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国語分科会

2003年7月10日 議事録
文化審議会国語分科会第14回議事要旨

文化審議会国語分科会第14回議事要旨

平成15年   7月10日(木)
午後1時〜午後3時
東海大学校友会館「阿蘇の間」

 

〔出 席者〕
(委員)    北原分科会長,阿刀田副分科会長,青木,井出,臼井,岡部,甲斐,勝方,工藤,小林,五味,齋藤,舘野,手納,藤田,松岡,水谷,三林   各委員(計18名)
(文部科 学省・文化庁)   河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配 布資料〕
   読書活動等小委員会において出された意見の整理
   国語教育等小委員会において出された意見の整理

〔経 過概要〕
   事務局から,前回欠席で,今期就任した委員の紹介があった。
   事務局から,配布資料の確認があった。
   配布資料1について,読書活動等小委員会主査の甲斐委員から説明があった。
   配布資料2について,国語教育等小委員会主査の水谷委員から説明があった。
   両主査の説明を受けて,最初に配布資料1について,次に配布資料2についての意見交換を行った。
   両小委員会の「意見のまとめ」については,分科会総会で出された意見を取り込んだ上で,それぞれの小委員会において更に検討を続けて作成することが確認された。また,作成された「意見のまとめ」は,できるだけ速やかに事務局から全委員に送付することとされた。なお,「意見のまとめ」については,それぞれの小委員会で了解を取った上で,文化庁のホームページ等でも公開していくことが了承された。
   次回の国語分科会総会は,9月9日(火)の午後2時から開催することが確認された。開催場所については,事務局から改めて通知することとされた。
   意見交換における各委員の意見の要旨は次のとおりである。

   <「読書活動等小委員会において出された意見の整理」について>

   昨日は,長崎の事件を起こした子供の趣味が読書だったというので,ショックを受けた。多分,人間付き合いがうまくできなかった子供だと思うが,幾ら読書しても,そういうところでうまく行かないと,ああいった事件がこれからも起きる可能性があるように思う。目立たなくて,おとなしい読書好きの子が問題を起こしているケースが多いと思うので,そういう子供たちをどうフォローするかということも,これから考えていく必要があると思った。
   
   私は,この分科会全体が,具体的な方策を煮詰めるのにちょっと弱いところがあるという感想を持っていて,昨年1年間,ほとんど何もしなかったように思っている。意味がなかったとは言わないが,何をするのかという方策が求められての諮問だったように思うので,そこで,成績表に「読書」という欄を設けるという1点に私は絞り込んだわけである。この案がどこまで上るか,要するに,最後の文書で非常にあいまいな形でなくて,クリアに,そういう具体案として残ってほしいという思いがある。この問題については,是非,この総会において議論を詰めてもらいたいと考えている。
   
   成績表の提案については,読書活動等小委員会でも時間を掛けているので,これだけの意見が配布資料1に出ている。
       学校を訪ねていくと,学級の中に,全員の名前が下にあって,「本を何冊読みましたか」でシールを張っていくという取組をしている学校がある。例えば,1年間で二十何冊読んだらシールが二十何冊分ある。全部で50冊まできたらゴールというような,そういうような取組に近い提案である。それをただ学級に置くのではなくて,成績表に入れると,入れたことによって学校と家庭の連絡が密になり,先生も読書に対する自覚ができるだろう,家庭も本についての意識ができるだろうというようなものである。それが,保護者の意識改革,教師の意識改革ということになるわけである。達成度を求めることは少し過酷ではあるけれども,何らかの達成度を使って良いのではないかということで,ここの賛成意見というのが出ている。読書活動等小委員会の中では,何人もの者がある面では賛成という形を取っている。それが上の方に書かれていることである。ただし,問題なのは成績表がすべての学校にあるのかどうかということで,これについては,上の方の上から二つ目のところに,成績表に読書欄を入れたらどうかという提案の形で出せば,後は各学校で考えるのではないかとあり,この形に落ち着いている。
       下の後半のところは,成績表に対しての問題点が出ている。大きな問題点は,上から四つ目のところの後半であるが,子供にとってはむしろ逆効果なのではないかということと,その次の○の,読書量等について記述するという提案については,質と量の評価が本当にできるのかという面で疑問があるというものである。下から二つ目のところには,小委員会の提言レベルでは書けるだろうが,答申に出せる意見なのか疑問であるというものもある。
       自分の内心は,上にも賛成,下にもやはり賛成ということで,私自身うまく折り合いが付けられていない。ということで,それが下の問題点の大きなところである。それから,例えば12冊読んだと言っても,小学校の1年生から6年生までで言うと,5年生くらいから読む本の質が非常に変わってくる。それが早熟な子は4年生で変わってくるわけであるが,そういう質の高い本を何冊か読んだというのと,軽いものを十何冊読んだというようなことの,そういう区別はどうなるのかという問題点も出されている。
   
   この問題が出た時の小委員会には,残念ながら出席していなかった。後でいろいろな御意見を文書等で拝見したので,それについての私自身の考えを言いたいと思う。
       成績表については,やはり大変に疑問に思っている。私も保護者であるが,保護者,教師は,成績表に入ったというだけで,それが一つの道具になってしまう。つまり,この子は頭がいいかどうかという道具になって,評価される危険性の方を非常に感じる。
    ただ読もうというのでは何とも中心がないというのはよく分かるが,このような考え方はどうであろうか。つまり,通信簿では評価しかできないが,1年生からずっと義務教育期間を連綿と読書手帳……例えば,私ども保護者の女性は,子供との緊密な連絡帳となるものに「母子手帳」というのがあって,これはとてもなじみ深いものであるけれども,……そういう読書手帳的なものの中で評価をし,学校ごとのいろんな特色も入れたらどうか。そうすれば,もっときめ細かい読書へのアドバイス,家庭とのつながりができて,最終的には,全国の子供たちがいずれ大人になっていった時に,小さいころの共通の読書体験,話題として,記憶に残るものになるのではないかと思う。
   
   やはり成績にするとよくないと思うし,間違ってしまうことが起きかねないと思うので,成績表については私も反対である。ただし,ブックリストを出すことは悪いことではないと思っている。それは強制ではなくて,別に読まなくても,なぜ読んでいないのかということもその子に聞けるし,読んだ本に対してどう感じているのかということが大事だからである。それをピックアップしないと,今回の事件のように,本を読んでいるからほうっておいて大丈夫だということになってしまうと思う。読んだ本に対して,どう感じているのかということを把握していかないと駄目である。成績という形で評価してはいけないと個人的には思うが,いかがであろうか。
   
   成績表についても,最終的に評価していく評価の方法をどうするかという工夫の問題がつきまとってくるだろう。それを誤ると大変なことになるというのが基本的な考え方であるが,議論の途中で,子供たちが何冊読んだかというシールを張っていくという方法が紹介されたが,そのやり方はクラスの子供同士のコミュニケーションが非常に穏やかに,本当にお互いが尊敬し合う,尊重し合う,理解し合うというような雰囲気を持っている教室の場合には,ある程度成功していくかもしれないけれども,子供同士というのは非常に複雑な感情を持つ場合もあるので,教室経営の在り方と絡んでくると思う。
       それで,そういうシールを張る方法というのが別の形を取った場合には,例えば,計算ドリル帳を何ページまでやったかというようなことで,それをグラフに表して,どの子はどのくらいやったとか,あるいは漢字の勉強で学年別漢字配当表があって,それをどういうふうにマスターしていったか,書き取りテストでもってどのくらいそれぞれができたかというようなことで,漢字マラソンのように,やはりグラフを作って,子供の伸び具合を開示していくことになる。そうすることによって,子供同士が問題を起こしていくという事例もあるので,シール張りについても非常に慎重に取り扱わないと問題を起こしていくと私は思っている。
       最終的なものとして,先生と一人一人の子供とがそれぞれ各学期に努力をして,あるいはその子の成長の度合いということで先生が観察して,個別に指導しながら伸びを見ていくということで読書を介在させることは大事なことである。しかし,いろいろな形でどの子がどんな具合だということが表に出てくるような形,あるいは成績化するというようなところには,私はやはり疑問を提示したいと思う。
   
   読書活動等小委員会の中では,それほど鮮明ではなかったけれども,成績表の議論が出てくる前に,カリキュラムという言葉が適当かどうか分からないが,学校教育の現場で読書というものをはっきり位置付けてほしいという,まず,その前提があったような記憶がある。それは,初等中等教育だと思うが,1週間の時間割の中に,算数,国語,図画というのと同じように読書という時間を明確に設けて,その中に位置付けをする。学校の授業の中に,明確に読書という位置付けがあった方がいいのではないか,そういうことから,更にそれをクリアにしていくために,成績表に付けるということもあったらどうかということが出てきたように思う。少なくとも前段くらいのことは十分に議論されてもよいのではないか。もちろん,後段のことも議論されてしかるべきであるが,答申することは十分にできるのではないかと私は個人的には考えている。
       もう一つは,小委員会の議事とは離れた全く個人的な私の考えであるけれども,成績というものを考えるとき,私は教育の現場にいたことがないのでよく分からないが,非常に緩やかな成績というような考え方は難しいのだろうかということである。今の議論を伺っても,では絵画はどういうふうに,図画工作というのはどういう理念に立って,成績を付けているのか。上手にかけた人をうまいと言うと,下手な子は一生懸命努力して,絵は好きだけれども,あなたは駄目と言われてしまうことは別に差し支えないのだろうか。運動はどうなのだろうか。やはりそういうことは一杯あるわけで,評価というものは,何もそこだけが評価されるのではなくて,あなたは運動のできる子よ,あなたは読書のできる子よ,あなたは音楽ができる子よという相対的な評価の中から,それぞれがいろいろなことを考えてくるということもあるのではないか。
       だから,読書についての評価が何ゆえに不適当なのかよく分からないところがある。例えば,絵画や音楽の評価というのは,それでは現場の方はどんなふうに考えてやっているのだろうかという疑問を抱く。読書についても,緩やかな成績評価みたいなもの,何も1から5まで付けるということではなくて,成績表の中に1項目あって,「あなたは非常に少ない読書だけれども,よく考えて読んでいますね。」とか,そういうような評価の方法だってあるわけで,成績表といっても必ずしも1から5を付けるということだけを意味するのではなくて,教科の中に読書という時間を設けて,それを通して,いろいろな形での,段階評価とはちょっと違った評価をする。そういうようことは現実的には難しいのだろうかということを考えている。
   
   読書に関して討議してきて思うのは,通信簿に記載をするということであって,私の理解では,中学,高校等の入試の判定に用いたり,それから換算する点数表に入れろと言っているわけではない。親と学校とのコミュニケーションの手段であり,子供が自分自身を判断する通信簿に入れたらどうかということであって,我々の論議では,入試の点数等々とは結び付けていないと私は思っている。入試に入れるとなると,これまた話がややこしくなってきて,内面評価であるとか,そういうことが出てくるであろうから,これはかなり難しいだろう。しかし,通信簿に入れることで親が自覚を持つだけでなく,先生も自覚を持つし,子供も自覚を持つ。
       それから,評価と言っても,点数評価ということだけでなくて,今の通信簿には記述式のいろいろな欄がある。学力の評価にしても単に点数上の評価だけでなくて,関心,意欲,態度など,観点別のことを意識しているところもある。だから,様々なやりようがあるのだろうと思う。
       シールという話が出たけれども,単に本の冊数をかせげばいいというものではないことは分かる。しかし,そこは先生が子供を見ていて,コミュニケーションの中で考えていけばいいのではないか。今はかなり小人数のクラス編成になっているので,そこまでの先生と子供との密接なやり取りの教室の雰囲気を期待したいと思うわけである。評価の方法というのはいろいろあると思う。シールによっての機械的な方法も有効でないとは言えないかもしれない。それから,本当にがっちりとハードな本を読んで,それを子供がどのようにとらえたかというのを見て,それをやっていく方法もある。その評価の方法については,正に各学校現場,それぞれの先生が自分の教育活動として工夫をしていけばいい。その成果はまた様々な教育研究の場で発表され,それによって,その方法が積み重ねられ,向上していくのではないかと思うわけである。そういう意味で,私はこの分科会から呼び掛けた方がいいと思う。
       実際の話,通知表をどのように作るかは各学校に任されている。何点,何点というふうな基準があるわけではない。出していない学校だってあるし,先生が記述していく形のものもあるし,点数評価で行くとか,それは各学校が今工夫しているわけで,どのようにすればいいとこちらから言っても無意味な話である。我々は「通信簿にその項目を作って,それを一つの教育のテーマとして大事にしていかれたらいかがですか。」というのを呼び掛けるということになると思うわけである。その呼び掛けが大事だと思うのは,今の教育現場には,日本の子供たちは受験に追われていて忙しい,ストレスがある,だから,自発性を尊重しなければいけない,価値観を押し付けてはいけないという教育観が非常に強固に支配的になっていて,それから今転換をしつつあるわけだけれども,その転換の材料として,素材として,読書指導というのは教育活動の一つの眼目なんだという姿勢を明確にする意味があると思うからである。
   
   読書について成績評価することは反対である。これは読書活動等小委員会でも繰り返し述べた。ここに書いてある反対論のうち,一番強い反対論は私が述べたものである。
       理由は,こういう政府の審議会で,個人で言うなら別だが,一たん成績評価をせよ,あるいは成績評価をした方がいいというような表現をすれば,現場でどういうふうに使われるかというのは分からないからである。通信簿をどういうふうに使うか。つまり,内申書に使ったり,入試に使うということもないわけではない。それは分からないわけである。個人的に言うわけではなくて,こういう政府の審議会で言うわけであるから,それだけの重みがあるので,そこは慎重にした方がいいということである。そもそも,これは何らかの形で成績に使われるだろうと私は考えている。そうなれば,先生が一種の脅しで読書を子供にやらすということになってしまう。それでは子供にとって読書が身に付かないし,読書を嫌うことにもなりかねないというのが一つの理由である。つまり,成績でもって,読書しなさい,成績評価をするぞ,読書しないと,お前の成績は悪いぞ,こういうことになると逆効果である。これは,単に学校と家庭とのコミュニケーションというようなきれいごとの問題ではないと思っている。
       もう一つは,そもそも読書状況というのをどうやって成績評価するのか。読書の量をするのか,読書の質をするのか。量をするとすれば,自分はこれだけ読んできたという自己申告に基づいて点数を付けるのか。そうすると,たくさん読めばいいことになる。中身はどうでもいい,とにかくたくさんページをめくればいい,あるいは,めくらなくても自分は何ページ読んだというふうに申告すればいいということになれば,これは,むしろうそつきの子供を育てることにもなりかねない。質の評価をするとすれば,本当に読んだかどうかということをもう一回今度は試験をしなければいけない。本当に読んだかどうか,子供に試験をしなければいけないことになる。そういうことを思うと,そもそも評価になじまないし,評価するとすれば,間違った評価をすることになるのではないかと思う。ということで,成績評価をすることについては明確に反対である。
   
   今,小学校なんかでは,通信表を担任がそれこそ頻繁に保護者に持って帰らすということをやっている。また,成績表も先ほど1から5という話があったが,そういう表現を明快にしているところは少ないのではないかということも感じている。つまり,成績表で明快に点数として出すということと,そうではなくて,保護者に対し通信表や連絡帳の中で表現するということを混同して議論してはまずいのではないかと考えている。明快な成績表の中で,はっきりと成績をランク付けしていくということにいきなり持っていこうというのは少し無理があると思っている。
       先ほどの御意見にもあったように,私も,まず読書を学校の学習指導要領の中に位置付けるというところから始めたらどうかと思う。どういう形でもいいから,何らかの位置付けをすることが重要なのではないか。また,現実に今の成績表の中でも,この子供は読書が本当に好きだとか,一生懸命やっているとか,読書を全くやっていないとか,そのような先生の所見を書く欄があるので,そこで現実に緩やかな表現というのは行われている。特に,読書のことについて表現したいという場合には,実際に既にそういうことが書かれている場合があるということも確認しておきたい。
       ここで,本当に明快に点数で成績表に表すというような感じで,そのことを頭に置いた成績表ということだけで議論をしてしまうと,少し混同したような議論になって着地できなくなってしまう。それと,成績表に行き着くまでの前段階のところをもっと議論しないといけないのではないかと考えている。
   
   読書を評価するのと,例えば,図工や体育を評価するのとでは少し違うところがあると思う。図工や体育は指導する場合にねらいを持っていて,そのねらいに向かってどれだけ達成しているかというところで評価をしていく。もし読書で評価をするとなると,読書していく子供を育てるためにどんなねらいを作って,どういう手立てを採っていくと,読書をする子供に育つのかというような一つの明快な線がなければ,積み重ねがなければ,評価できないのではないかと思う。
       そういう意味で,前回の読書活動等小委員会でも,私は,明快な評価を出すとか成績評価ということについてはなじまないだろうという話をした。私は子供の側の問題と,教師・指導者側の問題と二つあると思っている。広く言えば,社会一般にもかかわるかと思うが,まず,子供側の問題としては,やはり読書をしていく子を育てるためにはどんなステップを踏んで,どのように指導していくことが読書をする子を育てていくのかということが一つあるし,教師の側では,多分1時間読書の時間を設けたとしても,やり方がはっきりしなかったり,どういうふうにしていくことが子供の読書の力を育てていくのかというところがはっきりしない限りは,うまく行かない。そういう意味では,小学校,中学校で本を読むのが好きになったり,本を喜んで読むようになったりするためには,例えば朝読書はどういうふうなことをすれば効果が上がるのかとか,図書館ではボランティアをどういうふうに活用していくといいのかとか,そうした一つの方法みたいなものを全国につなげていくような形で,いわゆる子供の側の問題と教師の側の問題とをはっきり分けながら考えていくのが大事ではないかと考えている。
   
   繰り返しになるが,成績ではなくて,通信簿にいわゆる励ますようなニュアンスでの欄を設けるということが主なのであって,5,4,3,2,1と付けるとは,議論の中でも一言も出ていない。どういうふうにして読書活動をエンカレッジしていくかという意識を教師が持たなければ,こういう欄が設けられないのではなくて,こういう欄ができることで,読書の目標は何だろうとか,うちの学校ではどう図書館が利用されているのだろうということを考えざるを得なくなってくるというか,そういう意識改革というものがねらいである。
       子供に対して,ネガティブな評価をしていくことは全然意図していないわけである。そういう基準なりねらいなどというものを学校の教師側が持っていない現状が問題なのであって,そこにねらいを持って,目標を持って,うちの学校ではこうやろう,うちの学校では量を大事にして何冊読もうでもいいし,質を大事にしようでも,それはいいけれども,最終的には学校に任せるほかないわけで,そういうことについての意識を高めるための一つの起爆剤にしたいという意図でやっているのである。このことは,読書をどのように学校教育の中で位置付けるかという先ほどの御意見そのものでもあるので,位置付ける気がないのであれば,また別であるけれども,位置付ける気があるのであれば,何かしらの具体的な起爆剤が必要であろうと考えている。
   
   合計四つの意見に整理できる。一番強い意見が,学習指導要領の改訂にまでこぎつけていくことが大事というもの。2番目が,成績表あるいはそれに相当するものに励ましの意味で欄を設けるというもの。3番目は,成績表ではなくて,連絡帳,読書ノートのような形のメッセージにしたいというもの。4番目が,絶対反対である。成績表の方が良いという意見と,成績表より連絡帳あるいは読書ノートの方が良いという意見,ここら辺りが小委員会で意見の分かれているところである。
   
   学校の成績表に読書の欄を設けるということに関して,今,四つの考えに整理してくださったわけであるが,私が大変気にしているのは,先ほど明確な反対意見が出されたけれども,よく聞くと,これは絶対に反対というよりは,こういう危ない可能性があるという示唆を一杯含んだ御発言だったということである。例えば,報告書で「成績表に読書の欄を設けましょう」ということが書いてあると,新聞の見出しに「読書の欄が成績表に」となる。それを一般の方はどう読むかというと,今までの成績表の押し付け的なイメージで類推してしまって,誤解がぱっと広がってしまう可能性がある。そして,うそつきの子供を育てるということも現実には起こり得るということがあると思う。
       したがって,反対の意見は非常に貴重であるので,私も成績表に載せることは賛成であるが,そういう弊害の出ないような書き方にしてほしいと考えている。せっかくいい答申を出しても,現場に持っていくと,とんでもないことで人々を苦しめる新しい施策になっているということもあるので,その書き方には十分配慮すべきである。
   
   6ページから7ページにかけて,「地方や民間における施策・取組について」,「注目すべき地方自治体の取組事例について」を改めて読んでみて,随分あちこちでいろいろなことがやられるようになったなと感じた。こういう形で書くだけではなくて,どこか提案のところで,こういう地域や地方自治体の取組をモデル事業にして,具体的に予算的な支援や援助も行って,更に全国に広げていくというような提案を書いていただけると,広がっていくなという気がして読んだので,よろしくお願いしたい。
   
   五つの提案をさせていただきたいと思う。そして,細かいことに関しては,我々委員はいつでもレポートを提出するようにとおっしゃっていただいているので,レポートにして提出させていただこうと考えている。
       一つは,今おっしゃったように,現在実施継続している事業というのに大変魅力的なものが多数あるので,新しい企画を考えるのも必要であるが,それと同時に改めてこの国語力を見直そうとしている観点から,そういう事業を見直して,支援することを考えたらどうかという提案である。それが予算をいただくためのサポートにもなると思うので,いろいろな事例をちゃんと紹介していきたいと思っている。
       2番目は,その魅力的な事業がそれぞれの場所で行われているだけで,ほかで生かされていないので,それを国語力の共有財産となるようなネットワーク作りに力を注ぐべきだということである。難しくて,読んでも分からないというサイトであったり,レポートであったりするのでは大変もったいないので,そこは十分に配慮したい。
       3番目は,これも小委員会で出た案で,とても納得したのだが,全国のいろいろな長と名の付く人,会長であったり,教育長,校長,そういう長と名の付く人の意識を変革して,改革してもらうというプランを具体的に出すことも可能だし,長の意識改革は非常に活性化につながると思うので,これも考えていただければと思っている。
       4番目が,市町村や学校で,仮のタイトルであるけれども,例えば「言葉の里親的なプラン」ができないかということである。というのは,今までいろいろな講演や行事を行っても,大体1日か,2日である。せっかく意欲が盛り上がっても,打上げ花火になるだけなので,長期的に1年間なら1年間,ある村,町,学校で,言葉の専門家と連動して,読書あるいは国語力に関しての取組ができないかということである。
       最後であるが,これは長期的に検討できないかということで,提案させていただきたいと思うが,国の祝祭日が現在あるけれども,改めて言葉に関して「言葉の日」,ごろ合わせで5月18日が「言葉の日」となっているが,そのような「言葉記念日」とか,祝祭日にして,大きな柱にするということは考えられないだろうかということである。そこへ行くまでの段階として,月間の「言葉の日」とか,週間の「言葉の日」とかいうふうな道のりが採れるといいと思っている。
   
   3ページのイの冒頭に書いてある「学校図書標準」のことは,私は非常に大事なことだと思っている。学校図書標準については,前からずっと経過しているのに,3割台しか達成されていない。はっきり申し上げれば,文部科学大臣は,こんな諮問機関に諮問をするより前にこの3割を7割くらいにしてから諮問をしてほしいと思う。諮問をする前に,自らやれることをもう少しきちんとやってから諮問してもらわなければいかんと思う。書いてあることは実に立派なことであって,これを全部ちゃんとやられて,この3割が7割か8割になっていれば,諮問の内容も随分変わってくるし,答え方も随分違うと思う。国として,公的なこととしてやれるところは,実にここにかかっているのではないか。そのことは,この分科会に参加して特に申し上げたいことである。

   <「国語教育等小委員会において出された意見の整理」について>

   「国語教育等小委員会の意見の整理」を読んで,一つ教えてほしいことがある。論理力か,情緒力か,つまり論理か,情緒かというのは,情緒というのは文学や古典みたいなものと読めるが,この対立がどうもあるような気がする。どっちに力を本当に入れるのか,両方やるのか,今の時代にどっちが求められているのかということの対立がどうもあるのではないか。この辺がうまく絡み合って,きちんと議論できているのかどうかというのを教えていただきたい。それと多分つながると思うが,書く力なのか,読む力なのかというところも,どちらにこれからの時代に力を入れるのかというところが,議論としてかみ合っているのかどうか。
       多分この二つの,「論理と情緒」それから「書く力と読む力」,ここのところは読書の小委員会にも絡んでくると思うので,議論として絡み合っているのか,あるいは単に言い合いで終わっているのか,その辺を教えていただきたい。
   
   論理力と情緒力については,議論の過程の最初は,論理力の大切さというのが先行した。それについての合意が形成されてきた中で,情緒力の重要性が後から出てきたわけである。ただ,情緒力という言葉が当てはまるかどうかということは,まだ決着が付いていない。というのは,感性という言葉よりももっと広い意味で,いろんな人を見るとか,社会を見るとか,広い意味での論理力とは違う,人間を見ることから始めて世の中や文化を見る力,そういうものを含めたものが必要で,それが前提になっていないと論理力を強調しても意味がないだろうというような考え方で出てきたものだからである。だから,少なくとも事柄を論理的に把握して,論理的に表現するような力というのは問題なく出していけるだろうと思うが,感性に関する方の問題は,どう表現すればいいかということだけではなくて,実態自体についても,まだ詰めなければいけないというふうに思っている。
       もう一つの方は,政策的な教育の在り方について,重点の置き方が出発点になっている中で出てきたものであって,四つのスキルを組み立てて公平に考えていくというやり方ではなく,どれが一番基になるか,どれをやれば効果が出てくるかということで議論されたものである。私の感じでは,「読む力」は,今のところ全委員が賛成していると思うが,「書く力」の方は位置付けがまだ完全には定まっていないと思う。ただし,書けなければ読めないだろうという問題もあるので,この後,どう決着を付けるかということが宿題として残っていると私は思っている。
       それから,もっと決着が付いていないことは,「話す」「聞く」である。これについては,この資料にも出ているけれども,「話す」「聞く」が大事だという意見もあるし,「話す」「聞く」「読む」「書く」ということの関係の中でどう位置付けるかという問題もある。学校教育の現実の場の中では,バランスをとりつつ相関を考えながら進めているのだという意見も,ここには出ているけれども,そういう課題が残っている。
       このような状況なので,最後の収束へ向けて,少なくとも全面的に同じ重みで項目を並べるという行き方は,多分採れなくなるだろうとは思っている。何が一番大切かという感じで,議論を進めることになるだろうと考えている。
   
   この資料を読ませていただいて,「読む」「書く」「聞く」「話す」の中で,「聞く」「話す」という部分であるが,読みが20,書きが5,聞く・話すが1,1と数字で表されている。これは質問であるけれども,数字で表す以上は,明快に20であるから,根拠はもちろんあってのことだろうとは思うが,私には,そこのところがちょっと分からないので,感覚的にこう書かれているのかどうかという点が一つ。
       それから,その下の三つ目の○のところに,「子供たちが書くことを嫌うのは我慢力が不足しているからである」とある。したがって,書かせないといけない。その我慢力と書くことの因果関係であるけれども,学級崩壊とか,成人式なんかでも,皆さん御承知のように,今の子供たちは人の話を聞けないという者が本当に多い。聞くということができていないと,我慢する力も付かないというふうに思うが,20対5対1対1というのが本当にそうなのかどうか。このことを書くと,多くの方が読むので,ものすごい影響力があると思う。ということで,少しお聞きしたい。
   
   20対5対1対1というのは自信を持っておっしゃったのであるが,別の場面では,この割合がもっと大きくなって発言なさったこともあるので,これは客観的な裏付けがあってということではないと私は思っている。けれども,ここに書かれていることは,さっきも申したとおり,委員の発言を忠実に書いているので,最終的な報告としては,そこは慎重に進めたいと思っている。裏付けがあれば,数値化して出した方が説得力を持つと思うので,それはやりたい。
       大脳生理の方のデータみたいなものは,そのまま出していけるだろうと思うが,この重み付けの割合の方は,これだけを裸で出すと,すごい問題が起こる可能性がある。「話す」の重みの中でも,それこそ,言語によらないものが70%とか,「音声」が28%とか,言葉そのものが10%とかいうデータが既に出ているけれども,それでも本当に手続などを考えれば何だか怪しいところがある。だから,数値化して出すことは,報告書の形で出すときには慎重でありたいと考えている。
       それから,後の方の我慢力の問題であるが,この問題は,私としては積極的に考える手掛かりにしたいと思っている。ただ,我慢力という言葉を使って報告ができるかどうかは分からない。でも,こういった大きな課題について,私たちが人間として育っていく中での国語力の教育ということを考えているということは,意識すべきだろうと思っているので,これは,また小委員会全体で「我慢力というのは何でしょうね。」ということをやることになるだろうと思う。
   
   今の数字のことであるけれども,国語教育等小委員会の時に,私が発言者の御発言から理解し,それを私なりに敷衍した形で意見を述べたので,そのことをお話ししたいと思うが,これは飽くまでも国語科教育の中での重点であって,すべての教育の中でということではないと考えている。
       そして,敷衍した部分というのは,例えば「話す」とか「聞く」ということは,全教科において非常に重要なことであるから,それは国語科だけが重点的にやるのではなくて,むしろ国語科が積極的にほかの教科の教師たちに働き掛け,呼び掛けて,聞くこと,話すことを全教科的にやっていくべきではないかということである。そうではなくて,ほかの教科でもできること,あるいはほかの教科でもやらなくてはいけないことを国語科が国語科専業のやるべきこととしてやると,国語科としての存在意義が危うくなってしまうので,国語科を強化するためにも重点化が必要であると発言者がおっしゃっていたと思う。さらに,「書く」ということは,ほかの教科でも何につけても,メモを取ることが大事だという御発言がほかの委員からも出されていた。
       そういうことで,多分,国語科教育の中の四つのことの重点の割合ということだと思う。そして,全教科的に,それから,もっと社会的に国語教育ということを考えていくときには,比重は当然変わってくるというふうに私は理解している。
   
   今の御意見の続きであるが,重み付けについて発言した委員が強調なさっていたことの一つは,極めて政策的,戦略的な面である。例えば,ほかの教科でも国語の教育をやってもらわなければいけないということを言っただけでは駄目である。逆にそういうことを言うと,国語の時間を増やせという主張をした場合に,ほかでもやっているから国語を増やす必要はないと言われてしまうということであった。その時に,なぜ国語が重要かということを主張するために,先ほどの「読む」や「書く」のところに重みを置くという,そういうかなり戦略的な考え方である。
       すごく面白い発言をなさったのは,小学校1年生,2年生の段階のところに徹底的に力を注ぐべきである。内容的にも,読むに重点を置くべきである。極端に言えば,高校になったら,国語をやめてもいい,こういう言い方をなさったことがある。これは,どういう形で説得力ある形に報告としてまとめられるか,全く見通しは立っていないけれども,考えてみれば,大事なことだと思っている。非常に公平主義,分業化された学校教育の枠組み,煉瓦を積み重ねるような形は,全体として組織化されているけれども,時間的な系列の中で何を先にすべきであるか,どんな内容を先にすべきであるかということについての考え方はない。もし今回の報告で,その辺りを少しでも出せれば,次の学習指導要領の改訂に向けて,一つの貢献ができるかもしれないと考えている。
   
   小学校は大事だが,中学校・高校は大事でないというのは,私はそれこそ絶対反対である。中学校も大事だし,高校も大事だし,大学も大事だと思っている。「読み」の重みが20ということに関連してであるけれども,読書というときに,本を読むということだけが読書なのかという辺りは,読書活動等小委員会の方でも考えていただきたいと思う。というのは,私なんかは今本はほとんど読まないで,ペーパーしか読まない,論文しか読まない。時間がなくてハードカバーの本は読めないが,それは読書していないということなのか,理科や社会科の本を読むのは読書なのかどうか,「読み」が20というときの「読み」というのは,どういうことなのか。この辺りは両方の委員会に関係するのではないか。
       それから,読書離れを防ぐのに,我慢力を付けるということについてであるが,そういう目的で読書を薦められると,それは困るのではないかという考え方もあると思う。それこそ先ほどおっしゃったように,聞くことも我慢であるし,結局,受け身の「読む」と「聞く」は我慢ができないと続けられないということでは共通する。それはそれとして,我慢力を付けるために読書や作文をするというのは本末転倒であろう。
   
   国語科以外の教科で,非常に乱れた日本語が教室内で使われているという事実は多々あると思う。生徒と先生が友達同士の会話をしているというのが普通のようであるけれども,いきなり社会に出てちゃんとした敬語を使いなさいと言っても,学校の時に一切それを使っていなければ分からないというのが現状だと思うので,国語の先生はともかくとして,それ以外の教科の先生でも,きちっとした日本語を使うということは,もう少し具体的に考えた方がいいのではないかと思う。
   
   2点お話ししたい。1点目は,これからの時代に必要となる国語力についてという大きな枠組みの中で,聞く,話す,話し合う力というものをきちんと位置付けてほしいということである。聞く,話す,話し合う力,話し言葉の運用能力とか,話し言葉での意見表明力とか,人間関係形成力とかいうのが,これからの国語力としていかに必要かということをきちっと位置付けていただきたい。
       2点目は,非常に実感的な意見表明である。聞いたり,話したり,話し合ったりということは日常的に行われる。家庭でも行われるし,他教科でも行われるのだから,国語科で時間を特設して指導しなくても,そういう力は身に付くはずである。昔からそういう考え方はあって,そういう主張は聞くけれども,何十年か前,家庭や地域社会がしっかりしていた時代には,聞く力や話す力が形成されたのかもしれないが,今の子供たちの実態からすれば,自然には身に付かないし,家庭にだけ任せておいても身に付かないし,ほかの教科にだけ任せておいても身に付かない。ないものねだりはしないで,私は国語科で取り立ててやる必要がますますあるだろうと考えている。実感的なので,この辺りはもう少し現実的な調査や統計が必要であるが,是非やっていただきたいと思う。
   
   国語の先生はしっかりやらなければいけないけれども,他教科の先生もちゃんと正しい日本語を使ってほしいというのは,両方そのとおりである。それにつけても,国語科の先生の実力が大事だと思う。この報告にも指摘されているけれども,これは是非何とかしなければいけないと考えている。
   
   国語教育等小委員会で,これまで論理力と言ってきたのは,国際化,情報化の時代であるという21世紀に入って,今の時代のとらえ方の中から,諸外国等と渡り合っていくというか,付き合っていくというか,そういうときに,明確な根拠を挙げて主張していくという一つの立場,日本という立場において明確な根拠を挙げて主張していくという,そういう論理力の重要性ということをどうしても第一に取り上げなければいけないというような考え方があったと思っている。
       それと同時に,国語という言葉で言ってきているから,国語という言語がどういうふうに歴史的にこの風土の中で培われてきたかという日本人の心の問題,世界に向けての日本人の心の在り方の問題も非常に重要だという見方が出てきたところから,情緒力というような感性の問題も出てきて,日本人としての感性,情緒力の重要性というふうになってきた。そういう流れの中で,今後それをどう関連付け,位置付けていって,答申の文章にしていくかという工夫をしていく必要が出てくるだろう。
       そういうときに,日本人としての感性,情緒力というものを養うには,過去から現在の日本人の書いている様々な文章をきちんと読んで,批判して,取り入れてということがあるので,やはり大前提として読むということが大事だということがある。しかし,それだけでなく自分が得たものについてまとめて書くということも必要だし,話す,聞くということも大事である。特に,渡り合うときには,どのように表現していくかということが非常に大事であるから,書くだけではなくて人から聞いて話すという,そこが大事だということで,この「聞く」「話す」「読む」「書く」という言語活動をどんなふうに位置付けるかということもやらなくてはいけないということになってくる。
       国語力と言えば,日本人の全体で考えれば,国語ということであるから,国語教育というふうになるけれども,学校教育だけにそれを絞り込んでいくと,国語科教育というふうになっていくという関係もちゃんと見ていかなければいけないというので,土俵を広くすればするほど拡散していくのであるけれども,拡散する中で重点をどうするかということの関係を明確にしつつ,まとめられるような形に持っていく必要がある。
       議論がどうしても拡散して,様々に分かれていくということで,あれやこれや話題にしているけれども,関係をさせて,位置付けて,最後は諮問に答えるという方向をどうしても付けていかなければならないと思っている。
   
   6ページの(2)の「国語科教育の在り方」というところの,特に下の方の「指導の重点に関すること」の記述について,一言申し上げたい。
       「指導の重点に関すること」の一つ目の○の1行目を読むと,「「読む」「書く」「話す」「聞く」を平等に指導するのではなく」とある。「のではなく」ということは,現実は平等に指導しているのだということになる。また,6ページの一番下の○の1行目を見ると,「学習指導要領では「読む」「書く」「聞く」「話す」を平均的にやるようになっているが」とある。これを読むと,多分,小委員会では余り学校教育を知らない人が発言しているのではないかと私は思う。それで,こういう言い方をしても容認されるわけである。これが記録に残って総会に出てくると,そうか平均的にやっているのか,平等に指導しているのかということになるが,現実は全く違うわけである。
       学習指導要領の歴史を少し御覧になると,分かると思うが,長い間,音声言語と文字言語を合わせて,表現と理解という領域だった。そこでは「話す」「聞く」は,ほとんどされていなかった。それがやっとのことで,国際化とか人口の都市集中化ということで,「話す」「聞く」は大事だということで,今わずかに芽が出始めている時に,こうやってたたくと,また「話す」「聞く」は引っ込んで,先ほど言われたような敬語の問題,これは「話す」「聞く」の問題であるが,そういうところをまた壊してしまうことになる。現在の学習指導要領では,「書く」は年間せめて何時間やってください,「話す」「聞く」は何時間やってくださいとなっている。そういうように最低何時間となっているのは,ほうっておけば教室は「読む」に行くからということなのである。ということで,学習指導要領レベルではどうなのか,教科書ではどうなのか,現実の教室ではどうなのかというところの根拠をきちんと押さえていただかないといけないのではないかと思っている。
       もう一つ言うと,6ページの上の「全般的なこと」の三つ目の○のところに,「現在の国語科を「文学」と「言語」というように分けたらどうか」とあるが,実は戦後にそういう試みがあった。文学と言語に分けて,言語でも大変面白い教科書ができたりしていたのであるけれども,やっぱりうまく行かないという歴史があった。そういうところをもう少し踏まえていただけると有り難いと感じている。


(文化庁文化部国語課)

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