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国語分科会

2002/07/10議事録
文化審議会国語分科会第5回議事要旨


文化審議会国語分科会第5回議事要旨

平成14年7月10日(水)
午後2時〜4時30分
東海大学校友会館「富士の間」

〔出席者〕
  (委員) 北原分科会長,青木,阿刀田,井出,臼井,内館,甲斐,勝方,五味,齋藤,田村,手納,松岡各委員(計13名)
  (文部科学省・文化庁)   御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,山国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  1   文化審議会国語分科会(第4回)議事要旨(案)
  2   文化審議会国語分科会(第1〜4回)における主な意見―事項別整理―
  3   平成13年度「国語に関する世論調査」の結果について
  4   外来語の使用の増加に対する対応について
  5   意見発表者紹介

〔経過概要〕
  1   事務局から,配布資料の確認と配布資料3,4についての説明があった。このうち配布資料4については,国立国語研究所長の甲斐委員から補足説明があった。
  2   前回の議事要旨について確認した。
  3   升野龍男氏(株式会社博報堂法務室長)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  4   松本茂氏(東海大学教育研究所教授)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  5   上記3及び4の終了後,自由討議を行った。
  6   次回,第6回分科会は,7月24日(水)の14時から16時30分まで,東海大学校友会館「富士の間」で開催されることが確認された。議題は,有識者ヒアリング(話力総合研究所所長の永崎氏,読書活動を推進している犬飼氏)及び自由討議の予定。
  7   今後の分科会の進め方として,次の2点が了承された。
  1 8月は分科会を開催せず,これまでに出された意見を整理し,それを基に9月から審議を再開する。
  2 意見を整理していく上で,ある程度,諮問に対応できるようにしていく必要があるが,これまで「読む・書く・聞く・話す」などの能力に関して,どの程度の力を身に付けていることが望ましいのかという,具体的な目安についての意見がほとんど出ていない。そこで,この点を中心に各委員から意見を出してもらう。意見の提出方法としては,後日,事務局から各委員に意見の記入用紙を送付し,8月10日までに返送してもらう形で行うこととする。
  8   本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1)升野龍男氏の意見の要旨
  今日は,広告制作,法律,学校教育,その3点でお話しできたらと思っている。
  まず,広告の表現であるが,発信という立場よりは,「受信者側に立つ」という発想で行う作業だということを御了解いただきたい。基本的には,多くの人は読むのが苦痛である,人は関心がないものは読まない,こういう前提で作っているのが広告である。そのために,どういうコミュニケーションをするか。例えば,腕時計の広告をする場合,メーカーの発想だと「この時計には一杯いいものが付いています」となるが,我々だと「お手元の腕時計を取ってごらんください」というところから入る。決定的に違うのは,受け手側に行ってしゃべってあげるということで,全然違う発想をしている。いい悪いではなくて,そういう発想をする。なぜかと言うと,広告表現のコアの技術は,「関係価値を構築する」ことだからである。コンセプトメーキングと言うけれども,我々は関係価値を構築する作業をコンセプトメーキングと考えている。ここではコンセプトをそのように定義して,しゃべらせていただきたいと思う。
  何も関係ない方々に製品をどう関係付けるか,これが広告の役目であるので,どのような生活価値を提案できるかということがキーのポイントである。具体的な事例として,実際に私がやっていた作業を御紹介する。まずタイヤの広告である。タイヤは通常は部品という位置付けである。我々の概念ではポジショニングと言うのであるが,部品だと,タイヤが摩耗してもなかなかチェックしてくれない。では,タイヤの生活価値は何だろうということを考えていくと,タイヤは安全に関しては主役である,部品ではないという位置付けができる。生活者はそのタイヤの上に乗っかっているわけである。家族や大切な人を乗せている。そうすると,タイヤは車を乗せているのではなくて命を乗せているということになる。タイヤと命とは一見関係ないかもしれないが,関係式とすると,“タイヤは命を乗せている”。だから,タイヤをチェックしましょうとする。こと安全に関しては,タイヤは部品でなく,限りなく主役に近い存在であるということになる。そういう作業をするのである。
  もう一つ,コーヒーギフトである。中元・歳暮に関する当時の一般的な関係式は,これは20年ぐらい前にあったのだが,“まごころ”の大バーゲンである。「まごころを贈りましょう」とすると,マーケティング戦略でいくと埋没してしまう。みんな「まごころ」を押し売りしているわけで,それでは目立たないし,関係が見えない。そこで,贈る必然性と受け取る必然性を考えたのである。贈り手と受け手には共通の場があるはずだということで,喫茶店では必ず会っているはずだというふうに関係付ける。そして,その時を思い出してもらう贈り物だとすると,突如コーヒーが手紙になるわけである。コーヒーと手紙は全く関係ない。でも,それを思い出すツールだから,コーヒーは手紙になる。これにコーヒーであるから香りという要素を入れると,“コーヒーは香りの手紙です”ということになる。
  こういうことで,広告では関係式を作るという作業を実はしているわけである。
  次に,日本人,特に子供や社会への影響をどう考えるかであるが,多少僭越だが,我々は工場から商品は出てこないと考えている。情報化社会では製品を商品にする,生活者を消費者にすることが必要である。そのために,“V(価値)は,C(コスト)分のF(機能)”という方程式で考えている。だから,機能を上げコストを下げれば価値が増大する。ただ,これだけでやっていると同質競争になっていく。最近はコストで中国に負けている。圧倒的に低い,10分の1,20分の1のコストでやっているので,負けてしまうのである。そこで,情報化社会では,価値増大に「I」を入れる。インフォメーションのIだが,洒落じゃなくてI(アイ)を入れようということで,V(価値)=F(機能)+I(情報)/C(コスト)と考える。これはどういうことかというと,価値情報や付加価値を乗せていくということである。もっと具体的に申し上げれば,「ウォークマン」がある。あれは製品形態でいくと,「個人向け携帯ステレオ」であるが,これでは絶対売れない。それから,「超大型画面」では売れないから「画王」となる。生活価値のある概念をどんどん作ってそれを乗せていく。そうすれば,製品が商品になると考えている。
  もう一つ,マスコミ広告と,そうでない広告の違いがあることを御了解いただきたい。ある種のチラシ広告やインターネット上の広告のような違法プレイヤーが存在する。これは最初からアウトローで,取り締まれない。これとすべての広告が同一視されるのは我々も非常に迷惑であるが,広告という概念で行くと,両方のプレイヤーがいることは事実である。
  また,広告は世の中を活性化する。マネジメントという言葉は,私は,活性化だと思っているが,世の中をどんどん活性化して,新しいものを作っていこうと考えている。広告には新しいことを作り出していく役割があって,新たな文化の削岩機だったり砕氷船だったりするのではないかと思っている。そういう意味では,どんどん新たな価値観や文化を作っていくという要素が非常にあると思うし,携帯電話やメールの言語も同様だと思う。意外と知られていないが,広告業界には他産業以上にしっかりとした審査機能が存在している。ノーチェックでデビューしているわけではない。我々がやっている広告会社の法務機能とか媒体社の考査がある。そういう部分は,広告がデビューする前にチェック機能が働く。それから,出た後も,テレビのコマーシャルで御存じだと思うが,JARO,日本広告審査機構がある。これは,消費者の方からの問い合わせで,デビュー後にチェック機能が働くものである。

   次に,2番目のテーマ「日本人の国語力について」であるが,非常に環境が変わっている時代に,環境認識力と,それに基づく新たな文化創造努力が必要ではないかと考えている。表面的な環境認識に終わっている部分があって,本質は何か,ベースで何が変わっているかについてのちょっとした深掘りができなくなっていると思う。
  例えば,狂牛病や昨今の偽装,協和香料の問題というのは,実はブランドブームへのアンチテーゼではないかなと考えている。ブランドの前に,中身の安全性が問われる環境に入ったという認識をするか,しないかは非常に大きな問題である。グローバル化,デジタル化,IT革命にしても,これらを並列的にとらえると,とんでもないことになる。グローバル化,デジタル化の産物がIT革命だととらえるのと,一緒にとらえるのとは全然違う。我々もそこを一緒にとらえると,とんでもないことになるので,明確にIT革命の概念を定義している。実はIT革命の本質は何かということであるが,これは「時間,距離,情報コストの三つを限りなくゼロに近づける可能性がある。決定的に次元の違うことが起こるので“革命”である」と定義している。こうしないと新たなビジネスが生まれない。あいまいなとらえ方で良い場合と,それが今後の対応をまずくする場合があることは,十二分に認識している。
  環境認識力を具体的にどうするかということを,お話しする。グローバル化,デジタル化が規制緩和をもたらしているとよく言うのであるが,我々は規制改革をもたらしているととらえる。ということは,それは規制緩和だけでなくて,環境保護とか,法律の場合だと権利保有者の保護,弱者保護という規制強化も,もたらしているから規制改革だと考える。そういうふうにとらえないと,混乱が起ってしまうと考えている。グローバル化とは経済的には世界同一市場化,デジタル化とはどの仕組みにも情報がしみ込むことを意味する。瞬時に大量の情報伝達を可能にする。だから,いろんなことが起こるというふうに考えている。
  新たな環境が新たな概念の必要性を求めているわけで,新たな領域対応には新たな概念が必要である。そういう意味では,新メカ言語である携帯電話言語,メール言語を否定的に考えないで,もう少し肯定的に考えていった方がいいのではないか。
  サッカーでも昨今「ピッチ」と言うが,あれについて,マスコミはきちんと説明しない。ピッチというのは,サッカーが行われるスクエアなところで,それ以外のグリーンのところはフィールドである。フェンスの中がグラウンドであるという概念定義をしないと,何か分からなくなって,ピッチ,ピッチと言ってしまう。ああいうことに対しては,我々マスコミの方ももう少し具体的な説明をした方がいいと思っている。そういうあいまいなことをやっていると,文明と文化の対立が起こると考えている。衛星放送やIT革命というのは文明であるけれども,これが地域文化や民族固有の文化を侵食している部分がある。逆もあって,固有文化がグローバルな環境下では否定されるということもある。「厭なものは水に流す」「臭いものには蓋」「皆で渡れば怖くない」ということは,もうそろそろ通用しない。もう一つ,環境認識として重要なのは立法ラッシュということである。理由は,グローバル化,デジタル化である。この状況は,新たな共通ルールを導入しないと,コミュニケートできない状況をもたらしている。商法改正が相次いでいるし,ISOを導入する動きも急激である。多国間の貿易取決めのWTO加盟などが代表的である。こういう問題がどんどん出てきているということは,ある程度の共通ルールを作らないと,そこで共通の競争ができない,質の高い競争ができないということを示している。
  次に,言葉の問題に少し話を移すけれども,私は,極端に言うと,すべてが方言ではないかと思っている。方言は文化としてとらえる。これは私なりの定義であるが,文化というのは,その土地とそこに住む人たちが醸し出す有形無形の産物である。方言は文化だということを言いたいのであるが,文化を大切にするにはやはり方言を非常に大切にしなければならない。文化を伝承していくことは,方言を伝承していくことではないかと思っている。日本語も初めのうちはすべて方言だったと思うし,それから権力者が登場して,都ができたりすると,そうは行かなくなる。例えば,東京の言葉が共通語化したとか,今,英語が共通語化している部分がそこだと思う。最初は方言で,その後,必要に応じて共通語化する。今後は,方言と共通語が共存していく,文明と文化が共存していくことを考えていかないと,混乱が起こるのではないかと思っている。もう一つ,方言を地域言語としてくくっていいのかどうかということと,そうではない環境が生まれているのではないか。方言は民族ごと地域ごとに存在しているけれども,最近は,世代方言,携帯電話方言,メール方言と考えてもいいものがあるのではないかということで,どちらかと言うと積極的にとらえてもいいのではないかと考えている。
  存在意義やアイデンティティーの問題について,少しお話をしたい。コーポレート・アイデンティティー,CIという言葉があるけれども,これは三つの要素から成り立っている。「私はだれなのか」「だれに対して何ができるのか」「今後どうありたいのか」ということだが,これを個人レベル,団体レベル,地域レベル,国レベルで考えると,日本はこれが非常に希薄ではないかと思う。
  幾つかの事例を御紹介すると,アメリカのエイビスというNo.2のレンタカー会社がやった広告であるが,「WeareNo.2.Wetryharder.」。 No.2だから一生懸命やるんだというわけである。フォルクスワーゲンがアメリカで大型車と戦ったときは「Thinksmall.(小さいことはいいことだ)」と言った。これも成功した。今はグローバルな環境で活動している日本の企業のトヨタ,ホンダも成功している。トヨタは「Drive yourdreams.」,夢をドライブしようじゃないか,ホンダは「Thepowerofdreams.」,夢の力を信じようとやっている。
  これはバレリーナの森下洋子さんにお会いした時に彼女がポロリと言ったことで,「女だからプリマになれた」。これはすごいアイデンティティーである。ちょっと口では言えないぐらいの強さがあったということを覚えている。私の場合はコピーライターをやっていたので,「私はだれなのか」と言えば,私は日本語の同時通訳ではないかと思っている。「だれに対して何ができるのか」ということを考えると,人々のコミュニケーションを円滑にしてあげられる。訴えたいこととか,受け手に立って話したいことを通訳してあげられると思っている。「今後どうありたいのか」ということを考えていけば,関係価値構築力を有効活用して,ばらばらな世の中を連帯感ある社会に意識を変えていきたいということが言えるのではないか。こういう意味では,アイデンティティーの確立の仕方というのは,日本人には今後非常に必要ではないかと思っている。
  もう一つ,意思の明確化が必要だと考えている。アイデンティティーが明確でないと,文化伝承力及び文化創造力が弱くなるのではないか。意志が見えない日本人,意思表示をあいまいにする日本人ということで,「○○させていただく」とか,「○○とかが」とか,「○○じゃないですか」と無理に同意を求めることもないと思うが,非常に耳障りなときがある。タイガーウッズがパターを打つ場合,彼は非常に強く打つが,「パターはカップを通り越すほどの勢いで打たなければ入らない」という強い意思を持っている。先ほどの森下洋子さんは「身体の柔らかい人より硬い人の方が大成する。硬い人は毎日の努力を惜しまないからだ」とおっしゃった。それから,エリノア・ルーズベルトは,「Yesterday ishistory.Tomorrowismystery.Todayisagift.」と言って,今の大切さを認識しているという非常に有名なエッセイがあるが,そういうことをおっしゃっている。
  そういう意味では,こういうことが重要だということと,もう一つ文化伝承力というのも重要ではないか。『「縮み」志向の日本人』を書いた韓国の李御寧さんという方がアドバイスしてくれたことであるが,日本人は,「“しつけ”は漢字で“躾”と表しますが,偏(へん)の“身”を“心”に置き換えた方が良いのではないですか」とおっしゃった。どうもそんなところが昨今かいま見られるのではないか。形から入る前に,「意識構造改革」みたいなものを少し考えないといけない時代環境に入っているのではないかと感じている。

  最後に,日本人,特に子供の国語力を高めるには,どのような方策を講じるべきかということであるが,明確な動機付けが必要ではないかと思っている。人間は感動を体験して大きく成長するので,ヒーロー,ヒロインの発見。有名人だけでなく巷のヒーローやヒロインも発見する。手の届く目標ということで,代表例は「プロジェクトX」だと思うが,ああいうものが必要ではないかと思っている。
  環境認識力を高めていくことから,夢を持つことの大切さ,夢を実現する努力の大切さをはぐくむ。子供たちが夢中になるものを発見させる。そのためには,観察して見いだすということが重要だと思う。特に面白さが重要で,皆様方は御存じのとおり,「面白い」の語源は,霧のようなものが晴れて,目の前がぱっと明るくなる感じである。他人との競争ではなくて,自分自身の中に可能性を発見して,その可能性と競争する楽しさ,面白さをはぐくんであげることが非常に重要ではないかと思っている。
  もう一つ,「国語「力」の構成要素」であるが,「読む,書く,話す」概念には限界があるのではないか。そこで「国語力」とは,次のように定義できると考えている。語彙を保有する力,概念構築力…「しもまいど」というのは,大阪船場で使われている電話の言葉だけれども,長く言っていると電話代が高くなってしまうので,電話を受け取った瞬間に「しもまいど」と言う。「もしもし,まいどありがとうございます」を略した非常にいい表現である。それから,大阪の黒門市場で新鮮なことを「手手噛む鰯」と言う。短いけれども,非常にいい言葉だと思う。それから,論理構築力,プレゼンテーション能力も入る。文化理解力と伝承力,これは固有文化の理解力と保存力である。それから,コミュニケーション力。これは非常に重要で,目撃力,実況中継力,再現力,言い換え力。これが表現力ではないか。表現力もそうやって分解しないと,なかなか見えてこない。これらを発信・受信の双方向で行っていく。それを文章レベル,言語レベルの両方でやっていくことが必要ではないかと思っている。
  国語力を高める具体的方策については,ブロードバンド技術やIT技術を使った方がいいと思っている。デジタルアーカイブということであるけれども,デジタル技術を活用した優れた内容物,優れたコンテンツを,アーカイブ化,つまり公文書化していくことが必要だと思う。私の義理の叔母がハワイにいて,行ったきりずっと戻ってこなかったのだが,この数年戻ってきた時に実にきれいな山の手言葉をしゃべるのである。すてきな日本語が残っているわけである。こういう言葉をどうして残していくかということの方が重要ではないか。そういう優れた教育ノウハウのデジタルアーカイブ化が必要だということで,具体的には,文化伝承力のある先生とか人物のレクチャーを公文書化してしまう。そうすれば,別に一律同一教育ではなくて,進捗状況や個性に応じた教育が可能になる。こういう組合せをすれば,若い人を例えば古典の世界にいざなうことができる。段階的に入れるのではないかと考えている。
  もう一つ,襞の多い国語力を持つ。豊かな表現力の保有ということである。そのためには様々なコンテンツが作成され,流通する必要がある。コンテンツというのは,ここではプログラム内容とお考えいただきたいが,広帯域環境,ブロードバンドというのは非常に情報流通の広い領域であるから,今までの情報の送り取りが非常に簡単になる。また,多くの人々が物を作るときにいろんなサポートシステムがある。著作権をクリアできるかどうかということもあるが,どうすればクリアできるかもサポートしてくれる。それから,検索,素早く探せる。情報活用の活性化ができる。もう少し簡単な環境で言えば,ヤフージャパンをよく使っているけれども,辞書よりはるかにいい。ヤフージャパンで入力して,クリックすると,街の由来やその文化など,いろんなことがすべて分かる。非常に分かりやすい。ああいうものがどんどん出てきている。
  もう一つ重要なのは,突破力ある体験言語を大切にすることである。「闘争心」というタイトルで,技術者の体験言語をまとめたものを作った。今年の1月ごろ,私のスタッフに年頭教書を渡さなければならないので,様々な言葉をまとめた。探していたら,技術革新を成し遂げた技術者の言葉というシリーズがあったし,いろいろな新聞の中を探したが,ドキドキする言葉に幾つも遭遇した。これはほとんど技術者の言葉である。ここに実は大きなヒントがある。技術革新を成し遂げる人たちというのは,必ず新しい概念を持っている。その部分に立ち会うとか,そういう言語を共同体験するとか,使っていくということが非常に重要ではないかと思っている。これですごいのは,例えば,デフレのことを言っているのだが,「価格が2分の1になったからといって市場が倍になるわけではない」。もっと具体的に言えば「ビールの値段が半分になって,皆さんビールを1年間で,倍飲みますか」ということである。そういうことをズバリと言っている人がいるのが非常に大きい。そういう言葉が出てきた環境というのは大事にしたい。そういう時代に入ったのではないかなと思っている。
  最後になるが,「キャンペーン展開の重要性」である。これは広告会社だからというわけではないが,関心が高まっている時だけに,シンポジウム,フォーラム,広告等を展開するチャンスではないかと思う。というのは,ひょっとすると日本が今まで誇ってきた経済とか工業という文明が急速に力を失いつつある。その反面,我々のアイデンティティーである日本文化とか,その重要な要素である日本語の見直しが始まっているのではないか。それが,「なぜ日本語ブームなのか」とか,「美しい日本語・新しい日本語募集」とか,「世界の中の日本語」などのブームを生んでいるのではないかと考えている。そういう意味では,非常にいいチャンスなので,文化庁もいい広告会社を使いながらキャンペーンされたらいかがであるかということである。

(升野龍男氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  私は,生きていく上で重要な力を三つ挙げているが,その中の二つが,段取り力とコメント力というもので,もう一つがまねる,盗む力と考えている。何かを構成していく,あるいは段取っていく力と,国語力というか,言語力の関係についてはどう考えるか。これは,もちろん広告であるから,言葉自体を作り出すことが仕事の段取りになっているわけだが,それ以外に,番組を作るとか,仕事は段取りを組むというのが非常に重要な要素である。学校では割に段取りを鍛えるということは少ないのに,仕事になると急に大事になってしまうわけである。私は学生に教えていて,授業をできるようにさせるのであるが,それも段取りであるけれども,そのことと言語能力というか,こういうコンセプトを作っていく力というのはすごく連動しているという実感がある。その辺の仕事上の段取りを組む力と,コンセプトあるいは言葉を使いこなす力との関係について伺いたいと思う。

  仕事の話に近くなるけれども,例えば,「コーヒーは香りの手紙です」。これをコマーシャルに展開するときに何を考えるかと言ったら,ワークデザイン,つまり作業工程を具体的にデザインする。有形化する。どういうふうに最終的なフィルムまで落とし込むかということを考える。そうすると,これに対して視聴者に疑似体験してもらうため,タレントをどうするかとか,すごく具体的に考えていく。それから,コマーシャルソングをどうするのか,ロゴタイプはどうするのか,季節ごとに応じた背景をどうするのかを考える。さらに,ワークデザインであるから,それを最後にオンエアする時までに全部工程を作る。その工程ごとに今の作業を組み立てていくわけである。

  その組立ては,言葉で文章化というか,チャート化するのか。

  大体文章になる。文章化して,工程表を作る。

  私は教育関係なので,総合的学習の時間で,何を鍛えればいいかということがテーマになっている。社会に出たときに役立つ力というのが一つの要求なのである。そのときに,そういう仕事の工程をきちんと認識できて言語化できる。そういう力が通常の教科教育だとなかなか身に付かないということで,総合的学習でやろうという流れがある。それに,この広告の全体の仕事が非常に近い感じがしたのである。

  文化祭なんかは,お祭りだから,それを使った方がいいと思っている。そういうことが1回体験できると,夏休みのリポートを作るときも,お祭り化できてしまう。アウトプットを途中からイメージできて,そのときに,行程をどうするか,共同作業をどうするかということで,面白くしてしまうのである。苦痛に感じたら絶対に駄目だから,とにかく面白くするために,最初のアウトプットをどれだけビビッドに,きれいなものにしていくかということを考えて,必ずお祭り化していく。そのときの工程デザインをなるべく具体的にする。色をどうするか,言葉をどうするか,表紙をどうするか,を具体的にした方が分かりやすいと思っている。

  この間,たまたま理科系の方が,実験がうまくいかないことの一つに,実験の段取りが組めない。そのために,言葉で段取りをきちんと示せないということがネックになっているという話があった。

  我々のビジネスだと,ナレッジマネージメントという概念があるが,失敗の公開である。失敗をどんどん公開してもらう。今の環境だと,ほとんどコンピュータでできるから,コンピュータの中にデータベースを設定して,公開可能な様々な失敗の例を全部実名で出してもらう。それを幾つか見ると,どこで失敗したか,分かるようにしてしまうのである。それを具体的にやっている。そうすると,こういうことをやったらうまくいかないというのが分かるから,その工程をこうした方がいいというサブシステムができる。今のビジネスレベルでは,そういうことをやっているが,教育もそういう方向をとった方が面白いのではないか。コンピュータをうまく使うと,非常によくできる。私はコンピュータの専門家ではないけれども,注文を付けるのである。こんなことできないかと,どんどん言っていけば,必ずできるようになるのである。

  テレビのドラマを作っていると,やはり共通するところが一杯あって,できるだけ受信者側に立つとうまく当たる。なかなか当たらないことが多いが…。今,伺っていて,本当に前から気になるのであるけれども,意思表示があいまいになり過ぎていると思う。
  先ほど,「○○させていただく」「○○とかが」「○○じゃないですか」というのが出ていたが,最近もっと激しくなって,とにかくだれが何を言っているのか,突っ込まれないように,例えば「こちら,おつりの方になっております」,見れば分かりますよ,おつりだってと言いたいが,「こちらコーヒーの方になっております」とか,「蓋の方を取ってください」とか,何で日本人がこうなったのかなという気がするのであるけれども,そういう人たちに対して,コマーシャルを作るときにずばっと言い切ることは,かえっていい結果が出るのではないか。

  それはある。コンセプトを対抗概念という意識で作る場合があって,そういうひどい文化があるとすると,そこに対してずばっと言うと効く,強い反応をしてくれる人がいたら,そこを計算してやる場合がある。それから,「それは英語では通用しない」という言い方もできる。「こちらの方がどうですか」とか「○○とかが」というのは英語に翻訳できない。だから,英語の文化をぱっと入れると,若い人は結構反応する。「それは英語になりませんよ。違う言い方をしないと,通じませんよ。英語とコンピュータはパスポートですから,あなたの使っている概念は使えませんよ」と言うと,結構反応するのである。

  例えば,「2月とかって,やっぱあ,寒いじゃないですかあみたいなぁ」,2月は寒いと言えと思うのであるが,「やっぱ,2月とかって,雪とか降ったりして,電車とか止まっちゃったりすることって,あるじゃないですかぁ。私的にはぁ,歩いたりするのとかって,やでぇえ」と,私にしゃべらせれば1時間でも若者言葉ができるのであるけれども,本当に腹が立つ。ところが,面白いのは,恐らく若い人が一番ずしっと来る言葉というのは,「闘争心」という資料の冒頭にあった「失った10年を振り返るのはやめ,創り出す10年へ力強く踏み出そう」。これが恐らく一番ずしっと来るなと思って読んでいたのである。「冬とかって,寒いじゃないですかみたいなぁ」と言っている人たちが,意外と「失った10年は振り返っても意味ないんだ,あしたを向け」というようなことを言われると,突然前向きになって力が出たりするのである。そこら辺をドラマで生かして時々やってはいるのだけれども。今回のお話は大変面白く,私は,これから少しまじめにコマーシャルを見ようと思った。

  いろいろあるので,現実の広告表現は玉石混淆であるけれども,一つの方向性として真剣に我々が考えているのは価値創造である。

  最近は,世代方言と考えてもよいものもあるのではないかというお話があったが,これは私どもの研究所でもやっていて,例えばおじさん言葉とか,方言の中でも50代になってやっと使える言葉というのもある。40代の若い人が使うと,まだ若い,それは似合わないというような言葉もあって,おっしゃるところは,これからもっと研究,調査していくべきことだというふうに思っている。
  私が,今日のお話で,これは大事だと思ったのは,「国語「力」の構成要素」というところである。文部科学省も,国語の力で何が大切かというときに,ここら辺りを非常に重視していて,自分で問題を見付け,自分で考えるということ,それから,人に伝えるということを考えている。「しもまいど」というのは,初めてお伺いして,こういうのも国語力の要素として考えていく必要があるのだなと思った。発信力,受信力という辺りも国語の教科の中ではできるだけ力を育てていって,先ほど出た総合的な学習の時間では,国語が全体を支える,骨組みを支える教科だと思っているものだから,そちらへ進めるように私どもも努力したいと考えている。

  この部分は,実はコピーライティングのテクニックの部分と法律の部分と両方合わさっている。コピーライティングの部分は,こういうふうにしないとコピーライターは養成できない。コピーライターの要素というのは,基本的に,聞いてそれをより良い言葉で伝えていくということが重要なので,この技術,つまり日本語の同時通訳力がないとできないのである。
  もう一つ,法律の場合だと,日本の法律はそうでもないが,アメリカの場合だと,よく映画でディベートの場面が登場する。あそこではこの技術がないと勝てないのである。特に刑事的な裁判はそうでもないが,民事的な裁判というのは,受け手の感じが非常に強い。そこで,このプレゼンテーション能力がないと勝てない。負けてもいい方は構わないが,国際化になったら,この技術がないととんでもないことが起こる。裁判もそうだが,契約の概念でこれが欠落していると,とんでもない対価を負ってしまうということが現実にある。そういう意味でも,国際化を考えた場合に,基本的なものとしてこの部分を強めないと駄目である。日本人であることが世界に通用しなくて,また「日本人とか」が言っているみたいになってしまうのが一番怖いという感じがする。

  幾つか質問があるが,まず,言葉で価値を作り出していらっしゃる中で,現在ある日本語で足りているのかどうか。いろいろな物の見方が変わってきたという中で,新しい言葉を作る必要があるのか,そういうことは全然なく,今までの日本語をきちんと使う中で必要なメッセージが伝えられるのかどうか。
  それから,列島全部が標準語ということで,方言とか昔からの言い回しが少なくなることは,ある意味では本当に怖いことだと思っている。ヨーロッパなどでも,例えばオランダやベルギーの辺りだと,方言が幾つかあったのがもう使われなくなって,本当に消えていくこともあるらしい。しかし,例えば近畿地方の言葉というのは,ずっと昔から日本の首都であったことから,みんなが分かるような言葉がいろいろあるけれども,その辺も考えて,方言をどのような形で現代の日本が処遇すべきかということである。
  あと「技術者の言葉」は大変な感動を持って拝見した。「「成果主義」から「ビジョン設定・追求主義」へ。成果は後から付いてくる。」というのを拝見したときに思い出したのは,黒ネコヤマトの小倉さんがいつも「サービスが先,利益は後から付いてくる」とおっしゃっていたことで,これは本当にそのとおりだと思って,大変うれしく感じた。

  最初の方,新語は必要だと思う。環境が変わった場合には違う文化と出会うので,特にそれが必要である。例えば環境破壊について我々が慣れていなかったら,新たな考え方やルールを導入していくということが必要で,例えばISOの問題でもそういうことでやらないと新しい概念に対応できない。ただ,全部が新しい概念でやる必要があるかというと,そうでもなくて,昔から我々が持っている概念をより良く使うことも必要だと思う。だから,新しい概念は必要であるが,我々が持っていた昔の概念を当てはめてもいいのかなと思っている。
  もう一つ,方言の処遇の問題であるけれども,これは先ほど申し上げたデジタルアーカイブということで,どんどんストックする技術が非常に強くあるから,それに収納していくということを国レベル,学校レベルでもやった方がいいと思っている。ただ,その部分を取り出す仕方をうまく考えないと,ストックしても死蔵されてしまうので,どうやって引いたらいいかというソフトウエアが必要だと思う。そして,それが非常に面白いソフトウエアになっているということが重要だと考えている。
  「技術者の言葉」は,今後ともどんどん収集して,世の中に発表していった方がいいと思っている。成果主義というのは一ころはやったが,その場合,目標を下げてしまったら成果は上がるわけだから,とんでもないことになる。そういう意味では,やはりビジョンを設定して,ビジョンを追求していくという夢を追っていく方がいいと思う。そういう,技術革新を成し遂げた方々の新しい言葉を集める努力をどんどんしていったらいいと考えている。

  二つある。一つは,広告というのはやはり文化なのかということと,それが文化だとすると,恐らく日本固有のものというのがあり得るだろうと思うので,日本の広告は,世界の広告の中で特徴があるのかどうか。その2点である。

  文化的要素が非常に強いと思っている。日本の広告の固有性があるすると,同一言語をしゃべっている部分があるから,欧米と比べて説明が非常に少ない。これには問題がないわけではない。新しい商品が出たときにメリットをうまく伝えられないという部分があったり,イメージだけでいくと,大量のコマーシャルメッセージを出すところの方が有利になったりしてしまう。そこについては,メリットを消費者にうまく伝えていく,受け取り側にうまく伝えていくという作業がもっと必要な時代環境に入ってくると考えている。
  もう一つ,日本人は同一言語をしゃべるが,もともとは多民族だと思う。そこの部分をもっと意識しなければならない部分が強くなっていくと思う。例えば,ブラジルから来た方々も一杯いらっしゃるし,いろんな民族の方がどんどん増えている。そのときに,今のメッセージでいいのかということは,非常に疑問である。例えばアメリカで比較広告があるのは,実は多民族であるから,比較しないと分からないこともある。日本では比較しなくても分かってしまうが,そろそろそういう部分でうまい比較をしながらメリットを出していく,生活価値を出していくという必要も増大してきていると思う。
だから,広告というのは環境が大きく変わっている時代環境に入ってきていると思う。それを意識しないと,昔のままの作業になってしまう。それは,新しい生活の価値を生まないという危機意識も持っている。

(2)松本茂氏の意見の要旨
  私は,英語に関連した仕事が多く,美しい日本語を使うことに関しては全く自信がないので,その点については御勘弁いただきたいと思う。今日は,どうしてもこれだけのことは触れておきたいという六つのポイントについてお話しする。
  まず最初が,「人間中心の国語教育への転換」である。コミュニケーション教育の立場から国語教育を眺めていると,まず国語ありきという発想があるような気がする。日本語の美しさというのは一つの尺度として非常に大切なことだと思うが,人間中心で考えると,美しい日本語があるか,ないかということよりも,美しい日本語を使えないことによって,その人が微妙なニュアンスを伝えられないということの方が大切である。その人の例えば思考とか,ひいては生活そのものが豊かにならないという発想でコミュニケーション教育の立場では考える。したがって,美しい日本語を守るというよりも,日本語を巧みに使えないことによって,その人の表現能力が十分発揮されず,かつ,その人の人間関係上の問題が余計生ずるのではないかと考える。
  もう一つは,私は教育に近い分野にいるので,言語政策と言語教育政策とをごっちゃに考えない方がいいのではないかと考えている。よく受験英語という言葉をお聞きになると思うが,現在の国語教育もまさしく同じで,受験国語あるいは暗記国語というのが現状である。例えば,普通の授業においても,先生がある文章について説明をして,その説明を生徒がノートに取り,暗記して,試験には同じ文章が出て,ここはどういう意味かと先生が説明したところが出て,暗記したものを書き出すわけである。だから,ある小説を読んで自分がどう考えたかということよりも,先生がどういうふうに考えてほしいかという説明を理解し,暗記した者が良い点数が取れる。文学作品に関しても,やはり中途半端に使っている傾向があると思う。文学作品の一部分を利用するのはいいが,それを本当の意味で鑑賞や批評をするのではなく,意味を理解した上で朗読させているわけでもなくて,読ませているのは,漢字が読めるかどうかのテストをしている程度のもので,棒読みをしていても先生は何も指導しないし,蚊の鳴くような声を出していても何の指導もしないということになっているのではないか。
  それと,コミュニケーション教育の立場から考えると,対人コミュニケーションの訓練をまるでしていないということが挙げられる。言語はそこにあるだけで,それをどう使用するのか,特に人間関係の中においてどう使用するのかに関して,指導・訓練をしていない。授業の形態は教師独演型で行われている。それが英語教育の方にしわ寄せが来ていて,日本人は簡単な英会話もできないと言われる。英会話をやっても,定型のあいさつまではできる。“How areyou?”“Fine,thankyou.”とか。そういうところまではいいが,それから先の会話というのは大変難しい。これは日本語で国語の時間にやっていないので,「では,自由に会話しましょう。失敗を恐れずに話してください」と言っても,何をどういうふうに話したらいいのかを体験していないので,英語でやろうと言っても,話す気にもなっていないし,話す理由もなければ,何を話していいのかも体験していない。だから,英語の先生だけを責めてもしようがないと感じている。
  提案としては,言語というものは人間同士のコミュニケーションに不可欠であるというとらえ方をするということ。コミュニケーション学の立場から言うと,言葉は道具じゃないと批判されるので,どういうふうに表現したらいいかと思案しているが,要するに,言語を通して人間関係を作っていくのだということを小学生の時代から認識してもらいたいと考えている。それと,コミュニケーションの能力,あるいは伝え合う能力というのは,それを実際にやってみないことには付かないし,向上させるにはとても時間の掛かるものであることを御理解いただきたい。漢字を覚えるようなことは一夜漬けでもできるが,実際にコミュニケーション能力を付けるというのは訓練を積まなければできないものだということを国語の先生方は理解された上で,授業を展開していくべきではないかと思っている。
  そのためのポイントとして,英語教育の方の知見から,幾つかお話しする。まず一つは,生徒・児童に「当事者意識」を持たせる指導である。例えば文学作品を読むときに,それをどうして今読まなければいけないのか,読むことによって,どんな考え方が広がっていくのか,そういうような発想が必要だと思う。今ほとんどの小学校,中学校,高校では,生徒は「傍観者」になっている。「そういう授業はつまらないでしょう」と言うと,「いや,先生は楽しそうに話しています」「私たちは,携帯メールしたり,弁当を食べたり,ほかのことをして楽しいし,だから授業は楽しいです」というふうに言うが,実際には,そこにコミュニケーションは成立していないという状況なわけである。先生は「分かりましたか」「分かりましたか」と言う。生徒の方は何も反応しないから,「分かりましたね」と言って自分で完結して授業が終わる。分からなかった人は復習しておくようにということで,分からなかったのは生徒の責任ということで授業が成立しているように見える。分かる,納得するということは,暗記した結果よりも,いろんなことをやっていく最中に,ああなるほどと思うプロセスとしてとらえるべきである。だから英語教育の方ではプロセスを重視しましょうと。例えば,作文だったら,出来上がったものよりも,そのプロセスでどういうことを考えて,どういうふうに書き直していったかということを重視する教育をしているが,国語の方では,作文を一回書いて,見直しもしないで出してしまう。書き直しもさせないのではないかという気がしている。
  それから,先ほど申し上げたように学習者が主体になっていないで,教師が独演をして,解釈を説明し,ノートに取らせる。良い先生は,黒板にきれいな字で,漢字を間違えずに,色を分けて書くということが大事なことだと言われてしまうわけで,本当に生徒が学習しているのかどうか疑問。学校の教科で一番印象にないのは国語である。何をやっていたのか幾ら考えても思い出せないのが国語の時間ではないか。

  2番目に大きなポイントとして,「思考力養成を重視した国語教育への転換」をお願いしたい。プラス・ワン施策と私が勝手に名付けたが,子供たちの思考能力が十分に育成されていないことは,伝え合う力とかコミュニケーション能力を考えた上で,非常に重大な問題だと思う。
  現行の学習指導要領では,国語に「伝え合う力」というのが初めて出てきて,これは非常に良いポイントだと思う。昨日,東京のある中学校の副校長で国語科の先生とお話をする機会があった。そこは全国でも学力はトップレベルの中学校であるが,入試の結果などを見て,ここ10年,圧倒的に国語力が落ちているとおっしゃる。「先生のおっしゃる国語力とは何ですか」とお聞きしたところ,すぱっと出てきたのは「考える力です。考える力がなくなっています」。要するに,ほとんどの子が塾へ通って,受験国語の解答テクニックを習って,答えを待っている状況で,四つの選択肢からどれを選ぶかというような思考で勉強しているので,自分から何かを考えるという力が非常に落ちているとおっしゃる。私もそのとおりだと思っていたので,ある意味でうれしくなったが…。
  思考していないとどういう行動パターンになるかというと,大学に来ても非常に反応が鈍い。反応が鈍いのは,小学校からずうっと聞いているだけで,傍観者の状況でいるから。静かにしていればいいということで教育を受けている。これは先生方も大変だなと思うけれども,私は学校の先生方にお話をする機会がたくさんあるが,先生方が一番反応が鈍い。どんな講演会でも,一番反応が鈍いのは学校の先生方の集会である。こういう反応の鈍い方々がどういう授業をしているのかと見に行くと,生徒はいろんな気持ちを発信している,いろんな兆候が表に出ているけれども,それを読み取らずに,自分が計画したとおりに授業を展開している。生徒が面白いことを何か言って,指導目標を超えるような質問をしているのだけれども,それを無視して進めてしまうというようなことが展開されている。
  国語にしても,英語にしても,いろいろな型というのが大事だと言われることもある。例えばスピーチはこういう型でやりましょう,ライティングはこういう型でやりましょうというのがあるわけだけれども,この型が余りうまく利用されていないというか,型にはめることだけに精一杯になってしまう先生方が多いことが問題としてあるのと,もう一つは,4技能をばらばらに教えているということがある。ここに考えるという発想を是非入れてほしいと思う。読んだら読むだけ,書くなら書くだけという指導になっているのが現状で,英語教育の方はこれを打破しようということで,4技能を有機的に結び付けて,統合的に教えようというのが学習指導要領の方にも出ている。この点は,国語の方では,はっきりしていないところがあるのではないか。
  プラス・ワンという意味は,「考える」という技能で4技能を統合していこうということである。私は英語教育の方でこれを提唱しているが,国語教育でも,この発想が利用できるのではないか。言語は思考の道具というか,思考をする上で不可欠なもので,伝え合う力,コミュニケーション能力というのは,考える力があって初めて表出するものなんだという考え方を是非国語の先生方に持っていただきたい。例えば,今の授業というのは,テレビでやっている放送大学を茶の間で見ているのとほとんど変わらない。先生が1人でしゃべって,生徒が何をしていようが,していまいが,関係なく先生はただ予定どおりしゃべっているという意味で,放送大学と同じだと思うが,それがプラス・ワン施策で,もう少し活気のあふれる,生徒たちが目を輝かすような授業になるのではないか。
  生徒が主体となって考えられるような題材や指導法を是非導入していただきたいと思う。例えば,ガンジーの伝記を読んで,いいところ感想文を書いて終わりである。ただ,主体的に教えるとなると,ガンジーの伝記を読んで,じゃあガンジーが今生きていたらどんな質問をするか,まずペアで考えてみましょう。それを文にしていきましょう。二人でそれをやりとりしてみましょう。実際にグループに分かれて,一人の子がガンジー役をやって,四,五人の子は新聞記者の役をする。そこでインタビューをして,インタビューの結果を今度は新聞記事にしてみましょう。新聞記事にして,今度は自分の感想を書いたり,この時代だから,できればインドの子供たちに何か質問はないか考えてみましょうというような感じで広がりを持っていく。そうすると,ガンジーという偉い人がいましたというのをただ読んで,「ああ,偉いね」でなくて,その人とどういうふうにかかわりを持つのか,自分の人生と関係があるのか,その人が今生きていたらどんなことを質問したいのかを主体的に考えることによって,教科書に出ているものが生きてくるということが考えられる。
  作文に関しても,週末に何をしたか書きなさい,と突如言い出す。月曜日に,先生が疲れてしまって授業の準備をしていないと,急に作文になったりするけれども,それは45分,50分,静かに机に向かっていることができるようにするという教育のような気がする。実際に作文を書くとなると,土日にあったことといっても大したことはしていない,何を書いたらいいのか分からないというように深く考えてしまう子は書けない。「適当に書けばいいんだ,こんなものは」というふうに思っている子は,すらすら書けるわけである。どっちの子がいいんだと考えると,深く考えている子の方がいい子なのではないかという気もする。コミュニケーションの観点から言うと,だれに読んでもらうのか,みんなに読んでもらうのか,先生だけに読んでもらうのかによって書き方が違う。言葉の使い方も説明の度合いも違ってくる。そういうところを何も言わずに,ただ50分間静かにしていればいいのか,きれいな字で正しい漢字を書ければいいのかということになってしまうわけである。
  作文にしても,じゃあ土曜日,日曜日に何をしたか,まず友達と話してみましょう。で,このクラスのみんなに読んでもらうんだったら,どんな題材で土曜日,日曜日にやったことを書くといいか,お互いに話し合ってみましょう。話合いをしてから書く。書いた後,4人のグループの中でそれを回して読んでみて,お互いに意見交換をして,更に説明が欲しい部分について意見交換をしましょう。もう一度書いてみましょうというようなことをすることによって,ただ先生が集めて,間違っているところを赤ペンで直して,返して,おしまいという作文教育とは全く違う展開になると思う。
そういうような考える力,だれに向かってメッセージを発信するのかということを意識した国語教育があり得るのではないか。となると,そこで大事なのは,やはり考える力ではないかと思う。

   3番目に,「国語教育の重点施策の導入」ということである。私が英語教育の指導などをしていて思うのは,やはり国語教育が学校教育の根幹であるということである。英語教育をやればやるほどそう思うようになってきた。要するに,国語の教育を変えるということは日本の学校教育を変えることになるし,国語教育を良くしなければ絶対に日本の学校教育は良くならない,学校教育はよみがえらないというふうに考えている。
  まず指導法や指導内容がやはり旧態依然だと思う。学習指導要領は大分良くなった,教科書も大分良くなったと雑誌の記事などに最近書かれていて,確かにそう思うが,実際に現場で何をしているかというと,これが非常に旧態依然で,逆行している部分もある。それはなぜかと言うと,国語の時間が減っていることによって余裕がなくなっている。土曜日が休みになったということのゆとりはあるにしても,国語の時間が減っていることによって,今までいろんな活動ができていた先生も活動まではできないという実態が,国語だけでなく,英語の時間にも同じような現象として現れているが,その辺の問題点を感じている。
  それから,改善のための包括的な教育施策というものがやはり足らないような気がする。例えば小学校の国語だけ変えようとしても,やはりある意味では効果的ではなくて,小・中・高の国語,あるいは教育全体の中での国語教育はどうあるべきかというような包括的な見方が必要である。例えば英語の方では,中高の英語教育は良くないので,小学校でも教えられるようにしようという発想があるが,やはり小学校だけで英語教育を良くすることはできないので,小・中・高という流れの中で何をするかということを考える必要がある。
  そういう意味では,国語の時間数をやはり基本的には増やした方がいいのではないかと思うし,増やす価値のある授業展開をしなければいけない。国語の教員になる方々の大学での養成課程のカリキュラムも再検討すべきである。新任の先生はどうしても自分が習った国語の時間をイメージして授業展開をするので,やはり教員養成課程でのプログラムを変えないと,今までと同じものになってしまう。では,今先生になっている方をどうするかということであるが,再教育のプログラムが必要だと思う。文部科学省がやられていて,今は,教員研修センターという独立行政法人がやっている英語教育指導者講座の講習を10年ほどやらせていただいているけれども,前から思っているのだが,どうして英語の先生だけが3週間にわたって研修所に缶詰になって研修しているのか。何で国語の先生の研修はないのかという疑問がある。一貫したカリキュラムを小学校1年生から高校3年生まで作って,それぞれの学年における到達目標,教材内容,指導法,評価方法などについて検討すべきである。指導の内容については,とかく文学なのか,言語なのかという余り意味のない論争が行われている。私は,文学というのは非常に重要な教材になる,コミュニケーションについて考える上でも非常に大切なものだと思うが,同時に,言語を正しく使うということも非常に大切なことだと思っている。だから,そういう無用な二律背反的な議論は避けた方がいいだろうという気がする。
  最近,文部科学省の方では,スーパー・サイエンス・スクールとか,スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・スクールというものを設定しているが,なぜサイエンスとイングリッシュだけなのか。スーパー・国語・スクールというようなものを指定して,研究校等に新しい国語教育ということを考え,実践してもらうというのも是非必要なのではないかと思う。

  余り時間がなくなってきたので,残りは概略だけにするが,他教科との連携はほとんど現状では行われていない。これは学習指導要領の作成者の間でも全くないし,教科書会社の中でもまるでないし,学校の中でもまるでないから,全教科ばらばらに教えているというのが日本の学校教育の実情である。
  例えば,学習指導要領の内容に関しても,国語では「伝え合う力」と言っていて,英語では「伝える力」というふうにわざと違う言葉を使うようにという御指導があったり,そういう何か統一がとれていない教育システム,内容になっていると思う。例えば,社会や理科といった科目をより良く理解するために,国語の中で何をするのかという内容とか言語レベルでの連携というのが私は必要だと考えている。スキルに関しても,英語の方では最近,会話だ,スピーチだ,ディスカッションだというふうに言われるけれども,そういうコミュニケーション上のスキルに関しても,日本語の方でやられていないのに英語の先生にそれをやってくださいというのはやはり問題があるのではないか。スピーチとか,ディべートとか,ディスカッションが国語の教科書の中にも大分出てきているけれども,ほとんどそのページは飛ばされていて,実際の授業の中では教えられていないという国語教育の中身なので,スキルの上でも連携していないと思っている。
  研究者あるいは教育者のレベルで,他の分野,例えば,日本語教育学,コミュニケーション学,英語教育といった分野の方々と国語教育の専門家の方々が連携していく必要性があるし,試験の問題も,暗記国語,受験国語から脱して,もう少しコミュニケーション寄りのテストを導入してはいかがなものかと考えている。中学,高校のレベルで,例えばリスニング試験が国語の試験の中にあってもおかしくない。うちの付属では中学校の国語の入学試験にリスニングが入っているし,国語の時間にディべートをやった学期は,定期試験にディべートに関するリスニング問題を課している。そういうような形で,国語の中でもコミュニケーションの要素を取り入れた試験というものを行えば,学校教育に対してもいい意味での影響を与えることができるのではないかと思う。
  私が今日お話ししたかったポイントは,人間中心の国語教育へ転換していただきたいということと,思考力を重視していただきたい,それから,学校教育の根幹はやはり国語教育であるので,国語教育を重視した教育施策を導入していただいて,他教科,あるいは他分野との連携を是非深めていっていただきたいということである。

(松本茂氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  個人的には言語政策と言語教育政策を分けるというか,意識的に同じに考えないようにしないといけないという御指摘が非常に気になったところである。
  実際に,国語教育を考え,現場でいろいろな経験をしているところで感じていることだが,例えば短歌とか,俳句とか,日本語で言えば文語にかかわる部分の言葉が教育の中で使われていくときに,教科書が悪いのか,教師が悪いのか,よく分からないけれども,関心を持つ子と持たない子に分かれていく。関心を持つ子は間違いなくいるけれども,持たない子もかなりいるわけである。そこで,今のやり方では,どこを標準にして言語教育をしていったらいいのか。つまり,英語なんかの場合は,一応文部科学省の中で議論して,ものすごくできる人間がとにかく必要だから養成していこう,しかし,全員にそれを求めるのは無理だろうというように,かなり割り切って,スーパー・イングリッシュの構想なども出てきていると理解しているが,国語はその辺のところをどこに置くのか。
  今の若者には,「つとに」とか「とみに」とかいう文語系,古典系の言葉はほとんど理解されていない。使わないと,意味も分からない。それでいいのかということは言語政策の話であるけれども,言語教育からいくと,実際上,これは分けないとやりようがないみたいなところがある。だから,ここまでは教えてくれなければ困るよみたいなところをここで発信する必要があるのかどうか,先生のお考えをお伺いしたい。

  古典に関しては,私の記憶が間違いでなければ,基本的には学習しなくても高校は卒業できる。学校ごとの選択になっているのではないかと思うが,いずれにしても,例えば,古典を学校で必修科目扱いにして,全員の生徒に取らせることになった場合,古典を学習することによって,基本的に私たちの生活なり精神なりが豊かになるということを生徒に実感させる展開をしなければいけないと思う。それを,口だけで説明する先生が余りに多い。なぜ古典を学習するか。それは,精神が豊かになるんだ,教養が高まるんだ。どう高まるのか,よく分からないで,生徒は無理やり文法を覚えさせられることになってしまうが,これは英語でも同じで,英語は大事だ,大事だと言っても,どういうふうに大事なのか,生徒は納得しない限り学習はしないし,楽しまないと思うので,やはり古典を子供たちに引き寄せてあげるという作業が必要ではないか,と私はやはり子供中心に考える。
  先に古典ありきではなくて,古典というものを知ったことによって今まで使えなかった言葉が使える。ああ,この言葉はそういう意味だったのか,こういう語源を持っていたのか,こういう人が昔こんな歌を歌っていたのか,今の僕の心情と近いものがあるなとか,そういうふうなことで自分の世界が広がっていくことを生徒たちに実感してもらうことが大事なので,その科目を導入するのであれば,うちの学校の生徒にこんなことを体験してもらいたい,こんなことを感じてもらいたいという教育目標が,最大公約数的にあるのが大切なことではないかと,私は僣越ながら感じている。

  英語の場合は,かつてイギリスではシェイクスピアを教えるかどうかというのがものすごい議論になって,今も続いている。英語はシェイクスピアで完成するわけだから,そこの部分に全然触れなくていいのかという議論をまじめに,かなり国を挙げてやっている。そういう議論を日本でした場合に,今,私が申し上げたこととつながる部分があるのではないか。だから,そこのところは生徒の気持ちも非常に大事だし,それが鍵だと思うが,例えば,これは暗記させろとか,何かそういうものがあった方がいいのではないかという気がしている。その辺りのお考えがあれば,是非お聞きしたいと思ったのである。

  それは義務教育の段階と高校の段階とでは違いがあると思うが,やはりミニマムなレベルというものと教養人としての日本人,あるいはうちの卒業生としての知識・教養という各学校のレベルによって違ってくるかと思うので,私は,基本的には,まず現代的な国語能力が先にあって,そして学校や生徒のレベルに応じて,別の世界,もっと違った世界もあるよということを紹介し,個人の能力なり興味,関心を引いて,自分からそこに入っていくという形のものであっても構わないのではないかと感じている。
  というのは,日本語を使って人間関係をうまく展開していくというような基礎的な訓練なり発想というものが,余りにも国語教育にないものだから,まず先にそういうことをやっていただけたらと思うし,もし古典を使うのであれば,それを材料にして,また自分たちの世界に下ろしてきて,そこで何か活動していくことも考えられると思う。

  私は教育の現場にはほとんど立ったことがなくて,ただ,小説を書くことはかなり長い期間にわたっていろいろ教えたことがある。小説を書くことを教えるという話が出ると,大概,小説などというのは書くことを教えられるのかと言われて,私はそういう議論もあり得るなということは非常によく分かる。そのことは細かく言わないが,ただ小説のような分野でも,やはり基礎的にこういうことはちゃんと押さえておかなければ小説は書けないということがある。書き出しというのは,かぎ括弧で始まるか,あるいは小津安二郎の映画のように,遠景から始まって,ピアノの『猫ふんじゃった』か何かの音が聞こえてきてという情景から入るか,あるいは「人間は考える葦である」とかいう特別な定義を一本ぽんと出して,それから次に入るかとか,幾つか書き出しのパターンみたいなものがあって,どれをやれと言っているのではなくて,こういう書き出しのパターンというのが,古来,小説にはあるんだということを提示する。
  あるいはどの視点で書くのか。「私」という一人称で書くのか,「山田花子さん」という人で書くのか,明智光秀が出てくれば,織田信長の心もみんな分かるという神の視点と言われるもので書くのか,大体小説にはそういうふうに視点の取り方というのがあるのだとか,幾らかそういう技術的なことがあるわけで,先人が今までやってきたいろいろなものがあるわけである。そういうものを教えれば,なるほど,そういうことであったのかということで,そこから先どういう小説を作っていくかというのは,とてもとても教えられるものではない。そういうことを今考えながら,ずっと聞いていたわけである。
  学校教育における国語にも,同じようなことがあるのではないか。ある程度言葉の数は知ってほしいし,その意味を正しく理解してほしい。そして,それをきちっと書けるようになってほしいという教育もある。あるいは詩歌には起承転結というのが一つの考え方としてあって,そういうところから一つの鑑賞法があるとか,ものを考えていく,そのことを本当に会得していくために必要な幾つかの技術というのは,細かい技術から内容的なものにも入っていくような深い技術に至るまであると思うが,そういうものを学校教育というのは丁寧に教えていってくれるものでなければいけないのではないか。
  もちろん,おっしゃるように,思考力,人間中心というのはとても大事なことだけれども,結局,そういうものを踏まえた上で,学校教育であるから,先人が培ってきた技術というものは,正確に,また幅広く教えていくことがとても大切なのではないか。そういうものの上に,そういうものと同時並行的に,思考力,人間中心のコミュニケーションのできるような力を培っていくことが大切だろうと思う。今のお話は正にそういうことをおっしゃっていただいたのだろうと理解したのだが,いかがか。

  先生がおっしゃることは,いわゆる型の問題だと思うが,型をある程度教えて,そこからそれを破って自分のものを作っていくということ。それは基本的に私も同じような考えであるが,型というものが何を基準としているのか,あるいはどういうことを良しとしてできているのかということを考える必要があると思う。なぜかと言うと,英語の世界では,英作文にしろ,英語スピーチにしろ,今まではどちらかと言うと,これがいい型です,これに沿って作りなさい,書きなさいという教え方をしていたが,ここ5年,10年,随分変わってきた。なぜかと言うと,その型が,アングロ・サクソン系の中流の経済的なバックグラウンドを持った,特に男性のプレゼンテーションの仕方に基づいているのではないかというような疑問が生じてきて,ライティングにしても,スピーチメーキングにしても,今はほとんど型を教えない方にアメリカでは流れてきている。
  日本は,ある意味ではかなり均質的な文化に近いものがあるので,私たちが型をある程度守る必要があるのかもしれないが,私がもし国語の教師であれば,先ほどの週末に何をしたかというような作文を書いてもらうときに,三つぐらいの作文,違った種類の作文を提示して,生徒に読んでもらい,どれが良かったか,なぜそれが良かったかを話し合う。そうすると,そこに自分たちが考える作文の善しあしの基準というものが見えてくると思うのである。こっちの方が分かりやすいとか,面白いとか,具体的だとか,そういうものが出てくると思う。そういうときに,話合いの中から自分たちの型を作っていくということが一つのポイントとしてあるのではないか。
  最初に型ありきではなくて,子供たちの中で考える,子供たちが余りに偏った意見でそれを作ってしまったら,例えばおばあちゃんに話すとしたら,ただ面白いだけでいいのかなとか,そういうように先生が投げ込みや問い掛けをしていって,そして,ある程度一般的にも通用するような価値基準というものをクラスの中で作って,じゃあそれに基づいて書いてみよう。そのときに,より面白くするのだったら,土曜日,私は何をしましたという事実をただ書くよりも,1文目はかぎ括弧で「やったあ」と会話文で始めると,次を読んでみようという気になるよねというようなミクロ的な技術に結び付けることができる。その辺で先生の技量というのが出てくると思う。この文は分かりづらいね。どうして分かりづらいのか,みんなで考えてみましょう。分かりやすくするには,これは1文で長いから,2文にした方がいいのかな,あるいは主語を変えてみると分かりやすくなるかもしれないね,というようなミクロに移っていく。そのときには,分かりやすいことが大事であるという価値観をそのクラスで共有したということを前提に授業を展開すれば,生徒主体の授業になると思うのである。
  ところが,「作文というのは分かりやすくなければいけないんです。私の基準からいくと,これは駄目です」という先生の教え方では,多分,大人にはいいかもしれないが,小学生・中学生でこれから小説家になろう,新聞記者になろうというような気持ちのない子は,多分それでめげてしまうと思う。やはり先生が権威になってしまって,先生の気持ちに合わせるような作文を書いていくようになる。よって,思考力も付かない。批判的に,大人の作文なり書いたものを批評できなくなるというのが私の発想なのである。
  だから,型は大事だと思うが,その型をどういうふうに作っていくかということを考えた方がいいと思う。なぜかと言うと,例えば生け花を習いたいときに,草月にするか,小原流にするか。何とか流というのは,自分がそれがあることを知っていて,じゃあこの型を習いたいと言って入っていくが,作文やスピーチなどの型はあるようでない。最初に,ジョークを言いましょうというふうに教えてしまう先生がいるけれども,会社の中で,特に若い女性がジョークからスピーチを始めたらとんでもない騒ぎになってしまう。コミュニケーションというのは,状況とか,相手との関係,自分の役割,いろんな変数が入っていくから,それを考えた上で,だれが読むのか,だれが聞くのか,どういう場なのかということを考えさせることが小学生・中学生には非常に大切である。それを考えると,作文しなさいと言って,だれに向かって書くのか,何のために書くのか,記録として書くのか,何も説明しないで,ただ原稿用紙を配っているのはおかしいと思う。それに疑問も持たずにただ書く子が優秀で,何のためにこれを書くのだろうと考えているうちに30分過ぎてしまう子は優秀でないというのは,どう考えてもおかしい教育だと考えている。

(3)自由討議における意見の要旨
  今のお話は,教育現場の実情を教えていただいたという意味で,非常に貴重であった。
伺っていて,私は放送というセクション,特に報道が長かったものだから,国語教育と記者教育とほとんどリンクして聞いていた。5W1Hなどというのと,ここに出てくる4技能プラス・ワンというのとは正に同じだなという感じで伺っていたが,今の教育の中で,国語だけでなくて,すべての教育が国語教育だというお話がこれまでの会議の中でも何回か出てきたが,特に放送でニュースを伝える者を教育する場合には,原稿は必ず声を出して読むというふうに言っている。これはなぜかと言うと,原稿のまずさをチェックできるということ,それから誤字・脱字など間違った読み方をしているところをチェックできるということ,自分の声が自分の耳に入ってくることによって記憶がそこにしっかりと埋め込まれるということがあるからである。
  私の経験では,非常に悪い状況でお昼のニュースを長くやっていたので,大体,原稿を1回下読みできれば幸せな方であった。スタジオに入って初めて来る1分以上の原稿を,これは50秒の原稿であるということで,読みながらどう削っていくかという作業をしていたので,正に齋藤委員がおっしゃるように,3色ボールペンの価値をよく知っている。すべての教科で,そういうふうに声を出して教科書を読むということが非常に大事だということで,今日改めて意を強くした。

  冒頭で,御自身は美しい日本語に無頓着であるからという前置きをなさって,我々を笑わせてくださるような現状分析をなさった。なぜ松本先生のプレゼンテーションが面白かったのか,美しい日本語ではないということを前提に置いたのか,そこを私どもは考えて,思考力が日本人にないことがベースになって,うまく英語で話すことができないのかということを考えていた。
  先生は日本語でお話しになったが,あのやり方は英語のプレゼンテーションを日本語にしたようなものだと思う。つまりクリティカル・シンキングをして,批判的に,分析的に見て,問題を的確にとらえて,それに対してどうしたらいいかという考えを出して,非常に英語的な話し方をした。だから,美しい日本語ではないと相手を思いやって,何を言うか,言わないかを考えているのではない,という前書きがあったんだと私は思った。
  グローバル社会の中において,日本人が考える力が付いていないというのは一体どういうことなのかというのがなかなかつかめないのであるけれども,私はお話を伺いながら,心理をはっきりさせるためのクリティシズム,アナリシス,その力を付けるということを国語教育の中から大事にしていかなければいけないのではないかと思った。

  コミュニケーション能力の育成という松本先生の御提案と升野先生の発信力というところで考えたことであるけれども,一つは,私は授業観察を小学校でしているが,ごく低学年の子供ですら,一人に当てて朗読しなさいと言うと,か細い声で,しかも泣いてしまう子供もいるということで,大人たちは子供を恥ずかしさと一緒にしつけるというか,恥ずかしさを教えながらしつけていって,いい子にさせていく。それなのに,授業の中で恥ずかしがってはいけないという構造の中で,コミュニケーション能力を育てようとするという,この矛盾が私の中では解決できずにいる。
  もう一つは,コミュニケーション能力は,要するに,コミュニケーションすることによってしか身に付かない。つまり双方向的なやりとりの中で身に付くものであるのに,授業の構造が一方向的なものに偏っている。ふだんの授業観察や息子たちの授業参観の様子を見て,ここの矛盾を一体どうすればいいのかをすごく感じたということである。

  私は最近,心のノートというのを使って,小学校で授業をしたが,私の実感で言うと,今の子供はすごい表現力を持っていると私は思った。私の子供のころに比べたら,問題にならない。各人がちゃんと自分の意見を言う。自分のことを考えると,今の子供の方がよほどよく言うと思うのだけれども,みんなの評判を聞くと,どうも今の子供はむちゃくちゃのように言われるので,そのギャップがちょっと分からない。それから,今の大人はすばらしいが,今の子供は悪いと言うけれども,今の大人は,そうすると,どういう教育を受けてきたのだろう。そんなにすばらしい教育を受けてきたようにも思えないし,この辺のところの矛盾がどうも私には解けないままでいるのである。


(文化庁国語課)

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