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国語分科会

2002/12/17 議事録
文化審議会国語分科会第11回議事要旨

文化審議会国語分科会第11回議事要旨

平成14年12月17日(火)
午後1時30分〜4時30分
東条会館新館「千鳥の間」

〔出席者〕
(委員)北原分科会長,青木,阿,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,工藤,小林,五味,舘野,手納,西尾,藤原,黛,山根各委員(計18名)
(文部科学省・文化庁)河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官


〔配布資料〕
  文化審議会国語分科会第10回議事要旨(案)
  これからの時代に求められる国語力について
    −文化審議会国語分科会  審議経過の概要(素案)−
−1  これからの時代に求められる国語力について
    −文化審議会国語分科会  審議経過の概要(素案)−参考資料1(案)
−2  これからの時代に求められる国語力について
    −文化審議会国語分科会  審議経過の概要(素案)−参考資料2(案)

〔参考資料〕
1  【委員限り】これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について
(検討用資料)への委員意見
  文化芸術の振興に関する基本的な方針について(答申)(平成14年12月)

〔経過概要〕
  事務局から,配布資料の確認があった。
  前回の議事要旨について確認した。
  事務局から,配布資料2,3−1,3−2により,「審議経過の概要」の全体構成について説明があり,それに基づいて意見交換が行われた。その結果,今回のアンケートについては,読書リストはそのまま委員名を付して載せる方向で進めるが,現在出されている2名以外についても更に募集する,読書リスト以外の提案については,「審議経過の概要」の「III これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」の中に委員名を外して入れ込むこととなった。
  また,夏のアンケートを載せるかどうかについては結論が出なかったので,次回改めて検討することとなった。なお,夏のアンケートを載せることになった場合,修正したい箇所のある委員は12月27日までに国語課あてに連絡することとされた。
  事務局から,配布資料2についての説明と朗読があり,それに基づいて意見交換が行われた。
  本日の議論に関して,更に意見のある場合は,代案を提示した上で,国語課まで電話,又はファックス,Eメール等で意見を提出することとなった。また,「本日の意見」及び「その後の提出意見」に基づき修正した「審議経過の概要(案)」を事務局から各委員に送付することとされた。
  次回の国語分科会は,1月17日(金)の午後1時30分から,東条会館新館「扇の間」で開催されることとされた。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)文化審議会国語分科会「審議経過の概要」の全体構成についての議論
(○は委員,△は事務局を示す。)

  参考資料のうち,資料3−1は,委員の名簿,大臣の諮問,諮問理由説明,審議経過というもので,こんなものは要らないというような御意見はないだろうから,この部分は付ける。資料3−2は二つに分かれていて,51ページまでが夏のアンケート,全員ではないけれども,夏に答えていただいたものである。53ページからは今度出していただいたブックリストと,それ以外に考えられる具体的な方策である。もう決まっているという面もあるかもしれないが,もう一度よく考えてみたいということで,お諮りしたい。
  一つは,夏のアンケートは,こうして見ると,量が大きすぎるのではないか。本体が貧弱とは言わないが,13ページであるのに対して,51ページというのはまとまっていないような感じがしないか。飽くまでもこれは審議経過なので,こういう形で審議しているということでいいとも考えられるけれども,それが1点である。
  今回のアンケートの方は,5名の方しか提出されていない。この5名以外の中には,夏のアンケートで出したから控えたという方がいらっしゃるとすると,夏の方をやめて後の方だけ載せると変なことになってしまうということもあろうかと思う。そういうこともあるが,一つの案としては,夏のアンケートはやめたらどうか,あるいはもうちょっと短くしていただくとか,そういうことがあろうかと思う。
  それから,今回のアンケートについては特に読書リストが余りにも少ない。もう少し出してくださる方がいらっしゃるなら増やすかというようなこともある。これは,参考資料で,討議をしなくてもいいわけだから,今日そのように決めれば,1月の分科会までに出していただければ添えられるということがあろうかと思う。

  私は資料3−2を切るというのに賛成である。理由は,夏のアンケートについては,資料2の審議経過の概要の中に各人の意見として入っているからである。宿題として出たから書いたわけであるが,これを書き直すのは大変であるし,この意見は既に吸い上げられているというように私は考えている。
  もう一つ,冬のアンケートであるけれども,私も実は発言で読書リストは出す方が良いと賛成した一人であるが,しかしその場合でも,個人が出して,これが良いというような形でのリストというのは私は想定していなかった。これはその道の専門家で,どういうリストが良いのかという言語発達を踏まえた形でのリスト作りというのが大事だろうと思うので,リストのリストを紹介するというのはいいような気がするが,こういう形のものはやはり十分ではない。それから,読書リスト以外の提案については,今後の検討で取り上げていくと良いのではないか。大変刺激的ないいことを書いておられると思う。以上の結果,資料3−2は今度のものには添えないことに賛成する。

  前回のことを整理させていただくと,まず,本のリストについて,分科会としてのリストを出すことはやめるという明確な合意があったと理解している。ただ,それぞれの委員が補足の意見としてお出しになることについては,それはいいのではないかというような理解で,その時にお出しになる委員の数が多かったらとか,少なかったらということは議論になっていないので,少なかったから出さないということになると,もう一度議論をしないと,なかなか難しいことになろうかと思う。

  今日お諮りするのは,夏のアンケートをどう扱うか,これが一つ。これを載せる,載せないというのは決まっていないので,これはこの会で決める。
  それから,ブックリストは非常に強い御意見があって,この前の会議では,個人の名前で,どうしても出したいという方がいらっしゃれば,載せると決めた。もう一つの,お三方からいただいた貴重な御意見も,個人名を載せて,こういう形で載せるというふうに決めたということだったと思う。ということは,要するに,今回のブックリストについては切るわけにいかないということになるのではないか。

  載せるというよりは,正確に言うと付するということである。本体は飽くまでも本体であって,それに付して,こういった委員からの意見があったということを出すという了解だったと思う。

  この前の会議はそういうことだったとすると,一度決めたことをまた審議しているのでは,あっちへ行ったりこっちへ行ったりで,船頭は何しているんだということになるので……。ただ,私の感想を述べてはいけないのであるけれども,3人の委員の方からいただいた提案は,例えば,概要の10ページの点々の中にこういう意見もあったという形で組み込むことができるのではないか。点々の中に,こういうような意見があるとして入れた方がむしろ全体の中に取り込めるという感じもするし,その方が概要としては整う気もするけれども,この前の審議で決めたのだから,こういう形で名前を入れて出せということになれば,これはまたしようがないが,その辺も含めていかがか。

  この概要と付記の参考の両方を拝見していて,審議経過の概要そのものは,いろいろな意見を第三者が聞いて,こうであったという基準で書いてあるもので,オーナーシップというか,だれが,何を,どのようにという主張というものがなかなか見えないように感じる。そして,各委員の御意見及び夏の宿題,冬の宿題を拝見していると,やはり自分としてはこうであるという主張が感じられるもので,そこにこの二つの文章の大きな違いがあるように感じる。それゆえに,各委員の意見というものは,もっと整理することが必要ならそれはすべきだと思うし,もう少しバランスを取ることも必要かと思うが,肉声として,是非入れていただくのがよろしいというふうに私は考えている。
  また,審議経過の中に,こういう意見があった,こういうふうに考えられるというだけだと,一体何が正論であるかということがなかなか分かりにくいと感じるので,その辺の工夫を,何か一本筋の通った主張を持って行った方がいいのではないか。

  どうもこういう答申というのがよく分からないのであるが,本文以外に,付録資料を付けるということは普通よく行われているのか,それとも答申だけを行えばそれでよいのか,そういう慣行上の問題があるかなという気もする。これだけ長い間いろいろな方法で議論を進めてきて,確かにこれだけの人間がいて,共通のコンセンサスは,ある部分を除いて,ほとんど得られるわけがない。本当に反映するためには,今おっしゃったように付属資料を入れねばならないということにもなるが,そういう資料は飽くまで補助的に添付する資料であって,分科会としての答申は主たるものに行われていく。簡単に言えば,付属資料は読まない人が一杯いるという,そういう性質になろうかなと思うので,やはり私は本文が集約されるような形で,できるだけ精度の高いものを入れるということがまず第一義であって,それに補助的な資料を加えるというのだったら,加えてもいいかなというふうには思う。
  本のリストについて触れれば,そういう補助的な資料を加えるという考え方に立ったとき,これを補助的な資料として,それぞれの方が個人としてお出しになったのだったら別にいいと思う。ただ,リストを添えるというのは,前回,ある程度合議があったかもしれないが,リストの具体的な中身が出てこなかったら,一体いかがなものかというのは全く分からないわけで,リストの提示がはっきり出たのは今日が初めてなので,私の個人的な感想を言えば,このリストには相当異論がある。こんなことをやっているから,こんなものをリストに挙げているから,いつまでたっても読書が進まないのではないかなと思うくらいの感じを持つ。それは,また別な方の別な意見もあってよいと思うけれども。もしリストを何らかの形でこの会の考えを反映させて出すのだったら,本当にリストのための専門の会議を何度か重ねて頑張らねば,とても簡単に出てくるものではない。だれであろうと個人の意見でリストをぽんと出して添えるというのは,本当に付属の資料としてこういうものもあるという形で出すのであればともかく,全体を何らかの意味で反映するような形で出すには非常に不適当であるかなと考えている。

  審議会の報告というのはそもそもどういう性質のものかということについて,事務方から御説明をさせていただく。
  基本的に,今回はたまたま審議経過の概要をまとめることになっているが,最終的には答申を出すための作業で,これは先生方の任期との関係で,取りあえずまとめようということでやっているものである。最終的にはこれが答申になっていくわけであるが,答申というのは,文部科学大臣から諮問を受けた事柄について,全体の合意でこういうものであるということを出すもので,極めて重要な,また権威のあるというか,その後,それに従って行政は対応していかなければいけない,言わば国の方針をある意味で決めるものである。そういう意味で,答申については,すべての委員が議論の結果,もちろん個々人の御異論はあるかもしれないが,全体でこれなら仕方がないかなという合意を必ずいただかないといけない性質のものである。そういう意味において,その中身は,十分な議論が行われるべきであるというようなものであろうかと思う。
  それで,そういうものに何かを付することがあるのかという御質問であるけれども,これは中身によってはある。例えば,今手元にないが,中央教育審議会で「心の教育」という答申を出したときがあって,子供たちの心の教育について,これも非常に価値観の分かれる問題で,コンセンサスとしての答申のほかに,その答申を出すに至った様々なアンケートとか,資料とか,世論調査とか,諸々を付属資料として付けて,こういう世論調査やこういう御意見などを踏まえて議論した結果,こういうものになったという形で付けたものがある。
  したがって,今御議論いただいているいわゆる夏のアンケートというのは,もし付けるとするならば,この議論をするに当たって2002年の夏の段階でこういう委員のアンケートがあった。それを踏まえて議論していくと,本体の,今回は審議経過の概要であるが,最終的には答申の付属資料になるということは当然あり得る。
  冬の,言わば今日の後半の方の問題であるけれども,これについては,一般的には,本体にこういうものを付すということはないので,参考として委員個人の御意見があったというようなことで出すことになる。これは,前例として,中央教育審議会で「少子化と教育について」という報告を出したことがある。ただ,今回と例が違うのは,これは文部科学大臣の諮問に答申するという形ではなくて,審議会自身がこのことをちょっと議論してみようじゃないかというふうに自発的に議論をして,自分たちはこういう議論をしてみたのだけれども,どうだろうかということで提出をしたものである。全体のコンセスサスを得たものに加えて,すべての委員が,自分は実は個人的にはこういう意見も持っているというようなものを加えて,参考ということで,本体の報告書とは別の参考資料として出したという例がある。
  もう一つ付け加えると,今日の資料の中にも入っているが,最近出た中央教育審議会の「新しい時代における教養教育の在り方について」という答申が出ている。これには,もちろん本体には何も付いていないが,もう一つのやり方として,最終的に答申が出ると,大臣に出すだけでなく,国民の皆さんに,今度こんな答申が出ましたよという一般向けのパンフレットみたいなものを作ることがある。そのパンフレットの中に,何人かの委員が自分はこう思ったというのを,国民の皆さんが見るときの参考という形で付けたというようなことはある。
  いずれにしても,飽くまでも本体というのは,途中多少の異論はあろうとも,最終的にこれで仕方がないなという皆様方の合意をいただいたものにしていただかなければならないのであって,それ以外のものが本体になることはあり得ないというふうに御理解いただきたい。

  そういうことであると,付録の付録というか,補助的な資料が本体よりはるかに多いということは,むしろよくあることではないか。(△はい,そのとおりである。)

  余り時間を掛けたくはないが,51ページ分については,実は概要の中身の説明が詳しくあると,また分かりやすくなると思う。これは我々初めて今回見せてもらったわけで,どこでもいいが,例えば10ページを開いていただいても,11ページも同じことであるが,点線の中に「意見があった」「意見が出された」「意見などがあった」「述べる意見もあった」というふうにずっと書いてある。今10ページの点線の中を読んだのであるが,11ページの方も,「意見があった」,「意見があった」とある。私は「様々な意見が出された」と書いてあるので,この文末は取ってしまって要らないと思うが,それは後の話として,こういうふうに「意見があった」というのが随分羅列されているわけである。
  ここに並べられた意見に対して,お三方の意見がなぜ後で加えられるのかというような,形の上から見ると非常に変な形になるので,できれば,せっかく文章まで考えて,お名前が出るのだからというので,口でしゃべるのとは全然違う御努力をされてお書きになったのを申し訳ないけれども,3先生のは,こちらの方に上手に組み込めないかなというふうに思う。その方が概要の経過としてはきれいになるだろうと思うので,ここはもし御同意が得られれば終わったことにしたい。(出席の2委員了承。)
  それから,ブックリストは,もし載せるなら二人ではちょっと足りないので,もう少し出してくださる方がいないと,なぜ二人なのかというようなことにもなる。これは,この前の会議で御反対の意見もあったけれども,今日また絶対だめだという御意見が出れば別であるけれども,また出てもいるが,これは載せる方向で行くのではないかと思っている。
  51ページ分については概要の本体の方にいろんな意見があって,それとの関係で,これだけ「意見があった」,「意見があった」を並べて,それからまたA委員,B委員というのがあるのがきれいかどうか,そういう問題もあると思う。その辺についてもう一度整理させていただくと,お三方の提案は本体に入れさせていただく。ブックリストは,今のところは載せるという方向でいったらと思う。

  やはり諮問にこたえるためのたたき台として,皆さんが御意見をお出しになったのだと思うし,諮問にこたえる文章の中に,こうした内容が吸い上げられているはずであるので,これは添付しなくてもいいのではないか。私自身も出したものの大半は吸い上げていただいているという自覚があるけれども,この部分についてはもうちょっと言い直さないと駄目だなと思う部分がある。その点については,今日まとまった文章を見て,私はここのアンケートに答えたからここでは言わなくても大丈夫だと思って発言しなかった部分については,今日改めて提案し直すという形で,もう一回整理し直していただくというふうにして,それぞれの方が,御自身がお書きになったものを答申の中にきちんと組み込めるような形で,意見を出し直すという形で整理したらいかがであろうか。

  これは概要の素案であるので,本文の構築ができていないということで,第三者が書いたような,第三者の聞き書きのような印象を受ける。その聞き書きのような形で残るのであれば,肉声が必要だと思う。本文が肉声をもっとしっかり吸収し,いろいろな意見が出されたという形で羅列してあるところを,何が大事で,どれがどれに呼応しているというような整理ができて,また主題というか,この答申の本当のテーマがどういうところにあるかというものが出てくる時期になれば,付表は必要ないだろう。
  ただ,このままではまだ大変弱いというふうに感じるので,委員の肉声の方が一つ一つの部分においては分かりやすいということで,私は付けた方がいいと思う。

  今回は答申を出さないということで,この報告書を出す。「終わりに」というところが最後の13ページにあるが,「分科会としては,今後とも国民各界各層からの意見なども踏まえつつ,各般の審議事項について,引き続き,積極的に審議を進めていくこととする」とある。これが終わると答申が出るということだから,今の51ページ云々というのは答申までの間の基礎資料というか,次の委員に多分来年代わるだろうと思うが,そういう人たちの資料としては有効である。答申に付ける資料であるかどうかということについては余り有効でないのかもしれないが,今回は答申ではないわけであるから,やはりこれは残しておいた方がいいのかなという感じはする。

  私自身は,五十数ページに載せられた分の,少なくとも自分が書いた分に関しては,こちらに吸収して入れるというのに賛成である。ただ,こうやって素案を作ると,まとめるし,抽象化するから,本当に抽象的になってしまうので,私自身としては,例えば点線で10ページ,11ページ,12ページに出されている私の意見というのは,12ページの「(4)その他の国語力を高めていくための方策について」というところに多分入る。つまり具体的な方策が必要だというのが提案の中で芯になれればいい。芯というか,提案の中に並列に置ければいい。国語力とはこういうもので,それを発達させるというだけでなくて,これには是非とも具体的な協力,方策,場というのが必要であるというのが柱に立てられないか。その上で,その他の国語力を高めていくための方策について,五十数ページの中の自分の意見は吸収されていってもいいと思う。

  それほど強い意見ではなくて,本当を言うと,どちらでもいいという感じであるが,強いて言えば,載せても別に害があるわけではないし,構わないのではないかなというのが率直なところである。つまり,これは多分公開されるわけでだから,インターネットなどに載れば,これを読んでいろいろなことを考える人もいるし,何らかの手掛かりを国語について得るということもあるかもしれない。そういう意味で言うと,様々な意見があってばらばらであるから,それに賛同する人や反対する人,いろいろいるであろうから,そういうことを考えれば,これを広く公開するということは意味があると思うし,さっきの御意見のように,次の答申に向けてまとめるについても多分参考になるだろうと思うので,あえて切り捨てる必要はないと思う。
  ついでに言っておくと,私はブックリストについては反対だけれども,どうしても載せたい人がいるとすれば,それはやむを得ないだろうと言った。それは変わっていないので,どうしてもブックリストを載せたいというお二人の方がいるならばそれは無視できない。それも載せるべきであろう。後のお三方については,あえて中に入れてもいいというならばそれでもいいし,このままにしておいてほしいというならばそれでも構わない。基本的に言うと,私は丸ごと載せても構わないという意見である。

  今,いろいろな意見が出たみたいに,本体の中に力強さが余りないから補助資料としてこれを添えるというのであれば,私は考え方として違うと思う。やはり本体を充実させることが一番大事なのであって,本体の中に,何らかの意味でこの五十何ページの力強さみたいなものが強く反映されるよう結集すべきであって,これが添えてあるから,本体の方は少し甘めに,「という意見もあった」,「という意見もあった」でいいだろうという答申ではちょっと意味がないのではないか。
  だから,やはり本体を充実させるということをまず第一義的に考えて,それがきちんとできたら,付属のもっと詳しい資料としてこれを添付するかどうかを考える。そうすると,むしろ,これは二義的な問題になっていって,情報量は豊富な方がいいから,公開してもいいかなということに自然になっていくのではないか。だから,これを付けることが,本体をきちんと詰めていかないことのエクスキューズになってしまったら,非常にまずいのではないかなという考えである。

  今の御意見に全く賛成で,ちょっと入り口を間違えたので,付属資料をどうするかということから話が始まってしまった。まず,こちらの概要についてしっかりやって,結果として,それでは付属資料をどうするかという話に順番を変えれば,こんなことで時間を長く取る必要はないのではないか。

  それでは,ブックリストは,この前,強い反対もあったけれども,個人で載せるなら載せようということで決めたので,これは載せる方向で行きたい。
  それから,3人の方の提案は,本体の方に組み込むことに決めたことにして,夏のアンケートを載せるか,載せないか。これは載せるか,載せないかの話であるので,決めないことにして構成については最後にまたお諮りするということで,本体の検討の方に入らせていただきたい。


(2)文化審議会国語分科会「審議経過の概要(素案)」についての議論

  前々回,「日本人としてのアイデンティティー」という言葉が唐突に出ていて,これからの時代の国語を考える上で,この唐突な言葉はふさわしくないと言った。前回はその「アイデンティティー」という言葉は消えたが,その臭みがまだ残っているということを言った。臭みというのは余り品がないので,その色合いが濃厚に残っているという言い方にしたいと思うが,つまり日本人のアイデンティティーというのは言葉を変えてあちこちに残っていて,それがどうも違和感があり,気掛かりであると前回言った。
  今回もそれは変わっていない。先ほどの説明で,3ページの部分で「日本人」というのを「先人」に変えたということだが,部分的にはそういうふうに変わっているが,余り変わっていない。どういうふうに残っているかというと,日本人としての自覚や意識を確立する,あるいは日本人として共有する意識を基盤にする,あるいは意味がよく分からないけれども,日本人としての根幹にかかわる部分,そういう表現がある。武士道という言葉は消えたけれども,祖国愛という言葉は残っている。
  日本人としての自覚や意識を確立する,あるいは祖国愛というようなことは,私は必要な部分があると思う。あると思うが,今回の国語分科会で,今後の国語力をどうやって高めていくか,今後の国語力というのはどういうものであるべきかという議論をするときに,こういうものが必要なのかどうかというのは非常に疑問である。
  日本人としての自覚や意識というのは必要であるが,殊更に強調するということは,不要なだけではなく,危うさがあると思う。しかも,この審議会は,民間のグループの集まりとか個人でいろんなものを書くという場所ではなくて国の審議会である。つまり公的なものであり,それなりの重みがある。そういう組織が,国民あるいはこの国に住む人々に対して,日本人としての自覚や意識,あるいは祖国愛を持つように求めているというふうにも読めるわけだし,もっと言えば,そういう日本人としての自覚や意識,祖国愛,日本人として共有する意識というのをこの審議会から押し付けられるというふうに感じる人もあるのではないか。押し付けられると感じる人がいると思うのは,そういう日本人としての自覚や意識という言葉が,唐突に,あるいはよく分からないのは,自明のこととしてこの中に出てくる。突然出てくる。そういう言葉はなくても,この概要は十分理解できるのに,そういう言葉があえて出てくる。そうすると,あえて入れているのではないかというふうに読める。少なくともなくてもよいものがあえて入っているという感じがする。それで,前回,それは削除すべきであるという意見書を出した。
  あるべき国語力を考える上で,日本人の自覚とか意識というものは殊更強調する必要はないと言ったけれども,とりわけ国際化時代の中,国際化ということを強調している中で,確かに日本人の自覚や意識というのは必要ではあろうが,殊更強調することの危うさというのは,やっぱり繰り返し言っておきたいと思っている。4ページの国際化の進展の中で,「日本人としての自覚や意識を確立することが必要である」と突然出てくるが,それによってどういうものが起こり,どういうことが考えられるのかということは書いていない。その前に「日本文化についての理解を持ち」とあるが,それは,その後の「各国の固有の文化」を理解し尊重するということにつながる。つまり,日本の文化についてきちんと理解を持つということは,ひいて言えば,ほかの国,各国の文化の理解と尊重につながる。これは分かるが,突然出てきた「日本人としての自覚や意識を確立することが必要である」というのは,言いっ放しになっている。どこにつながるかも分からない。なぜこういう文言があるのか,疑問であるということを指摘しておきたいと思う。前回も申し上げたが,そもそもここで言う日本人というのは,つまり日本人としての自覚や共有する意識といった場合に,一体日本人というのは何を指すのか。
  先ほどの3ページの感性のところであるが,「日本人」を「先人」と置き替えているけれども,そもそもここに書いてある日本人の意識とか,日本人としての自覚とか,日本人として共有する意識といった場合に,日本人というのは,日本民族なのか,日本の国籍を持っている人なのか,その辺りもはっきりしない。今日本の国土には,日本国籍を持っていない,あるいは日本民族でない人もたくさん住んでいる。そういう人にとっても,日本語,あるいは国語と言ってもいいが,きちんと使ってコミュニケーションをするというのは非常に重要なことになっている。私は,夏に出したリポートでは,日本人あるいは日本に住む人々にとって,日本語という言葉を使いこなすということは非常に重要なことであって,それがより良い生活をするための出発点であると言っている。だから,日本人ということを殊更強調すると,日本人という言葉がどういう意味合いを持っているのかというのがはっきりしないが,少なくとも日本国籍を持っていない,あるいは日本民族でない人にとって,それに対しての目配りというものが失われていくのではないかというふうに思う。
  更にもう一点言えば,私は「殊更に」という言葉を強調するが,殊更に日本人としての自覚・意識を言語の部分で強調する場合に,言葉の画一化というものに結び付かないだろうか。つまり日本人としての意識なり自覚を強調することが,こういう言葉について議論するときに,言葉の画一化にも結び付かないのかどうかという疑問がある。というのは,一つは方言の重要性がここに掲げられている。多彩な方言について,重要であると。方言はそれぞれの地域の中核であると書かれているが,余りに日本人の意識なり自覚を強調することで,方言をつぶしてしまわないのかという疑問がある。
  具体的に言うと,3ページの「感性・情緒等の基盤を成す」という部分である。この部分は,最初は「日本人のアイデンティティー」という言葉があって,それは抜けている。ただし,ここもよく分からなくて,この部分で書かれているのは,詩歌などの文学が,情緒や感動する力,感じる力を育成する。そして祖国愛とか,信義とか,礼節というものは文学を通して身に付けられると書いてある。それも間違いではないが,基本的にここで書くべきことは,逆転していて,本来,国語は美しいものものを美しいと感じる情緒,美しいものに感動する力,また逆に,醜いものを醜いと感じる心の基盤である。それらの情緒や心は詩歌や小説などを読むことによって得られるところが大きい。こういうのが素直な書き方であるが,そこにも勇気とか,誠実とか,祖国愛とか,そういうそぐわないものが突然出てくるという感じがする。だから,この部分は私がさっき言ったように,国語は美しいものを美しいと感じる情緒とか,そういうものの基盤であると書いておけばそれでいい。それらの情緒や心は詩歌や小説などを読むことによって得られるところが大きい。そういう情緒や心はすべて文学作品によって得られるのではなくて,日常生活によって,日常の日々の営みによってそういう心を得ていくところが大きいと思うので,その部分として文学作品で得られるということでいい。
  それから,先ほど方言のことをちょっと言ったが,4ページの「方言についても一定の対応が必要ではないかと考えられる」というのは分かりにくい。私もここはどうすればいいのか分からないが,「一定の対応が必要ではないか」というのではなくて,方言がもっと必要ならばもう少し工夫しなければいけない。
  その後の「国際化の進展と国語」の中で,ここにも日本文化への理解というのが必要である,母語への愛情も必要であると書いている。ところが,突然ここに「日本人としての自覚や意識を確立することが必要である」とあって,これが言いっ放しになっているということで,この「日本人としての自覚や意識を確立する」という部分は不要であろう。それから似たようなところ,つまり「日本人としてのアイデンティティー」と書かれた部分をたどっているわけだが,5ページの真ん中辺に,「さらに,国際化の進展に伴って,日本人としての自己の確立の必要性や」というのがこれまた突然出てきて,これもどこにどういうふうにつながるのかよく分からない。つまり国語の力を強めるということとの関連性が分からないままに突然出てくる。出てきて,出っ放しであるということからすれば,「日本人としての自己の確立の必要性」というところも削除すべきである。
  それから,8ページ,ここもよく分からないが,(4)の考える力,感じる力のところで,考える力,感じる力云々が「人間の教養や日本人として共有する意識」という,ここで言う「日本人として共有する意識」というのは一体何かと思って,ここにも疑問がある。不要であろう。さらに,その下に,これがよく分からないが,「日本人としての根幹にかかわる部分」とある。これは主語がよく分からない。主語もよく分からなくて,日本人としての根幹にかかわる部分であるというふうに,この審議会として,国民と言うか,この国に住む人々に対して一体何を言おうとしているのか疑問があるので,この「日本人としての根幹にかかわる部分」とは一体何かということが明らかにならない限りは,この部分も削除すべきだろうと思う。
  非常に後向きの議論をしていて,私も余り楽しくない。本来はもう少し前向きの議論をしたいのであるが,後ろ向きの議論をせざるを得ないというのは不要なものがこの中に入っていて,その不要なものがあることによって,この審議会が国民なり人々に伝えようとするものが,逆に反発を受けたり,誤解されたり,そういうことになるのではないかと思うからである。したがって,誤解されたり反発を受けるようなところは削除した方が,審議会の言おうとするところをきちんと伝えるには,余り余計なことは書かない方がいいというふうに私は思っている。

  これは皆さんの意見をかなり取り込む形で書いているので,事務局が勝手に書いているわけではない。

  大変美しい朗読で,今までがちゃがちゃと話し合っていたものがこんなに美しくまとまったのかという印象を持ったが,やはり引っ掛かったのは,今の御意見にあったように,後ろを向いているようなニュアンスが頭に残ってしまうというのはやはり問題だと思う。
  具体的にどうすればいいかということであるが,国際化というのは,もっと具体的に言うと,日本の中に住む人の中に,国際結婚が非常に増えているし,呂比須だ,三都主だ,ラモスがみたいに国籍を変えていく外国人もいるし,そうでなくても移民の労働者たちが増えるという傾向がとどまらないわけで,私はデータは持っていないが,1.5%ぐらいの人口が外国人になっていくという,そういう日本の将来に向けて答申している割には,そういう人たちを排除して書かれている印象を持たれてしまっても仕方がない。それではどうすれはいいかといったときに,いきなり国語で始まる「国語」の定義をはっきりさせる必要があるのではないか。
  そして,地方の方言のことを何度か指摘してあるが,それがいつも唐突に出てきていて,一貫性,つながりがない。やはり方言を話す人,地域語を話す人は,それが母語なので,ここで言っている国語がいかにも共通語であるようなとらえ方を意識してやめれば,一貫性のあるものになるのではないか。小説でも,いつかの発言にあったように,宮本輝の大阪の方言みたいなものがすごく大事だとおっしゃった,そこに表れていると思うが,もっと一貫性を持ってバラエティーを許容していく。その中でも,言葉というのは大事なんだということが分かるような国語の定義というのがなされるべきではないか。そうしないと,パブリックコメントのときに必ずやり玉に挙げられる部分はここではないかという危惧を持っている。

  本当に黙読していたときと今の朗読によって耳から聞いたときでは理解度及び考え方が随分深まって,広がった感じがした。今回,全体を見て感じることだが,IとIIまでは相当こなれていてある程度の考えが出ている。IIIの方策に入ると,まだこなれていないので,委員の意見の並列ということになってしまうので,これをまずこのままでいいのかということが一つあると思う。
  もう一つ,大きく見たときに,I,IIの方から申し上げるが,今,確実に言語環境が変わっている。この確実に変化しているところを認識し,それを受容していくのか,又はそれをもっと昔のより正しい国語に変えていかなければいけないのか,その辺の方向性がちょっとあいまいだと思う。あいまいであっても構わないが,その辺の認識を,答申というか,この審議の中で入れた方がいいのではないか。初めのころに覚えているのが,言葉というのは乱れ乱れて落ち着くところに落ち着くという御発言があったかと思うが,それをある程度許容する方向なのかどうか。
  それと,このI,IIの辺りを聞いていると,先ほどのお二方のお話にもつながるのであるが,古い形での日本及び日本文化,日本の言葉に対する哀惜というか,思い入れが強いもので,それがどうしても先走って聞こえてくるような感じがするもので,その辺をもう少し中立的に表現できればいいなというふうに感じている。これは日本語の難しさであろうと思うが。
  日本語の位置付けで言うと,例えば2ページの「知的活動の基盤を成す」に,「すなわち,国語は,各人の知的活動の基盤としてあらゆる知識の獲得にかかわるもの」とあるが,これでは私は弱いと思う。あらゆる知識と能力の獲得と表現と発信にかかわるものであると,そこまでぐらい強く言ってほしい。その次のページの上の方に「活字文化に頼る以外になく」とあるが,この活字文化というのが適切な表現かどうか。これは文字文化というのか,言語というのか,その辺は読むことだけではないと思うので,ちょっと考えなければいけないのかなというふうに感じている。
  もう一つ感じるのが,日本語が危機に瀕しているという受け取り方の余り,何とかしてこれを保護しようという方向に自然に行っているようで,先ほどのお話にもあったけれども,日本語のベースとしての底辺を広げるという方向というのも,本当はどこかにあっていいのではないか。日本語が相当できる外国の方々に聞いてみると,話すのは大丈夫,聞くのも大丈夫だけれども,新聞が読めない。1000ぐらい漢字を知っていても読み方ができないから,ルビがあると分かるのだけれどもという意見も多い。そういうところで,日本語を分かる外国人をもっと育てるということも大事ではないか。
  私事になるが,私は中国で日本語とコンピュータを教える学校にかかわっている。これは専門学校であるから,高等学校であるけれども,日本語教育に対する熱意というのは大変である。そういうところで,国語でなく,そこでは日本語かもしれないが,そのような外国人に国語又は日本語という中で日本文化に触れてもらって,そこから,日本人でなくても理解できる国語の良さ及び言語としての日本語,また文化としての日本文学,伝統と価値,そういうものを国外にも広げることが大事ではないか。
  後は表現であるが,例えば11ページで見れば,点線の中の一番上に「その充実を図るべきとの意見があった」とある。ここは「図るべきである」と決めてしまってもいいのではないか。そして,そこで言いっ放しというものが大変多いので,このような提言的な文章及び意見に付随して,具体的に何々をするとか,何々を含むとか,何々しないとか,具体的な方向性まで入れないと,これは読み流されてしまうと思うので,この辺は最終校に向けてもっとしっかりとしたものを作っていきたいと思う。
  それから,9ページの真ん中辺りに,国語力の向上というのは意思を持たない限り,個人個人のことで実効性のないものになってしまう可能性があると書いてあるが,ここまで言っていいのかどうか。そうならないような方策というものをある程度私どもは求められているのではないかというふうな気持ちを持っている。先ほども申したように,第IIIのところは,アンケート,またその後の私どものディスカッションの内容の域から出ていないので,この辺はもう少しこなれたもの,レベルを上げたものが必要ではないか,表明だけでは弱いというふうに思っている。

  考えてみると,文化審議会からの流れで「国語は文化の基盤である」と,そこが強く出ていて,文化とは何かというと先祖の作ってきた文化という形になって,日本人としての自覚みたいなところに行くわけである。一方,国語審議会が平成12年12月8日に「国際社会に対応する日本語の在り方」という答申を出していて,そこでは国際化の中の英語,フランス語,中国語と並ぶ形の日本語というとらえ方をしているが,今度は正に文化審議会の日本文化の基盤としての国語という流れがあって,文化的なとらえ方がかなり強くなっているような感じを私も持っている。
  その辺をどう扱うか,少し薄めることもあろうかと思うが,今の御意見の,国語の乱れを許容するかどうか,そちらの議論になると,国語力というよりも国語そのものになってくるので,今回はその辺は深入りしないのがいいのではないかという気がする。
  それから,この文章を書いた人がだれであるのかという辺りがちょっと気になる。9ページを御覧いただくと,「これまでの分科会の審議において,我々は…」となっていて,「我々」というのはこの委員全員であるが,「アンケートでも,委員から多様な意見が出された」となると,何か部外者が書いているような感じになる。そういう点で,文体というか,筆者の立脚点というのはどこにあるのだろうか。

  前回,そういう御指摘をいただいたので,例えば2ページの頭であるけれども,「という観点から,我々は」ということで,節目節目のところで,我々はこういう観点で整理し,検討してきたということを一応入れている。先ほどお話があったように,頭のところで,我々はこういうことで議論してきたというように,そこは前回と少し変えている。「我々は」というスタンスを少し出したつもりである。

  時々,「意見も示された」となると,我々が書いた文章で,意見も我々から示されたということになるので,難しいのではないか。

  今申し上げたように,飽くまで主語,主体は審議会の総意,委員ということである。そういうことの中で,これは一般の審議会でもそうだが,議論の過程でこういう意見が出された。特に今回は審議経過の概要であるので,審議経過の中でこういう意見が出されたということが入ってくるというのは,主語が委員会であってもあり得る話ではないかと思って整理してみたわけである。

  文末に「と考えられる」という言葉がかなり出てくるが,だれにとって考えられるのか,我々なのか。私は,大体論文を書くときには「考えられる」というのはなるべく使わないようにしている。「である」と言おうが,「であると考えられる」と言おうが,自分が考えているから書いている。そういうことではなくて,「考えられる」という辺りは,委員会として考えられるということになるのか。

  国語課は大変難しい役割をさせられているのだと思う。いろいろ遠慮があって,小生はともかくとして,これだけそうそうたる方々がいて,いろんな意見がある中で,これを自分たちの意見として書くことに,筆先にどうしてもためらいが生じてしまう。その名残がそういうところに出ているのだろうと思うので,これからは度胸よく本当に委員に成りかわって書くのだということを強くお持ちになって書いていただければ,そういうところは大分消えるのではないかと思うので,どうかそういうふうにお願いしたい。どうか思い切って,我々に成りかわってお書きになるということで,頑張っていただきたい。

  要するに,国語というものを文化の基盤ととらえるか,それともものを考えたりコミュニケーションするための単なる道具と考えるか,そこが大きな対立点だろうと思う。どちらの立場に立つのかということによって物事は全く違ってくる。我々は,我々の主張,我々の提言を世の中に出そうとしているわけで,そこはあいまいにすることができない。幾らいい方策をるる述べていても,根本部分が,要するに,何に基づいて物を言っているのかが国民の皆さんに分かってもらえないと意味がない。私は,飽くまでも日本語は文化の基盤であるということを強く打ち出し,その上に立って全体の論理構成をすべきであると思う。
  先ほど価値観の押し付けという言葉があったけれども,考えれば,美しいものを美しく,醜いものを醜いと感じる心云々という,これはオーケーという御趣旨であったが,これこそが正に価値観の押し付けなわけである。私は,教育というものは価値観の押し付けが必ず伴う,それを避けてはいけないと思っている。例えば,数学は数学的な論理性の考え方が大事だという価値観を示しているし,理科は科学的な物の見方が必要だ,社会科,日本史,世界史等においては正に価値観そのままである。国語というものは,日本人というのはあいまいとおっしゃったけれども,それは定義し直すとして,物の考え方に大きな影響を与えており,我々の源泉,オリジンであるという価値観を示しているものだと思う。価値観の押し付けということをすべて抜きにしたら,要するに,この論議は成り立たない。審議会自体が成り立たないと思う。価値観の押し付けを避けるのではなくて,どういう価値観を示すのかということが大事なんだろうと思っている。
  私は,前回,アイルランドの国民文芸復興運動とか,沖縄の人が「おもろそうし」に寄せる思いを例にとり,他民族支配を受けるときに何が人々の心の支えになるかということを引用しつつ,共同体の人たちの基になっている文化を意識的に大事にしていかなければいけない,今はグローバル化の時代であり,日本文化を大事にするということは,他の人を排除するとか文化侵略ではなくて,グローバル化の時代であるからこそ日本文化を意識的に大事にしなければいけないというふうに申し上げたつもりである。その考えは今も変わらない。これは決して後ろ向きの話ではなくて,グローバル化が進むこの時代であるからこそ最も前向きの話であろうというふうに思うわけである。
  危うさ等々とおっしゃったけれども,危うさは確かにある。その危うさの部分は取らなければいけない。危うくなくて健全な部分で前に持っていかなければいけない。両方の要素があるのを一緒くたにして,危うさもあるから駄目だという話にはならないと思う。そうではなくて,きちんと要素を分けていかなければいけない。在日韓国人の方の話も出たけれども,日本に住んで日本のコミュニティーに暮らすということであれば,日本語が持っている文化的なメッセージはやはりきちんと受け止めていただかなければいけない。それでこそ初めて双方の文化的な葛藤があって,文化が向上していくのだろう。それ以外に,韓国の方だったら,固有の民族文化は大切にしていただく。その方策はまた別途考えればいい。それをごちゃまぜにしていくということは,非常に良くないことだろう。そうすると,我々自身の根幹もなくなってしまうと思うわけである。
  先ほどの話を聞いていて,アメリカの作家のことを思い出したのであるけれども,インド人の少女がアメリカの学校に行っていて,アメリカの歴史をワシントンから詳しくずっと学んでいく。彼女自身の出身であるインドは,インド・パキスタン戦争をしていて,もちろん彼女の関心もそちらにある。しかし,学校ではワシントンからのアメリカの歴史を学んでいく。彼女はそこでやっぱり悩むわけであるけれども,後々になると,きちんとアメリカの歴史を学んで,それと自分の背負ってきた文化を対峙することができてよかったというふうな展開の小説であったように思う。そう考えると,日本におけるマイノリティーの人たちのためにも,根幹の座標軸の部分はきちんと立てなければいけない。それがなくなったら,マイノリティーの人たちが,マイノリティーでなくなってしまう,マイノリティーの誇りを失ってしまう,私はそのように考えている。

  第III章の「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」というところへ至る全体の一貫した論理の持って行き方と思って,ざっと眺めてみると,第I章と第II章で言いたいことの基本が,6ページ,7ページに二重線枠,破線枠で表されていて,7ページの最後の2行で「上記の四つの力のうち,特に,考える力と表す力」となって,「これからの時代に求められる国語力として重要であり」云々と話が進んできている。こうした考え方を受けて,第III章の方策をまとめていくというのが望ましい形なのかなと今思っているわけである。
  議論の経過としては,(2)の読書活動,(3)の学校教育というのが,場として,あるいは手段として,重要であるということがあったから,こういうまとめ方になってきたと理解している。第III章の中に出てくる具体的な方策というのを,第I章,第II章で出てくる中核となるところを受ける形で,つまり簡単に言ってしまえば,考える力とか表す力を重点化していくことが必要であるとなってきているわけであるから,それを軸にして方策をまとめていくという手もあると思う。
  もう一つは,反省をしなければならないと思ったのは,ブックリストであるが,私は大勢の方が出してくださると思いつつ,私もという気持ちで書いた。そうしたら結果として提唱者と私の二人だけになってしまったのでびっくりしている。今申したような方向でブックリストも考えていくということになると,私が出したものもいろいろ修正を加えて,整理をしなければならないと思っている。そういう全体の一貫性ということを配慮する必要があるなということを思った。
  お願いがちょっとあって,今年中というのか,まだ読書リストを出していない方で腹案をお持ちの方は,やはりリストを出していただきたい。二人だけで添えるというのは何とも寂しい。私は,慎重論で議論をずっとしてきたが,リストそれ自体は大事だという気持ちがあったので,出させていただいたということなので,ちょっとプラスアルファのお願いみたいなものを申し上げた。

  最初の構成からすれば,確かにこれからの時代に求められる国語力というのを分析したわけで,それを踏まえて,これから求められる「考える力」以下の国語力を身に付けるための方策というような方向で行くのは一つの筋だと思う。しかし,今回は,このように重点的に,学校教育,読書,その他とまとめてきたので,1月までにはちょっと時間切れなので,こういう方向ではないかなと思うが…。

  今の点については,確かに,考える力,表す力ということで考えるという方向も一つあるけれども,現実に,今までその考える力,表す力を付けるためにどうすべきかというテーマでは余り議論していない。第III章の(5)に「考える力や表す力など,今後,特に必要となるであろう国語力との関係」とあるように,そういったものを踏まえながら具体的方策を検討していきたいということで,具体的な中身は,こういうことを今後やっていくのだという方向でここに一応書かせていただいているつもりである。本当はこれを深めて書ければ一番よろしかったのであるけれども,こういったテーマで現時点では議論していないので,こういう形で,私どもとしては工夫させていただいた。

  今,御指摘のところを踏まえて,次に展開していくのだということで一応納得した。
  同時に,12ページの終わりから2行目に「引き続き,検討を」,13ページの最後のところにも「引き続き,積極的に審議を」というふうに,「引き続き」という言葉があるが,この「引き続き」というところは,引きずって引き続きなのか,この期で考えたことを基盤にして改めてという御発言なのかということもある。

  今の話題ではないが,8月のアンケートを外してブックリストだけを載せると,やたらブックリストだけが目立つのではないか。実際に見た感じで,そんな気がしている。だけれども,先ほどの御意見ではブックリストを書いてくれというふうに言われた。皆さんそれぞれお立場があると思うけれども,例えば,高等学校図書館協議会とか研究会とかいうのがあって,そこで組織として十分な検討をしてブックリストを出したり,全生徒にブックリストとしてパンフレットを配ったりしている中で,私が個人の考えで個人として載せるというのは,私としては,そういう気持ちにはなれないというところで困っているところである。
  あと中身で,私の理解力不足だと思うけれども,読んでいてやっぱり引っ掛かるところがあるので,簡潔に申し上げる。
  3ページ,上から2行目,教養云々,「活字文化に頼る以外になく」,ここはえらい強い表現であるけれども,頼る面が大きくとか文字言語云々という言葉にした方がいいのではないか。ちょっと引っ掛かる。それから,4ページ,上から8行目,「高齢者と若者との間で一定の国語的素養を共有しておくことが」云々とあるが,そう具体的には書けないであろうけれども,国語的素養というのが何なのか,よく分からない。
  「また」以下の文で,「いじめや不登校,家庭内暴力等の子供をめぐる諸問題についても」云々とあって,「一つの原因ではないかという指摘もなされているところであり」までは文脈としてつながるが,「あいさつなどの基本的な習慣から取り組むことが重要である」と,急に具体的に一つあいさつというのが出てきて,あいさつすれば,いじめだの不登校がなくなるのかなという感じにも取れてしまうので,ここはもうちょっと書き加えたらどうか。私が書き加えるとすれば,この文脈で言えば,場や相手に応じた用語や言葉遣い,人称,敬語,待遇表現,あいさつ,依頼等,生活言語レベルでの話し言葉の運用能力の育成を云々というぐらいに並べた方がいいだろうと思う。ただ,個人的には,いじめや不登校や家庭内暴力の問題を考えていく場合は,人間関係形成力の中核として,時と場合に応じて意見を表明するというか,意見を言ったり話し合ったりする力が一番中核であろうと思っている。
  それから,5ページの上から3分の1ぐらいのところに,都市化,国際化の文脈の中で「円滑なコミュニケーション」,5ページの下の方にも下から5行目ぐらいに,若い世代の人間関係の中で「円滑な人間関係」とあるが,ちょっと違和感があって,言葉で置き替えるとすれば,「多様な」という言葉の方が文脈として適切であろう。多様な価値観や生き方をする人々と多様な人間関係を作っていく。「共生」という言葉を使う人もいるけれども。
  9ページでどうにも私が分からないのは,真ん中辺りの右の方,「特に,「読書の広範な勧め」」。この「広範な」というのがどういう意味か,もうちょっと書き加えないと,広範な人々への読書の勧めなのか,それとも,教養としての読書もあるし,情報収集としての読書もあるし,課題解決のための読書もあるし,様々な目的のために本を読むということなのか。「広範な」というのがよく理解できない。これが文脈の中での言葉の問題である。
  それから,大きな問題で,6ページから参考のところの図に行く流れである。私の理解力不足なのかなと思って何回も読んでいるが,6ページの真ん中にある二重括弧のところでは,「考える力」云々で,「言語を中心とした情報を処理・操作する領域」と書いてある。そして,2の方には「その基盤となる国語の知識や教養・価値観・感性等の領域」という言葉が出てくる。その下に,「前者は,国語力の中核であり」,「後者は,前者の諸能力の基礎となる「国語の知識等」である」。続けて読んでいくと,(3)の「国語の中核としての考える力」云々は分かる。ところが,8ページへ行って(4)になると,見出しであるけれども,「考える力」云々,「国語の知識や教養・意識・感性等」という言葉になって,前の「国語の知識や教養・価値観」の「価値観」がどこかに行っている。それから,教養・意識・感性というのは何だろう。下の例を見ると,要は従来言われてきた国語にかかわる知識等ということなのかなと思いながら見ていくと,参考のところへ来ると,括弧内に,理解力と表現力が書いてあって,その下に「基盤となる国語の知識等」が書いてあって,この枠外に「生涯を通じて形成されていく教養・意識・感性」という言葉が入っている。どうもこの流れが分からない。
  はっきり言ってしまえば,6ページの1を国語の中核となる言葉で,考える力,感じる力,想像する力,表す力などの諸能力と書いて,2を国語の諸能力の基盤となる国語にかかかわる知識等と書いて,それでずっと最後まで行っていただくと,用語としても流れとしても分かるが,追っていくと,価値観が出てきたり,教養が出てきたり,感性が出てきたり,様々な言葉が出たり入ったりしていて,どうも文脈が読み取れない。この辺は,言葉をもうちょっと整理していただいた方が読んだ者に分かりやすいと思う。

  IIIのこれからの方策について,ここは非常に重要な部分だと思うが,みんなの意見を吸い上げてくださっているものだから,どの文言もかなり抽象的になっていて,隔靴掻痒の思いがある。読書に関してはかなり丁寧に記してあるが,私の印象では,私が参加した日の討議では,読むということと同時に,話し言葉,音声言語について,これからのより成熟した民主主義社会を築く上でも,国際化の中でコミュニケーション能力を付けていく上でも,話し言葉教育というのはすごく重要であるという意見が出たように思う。その中で,私は音声言語教育の教科書なども読ませていただいたけれども,拝見すると,あの教科書で教えていくには物すごく教師の力量というのが問われて,先生次第でどんな授業も展開できるという形になっていると感じた。そういう意味で,非常に独創的な授業はできるかもしれないが,どの先生が教えてもここまではできるという,音声言語教育の形というのを探っていく必要があると思っている。そのために,大学や研究機関で音声言語の教育法というのはまだ確立されていないように思うので,そういうところに研究費を割くとか,そういう教員養成のための予算を付けるとか,そういう具体的な言葉は入らないものなのか。
  多分11ページの三つ目の○の辺りに,今私が申し上げたようなことが入っているのかなという気はするけれども,これだと具体性がちょっと分からない。これまで不十分な国語科のことについて考えるべきであるという形だと,何のことやら,ここで審議した中身がちょっと分かりにくいのではないか。
  もう一つ,12ページの最初の上の方の提言であるが,この短い文章の中に幾つもの提案が入っている。この辺,なぜこういう提言をしたのか,その理念みたいなものを示して具体的な内容を書いていただけないか。なぜそういう提言をしたのかという個々人の委員の出した意図みたいなものをちょっと踏まえていただけるといいなというのと,先ほど申し上げた夏のリポートで,私は芸術文化振興基本法を活用すべきだということは出したのであるけれども,この会議では発言していないので,もしこの中にそこまで具体的な文言を入れて構わないものなら,入れていただけたらというふうに思う。

  最後の12ページ辺りが特に典型的であるけれども,点線の最初の○なんかは,という意見,という意見,という意見もあったというふうに非常にはしょっているというか,短くしてあるが,これは審議の概要ということで,まだ最終答申ではないので,こういうふうに短くしてあるのだろうと思うが,それにしても,○を分けて,最初の○なんか三つに分けて,もうちょっと長く書いた方がいいという御意見があればそうしてもいいのではないか。余り議論を深めていないので,書けない部分もあると思うが…。
  大学のそういう機関に研究をさせて,あるいはNHKが一番研究しているかと思うけれども,そういうところに予算を出してやれとか,そんなに具体的には書けないであろうが,かなり具体的なこと,政府がもっと考えるべきだというようなことを書くのは,最終答申ではできるだろうと思う。これは審議経過であるから,皆さんがもう少し詳しく,分けて書いた方がいいというのであれば,○を分けるということはいいと思う。

  アイデンティティーについては,現在の学習指導要領,今改定されつつある教育基本法等から考えて,私はこれは決して無理のある文言であるとは思っていないので,これでいいと考えている。
  細かいことで5点ほど提案させていただきたい。まず3ページ,ウ)の本文2行目の「感動する力」は,前後の脈絡から考えて,「心」の方がいいのではないか。
  次に,7ページに行って,先ごろの文部科学省の学力テストの結果を見ると,予想した以上に国語についてはいい結果が出ている。しかし,関心や意欲についてはまだまだ大きな課題を残しているところであるので,それを踏まえながら,ある程度の表記の変更が必要かと思うが,例えば本文の6行目,「意欲が含まれる」とあるけれども,その辺りは「含まれ,その意欲や関心を育てていくことが重要となる」とか,意欲・関心の育成について触れていただくことができればと思っている。
  次に行って,10ページである。下から5行目,これも細かいことであるが,「伝達する場であり」,体系的に知識を伝達するということであるけれども,これも今の学習指導要領,学校教育から考えてふさわしい文言ではないように感じる。例えば「理解を深める」とか,生徒の自主性を尊重した文言にしていただければと思う。
  11ページ,上から4行目に「家庭や地域において」という文言があるが,私は,ここに「マスコミ」という言葉も入れていただけないかと思う。現に,12ページの破線の四角の中には,影響についてということも多少出てきているので,マスコミの影響というのはかなり大きいものがあろうかと考えている。そして,その1行上の「さらに」というところから内容が変わっているので,ここから段落を改めることも提案したい。
  同じ11ページの破線の○の二つ目の3行目,「新しい学習指導要領で」とあるが,この「新しい」という言葉も,中間の答申が出るころはどうであろうか。「現行の」とか,少し先を考えて,この表現も改めておいたらどうであろうかと思う。

  アイデンティティーの問題について申したい。実は,長官が20世紀懇で座長をなさって,グローバル化という問題から英語の公用語論ということを提唱して,これはこれで私は受け入れていくべきだと思っているが,そのときに日本人としての在り方というのを別に考えないといけない。これがこの日本人の国語力という諮問だと思ったわけである。
  お手元にあるように,諮問があって,諮問の理由があって,そして文部科学大臣諮問理由説明があるわけだが,その3のところを見ると,「日本人としての自己の確立」ということの問題提起があるわけである。それから,「日本人の国語力」が問題にされているわけで,これは文化審議会への諮問で,我々はそれを受けた国語分科会で,それを具体的に検討するというときに,そこのところを外していくということを非常に懸念する。そういう点で,先ほどの問題提起に対しては,それは諮問と四つに取り組むと必要であるという結果になる。
  また,日本人の国語力を考えていくと,やはり国語の伝統という点から言うと,日本人的な在り方というものを考えないといけない。外国人で,日本に住んでいらっしゃる方がいるが,日本人が国語によって,そして日本人らしさというものを一層豊かに発揮すれば,一層住みやすい,外国人にとっても住みやすい国になるのではないかというように思っているところである。

  アイデンティティーの問題に対して,お二人の委員がおっしゃっていることは,私としても理解できるもので,どちらの意見が客観的に正しいのかという議論になると,なかなか難しいと思う。例えば,先ほど問題箇所として指摘なさった3ページの「感性・情緒等の基盤を成す」,5ページの「日本人としての自己の確立の必要性」,8ページの「人間として,あるいは日本人としての根幹にかかわる部分」というような特に目立つ表現がある。一方,先ほどの文化芸術の振興に関する基本的な方針の4ページに,国語に関して書いてあって,そこでは「日本人」というような言葉は特に持ち出さずに書かれている。
  先ほどの御意見で,危ういものに関してはやはり書くべきではないというときに,例えば,ここで挙げられている5ページの「日本人としての自己の確立の必要性」とか「日本人としての根幹にかかわる部分」という表現に関して,ここは危うい表現とお考えなのか,全然そうでないというふうにお考えなのか,そこら辺をちょっと伺いたかったのである。というのは,やはりここでのコンセンサスが必要だと思うからである。

  私は,ここの文言において危ういものがあるから,その部分を取るべきだというふうな趣旨で言ったのではない。国語を強調することによって,偏狭なナショナリズムというところに行ってしまう危うい部分があれば,それは取り除くべきであるという意味で申し上げたものである。

  この概要素案の中には,御自身のお考えとして,危うい表現は一切ないというふうにお思いであるのか。

  私は,おおむねこれでよろしいと思っている。
  むしろ,そのことではなくて,6ページ目の上から2段落目,「これからの時代の中で,各人がより良く生きるための国語力というとらえ方が求められていると言ってもよい」とあるが,「各人がより良く生きるための国語力」というのは何を言っているのか,中身がよく分からないと思った。
  また,この答申は余りにすらっとし過ぎているので,齋藤委員がよく御指摘になっていた,小学校までの読書活動は有効なのだけれども,中学校に行くと読まなくなる。ここに非常にギャップがある。解決方法は分からないけれども,問題指摘だけでも入れておいたらどうかなというふうに思う。

  アイデンティティーの問題であるが,それぞれ御意見はあろうかと思うけれども,資料3−1の参考資料の文部科学大臣諮問理由説明のところの4ページ,1,2と番号が打ってあるが,真ん中辺のパラグラフに「21世紀を迎え,国際化・情報化の進展や価値観が多様化するなど,人々の生活を取り巻く環境は急速に変化してきております。このような時代においては,一人一人が確固とした自己意識(アイデンティティー)を持ち,自らの生き方を主体的に考え,様々な変化に柔軟に対応していく力を持つことが求められております。」とある。諮問している文部科学大臣がそういうふうに説明をし,5ページの下から7行目,「一方,例えばグローバル化の進展に伴い日本人としての自己の確立が求められていることや」,この受け身というのがちょっと怪しいけれども,「インターネットや情報機器の急速な普及など,様々な状況の変化に伴い,国語の果たす役割や位置付けもおのずから変わってきていると考えます」というふうに,「グローバル化の進展に伴い日本人としての自己の確立が求められている」と言い切っている。この諮問理由を受けて審議しているのであるから,原案ぐらいの方向で賛成していただけないか。

  賛成しない。「一人一人が確固とした自己意識を持ち」というのは,これは一人一人のことで,日本人として共有する意識というものではない。つまり集団的なものではなくて,確か分科会長の書かれた国語辞典にも,アイデンティティーというのは,個人としての場合と集団として,組織としてのがあるわけである。
  さっきの御意見では分からないと言っていたが,私が非常によく分かるのは,一人一人がこれまで以上により良く生きるための国語力という,一人一人がこの時代を生きていくためにきちんとした国語力を身に付けて,一人一人が確固たる自己意識を持たなければいけない。それは分かる。それが集団として,日本人としての共有意識とか,そういうふうになったときは,それは話が違うのではないかというのが私の考え方である。だから,会長が国語辞典で書かれている一人としてのアイデンティティーというのと,集団としてのアイデンティティーとなると違う。集団としてのアイデンティティーが余りにも強く出ている。殊更に出るとき,危うさが出てくることを指摘したわけである。

  お二方の折衷案として出すつもりはないが,そもそも自己の確立というのは,皆様も国際社会に立ったときの自己としての日本人の確立と,それから個人,大阪人としての自己を確立したときの言葉も,自己意識,アイデンティティーも違ってくるものだと思う。つまり,二つの異なったレベルのものを今ここでごっちゃに考えているので,問題が起きるわけで,アイデンティティーというのは一つだけではない。
  それで今おっしゃったように,記述の仕方が,国としてのアイデンティティー,国民としてのアイデンティティーの方に少し重心がかかっているので危惧が持たれるのであって,方言が出てきたときには付け足しのような書き方でなくて,それも大事だみたいな書き方でなくて,メインカルチャー,サブカルチャーというレベルの違うものとして書けば,問題は解決するのではないかと思うが,いかがであろうか。

  先ほどから問題になっていることは確かに非常に難しいことで,私もずっと考えているが,もうちょっと知恵を働かせたら,何かいい表現が出てくるのではないかという気持ちはある。実際に,私自身のことを考えても,日本人であることはもうどうしようもない。どうしようもないところがアイデンティティーということになってくるのであるが,やはり日本人だから日本語をしゃべっているわけだし,日本語はそういう点で私のアイデンティティーに非常に大事なものである。それをどういうふうにするか。先ほど問題にされた箇所については誤解を招かない表現で何か言い換えがあるか,私も言葉を考えてみたい。もうちょっと検討させてもらえたらと思う。

  ここまで議論が進んだら,意見は必ず代案を提示していただきたい。ここはこういうふうに変えたいという具体的な代案を出して意見を述べていただく。そうしないと,抽象的なことを幾ら言われても我々も判断できないので,この文言はこう変えてほしいということを出す。基本的にそういう姿勢で,次の会議に臨むということはいかがか。

(文化庁文化部国語課)

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