔵具の比率が1:1であったものから貯蔵具中心へと変化している。本窯跡は日本列島最北の窯跡であり、ここで生産された須恵器は青森県内のみならず、秋田県・岩手県北部、北海道ほぼ全域の集落遺跡から出土している。9世紀後半以降津軽地方では集落数が急増し、米、鉄、塩等の生産が活発化する。このような状況の中で、須恵器生産もまた開始される。本窯跡は古代国家の支配が及ばなかった地域の人々の生産及び流通を理解する上で極めて重要な遺跡と考えられる。


 国見山廃寺跡(くにみさんはいじあと) 【岩手県北上市】
 岩手県中部、北上川東岸の丘陵地にある古代の山岳寺院跡である。標高約245メートルの国見山南麓の内門岡集落には国見山極楽寺があり、それを囲む北、西、南の丘陵上、標高150メートル〜200メートルに立地する。平安時代の9世紀後半にいくつかの建物が確認され、10世紀後半から11世紀にかけては最も数多くの建物遺構が確認され分布域も拡大し、当廃寺の最盛期と考えられる。七間堂建物は南斜面を造成して建てられており、須弥壇が伴いその前面に8間の廂を付ける構造であり、規模から見て中心的な仏堂と考えられる。離れた尾根上には多重塔が建立される。丘陵上に立地する建物は12世紀になると急速に衰退する。
 国見山廃寺跡は文献にみえる極楽寺とは確定できないが、中央政府の出先機関である胆沢城の北約10キロメートルにあり、国家北辺を鎮護するような位置にある。当廃寺の最盛期には、周辺にいくつかの廃寺跡が確認されており、この地域における仏教の普及が知られる。調査で明らかとなった大規模な山岳寺院としては我が国最北の事例であり、古代国家北辺における仏教の普及を具体的に物語る重要な遺跡である。


 脇本城跡(わきもとじょうあと) 【秋田県男鹿市】
 脇本城跡は秋田県中部、日本海に突き出た男鹿半島付け根南岸の丘陵上に展開する大規模な山城で、中世末の安東氏の居城である。安東氏は津軽地方の豪族であり、その勢力は津軽地方から北海道南部に及ぶ。築城は元亀元年(1570年)ころで既存の城を改修し、16世紀末から17世紀初頭に廃城となった。脇本城跡は海に面した標高100メートル前後の丘陵上に展開する。城跡から眺望がすばらしく、城跡直下の海岸には脇本港がある。城跡は、内館地区、馬乗場(古館)地区、兜ヶ崎地区の3地区からなる。内館地区は日本海に最も近く、分布する遺構は大規模であり、城郭の中枢をなす。馬乗場(古館)地区は丘陵中央に位置する。広く平坦面を確保するよう整地を行い、道路と屋敷が連続して配置される。兜ヶ崎地区は東側の独立した丘陵に立地する。丘陵東側の裾には安東氏ゆかりの寺院が存在し、日本海に沿った平地には、城下集落と見られる脇本の集落がある。脇本城跡は日本海交通の要衝の地に位置し、直下に港を備えており、安東氏の活動拠点としてふさわしい大規模な山城である。城跡に関係する寺院群や城下の集落を含めて広大な城域が環境・景観とともによく保存されている。


 西鹿田中島遺跡(さいしかだなかじまいせき) 【群馬県新田郡笠懸町】
 群馬県南部、笠懸町に所在する縄文時代草創期の遺跡である。遺跡が所在する舌状台地の平坦部から南側緩斜面にかけての東西150メートル、南北120メートルの楕円形の範囲で当該期の遺構や遺物が分布する。土器片、石鏃、有茎尖頭器など、3000点以上の遺物が出土し、放射性炭素年代測定法で11200プラスマナス40年B.P.とされた厚手爪形文土器の時期と、10110プラスマナス70年B.P.とされた薄手爪形文・多縄文系土器の時期に分かれる。前者では土坑群や土器等の集中部が検出された。このうち、土坑は底面で土器底部片や堅果類が検出されたもの、埋土に多量の炭化物や焼土を含むものも見られ、貯蔵穴とされる。後者では、住居と推定される竪穴2基、土坑、集石、土器の集中部が検出された。2基の竪穴は、ともにすり鉢状に浅く窪む。柱穴や炉跡は未検出だが、床面や埋土に土器片、石鏃、炭化物などが多く見られる。本遺跡は、東日本において、竪穴、貯蔵穴、集石といった定住生活を支える一連の施設が備わっていく状況をよく示すとともに、同時期の遺跡の中では大規模なものであり、東日本における縄文時代的な生活様式の開始期の年代やその具体的な内容を考える上で重要である。


 韮山役所跡(にらやまやくしょあと) 【静岡県田方郡韮山町】
 韮山役所跡は、江戸時代の世襲代官で代々太郎左衛門を名乗った江川家の幕府代官役所跡である。江川氏は、清和源氏宇野頼親(よりちか)を祖とし、初め大和国奥之郷宇野にいたが、のちに伊豆国八牧郷(やまきごう)江川に移り、姓を江川に改めた。室町時代以降は後北条氏に領地を安堵され、慶長元年(1596年)に徳川家康により世襲代官に任用されたのである。当初は伊豆・相模・武蔵の幕領を支配したが、幕末には駿河・甲斐などを加え26万石を支配したとされる。代官として支配地の年貢徴収や民政全般に対応し、特に幕末の36代英龍は、早くから海防問題に着目し、幕府の軍事顧問として軍制改革に関わり、反射炉による大砲鋳造や農兵設置に尽力し、敷地内に江川塾を開設するなど地域の子弟の教育にも力を注いでいる。役所としての機能は、明治維新後も存続し、郡役所が敷地外に出るまで伊豆地域の中心として機能したのである。敷地内には江戸期に建てられた主屋や仏間、門、武器庫、書院、鎮守社などの重要文化財の建物が残り、代官役所跡としての佇まいを今に遺している。このように江戸期を通じての世襲代官として広大な地域を支配し、当時の建物も良好に残っていることは、我が国近世の地方支配のあり方を考える上で重要である。


 菊川城館遺跡群 高田大屋敷遺跡 横地氏城館跡(きくがわじょうかんいせきぐんたかだおおやしきいせきよこちしじょうかんあと) 【静岡県小笠郡菊川町】
 菊川城館遺跡群は、静岡県南西部、菊川流域の小地頭領主下郷内田氏の方形居館跡と、有力武士横地氏が本拠地とした城館跡で構成される中世遺跡群である。高田大屋敷遺跡は、下郷内田氏の本拠地で菊川と上小笠川の合流点付近、信州へ塩等を運んだ秋葉街道に隣接する交通の要衝を押さえていた。下郷内田氏は14世紀に島根県に本拠を移し、庶子の俣賀家に多数の中世文書が伝来している。戦国時代の遺物も出土しており、下郷内田氏以降も何らかの施設が営まれたと考えられる。横地氏は、東遠江地方を代表する有力武士で、当初は鎌倉や京都で活動したが、15世紀に活動拠点を東遠江の横地に移した。12世紀から15世紀後半にかけて、菊川水系の小河川沿いの谷部と丘陵部に居館、屋敷、寺院、墓所、山城等を連続して営んだが、遠江へ侵出した今川氏によって滅ぼされた。小領主の方形居館跡と有力武士が本拠地とした城館跡が良好に遺存しており、東遠江地方の中世武士の存在形態を示す遺跡として重要である。


 芦浦観音寺跡(あしうらかんのんじあと) 【滋賀県草津市】
 芦浦観音寺跡は、草津市の北部の東は中山道の守山宿、西は草津三港の一つである志那港に出る水陸両交通の要衝に立地している。寺は、白鳳寺院跡として周知されているが、この寺の衰退のあと室町期に天台宗の僧歓雅(かんが)が中興したとされる。その後、戦国期から江戸期にかけての八世賢珍(けんちん)・九世詮舜(せんしゅん)・十世朝賢(ちょうけん)の時に観音寺は政治的に大きく力をつけていく。詮舜は、豊臣秀吉の下で近江国内の蔵入地(くらいりち)の代官と琵琶湖湖上水運全体を管掌する船奉行として活躍し、朝賢は、徳川家康により湖南・湖東を中心とする幕領の代官及び船奉行として、また永原御茶屋御殿(ながはらおちゃやごてん)の作事奉行にも任用されている。境内には阿弥陀堂や書院などの重要文化財や蔵・門が所在し、周囲は堀と土塁が巡り、表門を中心として石垣を築いている。その寺観(じかん)は中・近世の城郭を思わせるものである。この景観は、江戸初期のものとされる「芦浦観音寺境内絵図」と一致するものであり、当時の状況がよく遺されていることがわかる。このように戦国期から江戸初期にかけて琵琶湖湖上交通を管掌する船奉行など重要な役割を担った寺跡が、その遺構とともによく保存されていることは我が国の中世から近世に至る歴史を考える上で重要である。


 明石城跡(あかしじょうあと) 【兵庫県明石市】
 明石城跡は、江戸時代、明石一帯を治めた明石藩主の居城の跡である。京・大坂に至近の地である明石は、江戸幕府が西国諸藩に対する押さえの地として重要視し、譜代・親藩大名が明石藩主となった。明石城の造営は、大坂夏の陣の戦功で明石藩10万石の藩主となった小笠原忠真が行い、一部の工事は幕府直営で実施され、元和6年(1620年)4月に完成した。本丸の東側に二ノ丸、三ノ丸(後の東ノ丸)を配し、本丸西端に天守台が設けられたが、天守閣は築かれなかった。本丸西側の高石垣下に西ノ丸、その西に捨曲輪を置いた。本丸・二ノ丸・三ノ丸の南面に大曲輪を設け、下屋敷と家老等の屋敷を作った。大曲輪を取り囲むように堀と土居が西、南、東に巡り、城の北側は自然地形の谷を堀として利用し、これを鴻ノ池(後の剛ノ池)とつなぎ、ほぼ四周を水堀で区画するものであった。資料として、築城当初の様子を描いた「播磨国明石新城図」(『小笠原忠真一代覚書』)、正保城絵図等多数の絵図・史料がある。明治の廃城令の後、変遷を経て県立明石公園となった。現在、本丸等の石垣、大曲輪の堀をはじめ、巽櫓・坤櫓(ともに重要文化財)が現存する。我が国近世の幕藩体制を知る上で重要な城跡である。


10  益田氏城館跡(ますだしじょうかんあと) 【島根県益田市】
 益田氏城館跡は、島根県西端に位置し、益田川沿いに立地する平地居館の三宅御土居跡と山城の七尾城跡で、豊富な中世文書を伝えた石見国最大の武士団、益田氏の南北朝時代から戦国時代の本拠地の城館跡である。益田家文書等から、本拠地を居館から山城へ移し、再び居館へ戻した年代と経過が知られている。三宅御土居跡は、14世紀後半から16世紀中頃まで益田氏の本拠であった。七尾城跡は、益田平野を一望する山城で、14世紀前半頃に築城された。16世紀中頃に毛利氏との対立緊張関係の中で大改修され、益田氏の本拠となったが、益田氏は16世紀後半に三宅御土居を改修して再び本拠地を移した。発掘調査の成果と文献史料の研究成果が一致し、遺構の遺存状態も極めて良好であり、中国地方の歴史を考える上で重要である。


11  快天山古墳(かいてんやまこふん) 【香川県綾歌郡綾歌町】
 快天山古墳は、香川県のほぼ中央部の尾根先端に立地する前方後円墳である。発掘調査の結果、全長98.8メートル、前方部3段、後円部に3段もしくはそれ以上の段築を有する前方後円墳であることが明らかとなった。また、葺き石が施されていたこと、テラスには3〜4メートル間隔で円筒埴輪が配されていたことも判明した。埋葬施設として後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨が確認され、いずれも刳り抜き式の割竹形石棺を有していた。副葬品は盗掘を受けていたが、方格規矩四神鏡、鉄刀・鉄剣・鉄鏃、鉄斧・鉄鑿、刀子、石釧、管玉・勾玉などが出土した。古墳の築造年代は、4世紀中頃であったと考えられている。
 快天山古墳は四国屈指の規模を持ち、主体部に採用された割竹形石棺は最古期に位置付けられ石棺の成立や展開を考える上で欠かせないものであり、また、讃岐地域だけでなく畿内地域を含めた古墳時代の政治状況を考える上で極めて重要な古墳である。


12  鴻臚館跡(こうろかんあと) 【福岡県福岡市】
 鴻臚館跡は、福岡市中央部、史跡福岡城跡の平和台野球場跡を中心とする地域に所在する古代の外国からの賓客を持て成すために造られた客館施設の遺跡である。鴻臚館は、平安時代に平安京・難波・筑紫の3個所に設置され、筑紫の施設は7世紀末から奈良時代にかけて大宰府において客館として使われた筑紫(つくしの)館(むろつみ)に遡るといわれる。昭和62年12月の平和台野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、柱穴列と大量の輸入陶磁器が確認され、翌年度から全容解明のための調査が実施されたものである。遺構は、大きく7世紀後半から11世紀前半までの5期の変遷を経ており、そのうち1〜3期においては掘立柱建物や方形に区画された門を伴う柱穴列、礎石建物跡などが確認された。4・5期は遺物の出土で確認される。遺物は、大量の瓦のほか中国・イスラム・新羅産(しらぎさん)などの輸入陶磁器が多量に出土している。また、8世紀前半代のトイレ遺構からは籌木(ちゅうぎ)に使用した多量の木簡が出土した。木簡の内容は、ほとんどが付札で各地から運ばれた食料に関したもので客館での饗応に関わるものであった。このように我が国古代において外国の賓客をもてなすために使用した客館が、発掘調査の結果、遺構の変遷と規模、出土遺物からその内容が確認されたことは、対外交流の歴史を考える上で重要である。


13  大村藩主大村家墓所(おおむらはんしゅおおむらけぼしょ) 【長崎県大村市】
 大村藩主大村家墓所は、江戸時代、大村藩を治めた大名である大村家の墓所である。大村氏は戦国時代に大村地方に覇をとなえ、戦国時代末期の純忠は日本最初のキリシタン大名として有名である。江戸時代に至り純忠の息子で初代大村藩主となった喜前は、領内のキリスト教を積極的に禁止して日蓮宗を軸とする宗教政策を行い、大村家の菩提寺として慶長13年(1608年)本経寺を建立し、領内宗教政策の中核寺院とした。本経寺境内には江戸時代後期の本堂等が遺り、本堂の西南側に、初代藩主喜前から幕末の十一代純頼に至る歴代藩主の墓塔をはじめ、藩主の正室側室、子女等の墓塔、大村藩家老を勤めた松浦家の墓が営まれた。笠塔婆、五輪塔、石霊屋等、多様な様式の墓塔が建ち並び、巨大な墓塔が多い。特に三代藩主純信、四代藩主純長の墓塔は、高さ6メートルを超える巨大な笠塔婆様式で塔身に大きく戒名を刻むものであり、幕府の禁教政策強化の中で、かつてキリシタン大名であった過去を払拭し、仏教信仰をより明確に示す意図があったものとも推測されている。このように、多様な様式の墓塔と巨大な規模の墓塔は大村家墓所に特有のものであり、江戸時代の宗教政策と近世大名大村家の立場を知る上で重要である。


14  佐土原城跡(さどわらじょうあと) 【宮崎県宮崎郡佐土原町】
 佐土原城跡は、北に一ツ瀬川が流れ、東に開き、北、西、南の三方を山塊で囲まれ、内部に居館地域を含む中世から近世に当地域の支配に使われた城跡である。この地域は、鎌倉期以降、伊東氏の一族である工藤氏や田島氏が城を構えたとされ、室町期に伊東氏が田島氏を滅ぼした後、16世紀中頃の伊東義祐の時代には日向の中心的城郭となった。16世紀後半に島津氏との戦いに敗れ、伊東氏が日向から退いた後は、島津氏が当地を治めた。江戸初期には佐土原3万石として島津以久(もちひさ)が封ぜられ、明治初めまで当地域の政治・経済・文化の中心として機能することとなる。城跡は、南北二つの山塊からなる山城部と、山城部により馬蹄形状(ばていけいじょう)に囲まれた居館部とで構成される。山城部は、本丸・南の城・松尾丸などの曲輪(くるわ)を配し、各曲輪は堀、土塁などで区画されている。天守台跡、櫓台跡(やぐらだいあと)、門跡なども確認されている。発掘調査の結果、山城部から掘立柱建物跡や天守台の礎石建物跡などの遺構や金箔鯱瓦(きんぱくしゃちがわら)を含む瓦、14世紀の陶磁器などの遺物が確認された。居館部からは堀跡、礎石や掘立柱建物跡、井戸跡、門跡などの遺構や14〜19世紀の陶磁器などの遺物が確認されている。このように中世から近世まで一貫して地域支配の拠点として使用された城跡として我が国の歴史を考える上で重要である。


15  本野原遺跡(もとのばるいせき) 【宮崎県宮崎郡田野町】
 本野原遺跡は、宮崎県央の田野町南部に位置し、標高約180メートル前後の台地上に立地する集落遺跡である。集落は径80〜100メートルの範囲をすり鉢状にアカホヤ火山灰を大規模に削平、除去した後に、広場と考えられる空閑地を中心に土坑、掘立柱建物、竪穴住居が径100メートルほどの環状に配置される構造である。広場は祭祀空間と見られ、中央部に配石や土坑が構築されている。竪穴住居は環状の北側及び東側に集中し、重複が激しい。土坑は空閑地に接して外側に分布し、中から炭化した堅果類が出土したものがある。また、骨粉が出土した土坑もあり、墓坑の可能性がある。環状の北側には掘立柱建物が整然と南北方向に並ぶ。南東部の斜面からは大量の土器が出土していることから、捨て場が形成されていたものと考えられる。集落の北西部には硬化面を持った道路が確認されている。出土遺物では土器が多く、石器では磨り石や石皿などの食料加工具の比率が高い特徴がある。さらに土製円盤も多く出土している。
本遺跡は集落構造及び出土遺物から見て、南九州を代表する縄文時代後期の拠点的集落と考えられ、この地域の縄文社会・文化を考える上で極めて重要な遺跡である。また、環状を呈する集落構造全体が判明したものとしては当該地域における初めての事例である。


16  清色城跡(きよしきじょうあと) 【鹿児島県薩摩郡入来町】
 清色城跡は、清色川左岸で標高約100メートルを最高地点とするシラス台地に築かれている入来院氏(いりきいんし)の山城跡である。城の東側の清色川との間に展開する麓(ふもと)集落は、中世から近世に至る入来院氏と家臣団の屋敷地域であり、当時の景観をよく残し、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。鎌倉期に渋谷光重(しぶやみつしげ)が恩賞として薩摩郡の入来院(いりきいん)・高城(たかしろ)・東郷(とうごう)・祁答院(けどういん)・鶴田(つるた)の地頭職(じとうしき)を得、子供5人にそれぞれ分割相続し、5人はそれぞれの土地に定着し、その地名をとって名字とした。入来院氏は、南北朝期に在地豪族として力をつけていき、この頃に清色城は築かれたものと考えられている。戦国期には戦国大名となった島津氏の家臣となったが、当城と所領は安堵(あんど)された。江戸期には、当主が鹿児島に在住し、城は廃城となった。城跡は、南北約600メートル、東西約750メートルの規模を測り、南西方向から北東方向に延びる尾根筋上に曲輪(くるわ)を設けている。尾根の地形を生かして16の曲輪群を設け、本丸・松尾城・西之城・中之城・求聞持城(くもんじじょう)・物見之段(ものみのだん)などの名称が付けられている。空堀(からぼり)はシラス台地の特徴を活かし、切り立った構造となっており、特に本丸周辺には巨大な空堀と三重の曲輪を配している。入来院氏は、中世からの相伝(そうでん)の文書が遺されており、我が国中世武家社会の研究の重要な史料とされている。このように中世薩摩地方の在地豪族として活躍した入来院氏の居城が良好に残っていることは、我が国中世の歴史を考える上で重要である。


17  国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう) 【沖縄県国頭郡恩納村】
 国頭方西海道は、琉球王朝の首都であった首里(しゅり)と国内各地を結ぶ道の一つであり、15世紀後半以降の第二尚氏(だいにしょうし)時代には海上を含むすべての道が首里に通じる道として整備されたとされる。このうち西海道は、首里の西原間切(にしはらまぎり)から浦添(うらそえ)・北谷(ちゃたん)・読谷山(ゆんたんざん)・金武(きん)・名護(なご)・今帰仁(なきじん)・国頭(くにがみ)の各間切を通る道筋である。恩納(おんな)村を通る西海道は、読谷から多幸山(たこうやま)、山田城跡や恩納城跡の下を通過する道であり、人々や文物の交流を担った主要道路であった。その中で読谷の喜名(きな)から恩納を経て、国頭地方に向かう道を「国頭方西海道」と称した。道幅は、約2.4メートルでその両側に松並木が植栽されていたとされる。国王や役人を待ち歓迎するための広場であった真栄田の御待毛、土や炭を混ぜ合わせて造られた真栄田(まえだ)の一里塚、谷や川に架けられた石矼(いしばし)、琉球石灰岩の石を敷いて石畳道とした比(ひ)屋根坂(やごんびら)、仲泊(なかどまり)集落の中にある自然の丘を利用した仲泊の一里塚などが所在する。このように琉球王朝時代の道である国頭方西海道が各遺跡とともに良好に残っていることは、我が国の交通の歴史を考える上で重要であり、整備事業が終了した部分を含めた約1キロメートルを保存するものである。



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