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国語分科会

2002/10/21 議事録
文化審議会国語分科会第8回議事要旨


文化審議会国語分科会第8回議事要旨

平成14年10月21日(月)
午前10時〜午後1時
東京會舘「シルバースタールーム」

〔出席者〕
(委員) 北原分科会長,青木,阿辻,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,小林,五味,齋藤,舘野,手納,藤原,山根各委員(計15名)
(文部科学省・文化庁) 御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  文化審議会国語分科会(第7回)議事要旨(案)
  議論のための論点整理(たたき台)(案)
  「これからの時代に求められる国語力について」委員アンケート集計〔項目別整理〕
  国語分科会の今後の進め方について

〔参考資料〕
  文化審議会国語分科会(第1〜6回)における主な意見
  外国における外来語に対する対応

〔経過概要〕
  事務局から,配布資料の確認があった。
  前回の議事要旨について確認した。
  事務局から,配布資料2,配布資料3,参考資料1についての説明があった。
  委員の間で「これからの時代に求められる国語力を育成するための対策について」及び「国語分科会の今後の進め方」について意見交換を行った。
  なお,前者の議題にかかわって,欠席の松岡委員から文書による意見提出があり,事務局で紹介した。(提出意見は別紙参照)
  今期の審議のまとめに向けて,分科会長から,これまでの意見を整理するために,何人かの委員に相談しながら進めていくこと,また相談する委員の人選については一任してほしいという提案があり,了承された。
  テーマごとに小規模のグループに分かれて討議することについては,現時点では,分科会としての共通認識が十分に形成されていないという認識もあり,今後の扱いについては分科会長に一任することとなった。
  次回の国語分科会は,11月18日(月)の午前10時から午後1時まで,東京會舘「シルバースタールーム」で開催することとされた。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)「これからの時代に求められる国語力を育成するための対策について」の議論
      (○は委員,△は事務局を示す。)
  第22期の国語審議会の第1委員会で,「これからの時代に求められる言葉遣いの在り方」に対して出した答申が,「敬意表現」であった。これは,あいさつとか敬語の問題も含むが,一言で言って,言葉を使うときに相手と場面に配慮して使う言葉遣いのことである。この分科会の議論で何度も出てきている「伝え合う」こと,言葉を使うことによって人間関係や自己を作っていくこと,それらは正に敬意表現を使うことによってなされると思う。敬意表現が中心となるような考え方,要するに,伝え合うとか,人間関係を築くとか,それはすべて相手と場面を配慮しながら自分の言いたいことを言うことである。この敬意表現は,日本人の敬語を歴史の中で育ててきたというその伝統を持ちつつ,なおかつ,古い敬語の上下関係に縛られないという新しい考え方を出したものであるので,是非これを方策として取り上げていただきたい。

  国語の重要性を広く社会全体で認識していくことについて,文化庁の国語に関する意識調査は随分マスコミでも話題になるし,学校でもいろいろと話題になる。ああいう調査を意識というだけではなくて,国語力として聞く力や話す力や様々な力がどれだけ身に付いているのかという実態調査として,実施していただくと,また全体で考えていくための資料ができるのではないか。

  この分科会はそろそろまとめに入りつつあると思う。まとめということになると,結局は,いろいろな意見が出て,このままだと必ず発散する。そうすると,これまでの国語審議会と同じになってしまうので,やはり何かに集中したいと私は思うわけである。
  これまでの意見を見ると,初等中等,特に初等教育における国語教育がやはり焦点である。今までいろいろなことが出てきたけれども,初等中等教育,国語教育の中に自分の言ってきた意見を反映させる,にじませていく,そういう形で何かに絞り込まないと永遠に発散してしまうということになる。
  例えば,今回の国語分科会は国語教育を集中的にやった。その中を幾つかに分けて,これまでで一番大きなのは読書である。もちろん話す・聞く等も大切だけれども,現在日本が何もかも壊滅的になっているのは,話す・聞くではなくて,やはり読む・書くの方,特に読むである。これがすべての中心であるから,きちんと活字文化を復活させないと,要するに,今はそれほどの状態になっている。
  したがって,初等教育において国語が大中心で,その中でも読書が大中心ということである。さらに,国語教育を初等中等でやるわけだが,その中に漢字の問題が出てきている。現在のワープロ等の発達に伴う常用漢字の意義,ほかに作文,ディベートということも出てきた。作文,ディベートは論理的思考を養う最もすばらしい方法である。それから,聞く,話す,美しい言葉,人間関係,このような幾つかに国語教育を分化して,それぞれ班に分かれていろいろ提言する。全体の3分の2くらいはそれでいいと思う。
  ただ,文化庁としては,それだけだと何だかんだと批判される可能性があるのだったら,残りの3分の1で,その他,例えばテレビとの関係とか,家庭とか地域との関係とか,その他もろもろの取り残したものを書いて,そして,巻頭にどうしても必要なのはなぜ国語かということである。例えば,初等教育において国語は全くの別格である。算数も理科も社会も生活科も何もかもふっ飛んでしまうほどの全くの別格なわけである。なぜ別格なのかということは,きちんと,今こそ他の教科の出る幕を遮断するような勢いでしないと,とにかく国語は本当にみじめな状態になっているので,別格ということを訴える。そのような構成が今私の頭には浮かんでいる。

  余り総花的では良くないということも分かるが,文化庁が困るのではなくて,国語分科会,文化審議会が諮問されているので,私どもとしては,諮問内容の全体に真剣に答えなければいけない。内容に強弱のアクセントを付けるのは賛成であるけれども,国語の重要性については,小学校だけがやっても,社会全体で意識を共有しなければいけないということがあるだろうと思う。その方策についての御意見を是非いただきたい。やはり,社会全体がそういう雰囲気にならないと,初中の教育だけを言っても駄目な面もあるのではないか。

  「国語の重要性について認識し」というときの認識する主体,それから「国語を大切にする意識を共有する」というところの共有する主体はだれかということであるけれども,これはやはり国民一般だと思う。老いも若きもということになる。つまり,先ほどの御意見で,小学校,中学校に特化すべきというところは,私も半分賛成しているが,生涯学習を視野に入れて,そして社会人になっている場合,あるいは現実の社会や会社からリタイアした場合,というようなところまで視野に入れて,国語の重要性について認識するという方向で考えていく必要があるのではないか。
  そうすると,例えば,社会に出るときにはこれくらいの国語力が必要だ,高校を卒業するときはこうだ,あるいは一般社会ではどういうような言語習慣が必要だというような,およその目安というものが,それぞれ輪切りにしたところでおよそ提示できる緩やかな目安ができると良いと,私は思っている。小学校の方で申すと,国語は重要だということを国民に言うためには,これは授業時間数を増やすしかないと思う。例えば理科や社会科というものを国語の中に入れていくという戦前の方式があるが,もしそれをしたとしたら,なぜだということで国語の重要性というのが出てくるだろう。それから,国語の重要性というのがすぐ読書に行って,そこから文学へという狭い路線でなくて,説明文も必要だというところへ幅広く広がっていくのではないかと思っている。

  私も学校教育に絞るのではなくて,諮問自体に即して考えれば,日本国民全体をベースにした方向で検討するのが必要だろうという判断が生まれてくると考えている。
  それで,学校,家庭,社会というようなキーコンセプトを使いながらよく説明をしたりするが,例えば,新聞なんかを見た場合でも,第1面から最後のページまで見たときに,事実や事柄をきちんと説明するときには,説明者自身が社会的な責任を持った上で事実説明をきちんとすることが必要であるし,それは経済界にしたって何だってあるわけだから,そういうことにも及んだ言葉の使い方をベースにしていく考え方を採っていく必要があるだろう。ディベートとか,議論とか,いろいろ言われるが,それもそれぞれ自分の立場があるわけだから,その下に客観的に相手を説得できる理由や根拠を明示しながら,自分の考えを論理的に表して説得するという一つの論理的な表し方を新聞の文章などでもきちんとしているというのを,お互いに国民の一つの財産として,言葉の力として財産にしていくというような方向が大切である。その上で,今の情報化,国際化の中で非常に大事な国語力だというところを押さえたりすることも視野に入れていく必要があると思う。そのベースは,確かに学校教育であるけれども,国民全般を配慮した方向での考え方という方向に持っていくべきではないかと私は考えている。

  繰り返しになるけれども,例えば,子供たちの国語力育成について焦点化して対策を立てる人間が何人か集まって,もうやってしまうべきではないか。この場では,それはそれとして否定されているわけではない。あるいは,世の中一般に対してメッセージを送りたいという方々がいて,そういう方たちが集まってそれなりの対策を立てるというふうに時間を使わないともったいない。
  私はどれに参加したいかと言うと,読書リストの作成を中心にした読書活動である。読書リストをもしこの分科会の名前で作るというと,批判は受けるだろうが,それがある程度妥当なものであれば子供用というふうに銘を打たなくても,このぐらいは読んでおこうという一つの目安として出した場合,大人がそれに刺激を受け,あるいは出版界も刺激を受けると思う。次世代に伝えたい書物というような形でアンケートを一度とって,それで子供たち,中・高校生にこれぐらいは読んでほしいという形で,大人の意見を還流させていくということもできるのではないか。それで例えば,漱石や鴎外がもし非常に高得点だったとすれば,それはルビを付けた形で子供たちに供するというようにすると,さっき言った子供だけが問題だというふうにはならないと思う。
  それと,教科書問題は非常に大きいと思っている。要するに,光村の「6年国語(上)」というのは,この間お配りしたと思うけれども,読み物が四つである。読む物が半年間で四つしかないわけである。説明文か文学かという問題ではなくて,四つしかないものだから,もうどうにもならない。それを半年でやるわけだから,この異常事態というものに対して,ちゃんとしたオルタナティブを出すべきではないだろうか。その辺りを意識のはっきりしたグループで,対策を立てる方がよろしいかと思う。

  この分科会自体が諮問に対する答申を作るということで,いただいている論点整理の案に従っていくのであろうと思っているが,そこで私が感じたのは,国語力とは何かという定義を一番先に持ってくるべきではないかということである。その定義も,今までいろんな意見が出てきたよって立つところの諮問が,どのように考えるか,どのような重要性があるかということなので,それに対応して,国語力として,何を必要とすべきか,何が欠けているのか,何がどのレベルであるべきかを初めに持ってきて,そして,国語力が今満足なレベルにないのは,一体何が原因なのかというところまで本当は行き着かないと,また,同じような体系的な論理になってしまうのではないか。
  確かに体系的に考えるべきではあるが,大事なものをすべて漏らさないようにやっていくと,短い中で,総花的なものになってしまう。そうなると,答申自体がレトリックに陥ってしまう危険がある。今回新しいもの,実質のあるものとするためには,定義付け,実態付けまで行って,そこで実際に方策としての仕掛けということに行くのではないかというふうに思っている。
  それと,たたき台の整理,今までの委員の意見が全部ここに出ているが,これをある形を持って分析をしていく必要があるのではないか。例えば若い人たちの言葉についてどう考えて,どういうふうな意見があったか。縦横からそのような分析をして,それではどうすればいいのかという方策までいく必要があると思うのである。それから,委員の中で,ある分野は分担して責任を持ってやっていく,チームを作ってやっていくというふうなやり方をすれば,いいものができるのではないだろうか。

  確かに国語力とは何か,それから,国語力が欠けている原因が分からないと方策はつかめない,方策はできないというようなことはあるから,おっしゃるとおりだと思う。

  次代を担う子供たちの国語力を育成のための取組について,お話をしたい。
  読む,書く,聞く,話すというような,何をどこまでという具体策については,私は教育者でもないし,専門家でもないので,それはほかの方々にお任せしたい。ここで,話したいのは,丁寧な話し方とか,上品な話し方,それを下品にするのは非常に簡単だけれども,下品な言葉,乱暴な言葉を上品にするのは非常に難しいのだ,大変な努力がいるのだという「マイ・フェア・レディ」の例であるけれども,小さい時から汚い言葉とか乱暴な言葉,人を侮蔑する言葉,礼儀作法に反すること,そういったことについては親が厳しく注意するというのは当然のことで,これが,きれいな日本語を身に付ける基本だと思う。
  家庭ではもちろんのこと,先生が厳しく指導している学校の生徒たちを見ていると,ほかの学校に比べると大人に対する言葉遣い等が非常にきれいである。これがいいことかどうかは別にして,仲間内では当然はやり言葉とか乱暴な言葉をふだん使っているわけであるけれども,そういった他人に対して,あるいは大人に対して,こういう言葉を使うのだという基本ができている。使い分けができることが非常に重要なことではないかと思うのである。それができないまま大人になっている子供たちが,今の世の中には非常に多いという感じがする。そういう人たちが特別な場でしゃべろうとすると,過剰な敬語になってしまったり,ふだんの会話がそのまま出てしまって,スタジオのアナウンサーが「この黒いやつ」だとか,「赤いやつ」だとか,「やつ」などという言葉が突然放送の中に出てくる。そういったことも含めて,やはり使い慣れるということを子供の時代に養成する必要があるのではないかというふうに思う。
  具体的にどうしたらいいのかということであるが,まず,笑顔で大きなあいさつをするということ,礼儀作法をしっかりたたき込む。私は日本語と礼節とはリンクしていると思っているので,そういうことを言いたい。
  2番目に,家庭と学校が一体になって,きれいな言葉を使うように厳しく指導する。これは先ほどの学校の例でもあるが,家庭でももちろん,母親は子供に非常に影響されて,どんどん言葉遣いが悪くなるので,母親の日本語教育も必要かもしれない。
  それから,学校では,きれいな言葉を使う時間帯というもの,この時間は1週間に1度でいいが,ふだんのテレビや若者言葉,乱暴な言葉を使わないで,きれいな言葉で話をする時間帯を設けて,そこで丁寧な言葉,敬語,そういった言葉の訓練をする。使い慣れるようにするということである。
  それから,きれいな会話の見本,そういったものをCDやテープで聞く。例えば先日,皇后様が北朝鮮から帰還された方々,あるいは帰還できなかった方々への思いをお話しになっていたけれども,この言葉は大変にきれいな言葉である。こういったものを子供たちに聞かせる,読ませるということ,この四つを提案したいと思っている。

  簡単に言ってしまえば,私どもの作業というのは,文部科学大臣の諮問理由説明を吟味しながら,今日配布された「議論のための論点整理(たたき台)(案)」につながってきて,こういう項目を考えつつ,答申の文章が練り上げられていくという方向が出てくるのだろう。だから,この流れを踏まえながら議論を重ねるというか,意見を述べていく必要が出てくるだろうというふうに見るわけである。
  したがって,「言語環境の整備について」のところでは,言語環境の整備というキーコンセプトにのっとりながら,社会的な在り方,家庭的な在り方,あるいは学校がどういうふうに進めるべきかということを具体的に配慮して考えていくことである。
  次の次代を担う子供たち云々のところは,当然,学校教育も配慮の中の一つになっていくと考えるので,答申をするには,やはり諮問に答えるということであるから,そこを配慮して,こちら側が意見を述べていくことになるのではないかと受け止めている。
  したがって,言語環境の整備の一つとして,初めにお話しくださった国語審議会22期の敬意表現の問題というのは,「言語環境の整備について」云々の中で参考にされていくというふうに位置付けたりすればよろしいのかなと思っている。

  一体何のための国語力なのかということを考えると,私は戦後民主主義教育を受けているものだから,こういうところでこういうことを言うのは照れながら言うのであるけれども,だれもが自分らしい,納得できる,幸せな人生を全うできる世の中を作るための国語であろう。そう考えたときに,二つ大事なことがあって,一つは自分の頭で考える。だれかの意見に流されてしまうのではなく,自分の頭で考える力と,ほかの人との関係を結んでいき,また,自分の中にある思いをきちんと言語化して社会に対して発言していくことができる力。つまり話し言葉というのはとても大事なことで,思考を養う上では読書というのは非常に大事だし,これは両輪だと思うのである。読書で,書き言葉の中で力を養っていくということと,話し言葉で,これから国際化すればするだけ,平和な世の中にするために国際的に発言していく力も必要だろう。例えばこの間の朝鮮民主主義人民共和国に拉致された人たちの話でも,拉致された家族の方々が発言をし続けたことによって25年目にようやく実現していく。発言すること,自分が言葉を発することによって,世の中を変えていくことができるという言葉の力,社会の中における言葉の力を信頼する子供たちを育てていくというのは,とても大事なことではないか。
  その場合に,みんながリポートを書いたり,論文を書いたり,著書を著したりするわけではないので,きちんと思いを言語化して,社会的に発言していく力というのは,これからやっぱり必要だろう。そういう意味で,私は,音声言語による教育というのは書き言葉の教育とはまた別の方法論が必要なはずで,小学校で始まったのは平成4年度からであろうか,まだ10年足らずでどこまで音声言語による教育の方法論が確立され,実施され,実効を上げているのか,その辺りを非常に知りたいなと思っていた。そういうわけで,今日いただいたリポートは,大変興味深く,これから読ませていただこうと思っている。そういう意味で,私は音声言語をきちんと教育する方法論を確立するための教員育成とか,システムを作る必要があるだろう,そういうことを一つ提言したい。
  それから,今の社会状況の中で,話し言葉を子供たちが身に付ける上で,やはり家庭と学校だけではなかなか難しい面があるのではないか。家庭はほとんど母と子の家庭になっていて,母と子だけの関係の中で覚える言語というのはとても限られていると思う。人間は多様な関係を見つめる中で,いろいろな社会的な文化とか,常識とか,様々な振る舞い方とか,そういうことを身に付けていくわけで,言葉も「ああ,あれだけ一人だと威張っていた人が,もう一人偉い人が来ると,言葉がころっと変わるのね。」とか,そういうことはみんな多様な関係を子供の時から見つめる中で覚えていく。そういうわけで,地域社会の中で音声言語を指導するような意識を持った人たちを育てていくとか,そういう人々が,例えば図書館だけでなくて,放送局なんかもいい拠点になると思うけれども,病院なんかもいいと思う。人が集まりやすい,そこにリーダーシップを持った人がいるところで,話し言葉を意識した教育システム,教育とまで改まった言い方でなくても,言葉にまつわる活動が何かできる場を設けていって,そのことに対する人的あるいは経済的な助成をしていくということを考えたらいいと思っている。

  読書の分科会はできそうであるが,話し言葉の問題とか,話し言葉の力の育成ということをめぐる分科会を是非一つ作っていただきたい。

  それぞれ貴重な御意見が出されているわけであるが,こういう答申を出すときに一つ大事なこととして,実態を十分踏まえる,分析するということがあると思う。言葉の乱れは90%近くの人が感じていることで,そういう中で,若者言葉が非常に流行している。携帯の所持率が高校生だと80%を超えている。読書離れも進んでいる。人間関係の希薄化,規範意識の低下等々あるけれども,この辺の実態の把握,あるいは分析というのが共通の認識としてもう少しなされる必要があるのかなということも感じるし,それに基づきながら,ではこれからどうしていくかということが次に大事になると思う。
  一番最初に国語の重要性を認識させていく,してもらうということであるけれども,重要性を認識してもらうに当たっては,実態がこれこれこうである,本来,社会がこういうふうになっていくためにこうならなくてはいけないということが説得力を持ってくると思うが,その辺の共通課題等の認識がいま一つ必要であるという気もしている。

  具体論に入るのは誠に賛成である。ただ,具体論の中で理念も詰めていく作業が必要である。というのは,最近,新聞,雑誌等で,今の日本語に対する関心の高まり,日本語ブームに対する反対意見というか,ケチ付けというか,そういう発言が大分出てきた。美しい日本語という言葉に対するシニカルな物言いとか,特に最近目立つのは,音読,素読,要するに身体感覚で言葉をとらえようという流れに対して,戦前の大政翼賛会のイデオロギー的な取組の復活であるというふうな意見が出てきている。最後に我々がまとめるときに,理念的な問題として,そういったものに対するきちんとしたスタンスを反論も含めて出しておく必要がある。
  二つ目として,先ほど何が原因か,国語力が弱まった原因をはっきりさせなければいけないという意見があった。正にそのとおりだと思うが,私が思うに,原因は三つあると考えている。一つは,情報化の進展。インターネット等で断片的な情報が流布して,それでよしとする。単に断片的な情報を得るだけで,それを体系立った知識等にしなくてもいいという誤解が一つ。それから,戦後の長い流れの中で,今出てきている教養とか知識とかいうものに対する軽視の風潮。これは一種の反知性主義と言えるかもしれないが,この間の学力低下問題の根幹の一つでもあるかもしれない。もう一つは,日本文化とか伝統の継続性を言うのが難しい雰囲気が戦後長く続いていた。この部分をきちんとすることが,なぜ国語が大事なのかということを言うことにつながっていく。
  あと具体的な方策としては,正に様々なことをやっていかなければいけない。推薦図書を決めることについても論議はあるだろうが,私は賛成である。もちろん,それを押し付けるわけではない。これまで主に初等中等の話は出ていたが,私は大学生への図書活動ということも重視したい。勉強の時間を比較すると,大学生が今一番少ないというデータがこの間出ていたが,これではどうしようもない。幾つかの大学の人に聞くと,来年度から幾つかの大学で推薦図書,課題図書を大量に決めて,それを1年生で読みこなせる。それを大学教育で導入しようという試みが始まるところもあるようである。
  そういったものを大事にしたいと考えると,イギリスでは,乳幼児に対するブックスタート,絵本を誕生日に贈ろう等の運動があるし,アメリカでは,絶対に読んでおかなければいけない古典を体系立てたグレート・ブックス運動というものもある。様々な例があるわけで,そういうのを展開していく必要がある。それを展開するに当たっては,なぜそれが必要なのかという理念立てを最初にきちんと出しておくべきである。

  文部科学大臣から諮問されて,諮問に答えるということは,文部科学大臣にこういうことをやったらどうかということだろうと思うが,言葉の問題で国がやれることは非常に限られているのではないか。
  先ほどから新聞やらテレビの責任もたくさんあるという話もあり,そのとおりだと思うが,新聞やテレビの内容や言葉遣いについて,一々この分科会でこうすべきだということは言えないことはないけれども,言ってどれほどの意味があるのか。つまり,答申の中にそういうことを書くことは可能であるし,新聞やテレビの言葉が乱れている,見出しがひどいというようなことも読者から一杯来ているが,そういうことを言っても,文部科学大臣がどうされるのかなと。新聞のこの見出しは日本語ではないというふうに言うのか。言いにくいのではないか,言ってもいいけれども,それがどれほどの意味があるのか。だから,皆さん言葉について非常に危機感を持っていて,いろんな方策を考えてはいるが,言葉としての答申は書くことは可能であるけれども,それがどのくらいの意味合いがあるのかというふうに思うのが一つある。
  結局,文部科学大臣ができる,あるいは国ができるというのは,やはり教育の部分しか多分ないのではないか。そういうわけで,一般社会に向けて言うことは無意味だとは言わないけれども,余り意味がない。実際に実効性が上がるとすれば,教育の部分だろう。ただ,これもなかなか難しくて,画一的にこういうものをやれば,あるいはこういう推薦図書を作れば,それで解決するかというと,難しいと思う。
  もう一つは,先ほどから国語力が落ちているという話であるが,本当に国語力が落ちているのか,あるいは国語力なるものがもともとなかったのか。つまり,この100年間,ずっとこの程度ではなかったのかなという気もする。ただし,世の中がなかなか難しくなってきて,いろんなところで,小さな社会ではなく大きな社会で話をしなければいけない,あるいは全く知らない人,全く異なる考えを持っている人とコミュニケーションをしなければいけなくなる,こういう時代になってきて,それでもってなかなかうまくいっていない。つまり社会の方が広くなったので,国語力がそれに伴っていない,伴って向上していないのではないかなというふうに思うのである。
  一番向上していないのは,私は,やはり論理的な考え方,つまり情緒的なものではなくて,事実を踏まえてどのくらい論理的に日本人全体,あるいは日本人それぞれか考えられるか。つまり論理的に考えるというところが落ちているのではなくて,必要になってきているのではないか。一人一人がきちんと自分で考えて,自分で事実を探って,自分の思考を鍛えていく,そういう教育ができていないのではなくて,これから必要なのだろう,そういう方向で方策を考えていくべきだというふうに思っている。

  私は,どっちかというと,書き言葉の方をやっている者なので,余り話し言葉の方は分からないが,美しい日本語に対する推奨は大変結構なことである。ただ,これまでの文化というのは,日本だけに限らないと思うが,あらゆる言語文化は百パーセント美しい言葉だけで作られてきたものではない,ということも歴史的に明らかなことではないかと思っている。
  文学の御専門の方がたくさんいらっしゃる前で言いにくい話だが,例えば私が知っている話では,「東海道中膝栗毛」に出てくるような言葉は決してきれいな言葉ではないだろう。私が非常に好んでいる文学作品で,開高健さんの『日本三文オペラ』という小説があるが,あそこに出てくるのは,えげつない,大阪の汚い言葉である。それを描くこともやはり一つの文化ではないかという気がする。美しい言葉を推奨するということが,逆に言葉狩りにならないということをスタンスとして,少なくとも私個人は持っていたいと考えている。
  何がきれいな言葉で,何が汚い言葉か,それが分からないというような方々も,若い世代の中にはいるのだろうが,自分が使おうとする言葉,あるいは使っている言葉が,言葉の美しさというのがもしもデジタル化できるとすれば,相対的にどの辺の地位に位置付けられるかということをまず認識する,その土壌を養成していくことの方が重要なのではないかというふうに思っている。

  学校教育での国語科のことについて少し触れたいということと,読書の関係について触れたいという,2点ある。
  学校教育は,小・中学校は平成14年度から新しい教科書に変わって,高等学校は来年度から新しい教育課程の編成で,年次順に変わっていくけれども,私は中学校と高等学校の国語の教科書の編集に30年ほどかかわっているので,その変遷の中で,今どんなふうになっているかということを御紹介しておいた方がいいかなと思った。
  国語科の目標というのは非常によく作られていて,表現と理解の能力を養う中で,認識力,思考力,想像力,言語感覚を養うというような目標,あと国語を愛する心を育てようというような目標が掲げられた上で,内容として,「話すこと・聞くこと」のA領域,「書くこと」のB領域,「読むこと」のC領域プラス言語事項というふうな構成になっている。Aの「話すこと・聞くこと」領域で,話し言葉の能力を養うときには,あいさつから始まって,きちんとした客観的な説明ができる能力,論理的に話を進めて,人と一緒に話合いをできるという中で,フォーラムやディスカッションをやったり,会議をやったりというようなことを小・中・高を通してやっていて,ここで議論されているようなことが教材化されている。小・中・高を通して,繰り返し,繰り返し話し言葉能力を養うというふうになっている。特に,今御指摘いただいた論理的思考力というのは話し言葉の中でも十分に養うように設計されている。
  Bの「書くこと」領域においても,昔のように,行事をやったから作文を書くとか感想文を書くとかいうような作文ではない。一つの事柄や事実についてきちんと客観的に順序立てて説明できる能力を養うこと。それから,事柄・課題に即して,その問題解決のために根拠を明確にした論理的な文章を書く能力を養うというのは,小・中・高を通して全部段階を追って,その発達段階に応じて書けるように工夫された教材が用意されている。それから,C領域の「読むこと」においても,いわゆる物語や小説や詩という教材のほかに,説明的な文章には純粋な説明と論理的な評論等が用意されていて,言語能力を高めるようになっていて,プラス,読書に展開できるようになっていて,発達段階に応じたブックリストが挙げてあってというふうになっているわけである。
  だから,今の学校教育の小・中・高を通して随分工夫された形で全体が構成されている。この間,小学校の教科書をこの分科会で見たりしたけれども,とにかく丁寧に見ていけば,学習指導要領の工夫,それに基づいた教科書というのは,議論されているようなことがかなり丁寧にきちんと教材化されている。つまり,今の国際化,情報化の時代に対応するような形で,国語力を養おうという工夫がなされているのである。
  読書の問題であるけれども,小学校でブックリストを作ったり,社会教育,家庭教育,学校教育等における読書の推進という法律が作られて,予算措置を講じて,各地域社会での本の充実ということがきちんとなされているし,そういう方向が作られている。それから,高等学校段階では,現在,推薦図書30冊というのを設けて,きちんと学校でもって対応せよということはやられているし,私どもがいろいろここで検討しているようなことは,現場ではかなり早くから対応はなされているということは,やはり御紹介申し上げておいた方がいいのかなというふうに思っている。
  ついでに言うが,ここでブックリストを作って,それを列挙することは大変いいことであろうと思うけれども,ここでそういうものを作るのは,私は何か御墨付きを与えるというようなことになって,非常な危険をはらんでいるのだということも一方では考えておかなければならないと思う。文化審議会でもって,この本が推薦されたことによる御墨付きというのは,かなり恐ろしい突っ走りも生むということももう一方では考えておかなければならないのではないかと思っている。

  読書活動や読書が国語力に非常にかかわる。これにはだれも何の異議もないが,具体的に,学校での読書活動を推進する母体というか,場をどこに想定しているのか,そこが皆さんのお話ではよく分からない。文化審議会では,そういうところまでは考えないで,読書は大事だということとリストを出すぐらいのところまででいいのかどうか。読書を中心に話を進めるなら,ここを少しお考えいただきたい。現場は混乱している。
  朝の読書活動という形で,教育課程外でやっているのが中心である。学校図書館や国語科の授業は,それに余りかかわっていない。朝の読書活動,10分間読書は,小学校では,今まで教育課程外の活動として朝早く集めたり,休み時間を20分ぐらいとって行間体操をやったりしていたのであるが,教員が高齢化して一々ついてやってられないという中で,本を読ませる,各自が好きなものを持ってきて本を読ませるというのは,非常に流れに合って,手間も余りかからないでできるというのが実態なのである。
  読書活動,リストを出すだけでは今まで図書館協議会でも出しているし,あちこちで出しているから,また一つ出されたなというところで終わりだと思う。どこまで突っ込んで,推進の母体を考えるのかを是非検討いただきたい。

  生涯学習というと,やはり生涯発達という形で,学校教育を離れた後も人は発達するのだという前提があると思うが,それを考えたときに,例えば学校を離れて二十歳から40代というところまでを考えると,そんなに青年が学習していないという思いがすごくある。それは何の学習が足りないかというと,要するに,生涯発達というのを斜め上がりの直線で考えてしまうと,一つの能力ということになるけれども,ライフサイクルという形でいろいろな年代層と交じり合いながら暮らしていくということ,その中で学ぶことがあるというふうに考えると,結局,20代の人たちというのは,教育という強制力がなくなったところで,自分たちの世代だけで通じる,そういう文化でもって長いこと生活をしている。ということで,私は小学校の方にいる人間だから,小さい子に出会うけれども,そんなに世の中は困った子ばかりではなくて,すごく純粋で,いい言葉をどんどん吸収していくし,先生も熱心でという形で,このまま進んでいけばきっとすごい人になるだろうという子がたくさんいるわけである。だから,今の青年とか成人期のいろいろな言葉の乱れの問題を小学校の教育だけに根源して話をしてしまうと,少し無理があるのではないかという思いがある。
  ある時期までは何々を獲得しなさいと言って,いろいろなことを獲得していくわけであるけれども,青年期になったときには,今度は自分よりも目下の世代というか,下の子供たちに何を伝えるかとか,子供たちに自分たちがいい言葉で話すために何が必要かとか,要するに,関係性が育てられているものから育てるものに徐々に変化していくというのが,子供があってもなくても,大学を卒業して社会に出たら必要なんだという視点がどこかに盛り込まれると良いのではないかというのが一つある。もう一つは,生涯発達,生涯学習という形で対象がすごく広くなったところで,逆に,こぼれてくるマイナーな人たちがいると思う。それはいろんな事情で日本語を獲得するのが困難な人とかであるが,そういう人に対して,ここまでできていた方が好ましいというものだけが流れていくことの問題というのか,そういうことにちょっと不安を感じた。
  やはり一つの事象をもっと分化させて,たくさんいろんな言葉で言った方がいいというものと,一つの言葉で深みというか,受け手のこちらが考えれば一つの言葉でもいろいろな用途に使えて,受け取ってあげられる言葉というのか,そういうものがあると思うのであるが,その二つの言葉の大事さを両方言っていくというのであろうか,たくさん言葉を増やせばいいということと,一つの言葉で深みのある言葉を啓蒙的に広げていくというのか,その両方がある方が,少ない言葉で豊かに生きる人たちを保障するのでないかというふうに思っている。

  方言のことについて話したい。現在,御存じのように,お年寄りが使っている言葉というのが継承されないで,消滅していく方言が全国で大変多いわけである。その理由としては,子供たちの言語生活というのがテレビ中心,友達中心ということで,世代間のコミュニケーションが非常に少ないという問題がある。核家族の問題もある。それぞれの地域における方言がかなりコンプレックスという形で意識されている。しかし,現在のところ,方言はやはり生活言語としては大変豊かな部分を持っているし,感情を表す上でも大事なものがある。そこで何とかそれをもり立てていかないといけない。そのときに私が思ったのは総合的な学習の活用である。
  ちょっと古い話であるけれども,文部省の初中局で音声言語の指導書を作ろうということで,私がたまたま座長になったことがある。そのときに,どういうふうにすると良いかということをいろいろ相談した。例えば,山形県の三川町というのを考えると,「三川町の方言」とやっても,北部の方と南部の方と西部と東部ではちょっとずつ違っているということがある。そこで,三川町に方言の一つの本拠地を置いて,小学校あるいは中学校の校区に一つの支部を置く。こういうふうな形で,方言というものに対する掘り起こし,あるいは普及ということを図ることができるのではないか,年齢層というところをクリアできるのではないかということを考えたわけである。それをまたインターネットなどでよそに発信していくというようなことを考えたらどうだろうかと思う。
  先ほど教科書の話が出たので,私は,実は光村図書の編集をしているので,一言申し上げようと思うが,教科書は御存じのように,学習指導要領に完全に従っている。今度の指導要領は,小学校は私がまた主査をしたので,内容は理解しているつもりである。そのときに,書くこと,いわゆる作文については全体のどれだけの割合の時間を充てようということがある。それから,話すこと,聞くことという音声言語に関しても,全体の時間のどれだけを充てようということがある。また,毛筆書道についても,これだけの時間を充てようということがある。それを引き算していくということをしないといけないわけで,そういう形で教科書というのは成り立っていくものである。したがって,教科書会社としては,教材数をもっと増やしたいと言うのだけれども,編集委員としてはそこのところをこれだけにしないと話し言葉の教育はできない。
  それから,先ほど,国語という教科を戦前のように広げたらどうかということを申したのは,こういうことである。現在,漢字の学習は,小学校では1006字の読み書きがあって,これをわずかな学習時間の中ですべてしていかないといけない。これをもし国語という教科を広げることができたら,社会科や理科の中でも行うことができるが,現在は国語の中だけで漢字の読み書きの学習をしないといけない。
  そういうことで,教科書の問題は学習指導要領の問題である。私は,この今回の指導要領というのは非常によくできた内容だと思っているわけである。

  先ほどから国語教育はすばらしいという意見が続いたので,私は,国語教育はよく知らないが,国語教育は多分おっしゃったようにすばらしいのであろう。しかし,大学生の国語力を見ると壊滅的である。そのように言わざるを得ない。したがって,このような分科会が生まれているわけで,すばらしい指導要領とすばらしい教育方法は採っているけれども,何かがおかしいということである。そもそも高校生,大学生が全く本を読まないというのは,国語教育の失敗である。最も大きな目的はその辺にある。
  もちろん,これについては質的にはいいのかもしれないけれども,ただ量的に圧倒的に不足している。今の御意見のように,例えば1年から4年までの理科,社会,生活科は廃止,全部国語に含めてしまうというような,その程度のことはしないと,多分,週5時間ぐらいで幾ら頑張っても無理だろうなという感じはしている。国語が初等教育において別格だというのは,具体的内容は正にそのことである。それがまず第1。
  第2は,この分科会は文部科学省に対する答申なわけである。先ほどの御意見のとおり,例えば国民に訴えるとか,マスコミとか,そう言っても余り意味がない。どうしても文部科学大臣が力を発揮できるのは学校教育のことである。したがって,その辺が中心にならざるを得ないというのは明らかだと思うわけである。
  それから,先ほどから国民に国語の重要性を訴えると言うけれども,まず第1は,うまく訴える方法がないということである。一体何をどう国民に訴えるのか。そもそも,そんな答申は国民は読んでくれない。第2に,例えばある新聞社の調査によると,小学校に英語とかパソコンを入れるという驚くべきことを80何%の人が支持しているわけである。そういう人たちが国語を削ってきているのである。そういうような国民,その人たちに何を訴えるのか。訴えても価値はあるかもしれないが,「百年河清を待つ」になることは明らかなわけである。この分科会は,やはりこの分科会の見識をぶつければいいだけである。それを文部科学大臣にぶつける。あと,それを受けて国民の理解を得る,国民に重要性を訴えるというのは,文部科学大臣,文部科学省の仕事である。
  この分科会は,飽くまで恐れずに勇気を持って,最も良いと思う案を文部科学大臣に答申する。それが一番重要ではないか,そのように思っている。

  今のお話を伺って,ちょっと勇気を取り戻したのであるが,一体この分科会で何が提言できるのか。学校教育については,教科書も万全,先生たちの教育も万全だというなら,私たちは一体何をしたらいいのか一瞬分からなくなった。その辺のことももう一回整理しながら,この分科会で提言できる範囲というのは,学校教育の中のことは別の学校教育審議会があって,そこは我々が入るべきではないとか,その部分が分からなくなっているので,少し整理していただきたい。

  国語に関しては,この分科会が担当しているけれども,別途,初等中等教育局には,教育課程担当の審議会,あるいは教科書を担当している審議会もある。基本的には学習指導要領あるいは教科書については,そこが議論することになるわけであるが,私どもの方として,文部科学大臣の諮問もあり,国語力についてどうするかという観点からの議論は十分可能である。ある程度の方向性というか,国語力の向上のためにどうあるべきかという御議論は十分可能だと思っている。
  ただ,それをもらった初等中等教育局の方では,また別途,学校教育の中で,例えば厳しい時間配分の中でどうすべきかとか,教科書をどのように考えるべきかとか,そういうのは初等中等教育局の方で議論されると思うが,国語分科会としては,国語力の向上のためという観点で御議論いただくということであると思っている。そういう意味で言えば,余りに細かい,何時間にすべきだとか,そういったところまでは難しいけれども,一定の方向性について御議論いただくということではないかなと思っている。

  国語審議会が昭和47年6月に「国語の教育の振興について(建議)」を出したときに,学校,家庭,社会をにらんで国語の在り方をいかに改善し,向上させていくかということを検討している。これをちょっと思い出したわけで,国語分科会の責任というのは,学校ももちろんにらむのであるが,家庭や社会という包括的な方向で議論を進めていくという考え方を採っていくのがよろしいのではないか。諮問及び諮問理由説明を読む限りにおいて,私はそう思っている。

  最初に,国語の重要性のところで,論理的な観点と情緒的な観点が出されていたが,そこのところをもう少し考えてみる必要があるのではないか。というのは,例えば敬語とか文学鑑賞とかから何を得るかということは,どちらかというと情緒的観点に入るかもしれない。それから,もっと論理的にものを考えるというような分野は,これからのことではないか。今までの国語教科というのが,どちらかというと文学鑑賞の方になっており,それ以外の文章作成やリポート作成,ディベートや考えを述べるというところが,まだ薄かったのではないかと感じている。
  また,例えば音楽を考えてみると,音楽教育というのは,ほとんどが歌うこととか,ピアノを弾くこととか,器楽の演奏であって,音楽教育の中で,世界の偉大な音楽を実際に鑑賞するというのは日本の中では少なかったのではないか。この国語と音楽教育はその両極端に入っているのではないかという気持ちがしていて,今後は,これを峻別することはないけれども,特に論理性のところを大きく広げなければいけない。
  そこで,私は以前から国語教科の中で国語力のすべてを教え,学ぶことが可能であるという幻想を捨てなければいけないと言ってきたのである。中学,高等学校のレベルから,リベラルアーツの形での国語として,もっと論理的なこと,生活のこと,理科のこと,歴史のこと,そういうものに敷衍をした教え方が必要ではないかと思うのである。この答申の中に,今まできちっと科目が教科別に分かれていた,その垣根を取り払って考えるということを入れてはいかがであろうか。時間数が少なく限られているのは分かり切ったことなので,そういう形で活用していければと考えている。

  最近,心が貧しくなったということをよく言われるが,私はいつも心が貧しくなったのではなくて,心は普通だけれども,物が豊かになりすぎたのだ。だから,物が豊かになったのにふさわしい心の豊かさを持つように努力すべきだという言い方をしている。それとほとんど同じ言い方を国語に対して言われたので,私は非常に賛成している。
  確かに,こういう時代になったので,国語力をみんながすごく考えねばならないのである。今までは,考えてみたら,私は田舎の人間であるが,田舎に住んでいて,国語力なんて余り考えなくても結構きちんと生きてこられた。それがそうでなくなってきた時代というのは大変な時代で,だからわざわざ国語とだけ言わずに,「国語力」と「力」まで付けて文部科学大臣が諮問するような時代に来たのではないかと思う。それにふさわしい答申を我々は考えねばならない。そうすると,やはり国語教科ということで言うと,全体として見れば,私は教科書にもちょっと関係したことがあるが,これも入れねばならない,これも入れねばならないとなってきて,総花的にならざるを得ない。
  しかし,実際に,国語力をもっと考えねばならない時代が来ているのだから,垣根を取っ払ってと言われたが,もっと全体として国語力を考えねばならない。これは学科を通じてもそうだし,年齢を通じてもそうだし,というふうな広い考え方で変えていかねばならないのではないかと思っている。

  これは質問のようなものであるが,先ほどから指導要領があって,教科書がある。それはちゃんとできているのだという意見と,ちゃんとできているのかもしれないが,国語力が付いていないではないかという意見がある。教科書を作っている方からすると,どうなのか。さっきから出ている論理的な思考も,確かに学習指導要領に入っているわけである。入っているから,当然教科書にも入っている。しかし,論理的思考なるものができているのか,今の教科書でできるのかというのは,どうであろうか。

  新しい指導要領はついこの間行われ始めたわけで,その指導要領の成果が発揮され,その効果が明確になるのは10年後である。だから,今の学生に国語力がないから,今の指導要領は駄目だというようにはならない。駄目だからこそ,指導要領を変えたのだと私は考えている。
  文部科学省がほぼ10年に1回,小学校,中学校の学力調査を全国的に行っていて,何が欠けているのか,どうするとよいのか調査をしている。そういう調査の結果を踏まえて,そこで中教審の方々がいろいろと問題を提起されるというような方向だと思う。したがって,今の指導要領の成果は,教科書を見ていただいて,それを指導した結果ということで,もうちょっと時間を待っていただかないと答えられない。

  少し中学校の実態も知っていただく必要があると思っている。まず,論理的な思考ということで,これは国語科においても大事にしているところだが,例えば文章を書くときにその根拠を明確にして書く。そして自分の考えをそれに基づいて明確にしていく。あるいは話をするときに,同じように根拠を明確にして筋道だった話をする等々,これは話すときだけでなく,書く,あるいは聞くときにも重点を置いて指導をしている。
  国語は中学校では3時間で,全部やったとしても35週であるから,3掛けることの35で105時間である。しかし,学校にはいろいろな行事がある。入学式から始まって,移動教室があったり,運動会があったり,文化祭が多くの学校で行われたりしている。そういう行事を引くと,恐らく週で2.5時間,年間で80から90くらいの時数ではないかと思う。その時数の中で,漢字を読むことも,また文章を書くことも, 発表する力も,話し合う力も,伝え合う力もとなると,なかなか難しい現状がある。
   もっともっと時数が欲しいというところであるが,また, 生徒の実態を見ても,例えば本校の平均的な生徒,かなりの者は朝7時半に来て部活動の練習を行う。夕方6時半まで,週4日くらいはやるかもしれない。それから帰って,かなり遠くから来ている子もいて,中には1時間,1時間半という子もいる。そういう子供たちで,それから塾へ行ったりもする。部活のない日に塾に行く子もいるかと思う。
  教師も,早い教師は7時半に続々出勤してくる。そして6時半, 7時くらいまで部活を指導し,生徒を帰すわけである。そういう中で教材研究と言っても,なかなか十分な時間が取れないし,教科書を終わらせるだけでも難しい実態がある。そういうときにどこにしわ寄せが行くかというと,やはり話すこと,聞くことの学習はどうしても時間が削られがち, 読むことにどちらかというと多く時間が割かれると思うけれども,学習指導要領があって,また教科書も改訂されて,以前とは違ってきているが,なかなか忙しい生徒,教師の実態の中で,理想とかけ離れた国語教育というのが一方にあると思う。もっと時間が欲しいというのが本音のところである。

  状況の説明と提言と質問の三つを簡潔にしたい。学校関係者は分かっていても発言されないことに,言っていいのかどうかと思うが,教科書よりも,学習指導要領よりも,もっと強いカリキュラムが,やはり高校入試,大学入試である。国語で言えば,大学で小論文が出るようになったので,表現の指導,書くことの指導が大分進んだ。学習指導要領が改定されたのと併せて,小論文が出たということで進んだ。私の高校は全員進学であるけれども,例えば英語で言えば,オーラルコミュニケーションという会話をやるかやらないか。この大学ではやるようになったとか,ここでやるようになったからやろうとか,大学入試ということで学校で指導することは大体決まってくる。
  そういう中で,私は提言のところで書いておいたが,国のレベルで日本語力検定試験みたいなものが考えられないか。そして,その検定試験の結果を大学入試の推薦条件に使うとかいうことが考えられないのか。これができれば,高校はすぐ変わるのにという思いをしながら書いた。例えば,今,英検はほとんどの高校生が受けている。それから,通産省の情報処理検定なんかも受けている。教員採用試験の条件に,通産省の情報処理検定何級以上とか,TOEFL,TOEIC何点以上とかいうことが, 1次試験免除とか,公的な試験にも入ってきている。生徒たちもそういうことが分かっているので,そういう検定試験を一生懸命やっている。大学へ行って,こういうふうにやりたいと言っている生徒も一杯いる。
  日本語に関して,そういう検定試験みたいなものがあれば,生徒たちの学習の励みにもなるし,学校で国語が文学教育だけでなくて国語力育成という点から本格的に取り組むきっかけにもなるし,高校のレベルで考えると,これがあれば国語教育は2〜3年で変わるというのが実感である。日本語力検定というのは難しいと思うけれども,国ないしは国に関係する機関でできないのかどうか,是非御検討いただけたらと思っている。

  論理力ということが出ているが,非常に大事な部分で,私も中学,高校生のディベートというのを7〜8年前から提唱して,毎年かかわっている。ディベートのいいところは,すべて物事を全く正しい,全く悪いではなくて,せいぜい6対4,それぞれに理由があるのだというのを理解し,その中でどう決断していくかということで,物の考え方の基本を見付け出すのに有効な手段であると実感している。ただ,これをやるには非常な準備と時間が掛かる。今の学校教育の中で,恐らくこれを十全にやり抜くのは難しいだろうということを感じざるを得ない。
  結論から言うと,授業時間を増やせということになるが,それもこの分科会としての役目なのかどうか,ちょっと分からないところがある。しかし,一つ言えることは,論理力を養おうというのは,ただ人とのディスカッションだけでなくて,本を読むということが非常に大きな部分だろうと考えているわけである。本を読むというのは,著者との究極の対話である私は思っている。幾らディスカッション等々をやっても,本をよく読み込む,その量と質が少なければ,それは論理力を作っていくことにはならない。だから,この論議もやはり読書というところに立ち戻るのではないのかなと思う。
  もう一つ,論理力であるけれども,私の考え方は,国語における情緒的な面,共通の教養としてみんなが読んでおくものが欲しいなという共通性みたいなものを重視する。恐らく,それは押し付けになる,自発性を損なう,自立した個人が自発的にものを考えていく,そういう力を養う,学習していくのが大事だという考え方もあるだろう。この二つのどちらに立つかによって,ここで打ち出す方策も大きく違ってくると思う。
  更に言うと,先ほどの御意見で,豊かになったから云々とおっしゃったけれども,そういう面もあるだろうが,私は,そういう面だけでもないという気がしている。中教審で教育基本法の論議をやっているけれども,そこで問題になっているのが,要するに,見直すのか,補完するのか,それは現在のものに対する価値判断ということになるが,私はやはりこれまでの国語の在り方は見直すべきではないかと考えている。

  私自身の考えるヒントにさせていただきたいので,現場で行われている,音声言語に関する教育の内容や実態に関する資料がもう少しいただけたらと思っている。


(2)「国語分科会の今後の進め方」についての議論

  今後の進め方についてであるが,私ども今回の分科会の委員の任期が2月4日までである。そこまでに答申の作成は無理であるので,それは2年がかりということにさせてもらって,大体1年目で一応の考えをまとめるというようなことをほかの審議会,分科会でもやっているので,まとめをしなければいけないということである。そうすると,かなりスケジュールがきついわけで,来年1月には文化審議会にまとめたものを報告しなければいけないというようなスケジュールになっている。
  そういうことで,私どもの意見を皆さんでまとめていくのは大変なので,その原案というか,文案をまとめていただくのは,文化庁ではなくて分科会がまとめるわけであるので,私どもで原案を作らなければいけない。そうすると,会長が作ることになってしまうので,これは大変であるので,事務局と何人かの委員に相談させていただいて,検討用のたたき台というか,資料を作って,ここにお出しして御議論をいただきたいというふうに考えるが,この点について御了解いただけるであろうか。(分科会了承)
  それでは,御了解いただいたことにするが,お願いする委員の人選については,私の方に御一任いただけるか。(分科会了承)
  たたき台が気に入らなかったら,どんどん御意見を言っていただければいいわけで,御協力いただく方には本当に大変であるけれども,それでは御一任いただいたことにさせていただく。
  次に,小規模のグループによる討議についてである。先ほどからもいろいろ御意見が出ているが,ちょっと時間を取らせていただいて,子供たちの国語力とか,読書力を高めるための読書リストとか,国語教育について考える委員会とか,音声言語についてのグループとかいう御意見があったけれども,そういうグループを作ること自体についての御意見もあっていいと思うが,その辺について,御議論いただきたい。とにかく時間が2月4日までなので,来期を見越してということがもちろん考えられないと,時間的に意味のない会になると思うが,いかがか。

  小規模のグループによる討議の件についても,これから後のスケジュールの関係と,資料作成方法に即して,必要なのか,設置しなくてもいいのか,その辺は会長一任ということでよろしいのではないか。

  それはちょっと荷が重過ぎる。私は答申をまとめることで精一杯なので,この場で,こういう委員会を作った方がいいとか,いや,専門委員会は要らないというような御議論をいただいて,それを踏まえて,専門委員会を作ろうということをここでお諮りする必要があるだろうと思っている。

  私が言い出したことなので,イメージを言うと,専門委員会ということではなくて,この会議の運営方法であるけれども,例えばテーブルを四つぐらい作ったとする。その中で,あそこは例えば読書についてやっている。ここは話し言葉についてやっている。そこは委員が移動可能で,要するに,この時間中にやるということである。分科会以外の時間は取れないと思うので,この会議形式をちょっと崩す形になるが,全体が例えば2時間だとしたら,グループで話し合う時間は例えば45分とか,そういうふうに限定しながらやるというイメージである。だから,どこかの専門委員会に所属するとか,そういうことをイメージしているのではない。この時間内の中で討議して,それをまたこういう形で持ち寄って,あの案はこうだということで,またもみ合う,そういうフレキシブルな形をイメージしている。

  私は,今のところは,これまでずっと御議論いただいたり,ヒアリングをしてきたものを踏まえて,この会の中間報告を作らなければいけないというように考えているが,この辺りのことと,今の御意見とはどういう関係になるのか。

  どうしても訴えたいという意見,それぞれ読書についても,話し言葉についても,そこに絞り込んでもらうということである。拡散する方向ではなくて。例えば三つほどの提言があるとすれば,その三つの提言がそれぞれのグループから出たとしたら,それを全体で眺めて,これはさすがに要らないのではないかという判断をしていくので,中間答申を出す際にむしろ論点は明確になる。そのようにしなければ意味がない。というのは,時間の使い方として,皆さんもっとアイデアとか意見があると思う。それがこの空間では出し切れていないという印象を持つので,そういう工夫ということである。

  小規模グループの討議というのは,どうもイメージがもう一つ沸かないが,今日の話でも,力点の置き方が委員によって相当違う。つまり学校の方に絞るのか,国民に訴えるのか。学校の方に絞るにしても,推薦図書を実際に作るのかどうか。そんなものは要らないという意見もあるし,それをばらばらにグループでやってみても,どうなのか。うまくつながらないというか,それぞれ意見が違う。多分力点が違うのだと思う。
  そこで,違う意見のところはそのままにしておいて,グループにすぐしてしまうと,この分科会に持ってきたときに,それは要らない,例えば推薦図書なんか要らないという話になると,余り意味がないのではないかなというのが一つ。
  それから,答申は2年後というふうにおっしゃったけれども,そうすると,まとめというのはどのくらいのものを会長は想定されているのか。ものすごくぎりぎりとしたものなのか,あるいはふわっとしたもので,ある種の論点整理みたいなものをもう少しまとめたものを考えられているのか,それによっても今後のやり方が違うのではないか。その辺は,まとめというのと答申はどういう関係にあるのか,お伺いしたい。

  まとめは,それこそ皆さんの御意見以外のものをまとめることはできないので,ここで御議論いただいたのをまとめていくということだと思う。その原案をお示しして,足していただいたり削っていただいたりという方法で,今年度中に完成したいということぐらいである。もちろん,そんなにしっかりしたものにはならないので,かなりふわっとしたものになるのだろうと思っている。

  仮に,分科会にして分けたとしても,やはり国語力とは何かが問題だということで,全体での話に戻るわけである。だから,分科会に分けることも意味がない。やはり,みんなでやっていくしかない。今期はあと2か月しかないので,私は,グループ分けというのをしないで,全体でおよその見取り図を作っていくということをお願いしたい。

  大変大きなことをこれから短い間にするわけなので,まとめというだけでは解決にならないのではないか。方向性というものをどこかで会長の方から出していただくか,または委員の中でいろいろな考えがあると思うので,そこまで踏み込んだものをあと1週間ぐらいの間に作る必要があるのではないか。
  今までのお話,議論の感じでは,国語全体のこと,つまり国語力全体のこと,それから,それを制度としてどのように文部科学省がカリキュラムの中に落とすのか,また垣根をどうするかというレベル,あと一つ一つの国語の指導,教科の中でのやり方,その三つぐらいだろうと思う。もっと出てくるかもしれない。それが全部階層が違うので,その辺のところを分けて,希望者,そして意見のある人がそこにある程度論点を分けて出すというふうなことも,効果があるのではないかと思うが,方向性及びどのような形でということは作っていただかないと,難しいかと思う。

  それを資料を作成する協力者と私でまとめて,何と言ってもこれまでの御意見とアンケート,これだけのものがあるわけだから,審議会はずっと積み重ねてきた御議論を整理して出すというのが審議の方向だと思う。これは絶対にやらなければいけない。
  そういうことで論点の整理ということで,答申を踏まえて,もちろん先ほども申したように,力点を置くところとか強調するところはあっていいが,御検討願いたいことについては,検討して,答申するような方向で行かなければならない。これは仕方がないと言ってはいけないが,我々の仕事である。

  小委員会ではなくて,テーブルに分かれて,五,六人のグループで話す時間をこの中で40分ぐらい取ろうと言っているだけである。それを委員会とは言わなくても,委員会というと,また固まってしまうので,相互に対立とかがあり得るので,メンバーを固定するのではなく,そういう時間を取ってもいいのではないかということである。

  今の段階では,論点整理の論点ごとの委員会なら私はまとまっていくと思うが…。

  論点ごとで結構だと思うが,例えば,今世の中全般に訴えるという観点でどうしても必要なことがあって,そこに関心がある方と子供の教育に関心のある方がいて,それを一度は深めて,また,ここに出すという段取りがいいのではないかという提案である。

  そうすると,推薦書の100点のような委員会は,今回は考えないのか。

  そこまで厳密に考えていない。そこのグループの中で,例えばブックリストまで行かなくていいのではないかということになれば,全体には出さないわけであるから。

  今御発言になったようなことに即して考えていくと,答申をしないという会長のお話の線でいくと,言葉の感覚的な反応なのだが,審議のまとめというと,かなり内容的にまとまりがきちんとしているというような印象があって,中間報告というようなことだと両論併記もあり得るようなふわっとした形のまとめになっていくかなと思う。そういうことで,グループ討議の提言も3回の中に一度ぐらいは入れて考えていって,結局,両論併記型で行かざるを得ないというふうになるのか,審議のまとめというのはかなり方向性がはっきりすると私は思うが,そういう方向でまとめるのかということをやっていけばいいのではないかと思った,もしやるとすれば…。

  それと会議の持ち方であるけれども,1時間で各グループでやったのを持ち返って,ほかのグループについて議論するのに1時間ということでよろしいか。

  グループの希望で今強く出ているのは,読書のところであるが,それ以外は話し言葉が出て,あと三つ目,四つ目というのはないわけである。したがって,分科会の中で時間をちょっと取って,全体で読書のリストのところについて話をするということでもいいのではないか。分かれてと言っても,あとの三つ目,四つ目,五つ目は何をするのかというのは出ていないので,非常に有効でないと私は思う。
  それで,今回はグループ討議はしないというのが一番良い。小委員会に分かれたり,あるいはテーブルごとに分かれることをしないというのが良いのではないか。

  それで最初に申し上げたように,設置するか,しないか,グループ討議方式を採るかどうかということについて,会長に一任するという最初の意見に戻りたい。

  それでは,この件については少し考えさせていただくということにしたい。グループ討議を行いたいという御趣旨は分かるが,私としては,この分科会と切り離した形で議論していただいて,それで提案していただくのがいいような気がしているけれども,既に時間が過ぎているので,今日はこれぐらいの議論で終わらせていただく。


(文化庁文化部国語課)

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