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文化審議会

2003年6月13日議事録
国語分科会国語教育等小委員会(第4回)議事要旨


国語分科会国語教育等小委員会(第4回)議事要旨

平成15年6月13日(金)
10時30分〜12時30分
東条インペリアルパレス 「曙の間」

〔出席者〕
   (委員) 水谷主査,小林副主査,青木,阿辻,井出,沖山,川島,田村,藤原,松岡各委員(計10名)
   (文部科学省・文化庁) 氏原主任国語調査官,小椋専門職ほか関係官

〔配布資料〕
   1    国語教育等小委員会(第3回)議事要旨(案)
   2−1    これまでの意見の整理(骨子例)
2−2    小委員会における意見の整理−2
   (資料番号なし)    日本人として必要な国語力の目安について
(資料番号なし)    国語力に関し何らかの具体的目安を明らかにしている例

〔経過概要〕
   1    事務局から配布資料の確認があった。

   2    前回の議事要旨を確認した。(担当調査官朗読)

   3    配布資料2−1,2−2について事務局から説明があり,その後,「学校教育における国語教育の今後の在り方等について」意見交換をした。

   4    第5回の小委員会は,6月26日(木)の午後2時から4時30分まで,開催することが確認された。

   5    協議における主な意見は次のとおり。

   ○    意見の取りまとめに当たっては,何に重点を置くかということが問題である。これまでの議論では,読む力や音声との関係の重視といったことが出ていたが,何に重点を置くかを考えていく必要がある。

   ○    私の言う情緒力とは,喜怒哀楽とは何の関係もない,もっと高次のものである。例えば,懐かしさ,他人の悲しみを自分の悲しみとして理解する,美的感受性,もののあわれ,家族愛,郷土愛,祖国愛,名誉や恥を知るといったようなものである。このような高次の情緒を国語教育で教えることが重要であり,国語教育の中心とすべきである。そのために,国語の授業時間を2倍,3倍にしなければいけない。これは6歳までに身に付くような情緒力とは全く違うものである。

   ○    今の御意見で言うところの情緒力は内容が非常に多岐にわたるものなので,私自身つかみ切れないところがある。情緒力を美的感受性や他人の心を知ることであるというように定義してもらえれば,脳とのかかわりについてコメントすることはできる。

   ○    情緒力は教育の成果である。他人の不幸への同情や思いやりも自然には身に付かない。文学作品を読んで理解していくことが大切であり,文学作品を中心にしていかないといけない。このことが,現在の国語科教育では無視されている。
   また,高次の情緒力は国際化にも必要なものである。論理的思考ということが言われるが,論理の出発点となる仮説を選ぶのは,その人の情緒力であり,教養である。論理的に正しいものの中から,出発点として正しいものを選ぶことが大切で,それを選ぶのが情緒力である。出発点を間違うと,論理は合っていても間違った結論に行き着く。現在の社会の問題も出発点を間違ったことに起因している。今ここで議論すべきことは,人心などが荒れ果てている日本を再生するための国語力である。

   ○    例えば,社会性を伴った情緒力とするなど,高次の情緒力をうまく表現できる言葉が必要である。

   ○    論理力があるけれども情緒力がないという場合もある。私も情緒を大切に考えているが,高次の情緒力には認知的な側面が入ると考えてよいか。

   ○    高次の情緒力はこれまでだれも言ってないものであるが,これこそ重要なものである。これは国語により後天的に育てられるもので,そこに国語教育の重点を持っていくべきである。論理だけでやっていけると思っているのがつまずきのもとである。そのことを世界に発信していく必要がある。欧米の人間も全く分かっていない。

   ○    中学校でも情緒力の欠如が問題である。しかし,これは国語科だけに課せられたものではなく,すべての教科で取り組むべきことではないだろうか。教育全体の課題であり,もっと広い範囲で育てていくものである。

   ○    高次の情緒力というのは,これまで自立と共生という言葉で言ってきたものではないか。他人とのかかわりの中でどう生きていくか。また,相互に人権を尊重するという意識のことではないか。

   ○    その言い方だと,私の言う高次の情緒力の一部はカバーできる。しかし,虫の音に聞き入り,もののあわれを感じることなどは他人とのかかわりではない。今の言い方では,こういうことについては言っていないことになる。

   ○    一つは,他人とのかかわり,もう一つは,内在的な美的感受性と言うこともできるのではないか。

   ○    その言い方でも,郷土愛,名誉心,卑怯を憎む心などは,まだカバーできない。

   ○    私も以前から,日本が持っている文化を発信することが大切であり,発信できなければいけないと考えてきた。そこを説明できる言い方をしたい。

   ○    世界で尊敬される国というのは,普遍的な価値を生み出す国である。もののあわれということについては,日本が世界で最も優れている。日本の美しい自然にはぐくまれた美的感受性も世界にたぐいまれなものである。これを世界に発信していくことが必要である。日本がこれを中心に教育をまとめ,世界へ発信することが大切である。

   ○    高次の情緒力という言葉では,一般の人には理解されない。人間として生きるための価値観,倫理観など,情緒力という言い方ではない新しい言い方が必要である。
   日本にもバイリンガルが大勢いる。その人たちは,外国の文学を読むことを通しても情緒などを味わうことができる。それを国語力とだけ言ってしまうと,閉鎖的,排他的にとらえられるおそれもあるのではないか。

   ○    国語力という言葉は閉鎖的かもしれないが,決して排他的ではない。イギリス文学にはユーモアがたくさんあり,韓国には親孝行というものがある。それらを我々が学んでいけば良い。こういうものをそれぞれの国の人がしっかりと身に付け,発信してくれるといいと思う。各国にはそれぞれ文化,伝統があるが,国語はそれらの固まりである。それを学んで,国際社会に出てきてもらいたい。
   英語重視への反論としては,英語で世界を便利に,かつ効率的にしてはいけないということを言いたい。多くの言葉がなくなり,文化が均一化されるという大きな犠牲を伴うことになるからである。英語教育についても初等教育段階から入れるというのは問題である。国語こそ初等教育段階で重要なのである。世界はオーケストラのようなものだと私は考えている。日本人は日本の伝統を身に付け,それにより世界に出ていくことが必要である。国際化の中核は国語である。

   ○    要するに,高次の情緒力とは,日本の風土と歴史の中で培われた美的感受性あるいは人間の心の在り方,とでも言うべきものではないだろうか。

   ○    その言い方だと,高次の情緒力のかなりの部分をカバーすることができる。しかし名誉心とか武士道精神とかは難しいかもしれない。
   それから,英語やパソコンを小学校段階から入れていくことも無意味である。パソコンの専門家に聞くと,だれもが小学校のうちから入れる必要はないと言っている。漢字の指導について言えば,子供におもねているように思う。子供には大きな許容量があるのだから,小学校6年生までに常用漢字のすべてを覚えさせるということも考えたらどうか。学年別漢字配当表については見直すべきであろう。語彙力を付けるためには漢語文化の重要性を見直すべきだ。また,朗唱や暗唱に耐える現代文はない。それは文語文しかないので,小学校から文語文を入れるべきである。
   読む,書く,話す,聞くを平等に扱うのも子供へのおもねりである。国語では,読む,書くが重要であり,それを身に付けるのが苦しいのである。読む,書く,話す,聞くは,前にも言ったように20:5:1:1という比重である。国語教育の中で何が重要かを考え,それを打ち出せばよい。読む,書くの重要性を強く主張したい。

   ○    公立の小学校・中学校の先生方と会を開いている。その会で,ある中学の先生が,クラスの34人中10人が九九ができない,34人中3人が平仮名,片仮名が書けないということを言っていた。今のお話は基本的には賛成であり,ある層の子供には必要なことでもあって,全くそのとおりである。しかし,そうでない子供たちにきちんと対応していくことも,公立の学校としては重要なことだと思う。国語教育に影響を与えようと考えるならば,余り現実から離れるべきではない。現場でどんなに頑張ってもうまく行かないということがある。そのことに引きずられ過ぎてはいけないが,教育現場に対する配慮も必要である。

   ○    文部科学省はきめ細かな教育が必要であると言っている。それに対して,きめ細かく厳しくと私が言うと,子供を傷つけることになるという反論が出る。個性の尊重という流れがあるが,子供の個性の多くには厳しい教育が必要である。しかし,それは現場ではできない。現状を考えるといかなることも止まってしまう。そこで,せめて本を好きな子を育てるべきである。読書によって情緒力やほかの知的能力が身に付いた子供たちが親になった時,初めて自分の子供にきちんとした教育ができるだろう。そういう長い目で見る必要がある。現在はすべて対症療法になっているが,根本から治療するために,初等教育段階における国語の重視,更にそのための読書の重視を打ち出すべきである。国語教育を立て直し,本に手の伸びる子供を作るべきである。

   ○    大学で日本語の表現の授業をしている。気楽に新聞が読めるようにというねらいもあり,1年間の授業を通して,学生は新聞を読むことに抵抗感を持たなくなる。しかし,ふだんの生活の中で新聞を読む時間は増えていない。テレビやインターネットによる情報収集で足りてしまうからである。言語の重要性を強調し,またその重要性を証明する根拠をもっと用意する必要があるのではないかと感じている。

   ○    前期の分科会から国語科の授業時間が少ないという話は出ており,国語科の授業時間を増やすことが重要という提言を出したらどうか。内容的な面では,文学と言語というように分けることを考えたらどうか。文学については,読書という言い方でも良い。現在の国語科を読書と言語の二つに分けて,時間を増やすとともに,「読書」では読みを深める,「言語」では書くと聞く・話すを取り上げるというように科目内容を設定し直したらどうか。

   ○    国語科教育には,話す,聞くを入れない方が良い。国語はほかの教科でもできるという発想で,国語の時間が減らされてきたと思う。話す,聞くということを言うと,国語科の存在意義はなくなってしまう。重要なのは,読む,書くである。国語科にしかできないこと,つまり読む,書くの重視を打ち出すべきである。
   また,国語は小中学校では徹底的にやる。その代わり,高校では選択でいい。理科などは,小中学校では減らし,その代わりに高校ではしっかりやる。小・中・高全体のカリキュラムを見渡して,メリハリの利いたものを考えるべきである。

   ○    イギリスでは英語を非常に重視している。数学などのクラス分けでも英語の能力が基準になっている。カリキュラムにも工夫があり,見習う部分がある。荒川区の学力調査で,国語の成績がトップであった中学校では,国語をすべての教科の基本と考えて,作文教育に力を入れてきたということであった。書くことによって思考力,表現力が伸びる。読むだけではなく,書くことが中心になるべきである。しかし,相手を思いやりながらのコミュニケーションについても学校教育の中で取り上げるべきで,ある程度,話す,聞くも入れる必要がある。書くことを中心にしつつ,話す,聞くについても計画的に盛り込みたい。

   ○    国語力の向上を目指す理由の部分は,前期の「審議経過の概要」の中にある「なぜ今「これからの時代に求められる」国語力を検討するのか」のところで,国語力の現状を踏まえて,なぜ国語力が必要かということが書かれている。したがって,それをもう一回取り出し,「審議経過の概要」に欠けている内容を補っていくという発想で考えていけばいいのではないか。
   それから,話す,聞くを初等教育の国語科教育で強調しないということには賛成である。話す,聞くについては,全教科でやろうと働き掛ければ良い。そうすれば,国語科は,読む,書くに集中できるし,今の体制や時間数でも重点を変えることで十分効率的にできると思う。

   ○    高校や大学における教育も視野に入れつつ,小学校の国語教育を変えていく必要があるだろう。

   ○    そういうことが,本当の意味で学習指導要領を超える視点である。この分科会だからこそ,国語教育の全体を見渡して主張していくことが重要である。

   ○    日本でも,国語教育を学校教育の基底に据えて,全教育課程を編成するということが必要であり,既にそういう実践が江戸川区の小学校で行われている。

   ○    小学生や中学生のころ,授業が退屈で仕方なく,もっと難しいことを教えてほしいと思っていた。漢字検定の受検者が既に200万人を超えているが,これなどは学校で難しいことを教えてくれないという不満の一つの反映ではないかと思う。余り学力の低い層にだけ焦点を当てて考えていくのは問題ではないだろうか。



(文化庁文化部国語課)

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