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国語分科会

2002/11/26 議事録
文化審議会国語分科会第10回議事要旨


文化審議会国語分科会第10回議事要旨

平成14年11月26日(火)
午後1時30分〜4時30分
東条会館新館「吹上の間」

〔出席者〕
(委員)北原分科会長,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,工藤,小林,五味,齋藤,舘野,田村,手納,西尾,松岡,黛各委員(計17名)
(文部科学省・文化庁)河合文化庁長官,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  文化審議会国語分科会第9回議事要旨(速報)
  文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について(案)
  国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について(検討用資料)
3−1  国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について(検討用資料)修正版
3−2  これからの時代に求められる「国語力」の構造(モデル)
  これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について(検討用資料)
〔参考資料〕
  国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について
(検討用資料)委員意見対応表
  【委員限り】国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について
(検討用資料)への委員意見

〔経過概要〕
  事務局から,配布資料の確認があった。
  今回の分科会においては議事要旨(速報)に基づいて,前回の議論を確認した。本来の議事要旨(案)については出来上がり次第,委員に送付することとし,何かあれば1週間以内に事務局まで連絡することとなった。
  事務局から配布資料2についての説明があり,それに基づいて意見交換が行われた。その結果,資料の方針に沿って進めることが了承された。
  事務局から,配布資料3,3−1,3−2及び参考資料1についての説明があり,それに基づいて意見交換が行われた。
  事務局から配布資料4についての説明があり,それに基づいて意見交換が行われた。
  本日の議論に関して,更に意見のある場合は,1週間以内くらいに,国語課まで電話,又はファックス,Eメール等で意見を提出することとなった。
  次回の国語分科会は,12月17日(火)の午後1時30分から4時30分まで,東条会館新館「千鳥の間」で開催されることとされた。なお,予備日としていた12月25日については開催せず,明年の1月25日を新たな予備日とすることが了承された。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)「文化審議会国語分科会審議経過の概要(仮称)の作成方針について(案)」の議論
(○は委員,△は事務局を示す。)

  推薦図書のリストについては,前回も言ったように,私は載せるのに反対であるが,どうしても載せたいという方がおられて,しかも,推薦図書だけではなくて,ほかのことについても併せて載せたいという委員がおられるのでそれには反対しない。推薦図書やどういうものを提案するかについて議論すれば,それは推薦図書に値しないとか値するとかという議論になって多分収拾がつかなくなると思うので,個人の名前で載せるというところがぎりぎりの妥協点ではなかろうかと思っている。

  私も推薦図書に関しては今の御意見でいいと思うが,本のリストを個人名で載せるということと,それから,カルタとか,私は演劇を是非取り入れたいといういうことであるけれども,それを勧めるということとはちょっとレベルが違うと思う。というのは,ここにいる皆さん全員,多分,本を読むことを勧めること自体には反対なさっていらっしゃらないと思う。したがって,この分科会としては,本を読むことや,カルタとか演劇とかを勧めるということだけは何かの形で明記しておいて,その下のレベルの提案として,具体的な本を勧めるとか,あるいは方法としてカルタを作ったらいいのではないかと勧めるとか,そういうふうな形になるのが一番いいと考える。
  ここにいる委員一人一人が勝手に,こういうアイデアがある,ああいうアイデアがある,だけど分科会の総意とは別であるという印象を持たれては,やはりいけないのではないか。というのは,私自身,カルタはすごくいいと思うし,本のリストの中身はともかくとして,やはり若い人も年齢のいった人も,本を読むということで自分の言葉の力を豊かにするということは,私自身もそうしているし,是非勧めたいと思っている。だから,大きな方針としては,やはりこの分科会として,そういうことがいいということは言っておいた方がいいだろう。

  後で議論する資料4の「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」の中には,具体的な方策の最初に,読書活動を定着・発展させるような方策を採るべきだというようなことが出てくる。だから,それはそれで入っていると思う。

  リストではなくて,余り細部にわたらないような大きな提案である。読書,カルタ,演劇でもいいし,ほかにも出てくると思うが,こういう方法をそれぞれの状況に応じて選択したらいいだろうというふうな大きな提案を言っておくということである。

  カルタというのを総論的なところに入れるのは余りにも具体的すぎるから,例えば,言語遊戯という形でまとめたらどうか。演劇を言語遊戯の中に入れては幾ら何でもまずかろうと思うので,それは少し別かもしれないが,そのくらい総論の中では大きくくくられた方がよろしいのではないか。そして,その具体的なものとして,上記に言語遊戯ということが触れてあるが,私としては,例えば,カルタを特に提案したいというような形の方が望ましいと思うが,いかがか。

  おっしゃるように余り細かいことは,そこに書けないので,先回おっしゃったカルタとか演劇とかは,名前を載せないアンケートのところに書かれているということで,中間報告くらいではいいかもしれないと思う。次の来年度の委員会のところで,その辺をどういうふうに本文に取り込むかというようなことを議論することも考えられる。確かに,本のリストとアイデアとはレベルがちょっと違うかもしれない。

  審議経過の概要であるから,非常に拡散的な方向で,あらゆるものをリストアップというか,出てきた意見が並列されるという形になるだろう。経過概要ということで非常に自由度が増しているから,それこそ選択的ではなくて,出てきた意見が全部並べられているという段階だと思うので,いろいろな意見が出てきたら,分類整理して,すべて並べる方向でよろしいのではないか。

  今の御意見のように,概要の部分についてはぎゅっと締めて,参考資料のところでは大きく広げておくことにしたい。

  前回は,この概要を世に公表して,いろいろな意見を求めるというか,それに対して意見をいただくということが前提になっていたと思うが,今回は,対外的に明らかにするということにとどまっている。そこで,ある種の質問であるけれども,対外的に明らかにしたものに対して,いろいろなフィードバックを求めることはしないと考えてよろしいのか。この概要を世に出すときに,その辺のシステムがどうなっているのか。

  前回の議論で,審議経過の概要は我々が考えることを出せばいいのであり,国民からの意見を募集するという性格のものではないのではないかという御意見があって,その意味で言うと,そこの部分を今回カットしているけれども,審議経過の概要自体はインターネット等に乗せて公表するし,冊子にして配ることも当然行う。それから,それに対して寄せられた御意見というのは,当然私どもでまとめて,この分科会に御報告することにさせていただきたいと考えている。

  コメントがあった場合に,どこにコメントを出せばいいかということのあて先とか連絡先とかが明記されると考えてよろしいのか。

  事務局としてはそういう方向で,最終的には,まだ何回か審議があるけれども,公表の方法等についても,この分科会にお諮りしながらやっていきたいと思っている。そういうことで,あて先と担当者が分かるようにして出していきたい。

  それでは,このような形で,「子供たちに読んでもらいたい本」のリストについてまとめてくださる方には出していただく。そして,それを参考資料として名前を付けて載せる。それから,本のリスト以外については御意見を出していただいて,載せ方についてはまた検討させていただくということでよろしいか。(分科会了承)

(2)「国語の重要性とこれからの時代に求められる国語力について」の議論

  1週間で,きちんと修正されていてびっくりした。その上で,私は,「国語力」の構造(モデル)という2枚のとてもチャーミングなものについて提案したい。どのようにしても平面的になるが,芯になる大所高所から見たものがきちっとまとまっていったときに,今までの皆さんのいろいろな議論の中で,私自身も含めてであるけれども,具体的なところ,細かいところがどうしても二の次,三の次になっていく。それを絶妙な技術で,細かいことこそがこれを支えるものであるということが何らかの形で,この図の中で,あるいは提案の中で,表現できないだろうかということを御検討いただければと思っている。
  つまり,立派な考えがあっても,それが一人一人に一体どんなふうにしみ込んでいって,具体的に,みんなと,あるいは個人でどうするかというのについては,何らかの入れ物,何らかの道,それへ参加するような場,そういう非常に細かいことをフォローしていかなければと思っている。受け取る側が受け身にならないための双方向性というのを何らかの形で謳いたい。それから,細部を検討することを我々は大事に,大切にするのだという考え方が出せればいいと思っている。ここへ至るための多様なルート,道,方策があるというのを示すとすれば,図形は,台形というか,山に登るのにどこからでも道はあると一般に言われているけれども,それをうまく図形化できれば,本を読むことも,演劇をやることも,歌を歌うことも,全部裾野に散らばせられるのではないかと思って,構造への御提案をしたわけである。

  大変よく整理なさったことに,まず第一に敬意を表したい。やはり構造図についてである。いろいろなモデル図の作り方があるから,これは一つのモデルとして受け取ればそれでよろしいということにもなるが,今までの議論を踏まえて,私なりに構造を考えるとすれば,ということで申し上げてみたいような気がする。
  一つは,右側の「音声言語情報」「文字言語情報」というので,話す・聞く,書く・読むが外側に出されていて,左側に大きな枠の中のものがあるが,左側の大きな枠の中のもの自体が,音声言語で語られれば音声言語情報だし,文字で表されれば文字言語情報ということになるのだから,私は,これはイコールのもの,要するに,左側の大きな枠それ自体が言語情報というふうに受け取れるような気もしていて,それがそれぞれの自分の中にあるものであって,それが他に向かって「話す」とか「書く」,あるいは他から受け取るときには「聞く」であるし,「読む」であるというふうになるのかなと思えるということが一つである。
  2番目は,大きな左側の枠の中の二重枠の中に入っている「感じる力」について,この前の議論の中からこういう形で整理されてきたわけだが,こういうふうにして見てみると,「感じる」というのは,人間が自分自身の問題についてももちろん出てくるけれども,外界の自然現象とか人間のやっていること,自然や人間の様々な事実や事柄の問題について,感じるところから問題が発見されていって,考えることがあるし,想像することが出てくるというふうになるのではないか。つまり自然科学者が,ノーベル賞をお取りになる方でも,何か自然現象の中から感受して問題を発見していく,疑問に思うことが出てくるというふうなことも構造的には考えられるような気がするので,「感じる力」の説明で,「文学作品や相手の気持ちなどを豊かに感じることができる」というふうな言い方をすればこうなってしまうのであるけれども,自然や人間に関する事実や事柄について感じ,そこから様々な不思議を思ったり,疑問に思ったり,感動したりというようなことが起こって,「感じる」というのが出てくるのではないか。その上で,これが上にいって,「考える力」,「想像する力」というふうになるのではないか。
  それでは文学はどうするか。文学は「想像する力」の中の一つとして,その説明の中に入ってくるような説明の仕方ができるかなというようなことをちょっと思ってみた。私は,「考える」手前にも「感じる」がある,「想像する」手前にも「感じる」があるというふうな構造の方が素直ではないかなというように感じている。

  「日本人としてのアイデンティティー」という言葉がなくなったことは評価するが,言葉を替えただけということで,日本人のアイデンティティーという言葉の臭みが残っているという気がして,私はこの草案には賛成しない。よくできているとも思わない。
  今回追加されたところに非常にいいことが書いてあって,「各人がより良く生きるための国語力」という文言がある。私もそうだと思う。各人が生きるため,難しい時代を生き抜くための国語力であるということは,そのとおりだと思う。そこに,突然さっき言った「日本人としてのアイデンティティー」の臭みが非常に色濃く残っている。「日本人」という言葉は,個人ではなくて集団を指していると思う。最初の質問は,「日本人」という言葉で,例えば「日本人がこれまで培ってきた…」とか,「日本人としての自覚や意識を確立することが必要であり」とあるが,この場合の「日本人」という言葉は,日本国籍を持っている人なのか,あるいは国籍は持っているけれども,純粋な日本人というのは変だが,帰化した人々,そういう日本人は除くのか,あるいは日本民族なのか,日本に住む人々のことを言っているのか,それが非常にあいまいで,そこに突然「日本人としての自覚や意識を確立することが必要であり」というふうに唐突に言われても,さて,国語力を考えるときに,こういうふうに何の説明もなく出てこられても困る。まず,この場合の日本人というのは,一体何なのか。日本民族なのか,日本国籍を持っている人なのか,あるいは日本に住む人々なのか。それによって,今後これだけ外国人も入ってきて,ここに書いてあるように,異文化の人とも接しなければいけない,いろいろな世代の人とも接しなければいけない,あるいは方言を使う人とも接しなければいけない,その中で一人一人が生きる力をはぐくむために国語力が必要なのだというときに,そもそも日本人の概念というのは何なのかというところからきちんとさせる必要がある。日本人という言葉をあいまいに使うことには反対である。

  質問されても答えられる人はいないと思うので,御意見をおっしゃっていただくということになるだろうと思うが…。

  いろいろな疑問に対して起草者は答えるべきである。答えられないのなら,こういうことは入れるべきでないということを前回も言った。今すぐにとは言わないが,「日本人」というのは,この場合は,私の感じでは,日本人という個人ではなくて日本人という何らかの集団を指していると思うが,それをどういうふうに考えるかということについて,これを書く人はきちんと答えてほしい。そうでなければ,削除を求める。

  そういう御意見でいいのだろうと思うが,事務局はたたき台を用意してくださっているわけで,我々が駄目なところは直し,我々の文章にしていかなければいけないというのが私の意見である。これは,国語分科会の「国語」からも問題が起きてきているわけで,言語分科会でも日本語分科会でもない国語分科会。それをはっきりさせたのが,今度の「母語としての国語という観点から」という出だしであるが,そうすると先ほどの「日本人がこれまで培ってきた」という辺りは,「国語がこれまで培ってきた」というように逃げる方法もあるかもしれない。なぜ日本語と言わないで国語と言うか,その辺りにも絡まってくる問題だろうと思う。韓国にも国語はあるし,中国にも国語がある。私から言うこともないが,「国文法」というのが韓国にも中国にもある。

  先ほどの御意見とは反対で,この案を評価する。アイデンティティーという言葉が消えたということに関しては,いろいろな思いもあるけれども,前回,片仮名の言葉を入れるのはどうかと言い出した者でもあり,言葉そのものが消えたことについてはやむを得ないかなと思っている。ただ,それぞれ必要なところで,柔らかな日本語でその内容を表しており,それぞれにふさわしいアイデンティティーの意味合いを日本の言葉で言い表している。アイデンティティーという言葉は消えたけれども,それぞれの場所における意味合いが消えたということではなく,それぞれの意味合いをより踏み込んで表現をしている,そのように考えたいと思う。
  それから,「これからの時代に求められる国語力について」の4番目のところで,「国際化の進展に伴っては,日本人としての自己の責任の確立の必要性や,英語をはじめとして外国語を習得する」云々と,「日本人としての自己の確立」と「外国語習得」ということが同じ○の中に二つ並列して入っているが,これはやはり分けるべきではないのか。「日本人としての自己の確立の必要性」というのは,外国語能力の中に紛れ込まされるような問題ではない。これこそが最重要であると私は考えている。
  私は,個人と日本人―これについては後で定義が必要だと思うけれども,日本の文化を背負ってきているもの―と切り離したところで個人を論じるというのは,非常に貧しい個人観に行ってしまうのではないかという気がする。日本人でも,アメリカ人でも,イギリス人でもない普遍的な個人というものが,より成熟した段階ではあるのだろうが,我々は主に教育のことを考えているのであって,この段階でそれを言うのは,かえって日本人という概念を否定することになるのではないか。
  例えば,日本人云々,言葉云々ということで考えると,私の大好きなアイルランドのノーベル賞詩人でシェイマス・ヒーニーという人がいる。彼の代表作に『土を掘る』というのがある。農夫が泥炭を掘り返していく様子を語りながら,アイルランドに泥炭のように積み重なった文化を掘り起こし育てていく。それこそが詩人の仕事だ。農夫がスコップを振るように,私は指にペンを持つんだ。そういうイメージでアイルランドの文化を語って,その上にアイルランドという国を位置付けている。アイルランド国民復興運動の一つの過程であった。更に言うと,沖縄に「おもろそうし」という詩集がある。考えてみると,戦後の異文化支配の時代に沖縄の人たちが自分たちを支えたのは,そうした沖縄の言葉への誇りであり,思いであり,更に伝統音楽等の自分たちが代々伝え,発展させてきた芸術であった。
  今,大きく世界を考えると,アメリカ主義という名のグローバリズムが非常に進展をして,それが世界を覆おうとしている。その中で我々は何を最初の支えとして生きていくのかと考えると,日本の文化であり,日本の言葉であろうと思うわけである。これまで,ナショナルアイデンティティーなんて言葉を吐くと,東南アジアへの進出であるとか,中国に対して云々というふうな侵略のイメージで語られたこともあったわけだが,私は,現在においては,ナショナルアイデンティティーという言葉は,むしろ日本の文化の防衛,我々の自己の確立の柱,そういうふうな形でとらえるべきだと考えている。そうした視点をより明確に打ち出していただきたい,そのように思っている。

  日本語でなくて,言語力でなくて,「国語」ということをはっきり定義しないと,先ほどから問題になっている「日本人のアイデンティティー」ということに短絡的につながってしまい,私どもの意図することがきちっと伝わらなくなる。正に今やっているように,日本人という文言で書かれているところで「日本人がこれまで培ってきた,美しいものを美しいと感じる情緒」というのはよく言われるが,この辺りも誤解を招く余地を持っている。多言語,多民族の社会が日本にも起こっているということに目配りして,誤解されないような,私たちが意図するものはきちっと伝わるような文章を作っていかなければいけないのではないかと思っている。

  「日本人がこれまで培ってきた」という言葉であるが,この日本人というのは,私は祖先とか先祖とかいう,我々の千年以上,2千年にわたる日本人の先祖が,日々の生活の中で,あるいはいろいろな活動の中で日本語というものを作ってきているわけであるが,それをここで言っているのだというように思うわけである。
  今言われているのは,例えば現在,日本に住んでいる在日の方への配慮だと思うが,ここはそうではなくて,我々の祖先が2千年ほどの中で言葉を作り上げてきている,ある言葉に目を付けていくと,そこにはいろいろな祖先の感動とか,汗とか,生活というものがあるのだという,そういうようなものの蓄積の上に国語というものがあって,それを我々は継承していくし,また将来にも伝えていくというような感じで,ここは書かれていると私は思っている。このとらえ方を先ほど唐突と言われたけれども,例えば,昭和47年の国語審議会が「国語の教育の振興について」という建議を行っている。この中にも,国語について「我々が祖先から受け継ぎ,更に子孫に伝えていく歴史的伝統的なものであり,国民の思想・文化の基盤をなすものである」という言葉がある。また,この前の国語審議会,第22期の第3部会のところでは,「日本語の国際的な広がりについての基本的な考え方」というところに,「日本語は,古代から現代に至るまで,日本人の思考や心情を支える基盤となり,数々の文化や思想を生み出し,近代国家としての日本の発展や,日本における近代科学や技術の発達をも支えてきた」云々というような形で,我々の先祖が培ってきた国語というものについての思いを述べている。それを今回の国語分科会の中で更に継承していくというのは,私は大変必要なことだと思う。日本人という言葉がもし問題であるならば,私はそう思わないが,先ほど言われたように「国語」と言い換えてもよい,あるいは「先祖」と言い換えてもよいだろう。

  まず,国語の果たす役割と重要性について,「母語としての国語という観点」とはっきり出ているが,これを「日本人の母語としての国語」とはっきりと言った方がよろしいのではないかと感じている。また,この文脈及び内容の中から,国語と日本人,日本の先祖,歴史というところをある程度離す必要があるのではないか。日本人が使う国語という意味での属人性はここから取ってしまった方がいいのではないかと思う。というのは,日本人という場合には民族ということがやはりどうしても読む方には出てくるものであり,審議し,書いている私たちの方は,日本の国語及び日本の文化そのものというふうに感じているのであるが,日本人というのを民族として考えるよりも,日本文化を継承する者という形ではっきりとさせた方が良いのではないか。日本文化を母国文化として持つ日本人という見方,日本文化を母国文化として持つ者ということを持ってきたならば分かりやすいのではないかと思う。
  それから,国際化の進展の中で,個々人が母語としてのプライドを持ちとあるが,プライドというのも余り適切ではないと感じる。母語にプライドを持つというよりも,母語には愛情を持つのではないかと思うので,そこもちょっと考えたいと思う。ほかにもいろいろあるが,一つだけ申し上げたいのは,国語力の中核としての四つの力,感じる力,考える力,想像する力,表す力のほかに,「理解する力」をやはり入れなければいけないのではないかということである。

  私もこれまで何回も「日本人が培ってきた」というような言い方をしてきていると思うが,私の意味しているのは,日本という土地で培われてきたということである。先ほどの御意見にあったように,私たちの先祖,祖先が培ってきたもの,もちろんほかの民族の影響をたくさん受けてきた中で,この土地ではぐくまれてきたということが大前提で申し上げている。私たちの祖先の悲しみとか,痛みとか,喜びとか,そういった情感が集積されているのが言葉だと思う。それは,やはり引き継いでいかなくてはいけないものではないのかなと思っている。
  文化・伝統継承ということと同時に,もう一つ,新しいコミュニケーションツールが出てきて,話し言葉と書き言葉の区別がなくなってきているというのが問題になってきている。私もずっと懸念していたが,これだけiモードとか,そういうものが発達してくると,向き合わざるを得ない問題になってきているような気がする。話し言葉でもなく,書き言葉でもない新しい質のもの,要するに今会っているように書くという,話し言葉でも書き言葉でもない新しい質のものが出てきている。これを一時的なものとして排除してしまうのか,全面否定してしまうのか,あるいは長い目で,可能性を秘めたものとして見守っていくべきものなのかということも少し付記した方がいいだろう。

  情報の分野にいる者として,「なぜ今「これからの時代に求められる」国語力を検討するのか」という中で,最近の情報化時代への対応ということが二つの項目にきっちりと書かれているということに関して,私は非常に評価している。それを踏まえて,簡単なことであるが,「「国語力」の構造(モデル)」という図の2枚目に人の図とか本の図があるけれども,こういう中間的なまとめとか報告書を出したときに,読む側から言うと,最初に図をよく見る。そういう意味で,情報化社会になっていることも「これからの時代に求められる国語力」を検討することの大きな要因になっているとしたら,読む・書くというところの右側が単に本ではなくて,例えばWebのページとか,そういうことがぽんとあると,ああ,新しい時代に対してのことを考えているんだということが一目見ただけで分かるので,その工夫をしていただけたら有り難いと思う。多分,情報機器との関連というのが,今おっしゃったような新しい媒体というか,それを通じての新しいコミュニケーションの在り方もある程度ここでは考えているんだということをデモンストレイトできるのではないか。そこをちょっと考えていただきたいと思う。

  実は前回のまとめを持ち帰って,こういう答申に比較的関心のある50代の国語の教員何人かに読んでもらったところ,一般論だなという感想だった。はっきり言うと,いろいろ新しい言葉はあるけれども,言語の役割について今まで言われてきたことの一般論の繰り返しみたいな感じがするということと,もう一つは,言葉をめぐる問題で今実際に何が問題なのか,はっきりした状況分析がないということだった。普通,こういう答申とか,特にこれからの時代の国語力というときには,現状分析をもっと明確にされると,課題が浮き彫りにされてくるのではないかという,これは根本的なことなので,言おうか言うまいかと思ったが,そんな意見があった。そういう点では,「これからの時代に求められる国語力について」のところに,「なぜ今「これからの時代に求められる」国語力を検討するのか」というところが入ったので,こういうのは重要だし,是非こういうところを充実して,ここからどういう国語力が必要なのかを抽出していくということが必要だろうと思う。
  もう一つは,具体的な提案であるが,「社会変化への対応と国語」というところは,アからエまで四つにまとめられているけれども,どうもウとエの二つの違いがよく分からない。「国際化の進展と国語」,「情報化の進展と国語」というのはよく分かるが,その後の「価値観の多様化と国語」,「都市化,少子高齢化などの進展と国語」というのはなぜ二つに分けるのか,よく分からないので,一つにまとめてしまった方がいいのではないかというのが私の提案である。どういう言葉でまとまるか,ちょっと考え方を申し上げる。それから,現状を少し含むという点でも考え方を申し上げたい。
  都市化や少子高齢化,人々の生き方や価値観の多様化,これは一つながりになると思う。そういう中で,家庭や地域の教育力が低下し,世代間の断絶が深刻化している。同世代間の人間関係の希薄化等がますます進行している。こうした社会状況の変化に対応して,日本人の言語運用能力は必ずしも対応できていない。近年頻発する子供をめぐっての社会的な現象,諸問題,いじめとか,不登校とか,ひきこもりとか,家庭内暴力とか,おやじ狩りに象徴されるような少年非行であるとか異世代間のトラブル等は,言葉の問題としてみれば,子供同士ないしは子供と教師,子供と親,子供と大人の間で,話し言葉を介しての意思疎通,日常的なコミュニケーションができなくなっていることが原因の一つでもあろうと思う。
  こうした社会状況に対応して,新しい学習指導要領,小中高を貫く国語科の目標として付け加えられのが「伝え合う力」の育成,更に言えば,互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う力を育成するということである。こういう点では,伝え合う力の育成は,時代の変化,問題に対応して,言葉による人間関係形成力を高めるという観点に立つものであって,その目的とするものは,年齢とか性別,立場,価値観,世代,生き方の異なる人々と言葉を介して意思疎通をして,話し合い,人間関係を作り,深めていける人間,言葉を介して多様な他者と共生していける人間の育成を目指すものである。
  こういう観点からすれば,言葉で伝え合う力の育成というのは,学校の国語科教育の目標だけではなくて,学校教育全体,更に言えば,日本人の言語運用能力,これからの国語力育成の基本的な課題を示すものであるとも考えられる。
  こういう視点から,具体的に言えばということで,場や相手に応じた声のコントロールとか,用語・言葉遣いとか,敬語待遇表現,あいさつとか,時や場に応じた意見表明力であるとか,世代や立場・考え方の違う人々と話合いをして問題を解決していく能力であるとかいうのを抽出して,そのために学校では何をすべきなのか,地域では何をすべきなのかいう形で出していくと,現在の世の中の問題とも絡んでくるし,学校教育が今一番柱としている「伝え合う力」とも絡んでくるし,この答申が一般論であるということではなくて,様々な問題や考えと絡めて具体的な提言をするという形になっていくと思う。そういう点では,ウとエは一つにして,大きく言えば,伝え合う力,言葉での人間関係形成力,コミュニケーション能力だと思うが,国際化・情報化の前へ持ってきた方が,すっきりするのではないかという気がしている。

  まず,全編の中に,読書する力というのは一体どこに入っているのか。あれだけ議論をしてきたのに,文言が注意深く除かれているのか。どこに入っているのか。

  次の議題の資料4に入っている。

  資料4のところで検討するということなのか。とにかく読書に関することは最初から毎回ずっと言ってきたわけである。それが,また検討ということで出ていることに不満を覚える。現状分析というお話であるが,私は高校生の67%が月に1冊も本を読まないということが現状分析の一番のポイントだと思っている。67%の高校生が月に1冊も読まないという,そういう時代なのだということである。そういう時代に求められる国語力とはどういうことかということで,読書力というふうに私は文書で出したと思うが,それが入っていないというのはどういうことなのか。とにかくそういう現状であるから,読書する力というものを強調する必要があるという文脈を入れておいていただかないと,具体的な方策で出すときに,唐突になってしまうということになる。

  前回,読書の重要性が言われていて,特に高校生の67%が読まないということについての現状をはっきり書いてくれという御指摘をいただいた。そういうわけで,後ほどお諮りしようと思っていたけれども,御指摘のことは資料4に,こういう状況になっているということを書いてある。それから,今回のこれまでの審議では特に読書の問題と初等中等教育段階の国語教育というのが大きな二つの課題であったという整理をして,私どもとしては67%の話を状況分析として書き,かつ読書の重要性というのは1項目立てて述べるということで対応できるのではないかと理解したので,そういう案にさせていただいたところである。

  これは方策についてのところであるが,前回出たのは方策について唐突に読書の提案が出るのではなくて,その手前の,これからの時代に求められる国語力という辺りに,どういう時代かという現状認識としてそれが必要であるということだったと思う。それが前提にあって,方策として読書が出てくるということなのである。この内容自体はいいが,それを方策の方だけに特化してしまわないようにという意見である。
  ちょっとモデルのことともかかわるが,モデルの考える,感じる,想像する,表すというのは,言語そのものよりは,もう少し広がりがあるものだと思う。大事なことは,話す・聞くとか,書く・読むとかいう小さい字の方だと思うのであるが,読書というものの音読能力,黙読能力というのもクリアな能力だと思うので,モデルの中にも入れてはどうか。

  唐突かどうか,ちょっと検討して,また前の方にも方策に続くような形で入るなら,読書の重要性を入れるという形で考えてみたい。

  先ほどの御意見のように,確かに国語審議会でずっと日本人の話はされている。いろいろなところに出ているという話ではなくて,前回も言ったけれども,中央教育審議会のこの前の中間報告でも,日本人のアイデンティティーとして,文化伝統の尊重,国を愛する心,郷土愛というのが出ているので,私はむしろ「またか」という感じなのである。そういう意味では,文部科学省のやっている審議会の流れの中では一貫して,日本人のアイデンティティーを何とか高めたいという意図があるのではなかろうかということで,そういう意味では唐突感ではなくて,むしろまた出てくるのか,また脈絡もなく出てくるのか,なぜ国語の話をしているときに日本人総体としての意識みたいなものが出てくるのかということを言っているのである。
  一つ一つの言葉は,例えば祖先であるとか,国語であるとか,多分,日本人に置き替えられると思う。このままいくと,例えば,日本人としての自覚,意識を高めなければいけないとか,さっきも出た母語としてのプライド,人間として持つべき祖国愛,郷土愛,それから日本人として共有する意識,人間として,あるいは日本人としての根幹というふうに次々に出てくる。そして,一貫しているのは,さっき日本人という定義を明確にすべきだというふうに私は言ったのだが,それを前提として,日本人という集団を同質化させよう。つまり同じような意識を持たせて同質化させようというふうに審議会が求めているのではないかと誤解されてしまう。あるいは他の集団と差別・区別するというふうなこと,つまりアイデンティティー,あるいはある民族のあるまとまりの重要性を強調すれば強調するほど,ほかの集団との差が出てくる。アイデンティティーというのは集団としては多分独自性みたいなものだと思う。日本人としての独自性を強調すればするほど,個人ではなく集団としての独自性を強調すればするほど,これは国の審議会だから,日本人の同質性を国が求めていくというふうにとられるのではないか。あるいは,ほかの集団との関係を殊更に区別・差別するととられるのではないか。

  新たに「なぜ今「これからの時代に求められる」国語力を検討するのか」というのが加わったのは,前回,これからの時代と謳うからには,これまでとどう違うかをはっきりせさた方がいいという提案に的確にこたえ,本当に短期間の間によくこれだけきちんと書いてくださったと思う。多分,私も含めて,この場に集まった皆様は一種の危機意識を持っていらっしゃると思う。このままだと,日本の言葉というか,私たちが日常使う言葉がめちゃめちゃになってしまうぞという。そういうことが委員によってはもっと読書をという形に出るし,その辺りのニュアンスというか,ただ現状がこうですよというのではなくて,そこをもう少し書いた方がいいのではないか。それこそ高校生の六十何%が月に1冊も本を読まないという現状があるなど。具体的に数字を出す出さないはともかくとして,読書人口が非常に減っている現在というようなことをここのところに入れておけば,方策の中に出てくることが自然になるのではないか。
  それから,先ほど構造図の絵のことが話題になったが,私も絵でいろいろ示すというのは大変いいと思う。けれども,この絵の男性のこういうしぐさは非常に危ない。女の人が何か言って,男の人がオーケーというつもりだろうけれども,ある文化ではこれはお金のことになるし,ある文化ではもっと品の悪いものを指すことにもなる。こういう絵というか,身体語はとてもきっちりしておかないといけないと思う。

  前回にもお話をさせていただいたが,何年か前にイギリスの大学入試でラテン語を外す,あるいはシェイクスピアの作品を出さないということで,そのときにはあそこの国でもかなり議論している。そのことを少しお話し申し上げたのだが,言葉足らずで,それ以上進まないのであるけれども,現状認識で,私として意識していることを具体的に申し上げたい。私どもは実はイギリス政府と共同してイギリス人の子供の学校を経営している。400人ぐらいイギリス人の子供をおあずかりしているが,その学校に入りたいという日本人の子供が大変多い。大体,日本の社会ではエリートと言われる,両親が医者とか,弁護士とか,そういう人たちの子供である。
  私は,会えば必ず入れない方がいいよと言っている。入れてしまうと,日本人にならなくなると言うと,日本人に育てるつもりはないと言う返事が来る。要するに,幼稚園からだから,中学相当まで,15歳まで教育するから,入れば確実に日本人ではなくなるわけである。日本の童謡のかわりに,向こうの国の童謡を習う。それから,英語の言葉の教え方にしても,全く日本とは違う教え方をしているから,日本語教育と並行できない。そういう人たちと話していると,それが一人や二人でなく,ものすごく数が多いのである。それがおしなべて日本の教育を受けて,相当程度日本のそういう意味での利益を受けた人たちなのである。高度な職業,職業的に言うと,医者とか弁護士というのはそういう層であろう。それが日本人になりたくない,そういう子に育てなくないと考える人が出るということは,一種の危機ではないかと私は個人的には思っている。
  この分科会は,現状を意識して答申を出さなければ意味がないという御意見があったけれども,私も全く同じ意見である。現状をきちんと意識して,今考えられる現状で一番危険なことは,日本人が日本文化に誇りを持っていないことなのである。これは見事に戦後の何十年間の教育の結果で,それを否定するなら別だが,この事実がある以上,国語の教育というのはそういう部分の先端部分を占めていると思うのである。
  例えば,シンガポールに私どもの学校があって,10年前から教育している。私もシンガポールに年中行っているが,シンガポールは,経済的に非常に優れているのだけれども,今一番悩んでいることは,シンガポール文学が生まれてこないことである。非常に経済的に豊かで,文化的に,音楽会は年がら年中開かれているし,かなり優秀な文化人が出てくるけれども,文学者が出てこない。そういうものはやはり20〜30年では生まれない。今それで非常に悩んでいる。この間,ようやく一人出たとか言って,シンガポーリアンの人が喜んでいた。そういう状況を考えると,ここではそういうことをかなり意識して書かないと,答申の意味がないというふうに思われてしまうのではないかという気がする。普遍的な人間としての意識という意味で論ずることは,私は非常に大事だと思うから,そこは外さない方がいいとは思うけれども,しかし,今税金を使って審議会をやっているわけだから,今の問題を解決するようなものを何か入れないと,時間を掛けてやっても意味がない,税金の無駄遣いと言われかねないなという気がする。一般論を書いても,いろんなところに書いてあるわけだから,何の役にも立たないのではないか。いろんな情報を踏まえて,今何が必要かを書くべきだと考える。
  読書の話で言うと,子供たちの世界というのは,テレビの番組を見たか見ないかで議論している。見ていないと仲間外れになるから,黙っていても全員が見るわけである。そうすると,本を読む時間がない,そういうことに対してどうしたらいいかという議論をすると意味があると思う。普遍的なことはポイントとしてしっかり押さえていなければいけないけれども,ここで出す考え方はやはりもうちょっと具体的に,読んで,なるほど,そうしようと思うようなことを書かれた方がいいのではないか。私は余り表現能力がないので,誤解があるといけないが,そういう危機感を持っているということだけお伝えさせていただいた。

  具体的な話にだんだん持っていかないといけないと思うが,先ほどの御意見は,簡単に言えば,読書力というのはこれからの時代に求められる国語力の中に入らないのかということだったろうと思う。読書力というのは,これからの時代に求められる大変大切な国語能力ではないのかということで,ここでもしばしば読書の問題が取り扱われてきて,私なんかも含めて,読書のことを言ってきたのであるが,もし多くの方にその御意見が強くあるのであれば,二重になっても,やはり求められる国語力の中に読書力というのを立てていただきたい。そして,時代に求められる国語力を身に付けるための方策として,そのことを改めて次のところで加えるというような形で二重にする。短い答申の中で二重にするというのはちょっとくどいような気もするが,読書は非常に重要なことではないか。私は,この答申は読書のことだけ言えば,それでいいのではないかと思うくらい読書のことを訴えたいと思っている。もしそういうことにコンセンサスが得られるのであれば,二重になってもいいから,これからの時代に求められる国語力として読書をする力というものを訴えておいて,また同時に,ほかの能力を培うものとして,身に付ける方策としての読書ということと二つ出してもよいのではないか。

  人間関係形成能力がこれから求められる能力の大切な一つであるということで示されている。また「伝え合う力」ということも先ほどあったけれども,正に今国語教育で一番力を入れているのがこの伝え合う力である。その背景としては,不登校が年々増えている。不登校でなくても,人間関係を積極的に作ろうとしない中学生,あるいは高校生が増えている。そういう実態もあるが,それを踏まえて,やはり人間関係を言葉によって作っていこうとする能力というのは大事なことであろうと考えている。
  具体的には,少し言葉を付け足す形でどうだろうかという提案であるが,「表す力」の3行目に,先ほど指摘のあった「相手や場面に配慮しつつ」という文言がある。これはこのまま生かすということでいいが,もう一つ,相手,場面,目的,とりわけこの三つが大事であろうと思うけれども,これに配慮しつつ,そして先ほどの人間関係を言葉により形成していこうとする意欲や態度という言葉がうまくつなげられないか。若者言葉が今非常にはやっているが,若者言葉を考えても,相手や場面,あるいは目的意識というのが非常に希薄である。けれども,これも言語生活における一つの課題であろうかと思うので,そういう意味からも,相手,場面,目的,こういう意識を持つということが大事であろう。それから,知識等がともすると中心になってしまいがちだが,読書についてもそうであるけれども,読もうとする意欲,あるいは積極的に言葉を交わしていこうとする意欲も現在の学習指導要領においては学力としてとらえている。これを少し広げて,そういう意欲まで能力ととらえていいのではないかと思う。
  それにかかわって言うと,モデル図のところであるが,その中の点線の二重の四角のところに「表す力」というのがあるけれども,それもやはり表現力の背後に,表現力や意欲,態度という言葉が入れられないかと考えているところである。

  どういうふうに全体の強調の仕方というか,重点の置き方を持っていくかということにだんだんなってくるだろうと思う。要するに,現在をどういうふうにとらえるかということで,情報化とか国際化とかいう観点の中から,これからの時代の国語力となっていったときに,図にある,「考える力」,「感じる力」,「想像する力」,「表す力」というふうに一応絞り込むような形になっているが,更に絞り込んでいったら,国際化,情報化の中で培うべきものは,「考える力」,論理構築力,伝え合うということを前提にした「表す力」というふうに重点の置き方を更に絞り込むということも考えられるのではないか。それを作り出していくために今お話に出ている読書力とか,先ほどおっしゃっていた,理解する力,理解力ということになるのか,それが理解力を培う読書力というふうになっていくのか,位置付けになってくるのかなということも思うので,構造化と重点化というのを更に進めることもできるのではないか。

  この現状認識の中で,「社会変化への対応と国語」という部分であるが,現在,外国語がこの報告書の案にも非常にたくさんあって,お分かりのように,どんどん日本語の中に外国語が入り込んできている。これは,これからの時代は更にもっとひどいことになるだろうというふうに私は想像している。そうなると,世代間の円滑な意思疎通が更に困難になる。世代間と言っても,若者とおじいちゃん,おばあちゃんではなくて,父親と息子の関係でも意思疎通が非常に難しくなるというような感じが出てくるのではないかという気がしている。
  特に最近は,英語能力がないと昇進できないという会社が増えてきたので,ますます日本語の中に英語が入り込んでくる。これをどう認識するのかというところについて,何も記述がないというのは非常に残念である。ただ,プライドだとか,日本文化の理解だとか,母語だとかいうようなことを並べていたり,「国際社会の中で,日本語を使用したコミュニケーションが,今後多くなることも予想される」というのは,全く社会と反対のことを言っているのではないか。英語がどんどん日本人の中に入ってきて,世界中が英語にどっとなだれを打っている状況の中で,日本語のコミュニケーションが今後国際社会の中で増えるなどというペーパーをこの分科会が出すということは,現状認識が非常におかしいのではないかというふうに感じる。

(3)「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」の議論

  挙げられている方策を見ると,いいことも書いてあるが,これだけではちょっと足りないという思いがする。具体的には,先回のこの会議でも出ていて,今回も出されている「理解する力」というのを基本的な力に入れなければいけないのではないか。聞いて理解する,読んで理解する,それが国語力の四つの中に入っていない。先回の議論で,「想像する力」が入ったけれども,それを入れる必要があるということと関係することである。「考える力」の中に,「分析力,論理構築力など,論理的な思考を展開する上で必要となる力」と出ているので,これは聞いたり読んだりしたものを分析して,論理的に組み立てて,これが「表す力」につながっていくということだと思う。これまでの国語力で行ってきたのは,20世紀までは大丈夫だったかもしれないが,グローバル化した世の中で,たとえ日本語で話していても,ここのところの訓練がもっと基本的になされるべきだというのは,文化審議会でも大分言われていることなのである。
  先ほど,インターナショナルスクールに入れたいという人が非常に多いというお話があった。ということは,将来,グローバルな世の中で活躍するような子供に育てたいと思っている人たちは,きっと国語だけで教育されたのでは何か物足りないものを感じていらして,インターナショナルスクールに入れたい。そうすると,何がというと,ここの部分が日本の国語教育に非常に欠けていたことだと思う。これを具体的な形でどのようにしてというか,日本での作文教育というものを,ディベートとか何か出ているが,それを小学校の初めのうちから分析すること,自分と他人の意見を区別しつつ,その中で考えて,話合いの中,または書いているうちに,最初に自分の思っていたこととは違うところに発展していく,英語で言うとダイレクティブというか,三段論法を頭の中に入れて物事をどんどん解決していく力というのが国語力の大事な部分だと思う。そこのところを明確に書くような方策というのが必要ではないか。
  今までの国語力というか,作文教育などで行われてこなかった面を入れる。外国語の基礎としてでも,日本語はそういうところが必要だという文言があったが,それを重ねた形で,これまでの国語教育とは違うと思うものが求められている時代に来ているという認識はあってもいいのではないかと思うわけである。

  教科「国語」と書いてある部分が何か所かあるけれども,ここのところはこの言葉でいいか,それとも「国語科」という言葉に直すか,ちょっと御検討いただきたい。例えば,「学校教育は子供たちに計画的・体系的に知識を伝達する場であり,(国語科で育成する)漢字や語彙,文法など」,この部分はどうしても「国語科で育成する」と入れた方がいい。その下は,「また,逆に,国語(科)があらゆる教科の中核である」というふうに「科」を入れた方がいいのではないか。真ん中より下の点線のところでも,「まず」という文の次の行,「国語(科)があらゆる教科の中核であることを認識して,(国語科の授業時間を)質的にも」とするか,「授業を」でもいいかもしれない。「(授業を)質的にも量的にも充実を図っていくべきできある,特に小学校段階においては極めて国語(科)が重要であり」という形で,「科」という言葉を入れて,国語科でやるべきことと学校教育全体で取り組むべきことを区別して考えた方がいいだろうと思う。
  もう一点は,これはまだどこにというふうにはっきり決まらないが,学校教育全体を通じて国語に対する関心や理解を深めるとか,言語環境を整えるとか,生徒の言語活動を活発に行うとか,これは国語科だけではなくて学校教育全体の課題であるということを是非強調していただきたい。

  しかし,それを書くならかなり強く書かないと駄目だろう。今までも,国語科の先生だけではなくて,理科も社会も,先生が言葉についてしっかりとやっていただかなければいけないというようなことはずっと言われ続けているので,言うならもっと強く,今までは駄目だったということまで書くかどうか。そこまで書かないと,また同じことを言っているのではないかというふうに取られる可能性があると思う。

  これからの時代というときに,こういうふうに危機感を持って,なぜ国語を皆さんがやっているかというと,国語,日本語の力が弱まっているからだと思う。なぜかというと,先ほどもあったように,読書よりもテレビに行ってしまう,テレビの方が強いということがある。その現状はやはり一応きちんと押さえた方がいい。
  皆さんもよく御存じだと思うが,若い人たちは,言葉がなくても通じ合えるということで国際化しようとしている。踊るとか,歌うとか,絵をかくとか,漫画まで入れていいかもしれないけれども…。昔は,明治時代とか,あるいは中国の科挙だとか,要するに,国語を知っていればステータスだったわけである。知識もあって,それですぐ大学教授になれた。今は国語の力にはそれは残念ながらない。英語の方が,あるいは多国語,5か国語知っていた方がいいというような状況なので,それは踏まえた上で,なおかつというのが必要である。ほかが全部駄目である,つまり踊りや歌で進出している人の方にあこがれてしまう状況を悪いとは言えないと思う。そういうふうに若者たちはやっている。でも,なおかつ「国語は必要だ」というふうに,これからの時代は国語以外のところでもインターネットを含めて動きはあるのだというのを知っているぞ,でも「国語だぞ」というふうに入ると,私も参加しやすいと思う。

  この分科会で言うことなのかどうか,ちょっと分からないが,これは政府から諮問を受けているわけで,新聞社の論説みたいなことが第一義ではないと思う。政府のことである以上,一番申し上げたいことは,教育における読書と言ったら図書館の充実と司書教諭の充実だと思う。これにちゃんと予算を付けろ,そしてそこのところをばんとやれということが,国に対して一番言うべき問題ではないか。抽象的なことをいろいろ言うよりも,国に対して何を求めるかと言えば,私はやはり学校図書館の充実,そしてそれを全教科にわたって指導できる司書教諭の充実ということ。これはこの分科会の仕事ではないのかもしれないが,国に対してなら,それを一番先に言うべきである。

  今までの議論からすぐに方策に飛んでしまったわけであるが,今までの議論とこの方策の間に,もう一つ何かが必要なのではないかというふうなことを感じる。私がこういう審議会での議論の立て方にまだ慣れていないせいであろうと思うが,国語力を身に付けるための方策というのは,今まであったものにただ加えてできるものではないのではないかという感じがしていて,今までの国語力が不満足であるのは一体なぜなのか。そして教育及び政府がかかわるところで対応があったのか。それができていないのであれば,長期的に,構造的に何が必要か。それと同時に,まず手の付けられるところは何か。そのように階層をきちんと分けて議論をしないと,いろいろなレベルのものを同じ土俵で理解しようとして,なかなかすべての委員が納得できないのではないか。
  また,1のところでは大変客観的に書いてあるが,「何よりも国語の重要性が認識され,国語を大切にしようという意識が国民の間に共有されることが必要であることは言うまでもない」。これは当然であるが,これで終わってしまったら突き放しだろうと思う。そうすると,そのためには何が必要かということまでやはり考えなければいけないのではないか。それで,方策の中では,この前の夏の宿題でもいろいろ委員の皆さんの意見を拝聴したし,また,今この場においては,「読書の広範な勧め」と「初等中等教育段階における国語教育の充実」は当然のことだと思うが,この抽象的な二つは短期のものか,また長期のものか,私にはまだ分からないが,そこをもう少し構造的に,こうすればこうなるというところまで出すべきではないか。
  先ほどもあった「単に教科「国語」にとどまる問題ではなく」,これは本当のことだと思う。今までも初等中等教育において,すべての教科において国語,つまり国語という媒体を使っての教育であるので,そこでの国語の能力を高めるというふうなことも一つではないか。そうなると,国語には二つある。読んで読書をし,そして理解を広めるということと,言いたいことをいかに伝えるか,書いて伝えるか,作文及びリポート,そういった書く能力だと思う。その辺で,ほかのすべての教科まで巻き込んだ国語教育というのが可能ではないかと思うが,一つには,いろいろな階層を少し整理する必要もある。その中で,即効力のあるものと構造的に長期的に見て変えなければいけないものとはっきり分けて,両方を効率よく進めるような提案にすればいいのではないか。

  要するに,どうすればいいのだという具体策を出すことが一番肝心なことだと思う。何に対しと言うと,子供たち,若者たちに読書習慣を身に付けさせるためにどうすればいいのか。対策としては,恐らくその辺に焦点化されていくのではないか。
  ここに「啓発活動云々」とあるが,これは大切だけれども,こういうことは新聞社等が勝手にどんどん進める。とすると,ここで何を提言すべきかということを考えると,先ほどの図書館の充実は本当に大見出しで書かねばいけないことだと思うわけである。
  さらに,学校図書館と一般図書館,両方の充実ということを求めていくべきである。御存じだと思うが,地方交付税が図書館以外のところに使われたケースが非常に多いというふうな結果が出ているけれども,そういうことでは幾ら言葉を並べても読書活動というのは進んでいかない。それから,一般図書館にしても,たしか日本の人口当たりに占める一般図書館の割合というのは,スウェーデンの20分の1か,それくらいの数だったと思うわけである。地域の核として一般図書館が根付いているところと比べると,これの充実を求めていくということが非常に大事であろう。
  もう一つ,「その他社会において」云々のところに入れてほしいと思うが,大学で読書,これは課題読書でもいいし,フリーの読書でもいいのであるけれども,レポート,教員の面接等による評価によって単位を与える「読書科目」というものを推奨したらどうなのかと考えている。朝の10分間運動は確かに非常に成果を収め,これからもどんどんと伸びていくだろう。ブックリストなどもあるだろう。しかし,ぽかっと空いているのが大学生の読書の問題である。データによると,高校生よりも今の大学生は読んでいないというデータがあるわけで,私は,大学1年生にこの読書科目を履修させ,自分で学ぶという基礎を付けて,大学の学習に入っていくというのは導入としても非常にいいし,生涯にわたる読書習慣を身に付けるという意味でも有効であると考えている。もちろんこれは強制ではないけれども,この分科会として提唱してもいいのではないか。

  私は余り若くはないが,生まれて物心ついたときには既にテレビが家族の一員のように茶の間にあって,完全な映像世代である。先ほどからお話を聞いていて耳が痛いことばかりで,本当に読書をしない子供で,『小公女』も読まずに大人になってしまった。劣等生の代表として一言申し上げたいが,先ほどどなたか委員の方からお話があったけれども,読もうとする意欲というのも能力に入る。だからこそ今国語力に乏しくて,読書の必要性を感じるわけだが,要するに,今ここでブックリストを挙げて,それぞれの委員の方からいろいろないい本のリストが出たとしても,例えば,高校生の67%の読まない,読む習慣のない子,あるいは読む意欲のない子供にどうやったら読ませられるのかというのが大きな問題だと思うのである。
  私が子供のころに感じたのは,読め読めと言われると余計読みたくなくなるということである。小学校1年生のクリスマスの朝に,リカちゃんハウスが枕元にあるものだとばかり思っていたら,『少年少女文学全集』がずらっと並んでいて,とうとう大人になるまで1ページも開けずに,変に反抗して終わってしまった。そういうことになってはいけないような気がする。だから,より魅力的に子供たちに提示する,あるいは魅力的に子供たちに伝えていく教員,学校の先生の育成が大事ではないかと思う。

  学校教育のところで,教科「国語」としていろいろ書かれてあることは現場の先生がお読みになったら,学習指導要領で書かれていて,国語の教科書で具体化されていて,ここに書いてあるようなことはやっている,新しみを感じないよというふうに見える。要するに,発表力やレポートをまとめる力,ディベートやグループディスカッション,演劇,カルタなどというのも,演劇やカルタはやや数は少ないかと思うが,当たり前のようにやっている。ディベートやグループディスカッションは小中高を通して,言語活動として取り上げられているので,書かれてあることは珍しくないことばかりである。
  だから,魅力的にこれを書くことになったら,先生方の教科構造についての知識,理解,それと具体的な実践の中で,これからの国語力を強調した場合の教科の構造の重点化というようなことを考えた記述の仕方をしていかないと,ただ「何だよ」ということで終わってしまうのではないか。それが一つ目である。そういうわけで,ここのところは,このままでは国語の先生が読んでもほとんど何とも思わないだろうと思っている。
  それから,「読書活動を定着・発展させるための取組について」の方である。これも図書館の充実,予算配分ということの指摘はそのとおりだと思うが,同時に,小・中・高等学校の子供を頭に置きながら見てみると,これも学校の先生方は「読書活動はやっているよ」という気持ちがまず先に来るだろうと思う。学校の教育課程の組み方というのは,小中学校であるが,各教科,道徳,特別活動,総合的な学習の時間というふうに組まれていて,その中で「読書」というのはどう位置付けられているかということになる。朝の10分間読書は,特別活動の中の一つの位置付けとなっているのであろうが,これも先生方の努力と学校自体の体制の取り方ということで,組織的に行われていくということになるのだけれども,もう少し踏み込んで言えば,教育課程の組み方の中に,各教科,道徳,特別活動,総合的な学習の時間プラス読書の時間を設定すれば,いや応なしに行われるというふうになっていくわけである。そういう設定の仕方の方が,実現としては非常に簡単に実現していくと私には思える。今,小中高を通して,授業時間が減になってきているということで,ここでも随分そのことについて,特に中学校の国語の時間ということで言われているが,そういう時間減の中で読書活動を導入していくことが,いかに現場としては困難であるかという前提に立てば,教育課程の中に,1時間「読書の時間」を入れていく方が早いのではないかということが,二つ目である。
  もう一つは,「その他社会において国語力を高めていくための方策について」。ここには二つしか書いてないが,こここそアピールする意味合いで,いろいろ知恵を出し合って,具体的な問題をたくさん出していく必要があるのではないか。いつも言われているのは,テレビの中の芸能人の言葉,あるいはテレビではどういうものが好まれて見られているかというようなことなどを通して,国語力の向上と考えたときには,やはり影響力の非常に強いものに対してのアピールの仕方というのを考えたら,この2項目だけでは済まないだろうということで,知恵の出し合いが必要だと思っている。

  この方策についての大きな構成の1番が「これまでの審議」で,次に2「読書活動を定着・発展させるための取組について」,3「子供たちの国語力を向上させるための学校教育などの在り方について」とあるところを,例えば,言語活動能力という面でとらえ直していくと,2番が「理解活動」ということになるのではないか。つまり,どのように情報を受け取って理解していくか,自分のものとして問題をまとめていくかというようなことである。その中の一つとして,読書活動があると位置付けたら,読書が方策の中の一つとして位置付くように思える。
  そのように見ていくと,次の3というのが,主として今度は「表現活動」としてここを改めていけば,最初の2との整合性が出るのではないか。そうして,ここに3回「中核」という言葉が使われているが,中核という言葉はちょっと分かりにくいので,「国語力の中核としての表現活動能力」ということでここを整理していく。そうすれば,2が先ほど申したように「理解活動」,3は「表現活動」と整理されて,次の4は「その他言語事項」ということで,漢字,外来語,それ以外の専門用語というものがここに出ているので,そういう形で,ここを組んでいけばいいのではないか。

  この読書活動というのは学校でやることなのか。さっきの御意見では1時間取るのが早いという,それは確かであるけれども,ここにある読書というのは,例えば67%が読んでいない,もっと個人個人が自分で読むような形にしなければいけないということなのか,学校だけで読んでいたのではそんなにたくさん読めるわけがない。教科として読むだけでなく,もっと読む習慣とか,興味とか,そういうことを持つような動機を与えなければいけないということになってくるのではないか。

  「読書活動を定着・発展させるための取組について」のところで,情報化がどんどん進んでいるわけであるが,そういう情報化時代を迎えての読書とのかかわり,これが少し希薄ではないか。読書によってたくさんの情報を得る。そして,それらの中からその情報を選択して,活用して,発信していくという力が,これから非常に問われてくる。情報化時代と読書とのかかわり,位置付けをもう少し強く出したいと思う。

  資料4について考えたことを二つ申し上げる。一つは経験的に言って,学校では読書に熱心な先生のクラスは子供が本をよく読んでいる。何年か前の調査であるけれども,職業別の読書量では,教員が一番少ないそうである。それが子供に出ているのかなというふうにも思える。これはある調査であるから,文部省でも分かると思うが,とにかく先生方がもう少し本を読む必要があるだろうという気がする。
  2点目は,たまたま仕事の関係で外国人との付き合いが多いので,イギリス人やフランス人に「子供のころの読書ということで何か思うことはあるか」と聞いたら,たまたま聞いた何人かの人が共通の本を挙げた。ウォルター・ベンヤミンの書いた『子供のための世界史』という本である。日本語に訳されているかどうか,調べても分からないのであるが,各国語に訳されて,ヨーロッパの人はみんな読んでいるみたいである。日本の場合,どうも子供のための歴史本というのは余りない。日本の歴史本の一番まずいところは,うまくいった方だけ書いていて,失敗した方は書いていない。だから明治維新だと明治政府しか書いていないので,破れた江戸政府の方は最近ようやく書かれ出したというようなところがある。何かそういうようなものを,私は知らないが,是非勧めていただくといい。私は,歴史の本を子供のときに読んでおくというのはすごく大事だと考えている。つまり,人生の座標軸みたいなことを考える場合に,うまくいった場合と失敗した場合と両方書かれているということは過去の経験としてあるわけだから,読書を勧めるというのであれば,是非それに触れてほしいというふうに思っている。

  先ほど読書の時間を設けるという御意見があったが賛成である。読書を動機付けからと言っても,時間をきっちり区切ってやることで,それがきっかけとなってということがあると思う。少なくとも高校生が1時間読めば,それが週1回であっても月1冊に近くなる。そうすると,67%であったものが非常に低くなる。確実に減らすことができるところからやるべきである。今の朝読書というのは自主性に任された活動であるが,きっかけとしてで結構であるから,週1時間の「読書の時間」ということで,好き放題,何でもいいというのが朝読書の方針だけれども,そうではなくて,ある程度知性,教養というものにつながるような読書指導を司書教諭の充実も含めて考えたい。
  それと副読本に政府の予算を割いてほしいということがある。中学・高校で急に読まなくなるのではなくて,小学校の読書は,明らかに児童の,子供のための読書である。大人の読書とは溝があるわけで,そこを埋める副読本,国語教科書はいろいろと事情があるだろうから,その充実は求めるけれども,それ以外に,小学校,中学校辺りに予算を割いて,例えばビッグネームの読みやすいものをそろえたものを副読本として,まず提供し,それを読書の時間に多少かかわらせるというようなことを提案したい。

  方策として書かれていることは,いずれも反対すべきところはないというか,間違いは多分ないと思う。その前の現状分析のところはいろいろ議論があったけれども,ここは余り議論にならない。議論にならないのは,当たり前のことを言っているというか,今やっていることをそのまま言っているということで,強弱もないし,重点化もないし,これではちょっと物足りないのではないか。
  「これからの時代に求められる「国語力」の構造」というモデルのところで,「考える力」と「感じる力」と「想像する力」と「表す力」の四つがあるが,これから必要なのは,私は「考える力」と「表す力」だと考えている。ほかの「感じる力」,「想像する力」は,今までの教育ではそれなりにされている。不十分ながらされていると思う。そうすると,考える力と分析力,論理構築力,あとそれを表す表現力をどうやって学校教育の中で育てていくかを考えないといけない。それには,今の学習指導要領とか教科書,あるいは授業時間というのも根本的に多分考えないと,これは達成できないのではないか。ここに書いているくらいのことでは,こういう「考える力」なり「表す力」は学習指導要領にも既に書かれているから,それをもっと重点的にやらないと,これから子供たちが大きくなって生きていく力というのは付かないだろうと思う。
  もう一つ,読書というのはいろいろなものの理解力とか考えるところの基礎的な部分ではあるが,単に本を読めばいいというわけにも行かないのではなかろうか。つまり,一人で何か読んでいるのも随分暗い感じがするし,一人で読んで引きこもって不登校になってしまうというのも感心しないというか,本好きの子は本ばかり読んで学校へ行かないというのもよく聞くし,そうすると,単に読めばいいというものではない。その辺からすると,単に読書の勧めでいいのか,何か暗い子を作る勧めにならないか。不登校になるぐらいだったら,少し体を動かした方がいいのではないかとも思うし,そこのところも本を読むだけで解決になるのか。本を読まない人だって社会人として立派に成り立っている。朝の10分間読書運動をやればすべてが解決するというような感じだと,ちょっと誤解を生むのではなかろうかというように考えている。

(文化庁文化部国語課)

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