ここからサイトの主なメニューです
審議会情報へ

国語分科会

2003/01/17 議事録
文化審議会国語分科会第12回議事要旨

文化審議会国語分科会第12回議事要旨

平成15年  1月17日(金)
午後1時30分〜3時30分
東条会館新館「扇の間」

〔出 席者〕
(委員) 北原分科会長,青木,阿,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,小林,五味,齋藤,田村,手納,西尾,藤原,松岡,黛,三田各委員(計19名)
(文部科 学省・文化庁)河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配 布資料〕
1   文化審議会国語分科会第11回議事要旨(案)
2   これからの時代に求められる国語力について  −  審議経過の概要(案)−
3  
別冊   これからの時代に求められる国語力について
−  審議経過の概要  参考資料(案)−

〔参 考資料〕
1  【委員限り】
  これからの時代に求められる国語力について  −  文化審議会国語分科会  審議経過の概要(案)−(平成14年12月27日付け送付資料)への委員意見
2  【見え消し版】
  これからの時代に求められる国語力について  −  審議経過の概要(案)−

〔経 過概要〕
  事務局から,配布資料の確認があった。
  前回の議事要旨について確認した。
  配布資料2について,参考資料1及び2を用いて,事務局から説明があり,それに基づいて意見交換が行われた。その結果,本日の議論を踏まえた「審議経過の概要」の最終版の作成については,文言修正も含め,分科会長に一任することとなった。
  配布資料3について,事務局から説明があり,前回結論の出なかった夏のアンケートの扱いについては別冊として公表すること,また,冬のアンケートの読書リストについても提出した委員の名前を添えて,夏のアンケートと一緒に別冊に入れて公表することとなった。
  「審議経過の概要」の最終版は,出来上がり次第,事務局から各委員に送付することとされた。また,「審議経過の概要」の公表については,1月29日(水)の文化審議会総会に報告した上で行われることが確認された。
  なお,今期の国語分科会は本日が最後となることから,閉会に当たり,文化庁長官から委員に対して謝辞が述べられた。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。


(1)「審議経過の概要(案)」についての議論

  私は,12月の段階で大体9割以上はできていると思っていた。国語課で割合とうまくまとめてくれているなと,最初からそういう印象である。この1年間の議論で出てきて,多分過半数が賛成するだろうなというような意見がほとんど全部網羅されている。一度も決を採ったことがないにもかかわらず,すばらしいバランス感覚で,そういうことを残さず入れてくれている。ただし,私個人としてはまだいろいろな不満もある。例えば,情報化に伴う漢字の抜本的な見直しは,国語審議会の前身が明治にできたころから,ほとんどそれだけをする機関であったようなものであるが,これについては余り議論されなかったので,それについて少し来期に残すような形で残したかったのであるけれども,それは実際に議論の中でほとんど出てこなかったので仕方がない。もちろん,細かい点でいろいろなことはあるかもしれないが,大体これで全然問題ないのではないか。このような感想である。

  ほとんど今の御意見と同じことで,国語課の方は大変だったなということを痛切に感じている。

  本当に良いおまとめをいただいて,感謝したい。最後のところだけが少し気になる。「国語力向上のための具体的方策についての今後の検討方針」,それから「終わりに」というところをもっとしっかりしたものに持っていった方がいいのではないか。私自身よく考える時間がなくて,どのようにすればいいか,どういうものを含むべきかということの用意はできていないが,例えば,「今後の検討方針」というところは,地の文で流れているので,この辺りできちっとした大事な大項目だけでも見える形で出すとか,形にならないものについてはこのような分野でもっと必要だとか,「今後の検討方針」と「終わりに」というところをもう少ししっかりしたものにすれば,もっとよろしいのではないかと思う。

  今日の段階で柱から直すのは無理な状況であるので,駄目というのも変だが,なるべく部分的な修正で仕上げをお願いしたいと思う。

  全体を通して,私どもが議論を重ねてきた結果がこのような形でまとまっているというふうに了解している。しかも,これは答申ではなくて今期の審議の経過を次へ引き継ぐということであるので,議論されている内容についての問題点等も次期に送って,更に深めていただくということでいいのではないか。今まで検討してきた結果が,大筋,おおよそのところとしては,平均的にというか,大部分の方の考え方がここに結晶していると考えるので,問題点を含んで次期にこれを送り出すというのでよろしいのではないか。そう判断するので,この案で行こうというふうに思ったということである。

  これまで学校の都合等で何回か出席できないことがあって,既に議論されていることを申し上げるかもしれないが,その辺は重複することをお許しいただきたい。
  参考資料の委員の御意見を拝見して,ちょっと幾つかお伺いというか,教えていただきたいことがある。まず,3ページ8行目の「祖国愛を削除するべきである」という御指摘に関するコメントであるが,この3ページ8行目の文章というのは,ぱっと読んでみたところ,勇気から郷土愛まで約10個ほどの概念が並列されている文脈になっていると私は読むが,このコメントでは,祖国愛だけが極めて突出しているように書いていらっしゃる。コメントの5行目に,「この文の趣旨は,かみ砕くと人間として持つべき祖国愛を文学を通して身に付けることができる」と書いていらっしゃるが,10個ほど並列されている事柄の中で,なぜ祖国愛だけを取り上げて,文学を通して身に付けることができると読めるのか,それをお教えいただきたい。
  同じくコメントの4行目には「祖国愛という言葉は,ほかの勇気や誠実と違って個人の自己形成にはそぐわない」とあるが,次のパラグラフの下から4行目を見ると,「祖国愛や愛国心は大切なものではあるが,個々人の心の中に自然に沸き起こってくるべきものである」とある。個々人の心の中に自然に沸き起こってくるべきものであれば,個人の自己形成にそぐわないというのは,私にはどうつながるのかが分かりにくいので,その辺も教えていただければ幸いである。

  やっと反論していただいて感謝する。10項目並んでいるうちの祖国愛を取り上げたのは,10項目の中で,祖国愛だけが突出しているというのが私の意見だからである。つまり,ほかのものは人間として持つべきものということで割合にすっと入る。しかも,いろいろ議論はあるにしても,正義であるとか,勇気であるとか,誠実であるとかというものは自己形成にとって重要なものであろうと思う。しかし,祖国愛というのは,その概念とはやや違うのではないか。つまり,この原案は祖国愛の部分だけが非常に突出しているので,違和感を持っている。それで,ここは削った方が妥当であろうということである。
  それから,確かに祖国愛や愛国心というのは大切なもので,個々人の中に沸き起こってくるものであるが,ただ,この審議会は国の審議会なわけである。つまり,この審議会は文部科学大臣に最終的に答申をする。意見を言って,それを政策に反映させるということの中で,国の審議会がいかにも祖国愛を押し付ける,あるいは文学でもって祖国愛を教えるというふうに受け取られることは避けた方がいい,そういうことである。
  どうも私だけが一人抵抗しているというような感じであるが,なぜこだわるかというと,今日配布された御意見の中に「現行の学習指導要領の基になった教育課程の審議会でもこういうものが書かれている」,こういうことが書かれている。つまり,国の審議会で一つのことを書くと,更にそれは引用されていくということである。御意見の趣旨は分かるが,御本人が意見を語っているのではなくて,これは教育課程審議会でこういうふうに書いているから,更にこの分科会でも同じようなことを書いてもいいのだというふうに読める。そういうことで,危ういものは,あるいは誤解を受けるようなものは,国の審議会としては削除すべきであるというのが意見である。
  先ほど,突出して祖国愛の部分を書いているのではないかと言われたが,私は祖国愛の部分を問題にしているので,こういうふうな書き方をしているのである。もちろん,ほかの勇気や誠実というのも,文学を通して身に付けることもできると読んでも結構である。ただし,そこのところは普通の人が読んで,まあ,そうだなと思うが,祖国愛だけが,さっき言ったように,この10項目の中で突出しているのではないかというのが私の意見である。

  郷土愛というのは突出していないのか。

  前の議論では,祖国愛と郷土愛と武士道精神を削れと言ったが,ここに書いているのは最小限のことにしたのである。この4項目以外にもいろんなことがあるが,この4項目だけは私としては修正してもらいたい。皆さん方も,いろんな文言や内容で不満があると思う。私も幾つかほかにもあるが,この4項目を挙げて明確な議論をしたいという意味である。郷土愛については,中間で,まあ,そこは入れてもよかろうというふうに思っている。

  私の意見は,よくまとめていただいたということで,祖国愛を削ることには反対の意見である。
  少しく現場に即してお話し申し上げたいと思う。前にも申し上げたかもしれないが,実は私どもの学校は私立学校で,学校法人立でその理事にイギリス大使が入っている,ブリティッシュ・スクール・イン・トーキョーという学校をやっている。これはイギリス人の子供のための,幼稚園から中学校までの400人ぐらいを預かっているのであるが,その学校に日本人の子供が入りたがるわけである。何人も来る。社会的に高度に訓練されている,つまり日本の社会でいろんな意味で援助してもらって,国の費用がたくさん入っているような大学を卒業して,そして活躍している人が自分の子供をその学校に是非入れたいというわけである。
  私は,原則,そういう人たちにはすべて会って,日本人ではなくなるからやめなさいと言っている。つまり,幼稚園からブリティッシュ・スクールに入るというのはイギリス人になることである。ブリティッシュ・スクールでは日本の文化を伝えるということは考えていないから,自分の国の文化を伝えると同時に,相対的な意味で,こんな文化もあるよということで,日本の行事を子供たちに紹介したり経験させたりしているけれども,基本的なところはイギリス式を全く動かしていない。だから,そういうところに幼稚園から入れると日本人でなくなるよ,その覚悟はできているのかと言うと,多くの親はそれでいいと言うのである。それでいいという人ばかりになると,日本の文化はなくなる。日本という存在がどうなるのだろうかなという,だれでも抱く疑問が出てくるのではないのかと思うのである。
  テレビ朝日にいた和田君というのは亡くなったが,私は同級生なので非常に親しくしていた。彼がレヴィ・ストロースと会った直後,非常に興奮して私に話しに来て,レヴィ・ストロースは,文化の相対性ということで,文化の部品として,言語と技術と社会的組織と慣習と宗教的信条という五つを挙げて,この組み合わせで文化ができているという。これはそう簡単には作れないし,一回壊してしまったら簡単に戻れない。それを守るのはいろいろあるけれども,やはり国がやらないとやるところがないという話なのである。これはレヴィ・ストロースの意見である。フランス人としての意見であろう。
  私はそれを聞いた時に,例の『最後の授業』という,戦争によって領土が変更され,あしたからドイツ語しか教えられないという授業の風景を描いた小説を思い出したけれども,やはり言葉という背景には,その言葉を生み出した文化,それを支えてきた国の作用というのは無視できないということは,私は率直に認めるべきではないかと思う。それを抽象的な,蒸留水みたいなことで文化を議論してもほとんど意味がない。文化の価値というのは蒸留水的な水準で決めるのではなくて,土着のすごい土のにおいのする独特のもの,例えば,鼻と鼻をくっ付けるという,ニュージーランドのマオリ族の「あいさつ」があるけれども,ああいうのが文化なのである。あれは蒸留水のような理論では価値の判断はできないと思う。あの背景にある生活とか,宗教的信条とか,慣習とか,生き方,自然,全部がかかわってああいうものを作り上げてきている。そういうのが地球上にいろいろあるのをみんなが大事にしようというところから始まって,国際平和ができるということであれば,自分の国の日本の文化というのは我々が守らなければいけないのではないか。外国の人に守ってもらうという考え方は,守ってくださる方がいれば大変貴重だし,有り難いのであるけれども…。
  もちろん,御心配しておられるようなショービニスムというような偏狭な祖国愛になることは避けなければいけないけれども,多様な価値観,ダイバーシティーという多様な価値観を前提とした自国の文化に対する愛情―言語がその一部である―そういうものがなければ,日本の文化の存在意味がなくなってしまうのではないか。私は「日本人としてのアイデンティティー」が削除されたときは,実は文部科学省のほかの会議があって,出ていなかったので,意見を申し上げられなかった。しかし,決まったのだから,それ以上は言わないけれども,残念だけれども,それはそれでしようがないと思うが,せめて祖国愛くらいは入れておかないと,ちょっと笑われてしまうのではないか。笑うというのは外国の人が笑うのではないかという気がする。イギリス人などは,不思議に思うのではないかという感じを持っている。

  日本の文化を守ることが必要だというのはそのとおりだと思う。しかし,この国語分科会の中で国語力を高めようという議論をするときに,祖国愛というのはそもそも必要なのであろうか。

  日本語を大事にしようという気持ちは祖国愛が根っこにあるからだと思う。郷土愛もそうだと思う。日本人として生きていることに愛着があるから,日本語を大事にするのではないかという気がする。やはり,文化が違うと宗教が違うし,また,表現や行動も違ってくる。行動の違いが生まれてくるのは,日本人だと,日本人の生きている自然みたいなもの,島国で,閉ざされて,四季があって,そういうようなものから出てくると思うわけである。
  日本の宗教というのは,行動というか,身体的な,これは受け売りであるけれども,私もそのとおりだなと思っているものだから,時々使わせてもらっているが,やはり体の使い方が外国の使い方と違う。特に宗教の行事にそれがはっきり出てくる。そういう体の使い方は,この国に愛着を持っていると大事にしようという気になると思うが,愛着がないとだんだんなくなってしまうのではないだろうか。ほかの国と違う文化だという理屈だけで維持していくことは,どうも難しいような気がする。
  だから,理論は分かるけれども,日本語を大切にしようという気持ちが存在するためには,もっと根っこにあるどろどろした愛着とか,私はあれが好きなんだとか,そういうのが支えているのではないかという気がするのである。その一つが祖国愛だと思う。ショービニスムは駄目だというのはよく分かる。それは御心配のとおりであろう。だから,原案のように書くことによって,そういうものが生まれてくるとしたら,神経質になった方がいいと思うが,それはちょっとないのではないか。それが余りにもなさすぎて,今,むしろ混乱しているのではないかという気がする。

  今,議論している委員のコメントというのは,ここの多数の意見から言うと,御本人に取り下げていただくのがいいのではないかと私は思っている。祖国愛が問題になっているから祖国愛で申すと,概要に「我が国の先人たちが築き上げてきた詩歌等の文学を読むことなどによって」というのがあるが,『万葉集』にも祖国愛を歌った歌は幾つもある。特に中国へ渡って日本に帰れなくなって,日本に対するあこがれとか愛を歌った歌があるわけで,古来幾つも数えることができる。
  最近で言うと,朝日新聞の短歌の欄を見ると,毎週のように外国在住の人が歌っていて,2首も3首も日本に対するあこがれ,愛というものを歌っていて,私は涙が出ることがある。文学作品を読むということは,文学作品にはいろいろな思いが入っている。その中の一つに,異郷の地にあって日本に恋い焦がれる,日本でよかったなというような気持ちがある。こういうものはあるわけで,あるものをここに素直に出している。それをあえて消すという方が私には分かりにくいのである。
  これを押し付けと書いているけれども,概要には,祖国愛を身に付けるために読めとは書いていない。文学作品を読むと,おのずからそういう感情が沸いてくるであろうということを言っているわけで,したがって,できればここでたらたらと討議するのはやめていただけると良いというのが意見である。

  最近,子供たちの間に「あけおめ」という言葉が多く使われているのであるが,これはこの前,毎日新聞でも取り上げていたが,「あけましておめでとうございます」の略なのである。携帯を使って「あけおめ」と。
  また,ある会に一昨日出たが,司会の方が,「新しい年を迎えたので,皆さん,声をそろえてあいさつしましょう。」ということで,「あけましておめでとう」と大きな声であいさつをしたのであるが,やはり新しい年を迎えた喜び,五穀豊穣を願う気持ち,こういうものが「あけましておめでとう」という言葉には込められていると思うのである。「あけおめ」という言葉を聞いて,ちょっと寂しい思いがしている。
  先ほど教育課程審議会のお話が出されたけれども,教育課程審議会の論議を進める中で,今日の子供たちの様々な実態というのは,アンケート・意識調査等によってまとめられて,当然そういうものも踏まえて,更に論議がなされ,そういう言葉が出てきていると思う。そういう意味では,実態を踏まえて,更に論議を重ねて,その中に表現されている言葉であると思うので,その辺を考える必要があると思う。実際に,教育現場で祖国愛云々が大きな問題になるというようなことは決してないと感じているが,教育の立場から考えて,入れていただく方がいい言葉であると思っている。

  祖国愛を削るべきであるという委員の一連の御意見は分かる気がする。というのは,この審議会のメンバーの中でコンセンサスがある上での祖国愛という言葉には問題はないと思うが,一たん世の中に出たときに,この祖国愛という言葉が過去50年より少し前までに使われていた日本語の祖国愛という言葉のニュアンスなどを思い起こさせて,批判の対象になる可能性がなきにしもあらずだと思うからである。だから,ここでみんなの一応のコンセスサスのあるものを,少し言葉を言い換えて何とかならないかというのが私の意見である。
  具体的には,先ほど自国文化に対する愛情を持つべきであるという御意見が出されていたが,それを郷土愛にも結び付けて,自国文化及び郷土に対する愛情,愛というような「国と郷土に対する愛」と言えば,内容的には同じであるが,祖国愛という言葉が独り歩きをする危険性はなくなるのではないかというのが私の意見である。

  今大学で中国語中国文学科の学生を相手にして,私自身は日本語日本文学を担当しているという形で接しているわけであるが,中国に短期留学,長期留学に行く機会がある学生が多い。その学生が向こうに行っていろいろいじめられる,ある言葉を使って罵倒されるという場面が,町を歩いたりしていてかなりしばしばあるらしい。それから,中国人と議論をしたりするときに,いかに日本について何も知らなかったかということを帰ってきてから言うわけである。
  それで,日本語学の勉強で,きちんと日本語の特性等を勉強して,私は古典と近・現代文学と両方を担当しているが,そういうものを通しながら,日本人の生き方,在り方等,明治,大正,昭和を通して歴史を背景にしながら読ませていると,中国人がいろいろと言っていたことが具体的にだんだん分かってきたというふうに言って,いかに自分が無知であったかということを言うのである。
  そういう中で,今日本に生活していて,余りにも今までのほほんとしすぎていたという反省から,私の授業も一つのきっかけにして,日本理解というものをきちんとしなければならないということがやっと分かってきて,自分の日本人としての物の見方,考え方,過去の歴史とかというものを踏まえて,自己形成をしていかなければならないということを言うようになる。やはり余りにものほほんとした生活をしている若者の在り方の中に,自覚的に作り出していかなければならない教育というものが必要だということがあるので,こういう言葉の背景にある日本というものについて,きちんと理解をさせていくことを考えていく必要がある。
  というふうに体験的に私が申し上げているわけであって,ここに並べてあることを基本とするというような意味合いを考えれば,これはやはり置いておいた方がいいというふうに私は考える。

  祖国を愛する気持ち,自分が生まれた郷土を愛する気持ちというのを何らかの形で入れるということには賛成であるが,祖国愛,郷土愛の前に「愛」と書いてある。郷土愛,祖国愛というのは愛の一種という言い方は変だけれども,愛として,祖国・郷土・自国の文化というふうな書き方にするなら分かるが,愛という大きなカテゴリーを入れておいて,その一部とか一種であるものを同列に並べるというのは,書き方としておかしいと思う。

  祖国愛を入れるか入れないか,入れないと言う委員の御懸念もよく分かるし,今だからあえて入れた方がいいとおっしゃる委員の御意見もよく分かる。要するに,祖国愛という言葉の持つ二つのベクトルというか,両面性,いい方に出たときのナショナリズムと悪い方に出たときのナショナリズムということが,今問題になっていると思う。やはり,先ほどの御意見,あるいは今の御意見のように,並べ方を変えた方がいいと思う。その前に愛という言葉も出てきているし,それから郷土愛という言葉も出てきているので,愛というところを一つにまとめて,逆に,そんなお茶を濁すような言い方では何のインパクトもないということになるのかもしれないけれども,肉親や友人を愛する心,郷土を愛する心,あるいは国を愛する心,自国愛という言葉を入れるなら,あるいは他者を愛する心,他国を愛する心というのも入れた方がいいのかもしれない。
  いずれにしても,私は,今周りの若い人たちを見ていて,韓国や中国の若い人たちに比べて,日本人の自分の国に対する理解とか愛情が圧倒的に足りないということは痛烈に思っている。ワールドカップで,あれもいいか悪いかというのは別として,イタリア戦だったか,勝ったときに韓国の若い人たちが一斉に市庁舎前に繰り出した。あの姿を見て,日本の若い人は,何か知らないけれども,怖いなあと思ったという意見がほとんどだったというのを聞いているけれども,自国を理解する,自国を愛する心が基本になって,他国を理解しよう,他国を愛そうということにつながっていくのだと思う。
  だから,祖国愛という言葉が,今まで使われてきた歴史の中で必ずしもいいイメージを持たないということであれば,その部分の言い方を変えて,あえて入れた方がいいのではないかと思っている。

  今おっしゃったことや,先ほどの御意見と絡めてであるが,自国に対する愛情を持つというのは,やはり,それをどれだけ理解して知っているかということだろうと思う。文学を通じて祖国愛,郷土愛ができるということは,文学を通じて祖国のいろいろなことを知る,祖国の植物を知る,祖国の行事を知るということではないか。先ほどおっしゃったように,「愛」という階層の別のものが出てきているので,例えば,郷土・祖国への理解とか,惻隠の情とか,そのような形で,もっと祖国を知るということから愛が出てくると考えるので,順番は別として,郷土・祖国への理解,人への思いやり,そのような言葉で解決ができるのではないかというふうに思う。

  祖国愛という意味合いは入れるけれども,言葉を変えてというふうなお考えの方もいらっしゃるようであるが,私は,祖国愛という言葉はずばりきちんと入れるべきだろうと思う。祖国愛というのは,知的な理解云々に基づくだけではなくて,感性的なところからも来るし,自分の生まれ育ったというもっと土俗的な部分も入っている。その部分を抜きにすると,先ほどの御意見のように蒸留水ということにならざるを得ない。
  祖国愛を言い換えるということは,誤解を避けるためとは言いながら,言葉自体を変えることによって,祖国愛という3文字の漢字の中に含まれている意味が薄まり,変質をしていくということになりかねない。戦後50年たって祖国愛と言った場合,偏狭なナショナリズムに結び付くとは国民の多くは思わないし,我々もそのつもりはないわけで,我々は国語をテーマに話し合っている分科会なのであるから,この国語というものをきちんと示さなければいけないだろう。祖国愛という国語をもっと薄まった形のものにするということは,我々自身のスタンスが問われるというふうに思う。
  愛という言葉と祖国愛,郷土愛等々が並んでいるが,考えてみると,愛というのは一つの概念であって,何々に対してというのを全部含んでいる。そこに,祖国や郷土を含めるということは,愛の中身をずっと書かなければいけない形になる。国語ということを考えた場合,祖国との結び付き,それから方言ということを考えた場合,郷土との結び付き,これは共に言葉との結び付きで出てきているわけであるから,このまま残すべきであろうと考える。

  祖国愛という部分について,もう一度この表現をしっかりと読んでいただくと,人間として持つべき祖国愛などは,情緒が形になって現れたものであると解説しているところである。「日本人として持つべき」の方がもっといいと思う方もいらっしゃるかもしれないが,「人間として持つべき……などは,情緒が形になって現れたものであるが,これらも文学などを通して身に付けることができる」と書いてある。そういう形で,ここは感性,情緒等の基盤を成すという,そういうところで,情緒が形になって現れたものの例としてこれは挙がっているわけで,かなり今の議論とは違う一般論を述べているところである。もし議論をいただくなら,祖国愛というのは人間として持つべきものかどうかという議論の方が,ここの表現を修正する議論としては正しいだろう。人間として持つべき祖国愛というのは間違っているかどうかということを議論していただいた方が,ここの修正にはいいのではないだろうか。
  ただし,それは表現に即しての話であって,修正の御意見は,日本人としての自覚や意識を確立することが必要であるという辺りも含めているのだろうと思う。しかし,大分議論が出て,今日も極端に言えば二つの意見が出て交されているわけであるが,「終わりに」のところに,審議の過程では異なる意見が出されているというふうな形で下線を施した部分を付け加えているので,できれば議論はこの辺で終わらせていただきたいと思うが,いかがであろうか。

  今おっしゃったことはかなり重要なことで,そもそもこの文脈で,なぜ人間として持つべき勇気だとか,愛だとか,祖国愛が解説として入ってきているのか。つまり,私はずっとここに来て不毛な議論をしているような気がするのは,一体だれがここを解説として入れようというふうに,絶対入れなければいけないというふうに主張されたのかということである。解説として出てきているということは,逆に,削ってもいいのではないか。つまり,国語力をどう高めるかという,本来の議論とはそれほど関係ないものをここに入れているので,紛糾していると私は思う。だから削ったら簡単なのである。
  それと,さっきの御意見で祖国愛を薄めてはいけないとあった。薄めてはいけないということは,強める。それは,別の御意見にあった偏狭なナショナリズムに,あるいは偏狭な祖国愛に,強くすれば強くするほど,つまり国の審議会が言えばなってしまう。それから,独り歩きをする。私は,先ほど出ていたように祖国愛,愛国心,そういうものは両面性を持っていると思う。非常にいい健全な,あるべき祖国愛と,これは非常に危険であるなという祖国愛,私はそれは厄介なものだと思う。そこのところはこういう審議会では,つまり国の審議会では丁寧に議論した方がいい。何らかの形で偏狭なナショナリズムを避けたいということがあれば,その悪い方を避けるために何らかの言葉に言い換える。それは誤解を避けるという意味で,非常に重要なことではないかというふうに考えている。
  それから,後の方の日本人としての自覚や意識の確立はやめた方がいいというのは,では日本人としての自覚や意識を確立するというのは一体どういうことなのか,だれも説明していただけない。ここで言う日本人というのは一体何か。ここの中にも,ひょっとしたら日本人でない人がいるかもしれない。日本人としての意識,日本人としての自覚,それを確立するというのはどういうことなのか。それが国語力を高めることとどういう関係にあるのかというのをどなたかに説明していただいて,私はそれについて話をしたいと思っているわけである。
  そうしない限りは,異論があったというのを書いておけばいいというわけにはいかない。それは,ここで考えている国語力を高めることにはならない。国語力を高めるというのは,きちんと一つ一つ議論していく。つまり,論理的思考であるとか,議論の力を高めるということで,私は,この議論はいい実験だなと思っている。

  日本の国で最高の教育を受けた人間が日本人でなくていいよ,自分の子供は日本人にならなくていいよというふうに言っているということを実例として申し上げたわけである。そうすると,日本の教育は今まで何をしていたのだろうというのを,私は常日ごろ感じてきたということがある。
  御指摘のように,ショービニスムにつながるような,偏狭な愛国心につながるような祖国愛という危険性はあるにしても,それは理論の上であって,現実には全然祖国愛などというのはないような教育を実は我々はしてきてしまったのではないかという非常に強い反省がある。私自身教員の一人であるから,ちょっとまずかったなという率直な感じがある。それが最高の教育を日本で受けた人たちなのである。これは本当に大変なことではないかなというふうに思っているわけである。だから,あえてこういう提言をするということに私は非常に意味があるのではないかと思っている。
  言葉というのは,裏側には国がある。国というのは,文化を守る存在としての国があるわけである。だから,祖国愛というのと切り離せないものだろうと思っているので,そう申し上げた次第である。我々が今まで先祖から連綿として育ててきた日本語,国語と言われている言葉は,今のところ守るところは国しかない。個人では守り切れないというのをいろいろなところで実感している。であるから,やはり国がやるよりしようがないのではないか。現状は,偏狭な愛国心と誤解されるような状況から,はるかに違うところにあるということを申し上げたかったわけである。

  祖国愛という言葉の中に,偏狭なナショナリズムであってはならないという意味が既に入っていると思う。わざわざ健全なというふうな言葉を付けなくても,それは読む人が正しいスタンスを持っていれば読み取れるものである。そんなことを言えば,正義にしろ,勇気にしろ,非常に危険な要素がある。それ全部に付けなければいけないのかということになるのではないか。
  日本人として云々というのはどういう意味だと先ほどおっしゃったけれども,定義は多分難しいだろうと思うわけである。民族と言った場合,文化とか言語の同一性という言葉があるから,民族にしてもいいかもしれないけれども,それよりももっと幅広い形で日本人として考えたいという言葉で,原案のままでいいと思う。
  ここに今年の元旦に出たある新聞の社説があるけれども,その最後のところ「古来,多神教の歴史を持つ日本人は,明治以降」云々とあって,「日本こそ新たな八百万の神の精神を発揮すべきではないか」と,お書きになっているが,この場合の日本人というのはどういうふうに定義付けてお使いになったのか,お伺いしたいと思う。
  それから,先ほどの御意見に出ていたアイデンティティーという言葉はアイデンティティーという内容を入れないということではなくて,これは国語を審議している場であるから,できる限り片仮名語をやめようとしたものである。何とかいい日本語はないかとみんなで探したのであるけれども,なかなか見つからなかったので,片仮名語よりもほかの言葉で補っていこうということにしたので,アイデンティティーという意味合いを入れないということでは全くなくて,この中にはきちんと入っていると思う。

  先ほど出ていた「終わりに」の「なお書き」のところは,もう一度確認した方が良いと思う。「なお書き」の上から6行目には,「これまでの審議においては種々の意見が出されており,そのすべてを「審議経過の概要」に盛り込むことができたわけではない」と書いてある。次の文では,「また,審議の過程では,「審議経過の概要」に述べられている考え方と異なる意見も出されている」と。今の「祖国愛」が正にそこだと思う。「これらの意見の詳細については,文部科学省・文化庁のホームページで公開されている分科会の「議事要旨」を併せてお読みいただきたい」ということで,今,私がこうやって意見を述べていることについても,また,議事要旨に掲載されるであろう。ということで,異なる意見もあった,我々もそこをしっかりと聞かせていただいたということで,「終わりに」のところに集約されているということで,いいのではないか。

  先ほど日本人としての確立と言葉とどういう関係があるのかというお話がちょっと出たが,豊かな表現をする上で語彙を多くする,豊かにするということはとても大事だと思う。語彙を豊かにすることは,豊かな物事の認識にもつながっていくと思うが,そういう意味で,先ほどから論議されている人間として持つべき云々は必要な項目かなと私は思っている。
  それから,偏狭なナショナリズムということも出てきているが,一部,表現を工夫することも考えられると思う。愛については,例えば人間愛としてみる。それから,偏狭なナショナリズムが心配であるならば,平和という言葉をこの中に付け加えてみてはどうだろうか,そんなこともちょっと考えてみた。

  この議論は,今日初めて出てきた議論ではなくて,もう3回ぐらいやっていて,大体御議論は出尽くしたというふうに私は思っているので,この辺で終わりにさせていただきたいと思う。

  先ほど,新聞の社説に「日本人」と書いているではないかという御意見があったが,私は別に新聞社を代表しているわけではないので,社説にこういうふうに書いてあるというのは筋違いの議論なので,これはまた別のところでやりたいと思う。
  この前の分科会で,日本人としての自覚というのは集団的なレベル,つまり日本人としての自覚とか日本人としての意識というのは集団的なものだというふうな御意見が出されて,私は,なるほど,そうだなと思った。それと個々人の自己の確立というのは,概念が違うというふうに私は思っている。だから,早く決着を付けたいのは分かるが,では日本人としての自覚,日本人としての意識,その確立というのは一体何なのか,そこはどなたにも説明を聞いていない。
  さっきの日本人というのは日本民族でもっと広いというのはよく分からなくて,日本民族でもっと広いというのはどういうことなのか,日本国籍を持っている人ということなのかなというふうに思っているが,その後のところの説明がないので,そこはどなたかから聞きたいと思っている。

  日本人とは国語である,これ以外に全くあり得ない。国家とは国語であるということである。民族の血ではない。というのは,日本民族といっても全く純粋ではない。ありとあらゆる民族の雑多な集合である。全く血ではない。それから,領土でもない。例えばユーラシア大陸の国々は,歴史上,戦争をして占領されたりしたりしている。それでも民族は滅んでいないわけで,結局は国語である。
  例えばユダヤ人を見ると,2000年以上前に国土,領土を失っている。もちろん,混血も多くされている。しかしながら,2000年世界をさまよった後,あのような地を与えられて独立国家を作った。私のアメリカ時代における友達なども,子供の時からみんなヘブライ語を学んで,きちんと国語を継承してきたわけである。さっきのドーデの『La derniere class』というのも同じことであるけれども,要するに,ドイツにフランスが占領されても,君たちがフランス語を忘れない限りフランスは滅びないんだ,フランス万歳というのが最後の文章なのである。
  このように国語が日本人のほとんどすべてである。文化も伝統のほとんど90%以上は大体言語に込められているわけである,母国語に。これは別に日本だけではなくて,地球上すべての国に当てはまることである。したがって,アメリカ人も,韓国人も,中国人も,エジプト人も,すべて各国の言語を大事にしてほしいわけである。
  特に,最近,グローバリズムという下で,アメリカの押し付けが甚だしい。世界は一様な,本当につまらない世界になろうとしている。これからはグローバリズムではなくてローカリズムの時代である。そういう中で,各国家,各民族,各地方,そこで生まれた言葉とかその他の文化とか伝統の美しい花,こういうものを尊重し,尊敬していく。アメリカ人はよく寛容と言うけれども,あれは傲慢な話であって,寛容というのは,お前たちは低いけれども,まあ我慢してやろうということである。そうではなくて,尊敬し,尊重して育てていく。これが21世紀である。グローバリズムはもう終わってしまっているわけである。したがって,そういう意味でも,ここに書いてあることは日本にだけ当てはまることでは全くないということが第1。
  第2は,先ほどから出ている危ないものというのはあるということ。英語などだと,ナショナリズムというのははっきり言って悪いものである。これは自国の国益だけを追う。他国の国益,要するに,他国を犠牲にしてでも自国の国益を追うというのがナショナリズムで,これははっきり悪いもの。しかし,英語では,もう一個,ペイトリオティズムというのがある。ペイトリオティズムというのは我々が言っている祖国愛に対応するもので,自分たちの歴史とか,文化とか,伝統とか,そういう祖国をこよなく愛す。これは,どこの国の人であっても,それがなければ,国際人として話にならない感情,情緒なわけである。私は,イギリス人でイギリスに対するペイトリオティズムのないやつがいたら張り倒す。韓国人で韓国に対するそれがなければ蹴っ飛ばす。少なくともそういうような人と付き合うことは絶対にない。地球市民などと言っても,地球は,あるいは国際社会はそういう人は全く要求していない。必要としていない。
  国際社会というのはオーケストラみたいなものである。オーケストラにおいて,地球市民たるものが,例えば,チェロとビオラとバイオリンがあるので,その三つを混ぜたような音を奏でてそのオーケストラに入ろうとしても,断られるわけである。やはり,各国の人々がそれぞれの文化というものをきちんと身に付ける。その中核に国語があるわけである。それがないと,国際社会では相手にされないということである。
  そういう意味でも,現在,誤ったアメリカニズム・イコール・グローバリズムの下で,世界がめちゃくちゃになろうとしているときに,このようなことをきちんと謳い上げるというのは非常にタイムリーなことである。特に祖国愛というのは全く譲れないところである。
  この分科会で「祖国愛」を言ったのは私が初めてかもしれないが,愛国心という言葉をわざと言わなかったのである。愛国心というのは,手あかが付いている。戦前から,日本の愛国心というのはナショナリズムとペイトリオティズムの両方を含んだ概念なのである。私はこれを嫌ったわけである。ナショナリズムというのは,国民からはやはり一掃したい。政治家等にはある程度持ってもらわないと困るが,国民一般には持ってもらいたくない。だけれども,ペイトリオティズムを持たない人は話にもならない。そういう意味で,手あかの付いていないペイトリオティズムを意味するものとして,祖国愛という言葉を私はいつも使っているわけである。

  本当にいいお話であるが,もう繰り返しが多いというふうに私は思う。議事録をずっと御覧いただくと,3回,4回ぐらい前から同じような議論がずっと続いているような感じがお分かりいただけると思うが,大方の御意見は,今日お示しした原案で良いのではないかということで,いろいろな異論も部分的には皆さんお持ちのようであるけれども,この方向で更に文言を整えるようなことを努力してみたい。そういうことで,最終版を作ることにさせていただきたいと思う。

  私は反対する。

  作るなということであるか。その御意見は「終わりに」のところに含めて読んでいただくことにしたいと思う。これから事務局と今日の御議論を踏まえて,文言を少し修正させていただきたいと考えている。もちろん修正したものは最終的にまた見ていただくが,どうぞ御一任いただきたいと思う。よろしいであろうか。    (分科会了承)


(2) 「委員アンケートの扱い」及び「審議経過の概要の構成」についての議論
(○は委員,△は事務局を示す。)

  資料2を御覧いただきたいと思うが,これが本冊である。まず,「はじめに」を挙げて,2ページ目から章が分かれているが,これが概要である。参考資料として,委員の名簿,文部科学大臣の諮問及び諮問理由説明,最後に審議経過とある。これが一つ。
  それから,別冊としてまとめてみたのが,夏にいただいたアンケートと,「子供たちに読んでもらいたい本のリストの構想について」である。リストは結局二人の委員からしか出なかったが,それを別冊として作ってはどうかというふうに御提案したい。
  それから,ブックリストは載せるというように決まっていたが,量的に二,三ページにしかならないということであるので,リストだけを資料2の方に併せるというのは,バランス上もちょっと変なので,考えたのが,こういう別冊としてアンケートと一緒に付けるということである。ただし,本体の方にも参考資料があるから,こちらは別冊参考資料となるのかもしれないが,こういうふうに分けて2冊の本を作ってはどうかと考えたのである。こんなところが妥当ではないかと思うが,よろしいであろうか。

  ブックリストというのは,内容的には,この委員からこういうリストがあったということであろうか。

  別冊の53ページをお開きいただきたいと思う。冬のアンケートについては,当初,ブックリストのお話と審議経過概要をまとめるに当たって提案しておきたい具体的方策という二つを実施させていただいたが,前回,その具体的な提案については極力本体の方に吸い上げてはどうかということがあって,上から三つ目の○であるけれども,「議論され,必要な部分は審議経過の概要の中に取り入れられた」という形になっている。
  それから,残りのブックリストのお話であるけれども,これについては趣旨を説明していて,「分科会において委員から「子供たちに読んでもらいたい本のリストを作って広く示すべきではないか」という意見が出されたことを踏まえ,……お考えをお持ちの委員から御提案をいただいた」と書いている。ただ,これについては分科会としてこれをやるというわけではなくて,様々な御意見もあり,今後議論を要するということは明確に書いた上で,今回の資料については,飽くまでも各委員の自由な意思で御提出いただいたもので,分科会で議論されたものではないけれども,国民にイメージを持っていただくために,参考資料として広く公開することにしたものであると書いている。
  なお,今回,二人の委員から御提出いただいているけれども,これらについては,それぞれの委員のお考えに基づいて提出されたものであって,それぞれの委員の御了解を得て,名前を添えて公表することとしたということを書かせていただいている。

  今,気付いたところがある。後で言ってもよかったのであるが,委員に対して敬語が使ってある。これは取った方がいいだろう。「御提案については」とか「お考えをお持ちの委員から御提案いただいた」とかいうのは,分科会が書くということなので,全部取らせていただく。
  そういうことで,分冊で,表紙を二つ作って,概要の経過報告をするということにさせていただきたいと思う。    (分科会了承)



(文化庁文化部国語課)

ページの先頭へ