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私も,加除訂正版は非常によく考えられて,いい文章になって,よく整理されていると思う。こういうふうにきれいになったので,付け加えたいと思うことが新たに見えてきたわけである。参考資料の11ページ「望ましい国語力の具体的な目安」の(2)「話す力」についての「2)」というところで,   とあり, に「敬意表現」という言葉が出てくる。これは第22期の国語審議会で敬語の在り方というところで出てきた概念である。これとの関連で申すと,4ページの上から12行目のところに「相手や場に応じた言葉遣い」とあり,これが敬意表現に当たる。その具体的な例として,「あいさつや依頼・謝罪の言葉など」と書いてあるが,これに敬意表現として,敬語以外のものとして加わった「励ましたり褒めたりする言葉」を付け加えていただきたい。
社会生活と人間関係形成に不可欠な話し言葉の運用能力として,日本人は謝ることはすごく上手なのだが,励ましたり,褒めたり,同情したりという言葉遣いが大変下手だということで,敬意表現には意識的にそれらを入れている。どちらかと言うと,依頼や謝罪は上の人に対して下の人が言う言葉かなと思うのだが,そうではなくて,もっと上の人が励ましてあげたり,褒めてあげたりということも,ここにちょっと一言のぞかせていただけると,新しいコンセプトとしての敬意表現と整合性ができるかと思う。
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今回のこの「加除訂正版」は,本当に今までの議論をスムーズに,最大公約数として大変立派にまとめてあると思う。例えば,2ページの「国語の果たす役割と国語の重要性」の部分である。ここは,コミュニケーション能力を最後に持っていき,知的活動及び感性・情緒の基盤を成すを初めに持ってきて,このペーパーの構造というものが大変きっちりしたというふうに感じている。
それでも,読んでいくとあれっと思うことがあり,その一つは,2ページの「コミュニケーション能力の基盤を成す」というところで,これまでコミュニケーションということを余りしっかりと話し合ってこなかった感じがしていることである。子供と親とのコミュニケーションというのは後で出てくるが,散発的にいろいろな記述があるだけで,例えば,12ページと13ページの間に,「「国語力の構造」(モデル図)」というのがあるけれども,この図に追加として「伝達力」というものを入れた方がよいのではないかと思っている。この「モデル図」は「審議経過の概要」の時に出したもので,その時に「理解する力」「表す力」「生涯を通じて形成していく教養・価値観・感性等」というふうにとらえ,これはこれで立派にできている。しかし,どうもコミュニケーションという言葉が言いっ放しで,完結していない感があるので,「表す力」に補足するような形で,「伝達力」を入れるとか,コミュニケーションという言葉を何らかの形で収める必要があるのではないかと感じている。
もう一つは,「終わりに」のところにある「マニュアル言葉の問題」及び「パソコンなどの使用によって出てくる漢字の問題」について,ここでの問題提起だけでよろしいのかどうかということである。もう少し深めても良いのではないかという感じを持っている。同時に,パソコンの使用によって出てくる問題点は,漢字を読めるけれども,書けなくなってしまうということもあるのではないかと考えている。
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これから,このまとめを発展させるというのは時間的に無理だと思うので,報告案に付け加えるのは苦しいのではないかという気がする。
それから,コミュニケーション能力は,表す力だけでなく,理解する力もかかわる。コミュニケートには,話すだけではなくて聞く,書くだけではなくて読むという両方の伝達,つまり情報を伝達する力と受け入れる力とがある。このモデル図の中では,国語の力が総合されて,コミュニケーション能力になるというとらえ方をしているのではないかと思う。コミュニケーションは国語によって成立するというとらえ方から,コミュニケーション能力をモデル図のように分析したものの中に,位置付けるのは少し苦しいであろう。聞く,話す,読む,書く全体が情報伝達・理解になっていると考えている。
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今まで討議を続けてきて,練り上げてきて,全体的に推敲して,整合性を考えてきた原案をざっとお読みいただき,全体の流れ方等について,何人かの委員からほぼ結構だというお話をちょうだいした。時間的な問題として,これを更に展開させて深めていくという段階ではもうないと考えられるので,いろいろ出てくる御意見は,こういうこともあるというのにとどめるというのが,今日の段階ではないかと私は思っている。
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前回,情緒力というところが問題になって,大分修正が入っている。しかしながら,まだ違和感が非常に強く残っている。とりわけ,人間として持つべき感性・情緒というのは,「祖国愛」という言葉があることで非常に違う感じがする。つまり,「情緒」という言葉はしみじみと思うという意味で,それが読んでいる人の普通の感じだと思う。その中に,いろいろなものを入れるのはやはり無理がある。これは,「高次の情緒力」の「高次」を削ったということにもよるが,すっと読んでみて,ここに違和感が残る。
しかも,「最も」は削られているが,情緒力を教えることが国語教育の大きな目標だと言い,その中には「祖国愛」もある。そういうことを教えることが国語教育の大きな目標だという骨格がまだ残っている。そうすると,やはり違和感が出てくる。実際に,どういうふうに祖国愛を国語の授業の中で教えていくのかというのは,なかなか見当が付かない。どなたか,こういうふうに教えるんだ,こういう形ならば教えられるんだということを具体的に示される方がおられれば,是非教えていただきたいと思う。
祖国愛が残ることで,こうした言葉が国の審議会でお墨付きになって,祖国愛や愛国心を国語の授業の中でたたき込もうという動きが更に加速するのではないかというふうに心配している。愛国心とか祖国愛というのは,必要だと思うけれど,こういうものは暴走したり過熱したりすることもあって,なかなか厄介なものだと思う。それを割合に簡単に情緒という中に入れているが,なかなかはまり切らない。はまり切らないものを無理やり,国語教育の眼目である,大きな目標であるということで教えるというのは,無理があるというふうに思う。
こういうふうに考えているのは,今までの議論を聞いていても,ほかの方は余りおっしゃっていないので,少数派だと思うが,私のように心配する人間が世間に多分何人かはいるだろうと思うからである。そうすると,「自ら本に手を伸ばす子供を育てる」ことが大切だという大きな流れは非常にいいことだと思うのだけれども,例えば,祖国愛というような言葉があることで,全体として見ればなるほどと思う人も,こういうところで何か危険なもの,あるいは危うさを感じてしまうということは,この答申にとって,不幸なことだろうと思う。通知表についても誤解されて成績評価につながることはない,あるいは祖国愛を入れても,これが過熱することはないとおっしゃるのだろうが,全体がいいものであるだけに,そうした言葉に危うさを感じてしまえば,むしろ議論してきたことが不幸な結果になりはしないかということで,誤解されそうなところや,危ういところは削った方がいいと,もう一度繰り返しておきたい。
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「高次の情緒力」という用語も,この言葉は問題だということで,「情緒力」という言い方に替えたわけである。それから,「祖国愛」も最初は祖国愛だけだったのを,「日本の文化・伝統・自然を愛する祖国愛」というふうに,誤解のないような説明を付けた祖国愛にした。家族愛,郷土愛はそのままであるけれども,祖国愛についてはそういうことに配慮して,分科会の各委員の御意見を踏まえてやっているわけである。
それから,「情緒力」は確かにこのままでは違った方向にとられるという心配もあるので,「ここでは」という表現を入れたり,その前の方では「人間として持つべき感性・情緒を感じる力,すなわち…」というふうな言い方にしたりしている。「感性・情緒を感じる力」というのを短い言葉で言うと「情緒力」としているが,これももっといい言葉はないかということを議論して,結局は出てこないので,「情緒力」という言い方に落ち着いているわけである。昨年の「審議経過の概要」にも出ている「人間として持つべき感性・情緒を感じる力,すなわち,情緒力…」というふうに「情緒力」を押さえ,「ここでは」という形で,例えば,こういうようなものだというような説明をしているわけで,いささか苦しいところもあるが,情緒力をこういうふうな内容としてやっているのだということを示している。
それから,「国語教育を通して体得される」として,「すべき」という「べき」論ではなくて,「される」というふうにして随分弱めているのも,委員のお考えを取り入れたつもりである。半数以上の方がこれでは駄目だということであれば,また,改めるけれども,この部分については,昨年度の「審議経過の概要」にも入っていることなので,ここは皆さんに御了解をいただいているものとしたいと思う。
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全体については,本当によくまとめていただいていると思う。
今のパラグラフであるが,「人間として持つべき感性・情緒を感じる力」という中黒の使い方が,次の2行先だと「日本の文化・伝統・自然」となっている。そうすると,感性と情緒が中黒で結ばれているように誤解されることはないのであろうか。人間として持つべき感性と情緒を感じる力,それが,同じ力点を置いて並んでいるわけである。今の書き方のままだと,「人間として持つべき感性,情緒を感じる力」というふうに,「感性を感じる力」というように誤解される危険性があるのではないかと思う。
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「加除訂正版」32ページの漢字のところである。上の4行の部分に大分修正が入っていて,非常によく分かる文章なのだが,幾つかお伺いしたいことと提案がある。
修正を踏まえた結果を読んでいくと,「パソコンなどの情報機器の普及により,「挨拶」「憂鬱」「顰蹙」など書くことはできなくても,日常生活でよく目にするような「常用漢字にはない漢字」の扱いについて」ということでよろしいのだろうが,まず,かぎ括弧の中の「常用漢字には」の「は」は要らないのではないか。つまり,「常用漢字にない漢字」だけでいいのではないか。それから,そのかぎ括弧の前の「日常生活でよく目にするような」の「ような」というのも要らないのではないかという気がする。
さらに,細かいことであるが,「〜の扱いについて,その考え方を国語施策の面から打ち出す必要があるのかどうか」の部分も気になる。まず表外字の扱いについて,考え方を打ち出すのか,つまり表外字についてどう考えるのかということを打ち出すのか,あるいは,表外字の扱いについて施策で取り上げるのか,そこのところがちょっとあいまいではないかという気がする。また,文章の終わり方が,ここは「〜のかどうか」で切れているが,他の , はいずれも「実施すること」「進めていくこと」という体言で終わっている。そうすると, も「打ち出す必要があるのかどうか」というのを「打ち出すこと」というふうに言ってもいいのではないか。あるいは「施策」について「打ち出す」という言い方が妥当かどうか,例えば,検討するとか,分析するとか,ほかの表現に言い換えることができないだろうかとも感じた。
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「加除訂正版」の12ページの次にある「モデル図」であるが,こういうものはゴチック体を使うか,別の書体を使うか,四角い括弧にするか,丸い括弧にするかでかなりイメージが違ってくる。例えば,こういう書き方もあるよというのをちょっと参考までに見せていただけると,有り難いなと思っている。今のは素材がただ並んでいるだけの図になっているので,もったいように思う。
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前回のと比べていただくと,音声言語情報と文字言語情報というところは大きな枠にして,「聞く」,「話す」辺りもゴチック体にして,線も太くして少し努力しているが,これぐらいでは足りないということであろうか。
これは本当に大まじめな図であるが,もう少しマンガチックにするとか,カラー刷りにするとか,できるならばという方向で少し考えてみることにしたい。
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参考資料10ページ,今回の加除訂正版がよく書かれているということのもう一つの例として,お話ししたい。「望ましい国語力の具体的な目安」に書かれていることが,委員の方からもこれを自らが達成しようとすると,なかなか難しいという御意見が前回出されていた。どういう方がこれを達成するのかというときに,日本人の成人としてということは前回も書かれていたが,今回の加除訂正版では「生涯にわたる」という言葉が付け加えられた。これによって,我々成人が一生涯にわたって,こういうものを最終的に目指して,国語力を高めていくのだということが明確になったと思う。生涯の目標として,こういうものを目指すのだということがはっきりしたという意味で,これまでのものよりも分かりやすくなった思う。
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32ページの最後に付け加えていただいた「分科会では〜「自ら本に手を伸ばす子供を育てる」ことが何よりも大切」というところは大賛成で,すばらしいと思っている。しかし,成人が生涯にわたって目指す目標を掲げていることを考えると,子供だけではなくて,それを育てている親たちも本に手を伸ばしてほしいし,そういうことを含んだような結論にならないだろうかと思った。整合性の問題でもあるかと思うが,10ページ,11ページの辺りに出ている内容は,大人も目標にすべき,生涯をかけてやることであるけれども,32ページのまとめにある「自ら本に手を伸ばす子供」という一言だけで足りているのかなという印象がある。
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私は焦点を絞った方がいいと思う。そして,自ら本に手を伸ばす子供を育てるためには,周りの大人たちが生涯をかけて,この目安を達成することが,子供が自ら本に手を伸ばすことになっていくというふうに私は考える。だから,ここで「大人も」とか入れてしまうと,せっかくの強いキーワードが薄れてしまう感じがする。
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今の32ページのまとめ部分の最初の3行,とりわけ最初の1行目のところに,実は成人のこと,生涯にわたるという内容を書いている。つまり,「これからの時代に求められる国語力を身に付けること,すなわち国語力の向上に不断の努力を重ねること」とあって,これが生涯にわたるということだと私は取っている。それは「既に述べたように,時代を超えて大切なことであるが」と言って,その上で「今日ほど国語力の向上が強く求められている時代はない」と強調した上で,さらに「自ら本に手を伸ばす子供を育てる」と,これから育っていく若い世代に目を向けようということを強調しているわけで,ここは,大人のことを無視しているわけではないと私は考えている。
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「加除訂正版」28ページの冒頭に,「(4)子供たちが「読む本」の質的・量的な充実」とある。こんなところに括弧を付けると,子供たちが何をするのかが分からなくなる。子供たちが読む本,そういう本の質的・量的な充実を言いたいわけなので,読む本ということを強調したいばかりに,ここに括弧を付けてしまうと,子供たちが充実するのかみたいな理解にもなりかねないので,ここの括弧は要らないと思う。
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先ほど申し上げた件について,もう一度意見を述べさせていただきたい。本文の中で敷衍する必要は全くないと思うが,「コミュニケーション力」という言葉を「モデル図」の中に入れていただきたいということである。
この「モデル図」の中には,「理解する力」として,「考える力」「感じる力」「想像する力」とある。そして,その次の枠のところに「表す力」とある。ここで,「考え,感じ,想像したことを表すために必要な表現力」とあるので,ここに「コミュニケーション力」も入れて,「表す力」と線で結ぶという形にしていただくと,今まで話したものがすべて「この図」に入って,収まりがよろしいのではないかと思う。
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前期に,この「モデル図」を考案して,その流れの中で来ている。今おっしゃっていただいたことは,一つの案になってくるので,それは全体でよく議論した上でないと,実現できるかどうか分からないということになる。今の段階では,この形で,みんなの同意が得られているので,今の意見は一つの大事な御意見ではあるけれども,この段階で修正すると,かえって全体の合意から離れた別のものになっていってしまうおそれがあるのではないかと思う。
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この「モデル図」については,昨年,これが一つの切り方なんだ,考え方なんだという御意見が強くて,こういう形で固まってきているので,ここで今の修正意見をお受けして原案を考え直すというのは,やり方としてはちょっとまずいだろうと思う。そういうわけで,今の修正の御意見については,今回は御容赦いただきたいと思う。
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パブリックコメントを行うということであるが,パブリックコメントが形骸化しないためにも,パブリックコメントで出てきた意見はきちんと聞いて,この報告案の中に,その意見を取り入れるということを是非希望したい。 |