文化審議会国語分科会第5回議事要旨 |
(委員) | 北原分科会長,青木,阿刀田,井出,臼井,内館,甲斐,勝方,五味,齋藤,田村,手納,松岡各委員(計13名) |
(文部科学省・文化庁) | 御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,![]() |
1 | 文化審議会国語分科会(第4回)議事要旨(案) |
2 | 文化審議会国語分科会(第1〜4回)における主な意見―事項別整理― |
3 | 平成13年度「国語に関する世論調査」の結果について |
4 | 外来語の使用の増加に対する対応について |
5 | 意見発表者紹介 |
1 | 事務局から,配布資料の確認と配布資料3,4についての説明があった。このうち配布資料4については,国立国語研究所長の甲斐委員から補足説明があった。 | ||||
2 | 前回の議事要旨について確認した。 | ||||
3 | 升野龍男氏(株式会社博報堂法務室長)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。 | ||||
4 | 松本茂氏(東海大学教育研究所教授)から,諮問内容についての意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。 | ||||
5 | 上記3及び4の終了後,自由討議を行った。 | ||||
6 | 次回,第6回分科会は,7月24日(水)の14時から16時30分まで,東海大学校友会館「富士の間」で開催されることが確認された。議題は,有識者ヒアリング(話力総合研究所所長の永崎氏,読書活動を推進している犬飼氏)及び自由討議の予定。 | ||||
7 | 今後の分科会の進め方として,次の2点が了承された。
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8 | 本分科会での意見の要旨は次のとおりである。 |
○ | 私は,生きていく上で重要な力を三つ挙げているが,その中の二つが,段取り力とコメント力というもので,もう一つがまねる,盗む力と考えている。何かを構成していく,あるいは段取っていく力と,国語力というか,言語力の関係についてはどう考えるか。これは,もちろん広告であるから,言葉自体を作り出すことが仕事の段取りになっているわけだが,それ以外に,番組を作るとか,仕事は段取りを組むというのが非常に重要な要素である。学校では割に段取りを鍛えるということは少ないのに,仕事になると急に大事になってしまうわけである。私は学生に教えていて,授業をできるようにさせるのであるが,それも段取りであるけれども,そのことと言語能力というか,こういうコンセプトを作っていく力というのはすごく連動しているという実感がある。その辺の仕事上の段取りを組む力と,コンセプトあるいは言葉を使いこなす力との関係について伺いたいと思う。 |
□ | 仕事の話に近くなるけれども,例えば,「コーヒーは香りの手紙です」。これをコマーシャルに展開するときに何を考えるかと言ったら,ワークデザイン,つまり作業工程を具体的にデザインする。有形化する。どういうふうに最終的なフィルムまで落とし込むかということを考える。そうすると,これに対して視聴者に疑似体験してもらうため,タレントをどうするかとか,すごく具体的に考えていく。それから,コマーシャルソングをどうするのか,ロゴタイプはどうするのか,季節ごとに応じた背景をどうするのかを考える。さらに,ワークデザインであるから,それを最後にオンエアする時までに全部工程を作る。その工程ごとに今の作業を組み立てていくわけである。 |
○ | その組立ては,言葉で文章化というか,チャート化するのか。 |
□ | 大体文章になる。文章化して,工程表を作る。 |
○ | 私は教育関係なので,総合的学習の時間で,何を鍛えればいいかということがテーマになっている。社会に出たときに役立つ力というのが一つの要求なのである。そのときに,そういう仕事の工程をきちんと認識できて言語化できる。そういう力が通常の教科教育だとなかなか身に付かないということで,総合的学習でやろうという流れがある。それに,この広告の全体の仕事が非常に近い感じがしたのである。 |
□ | 文化祭なんかは,お祭りだから,それを使った方がいいと思っている。そういうことが1回体験できると,夏休みのリポートを作るときも,お祭り化できてしまう。アウトプットを途中からイメージできて,そのときに,行程をどうするか,共同作業をどうするかということで,面白くしてしまうのである。苦痛に感じたら絶対に駄目だから,とにかく面白くするために,最初のアウトプットをどれだけビビッドに,きれいなものにしていくかということを考えて,必ずお祭り化していく。そのときの工程デザインをなるべく具体的にする。色をどうするか,言葉をどうするか,表紙をどうするか,を具体的にした方が分かりやすいと思っている。 |
○ | この間,たまたま理科系の方が,実験がうまくいかないことの一つに,実験の段取りが組めない。そのために,言葉で段取りをきちんと示せないということがネックになっているという話があった。 |
□ | 我々のビジネスだと,ナレッジマネージメントという概念があるが,失敗の公開である。失敗をどんどん公開してもらう。今の環境だと,ほとんどコンピュータでできるから,コンピュータの中にデータベースを設定して,公開可能な様々な失敗の例を全部実名で出してもらう。それを幾つか見ると,どこで失敗したか,分かるようにしてしまうのである。それを具体的にやっている。そうすると,こういうことをやったらうまくいかないというのが分かるから,その工程をこうした方がいいというサブシステムができる。今のビジネスレベルでは,そういうことをやっているが,教育もそういう方向をとった方が面白いのではないか。コンピュータをうまく使うと,非常によくできる。私はコンピュータの専門家ではないけれども,注文を付けるのである。こんなことできないかと,どんどん言っていけば,必ずできるようになるのである。 |
○ | テレビのドラマを作っていると,やはり共通するところが一杯あって,できるだけ受信者側に立つとうまく当たる。なかなか当たらないことが多いが…。今,伺っていて,本当に前から気になるのであるけれども,意思表示があいまいになり過ぎていると思う。 先ほど,「○○させていただく」「○○とかが」「○○じゃないですか」というのが出ていたが,最近もっと激しくなって,とにかくだれが何を言っているのか,突っ込まれないように,例えば「こちら,おつりの方になっております」,見れば分かりますよ,おつりだってと言いたいが,「こちらコーヒーの方になっております」とか,「蓋の方を取ってください」とか,何で日本人がこうなったのかなという気がするのであるけれども,そういう人たちに対して,コマーシャルを作るときにずばっと言い切ることは,かえっていい結果が出るのではないか。 |
□ | それはある。コンセプトを対抗概念という意識で作る場合があって,そういうひどい文化があるとすると,そこに対してずばっと言うと効く,強い反応をしてくれる人がいたら,そこを計算してやる場合がある。それから,「それは英語では通用しない」という言い方もできる。「こちらの方がどうですか」とか「○○とかが」というのは英語に翻訳できない。だから,英語の文化をぱっと入れると,若い人は結構反応する。「それは英語になりませんよ。違う言い方をしないと,通じませんよ。英語とコンピュータはパスポートですから,あなたの使っている概念は使えませんよ」と言うと,結構反応するのである。 |
○ | 例えば,「2月とかって,やっぱあ,寒いじゃないですかあみたいなぁ」,2月は寒いと言えと思うのであるが,「やっぱ,2月とかって,雪とか降ったりして,電車とか止まっちゃったりすることって,あるじゃないですかぁ。私的にはぁ,歩いたりするのとかって,やでぇえ」と,私にしゃべらせれば1時間でも若者言葉ができるのであるけれども,本当に腹が立つ。ところが,面白いのは,恐らく若い人が一番ずしっと来る言葉というのは,「闘争心」という資料の冒頭にあった「失った10年を振り返るのはやめ,創り出す10年へ力強く踏み出そう」。これが恐らく一番ずしっと来るなと思って読んでいたのである。「冬とかって,寒いじゃないですかみたいなぁ」と言っている人たちが,意外と「失った10年は振り返っても意味ないんだ,あしたを向け」というようなことを言われると,突然前向きになって力が出たりするのである。そこら辺をドラマで生かして時々やってはいるのだけれども。今回のお話は大変面白く,私は,これから少しまじめにコマーシャルを見ようと思った。 |
□ | いろいろあるので,現実の広告表現は玉石混淆であるけれども,一つの方向性として真剣に我々が考えているのは価値創造である。 |
○ | 最近は,世代方言と考えてもよいものもあるのではないかというお話があったが,これは私どもの研究所でもやっていて,例えばおじさん言葉とか,方言の中でも50代になってやっと使える言葉というのもある。40代の若い人が使うと,まだ若い,それは似合わないというような言葉もあって,おっしゃるところは,これからもっと研究,調査していくべきことだというふうに思っている。 私が,今日のお話で,これは大事だと思ったのは,「国語「力」の構成要素」というところである。文部科学省も,国語の力で何が大切かというときに,ここら辺りを非常に重視していて,自分で問題を見付け,自分で考えるということ,それから,人に伝えるということを考えている。「しもまいど」というのは,初めてお伺いして,こういうのも国語力の要素として考えていく必要があるのだなと思った。発信力,受信力という辺りも国語の教科の中ではできるだけ力を育てていって,先ほど出た総合的な学習の時間では,国語が全体を支える,骨組みを支える教科だと思っているものだから,そちらへ進めるように私どもも努力したいと考えている。 |
□ | この部分は,実はコピーライティングのテクニックの部分と法律の部分と両方合わさっている。コピーライティングの部分は,こういうふうにしないとコピーライターは養成できない。コピーライターの要素というのは,基本的に,聞いてそれをより良い言葉で伝えていくということが重要なので,この技術,つまり日本語の同時通訳力がないとできないのである。 もう一つ,法律の場合だと,日本の法律はそうでもないが,アメリカの場合だと,よく映画でディベートの場面が登場する。あそこではこの技術がないと勝てないのである。特に刑事的な裁判はそうでもないが,民事的な裁判というのは,受け手の感じが非常に強い。そこで,このプレゼンテーション能力がないと勝てない。負けてもいい方は構わないが,国際化になったら,この技術がないととんでもないことが起こる。裁判もそうだが,契約の概念でこれが欠落していると,とんでもない対価を負ってしまうということが現実にある。そういう意味でも,国際化を考えた場合に,基本的なものとしてこの部分を強めないと駄目である。日本人であることが世界に通用しなくて,また「日本人とか」が言っているみたいになってしまうのが一番怖いという感じがする。 |
○ | 幾つか質問があるが,まず,言葉で価値を作り出していらっしゃる中で,現在ある日本語で足りているのかどうか。いろいろな物の見方が変わってきたという中で,新しい言葉を作る必要があるのか,そういうことは全然なく,今までの日本語をきちんと使う中で必要なメッセージが伝えられるのかどうか。 それから,列島全部が標準語ということで,方言とか昔からの言い回しが少なくなることは,ある意味では本当に怖いことだと思っている。ヨーロッパなどでも,例えばオランダやベルギーの辺りだと,方言が幾つかあったのがもう使われなくなって,本当に消えていくこともあるらしい。しかし,例えば近畿地方の言葉というのは,ずっと昔から日本の首都であったことから,みんなが分かるような言葉がいろいろあるけれども,その辺も考えて,方言をどのような形で現代の日本が処遇すべきかということである。 あと「技術者の言葉」は大変な感動を持って拝見した。「「成果主義」から「ビジョン設定・追求主義」へ。成果は後から付いてくる。」というのを拝見したときに思い出したのは,黒ネコヤマトの小倉さんがいつも「サービスが先,利益は後から付いてくる」とおっしゃっていたことで,これは本当にそのとおりだと思って,大変うれしく感じた。 |
□ | 最初の方,新語は必要だと思う。環境が変わった場合には違う文化と出会うので,特にそれが必要である。例えば環境破壊について我々が慣れていなかったら,新たな考え方やルールを導入していくということが必要で,例えばISOの問題でもそういうことでやらないと新しい概念に対応できない。ただ,全部が新しい概念でやる必要があるかというと,そうでもなくて,昔から我々が持っている概念をより良く使うことも必要だと思う。だから,新しい概念は必要であるが,我々が持っていた昔の概念を当てはめてもいいのかなと思っている。 もう一つ,方言の処遇の問題であるけれども,これは先ほど申し上げたデジタルアーカイブということで,どんどんストックする技術が非常に強くあるから,それに収納していくということを国レベル,学校レベルでもやった方がいいと思っている。ただ,その部分を取り出す仕方をうまく考えないと,ストックしても死蔵されてしまうので,どうやって引いたらいいかというソフトウエアが必要だと思う。そして,それが非常に面白いソフトウエアになっているということが重要だと考えている。 「技術者の言葉」は,今後ともどんどん収集して,世の中に発表していった方がいいと思っている。成果主義というのは一ころはやったが,その場合,目標を下げてしまったら成果は上がるわけだから,とんでもないことになる。そういう意味では,やはりビジョンを設定して,ビジョンを追求していくという夢を追っていく方がいいと思う。そういう,技術革新を成し遂げた方々の新しい言葉を集める努力をどんどんしていったらいいと考えている。 |
○ | 二つある。一つは,広告というのはやはり文化なのかということと,それが文化だとすると,恐らく日本固有のものというのがあり得るだろうと思うので,日本の広告は,世界の広告の中で特徴があるのかどうか。その2点である。 |
□ | 文化的要素が非常に強いと思っている。日本の広告の固有性があるすると,同一言語をしゃべっている部分があるから,欧米と比べて説明が非常に少ない。これには問題がないわけではない。新しい商品が出たときにメリットをうまく伝えられないという部分があったり,イメージだけでいくと,大量のコマーシャルメッセージを出すところの方が有利になったりしてしまう。そこについては,メリットを消費者にうまく伝えていく,受け取り側にうまく伝えていくという作業がもっと必要な時代環境に入ってくると考えている。 もう一つ,日本人は同一言語をしゃべるが,もともとは多民族だと思う。そこの部分をもっと意識しなければならない部分が強くなっていくと思う。例えば,ブラジルから来た方々も一杯いらっしゃるし,いろんな民族の方がどんどん増えている。そのときに,今のメッセージでいいのかということは,非常に疑問である。例えばアメリカで比較広告があるのは,実は多民族であるから,比較しないと分からないこともある。日本では比較しなくても分かってしまうが,そろそろそういう部分でうまい比較をしながらメリットを出していく,生活価値を出していくという必要も増大してきていると思う。 だから,広告というのは環境が大きく変わっている時代環境に入ってきていると思う。それを意識しないと,昔のままの作業になってしまう。それは,新しい生活の価値を生まないという危機意識も持っている。 |
○ | 個人的には言語政策と言語教育政策を分けるというか,意識的に同じに考えないようにしないといけないという御指摘が非常に気になったところである。 実際に,国語教育を考え,現場でいろいろな経験をしているところで感じていることだが,例えば短歌とか,俳句とか,日本語で言えば文語にかかわる部分の言葉が教育の中で使われていくときに,教科書が悪いのか,教師が悪いのか,よく分からないけれども,関心を持つ子と持たない子に分かれていく。関心を持つ子は間違いなくいるけれども,持たない子もかなりいるわけである。そこで,今のやり方では,どこを標準にして言語教育をしていったらいいのか。つまり,英語なんかの場合は,一応文部科学省の中で議論して,ものすごくできる人間がとにかく必要だから養成していこう,しかし,全員にそれを求めるのは無理だろうというように,かなり割り切って,スーパー・イングリッシュの構想なども出てきていると理解しているが,国語はその辺のところをどこに置くのか。 今の若者には,「つとに」とか「とみに」とかいう文語系,古典系の言葉はほとんど理解されていない。使わないと,意味も分からない。それでいいのかということは言語政策の話であるけれども,言語教育からいくと,実際上,これは分けないとやりようがないみたいなところがある。だから,ここまでは教えてくれなければ困るよみたいなところをここで発信する必要があるのかどうか,先生のお考えをお伺いしたい。 |
□ | 古典に関しては,私の記憶が間違いでなければ,基本的には学習しなくても高校は卒業できる。学校ごとの選択になっているのではないかと思うが,いずれにしても,例えば,古典を学校で必修科目扱いにして,全員の生徒に取らせることになった場合,古典を学習することによって,基本的に私たちの生活なり精神なりが豊かになるということを生徒に実感させる展開をしなければいけないと思う。それを,口だけで説明する先生が余りに多い。なぜ古典を学習するか。それは,精神が豊かになるんだ,教養が高まるんだ。どう高まるのか,よく分からないで,生徒は無理やり文法を覚えさせられることになってしまうが,これは英語でも同じで,英語は大事だ,大事だと言っても,どういうふうに大事なのか,生徒は納得しない限り学習はしないし,楽しまないと思うので,やはり古典を子供たちに引き寄せてあげるという作業が必要ではないか,と私はやはり子供中心に考える。 先に古典ありきではなくて,古典というものを知ったことによって今まで使えなかった言葉が使える。ああ,この言葉はそういう意味だったのか,こういう語源を持っていたのか,こういう人が昔こんな歌を歌っていたのか,今の僕の心情と近いものがあるなとか,そういうふうなことで自分の世界が広がっていくことを生徒たちに実感してもらうことが大事なので,その科目を導入するのであれば,うちの学校の生徒にこんなことを体験してもらいたい,こんなことを感じてもらいたいという教育目標が,最大公約数的にあるのが大切なことではないかと,私は僣越ながら感じている。 |
○ | 英語の場合は,かつてイギリスではシェイクスピアを教えるかどうかというのがものすごい議論になって,今も続いている。英語はシェイクスピアで完成するわけだから,そこの部分に全然触れなくていいのかという議論をまじめに,かなり国を挙げてやっている。そういう議論を日本でした場合に,今,私が申し上げたこととつながる部分があるのではないか。だから,そこのところは生徒の気持ちも非常に大事だし,それが鍵だと思うが,例えば,これは暗記させろとか,何かそういうものがあった方がいいのではないかという気がしている。その辺りのお考えがあれば,是非お聞きしたいと思ったのである。 |
□ | それは義務教育の段階と高校の段階とでは違いがあると思うが,やはりミニマムなレベルというものと教養人としての日本人,あるいはうちの卒業生としての知識・教養という各学校のレベルによって違ってくるかと思うので,私は,基本的には,まず現代的な国語能力が先にあって,そして学校や生徒のレベルに応じて,別の世界,もっと違った世界もあるよということを紹介し,個人の能力なり興味,関心を引いて,自分からそこに入っていくという形のものであっても構わないのではないかと感じている。 というのは,日本語を使って人間関係をうまく展開していくというような基礎的な訓練なり発想というものが,余りにも国語教育にないものだから,まず先にそういうことをやっていただけたらと思うし,もし古典を使うのであれば,それを材料にして,また自分たちの世界に下ろしてきて,そこで何か活動していくことも考えられると思う。 |
○ | 私は教育の現場にはほとんど立ったことがなくて,ただ,小説を書くことはかなり長い期間にわたっていろいろ教えたことがある。小説を書くことを教えるという話が出ると,大概,小説などというのは書くことを教えられるのかと言われて,私はそういう議論もあり得るなということは非常によく分かる。そのことは細かく言わないが,ただ小説のような分野でも,やはり基礎的にこういうことはちゃんと押さえておかなければ小説は書けないということがある。書き出しというのは,かぎ括弧で始まるか,あるいは小津安二郎の映画のように,遠景から始まって,ピアノの『猫ふんじゃった』か何かの音が聞こえてきてという情景から入るか,あるいは「人間は考える葦である」とかいう特別な定義を一本ぽんと出して,それから次に入るかとか,幾つか書き出しのパターンみたいなものがあって,どれをやれと言っているのではなくて,こういう書き出しのパターンというのが,古来,小説にはあるんだということを提示する。 あるいはどの視点で書くのか。「私」という一人称で書くのか,「山田花子さん」という人で書くのか,明智光秀が出てくれば,織田信長の心もみんな分かるという神の視点と言われるもので書くのか,大体小説にはそういうふうに視点の取り方というのがあるのだとか,幾らかそういう技術的なことがあるわけで,先人が今までやってきたいろいろなものがあるわけである。そういうものを教えれば,なるほど,そういうことであったのかということで,そこから先どういう小説を作っていくかというのは,とてもとても教えられるものではない。そういうことを今考えながら,ずっと聞いていたわけである。 学校教育における国語にも,同じようなことがあるのではないか。ある程度言葉の数は知ってほしいし,その意味を正しく理解してほしい。そして,それをきちっと書けるようになってほしいという教育もある。あるいは詩歌には起承転結というのが一つの考え方としてあって,そういうところから一つの鑑賞法があるとか,ものを考えていく,そのことを本当に会得していくために必要な幾つかの技術というのは,細かい技術から内容的なものにも入っていくような深い技術に至るまであると思うが,そういうものを学校教育というのは丁寧に教えていってくれるものでなければいけないのではないか。 もちろん,おっしゃるように,思考力,人間中心というのはとても大事なことだけれども,結局,そういうものを踏まえた上で,学校教育であるから,先人が培ってきた技術というものは,正確に,また幅広く教えていくことがとても大切なのではないか。そういうものの上に,そういうものと同時並行的に,思考力,人間中心のコミュニケーションのできるような力を培っていくことが大切だろうと思う。今のお話は正にそういうことをおっしゃっていただいたのだろうと理解したのだが,いかがか。 |
□ | 先生がおっしゃることは,いわゆる型の問題だと思うが,型をある程度教えて,そこからそれを破って自分のものを作っていくということ。それは基本的に私も同じような考えであるが,型というものが何を基準としているのか,あるいはどういうことを良しとしてできているのかということを考える必要があると思う。なぜかと言うと,英語の世界では,英作文にしろ,英語スピーチにしろ,今まではどちらかと言うと,これがいい型です,これに沿って作りなさい,書きなさいという教え方をしていたが,ここ5年,10年,随分変わってきた。なぜかと言うと,その型が,アングロ・サクソン系の中流の経済的なバックグラウンドを持った,特に男性のプレゼンテーションの仕方に基づいているのではないかというような疑問が生じてきて,ライティングにしても,スピーチメーキングにしても,今はほとんど型を教えない方にアメリカでは流れてきている。 日本は,ある意味ではかなり均質的な文化に近いものがあるので,私たちが型をある程度守る必要があるのかもしれないが,私がもし国語の教師であれば,先ほどの週末に何をしたかというような作文を書いてもらうときに,三つぐらいの作文,違った種類の作文を提示して,生徒に読んでもらい,どれが良かったか,なぜそれが良かったかを話し合う。そうすると,そこに自分たちが考える作文の善しあしの基準というものが見えてくると思うのである。こっちの方が分かりやすいとか,面白いとか,具体的だとか,そういうものが出てくると思う。そういうときに,話合いの中から自分たちの型を作っていくということが一つのポイントとしてあるのではないか。 最初に型ありきではなくて,子供たちの中で考える,子供たちが余りに偏った意見でそれを作ってしまったら,例えばおばあちゃんに話すとしたら,ただ面白いだけでいいのかなとか,そういうように先生が投げ込みや問い掛けをしていって,そして,ある程度一般的にも通用するような価値基準というものをクラスの中で作って,じゃあそれに基づいて書いてみよう。そのときに,より面白くするのだったら,土曜日,私は何をしましたという事実をただ書くよりも,1文目はかぎ括弧で「やったあ」と会話文で始めると,次を読んでみようという気になるよねというようなミクロ的な技術に結び付けることができる。その辺で先生の技量というのが出てくると思う。この文は分かりづらいね。どうして分かりづらいのか,みんなで考えてみましょう。分かりやすくするには,これは1文で長いから,2文にした方がいいのかな,あるいは主語を変えてみると分かりやすくなるかもしれないね,というようなミクロに移っていく。そのときには,分かりやすいことが大事であるという価値観をそのクラスで共有したということを前提に授業を展開すれば,生徒主体の授業になると思うのである。 ところが,「作文というのは分かりやすくなければいけないんです。私の基準からいくと,これは駄目です」という先生の教え方では,多分,大人にはいいかもしれないが,小学生・中学生でこれから小説家になろう,新聞記者になろうというような気持ちのない子は,多分それでめげてしまうと思う。やはり先生が権威になってしまって,先生の気持ちに合わせるような作文を書いていくようになる。よって,思考力も付かない。批判的に,大人の作文なり書いたものを批評できなくなるというのが私の発想なのである。 だから,型は大事だと思うが,その型をどういうふうに作っていくかということを考えた方がいいと思う。なぜかと言うと,例えば生け花を習いたいときに,草月にするか,小原流にするか。何とか流というのは,自分がそれがあることを知っていて,じゃあこの型を習いたいと言って入っていくが,作文やスピーチなどの型はあるようでない。最初に,ジョークを言いましょうというふうに教えてしまう先生がいるけれども,会社の中で,特に若い女性がジョークからスピーチを始めたらとんでもない騒ぎになってしまう。コミュニケーションというのは,状況とか,相手との関係,自分の役割,いろんな変数が入っていくから,それを考えた上で,だれが読むのか,だれが聞くのか,どういう場なのかということを考えさせることが小学生・中学生には非常に大切である。それを考えると,作文しなさいと言って,だれに向かって書くのか,何のために書くのか,記録として書くのか,何も説明しないで,ただ原稿用紙を配っているのはおかしいと思う。それに疑問も持たずにただ書く子が優秀で,何のためにこれを書くのだろうと考えているうちに30分過ぎてしまう子は優秀でないというのは,どう考えてもおかしい教育だと考えている。 |
○ | 今のお話は,教育現場の実情を教えていただいたという意味で,非常に貴重であった。 伺っていて,私は放送というセクション,特に報道が長かったものだから,国語教育と記者教育とほとんどリンクして聞いていた。5W1Hなどというのと,ここに出てくる4技能プラス・ワンというのとは正に同じだなという感じで伺っていたが,今の教育の中で,国語だけでなくて,すべての教育が国語教育だというお話がこれまでの会議の中でも何回か出てきたが,特に放送でニュースを伝える者を教育する場合には,原稿は必ず声を出して読むというふうに言っている。これはなぜかと言うと,原稿のまずさをチェックできるということ,それから誤字・脱字など間違った読み方をしているところをチェックできるということ,自分の声が自分の耳に入ってくることによって記憶がそこにしっかりと埋め込まれるということがあるからである。 私の経験では,非常に悪い状況でお昼のニュースを長くやっていたので,大体,原稿を1回下読みできれば幸せな方であった。スタジオに入って初めて来る1分以上の原稿を,これは50秒の原稿であるということで,読みながらどう削っていくかという作業をしていたので,正に齋藤委員がおっしゃるように,3色ボールペンの価値をよく知っている。すべての教科で,そういうふうに声を出して教科書を読むということが非常に大事だということで,今日改めて意を強くした。 |
○ | 冒頭で,御自身は美しい日本語に無頓着であるからという前置きをなさって,我々を笑わせてくださるような現状分析をなさった。なぜ松本先生のプレゼンテーションが面白かったのか,美しい日本語ではないということを前提に置いたのか,そこを私どもは考えて,思考力が日本人にないことがベースになって,うまく英語で話すことができないのかということを考えていた。 先生は日本語でお話しになったが,あのやり方は英語のプレゼンテーションを日本語にしたようなものだと思う。つまりクリティカル・シンキングをして,批判的に,分析的に見て,問題を的確にとらえて,それに対してどうしたらいいかという考えを出して,非常に英語的な話し方をした。だから,美しい日本語ではないと相手を思いやって,何を言うか,言わないかを考えているのではない,という前書きがあったんだと私は思った。 グローバル社会の中において,日本人が考える力が付いていないというのは一体どういうことなのかというのがなかなかつかめないのであるけれども,私はお話を伺いながら,心理をはっきりさせるためのクリティシズム,アナリシス,その力を付けるということを国語教育の中から大事にしていかなければいけないのではないかと思った。 |
○ | コミュニケーション能力の育成という松本先生の御提案と升野先生の発信力というところで考えたことであるけれども,一つは,私は授業観察を小学校でしているが,ごく低学年の子供ですら,一人に当てて朗読しなさいと言うと,か細い声で,しかも泣いてしまう子供もいるということで,大人たちは子供を恥ずかしさと一緒にしつけるというか,恥ずかしさを教えながらしつけていって,いい子にさせていく。それなのに,授業の中で恥ずかしがってはいけないという構造の中で,コミュニケーション能力を育てようとするという,この矛盾が私の中では解決できずにいる。 もう一つは,コミュニケーション能力は,要するに,コミュニケーションすることによってしか身に付かない。つまり双方向的なやりとりの中で身に付くものであるのに,授業の構造が一方向的なものに偏っている。ふだんの授業観察や息子たちの授業参観の様子を見て,ここの矛盾を一体どうすればいいのかをすごく感じたということである。 |
○ | 私は最近,心のノートというのを使って,小学校で授業をしたが,私の実感で言うと,今の子供はすごい表現力を持っていると私は思った。私の子供のころに比べたら,問題にならない。各人がちゃんと自分の意見を言う。自分のことを考えると,今の子供の方がよほどよく言うと思うのだけれども,みんなの評判を聞くと,どうも今の子供はむちゃくちゃのように言われるので,そのギャップがちょっと分からない。それから,今の大人はすばらしいが,今の子供は悪いと言うけれども,今の大人は,そうすると,どういう教育を受けてきたのだろう。そんなにすばらしい教育を受けてきたようにも思えないし,この辺のところの矛盾がどうも私には解けないままでいるのである。 |