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国語分科会

2002/06/18議事録
文化審議会国語分科会第4回議事要旨


文化審議会国語分科会第4回議事要旨

平成14年6月18日(火)
午後2時〜5時
東條会館新館「千鳥の間」

〔出席者〕
  (委員) 北原分科会長,青木,阿,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,工藤,小林,五味,舘野,田村,手納,西尾,三田各委員(計16名)
  (文部科学省・文化庁)   池坊文部科学大臣政務官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,山国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
  1―1   子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画案(概要)
  1―2   子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(案)
  1―3   子どもの読書活動の推進に関する法律
  2 文化審議会国語分科会(第3回)議事要旨(案)
  3 文化審議会国語分科会(第1,2,3回)における主な意見―事項別整理―
  4 意見発表者紹介

〔経過概要〕
  1   事務局から,配布資料の確認と配布資料2〜4についての簡単な説明があった。
  2   前回の議事要旨について確認した。
  3   配布資料1―1から1―3について,文部科学省スポーツ青少年局青少年課の関課長より説明があった。その後,委員に対し,この件に関しての意見聴取が行われた。
  4   西尾珪子氏(社団法人国際日本語普及協会理事長)から,諮問内容について意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  5   浮川和宣氏(株式会社ジャストシステム代表取締役社長)から,諮問内容について意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  6   上記4及び5の終了後,自由討議を行った。
  7   次回,第5回分科会は,7月10日(水)の14時から2時間程度,東海大学校友会館「富士の間」で開催されることが確認された。議題は,有識者ヒアリング(株式会社博報堂の升野氏,東海大学教育研究所教授の松本氏)及び自由討議の予定。
  8   本分科会での意見の要旨は次のとおりである。

(1) 「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(案)」についての質問及び意見の概要(○は委員,□は青少年課長,◎は大臣政務官を示す。))

  家庭・地域における子供の読書活動の推進とあるが,ここの主体は何か。国がやるということなのか,それとも自由に任せるということなのか。

  家庭・地域における主体は,家庭においては,親,保護者等であり,地域においては,地域の図書館,あるいは読み聞かせも含めて地域にある様々な民間の団体など,地方公共団体も含めたものであると考えている。この計画案では,家庭や地域においてそのような活動が行われるように,国として,市町村などが実施する家庭教育に関する講座等に支援を行っていくということである。

  私が分からなかったのは,「促す」とか「促進する」とかと書いてあるが,だれが促すのかということである。家庭や先生というのは促される方ではないか。「国が」というのはそのとおりだと思うが,どういうふうに国が促すのか。例えば,「教員,保育士,保護者等の理解を促進する」とあるが,教員の理解を促進するのはだれなのか。国だと言えばそれでいいのだけれども,国はどういうふうにやるのか。

  この計画は,だれがだれに向かって言っているのかが不明確である。金を出したり,施設を作ったりするのは,国や地方公共団体でできるが,「促す」とか,「推進する」とか,「…ということが望まれる」とか,そういうのは一体国がやるのか,どうするのか。国語の問題として言えば,主語が明確でないということだが,役所の法律や基本計画なるものはかなりこういう傾向があるのではないかと思っている。

  この計画は,法律に基づいて,政府が施策の総合的かつ計画的な推進を図るためのものである。最終的には閣議決定をするが,言わば政府としてどういう施策を講じていくのかということについての計画である。そういう意味で,ここで行っていこうという内容については,政府として,特に文部科学省が中心となるが,施策として行っていく,その基本的な方向性を定めていくものである。
  計画の中に書かれている「促していく」というのは,国として,図書館の重要性などについての啓発・指導を行ったり,様々な施策を通じて,地方公共団体に対して促していくということである。実施をしていくのは,それぞれの地方公共団体が計画を作ったり,具体的な施策を実施していくということで考えている。
  それから,「望まれる」とか「期待される」というところについては,例えば家庭において行われるものについて,国が親に対して,直接こうしなさい,ああしなさいと言うわけにはいかないので,まず,そういった活動が望まれるという言い方をした上で,具体的な施策として,例えば家庭教育について言えば,家庭の役割として「読書に対する興味や関心を引き出すように子どもに働きかけることが望まれる」ということを言った上で,具体的には市町村が実施する講座や機会の提供を通じて,その重要性についての理解の促進を図る。また,「家庭教育手帳」は国が作って配布をしているけれども,そういったものの中で,重要性についての理解の促進を図るというような考え方である。

  例えば,「「朝の読書」や読み聞かせなどの取組を一層普及させる」とあるが,この主語は国と考えていいのか。つまり主語のないものはすべて国と考えていいのか。

  国として,政府として,こういう方向で進めていくということである。

  「子ども」というのは,高校生までというふうに解釈してよいのか。

  「子ども」については,法律の第2条で「おおむね18歳以下の者をいう」と定義されているので,それを前提とした考え方で整理してある。

  全体の印象としては,小学生に重きが置かれているような気がする。小学生は比較的本を読んでいると思うが,中学生,高校生となるに従って読書量が低くなっていく。可能であれば,中学生,高校生についての具体策が示されるといいと思う。
  それと,地方交付税は,例えば東京23区のように比較的財政豊かなところには支給されない。私の学校でも区から来る予算は年々削られていて,そういう中でいろいろやりくりしても40万円から50万円程度しか図書費に回せない。地方交付税が交付されていない地域ではかなり乏しい財政の中でやりくりして,図書費が足りないという実態があることは確かであるので,何らかの措置が取れるようなら,お願いしたい。

  子供の読書活動の推進がどのように大事なことであるのかとか,どのような読み方をしてほしいのかというような目に見える具体的なものが,ここには出てきていないと思う。ここに書いてあることは全部本当のことであるが,例えば,子供たちが学校の学習の重責から離れてこそ本を読めるとか,図書館が子供たちにとって本当に行きやすく使いやすい役目を果たしているかとか,運用や内容にもっと光を当てた,こうあってほしいというビジョンが見えるようなものになればいいと思う。
  現在,私どもの周りでも本はどんどん増えていて,家庭の中での蔵書にも限界があるので,大人でも,本をどこでどうやって読むかについては頭を使わなければいけなくなっている。また子供の時代に読んでほしい本というのもあると思う。そういうふうなものは,この計画のどこかに書いてあるのかもしれないが,欠くべからざる何かというような形でのイメージが出るようなもの,それに沿って子供の将来や考え方にこのような効果があるというようなことまでも,本当は入った方がいいのではないか。今の計画ではインフラだけに片寄っているような感じがする。

  どういった本をということについては,法律の中に「子どもの健やかな成長に資する書籍等の提供に努めるものとする」という規定があって,国会の議論においても,どういうものを提供していくかということは,それぞれの事業者の自主的な判断に基づくものであろうということで随分議論もされている。そういう意味で,例えば学校においてどういったものを取り上げるかということは,それぞれ学校の中でいろんな目標なりがあろうかと思うし,民間の団体でも推薦図書のリストを作ったり,あるいは公立の図書館でもそういった活動をしたり,様々な形で行われているので,それらを通じて行われていくのではないかと思っている。この法律においては,自主的な読書活動を行うことができるように環境の整備を推進するというところに重きを置いているので,その点を特に重視して,政府としての計画案を作っているところである。
  それから,地方交付税の話であるが,地方交付税措置においては,積算の基礎の中で一定のものを入れていて,標準的にかかる経費として,こういった図書資料の整備のための費用を積算しているということである。その標準的な経費と自治体ごとの収入とを照らし合わせたときに,不足分については交付税で配分するという仕組みになっているので,特に裕福な地方公共団体においては,それぞれの財政状況の中で,学校図書館の図書についての整備も行われていくというふうに考えている。

  最近,「「ゆめ基金」をいただいたので,是非話しに来てください」という話が非常に増えた。今まで,講演などの依頼を受けたときには,私が伺って,図書館やその地域の読み聞かせのグループとか,子供の本の研究会とか,地域の人たちとかが話をただ聞いてくださるだけだったが,去年くらいから,そういうときに,図書館やそういうグループなどが学校や皆さんに呼び掛けて,みんなが発表する場を持つようになったのである。私の場合,例えば,僕は小学校の詩の朗読をしたい,私は中学校の詩を朗読したいという人が,私の話の前に,第1部,第2部の第1部として,自分で朗読したり,親たちと一緒に朗読したりして,みんなに聞いてもらう場が作られている。
  ただ単にだれかを呼んでお話を聞くというだけではなくて,その場をみんなで生かすやり方に変わっている。その分,大変楽しい。子供たちからは,やはり大勢の前で暗記して朗読をする,あるいは大人と一緒に群読のようなことをやるということで,それ以後,大変に朗読好きになったり,詩が好きになったりしたというお手紙をいただいている。
  その上で,自分があちこち行くものだから,「あちらではこうやっていましたよ」とか「こちらではこうなんですか」というように言って歩いている。そうすると,「じゃ今度うちでもそれをやってみようかな」ということになったりしているので,具体的に,ここではこんなものを作り上げているというような情報がインターネットなどで分かると,なお取組が広がるのではないかと思う。

  この法律を読んでも,非常に羅列的で,日本語としてよく分からない。「目的」の部分を見てもそうである。こういう公用文書の分かりにくさが,この文章には非常に表れているが,全体を見ると,形だけで,お金さえ付ければ,目的が達成できると思っているのではないかという具合に思えて仕方がない。それと具体策が非常に少ない。頼るのは親であり,先生であり,民間団体でありということだけれども,その親や先生をどうやって指導するのかということについての基本的な姿勢がなければ,この目的というのはほとんど達成できないで,ただ出版社の本をたくさん買って,図書館を充実するだけとなってしまうような感じがする。

  計画案では,相当の分量で,学校図書館の整備と充実ということが書かれているが,学校は小・中・高とあって,実態が相当違うので,図書館,人的な問題,蔵書冊数の問題,施設の問題,具体的なプランとしては,小・中・高と少し実態を調査して,分けて出していった方がいいかなというふうに感じた。

  今のお話を伺っていると,インフラの資金ではなくて,活動資金みたいなものを手当てすることがあってもいいのかなという感じがある。ムードを醸成してブームを起こす。ブームが起きてきたら,方法なんかなくても読書が盛んになってくると思う。図書の選奨委員会をいろんなところに作って,どの本がいいかを大人が考えて子供が読むとか,そのようなことを市町村レベルで基本計画として立てればいいのかなと考えたりした。

  これは議員立法で作った法律で,私もこれに尽力してきた。特に,子供の読書活動等のプロジェクトチームの座長として,2年間にわたって,読書がどんなにすばらしいかということを全国で言って回ってきて,今日を迎えたわけである。
  今,いろんなお話があったが,パブリックコメントをこれから求めるので,皆様方から忌憚ない御意見を言っていただければ,反映できるようにしたいと思う。それから,具体例を入れたらどうかということについては,これは政府が,特に文部科学省が中心となって出す基本計画であって,これを見て,それぞれの地方自治体が基本計画をお作りになる。皆さん,政府の基本計画を参考にして,それぞれ特色あるものを織り込んで作りたいと思っていらっしゃる。その中には,数値や具体例を入れるところもあると思うので,むしろそれはそれぞれの地域に任せた方がいいのではないかと私は思っている。
  ムードを作ってブームを起こすというお話もあったが,文部科学省では,例えば「朝の10分間読書」はすばらしいからということで奨励しているが,同時にまた,そこにいらっしゃる学校の先生方や保護者たちが,そうだという合意がないと盛り上がってこない。私も民間の方々への呼び掛けをしているが,やはり連携というのが大切なのではないかと思う。地域社会と学校と家庭の連携,そして私どもがそれを支援するという基本計画にしたいと考えている。
  お金だけ出せばいいとは全然考えていないが,お金がないと何もできないというのも現状であるので,まずは予算を取って,いろんなところの環境整備もしたい。そして,ただ本を置いておけばいいということでなく,いい本を置いて,それをどういうふうに読んだらいいかという活動費にも使いたい。そういうきめ細やかな基本計画を作っていくつもりであるし,地方にもそうしていただくよう,きめ細かな指導もしていくつもりである。


(2)西尾珪子氏の意見の要旨
  本日は,日本語教育の現場から,現代の国民の国語力,特に子供たちの国語力をどのように考えているか,観察しているかということを中心に,お話しする。現在,どこでも言われていることであるが,情報機器の発達,映像文化の普及,日本人の生活スタイルの変化,若者の仲間言葉の流行,日常会話のファッション化,あるいは片仮名語の氾濫等々,それらははっきりと国語に強く影響していると感じている。
  まず第1に,あいさつ言葉が非常に衰退している。外国人に日本語を教えるときに,コミュニケーションの発端ということで,まず,あいさつ言葉から教えるのが常識であるが,外国人の学生たちから「教室ではそういうふうに教わるけれども,日本人はちっともあいさつなんかしてないよ」という反応が返ってきて,いつも困ってしまう。実際に,今,あいさつ言葉は衰退というか,非常におろそかに扱われていると思う。
  それではどうするかということであるが,家庭生活でしつけなければいけない,あるいは学校生活でも低学年からしっかりと教えなければならない等々と言われるが,私は,そういうふうにあるジャンルに任せるのではなくて,国民全体があいさつ言葉をきちっと使える,そういう運動,ほとんど国民運動のようなもの,「一声運動」というのがあったが,そういう形で啓蒙運動を始めたいと考えている。
  そのためにはどういう啓蒙運動をすればいいのかというと,まず自分がしっかりとあいさつ言葉が言えるかという反省を含めて,大人たちが,あいさつ言葉を略さないで,しっかり言うということを子供に見せなければいけない。子供は大人の背中を見て育つと言うが,あらゆることが大人を倣っているわけである。電話を掛けていれば,電話を掛けているときのあいさつも全部後ろで聞いている。そういうことが全部環境となって,子供の中に言語活動が育っていくというふうに考えるので,まず自分たちからあいさつ言葉をしっかりと普及していかなければいけない,もう一回再考しなければならないと思っている。
  第2に,留守番電話,携帯電話などの情報機器によって,大変に短縮した言葉による伝達の習慣が増えてきていると思う。これは,困ったことというふうに負の感触でよく言われるが,私はこれを前向きにとらえてみたいと思うのである。というのは,外国人に教えるときでも,例えば1分間にどれだけのことが話せるかというような練習をする。用件を伝えるのに,もし40秒で録音されるとしたら,その40秒で何と何を言えばいいか。簡潔に要領よく言うにはどうすればいいかということだ。学校でも是非ともプラスの思考で,国語教育の中に取り入れていただいていいのではないか。
  携帯電話というのは,会社によるかもしれないが,文字盤に15文字までメッセージを書ける。15文字で要点を書くということはなかなか大変な技術である。こういう言語技術的なことが生活の中に今非常に満ちあふれているので,これを是非とも国語教育などでお使いになっていただきたい。日本語教育では,これは非常にいい教材なのである。
  第3は,機械や薬品などの使用法,説明文などのことである。マニュアルが分かりにくいと言われて何年もたつ。これは分かっている人が書くからである。国語審議会の最後の期に,「敬意表現」という概念を提唱したけれども,「敬意表現」の根底にあるものは相手への配慮なのである。マニュアルが分かりにくいのは,分かっている人が分からない人に配慮しないで書くからである。分からない人には,どういう言葉で,どういうふうに書いたらいいかということを十分に配慮して書くということを,マニュアルを書く担当者,あるいは専門家には是非とも申し上げて,そこのところを御理解の上で改訂していただきたいと思う。
  携帯電話や留守電のような非常に卑近な日常的なものを教材に使って,国語教育の新しい分野を開発すればいいと私は思う。マニュアルについても,簡潔に,平明にと言っているだけでなくて,例えば危機管理のときに,60文字でどこへ避難したらいいかという張り紙を出すのにはどうしたらいいかというように,非常に生活に身近な事象を取り上げて,国語教育に取り入れていったらいいのではないかと思う。
  第4は,「豊かな語彙・表現の減退」のことであるが,若い人は今「かわいい」の一言で全部片付けようとする。あるいは「かっこいい」で終わる。
  文化庁の「美しく豊かな言葉をめざして」というビデオを作るお手伝いをしたことがあって,一番最後に作ったのが,「かわいいってどういうこと」という皮肉なタイトルを付けた教材である。これは,「かわいい」という一言の中に,ほかにどんな言い方があるだろうか,それを解説している。ある骨董屋に行くシーンがあって,陶器を見ると,日本人の若い人が「あ,かわいい,これ」と言う。そうすると,外国人の留学生が一緒に来ていて「それ,かわいいんですか。これは色がきれいだと思いますけれども…」と答える。つまり,「かわいい」以外にどういう言い方があるかということを,すぐにその時に併せて掘り起こす,気付かせるということを教育上したいと思うわけである。
  私も孫がいるが,いつも「かわいい」とか何とか言っているけれども,「ほかに言い方ないの」とか「どういうふうにかわいいの」というふうに周りから一声掛ける。日本語教育では,形を表す形容詞,感覚を表す形容詞,心情を表す形容詞ということをきちんと分けて整理して教える。そういうことをしていると,もう少し日本人自身が豊かに語彙を持つ必要を感じる。つまり「かわいい」一つで事足りてしまう恐ろしさを感じるわけである。
  第5は,今日,一番力を入れて最後に申し上げたいことである。以前の文化審議会でも言わせていただいたことであるが,言語というものは,日常使っている言語もみな文化なのであるという意識を国民全員が持っていく必要があるのではないか。日本語教育では,日本語を教えると,その背景にある文化も必ず一緒に説明しなければならない。そのために,日本語教師は常に文化と向き合っている。外国の文化との接点にいながら,また自国の文化にはね返して考えるというきっかけにしているわけである。
  テレビをつけると,全国津々浦々,いろいろなところに,いろんな料理や産物がある,工芸品がある等々ということを紹介していて,直接そこへ行かなくても外のものが見える。そこで,自分のところはどうなのだろうかというふうに常にはね返らせて,自分の文化を意識するところへつなげていきたい。日本語,言葉も文化であるから,そういうふうに他を見て自分へはね返して,自分の文化を意識するということをもう少し学校教育の中に取り入れていただくことはできないだろうか。
  最後に,2点だけ申し上げる。まず,「総合学習」を「文化学習」という名前に変更していただけないかということである。例えば「文化の時間」でもいい。「総合学習」というのは何が詰まっていてもいいような,おざなりな感じがしないでもない。しかし,「文化学習」ということであれば,その中で,もちろん,今,盛んに行われているように英語を勉強してもいいし,国語を勉強してもいい,あるいは外国の文化を勉強してもいいし,日本の文化を改めて勉強してもいい,特に地域の固有文化を勉強したらいい。これらはみな文化の学習であり,みな日本語につながるものなのである。地域によっては,自分の地元の文化を非常に大事にして,地域語を大切にしているところがある。私は,そこでの豊かさというものを非常に感じるわけである。若い人はもう方言を使わなくなってきているのが問題であるけれども,できれば若い人にも地域語と共通語のバイリンガルになってもらいたいと考えている。
  全国の学校の先生方とお会いすると,教員の方々はどうしても御自分の教科という枠で教育内容をお考えになりがちというか,それが当然なのかもしれないが,私は,学校の教科はすべて国語力の向上に通じるものだと思っていて,国語科の授業だけが国語教育をやっているのではないと考えている。これははっきり理念として私は持っている。全教科が国語力の向上につながるのだということ,そしてそれが文化教育,文化学習なのであるということを。少しでも「文化」という字が表に見えるように学校教育の中でもしていただきたいと思って,「総合学習」を「文化学習」にしていただきたいと思う次第である。学校を回っていると,「外国人で日本語のできない子供が入ってきたけれども,どうしたらいいんでしょう」という御相談がたくさんある。教育委員会でも,これはちょっと弱ったことだな,どうしたらいいだろうと。大分対策は練れてきたけれども,私は,これは他の文化を見る絶好のチャンスだと思って,プラスだと思っているわけである。外国人の子供が入ってきたら,外国の文化,外国の言語に直接接することができるわけであるから,これをプラス材料として,それを知ることによって,また自分の文化を再認識する。そのために,外国人で日本語のできない子供はどうぞいらっしゃいというくらい前向きに,教育委員会が基本姿勢を示していただけるといいと思っている。
  もう一つ,子供たちはゲームが好きである。ゲーム感覚で,日常の非常に卑近なものを使いながら,国語教育の教材化あるいはテストなどが作られていけばいいと思っている。ニーズのあるところには必ず動機が出てくる。ニーズあるところに動機ありというのは日本語教育の基本的な姿勢である。そのニーズを見付けて,例えば,今サッカーで来ている国の国旗をみんな書けるかというのも面白いクイズだと思う。また,白地図を示して,その中で,どこの国から来ているか,みんなでマークしてみよう。これも別に地理とか社会の時間だけではない。すべてが国語力の向上になり,文化の力の向上になるということである。

(西尾珪子氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  私は,国語科教育の中で,文学的な文章と同時に説明・論理的な文章を取り上げて,言葉の力を車の両輪のように養っていくことが大切なことだと思っている。その中で,特に文学的なものにしても,説明・論理的なものにしても,日本人の日本語教育で一番大事なのは事実や事柄を的確にきちんと表せることだと考えているが,その点について,もう少しお話を聞かせていただきたい。

  いろいろな文体というか,文章表現があるわけで,事実を事実として的確に説明する,叙述するというものと,感想文とか,スローガンのようなあおる文章とか,いろいろあるが,日本語教育ではそれを文章表現ということで仕分けして説明している。
  特に,日本語教育の現場でどのように扱っているかというと,小学校1年生の国語の教科書ぐらいは外国人で日本語がまだまだ分からなくても読めるのではないだろうかとよくおっしゃるが,小学校の低学年の国語の教材というのは,このごろは事実を説明する文と感情を移入した文とが書き分けられ,タイトルも変えて,対応して出すようになってきているけれども,文化的要素を非常にたくさんしょっている。生まれてから,6歳まで日本語の文化圏で脳の発達と同時にずっと蓄えてきたというか,はぐくんできた日本語力を国語教育というのは整理整頓し,更に拡充していくものであるが,外国人の場合には全く外国語として改めて新しく入れるわけであるから,文章の表現の形というのが非常に大事なのである。それで説明文の訓練のためには,新聞の普通の記事をどんなに初級のころからでも使うことにしている。そうして,そこに日本人の思考が入り込んだ感想文のようなものは後回しにして,分けて指導するようにしている。
  国語教育でも,今おっしゃったように,その点をはっきりと分けて,文章表現の形として区別して教えていく習慣を付けていくのが良いのではないかと思う。

  最後に先生のおっしゃった,「言語が文化であるという意識の欠如」であるが,実は,私は文化審議会のメンバーとして昨年の2月以来,この分科会が生まれる前から文化審議会の答申にかかわってきた。文化を大切にする心をどのように育てるかという項目は,文化審議会の中間まとめにずらっと出ている。「国語の重視」というのも出ているが,ここに私が欠けているとずっとフラストレーションを起こしていたことを,具体的に言っていただいたのが,このことである。
  日本の歴史や伝統,そういった日本の中だけを見て,文化を大切にする心を育てるのも大事だが,文化というのは見えないもので,文化財的な見えるものもあるけれども,今日お話で伺ったように,身近な外国人が疑問に思うところで,そこの差によって文化を意識していく。そういう意味での文化を意識していくことが,これからのグローバル社会では非常に大切なことであり,そこが一番大事だと言っていただいて,それを是非生かしていきたいと思ったという感想である。

  質問と少し感想を。私は,実は40年も前に外国人のための日本語教育を実際にやったことがあって,まだまだ長沼さんの教科書などが幅を利かせていた時代で,ようやくジョーダンの本が日本へ紹介されたころである。私は戦後の古い日本語文法というのを習ってきたわけであるが,その時に,我々の日本語文法では外国人には教えられない。日本語文法というのは,日本語ができる人が日本語はどういう構造になっているかということによって作られていて,全く日本語の知らない人に聞かれても答えられないものであるということだった。多分,私が40年間くらい何の関心も持たずにいるうちに,きっと日本語が分からない人に日本語を教えるための良い日本語の構造を紹介する本ができているのではないか。それができているかどうか,どんなものがあるのかということが質問である。
  それから,私自身のその時の経験を踏まえて,高校辺りの現場で,国語がいいか,外国語の時間がいいのか,よく分からないが,それこそ文化学習というような形で,外国人に日本語を教えるにはこういうことをあなた方は知らないと教えられない,やがて外国に行って日本語を教えてくれと言われたときに,こういうことを知っていれば幾らか役に立つことがあると同時に,日本語がそもそもどういう構造であるのかということを知るためにも,外国人のために日本語の文法を解いた本というのは非常に役に立つような気がする。
   学校教育の中で使える良い本がきっとできているに違いないと思うので,学校図書館などには是非備えていただいて,好奇心のある生徒に読んでいただくようなことも,一つの具体的な案ではないかなということを考えた。

  教科書は確かに40年の間に研究も非常に発達して,たくさん出ている。一番たくさん出たころは,一月に10冊ずつぐらい出ていた。ほとんどの教育機関がそれぞれ書いていたころがある。対象別の日本語教育というのに,今だんだん枝分かれして,ビジネスマンのための日本語,コミュニケーションのための日本語,あるいは構造をきちっと教える日本語,そういうふうに教科書も目的別に非常に多岐にわたって大量に出ている。

  「挨拶言葉の衰退」という指摘について,お伺いしたい。私の周りには,中国人留学生がたくさんいるし,中国人留学生と日本人の学生がコミュニケーションをとっている場に立ち会うことも日常的に経験している。先生の「外国人学習者は,日本人はほとんど挨拶言葉を言わないという感想を持っている」という指摘は果たして本当にそうなのか。どのようなことを根拠に,このような結論をお持ちなのか。
  もう一つは,あいさつ言葉の衰退は,核家族とか,住居環境とか,現在における様々な変化の下で,朝晩のあいさつ,季節のあいさつ,感謝や謝罪のあいさつが衰退しているとお書きであるが,これは果たして本当かということである。少なくとも私はこのような印象は持たないし,若い世代から年配の方々まで非常に多くの方々とコミュニケーションをとらせていただいているつもりであるが,ここ10年か20年か,こんなに大きく指摘されるほどにあいさつが減っているというイメージは私には感じられない。
  私は学生時代に外国人のパーティーなんかによく行っていたことがある。外国人が固まって暮らしているところでは様々な国籍の人がいるので,日本語が共通語になっている。厨房に入ってパーティーの料理を作る時に一緒に手伝っていたのであるが,例えばアメリカ人が中国人に「恐れ入りますが,そこの塩を取っていただけませんか」と言う。頼まれた方は「はい,かしこまりました」と塩を渡す。もしかしたら,外国人が学んでいるあいさつ言葉というのはそういうことではないのかというふうに,大変暴言を吐いているかもしれないが,私の誤解であれば教えていただきたい。

  私は,あいさつ言葉は大分衰退しているというふうに考えている。まず一つは,機械で情報を伝えることが非常に発達したということで,例えば,面と向かって生の声であいさつし合う声が出にくくなっていると思う。それは観察している。例えば,ある有名な和菓子屋に入ると,店員はこちらを見ない。上から機械で「いらっしゃいませ」と言うだけで,店員は話をしている。それから,お菓子を買って外に出ようとすると,「ありがとうございました」と言っているのは上からの機械の声で,店員は全く私語をしていて,「ありがとうございます」と言わない。そういうような機械に頼っている。町にある自動販売機でも「ありがとう」とか何とか言う。あれは前を通るだけで,何もしないでも言う。あいさつ言葉が機械の中に乗せられるときに,生の声を衰退させていると私は思っている。
  それから,外国の人たちは,特にちょっとすれ違っても「ごめん」というような言葉をふっと言うが,日本人は知らない人には絶対に言わないけれども,知っている人とは「しばらくですね」とあいさつする。例えば,電車の中で席を譲るときも,知らない人には譲らないでいて,ちょっと知っている人がいると「あ,どうぞどうぞ」と言って譲る。このごろ,それが非常に極端になってきていると感じている。私は,ある待ち合わせをしていて,人違いをされたときに「ちぇっ」と言って帰って行かれてしまったことがある。そういうようなことが,割と日常的に行われている。ITの発達で対面のコミュニケーションから不対面のコミュニケーションへ移行していくことにおそれを感じている。私が言いたかったことは,生のあいさつ言葉をもっと復活させようという意味である。

  私には,「豊かな語彙・表現の減退」というところが大変興味深かったのであるけれども,私たちは一体いつから「かわいい」とか「むかっときた」とか,そういう言葉しか使わなくなったのか記憶が定かでない。先生がおっしゃっていたように,子供に対して「どんなふうにかわいいの」とか,次の言葉が言えるということは,逆に言うと,次の言葉を幾つか用意して知っている大人ができることだと思う。だから,私たち大人が「かわいい」以外の形容詞を本当に知らないのか,それとも,先ほどおっしゃったように,生のコミュニケーションが失われていく過程で,一度覚えた言葉が息を吹き替えすという,そこの部分が弱くなっているのか,何か二つの次元があるような感じがしたので,お考えをお聞きしたい。

  今,最後におっしゃったことは私も感じているところである。実は,このことは日本語教師の反省でもある。日本語教師が留学生だけを相手にしたころと違って,いろいろな目的の人が日本に定住するようになって,ともかくまずコミュニケーションを作らねばならないということから,いろいろな言い方をそぎにそいで,ここ10年ぐらい,骨だけのようなコミュニケーションのツールという形で日本語を教えてきていたように思うが,そのときに日本語教師自身が果たして,どれだけの豊かな表現を体の中に残しているだろうかということの反省がある。
  それで,今度日本語教育能力検定試験というのが改定され,15年度から新しくなるけれども,その中には日本語教師自身の日本語の運用能力というのがはっきりとシラバスとして入る。私どもはそれをあえて入れたわけである。日本語教師自身がどこまで豊かな表現力を身に付けているのか,コミュニケーションのツール,ツールと言っていたことの揺り戻しがあるべきではないだろうかというときに来ているので,今おっしゃったことはそのとおり,私どもがもう一度そこを復活させなければいけない部分があると思っている。

  国語が文化というのは,そのとおりだと思うが,仮に「総合学習」を「文化学習」と変えたときに,文化という概念は人によって千差万別だと思う。そうすると,「文化学習」とした場合に,具体的にはそこで何を教えようと考えているのか。

  私が先ほど申し上げたのは,地方を歩いていて,きちんと統計を取ったわけではないが,大体,総合学習の時間を英語と学力の低下を阻止するための補充的な時間として使っているケースが多いようである。学力の補充というのはちょっと横に置いて,やはり全教科が国語能力の向上に役立つのだという考えがあるし,文化と言ったときに,言語はもちろんであるが,海外の文化も大切な範囲である。世界中の文化,グローバルな見地からの文化というとらえ方をもう一度定義し直してもいいのではないか。日本の古典芸術とか,そういうものだけが文化のように思われがちであるが,日常使っている言葉,そして極端に言って,例えば携帯電話でも留守電でも一つの現代の文化である。その中から,どれを取り上げても,具体的な教科というか,カリキュラムというか,を作れると私は考えている。

  今の「文化学習」は,多分,西尾先生が教壇に立たれたらうまくいくと思うが,こういうのを小学校でやってもらうための教師をどういうふうに教育するか,ものすごく難しいと思う。やはり異文化体験があったり,日本文化というのはこういうものだということをしっかりと体で知っている先生が縦横無尽に活躍されると,いい授業ができると思うが,やはり教育は最後は先生に戻ってくるのではないか。

  恐らく教育というものは,一人の人間が最後まで向上していこうとしているわけであるから,非常に長いスパンで考えていかなければならない。そのときに,例えば家庭の中で子供が生まれたり育ったりしていくわけで,その家庭の中で文化的な環境を作っていく,あるいは学校も環境を作る。そういう中で,文化に敏感になる,あるいは身に付けていく,その啓蒙活動からスタートしないと,今すぐ現役の先生にというふうには私は考えていない。これから生まれてくる子供に期待をして,大人が環境を作っていくことが大事ではないかと思っている。

(3)浮川和宣氏の意見の要旨
  本日は,長年,コンピュータとかかわってきた立場からお話ししたい。昨今ではブロードバンドという言葉で,テレビを見るぐらいの画像情報のやりとりのスピードで,非常にコストが安く各家庭に接続されるようになってきた。大きくITと言われる言葉でくくられることが多いが,恐らくインターネットとパソコンが代表的なものであるけれども,家庭のテレビなどもすべてデジタル化されてつながることによって,日本は言うに及ばず,世界の生活スタイルがここ10年,30年,50年,大げさに言えば100年後には,とてつもなく,今から想像もできないぐらい変わっているだろうと思っている。
  コンピュータには,それだけ大きい影響力がある。例えば,テレビは国語あるいは社会生活に非常に大きな影響力があるが,実はテレビ以上の,何百倍もの影響力があるのがコンピュータであろうと私は考えている。だからこそ,そこでどうあるべきかという「べき論」を事業者も考えるし,国もいろんなレベルで政策を進めている。情報化というのは非常に重要であるという言葉が次から次へと出てくるような時代になっている。
  そこで,私どもの企業活動の中でもそういう気持ちを更に強くしながら,コンピュータでどのような日本語というのがあり得るのか,いろんな側面から考えている。その中で,製品として世の中の多くのお客様に使っていただいている一つが仮名漢字変換である。私どもにはATOKというものがあるが,今年の2月に新製品を出したものの中に,新たな方言対応という機能を入れた。一番最初のバージョンは関西語。大阪弁,河内弁,難波言葉,船場言葉というか,京都,神戸辺りまでである。
  簡単に紹介させていただくと,普通の仮名漢字変換は標準語に基づいて,テクノロジーでプログラムを考えているので,人間がしゃべった,入力したものがすべて正しい日本語になるわけでは決してない。今はビジネス用語,それから標準語にしか対応できていないので,例えば「きょうおおさかどーむいっしょにいかへん」は,「いかへん」のところが「以下変」となってしまう。これを私たちがアルゴリズムというか,中のプログラムを変換して,関西弁に対応するようにすれば,当たり前のことであるけれども,正しく変換される。
  小学校にもたくさんのパソコンが入り,社会の中でもどんどん使われていって,非常に大きな変化がある。インターネットの普及も含めて,家庭の中や個人でも使われ,そして携帯電話に代表されるように,インターネットのeメールとか,チャットとか,そのように話し言葉がどんどんコンピュータの中に取り込まれる。その結果,従来のビジネス用語だけが正しく変換できると言ったところで,実際の用途とはどんどん乖離していくような状態がここ何年間か起こっていて,私自身は12年ぐらい前から,話し言葉にもっと重きを置いてほしいと研究をさせてきたので,それはかなり実現してきたわけである。しかし,生活に密着するということを考えていったら,会社というよりは,私自身が方言をいつかはやらなければならないと考えていた。
  今の若者はほとんど方言を使わなくなったというお話が先ほどもあったが,なぜそうなっていったのか。それは学校で教育されるから,標準語が正しいと思っているから,それも大きいと思うが,テレビの影響が何と言っても大きかろうと思う。もう一つは,新聞などのいわゆるマスコミュニケーションの影響力が非常に大きい。例えば,新聞を考えたら,地方版はあるが,方言で表現しているわけではない。方言コラムみたいなものは若干見受けられるが,全体とすれば標準語である。津軽弁新聞とか,鹿児島弁新聞とか,何とか弁新聞とか,があってもよさそうに思うが,実際に考えたら,出版の部数とか,印刷のコストとか,コストが大変大きな問題である。テレビにしても,例えば,NHKは各地方局があるにもかかわらず,ニュースから始まって全部を標準語でやっている。
  標準語は,恐らく明治のころから始まって,日本を一つの大きな先進国家とするために,新しい工業化に向けて一つの国の言葉を作るとか,いろいろな考えがあったと思うけれども,その中で非常に重要なのは,それまでの方言のままであれば,例えば鹿児島の人と東北の人が出会ってもなかなかコミュニケーションがとれない。それでは困るので,共通の言葉を作っていく,そういう大きな働きがあったと思う。もう一つの見方は,過激な言い方かもしれないが,コミュニケーションをとるための一つの共通手段として大きな働きがあったのではないか。つまり背広のようなものである。自分の体にフィットしたリラックスしたものではなくて,どちらかと言うと,よそゆきの言葉として,標準語というのは存在していたのではなかろうか。だかこらこそ学校で教育をされ,学ばなければ駄目なものとされてきたのである。そういう中で,今の時代はどんどん方言が使われなくなってきている,果たしてそれでいいのだろうかというのが,私自身の根本的な疑問だったわけである。
  なぜそういうふうになっているのか。先ほど言ったマスコミとかのコストの問題や技術の問題でできないのではないか。実は,私たちもそれをやろうと思ってもできなかったのである。我々のようなビジネスをしていると,方言対応というのは,欲しい人たちに的確に従来のCD-ROMのようなものを提供するという形では,不可能に近かったわけである。それがインターネットという技術,インフラが整ってきたので,例えばある方言を使う人たちが10万人いると,10万人に向けてそういうサービスができる。そこで私が思ったのは,テレビや新聞はやりたくてもできないけれども,コンピュータというITを使えば,これができるという時代になったということである。これが非常に重要なのである。
  もう一つ重要なのは,日本語というのは標準語だけではなくて地方,地方,あるいは生活に密着している言葉になればなるほど,そこの文化とか,生活スタイルとか,大きな枠組みで言う文化に根ざしているものだということである。コストや経済的な論理だけでなく,非常に大きな文化として,それぞれの方言を,テクノロジーが見限るのでなく,カバーすることができれば,うまい形で残せるのではなかろうかと考えたのである。
  エンジニアにとっては非常に難しくて,泥沼に入る。関西弁はできたけれども,次に,津軽弁はどうするか,福井弁はどするか,私はエンジニアから山ほど質問をぶつけられたが,インターネットという便利な道具ができている,インフラができていると説得したわけである。ATOK15で関西弁対応したのを契機に,方言サイトを立ち上げ,多くの人に,ジャストシステムを助けてくれれば,自分のお国言葉,生活で使っている言葉,皆さんが望む方言が,コンピュータで処理できるようになると訴えて,一生懸命活動しているのである。有り難いことに,このサイトには多くの人たちから,私たちの方言を是非ともコンピュータで変換できるようにしてほしいという意見がたくさん集まっている。

          [方言サイト「ほべりぐ」についての紹介と説明]

  ここで私たちが非常に重要に思っているのは,言葉の多様性である。若者言葉を中心としてどんどん語彙空間が縮まっている中で,方言がなぜ残っているかというと,標準語とは違うニュアンスがあるからだと思う。例えば,「かわいい」という表現より,「めんこい」の方がいいんだよとか,それぞれの表現には,その地方特有の文化に根ざした非常に多様な表現があって,ニュアンスが違うが,すべて日本語なわけである。標準語だけが日本語ではなくて,すべてが日本語なわけだから,日本語の多様性ということで,「頑張れ」でなく「けっぱれ」という言葉が飛び交ってもいいのではないか。私たちはコンピュータを使って,もっと豊かな表現,もっと違う表現がしたいということで,こういうサイトを利用してもらいたい。大げさな言い方かもしれないが,国民的な活動ぐらいになればいいと思っている。
  もう一つは,方言は地方に閉じこもるのではなくて,ネットワークを使って,例えば阿波弁のあの表現とあのニュアンスがいいからといって,東京の人たちが使い,北海道の人たちが使うようになってもいいのではないか。そういうことがコンピュータだとできる。それから,標準語だと何か面白くないから,例えば鹿児島弁にぽんと変換してみる。いい悪いは別にして,そういう一種の楽しみ方というか,新しい切り口というか,言葉の後ろにあるいろいろな意味合いが更に広がれば,100年後に日本語が豊かになっているかどうかは実際は分からないけれども,方言の大切さにだれかが気が付いたら,それにチャレンジしてみる。
   言葉は文化である。私たちの世代で多くの言葉や表現が死滅してしまったら,ほとんど復活しない。方言なんか絶対復活しないから何か残せる方法があれば,やっていきたい。これは一つの夢でもあるが,こんな活動をしているわけである。

  今,小学校でもどんどんコンピュータが入っているが,子供たちに与える教育のツール,大げさな言い方をしたら,人類が作り上げた教育のツールとしては,コンピュータこそ最も優れたもの,最も先進的なものではなかろうかと私自身は思っている。コンピュータを使って,子供のころから教育するのを疑問視する方も結構いらっしゃる。しかし,ちょっと視点を変えて,世界の大金持ちが自分の子供のためにどういう教育をしているか,勝手な想像であるが,家庭教師のすごい人たちを10人ぐらい雇って,例えば言葉の教育,算数の教育など,すごい教育を恐らくしているに違いないと思う。子供にそういう家庭教師を雇うことができれば,それに越したことはないが,子供一人一人が,そういう専門家,非常に素養の高い方に教えてもらうことは,どこの家庭でもできるわけではない。
  それができないとしたら,何かうまい方法で置き換えることができればよいが,その可能性を持っているのがコンピュータである。テレビの延長だと思わないでほしい。テレビは一方的で,受けるだけ,見るだけである。ところが,コンピュータはインタラクティブで,問い合わせをすると,応答してくれる。もちろん,先ほど言った教えるエキスパートからすると,コンピュータはまだまだエキスパートの10分の1ぐらいの能力しかない。しかし,0と比べたら何万倍も可能性があるわけで,それを教育用のソフトウエアとして,子供たち一人一人に与える。今や,パソコンのコスト,インターネットを通じてのデリバリのコストは圧倒的に安くなったので,その可能性がある。
  一つ考えていただきたいのは,10年後,50年後,100年後。100年後の子供たちの教育の中に,コンピュータがないなどということはあり得ない。現在の子供たちに与えるツールとして,更にいいコンテンツ,つまり中のシナリオやソフトウエアのいいものを作っていくことに,もっともっとコストと時間を掛ければ,コンピュータには可能性がある。
  そこで,間違っていただいては困るが,コンピュータそのものを教えてほしいと言っているわけではない。ややもすると,コンピュータのOSや操作を教えることがコンピュータ教育だと思っている人たちがいるが,コンピュータそのものの教育は必要ない。大学へ行って,コンピュータを作る人とかコンピュータのエンジニアになる人に,コンピュータそのものの教育をすればいい。言語とか,BASICとか,プログラミングも,基本的には私は不要だと思っている。コンピュータそのものの教育は考えなくていい。私たちは,コンピュータのことを子供たちの能力を広げることができるツールだと思っている。例えば,従来の本は大変すばらしいもので,何千年という歴史があるけれども,コンピュータと比べたら,残念ながら教科書は音が出ない。今,コンピュータをツールとして,子供にどういう教育の環境を与えることができるのかということを少し御覧いただく。これは,私どもの幼児教育用のソフトであるが,それを少し変えて,小学校の低学年用として,例えばコンピュータを使って,子供たちに知恵を付けたい,考える力を付けたいと思っている。

          [幼児教育用ソフトについての紹介と説明]

  今のパソコンは,ノートブックにしてもそこそこの重さがあるけれども,技術進歩はものすごく速いので,これよりもっと薄いものになる。それが子供たちの新しいノートであり,新しいペンである。机の上にコンピュータがあって,そこに絵を描いたり,先生が言うことを書いたり,ノートの代わりである。子供たちは白い紙とこういうツールを持っている。今のツールが,こういうふうになれば音も出る,コミュニケーションもとれる。ありとあらゆる可能性があって,音楽も出せる。
  先ほど読書の話があったが,年代層もあると思うけれども,従来の本が図書館にたくさんあって,それはもちろんいいわけである。しかしながら,本にすると,ものすごくコストが掛かる。全国の図書館,地方の図書館,恐らく今の流れであれば,公民館にまで本を置くというような雰囲気が感じられたが,コストが莫大に掛かる。ある人に言わせると,紙というのは自然破壊ということもあるが,コンピュータのソフトウエアではそういうことはない。そして,だれかが頑張って作っておけば,全国どこでもデリバリのコストは掛からない。
  今日お話を聞かせていただいた中で,図書館を充実するのであれば,本のコンテンツそのもののデジタル化に予算を組んでいただけないだろうか。そうすれば,図書館に行けない子供たちがいるので,大人もそうであるが,家に居ながらにして,図書館に行かなくてもいいわけである。図書館にはデメリットがたくさんある。例えば,そこに行かないといけない。外国に転勤になったお父さん,お母さんの悩みは日本の教育であるが,全部デジタルコンテンツにしておけば,アメリカでも,アフリカでも,日本の子供たちと同じ本が読める。それがITのすばらしさである。新しい技術で,日本の新しい豊かな文化を更に発展させることができないか,子供たちを含めて大人の生活にも寄与することができないかと考えている。それは,私たちが言葉を大切に思っているからである。
  最後に一つ,特に小学校であるが,私は国語という言葉に非常に振り回されているような感じがしている。言葉の教育,言葉というのは,今日の提言の中にもあったが,すべての根源,力であるとすれば,例えば理科や算数や社会の教育の中にも,言葉を基本的な視点とした教育があってもいいのではないか。例えば,日本人はなかなかあいさつしないとか,人前での発表力が弱いとか,論理的な思考や文章の書き方が弱いとか言われるが,今の国語の教育は,私が覚えている中では,作文というと,すぐに感想文を書く。そうではなくて,論理的な文章の書き方とか,そういうものがもっともっと教育の中に必要である。国語の時間ではなくて,理科の時間にできないか。社会の時間には人や社会とのコミュニケーションがあるので,コミュニケーションという視点で国語的素養を入れたらどうかと考えている。

(浮川和宣氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者,◎は大臣政務官を示す。)
  私は40年間京都に住んでいながら,京都弁が一言もしゃべれない。なぜだろうと考えていたら,京都弁はイントネーションが大変難しい。これは技術の問題であるが,それとともに,京都弁は京都の文化そのものであるからではないかという気がした。
   私は,京都の文化に順化できないのかなというふうに思ったことと,やはり小学校,中学校の子供時代の影響がすごく大きくて,私にとっては,東京で使った言葉が私の体の一部,私そのものになっていて,血となり肉となって,私に大きな影響を与えているのではないか。やはり子供時代の影響というのは,人間形成とか言葉の使い方に大きな影響を与えているし,人間はそれからどうしても抜け出られないのではないだろうか。
  先ほどの読書の話に返ると,小学生の指導や支援はあるのに,高校生では少ないのではないかという話が出ていた。確かに高校生は読書がぐんと少なくなる。だけれども,それは受験とかの影響であって,私は,小学校で本を読む喜びを知ったら,高校生で読まなくなっても,また大人になって何かのきっかけで読むことができると思うのである。でも,小学校の時代に本を読む楽しみを知らない人間は,大人になってからも本を読む楽しみというのをなかなか見いだすことができないのではないか。だから,小学校時代にどんな影響を受けて学んでいくかというのは,私はすごく大切だと思うのである。
  私が読書推進をしているのは,例えば「かわいい」とか,「切れる」とか,それしか言えないのは精神の貧困で表現するものを自分が持っていないからだと考えるからである。持っているものがあれば,語彙も豊かになるし,言葉を多く使うこともできるのではないか。これからはIT時代と言われているので,お話を伺いながら,それをどううまく組み合わせていくかが,これからの学校教育の一番大切な問題ではないかと感じた。

  今,新聞やテレビのニュースでは常用漢字に縛られた表現をしている。だから,代用漢字を使ったり,交ぜ書きと言って,使えない漢字だけは平仮名にしたりする。
  それが日本語の語彙を減らしてしまったということは大きな罪であると思うが,その一方で,ワープロソフトは難しい字をどんどん変換する。「纏める」(まとめる)というとても読めないような字が平気で変換されるし,書けと言われてもなかなか書けない。そのような字をあっという間に出してしまうのは,やはりやり過ぎではないか。だから,常用漢字をもうちょっと広げてほしいのであるが,第2常用漢字ぐらいの範囲を変換できるようにして,それ以外はルビ付きで変換できるようなソフトを作っていただけないものだろうかという要望である。

  我々が何かの規範を示すようなことは実際にはなかなか難しい。飽くまでも使う方が難しい漢字にしたければ,難しい漢字が目の前に出てくるし,辞書もあり,いろんな漢字が世の中にはあるわけである。コンピュータは余りにも便利だから,目の前に安直に出過ぎるということは,そういうふうに頑張ってきたからであるが,「ここまでの水準」というのは事業としては難しいところである。
  ただ,ちょっと余談になるが,小学校ではそういうことをやっていて,例えば小学校3年生の設定にすると,小学校3年生までに習う漢字しか出ない,そういうことをいろいろ工夫している。だから,一般社会向けのものを作って試してみたらと思っている。

  一つは感想で,一つは質問である。感想は,方言サイトをインターネットで行っているのは大変面白いと思ったことである。国語研究所は,日本言語地図というのを全6巻作っているが,全国を二千何百の地域に分けている。それから,方言文法地図というのを今作成中で4巻まで出ているが,これは全国を八百幾つに分けている。ただ,その二つとも,本当にお年寄りの消滅しかかったところでやっている。それに対して今のインターネットのサイトでは,多分,若い人やインターネットに興味のある人であろうから,そういう点で関心があるので,是非進めていただきたいと思う。
  それから,質問は,最後のところで,「授業科目から「国語」をはずし,すべての教科に「ことば」の力を向上する視点を」とおっしゃった,これはまさしく総合学習の考えなのである。だから,総合学習について御指摘になったということなのであるが,ここから逆に,「授業科目をすべて国語にし」というふうにもできるのではないか。

  そこの表現はちょっと言葉足らずで,「「国語」をはずし」ではなくて,「国語」という表現を外して,今の「国語」を「ことば」という授業にできないかということである。当然「国語」というか,基本的な「ことば」を教える授業は必要だと思う。理科もあり,社会もあり,算数もあるけれども,「国語」と言ってしまうと,何か少し,ある縛りというか,国語論的なものが入ってくるように感じる。子供たちにとってみれば,知恵とか,考えとか,すべての力の基本が「ことば」なのだから,こういう視点がすべての授業にあってほしい。そういうことをやるのが,特に小学校の低学年では必要である。だから,すべて国語の授業にしていくと,また子供たちが迷うし,先生たちも困るかもしれない。

  先ほどの漢字の問題であるが,先般の最終の国語審議会で「表外漢字字体表」が答申された。あれは,ある意味では第2常用漢字表みたいなものだったというふうに私は思っている。もしあれが告示・訓令されていれば,字種としては,広く使われているものが限定的に第2常用漢字表として示されたということになるだろうと私は考えている。
  ただ,ユーザーの使いたい字が出ないと怒られるということがあるから,JISの第1水準,第2水準プラスアルファで,どうしても字種それ自体は6,355プラスアルファで,後はユーザー側の判断になると思う。常用漢字が基礎・基本となっていても,第1水準,第2水準プラスアルファというところで行かなければ,文化の継承という意味ではやはり問題が起こってくるというので,妥協点がコンピュータの中に入っている第1水準,第2水準だと考えているというのが私の感想である。

  方言がこのようにできたので,今度はジャストシステムが推奨というのはなかなか難しい面があるが,例えば,ある先生が推薦する言い回しをインターネットでダウンロードすると,そういう漢字になるとか,言い回しが出てくるとか,こういうときにどうしたらいいかというと,こういう表現はどうかというサゼスチョンをしてくれるとか,これからはそういう可能性がある。インターネットなら,北海道に1万人ファンがいて,全国津々浦々ばらばらにいても,ビジネスとして成り立つので,そういう「だれそれ監修辞書」というのをこれからやってみたいと思っている。

  結局,これからコンピュータの時代になっていくだろう。10年後,20年後は,いや応なしになっていくだろうと思うけれども,一方で非常に不安も感じている。コンピュータはどんどん発展して,5年おき,10年おきに必ず新しい技術が入ってきて革命的に新しくなる。そうすると,5年前に習得したことが大きな修正をしないとやれなくなっていく。5年たち,10年たって技術が更新して,また新しい技術が入ってくる。必然的に,機械文明というのはそういうふうになっていく。しかも,コンピュータというのは脳みそにかかわっている。このごろ,若い作家はほとんどパソコンで原稿を打つ。井上ひさしさんが言うので,私もこのごろ見ていると,ワープロで打った文章は微妙に分かる。手書きの文章とワープロの文章は,ほとんど90%を超えて区別ができる。それは,やはり手書きで一つ一つ文字を愛して,愛しているかどうか,嫌っているのかもしれないが,手で書いているものと,ぽんと打てば出てくるというものとは違っている。
  それから,私は,これから20年後,30年後,ほとんどの大人は漢字が書けなくなるだろうと思う。私たちはよく漢字を忘れると言うけれども,漢字の意味が分からなくなったり,読めなくなったりすることはない。私たちが漢字を忘れるというのは,書けなくなる。あれだけ書いてきても,60歳,70歳になると書けなくなる。まして今の人みたいに,書かずにぽんと打つと,その漢字が出ることになったら,まず50歳,60歳になったら絶対書けなくなる。そういうふうにコンピュータというのは脳みそにかかわってくるものだから,機種が新しくなるとか,いろんなことが変わっていくということは,私たちが長年,4000年,3000年とかかわってきたいろんな習慣的なものに対して,何か漠然とした不安を私は非常に感ずるのである。その辺について,いや応なしにコンピュータの時代になっていくと思うけれども,そういう状況に対する予測とか,あるいはそういうものに対するお考えとか,おありであろうか。

  コンピュータがいろいろ発達をしていくのは間違いないが,何が本質なのか。例えば,音楽も,大きなLPプレーヤーから始まって,今やメモリーチップで,小さな消しゴムくらいのメモリーに入れておくと,20時間,30時間の音楽が聴けるようになっている。そういうふうになったときに,コンピュータもかかわっているけれども,音楽そのものの良さとか楽しみ方という根本は何も変わっていないのではないか。何が根本であるかということを常に考えて,だからこそ私たちの会社も,10年後,20年後の本質は何なのかを考え続けてきた。例えばコンピュータがどう変わっても,日本人は日本語を使ってものを考える。こんなことを言うと偉そうであるが,本質は何かということを一生懸命考え,そして教育をしていく必要があると思う。
  だから,今のコンピュータも,OSとか言語とか教えたって何の普遍性もない。それよりはコンピュータを使って,例えばインターネットだったら,おいしいレストランの探し方という方がみんなの生活にとって必要であろうし,それも少しずつ変わるかもしれないが,コンピュータを使うときにも,あるいはコンピュータ教育においても,コンピュータを使う政策を考えるときにも,何が本質なのかということをものすごく考えないと,コンピュータの扱い方を間違うと思う。それをすべての多くのコンピュータにかかわる人たちが考えてくれればいいなというのが私の希望である。

  最後におっしゃった,「授業科目から「国語」をはずし」というのは,私も,授業の教科としての「国語」という言葉は,精神面とか,いろんなことが入っているので,言語として見る,浮川先生のおっしゃった理科で論理的思考というのは大変すばらしい考え方だと思う。思い出したのは,高等学校くらいの時に,国語の先生から,あなたは大変表現力があると言われたことである。ただ,論理的な書き方がなっていないと。それを教えてくださるのかと思ったら,いや,そういうことは教えられない,『中央公論』を読みなさいと言われたのであるが,確かに昔からこのような論理的な文章の書き方は日本語では欠けていると思うので,大賛成である。
  もう一つは,先ほどの方言のデモを見て感じたのであるが,方言というのは,言葉にして言ったときに,例えば「いかへん」というのは,「いかへん」なのか,「いかへん↑」なのかで全然違うわけである。そういう音の大事さということがあると思う。先ほどの,読書推進のお話の中でも読み聞かせの大事さということに触れていらっしゃったが,目だけではない,耳からのものというのが大変大事な時代になるのではないか。コンピュータであればそういうこともできるし,国語の中で,是非音として次元の違うものもこれから考えていかなければいけないのではないかと思っている。

(4)自由討議における意見の要旨
  最近,大江健三郎さんが『「自分の木」の下で』という本を書かれているが,その中に出てくる非常に面白い話がある。これは今の方言の話で思い出したのであるが,その話の内容は,人はみんな山の大きい木の分身であって,その木のところに行くと,何十年後かの自分に会えるということを,彼がおばあちゃんに聞いた。彼は,その時に,その木を探して何十年後かの分身に会ったら,ちゃんと標準語を使って,どうして生きてきたかのかということを聞いてみたいと思った。それで言い方を準備したというのである。方言というのは,方言に意味があるのではなくて,方言の背景にある文化に意味があるのだろうとその時に私は思った。だから,言葉を取り上げるというよりは,むしろ背景にある文化をいかに伝えるか。私は,人間が生きていることの意味を支えるものが伝統文化であると思っているので,日本人がどうも自信がないというのは,その伝統文化を見失っているからだと考えている。伝統文化がいかに伝えられるのかということがかかわって,方言に力がなくなってしまった,というつながりになっていくのだろうと思うので,そこのところは,この会議で話す大事なテーマだというふうに思っている。
  もう一つは,ある人の話を聞いて,私もそうだなと思ったのであるが,9月11日のテロが起きた後,各新聞の文章が急に良くなったと言う。同じような意味で外国人に聞いたら,フランス人はル・モンドの記事の文章が急に良くなった,イギリス人はタイムの記事の文章がすごく良くなったと言うのである。だから,危機を感じたときというのは,人間は恐らく文章をちゃんと書く。それを聞いたときに,言葉と文章というのはすごくつながりがあって,最近の研究では,人間の第7染色体のある遺伝子の出すアミノ酸がどうも言語作用に大きく影響しているということをオックスフォードの研究グループが発見して,それがネイチャーに発表されたということを聞いたのであるけれども,コンピュータを使って言語活動をすると,その部分が変わってくるのかなと感じた。そういうのをちゃんと研究しないで,一挙にコンピュータに行ってしまうと,ちょっと良くないのではないかなというふうにも思って,感想的なことを申し上げた。

  図書館のこととか,読書の運動とかで,いろいろ政策が出ているということで,勉強になったのだが,例えば学校の先生に全部やっていただくのは無理だろう。無理だろうということが分かって,保護者や地域住民によるボランティア活動ということが書かれているのであるけれども,ボランティア活動で何かお願いをするという場合に,「子供のために本を読みに来てください」と言えば,「はい」と手を挙げてくださるお母様方は実際にたくさんいらっしゃる。しかし,図書室が常時いい形で運営されるように,自主的な人をお願いするのはかなり難しい。図書室の配備として大事なのは,常勤の司書の方がいて,もう何人かの非常勤ないしはボランティアの少し回数を重ねたスタッフの方がいて,さらに,そういう人たちをマネージメントするような仕事を教師がするという形で,具体的に人が常時いるような配備をしていただいた方が,実際にうまくいくのではないかなという気がする。図書室というのは,実際には,休み時間に子供たちがばあっと行くと,無秩序な状態になる。何が起こるかというと,高学年の子供たちが幅を利かせていて,小学校2,3年の子供たちは,ある面でお兄さんが怖くて行けないとか,そういう状態で,図書室が休み時間に静かにゆっくり,リラックスして本を読む場所に実際にはなっていない学校が多い。図書室の中に一定の秩序が生まれるようにするためには,ある程度の大人がいて,1年生から6年生というすごく発達差のある子供たちが一度に来る空間を守ってやらなければいけない。そういうことをどこに盛り込めばいいかは,私はちょっと分からないのであるが,人の配置をした後で,それをどう動かすかというところの生きた現場のやりとりを感じながら,イメージすることが大事ではないか。
  もう一つは,やはりファミリーフレンドリーな企業との連携とか,そうしたことも,直接的にここに生きなくても,広い目で,要するに,地域の活用と言っても,地域が死んでしまっている以上,ある程度主導的に方針を盛り込んでいかないと,結局,どう使っていいか分からない,どうやっていいか分からないという形の提案になるような気がした。それが一番大きなことである。それから,先ほど電子図書館のようなアイデアをいただいたのであるけれども,そういう形で読書の良さを感じる人が広がるということと,図書室とか図書館の空間が子供をはぐくんでいるということがあって,子供はいつでも元気でいるわけではないので,ゆっくりと自分を落ち着かせるとか,そこに本があるというシチュエーションがとても大事なのである。本が置いてあって,動機付けが高い人が手っとり早く情報を得たいというニーズと,図書館にいて,そして本があるというシチュエーションで本の良さを感じる人たちもいるので,是非,図書館の整備をやっていった方がいいだろうなと思っている。

  一つは方言,一つは漢字のことである。方言については,現代はお付き合いの範囲が広域化していて,だれでも言うところであるけれども,テレビの普及で共通語が広まっているということから,どうしても若い人たちは自分のお里の言葉というのを話さなくなってきているということがある。そこで,現代は学校教育を通しながら,方言を大事にしようというような言い方で,逆に,客観的に子供たちに意識付けをしているという時代に入ってきてしまっているので,いろんな形で自分のお里の言葉を大事にしようということは,やはり言い続けていった方がいいんだろうというのが一つである。
  もう一つ,漢字の問題であるけれども,現在,日本語を漢字仮名交じり文で書いていくときに,お互いのコミュニケーションを円滑にするためには,最大公約数的には,常用漢字表の範囲というのを学校教育で勉強して,プラスアルファでコミュニケーションを円滑にしようという気持ちは持ち続けていかなくてはいけないわけであるが,表外漢字字体表を検討するときに,新凸版調査では確か8,500字ぐらい字種が出てきたし,読売新聞調査では確か4,500字ぐらいだったか,これが実態である。頻度から言って,1回とか2回とか非常に頻度の少ないものも一杯あるから,限定的に,表外漢字字体表を作るときに表外漢字の字種を1,022選んだということである。
  お互いのコミュニケーションを円滑にするためには,学習上では常用漢字表の範囲で,読み書き一致でできるようにということが基本だし,それプラス表外漢字というものについては,ある程度コミュニケーションを円滑にするために,非常に頻度の高いものはある程度読み書きできるようにする必要があるが,読めるだけでよい漢字というのはかなりたくさんあって,1,000字,1,500字あっても私はいいと思っている。読み書き一致の基本的な漢字と読めるだけの漢字という基本的な意識がきちんと作られれば,私は,コンピュータで幾ら出てきても,そこは乗り越えられるのではないかと考えている。

  感想を一つ,意見を二つ述べたい。まず,感想であるが,今,学校教育の国語の中では伝え合う力というのを重視している。文章を書いて相手に伝える,あるいは他者の書いた文章をより良く理解して,意思疎通を図って人間関係を高めていく,あるいは音声によって伝え,そして理解し,より良い理解を図っていく,こういう教育を重視している。今日のお話を伺って,これはやはり重要なことだということを改めて認識した。これからの社会においても,当然大事な教育になるのではないかと思う。
  2点目,学校図書館にかかわって,来年度から,12学級以上の学校においては司書教諭が配置されるということで,大変期待している。配置されることによって,かなり読書量が伸びるのではないかと思っている。これにかかわって,学校支援センターのようなものが作れないかというのが提案である。司書教諭の横の連携を更に深める,あるいはアドバイス等をいただきながら,読書の量や質を高めるという点にも効果が期待できる。
  3点目であるが,読書の時間が設けられないかという意見である。週1時間は無理としても,それぞれの教科が時間数が足りない中で難しい状況にあろうかと思うが,例えば年間15時間,20時間という半端な数であっても,時間割の中に読書の時間というのを設けられないか。フランス等の外国においては,こういう時間があると聞いている。また,一部の私立中・高においてはそういう時間を設定していると聞いている,朝の読書だけではなく,時間割の中に位置付けることは不可能であろうかということである。

  一つ非常に面白いと思ったのは,日本語を教えるときに文化ということを意識しろと言われて,私もそれはいつも考えているけれども,逆に考えると,私はアメリカで英語を習ったわけであるが,教えてくれるときにアメリカ人は絶対に文化なんか意識していなかったと思う。これが正しいんだと。それはできないやつが悪いという考え方でやっていたのではないか。これがどういうことかというのは,すごく考える意味があると思う。
  もう一つは,恐らくコンピュータはもっと急激に進むと思っている。だから,我々の思考,感情,いろんなそういうものを乗り越えて進んでいってしまう。それを今の小さい子供はどんどん駆使する。そして,それが一体どういう社会,どういう人間関係,どういう心の状態になるのだろうかということは,私はもっと深刻に文部科学省全体として研究会をしてもいいのではないかなと考えている。


(文化庁国語課)

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