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国語分科会

2002/09/27 議事録
文化審議会国語分科会第7回議事要旨


文化審議会国語分科会第7回議事要旨

平成14年9月27日(金)
午前10時〜午後1時
東條会館新館「吹上の間」

〔出席者〕
(委員)北原分科会長,青木,阿,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,工藤,五味,齋藤,舘野,田村,手納,藤原,松岡,黛,水谷各委員(計19名)
(文部科学省・文化庁)御手洗文部科学審議官,銭谷文化庁次長,寺脇文化部長,山口国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  文化審議会国語分科会(第6回)議事要旨(案)
  「これからの時代に求められる国語力について」委員アンケート集計〔項目別整理〕
  今後の議論のための論点整理(たたき台)(案)
〔参考資料〕
  平成14年度 文化審議会国語分科会 委員アンケート集計
  文化審議会国語分科会(第1〜6回)における主な意見(新版)
  国語力に関連する文化審議会・国語審議会におけるこれまでの主な提言等
  子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画

〔経過概要〕
  事務局から,「事務局の異動についての紹介」及び「配布資料の確認」があった。
  前回の議事要旨について確認した。
  事務局から,配布資料についての説明があった。
  委員の間で「国語の重要性と国語の果たすべき役割について」及び「これからの時代に求められる国語力について」意見交換を行った。
  次回の国語分科会は,10月21日(月)の午前10時から午後1時まで東京會舘「シルバースタールーム」で開催すること,また,次回の議題は主として「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」とすることが了承された。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

80年代にイギリスでサッチャー革命が行われて,教育も非常に大きな変革を遂げたわけであるが,国語教育に絡んでのサッチャーの提言を考えてみると,彼女はその時に二つのことを重要な柱として提言している。一つは,古典を学習するということ。これは教養教育につながるが,クラシックスという言い方をしている。二つ目が,職業にかかわる言葉をしっかりと身に付ける。この二つを柱にしているわけである。
  国語に引き付けてその問題を考えてみると,イギリス人がクラシックスと言うと,大体何を言うか,もう分かっているのである。シェイクスピア,あるいはラテン語をオックスブリッジの入試から外したという話が最近出ているが,それが話題になるくらいにラテン語を含めた,クラシックスというのはギリシア文化の正統性みたいなものがその背景にあるが,私たちの場合,これをどう考えるかという問題があるわけである。
  これはちょっと余談になるけれども,どこかのコンピュータメーカーが「文豪」というワープロを作ったのであるが,実は「小文豪」というワープロも作られている。「文豪」と言うと私たちは,明治の森鴎外や夏目漱石を思い出す。「小文豪」と言うと,申し訳ないが,現代の作家は,ノーベル賞をもらった方も含めて「文豪」というのには当たらないような気がしてしまって,感じとして「小文豪」かなというふうに思ったりするわけで,これは私が言ったのではなくて安部公房さんが言ったのであるけれども…。
  その背景は何かというと,古典というものを恐らく漱石や鴎外の場合は漢籍に求めて,数千年の歴史の背景のある文化をきちっと身に付けているところがあったのだろうと思う。イギリス人の古典も正にその数千年の歴史のものを持っている。私たちはそれをどこに求めるのかということを,結局,議論しないで今日まで来て,どうしようかと迷っているのかもしれない。そういうことを言うとすれば,この分科会で言うよりしようがないのかなと思っている。これはものすごく意見が分かれると思うが,そういうものを求めるのかどうか。私は,個人的には古典なり教養の基幹になるようなものをここで提言しないと,いつまでたっても解決しないのではないかという感じがしている。
  それ以外に,確かに時代の変化に応じて,職業にかかわる言語をきちんと身に付けさせるという,国語という機能のもう一つの役割も明示すべきだろうが,その問題は分けてやらないといけないのかなというふうに考えている。
 
今までに,昭和47年からのいろいろな提案事項及び提言が出ているわけで,今もこれに沿った形での議論がなされているということは,大事なことはある程度分かっているのではないかというふうな感じがする。そうすると,これまでの提言が今までどのような形で実行に移されたか,または実行に向けてのトライアルがなされたか,そういうふうなところを見ることもまた大事ではないかというふうに思う。
  国語の重要性と役割というのは,議論してもし尽くせないほど大事なことである。それを敷衍していくと,国語という言葉を使ったすべての学習,今おっしゃった古典も,プロフェッションとしての機能的な理解,能力というものも,国語を抜きにしてはできないものである。そういうことから私が最初に疑問を感じたのは,言葉としての国語の中に,私どもが込めたいいろいろな思いと国語を通して可能な能力の伸長,そういうものを一つにまとめるのではなくて,ある程度分けて考えることも可能ではないかということである。分けて考えることがいいかどうか,分からないけれども,それを試してみるのも一つではないか。
  それについても思うのは,ヨーロッパやアメリカでは,高等教育の最初に読むのがやはり古典というか,ギリシア神話,ローマ神話,ローマ法,そんなようなところからである。また,民族の興亡のようなこともその神話の中に入っているし,そういう中から,民族としてのベース,人間としてのベースと,それが民族に分かれていったということもそこから理解できる。そういう意味から,そのような大きな理解も含めて,そして言葉自体をきっちりとツールとしても使え,また,言葉自体を作品としても鑑賞でき,読むことができるような人間を育てるために,こういう方向もあるかなと思ったのは,いわゆるリベラルアーツと言われるいろいろな分野を国語の中に含んでしまうことである。つまり,国語を国語科一つではなくて,その中にいろいろ分けて入れるということも必要ではないか。それは,日本の教育の中で大変大きな何かの一歩を進めることになるのではないかという気持ちを持っている。それが一つである。
  もう一つは,学校の中だけで決めたことを教えるだけではなかなかうまく実力が付かない。例えば英語の場合は,TOEICだとか何だとかというふうなランキングがある。国語にかかわるものの中でも,みんなが参加できるような何かのコンペのようなもので,だれでもが自由に参加できる。今,弁論大会のようなものがあるけれども,それだけではなくて,美しくしゃべる日本語,美しく朗読する日本語,また,大変良い内容を書けるコンペティション,そういうふうなことも入れて,国民的に,学校を離れてでも,教科を離れてもそういういいものを競争させるという風土ができればいいのではないか。国語のノーベル賞とか,猿橋賞とか,そういうふうなものができるといいのではないかなと思っている。
 
参考資料に,過去の昭和47年,平成7年,平成12年の提言等が出ているが,要するに,この分科会はこのような答申を出してはいけないということを物語っていると思う。このような抽象的な,内容の希薄な答申では,国語力はどんどん下がって,読書離れがどんどん進んでいく。今これをちょっと読んでみたけれども,非常に当然というか,抽象的で,「だから何なの」という感じである。今回だけはそうしてはいけない。この中で,平成14年4月の文化審議会のものは,はっきり実質のある答申で,これらの中では,すば抜けていい。はっきりした内容を含んでいる。このような答申にしなければいけないということが第1である。
  それから,国語の重要性についてであるけれども,去年出された中央教育審議会の答申の中でも,今年の4月の文化審議会の答申でも,やはり教養の中核として,あるいは文化の中核として「国語」という言葉が取り上げられている。それは理科でも社会でも算数でもない。国語だということである。そういう意味で,他の教科とか,そういうものとは全く違うものだという認識が,浸透とまではいかないが,ある意味で少しずつ広がってきている。そういう背景で国語分科会がこういうことを諮問されているのだと思う。そのような覚悟が必要である。日本を再生するために,他の教科ではなく,とにかく国語の再生が最重要である。
  「国語の重要性と国語の果たす役割について」の(1)(2)について私の意見を述べたいと思う。要するに,最近学力低下とか,いろいろ言われているけれども,一つには理科の力,社会の力,算数の力と言うが,結局は,思考と言語というのはほとんど同等なものである。そういう意味で言語力が衰えている。あるいは語彙がなくなった。「超むかつく」とか,「切れた」とか,そのような言葉は,私も認めている。嫌な言葉だけれども仕方がない。消えていくのを待つ。我々も若い時は似たような言葉を使っていたわけだから…。
  しかし,問題は,そのような200や300の語彙でしか語れない人は,その思考自身がそのような200か300の思考しかできないということである。これが恐ろしい。これは許してはいけない。言葉自身は乱れても構わない。多少の乱れは必ず復元されるわけである。そういう意味で,思考力を失ってしまっている。これには,今言ったようにきちんとした語彙を増やさないといけない。
  さらに,論理的思考に関しても,論理的思考というと,すぐに算数や数学と言うけれども,算数や数学をしても論理的思考は身に付かない。これははっきりさせておかないといけない。数学者や数学教育家にだまされてはいけないのである。数学における論理は,すべて100%正しいか,100%うそか,どちらかしかない。真っ黒と真っ白の世界である。しかし,日常の言語には真っ白も真っ黒もない。要するに,黒に限りなく近い灰色とか,白に限りなく近い灰色とか,灰色の世界である。この世界における論理というのは,言語を通して指導する。ディベートさせるとか,文章を書くことによって何かを主張させるのが一番適切である。論理的思考を育てる上でも絶対的に「国語」なのである。これが思考力の話である。
  それから,情緒力,例えば「もののあはれ」とか,美しいものに感動する力とか,こういうものが非常に落ちている。これは,国語を通して文学作品とか詩歌というものをきちんと読ませる。あるいは暗唱したり,朗唱したり,それは感動を通して得ていくしかないものである。あるいは他人の不幸に対する敏感さとかもそうである。
  昔は,貧困という最もいい教師がいた。貧困の定義は,働いても働いても餓死する。そのような貧困は,もう40年前から日本にはなくなってしまった。東北地方の寒村のそういう子供たちの生活とか,詩だとか,そういうものは幾らでもあるから,そういうものを読んで,そういうものに触れるとか,あるいは日本が世界に誇る「もののあはれ」という情緒を徹底的に読書によって培う。ほかにも,例えば家族愛とか,郷土愛とか,祖国愛とか,人類愛とか,あるいは勇気とか,正義感とか,こういうようなもろもろの情緒をきちんと身に付ける。もちろん野に出て遊ぶとか,友達とか,先生のお話とか,いろいろあるけれども,やはり主力となるのは読書等を通してしかあり得ないわけである。
  こういうものがないとどういうことになるかというと,総合判断力ができない人間になってしまう。総合判断力というのは論理でやっているわけではない。そういう意味で,どうしても必要である。さらには,このような情緒力をきちんと身に付けないと,科学技術が駄目になってしまう。例えば,数学とか自然科学において最も重要な情緒は,美しいものに感動する情緒である。このような情緒も,美しい詩歌とか,日本は世界でもすば抜けた文学国だと私は思っているが,日本の誇るそのような文学を読んでやる。そうしないと,幾ら勉強しても,大学院を出た辺りから伸びなくなってしまう。そのような意味で,科学技術振興のためにもこのような情緒をきちんと身に付けさせる。
  それから,現在,政治も駄目,経済も駄目,教育も何もかも全部ガタガタしてきているわけである。しかし,これは日本だけではなくて,実は外国も全部同じである。この根底には,やはり戦後の,特に最近20年間くらいの活字文化の衰退が非常に大きい。というのは,活字を通してしか,古典とか,思想とか,文学とか,芸術とか,歴史とか,そういうものはほとんど得られない。要するに,局所的な思考あるいは短期的な視野というものは,論理とか,合理とか,理性とか,そういうものだけでオーケーである。しかし,大局観とか,非常に長期的な,人類史な,そういうような視野を持つには,どうしてもこのような教養が必要である。全く取るに足らないような,役に立たない,そのような教養が必要なわけである。
  特に最近は,世界中で,役に立つもの,効率の良いもの,能率の良いものを求め過ぎた。これが,非常につまらない,役に立たない教養を軽視した。これが短期的視野に固まって,対症療法的なものに固まって,局所的なものに固まって,それで世界が今彷徨しているという状態になるわけである。これを再生するにはやはり活字文化に頼る以外にない。そういう意味で,それの基礎となるのはやはり初等教育における国語教育である。国語というのは,国家を立て直す。これは日本の教育だけでなく,世界中の国が,国語を中心にやってくれないと,本当に世界は駄目になってしまう。まず,日本からでも先陣を切って国語教育を改革してほしい。
  特に,これまで国語教育は国語の専門家に任されていた。数学は数学の専門家,これは非常にまずい。専門家はやはり専門の固定観念に固まっているから。例えば,ここにいるメンバーのような方々が国語教育,一番重要なのはもちろん小,その次は中,その次は高であるけれども,あるいは大まで入れてもいいが,そういうものにかかわって,日本人としての,国民としての,人間としての国語教育をきちんと構築してあげる。国語の先生に任せては絶対にいけない。これは理科の教育も社会の教育も全部同じで,非専門家を入れるということである。そのようなことで,思考力と情緒力を再生していくことが最も重要ではないかと思っている。
 
12の関係であるけれども,2は,例えば選挙権を獲得するときの二十歳になった日本人がどういう国語力を備えていると良いかというようにとらえることができる。つまり,日本人一人一人の国語力とはどういうようなものが望ましいのかという,そういう諮問だというふうに私は受け止めている。それに対して1の方は,国語の果たす役割ということで,その文言を見ると,国語の重要性と役割というふうに,既に目標,評価が出ている。つまり国語というのは重要性があるし,大きな役割を持っている。そういう国語をどのように考えていったら良いかというように,これをとらえていくことができる。
  そうすると,国語というのは書き言葉の場合,話し言葉の場合というのがあり,しかも話し言葉は消えていくけれども,書き言葉というのは上代から今までずっと文献として残ってきている。そういうものをどうとらえていくか。
  話をちょっと変えて,国語の重要性,役割というところで申していくと,国語というのが日本という国を支えているわけである。つまり会社も支えている。そういうような構造力というものがあるべきだ。また,一人一人の人間に対しては,人間形成,どういう教養を付けていくか,あるいは人間関係でどういう思いやりを持つべきかというような形で,個人に向かっていくと思う。それから,意見の伝達というところでの伝達性というのもある。何かを開発していくというときに,今コンピュータの時代であるけれども,国語でそういうものを創造していくという,創造性というのもある。
  創造力,構造力,人間形成力,伝達力というようなことを申したが,そういう国語を我々はどのようにとらえていくかということが,この諮問ではないかと考えている。
 
1に関して言うと,重要性というのは言うまでもないが,私はコラムを書くために相撲の秋場所を取材して,貴乃花の言葉をいろいろと引いてみた。その中で心に残ったのは,彼の座右の銘が「体の芯を鍛える」という言葉であるということであった。彼は,御承知のように,本場所前,ほとんど土俵の上での稽古ができなかったわけであるけれども,自分で独特の工夫をしたすり足と四股等によって足腰を鍛えて,その蓄積があったから,今場所もあれだけの相撲がとれたということであろう。
  我々日本人にとって体の芯というのは何かというと,日本語,国語であると思う。今の若者は,すぐベトナム座りとかいう形で座ってしまって,ふにゃふにゃしているところがあるが,それは体の面であるけれども,精神の面においても同じことであろう。芯を鍛えるということが,国語の意味ではないのかなというふうに思っている。これは私の個人的な意見である。
  実は,新聞社と出版界等とが協力をして,活字文化推進プロジェクトというのを始めようとしている。これは新聞,出版社であるから,活字で生きている業界で,今の活字離れ等が業界にとって大きな問題であるということもあるけれども,活字というのは,単に情報がIT等によって瞬間的に流れる言葉ではなくて,何度でもそれを反復し,それとじっくり格闘できる知的な作業を行えるものである。これをおろそかにしては,我々の明日はないという危機感で始めるものである。
  このプロジェクトのメンバーのある人は,ドーデの「最後の授業」を引いて,民族の誇りはその国の言葉を大事にする気概に支えられているということをおっしゃっている。また,別の方は,活字文化の盛衰は民度を測るメルクマールであるというふうなことを言っている。こういう認識というのは,今かなり広がっているのではないかと思うわけである。だから,その役割,重要性というのは正にはっきりしているわけで,具体的にこれをどんなふうにして国民運動として持っていくのか,それが大事であろうと思っている。家庭,学校,地域,それから業界,ショップ等々が,それぞれの場で,それぞれできることをやっていくということを強く認識することが大事ではないのかなというふうに今考えている。
 
1の(1)と(2)に,国語の重要性と役割について,どのように考えるべきかとか何とか,いろいろ書いてあるが,大臣に聞かれたら,私は「国語は重要である」と答えて,その次に「それは自明である」と答えれば,それで済むことだと思う。それでも大臣が分からなければ,いろいろ理屈をつなげてもいいけれども,国語がどんなに大事であるかということは,いろいろ説明なんかしなくても,物を考える一番基礎のことなので,余りこういうことで理想論や何かを書き並べてみても,私はほとんど意味ないのではないかなという気さえ持っている。答申というのは,そういうことを幾らか裏付けしないと駄目なのだろうと思うが,そういうところに余り時間を掛けても,今までにもちゃんと書いてあるから,余り意味ないのではないか。
  それから,私は,この間,中学校の同窓会に出てきた。私は,田舎の地方都市の本当に普通の中学校を出て,隣に下駄屋の息子が座っているような,そういう同窓会に出てきた。そして,今日この答申などを見ていると,違うなという感じがものすごくする。皆さんが考えている国語は,総論的には全くそのとおりだなと思うけれども,日本の多くの人たち,田舎の小,中学校を出ていろいろな仕事をしている方のレベルで物を考えたときに,鴎外がどうしたとか,紫式部がどうしたとかいうこととははるかに遠いところで,皆さんは国語を考えているわけである。戦前の社会というのは,教養人というか,ある教育レベルの人がいて,そういう人が社会のリーダーシップをとったり,いろんなところにいた。そして,ほかの人はそういうこととは割と無関係な形で生きている方が随分おられた時代だったと思うが,今の時代になって,みんながいろいろなところで,それぞれ知的に活動することを強いられるようになっている。そういうギャップの中から国語の問題が出てきている。
  だから,戦前の辺りだったら,古典といったときに,鴎外であったり,漱石であったり,それをすぐ理解できるような人がいたのだけれども,社会のサラリーマンとして重要なところで活躍しているような方でも,そういうこととは無縁な国語力の世の中でやっていらっしゃるし,また,実際の社会はそんな理想論のようにはいかないということを痛感する。
  国語を考えるときに,私は,日本の多くの人たちにとって本当に必要なものは何なのかということで,基礎というものを大事にする。基礎的なことをきちっと大事にするということと,読書というもの,読書は通俗的なものからレベルの高いものまでいろいろあるけれども,読書運動というものをして,本当に庶民の役に立つような国語力というものを考えることが大切なのではないか。余り理想論に走ると,レベルの高い立派な見事な答申にはなったけれども,実際にそれをどうするのか,みんなに役立てていくにはどうしたらいいのかということがなかなか見えてこないようなことになっていくのではないか。余りレベルの高いこと,細かいことをやっても,実効が少ないのではないかなと考えている。とにかく基礎を徹底的にやって,ある程度の読書はきちんとできるようにするというところを固めて,今回の諮問でも聞く能力とか話す能力とか,いろいろ問われているけれども,それはその人の生き方にもかかわってくることで,余りそんなことを言っても,なかなかそうはならないのではないかなということを痛感している。
  余り建設的な意見ではないけれども,答申をするときに,レベルの高い,姿のいいことばかりでなくて,本当に実効のあることを答申できればよいかなというふうに痛切に考えている。
 
1の「国語の重要性」,2の「これからの時代に求められる国語力について」という中の一つの柱として,是非,伝え合う力,私の理解で言えば話し言葉での人間関係形成力というようなものを入れていただきたい。
  ほかにも,思考力の問題とか,文化・伝統の問題とか,当然言葉の問題としてかかわってくるが,今,学校の現場や生徒の現状で一番問題になっているのは,この間,急激に言葉によって,特に話し言葉によって人間関係を形成できない子供たちがどんどん小・中・高と増えてきていることである。不登校の問題,学校不適応の問題,本当にささいな言葉のトラブルから,いじめの問題とか様々な問題が出てきている。言葉での人間関係が形成できないために,非常に不都合やトラブルが頻発するというような状況になってくれば,もっと大きなというか,伝え合う力とか話し言葉での人間関係の形成ということが,国語科だけではなくて保護者も含めた学校全体の課題になる。こういう時代がもう来ていると思うのであるけれども,そういう点では,言葉を「単にコミュニケーションの道具ではなく」という形で切り捨ててしまうのではなくて,話し言葉での人間関係形成力というようなことを是非答申の一つの柱として入れていただければと思っている。
  もう一つ,私が非常に心配しているのは,御存じのように,新しい学習指導要領に,小中高等学校を通して,国語科の目標に付け加えられたのが「伝え合う力」というもので,今,学校の現場では,文学作品の詳細な読解に偏ってきた授業の在り方を改めて,もっと話し言葉の問題,聞く力や話す力や話し合う力というものを真正面から取り上げて,その育成をやっていこうという形で,やっと学校の現場が動き出したのを止められてしまうことである。そういう意味で,この答申が出たときも,今の流れを位置付けるような話し言葉の問題というのをどこかできちっと位置付けていただければと思っている。
 
これまでの提言や答申を拝見して,今回のもこのような形に収まるのかと思うと,大変に残念で,新しいスタイルというのは,すばらしい内容を作ったときに,それがきちんと伝わるスタイルが大変重要である。「希望する」「必要がある」「大切である」「思われる」「望ましい」「期待される」というのが文末に来ているが,一体これがだれにどう伝わって,具体的にどう動き出すかというのが全然見えてこない。そこで,きちんと会場の中身を生き生きと伝えられる方法が答申・提言で考えられないか。外側の問題であるが,大事な問題だと思う。
  国語力に関して,例えば1年単位で一つのテーマを出して,諮問があって,それを答申するというのでは,いかにも細切れで間に合わないという気がする。今のようにテンポが速くなって,小学校の3,4年生が1,2年生の言うことが分からないというふうに,「今時の若い者は」というのが非常に短くなってきている。そういう時にこそ,国語は大事である,どのように大事であるかということについては,このような会が持たれる限り,一つのテーマで連綿と続けて,バトンタッチしていって,丁寧に見て積み重ねていく問題ではないかと思っている。
  一方で,抽象的ではなくて,今回からでも,もう少し具体的な内容を盛ることができないだろうかと考えている。今伺っていると,一つ一つ,ああ,そうだなと思うが,そういうのを入れる箱作りができないだろうかと思う。種をまく,あるいは箱作りというふうに言うが,ルビを振るとか古典を読む,朗読する,いろいろな形で,それこそ地元の方たちも,私の周りにいる奥さんたちも,そこにしみてくるような種まきのための素材というのが随分出ているはずなので,それを入れ込む,どこかに伝えるルートがないだろうかと思っている。
  国語力についての方策であるけれども,私がたった一個出すとすれば,カルタである。鶴見俊輔さんもずっとおっしゃっているし,カルタという形は日本独特の発展の仕方をしている。学校でも,例えば群馬県は上毛カルタというのが連綿と戦後続いていて,カルタはどんなものでも入れられる。古典のカルタ,俳句カルタ,方言カルタ,どんなものも入れられるから,聞くことができる,話すことができるという非常に柔らかい箱作りの一つとなると思うので,具体的にはカルタである。ルビも振れる,朗読もできる,ということである。
 
国語育ては人育てというところで,心を育てるという言葉がぽつりぽつりと出始めているけれども,心というのは情緒だけの置き換えの用語ではなくて,要するに,何々の能力ということと,それを実際の現実場面で行為の主体者として出している人の在り方というか,そういうものをつなぐ言葉として心があるので,「心」=「人」という感じで私たちはとらえている。
  その人育ての中で,さっきレベルの話がいろいろあったけれども,私が一つ危惧するのは,目標を定める,そして学習の教授スタイルに入れ込むという形だけの提案だと,新たな目標が設定されて,そこで子供を走らせて,できているか,できていないかをチェックして,できていない子供の問題というふうに,要するに,評価がまた偏った見方でなされるという,そういう再生産につながることが,とても周囲の人間としては危惧するところである。
  伝え合うということは,伝える力と受け取る力の両方なくてはいけない。差し当たって,教える側に大人がいるとしたら,大人はどんなものを受け取っているかということをもっと知らなければいけない。子供から学ぶ力と同時に,教育の側で指導の中に入れていくというか,子供の言葉から我々が何を学び取っているか。つまり,コミュニケーションをするために国語を学ぶのではなくて,コミュニケーションの中で国語が育っていくのであって,人と人とのかかわりというのは言葉がないところから始まっているわけである。私は言語獲得前の子供を見ている機会が多いのであるけれども,その子たちは言葉をしゃべり出す前に必要なコミュニケーションを学ぶわけである。
  つまり,生まれた時から,物を分ける力とか,未熟ながらもそういうものがある。そこで育てて,一生涯続く対話の中で育っていく国語の力が高度化されていくのであって,論理とか理性以前,先ほどの御意見の中で,基礎の基礎,基盤という意味で国語ということが話されていたけれども,「国語」=「人育て」であるし,コミュニケーション,対話の中でしか国語は育たない。やり取りというところをどういうふうに考えて,やり取りというのは,本を読んでいても,そこで起こっているのは個人の中での対話であるから,相手側の要素というのを同時に入れ込んだ提言の仕方というのが大事ではないかなと思っている。
 
ワープロ等の発達に伴って,読めるけれども,書けない漢字が大変増えている。これは世論でよく聞く話である。自分自身を省みて,確かにそういうところがあるとは思うが,それではワープロ等々の電子機器が普及する前には,そういう現象はなかったのかということをちょっと考える必要があるのではないか。
  例えば,明治以降の漱石や鴎外,芥川等々,たくさんの名作がある。その読者の人々は恐らく読めたに違いない。しかし,彼らが,読めた文章,その漢字を書けるかというと,その時代の人々が漱石や鴎外が使っている語彙を100%そのまま書けたとは私には思えない。
  現在の状況になる前にも,例えば私の両親は,父親はもういないが,私が子供のころ,漢字を自由に読み書きできたとは到底思えない状況であったし,その時代,今から15年,20年ぐらい前まで,ほとんどの方々は読めるけれども,書けない漢字というのが一杯あったに違いない。これがこのごろ随分話題になっているというのは,恐らく電子機器を使って文章を書く人間が増えたからではないか。私の父親などはほとんど文章を書くという機会がなかった人間なので,書けないことに対して意識はなかったに違いないのであるが,このごろ,いとも簡単にキーボードをたたけば漢字仮名交じり文が書ける。文章を書くという行為に接触して,しかし,それがかつて手書きであった時代を思い出してみたら,そう言えば,この字は読めるけれども,書けないなと改めて意識をしたということではないかと思われるのである。
  コンピュータを使うと漢字が書けなくなるという議論は,頻繁に言われているようであるが,むしろ書けなくなったということを意識するようになっただけでも,手書きの文化と書くという能力に関して,皮肉な話かもしれないけれども,文字の書写,あるいは書くということに対して認識が一段階増えたのではないかと,私はそういう逆説的な見方をしたいと考えている。
 
ツールとしての言葉,作品としての言葉,古典の中の言葉,仕事にかかわる言葉,そういうもの以外に,私は,日本語というのは日常の中での詩的な表現があると思っている。特に名詞がとても豊富だと思う。
  最近,仕事で韓国にたびたび行き来をするが,韓国は名詞の種類が非常に少ない。そんな中で,先日,仕事をしていて,ちょうど帰ろうとしていたら雨が降ってきて,韓国の方が,その方は日本語は全然話せないのであるが,どなたかから教えていただいたということで,唯一知っている日本語が「やらずの雨」という言葉であった。その方が「やらずの雨ですね。」というふうにおっしゃった。「そう思っていただけますか。ありがとうございます。」というふうに申し上げたのであるけれども,今,日本人で「やらずの雨ですね。」と言って理解する人は余りいらっしゃらないのではないかとその時に言われた。我々韓国人は,名詞が豊富でないので,雨と言ったら雨しかない。雨にもいろんな名前がある日本語というのはすごく詩的な表現が一杯あって,うらやましいと常に思っているにもかかわらず,日本人でたくさんの美しい言葉を知らない人が増えている。隣人としてすごく心配しているんだということをその方がおっしゃったのである。確かに「雨が降ってきました。傘をお持ちですか。」というだけで関係は成立するけれども,そこで「やらずの雨ですね。」―あなたを帰したくないから降っている雨ですと言われて,そう思っていただけますか―ということで,ほのかな,ただの仕事の関係だけでない仕事が生まれてくると思うのである。
  私は,「やらずの雨」というのは,どこから来ているのか分からないけれども,多分,祖母なんかが日常の中で,家庭の中で使っていた言葉だと思う。お客さんが来て,ちょうど帰る時に雨が降ってきて「まあ,やらずの雨だわ。」と言っていたのを聞いて,何気なく覚えているのだと思うけれども…。古典から来ているのもあるし,詩歌から来ているものもある。あるいは漁師言葉,漁師さんの言葉で風とか雨とか美しい名前がたくさんある。日常の中で,はぐくまれてきた美しい表現,詩的な表現が日本語にはたくさんある。
  私の師匠の万葉学者の方は,日本人と自然の間には「黙契」があるということをよく言うのであるけれども,正に黙契の中から生まれてきた言葉があると思う。今の季節なんかだと,肌寒,そぞろ寒,うそ寒,やや寒と,涼しさの中にたくさんの段階があって,たくさんの美しい表現がある。そういうものが,古典とか,詩歌とか,作品の中だけではなくて,今までは日常の中で使われてきた。それがこれから日常の中にどうやって受け継がれていくかというのは,とても大きな問題になっていくと思っている。
 
やはり大事なことは,思っていること,感じていることを言語化できる能力ではないか。今,「切れる」というような現象が多くなっているけれども,それが言葉で表現できたら随分変わってくるのではないかと思う。
  それと,この読む・書く・聞く・話すというのは,何を基にして,この順序に並べたのかしらと思っていたのだけれども,読む・書くと言うと書き言葉の分類,聞く・話すは話し言葉,これを組み換えて,読む・聞くというふうにまとめると,発信されたものを受ける側に立つ。そして書く・話すというのは,書き言葉と話し言葉の違いはあるが,こちらから出すということになるので,この四つはもちろん言葉のやり取りの諸相だと思うのであるけれども,それを順列組み合わせではないが,組み換えて考えると,違う表情が出てくると思うので,そこも考えて,ここで概念構築力,語彙保有力,プレゼンテーション能力というふうに,ただいろんな諸相を思い付くままに並べたというのではない整理の仕方ができるのではないか。
  それから,国語の重要性と国語の果たす役割というのは自明だから,それでいいのだという御意見があったが,私もある程度それはいいのではないかと思う。人間にとって大事なのは,言葉だということ。たまたま我々は日本人だから,それが日本語だということなのだと思う。
  そして,なぜ今この時になってこういう分科会まで開かれて論じなくてはならないのかというと,多分,問題は「これからの」ということだと思うのである。これまではそれほどではなかったけれども,これからは考えなければならない。これからは何かが衰えてきそうだから,それを挽回しなければならないということだと思う。それは先ほどの受ける・発信するということだとすると,入ってくる情報とか変化が余りにも大きく早くて付いていけない。それに対して,どう対処すればいいかということではないかしらと思うのである。そうすると,これは日本だけの問題なのかということを考えなくてはならない。
  これはリサーチをお願いしたいと思うのであるけれども,先ほどサッチャー政権の時の言葉に対する政策の話が出たが,実は,私もアメリカ人だったか,イギリス人だったか,ちょっと忘れてしまったが,「今の若い人はブリングとテイクの違いが使い分けられないのよ。」と嘆いていたのを聞いたことがある。だから,言葉の乱れとか,外来語が入ってきて,それをそのまま使うということはフランスでも問題になって,「コンピュータ」さえ違う言葉にしようという無駄な努力,そういうのは無駄な努力だと思うけれども,ちょっと横並びにして,先ほど韓国の話が出たが,韓国ではどうなのか,フランスやイギリスではどうなのか,もしそういうことがある程度共通項が見られるとすると,ある意味でここはギブアップ,あきらめなければいけないという部分が出てくるかもしれない。それに対してどう踏みとどまって,その速度には目をつぶってでも,踏みとどまって,あえてゆっくりいこうよという方向がもしかしたら古典を読み直そうとかという行為になるのではないか。今考えているのはそういうことである。
 
3の対策の方にもう入った方がいいのではないか。その手前の12については,およそ出ていると思う。諮問自体が抽象的だから,それに対してほどほどのものを出すのは仕方がないと思うけれども,対策についてはほかの方も注目するので,クリアなものを出したい。
  この会議の形式もそろそろ終わりにして,グループを作って,例えば,初等教育の読書を中心にして何か対策等を考えるグループをこの中で手を挙げて作る。また,先ほど出たように,カルタというものをやりたいというグループがあれば,次の会議の時にグループセッションしてもらって,そこでアイデアを出し尽くしてもらう。それを時間中にもう一回出して,そこで対策の方からいった方が,私は世間のためになるというふうに思っている。
  私は,ちなみに『読書力』という本にブックリストを100冊分,文庫を100冊読むというのが読書力だというふうに一応規定したので,この本の後ろに付けたのであるけれども,前にも申し上げたとおり,別に固定的なものではない。私は,先ほどの御意見のように読書を特に強調したいと思うので,この中でどなたか,読書,小学校の国語教育,その二つに関して,関心がある方がいらっしゃれば,私は手を挙げるので,そこに集まっていただいて,ブックリストなり提示して,世間にちょっと踏み込んだ提言をしたい。もちろん,その本ばかりがいいというわけではないという意見も出ると思うけれども,それが刺激になって,ムーブメントを起こしていくだろうというふうに考えるので,具体的な作業に入らせていただきたい。
 
いつも同じことしか言わないが,私は放送という世界にいるものだから,どうしても声を出すということをもっと重視していただきたい。声を出すためには,もちろん話をするのであるけれども,何かを読むのが一番楽なわけである。したがって,読書も進むということで,声を出すことの気持ち良さ,声を出すことによって自分で黙読をするよりも脳みそにしっかり刻まれるという,この効果をもう少し重要視していただきたいなと思っている。
 
アンケートの中でも,日本語は道具だと書いたが,つまり豊かな人生のための道具だというふうに私は思っているわけである。その中で,日本語を使いこなせるということはその人にとって大切だということが基本にあるが,さらに言うと,さっきから心であるとか,情緒であるとかという言葉も出ているけれども,現在の日本の中で必要なのは,それは大切ではあるけれども,もっと大切なのは論理的思考とか論理的なきちんとした話合いなり論議なりができることだろう。それが,社会における日本語,社会における国語,そこにつながると思っている。つまり,論理的思考をそれぞれができて,話をする,お互いに話ができるということが,社会にとって非常に大切なことであり,きちんとした社会を作るために必要なことだろうというふうに思っているのである。
  もうちょっと言うと,あえて言うが,さっきから出ている古典や詩歌というのは非常に大切ではあるが,二の次である。さらに,アンケートに書いたが,文化や伝統の継承というのも後から付いてくるものである。国際化,グローバル化というふうに諮問にもあるが,そういう時代に必要なのは,やはり論理的に考えて論理的な議論をする。それがかつて日本にはあったのか,なかったのか,定かではないが,少なくとも今はない。なくなったのか,もともとないのかというのはよく分からないのであるが,少なくともそれはない。ないところに,今の社会の危うさも,個人の危うさも出てきているのではないかというふうに思っている。
 
昨年の成人式がかなり話題になった記憶があるが,成人式において聞くことのできない若者たちのために,各自治体が今年の成人式では工夫をし,苦労をしたと思う。今まで余り聞くことについては話題に取り上げられなかったのであるが,聞くことのできない青少年が増えているのではないか。聞くことをもっと重視するということが大事だと思う。
  国語教育においては,とりわけ今まで中学校ではその辺がおろそかにされていたので,聞くことの教育というのはかなり実践が増えてきている。聞いて,それを理解し,判断し,自分の思考を深めていく,そして伝え合っていくという学習を重視して,実践例も増えているけれども,今後,もっともっとこのことについての関心を持っていってもいいのではないか。これが表現する力,あるいは物事への関心にもつながっていくと思う。
  それから,言葉云々以前に非常に意欲が低下している。物事に対して取り組む意欲である。藤沢市の教育委員会で30年以上,同じような項目で中学生にアンケート調査をしているが,「あなたはもっとばりばり勉強したいですか」という項目があって,三十数年前,中学生の3分の2,約70%近くはそれに「はい」と答えていた。ところが,それが5年ごとの調査でどんどん低下して,今では24%台にまで落ちている。国語の力だけではなくて,いろいろな教科における意欲の低下,学力の低下というのが今見られると思う。
  先ほども青少年の実態が一部お話の中に出てきたけれども,そういう意欲の低下,あるいは聞く力の低下,そういうことを踏まえながら,国語力の充実ということも考えていかなくてはいけないのかなと…。その実践をどのようにしていくのかということは,これは私の学校現場でも,もっともっと研究していくべきことであると思っている。
 
私は過去2回ほど数年にわたって国語審議会の委員をしていて,こういう答申などを出してきた。先ほど,こういうものを出してはいけないのだと言われてぐさりと来たが,それに対して残念ながら同感せざるを得ないという実感を持っている。多分,諮問に対して答申を出すときに,このようなものを出すものだという風土ができているのではないか。文部科学省の方たちも,それに沿った線で出すという流れがある。それが全然効果がないわけではなくて,学習指導要領などにも影響があって大変なものなのだということは聞かされているけれども,書かれているものは,当たり障りがないというか,びしっと来るようなものがないので,何となく聞きたくないことは聞かなくていいような雰囲気でずっと来てしまって,その結果,今ここで皆様が議論しているように,嘆かわしい状況になってしまった。
  今度出すときは,今度こそ,みんなが目を見開かれるような思いのするものを書かなければいけないと思う。紙に書いただけではなくて,例えば小・中・高等学校の中で国語力を付けるということはどういう形でできるのか。その方策までやらないことには,これだけお忙しい方たちが集まって議論したものが,いつも泡のように消えていくような気がする。だから,少し踏み込んだ,どうやったらいい先生が作れるのかとか,今までとは違うものだという認識を持ってくださらないと困るわけで,それは学習指導要領を通じて教科書を作っただけでは間に合わないものである。そういった方面に対する具体的な方策を目指す,そういう分科会にできればいいなと思っている。
 
先ほどの御意見にあったが,3の方策へ転換しろということに大賛成である。この分科会は具体的な提案を答申として出すべきだと考えている。
  前回のときに,小中学校の試験をペーパーテスト体制から話合いでの試験に転換すべきだということを申し上げたけれども,さらに,今期のこの中でどうしても主張し続けたいなと思っていることはもう一つ別にある。私自身が小学校の時に受けた教育では,小学校の1年生には理科,社会はなかった。事実関係を言葉を通して把握するという教育は,実は韓国でも今やっていることであって,日本の方が戦後変わってしまった。教科の分業化が行き過ぎているということが大問題で,言葉の問題の教育体制を作るのに,ほかの教科の人も参加せよということをずっと言ってきたのであるけれども,どなたも聞いてくださらない。だから,こうなれば教科の体制自体を変えるより手がないのかなと思っている。
  そういうふうな具体的な提案をしていきたいが,それでも,やはり今日の国語の重要性云々というような事柄についてのきちんとした説明,根拠,なぜ重要かということははっきりした形で付けておかなければ説得力を持たないし,もしかすると,事柄をきちんと伝えることができないかもしれない。今この話題,テーマの中では,国語の問題で外国語の問題は入っていないけれども,英語の問題が現在の日本人にとっては逃げられない問題として目の前に迫っている。それに対して,例えば日本人の英語能力についてどう考えるかということは,この答申に書くか,書かないかは別の問題としても,それに対して答えを出すときに,分かっていることだからということでは説明ができないと思うのである。例えば古典が必要だ。私も古典は必要だと思う。でも,なぜ必要かということは知恵を集めて述べ立てていく必要がある。
  先ほどの御指摘の,前に挙がっている提言などであるけれども,確かに内容的には抽象度が高いと思う。でも,これ以前には,こういう領域の答申は一つもなかった。今やっている方向へ向かっての畑・野原を耕した最初の段階の仕事だったのである。それでも,もう少し具体的に打ち出せたかなとは思うのであるが,その上に,今,種をまいてくださる状況が来ているのだというふうにお考えいただけると,私どもとしては大変助かる。

(文化庁文化部国語課)

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