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国語分科会

2002/05/29議事録
文化審議会国語分科会第3回議事要旨

文化審議会国語分科会第3回議事要旨

平成14年 5月29日(水)
   10時〜12時30分
東條会館  新館「吹上の間」

出席者〕
 
(委員) 北原分科会長,青木,阿,阿刀田,井出,臼井,沖山,甲斐,勝方,小林,五味,齋藤,舘野,手納,西尾,西村,藤原,松岡,山根各委員(計19名)
(文部科学省・文化庁) 御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,山国語課長,氏原主任国語調査官ほか関係官

配布資料〕
 
  文化審議会国語分科会(第2回)議事要旨(案)
  文化審議会国語分科会(第1,2回)における主な意見―事項別整理―
  小学校・中学校国語教科書(平成14年度版)掲載作品・作者等一覧
  第47回読書調査報告(全国学校図書館協議会・毎日新聞社調査)―抜粋―
家庭教育におけるテレビメディアについての意識調査
(日本PTA全国協議会調査)―抜粋―
  「文學界」2002年 3月号(文藝春秋)―抜粋―
  2000年国民生活時間調査報告書(NHK放送文化研究所)―抜粋―
  意見発表者紹介
回覧資料〕
 
  小学校国語教科書〔光村図書,教育出版〕1〜6年生(上)
  中学校国語教科書〔光村図書,教育出版〕1〜3年生
  小学校理科教科書〔大日本図書〕3・4年生(上),5〜6年生(上)
  小学校社会教科書〔東京書籍〕3〜4年生(上下),5〜6年生(上)

経過概要〕
 
  事務局から,阿委員の紹介があった。
  事務局から,配布資料の確認と配布資料2〜7についての説明があった。なお,前回の委員提案を受けて,小学校教科書(国語・理科・社会)及び中学校教科書(国語)の一部を資料として回覧した。
  前回の議事要旨について確認した。
  中西進氏(帝塚山学院長)から,諮問内容について意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  樺島忠夫氏(大阪府立大学名誉教授)から,諮問内容について意見発表があり,その後,委員との間で意見交換が行われた。
  上記4及び5の終了後,自由討議を行った。
  次回,第4回分科会は,6月18日(火)の14時から約2時間,東條会館新館「千鳥の間」で開催すること,また,第5回,第6回の分科会は,7月10日(水),7月24日(水)の14時から約2時間,両日とも東海大学校友会館「富士の間」で開催されることが確認された。議題は,いずれも有識者ヒアリング及び自由討議の予定。
  本分科会での意見の要旨は次のとおりである。


(1)中西進氏の意見の要旨
   本日話す内容について,メモを用意した。「三つのイライラと三つの提言」というものであるが,イライラと言ったのは,国語論というのがどうも欲求不満というか,そういうものを人間に抱かせるからである。
  イライラの1番目に,「国粋派と国際派の水かけ論」と書いたが,我々の言葉を「国語」と呼ぶべきか,「日本語」と呼ぶべきかということでも,甲論乙駁,様々な議論がある。国語か,日本語かというのはいろんなところで議論されていて,もう「国語」というのは古いんだというふうな意見が国際派の方からある。しかし,私は,大学の国語国文学科を出て,国語国文学の教授をして,今,国語国文学会というところの会長職をやっていて,終始国語というのが付いて回っている。「国民の言語」という意味で国語の方が正しいのだ,国語がいいんだというふうなことを私が言うと,これは国粋派だということになるわけである。また,日本語は廃止して,フランス語や英語にせいというふうなことも,明治以来の先覚者の中にあったことは御承知のとおりである。そうすると,それに対して,いや,そうじゃないんだ,国語はすばらしいんだと言うわけである。しかし一方で,私は,かねてから明治の文明開化を推進した働きの一つに,外国語の習得ということが非常に大きかったと思っている。そういうことで甲論乙駁,結局,尽きるところがなく,イライラになるということである。
  2番目に,「本当に日本語とは何かを議論することが少ない」と書いた。私も国語審議会に10年近く出席させていただいて,いろいろ議論をしたけれども,どのようにしたらいいのかという方法論は,よく世上でも見掛けるし,議論に立ち会うこともある。しかし,そういうふうに論ずる前に「日本語とは何か」ということを考えなければ,日本語をいかに扱うかということの議論はできないはずであるが,とかく,日本語をどのように扱うのかという議論の方が多いのではないか。語源はこうだよとか,辞書的にはこうだよというものはたくさんあるのだが,それでは日本語というのは一体何だろうという議論は余りない。したがって,その根幹のところより枝葉のところで論じているから,何やら議論をしていると,イライラがたまることになる。これが2番目である。
  3番目に,「国語はスルスルと手から抜けおちる」と書いた。例えば,ら抜き言葉が一時問題になった。私も,ら抜き言葉はいけないということを一生懸命申した一人であるが,そういうことを言う片端から,世の中ではどんどんら抜き言葉が広まっている。ら抜き言葉がいけないという報告を国語審議会が出したその日に,ある団体の声明だったかで,「そんなことをお上から決めてもらわなくたっていい,我々が勝手にやるよ」みたいな意見もあって,私どもは愕然としたわけである。そういうふうに我々が国語を一生懸命大事にしようとしていながら,それに関係なく国語は独り歩きをしてしまう。国語というのは放蕩息子なのかなと思ったりもしていて,親の言うことをさっぱり聞かない。「国語放蕩息子論」とでもいったようなものが成り立つのではないかと思ったりする。あるいは,ペットで言うと,犬のように,忠実に主人の意見を聞いてくれ命令に従ってくれるということではなくて,かまどの上か何かに座ってじいっと観察をしながら,しかし「私は勝手にやるわ」といった猫のような感じである。そんなことで,スルスルと手から抜けおちるような放蕩息子が国語だというように考えるわけである。
  それではどうしたらいいのかということが,以下の三つの提言である。これは,先ほどの一,二,三に対応したつもりで書いてある。
  その一つは,「国語は,日本語を外国語として見ることで発見される」という命題が成り立つのではないか,つまり国語か,日本語かという対立論ではないと思う。むしろ国語イコール日本語だと考えたときに,さっきの「国粋派」対「国際派」といったようなイライラの議論も解消していくのではないか。
  これはどういうことかと言うと,日本人にとって日本語は母語である。つまり生活言語である。したがって,国語に対するときに,ついつい生活者として国語に接してしまうことが多いのではないか。生活者として見るときには,かなり無自覚的なもの,習慣というもの,エモーションといったものの中に取り入れて,日本語を考えてしまう。しかし,生活者的な判断,それによる国語論というようなものは,片方でいたずらな賛美を生む,同時にいたずらな嫌悪を生むといったことがあって,そういう生活者としての立場をまず反省してみなければいけない。別の言葉で言うと,一たん外国語として突き放してみることで,我々が母語としているこの言葉がどのような良さや利点を持ち,どのような悪さや欠点を持つのか,そういう事柄が見えてくると思う。
  それは,別に比較言語学的に接せよということでは全くなく,外国語として,まず生活者の立場から離れて日本語を見るということである。そのことによって,外国語との類似も見えてくるかもしれないし,相違も見えてくるかもしれない。そんなことで,一たん外国語として突き放してみることにおいて初めて国語というものの正確な姿が見えてきて,それを我々は母語として愛する。大事にする。私は「国民の言語」という意味で国語を使うが,国民の言語に対する尊敬というふうなものも出てくるのではないかと思う。
  そういうことで,国語というものは,日本語を外国語として見るというプロセスを踏むことによって初めて誕生するものだと考えている。
  次に,「ことばは,文化記号である」ということを書いた。これも言うまでもないことであるが,とかく議論のときに欠落することではないか。そこに存在すると思われている言葉を深く理解してみる。その目的は,一つの文化に到達する手段として,言葉というものを考えてみるべきではないかということである。したがって,そういう教育を学校制度の中にもっと多く取り入れるべきではないか。
  具体的に言わないと,抽象的になって,さっぱりお分かりいただけないかと思うので,具体的な例を申すと,「遊ぶ」という言葉がある。例えば,英語の「プレー」とかフランス語の「ジュ」とかいう言葉は,「賭けをする」という意味がある。そういう「賭ける」というふうな,ゆとりや自由。そういうものがイギリスやフランスで考える「遊び」という概念である。
  ところが,日本語の「遊ぶ」という言葉は,「ぼんやりする」という意味である。「あそそ」という言葉が万葉の中にあるけれども,「あそあそ」が詰まると「あそそ」になる。「あそ」というのは「ぼんやり」という意味である。だから,「うそ」という言葉と「あそ」は親戚だと思うが,ぼんやりした言葉で真実がないものが「うそ」である。ぼんやりということになれば,音楽を奏することによってぼんやりする。トランス状態を起こして,そこに神が降りてくる。これが音楽の本来の奏し方だと思うけれども,そのトランス状態を起こすことを遊ぶと言い,楽器を弾くことを遊ぶと言う。だから,これは二者択一,どちらかを選べる自由さというものの「遊び」とは全く違ったものである。
  そうすると,日本人の思考のカテゴリーというようなものは,さっきの何かを択一する自由というふうな,意志的な,行動的なものよりは状況的なものを問題にしている。そういったようなことで言うと,「遊ぶ」という言葉自体を考えるという事柄が大変大事で,これこそが一つの日本の文化記号であるという認識ができると思うわけである。
  もう一つだけ例を挙げると,外国語が先であるけれども,「due to」という言葉が英語にある。このdueというのは,日本語に訳すときに非常に難しい言葉で, 我々も中学校時代に大変困った言葉であるが,それを基にしたものがdutyである。dueは,極端に言うと,おかげをこうむるといった意味さえあって,人間として喜んで責任を果たすべきものがdueだというふうに私は認識している。それが日本語になると,新しい言葉ではあるが,dutyは義務ということになる。
  義務と言うと,3月15日がすっと思い出されて,これは確定申告の期限の日である。そういったことがぱっと浮かんできて, おかげさんでどころの話ではないわけである。「私はdueとしての死を遂げる」と言って死んだのが提督ネルソンであるが,ネルソンは国家に喜んで奉仕するということでdueというのを使うわけで, このことは司馬遼太郎さんが詳しく書いている。
  さて, そういうふうなことを日本語で言うと, どうなるのかというと,なかなかそれに当たる言葉がない。強いて言うと「負う」という言葉がある。責任を負うというふうな「負う」である。背中に母親を負うという「負う」であるが,「負う」という言葉がそれに当たるのかなという気がする。しかし,「負う」というときにはパーソナルな関係のように思うが,英語などの「負う」はもっと対社会的なものであって,したがって,納税というのは喜んで社会的な責任を果たすというふうなことで,responsibilityという言葉があるけれども,やはりresponseするという立場を非常に強く欧米では考えるということだと思う。
  そんなことから言うと,そこに文化記号としての遊び,あるいはdue,負うという言葉が出てくるわけであって,そういう言葉をもう少し議論すると,何かもっと本質的な議論になってくるのではないか。
  三番目は二つ書いてあるが,「ことばの自立力を信頼する」という方がいいと思う。言葉というのは,管理できない生命力というものを持っていて,それを管理するとしたら,個々人の品格という範囲において管理することが妥当であるということ以外にはないという気がしている。品格を捨てれば,どんな言葉だって使えるわけである。それに辛うじてフレームを作っているものは,やはりその人の教養とか,品格とかというものである。したがって,品格に保障された言語であるという,その範囲において, 言葉は自由だというふうに考えないといけない。
  そういうことで, 国語に対しては,さっき放蕩息子と申したけれども, 母親としての役目を失敗するなということを考えるわけである。いつまでも子供を掌の中に握り締めておきたいというのが日本の母親の従来の姿であって,キリスト教の母親の姿とは違うということをエーリッヒ・フロムが言っている。要するに,キリスト教では隣人にすることが母性愛であるから,自分から突き放す愛が母性愛だということをフロムは言うのである。そういうことで, 従来の家族制度の中で育ってきた日本の母親は,しばしば母親業に失敗をしていて,昔はいい子だったのにと言って, キリスト教で言うと隣人になった子供に対して愚痴をこぼすのである。言葉もそれと同じようなものではないかということであって, 言葉の自立力をもっと信頼すべきではないか。

(中西進氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  日本語と国語の問題であるが,今,私どもの学会の方では「国語学」か「日本語学」かということを非常に議論している。多分日本語学になるのではないかと思うのであるが,研究的な立場では日本語でもよろしいというふうにお考えか。「国語」という言葉は,文化庁の国語課もあるし,国立国語研究所もあるが,その辺はどのようにお考えか。

  日本語というのは当然辞書に載る言葉であるし,国語も載る言葉である。だから, 内容を変えることにおいて,違った言葉であることは何ら差し支えないわけである。国語研究所というときには,日本の国民の言葉を研究するところとか,あるいは国語課だったら日本の国民の言葉を正しくケアしていくところ,で当然いいと思う。
  日本語と国語というものがあたかも対立概念であるかのように考えることが一番問題だと思う。それは重なるはずのものであって,日本語を外国語として突き放してみましょうと言ったけれども,それは国語に戻るということである。

  先ほど日本語を外国語のように見るというお話があったけれども,言葉を習得するということとそれを使うということが, 日本語の場合は,生まれてすぐに周りから得るものであるので,多分はっきりと分かれていない。それゆえに生活のにおいがあり,生活者のものになっている。ある意味では,言葉のレベルから言うと,これはすばらしいレベルではないかという気持ちもする。私どもが外国語を習うときに,文法などから入っていって,ある程度習得はしても,なかなか使えないところが多い。多分日本語に慣れ過ぎているので,その国の言葉に入れないのかもしれないが,そういう意味で日本語はレベルが高いからいいとか,そういうことではないが,ちょっと別なことがあるのかなと。これをもっと大変な良い点として,日本語に対することができるのではないかと考える。
  今のお話の中では,私どもは行動よりも状況の中で言葉を使っているということであったが,何かの理由のために言葉を使うというよりも,必要だから使っているということが多くて,日本語もそれに対応しているという気持ちがしている。
  もう一つ感じるのが,日本語は書いた言葉,つまり文書になった言葉と話す言葉が相当に違う。そこが私には大変な悩みである。書いたときにきちっと論理的になりにくいということと,言葉で言ったときに生活者の言葉になり過ぎている。例えば,英語で講演などを伺うと,大統領や学者のお話を聞いても,それほど難しい言葉を使わずに伝達していただける。日本語でも,公式なときにもっとそのようにできればいいのではないかと思う。

  大変ごもっともな御批判だと思う。話し言葉と書き言葉の違いは,結論的には, 我々は二通り持っているんだというふうに言いたい。だから, すばらしい。しかし,そう言ってしまうと,国粋派になる。だから,そこのところを,これは具合が悪いんだというふうに,例えば英語の例をお出しになった。そういう鏡を持って,もう一遍考えてみることで,ただやみくもな賛美ではない,もっときちんと国際的な状況の中に日本語を位置付けた,正当な評価ができるのではないか。というのが今日の趣旨であって,そのときに話し言葉と書き言葉を一緒にしようよということではないと私は思うのである。だけれども,それは一緒じゃなくていいんだ,このままでいいんだ,そういうことを考え過ぎる方々もいらっしゃるのではないかという,そういう話である。
  生まれながらの言語もそうだと思う。ネイティブであるということの微妙なニュアンスというものは非常に尊いもので,むしろ得難いものであるとさえ思うが,それなりに弊害もある。ただ私は,外国語を勉強しましょうということは一言も申し上げていないので,外国というものを鏡のようにスタンスを取り直して見るということで,より良い日本語の美質も見えてくるのではないか。欠点もあると思うけれども。例えば,この「美しい日本語のすすめ」という本の中で,私が大分抵抗して自説を申したのは敬語である。過剰敬語は余り好ましくないということを言って,これは大分抵抗があったのであるが,若干そう書いてある。そういうような形で,国際的なライセンスを持ち得る国語にしたいと思う。

  私自身も放送の現場で言葉というものに接していて,本当に猫だと思う。本当に手に負えなくて,人間の意思から離れたところで自然に動いていくものだということは痛感しているが,その中でメディアが果たすべき役割というのも大きいと思うのである。メディアがどういうスタンスであるべきだというふうに,先生はお考えでいらっしゃるのか。

  メディアは,非常に影響力が大きいということが一番大事な認識ではないか。しかし,この本の中で,NHKの奥田さんが「テレビが悪い,悪いと言うけれども,そうじゃないんだよ」と力説していらっしゃるので,後でお読みいただきたいと思うが,確かに受け手が悪いのである。幾ら発信したって受信しなければいいわけであるから。ただし,そうは言っても,こういうテレビ時代であるから,それが一つの基準になるということは随分あるので,やはり猫だということを十分認識してお話しくださるのと,絶対に犬なんだ,絶対管理できるのだと思ってお話しくださるのとでは,ニュースの解説は随分違ってくる。そういうことで言うと,多面的な対応をもうちょっと持たなければいけないと思う。

  犬だと考えるべきなのか。

  いえ,猫なのである。だから,犬と考えてはいけないということである。変な話だが,ら抜きは非常にカレントな問題であるけれども,もっとさかのぼれば,どんどん崩れた,崩れの果てを我々は使っているわけである。連体型が終止型になるというのは大崩れである。それでも平気なのであるが,ら抜きだと俄然色めき立つということなので,どこかで猫としての自立力というものを認めなければいけないのではないかということである。

  生活言語としての立場を反省して外国語として突き放す,あるいは文化記号であるということは,多分そのとおりだと思う。ただ,僕のように,毎日,新聞記事を書いていると,生活言語そのものを使っているわけである。そうすると,先生のおっしゃるのは学者の立場,学者のレベルとしては多分そうだろうと思うが,僕らなどを含めて普通の人は,生活言語を反省して,外国語として見て,これを扱うときに文化記号であるということまでやれるのかどうか。しかも,それを普通の生活者に押し付けることが可能なのかどうか。つまり学者のレベルと普通の生活者のレベルは違うのではないかと思うが,いかがか。

  私は,先ほどそういうことは全く申していない。外国語のようにして,生活的な言語から別の言語を使いなさいというようなことは全く考えていない。そうではなくて,生活者として身に付いているものを自分の立脚点として論じると,とかく論がずれてくる。だから,もっと正確な立場に立って日本語を考えたときに,正当な結論が出るのではないかということである。その結果として,日本語とはこういうものだということが出てくる。私は易しい言葉遣いには大賛成であって,できるだけ自分で文章を書くときには易しい言葉で書くことを心掛けている。だから,新聞などは私にとっては大変なテキストである。そういう立場に立って,正しい言葉,美しい言葉,良い言葉などをどういうふうに認識できるのか。そのプロセスを,生活者として今まで信じ込んできたものから一遍離れましょうよということである。そこで,返ってくるものはやはり国語なのである。国語というものが,外国語として突き放すことにおいて誕生するとさっき申し上げたのである。その言葉を新聞でもたくさん使っていただきたいと思う。学者としての発言ではないのである。

  生活者,普通の人のレベルで考えても,日本人の会話の中では, 言語の文化的な側面というのか,そこから話を開いていくようなことというのは,いろいろ行われているような気がする。言葉に関する話というのは割と皆さん好きで,一般的で,話題になりやすいもので,非常に面白いものというのは今までもたくさんあるような気がするのである。
  たまたま配布資料に『文學界』の写しがあったけれども,教科書の中で私の記憶に残っているものということで,実際に記憶に残っていたのであるが,『蘭学事始』の中で,みんなで頭を寄せ合って,辞書もないのにオランダ語を一生懸命解きほぐしていった杉田玄白の話とか,金田一京助さんが北に渡って子供たちに絵をかいて,目をかくと,子供が「アッカ」と叫ぶので,「あ,これがアイヌ語で目と言うのか」ということを知っていくというような話が教科書に出ていて,私は非常に強く印象に残っていて,その後,自分が言葉というものにかかわるときに,いつもこの辺りのことが心に残っているわけである。
  こういうものは, ある種の国語とか言語というものと人間の思考とか,その民族の持っている文化とかというものと皆かかわっていることで,今のようなトピックスが,低学年なら低学年で,高学年なら高学年向きに,教科書の中では必ず1年のうちに1回くらい,言語とはどういうものなのか,日本語とはどういうものなのかということを,それぞれのレベルで問い掛けるようなものがテキストの中に載っている。そうすると,ああ,そうか,言葉というのはこんなものなのか,言語というのはこうなのか,日本語というのはこういうところに特徴があるのかということを,それぞれの学年で何となく上手に持っていって,ぼんやりしていて何も考えない子供もいるだろうけれども,何人かはきっとそういうことを契機に言葉というものについて目を開いていく。言葉は正に文化記号であるということについて,きっと目を開いていくのではないか。
  立派な詩をいきなり見せるのもいいけれども,こういう言語についての面白い話,ああ,そうなのかと納得できるような話というのも,もう少し教育現場の中で実際に反映され,先生もまたそういうことについて興味を持って子供たちにお話しになると,言語に対する関心というのは割と共通の興味になり得るのではないかと感じたのであるが,いかがか。

  大変いいお話で,私はかつてこんなことを書いたことがある。チェコへ行ったときに,チェコで日本語を教えている先生が「子供たちが, 日本語が面白くて,面白くてしようがないって言うんですよ」と言うのである。漢字の例を出されたのだが,例えば,この漢字は「鳥」という字だよと教える。次に,これは「山」という字だよと教える。ああ,そうか,そうかと。さて二つを合わせると「島」という意味だよと言うと,子供たちがどっと沸くと言うのである。それは漢字であるけれども,漢字というのはこういうものなんだということを教えるわけで,よほど外国人の方が日本語が好きになるという格好ではないか。
  ところが, 日本では,「島」という字が出てきたら, 「島」を10回書きなさい。島,島,島と書き取りをやらせるとか,私どもが子供のころはそうだったと思う。それが正に外国語として一遍見ましょうという話なのである。だから,今のお話はそのとおりだと思う。

  提言の1「国語は,日本語を外国語として見ることで発見される」の「発見される」のは何かということであるが,国語の仕組みが発見される,日本語の良さが発見される,のどちらなのか,ちょっとお教えいただきたい。

  両方であるので,1の言い方を「見ることで誕生する」に訂正させていただきたい。国語というものがここで初めて出来上がるんだと。外国語として見ない間は,国語というものはあり得ないのだということで,「誕生する」と訂正させていただく。

(2)樺島忠夫氏の意見の要旨
    私は三十数年,小学校・中学校の国語教科書の編集にかかわっている。また,日本語文章能力検定協会による文章検定をここ5年ほど行っているので,今日は国語教育について提言をさせていただく。
  私は,毎年,カナダで過ごす時間を持っていて,そこで言語に関する本やコンピュータソフトを買っている。レジュメ資料の4ページを開けていただきたい。そこにリーダーラビットというゲームソフトから引用した資料がある。このゲームは,ライオンのサムがドラゴンの城にいるリーダーラビットを助けに行く,その途中で読み書き,算数,科学の問題を解きながら進んでいくというものである。2ndGradeと書いてあるので,小学校2年生か3年生辺りに対するものである。しかし,算数で分数が出てくるので,3,4年生辺りになるかとも思う。言葉に関する問題には,接頭語を持っている語とか,複数形の語とかを探せという問題,状況を与えて,こんな場合,あなたはどうするかを書かせる問題などがある。その中に,文の働きを尋ねる問題がある。事実か意見か(factor opinion),事実か想像か(fact or fantasy),中心的な内容を表しているのか,それを詳しくする内容を表しているのか(main ideaor detail),原因か結果か(cause or effect),などである。この練習は,例えば,議論をするときに,相手の言っていることは事実に基づくものか,それとも思い込み,独断によるものか,中心的な考えは何か,などをとらえて議論する上で非常に役に立つ。
  次の5ページ,6ページは,文章の書き方を練習させるもので,小学校高学年から中学校にかけてのもののようである。文章を書くときは,その中心になる考えをきちっと立てる。そして,それをパラグラフによって構成する。そこで述べる内容を予告するトピックセンテンスを立てて,その予告内容から外れないように注意しながら,トピックセンテンスの内容を詳しくすることによってパラグラフを構成する。そういう趣旨説明があって,子供に課する問題が出てくる。
  例として挙げた練習の最初のものは,次の二つのパラグラフにはトピックセンテンスが欠けている。それを補えというものである。2番目の練習は,1から6まで挙げてある文の中で,どれがトピックセンテンスであるかを判断して,叙述する順番に文を並べ換えてパラグラフを作れという問題。その次は,パラグラフの結びとしてどのような文を置けばよいかという問題。6ページの真ん中の練習は,トピック,つまり中心となる内容と,それを支える部分となる内容を与えて,これによってパラグラフを書けという問題である。これはテレビコマーシャルの宣伝技術を扱った内容である。こうした指導は,考えをはっきり立てた上で,読む人にも,聞く人にもよく分かる明快な文章の構成法を教えるものである。
  これを見ると,国際的な場で日本人とアメリカ人とが議論したら,とても日本人は勝てないだろうという気がする。それは,英語の能力という問題は別にしても,発言が事実に基づいているものか単なる思い込みや独断で言っているのか,発言は根拠から導き出したものかなどを見分けたり,論旨を整えて分かりやすく話したり書いたりする指導を,小学校から行っている国の人間と,物語やお話を読むのが国語教育だと思い込んでいる国の人間とでは議論にならないと思うからである。
  国語教育がどのような筋道をたどって行われるかということは,皆さん御存じだと思うが,まず文部科学省が学習指導要領を出す。資料の2枚目から,今年から行われている小学校の学習指導要領の内容を私なりに,目標,内容,内容の取扱いに分けて整理してある。学習指導要領は,「話すこと・聞くこと」,「書くこと」,「読むこと」という3領域と「言語事項」との四つから組み立てられている。これが発表されると,これに従って教科書会社が教科書を作って検定を受ける。それから学校が教科書を採択して,現場でその教科書を使って授業をするということになる。
  先ほど拝見したら配布資料の3として「小学校,中学校国語教科書掲載作品」のリストがあった。しかし,教科書はこれが全部ではない。ほかに,話すこと・聞くこと,書くことの領域,言語事項に関する内容が盛り込まれている。
  ところが,日本ではどうも国語科というものは,文学作品を読む教科だと考えている人が多い。現場の教師にも,教材として文学作品を歓迎する空気がある。文学作品以外は「説明文」としてくくってしまう。その説明文は非常に評判が悪い。面白くない,感動がないと言って,文学作品を読む方に傾く。
  私の知り合いの教育大学の名誉教授が, 京都市で中学校で,年間書くことにどれだけ時間を充てているのかを調べたところ,1,2時間という答えが返ってきて驚いていた。私がかかわっている文章検定で,営業の人が中学校に行って,文章検定受検の勧誘をすると,生徒が文章検定を受けるから指導してくれと言ってきても,自分には指導ができない,だから検定を受けさせないという先生がいる。また,自分には指導も書かれた文章の評価もする自信がない,だから検定を受けさせるという先生がいる。後者の方が有り難いが,どちらにしても,書くことの指導は行われていないのが普通であるようだ。
  教科書では,書くこと,話すことは,コラム風の姿で掲載されることが多い。だから,それを飛ばしてしまいやすい。また, 書くことの教材を読むことに使って,読解をして過ごしてしまうことも多いようである。
  こういう文学を重視するという傾向は,中学校,高等学校に行くほど強くなっている。文学も大いに指導するべきであるが,文学ばかり指導していると,問題が起こる。文学作品を国語科で扱うことに私は反対するわけではない。しかし,問題があるように思う。文学作品以外の文章では,書き手はどういう意図を持って書いているのか,プロパガンダか,事実の報告か,これを見分けなければならないことがあっても,その指導ができない。書き手はどのような意図を持って書いているのか。この文章はどういう事実に基づいて,どのように推論しているのか。提起している問題は何で,結論は何か,結論に至るまでにどのような経過をたどっているのか。これらを読み取る指導が必要である。
  文章検定の2級で,問題を提起する文章を提出して,それに関して論説文を書かせる問題を出している。私が非常に驚くのは,問題として提出した文章をそのまま答案に写す,また,少し表現を変えて書くという人が毎回5パーセントくらい出てくることである。文章を読み取る訓練ができていないと思われる人が多い。これは文学作品ばかり読んでいるからではないかと,心配している。
  ここで,二つのことを提言したいと思う。
  第1は,今の国語科を二つに分けて,文学を読ませる教科と言語指導を行う教科とすること。これまでの作文指導で,どういうことをしているかというと,感動したことを書けと指導している。私が和歌山県の中学校作文指導研究会に講師として出席したとき,作文を実践して多くの生徒をコンクールに入賞させている先生が,「私は感動したときに作文を書け,感動がないときには作文を書かないでよろしいと指導している」と発表した。私は,それは指導ではない,と批評したのであるが,本人は非常に不満だったようである。感動したことを書かせるのではなく,生活の中からいろいろと問題を見付け出す。まずその問題発見をどう行うかを指導するのが作文指導にとって重要である。そして,材料を集めて,それを使ってどう文章を組み立てるか,意見を述べるならば,意見がはっきりと分かるように述べる。そういう指導をすべきだろうと思う。学習指導要領に基づいて言うならば,話すこと,聞くこと,書くこと,説明文と呼ばれている文学作品以外の文章を正確に読む,これらの技術を教える。また言語事項で示された事柄を学ばせる。そういう言語科を立てて,文学作品を読ませるのと区別してもらいたいというのが第1の提言である。現在のように,国語科を一本にしておくと,大抵の教師は文学作品を読んでおしまいということにし,話すこと,聞くこと,書くことはろくに指導しないで終わってしまう。
  第2の提言は,教員の再教育を何らかの方法で行ってもらいたいということである。第1の提言のように,国語科を文学と言語とに分けたとすると,言語の方の指導ができる教師が少ないのではないかと思う。これは大学にも責任がある。大学には,国語表現法あるいは日本語表現法という科目があって,教員の免許取得のために単位を取ることになっているが,多分ここでも,話すこと,聞くこと,書くことの指導よりは,文学作品を読むなどしてごまかしているのではないかという気がする。話すこと,聞くこと,書くこと,言語事項の指導がきちんとできるように教員の再教育を考えていただきたい。
  提言するのは以上の二つである。

(樺島忠夫氏と委員との意見交換/○は委員,□は意見発表者を示す。)
  先ほどの中西先生の日本語を客観化して考えるということと重なるのではないかと思うが,私は15年間,全体で見るともっと長いけれども,大学で英語を教えてきて,カンニング防止にもなるし,我ながらと思ってやってきたのが,授業の都度「タイム」からあるページをコピーして,その場で配って,辞書を持って読ませて要約を出すというものであった。そのときに,全部家に持って帰って,添削して返したのであるが,学生からは「先生の授業は英語じゃなくて日本語の授業だ」と言われた。これでは文章になっていない,どういうことか分からないから,こう書き直せというような指導をしたからである。
  そこでつくづく思ったのが,外国語を勉強する上でも日本語の能力がなくては読めないし,書けないし,まとめられないし,駄目だということなのである。だから,今おっしゃったようなことを,義務教育の中では英語が必修になっているので,英語の教師と連携してやっていくという可能性は考えられないか。例えば,回覧していただいた教科書の中で「おはよう」という一言が1年生の第1ページに出ていたと思うけれども,日本人にとっての「おはよう」というのは,早く起きたというような,お互いの状況を言っているのであるが,「グッドモーニング」というのは「Mayyou have a good morning. (あなたが良い朝を迎えられますように) 」という祈願である。その「おはよう」と「グッドモーニング」だけでも,根本にある考え方とかが分かってくるので,そんなに難しいことをやらなくてもできるのではないか。もちろん国語教師の再教育ということは大事なことであるけれども,それこそ日本語を大きな文脈の中で外国語としてとらえて,国語を誕生させようというような御趣旨だったと思うが,そういうことも含めて,他の言語,具体的に言うと,英語教育と連携させてということは,樺島先生はお考えになっていらっしゃらないのか。

  連携させてというよりも,先ほど申した,文章をパラグラフできちっと構成する書き方を習ったという人がいるので,どこで習ったかと尋ねると,英語で習ったと言う。こういう書き方は英語での書き方で日本語での書き方ではないと思っていた,と言うのである。明快な文章の書き方を日本の国語教師が行っていない。どういう書き方をすれば明快な文章が書けるかを教師が知らないで,指導しなかっただけである。
  文章検定では,文章をパラグラフで構成する書き方を要求している。京都では,大学間でコンソーシアムという組織を作り,文章の書き方などの再教育を学生に対して行っている。大学からの要求によって日本語文章能力検定協会から講師を派遣している。英文科の学生を指導すると,やはり英語での書き方だと思っていたと言っている。また,私は,日本人の学者で,明快な文章を書いている人の文章を読むと,これは英語での書き方が身に付いているのかと思ってしまう。
  そういう意味で,英語教育と国語教育とが一緒になって,明快な,分かりやすい,自分の考えをしっかり表現する指導をしていけば,もっと効果が上がると考えている。

  樺島先生が御主張なさったことに,私は全面的に賛成である。そのような考え方で私も今までここで発言してきたつもりである。学校の国語科教育について,先生が平成10年の学習指導要領をまとめてくださっているが,昭和20年代の試案,30年代以降に告示の形で法制下に置かれた学習指導要領以来,国語科では文学作品を取り上げると同時に,説明・論理的な文章を取り上げ続け,説明・記録・報告の文章,意見・主張の文章も書かせる,読ませるというふうにしている。けれども,現場の先生方は体質的に文学を好んでいる。学習指導要領により,国語力,すなわち言葉の力とは何かということの認識をきちんと持っていない。
  読むことのほかに,話す,聞く,書くも, 領域として30年代,40年代には作られていた。その流れはずっと変わらないのであるが,教員養成機関での授業の内容,現場の先生になってからの研究会の在り方等,体質改善ができていないところに大変問題がある。先生の御提言に,私は賛成であり,意を強うしたという気持ちである。

  私は中学校の代表としてここに出ているわけであるが,学習指導要領については,今日の子供の実態を踏まえたり,社会の変化,例えば国際化,情報化,高齢化,科学技術の進展,あるいは環境汚染,また,いじめや不登校,受験,社会体験の不足等を踏まえていて,大変良くできた学習指導要領ではないかと思っている。そういう実態変化等を踏まえながら,言語の教育としての立場を改めて確認して,論理的に述べる,目的・場面等に応じて適切に表現する,読書に親しむ,説明・話合いをする,記録・報告をまとめる,古典に親しむ等々,そういう能力を育てることを大きなねらいとしている。
  教科書については,私は実は検定の臨時委員もやっていて,また全国の国語の研究会の代表ということで,いろいろな研究会にもかかわっているが,教科書は随分変わってきたと思う。私は主に中学校に関心が深いわけであるけれども,話したり,聞いたりするということについては,どの教科書もかなり工夫して,実際に教室で話したり,聞いたりする能力を高める教材になってきているように受け止めている。
  それで先生に一つ伺いたいのは,文学と言語能力とを分けるということであるが, 私もこれが実現すればいいと思う。ただ,少ない時間の中で,実際には4,3,3だが,1年生は習字が1時間あるので,週3時間の中で,話すこと,聞くこと,書くこと,読むこと,そして言語にかかわる事項を指導していくわけである。単独でそれらの領域を指導するのではなくて,話すこと,聞くことは,読むことの学習,一つの作品を読んで,その感想を交流し合う,あるいは感想を書く。そういう互いの領域との関連の中で,有機的な学習が成立していき,能力もそれぞれ伸ばせるのではないか。読むことが独立した場合は,そのことによって時間的な問題があるし,そういう領域の関連によってそれぞれの能力を伸ばしていくという学習の効率等もあると思うが,その辺りを先生はどのようにお考えか。

  私は,今は1割ほど国語科の時間が削減されているが,その時間数の中で,文学と言語とに分けるのではなく,ゆとりを持って双方に時間数を増やしてほしいと考えている。
  それから,文学作品を読んで意見を発表したり,感想を述べたりするのも話すことの指導になるとの意見であるが,それはそれで行ってもらったらいい。しかし,文学作品を基にしてはできないことがある。日常生活の中から問題を発見する,例えば,新聞の投書欄に投書している人たちが見付け出したような問題を探して,こういう事実がある,それについて自分はこのように思うという,短くて2段落くらいの1分間スピーチをする。こういうことは文学作品を基にしていたのではできない。文学作品を基にして,話す,聞く,書くを指導すればいいではないか,ということでは,これまでの指導と変わらないということになりかねない。「話す」,「聞く」,「書く」は,文学の方でも言語の方でも両方で行うのがいいと,私は考えている。

  私も樺島先生の御発言に賛同する。この分科会では国語力というものの解明,あるいはその伸長ということを考えているが,戦後の学習指導要領の内容は大きく二つある。大胆に分けると,人間形成に資する部分と実用的な言語能力を育成する部分の二つになって,どちらを前に出すかというところで,ちょうどシーソーのように次々と変わってくるということになっていた。現在の最新の学習指導要領は,実用的な言語能力の育成というのを前面に出して,人間陶冶の部分をその後ろに潜ませたということが,今ちょっと世の中の反発を買っている部分があると思うわけである。しかし, 人間陶冶というところも, 読書指導というところで非常に大きく出ていると私は思っている。
  今日の樺島先生の場合は,その実用的な言語能力というものを出して,そこから,更に国語科を二つに分けるということで,昭和30年前後の文学編と言語編の二分法に戻っていくところがある。ただそうすると,文学の時間が非常に減ってしまうという心配を私は抱いているので,できれば,一緒にできると良いというように希望している。樺島先生も実用的な言語能力を強調する余りに,文学のことを余り書いていないけれども,実際は,『平安の闇』だったか,大変に面白いものをお書きになったりしている。ところが,今日はそっちはおっしゃっていなくて,本当に言いたいことだけをおっしゃっているわけであるが,是非とも文学についても発言していただきたいと思う。

  私は,文学作品を読むときには,文学作品のいいところが分かるような読み方をしてほしいと考えている。今, 多くの先生方が,果たして文学作品を生かして読んでいるのか。読むのが嫌いになる子供たちを育てるような方向に向かっているのではないか。作品をごちゃごちゃと分解してしまわないで,もう少し伸び伸びとした読み方をしてもらいたいと思っている。
  教科書に文学作品を載せる場合には,大きな作品の一部分だけを取り出して読ませるのでは,文学を読むことにはならないので,どうしても短いページの中にまとまるものを選ぶ。そうすると,条件に合う作品がなかなかないので,新しく作家にそういうものを作ってもらうということになる。
  漱石や鴎外を入れろと言われるけれども,高等学校ではいいと思うが,小学校辺りだと,完結した作品の形で,しかも義務教育という中でだれにも読める作品を出すには工夫が要る。「彼女は美人だ」というような言葉があれば,それは教科書には出せない。そういう制約が教科書の文章には非常に多い。「死んでしまえ」などという罵りの言葉が作品の中にあれば,やはり出せない。
  教科書編集会議で,作家である教科書著者からは作品の文章をごたごたいじくりまわさないで,のんびりと読むだけでいいのではないかという意見が出される。教科書に文学作品を載せるのであれば,かなり余裕を持って,ページ数も増やす。あるいは代表的な部分を少し載せておいて,あとは副読本に任せるという手もあるという気もする。面白い,もっとこの作家の作品を読んでみたい,という気を起こすような指導を現場で行ってほしい。

  今ちょうど言われたようなことを聞きたいと思っていたのであるが,私は,自分の塾で4,5,6年生を100人以上教えている。そうすると,彼らは意外に読む力がある。それが分かっているものだから,今の国語教科書では,余りに量が少な過ぎると思うのである。今,回覧されているのは,「上」だけであるけれども,1年間でやるのに,あれだけでは余りに少ない。授業でやるのなら,上下合わせても,1年ではなくて1か月以内で終わらせることができる。やはり量が少ないと,言われたトレーニング,要約力というか,要約するトレーニングをしていくのには,ちょっと不十分ではないかと思う。パラグラフ読みにせよ,的確に要所をとってコメントをするにせよ,ある程度練習が必要なので,常に幾つもの文章を次々にこなしていくという,そういうトレーニング的な授業をやる方がいいと考えている。そのためには,もう少し量があった方がいいのではないかというふうに,お考えなのではないかとお聞きしようと思ったところである。

  そのためには,自分の説に固執するが,文学と言語とを分けて,文部科学省の方で諮っていただいて,それぞれに相当厚みのある教科書を作ってもいい費用を出してもらう必要がある。
  それから,文学作品では要約の練習をしなくていい。要約の練習は,文学作品以外の文章ですべきだと思う。文学作品では要約よりも,その作品がどんなに面白いか,本の表紙にくっつける帯の宣伝文章を書いて,まだ読んでない人に読む気を起こさせるというようにすればいい。文学作品を要約するということが,文学嫌いな子供たちを作ることになる。

  中西先生のお話,樺島先生のお話,それぞれに感銘を受けて拝聴した。ちょっと矛盾するようでも,両方とも同じように大事だと思う。私たちが求められているのは,これからの時代の国語力,これからの時代をどう定義するかによるけれども,一言で言って,ボーダーレスの時代に応じた国語力はどうあるべきかというときに,国際社会の中で,まず日本人が自分の母語として,自分の国の言葉としてのプライドを持ったアイデンティティーを持たなければいけない。それは言葉によって培われるのだという意味で,中西先生の三つの御提言は正にそのとおりで,それを私どもはよく頭に入れて考えていくべきである。
  もう一つは,樺島先生のお話に関連してである。外国では国語教育のときに,事実と意見をはっきり分けることを小学校のころから始めて,パラグラフというのにはトピックセンテンスがあるものだとか,自分の意見にはコンクルージョンがきちんと書けていなければいけないとか,書かれたものはアウトラインがしっかりしていて,自分の主張が明確に論理的に述べられていなければいけないとか,について小学校,中学校, ハイスクール,それから大学のフレッシュマン・イングリッシュという教育でも徹底的にやるのである。
  実は,私は英文科で30年来教えているので,英文科の学生にどうしたら英語で文章を書かせることができるかと考えたときに,まず,これがなかったら英語として通じる文章が書けないということに気が付いて,その当時から,外国から教科書を取り寄せて,徹底的に学生に教えていた。それで,学生にはこう言っている。この授業は,あなたたち一人一人の頭の中の配線図を変える授業である。これでなかったら英語は通じないのである。これは日本語に応用することもできるけれども,この書き方は建築で言えば骨格みたいもので,それを使って文章を書けば,よく外国で通用するけれども,それだけで終わったら,日本人として何か足りないものになる。樺島先生は文学と言語能力を二つに分けるとおっしゃったけれども,文学で読書感想文を書くのは日本人のアイデンティティーのための感動する文章を書く方で,こちらでも作文能力は養われるべきであると思うが,新しい言語能力,いかにして世界に通じる書き方ができるのかということをおろそかに考えていたら,とんでもないことになるんじゃないかと思うほど認識が足りない。
  教員の再教育とおっしゃったけれども,どのくらい大変かと言うと,1クラスの人数,90分の授業を2年間にわたってやるのであるが,1クラス20人以下でないと先生の手に負えない。最後はマンツーマンで,書いてきたものを徹底的に直す。それを繰り返し訓練するのは大変な仕事である。樺島先生のハンドアウトの2ページ目,小学校学習指導要領の「書く」というところであるが,小学校のときに,これも必要であるけれども,これでは全然足りなくて,全く別のものを新たにクリエイトして,相当な覚悟を持って国際的に通用する日本語での言語能力,それは自分の意見を言うことができるだけでなく,相手の意見を聞くこと,聞いた後で考えること,そして話し合った結果,自分が違う意見を持てるようになること,という人を育てる基礎としての言葉の教育が大事である。先ほどから文学と対立するように言っているが,文学での書く言葉,文学で語る言葉も大事だけれども,そうでない全く新しい,世界に通用する日本語のベースというものを教育するということで,藤原先生が国語の時間で塗りつぶせという言い方をなさっていたが,そういう意味でも言葉というものに時間を絶対的に掛けていかないと,国際社会でやっていけないというのが私の思っていることであるが,いかがか。

  賛成である。事実をきちっと書くことが必要だと述べたが,これは実は小説で言えば描写をすることに当たる。文学にも共通するところはある。私が強調したいのは,現在の教育の現場を見ると,文学と言語とに分けるというような手術をしなければ日本の教育は良くならない,ということである。
  『文部科学時報』にも書いたが,日本語文章能力検定で,2級受検者235名について統計を取りながら調べた。解答放棄,白紙で出した人39名。字数制限の条件を満たさない文章を書いた人10名,問題の文章をそのまま,又は変形して写した人14名,問題の趣旨・内容を理解せずに誤解して論説文を書いた人52名,はっきり意見を述べていない人23名,合計138名,全体の63パーセントが不合格。合格したのは残る37パーセントであった。問題の文章をそのまま書いたり,あるいは,その後に「私はこれに賛成だ」と書いた人が6パーセントもいる。
  こういうことでは,議論をする能力を持たないことになる。議論するときは,相手と話しながら,その中から問題を発見していかなければならない。そして,事実を基にして議論を進めなければならない。自分の信念だけを基にして論理を展開しても役に立たない。そういうわけで私は,荒療治にはなるが,文学と言語とを分ける方がいい,そうでなければ徹底的に教員の再教育をしてほしいと言ったのである。国際的な議論の場では,文学を読んでいるだけでは通用しないということである。

  私は,教科書が良くても利用できる先生がいないということを申し上げたかったのであるが,本当に教員の養成課程から,つまり,小学校,中学校の教員候補の教育を初めからやり直していかないと,今のお話は現実性が非常に弱くなるところがあると思っている。私も同じような立場にいるので,全面的に賛成させていただきたい。

(3)自由討議における意見の要旨
  先ほど,樺島先生の教科書作りをされている立場から,学習指導要領に沿ってやると,教科書の中で書けないものがあるとおっしゃった。さっきの「美人」とか「ばか」ということは書けない。そういう教科書で,様々な問題を発見して,そこから議論していくというのは非常にいいことだと思うが,今の学習指導要領と検定制度,教科書作りの中で,そういう自由な,例えば社会的な問題みたいなものができるのかどうか。僕はできにくいというか,できないのではないかと思っているのだが,どうか。

  差別的な言葉が入ると教科書には出せない,というのは学習指導要領の問題ではない。これは社会一般の問題である。それから,国語科は,問題を発見したり,調査したり,考えたりするという基礎・基本を教えるところで,それを社会科あるいは理科と結び付けて問題を発見し,調査し,文章にするのが総合の時間である。国語科の時間が減った分を総合の時間で補っていきたいというのが我々国語教科書の編集者の願いである。小学校の総合での時間に英語を教えることにすると,現場の先生の手から離れるので楽になるかもしれないが,国語能力は落ちていくのではないか。社会の問題,理科の問題,地域の問題は,総合の時間が用意されているので,そこで扱うべきで,国語科では言語の基礎・基本を教えるということになる。

  これは私の独断の考えであるが,日本語科と日本文化科に分けるということかな,日本語科は言語技術科という名前でもいいのかなと。ただし,日本文学科というのはどうかなというのはしばしば感じている。というのは,昭和20年代から30年代にかけての文学教育みたいなものはもう再生しないと思う。主題読みをしたり,近代的な人間の生き方のモデルとして日本の近代文学を読ませていくというようなことは,もはや駄目であろう。現場の実態を言うと,まだそういうふうにやっている学校もあるけれども,教員自身が,大ざっぱに言えば,むなしさを感じている。「こんなことを教えて,どうなるの」と。
  例えば太田豊太郎,『舞姫』をやっても,生徒は一応受験なんかがあるから,付き合った顔はして聞いているけれども,転勤して工業高校や実業高校へ行くと,生徒の反応は,豊太郎は女たらしであるというのが率直な感想として出てくる。与謝野晶子を教えても,あれで近代的自我の確立,恋愛の自由ということを教えても,目の前には恋愛の自由が一杯あるわけだから,本音のレベルで言えば,生徒はそんなことを教わってもどうなるのという問題が出てくるし,教員のレベルでも一生懸命時代背景などを教えても,まあ,むなしいなという感じが多くなってきて,そういう点では再生しないだろうと考えている。
  現場の実態は,日本語教育をやっている人は非常に元気だが,文学教育をやっている人は混乱している。元気がないか,混乱をしている。そういう点では,やはり日本文学科ではなくて,日本文化科ないしは古典文学科という形になるのではないかなと思っている。高校では,両方を必修科目として,どっちかだけやればいいよというのではなくて,二つともやっていただけるといいなと考えている。

  先ほどの樺島先生と松岡委員のお話を興味深く伺っていたのであるが,そこで樺島先生の方からは,国語科を文学と言語能力という形で二つに分けるという御提案があったけれども,言語能力をもう少しとらえ直してみた場合に,これは英語であれ,日本語であれ,他人とコミュニケーションをどうとるかということに関するある種の方法論というふうに取れると思うのである。そこには一つの仮定が要る。つまり世界のどの言葉をとってみた場合でも,他人に分かりやすく書くということが,先ほど樺島先生がアメリカで文章の書き方に関しての本がどんどん出ていて,そういう教育がなされているということであったけれども,例えば他人と議論していく,あるいは文章を書いて他人の理解を深めるということに関して,この方法が世界のどの言葉をとっても共通であるという前提が成り立つならば,言語能力というのは国語ということでとらえるのではなくて,むしろ他人とのコミュニケーションをとる方法論,そういうことを日本人が今後きっちりと培っていくべき問題となる。そうすると,単に国語ということでとらえ直すのは少し狭く,もう少しマクロな目でとらえてもいいのではないかということを感じた。それは,先ほど言った世界のどの言葉にも共通する分かりやすい文章の書き方があるという前提の下である。

  数日前に,そのうち社説に載る予定の文章を一つ書き上げた。ここのところ事件が続いていて,まだ載っていないけれども,今週末ぐらいには載るのではないかと思うが,そのタイトルは,私が付けたのが「総合的学習で読書の楽しみを」というタイトルである。ラストの方の文章は,「総合的学習で小学校から英語を取り入れる学校が増えているけれども,英語は表現の手段を学ぶものであって,国語はその内容を形作るものだ,国語の方が大事だ」という形で終わっている。
  諸外国の母国語教育の時間と日本の国語教育の時間を比較すると,文部科学省でデータを作っているけれども,日本は,アメリカ,フランス等に比べるとかなり低い。前の時はイギリスとイコールぐらいだったと思うが,今度の指導要領で更に低くなっている。この国語教育の時間の少なさを,まず何とかしなければいけない。しかし,指導要領があるわけで,すぐにとはいかない。そうすると,総合的な学習の時間を使うということしかないだろうと思う。先ほど言語技術と文学とを二つに分けてとおっしゃったが,文学の,特に読書の部分を総合的学習で展開をしていくといいなというように思っている。
  ただ,これまで総合的学習と言うと,自然体験,社会体験,国際理解,環境等々の事例が示されていて,そちらの体験的な事例が多くあって,国語,読書と総合的学習をつなぐ研究というか,実践の発表というのがこれまでなかったように思う。だから,総合的学習で読書,国語をやっていいのかなというためらいが恐らく学校現場にあるのではないか。しかし,総合的学習の手法でそれをやっていくことは幾らでも可能で,そういった方向を提示していくことも大事ではないのかなと,今日の話を伺いながらそんなことを考えた。

  私は4年生の子供を持っているのだが,読書がすごく好きな息子が一番嫌いな学科に国語を挙げている理由は何か,樺島先生のお話で,母親として腑に落ちた部分がある。先生のレジュメの中には「日本人の心理を矯正することが必要である」ということがはっきり書かれていたのだけれども,私は,特に小学生の子供たちが学んでくるものというのは,コミュニケーションの情動的なものというのか,言葉で伝えられたことを理解するより先に,お母さんがどんな気持ちで何を望んでいるのか,要するに象徴的コミュニケーションの下支えをしている,最も影響力の多い情動的なコミュニケーションの部分,ノンバーバルな動作とか力道的な動きとかというのが発生してきて,そういったものの読み取りでもって状況判断することだと考えている。そして家庭の中では,小学校に上がっても,ほとんどその家庭で支配されている関係性のパターンというのが同じなものだから,そうしたコミュニケーションの中から,どうやって文字とか論理的なものだけを抜き取って高めていくのかというところが本当に重要だなというように感じている。
  それで,どう伝えるかという訓練が大事なのであるが,結局,現実生活の中では,コミュニケーション,どう伝え合うかということなので,発信したものをノンバーバルなところでだけ意味付けして読み取るのではなくて,相手がどう理解しているかを言葉でクリアにしてもらう。クリアになっていないことを言葉で言っていくというような,ノンバーバルなところで済まされ,あいまいなものを先にぽんと出して,後で顔色を見ながら調整するという形の関係性の取り方を言語化していくというのであろうか。ノンバーバルなものに対して言語化していくような訓練も,きっと大切なのではないかと感じている。

(文化庁国語課)

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