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国語分科会

2002/03/27議事録
文化審議会国語分科会第1回議事要旨

文化審議会国語分科会第1回議事要旨

平成14年  3月27日(水)
午前10時〜午後0時30分
東海大学校友会館「朝日の間」

〔出席者〕
   (委員) 北原分科会長,青木,阿刀田,井出,臼井,内館,沖山,甲斐,勝方,工藤,小林,五味,齋藤,舘野,田村,手納,西尾,西村,藤原,松岡,黛,水谷,山根各委員(計23名)
  (文部科学省・文化庁)
    池坊文部科学大臣政務官,御手洗文部科学審議官,河合文化庁長官,銭谷文化庁次長,遠藤文化部長,片山国語課長,浅松主任国語調査官ほか関係官

〔配布資料〕
   文化審議会国語分科会委員名簿
  文化審議会国語分科会運営規則(案)
  文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)
  文部科学大臣諮問(平成14年 2月20日  平成14年諮問第5号)
  文部科学大臣諮問理由説明(平成14年 2月20日)
  文化審議会(中間まとめ)(平成14年 1月24日)(抄)
  6-2   文化審議会における主な意見  ―国語に関して―
  中央教育審議会答申「新しい時代における教養教育の在り方について」
    (平成14年 2月21日)(抄)
  戦後のこれまでの主な国語審議会答申等
〔参考資料〕
     文化審議会令(平成12年 政令第281号)
    文化審議会運営規則(平成14年 2月20日文化審議会決定)
    文化審議会の議事の公開について(平成14年 2月20日文化審議会決定)

〔経過概要〕
     事務局から,出席者(委員及び文部科学省・文化庁関係者)の紹介があった。
    委員の互選により,北原委員(文化審議会副会長)が国語分科会長に選出された。分科会長就任に当たってのあいさつの要旨は次のとおりである。
         私個人は,19期,20期,21期と3期6年間,国語審議会の委員を仰せつかった経験があるけれども,今回のこの諮問は非常に大きな諮問で,国語の専門家だけではカバーできないような課題である。幸い分科会の委員として,非常に多方面から専門家を選んでいただいたので,幅広い議論を展開して良い答申ができればと思っている。
  我々の任期は,前の国語審議会は2年だったが,今回は1年ということなので,1年間で少なくとも中間報告ぐらいはまとめなければいけないという,そういう大変急ぐ審議会になるので,よろしく御協力いただきたい。
  事務局から,資料2「文化審議会国語分科会運営規則(案)」についての説明があり,了承された。
    事務局から,資料3「文化審議会国語分科会の議事の公開について(案)」の説明があり,了承された。
    国語分科会の発足に当たり,池坊文部科学大臣政務官及び河合文化庁長官から,あいさつが行われた。
       (池坊文部科学大臣政務官のあいさつ要旨)
  21世紀のIT時代にあっても,私は,読み・書き・計算がすべての基礎ではないかと思っている。そして,その読み・書き・計算の基礎は国語力ではないかと考えている。国語力を高めることは,人々のコミュニケーションを豊かにするだけでなく,学問,科学技術,すべてにおいて大きな力を持っているのではないかと思う。
   一方で,若い人たちの語彙の少なさ,国語力の貧しさに暗たんたる思いをしている。先般,出された中教審の「教養教育の在り方」においても,重要事項の一つとして,国語力のことが掲げられており,「朝の10分間読書運動」や各高校における「必読書30冊」の選定のことなどが取り上げられている。
  文部科学省がかかわってきた二つの法案があって,私も一生懸命力を尽くしてきた法案であるが,一つが文化芸術振興基本法である。その中にも,国語の力は大切だということ,国語の 知識を高めることの大切さ等が述べられている。もう一つは,子供の読書推進に関する法律で,これも私は党の読書推進のプロジェクトチームの座長として全国を回って,朝の10分間学校で読書をするように,それから,幼い子供には読み聞かせをするように,また,それぞれの年 代に応じて,いかなるときにも本を読むことができるような環境整備をするようにということ で,一生懸命頑張っている。
  この二つの法律ができたことで,さらに国民的にも国語は大切なんだという気持ちをもう一度思い起こしていただけたら,そして,みんながそのことに心を一つにしていったら,もう少 しましな日本になるのではないかというふうに思っている。
  21世紀には,何と言っても国語力がしっかりしなければ,国際社会の中できちんとした日本人として生きられないと,私はかたくななほどに固く信じている人間であるので,これから 皆様方の御英知をいただきたいと思っている。私はこの国語分科会を大変楽しみにしているの で,皆様方の生の声を聞かせていただくために,時間の許す限り今後も出席したい。

(河合文化庁長官のあいさつ要旨)
  去る2月20日に,文部科学大臣から文化審議会に対して「これからの時代に求められる国語力について」という諮問が出された。総会では,この諮問は国語に絞ったものであるため,まず,国語分科会において様々な分野からの委員を加えて御審議いただく。そして,総会に対して適宜審議状況を報告することとされたところである。これを受けて,本日,第1回の国語分科会を開催することにしたものである。
  諮問理由や補足説明は後ほど事務局から行うが,簡単に諮問の内容を申し上げれば,御議論いただきたいこととして三つある。1点目は,これからの時代における国語の重要性と役割について。2点目は,これからの時代に求められる国語力とは何かについて。3点目は,そのような国語力を身に付けるための方策についてである。
  このうち2点目の,これからの時代に求められる国語力とは何かの審議においては,どの程度の国語力が求められるのかという具体的な目安についても示唆を賜りたいと思っている。また,国語力を身に付けるための方策については,特に子供たちの国語力の育成のための取組について御審議いただきたいと考えている。
  審議の取りまとめについては,大変幅広い内容の諮問であるけれども,1年間程度で審議経過報告など何がしかの成果をおまとめいただければ幸いであると思っている。
  皆様方におかれては,今後もお忙しいところ,大変お手数を掛けると思うが,活発な御議論をいただくようにお願い申し上げる。
    事務局から,配布資料4〜8についての説明が行われた。
    今回の諮問事項について,各委員が順番に意見を述べた。時間の関係で,意見を述べることのできなかった委員については次回の分科会で行うこととした。
    次回の国語分科会は,4月22日の12時から14時30分まで開催することとし,そのうち,1時間はヒアリングを実施することを予定していること,ヒアリングの人選については分科会での議論を踏まえ分科会長に一任することが了承された。
    各委員の意見の要旨は次のとおりである。

  専門が臨床心理学なので,国語教育そのものというところから見ると,非常に門外漢であるという意識が強かったのであるが,諮問文の中にも文化とかアイデンティティーという言葉が出ていて,人のトータルな能力として国語力を考えていくということであるので,私も多少かかわれるかもしれないというふうに少し安心した。
  私は,もともと乳幼児から児童期の母子の情緒的な交流というのが専門であるので,特にそうした面で,国語力(読み書きの能力プラス伝え合い)というのか,国語を教えるということも含めて,どのように伝えるか,伝え合うか,教師と子供の伝え合いのプロセスについて,何か大切にできるものはないかというふうに考えている。
  今,公立の地域の小学校に子供が2人通っているので,公立の小学校の図書の少なさなどを本当に肌で感じている。つまり「10分間読書」と言っても,それぞれに本を持ってこさせて10分読ませながら,そのときに,先生方はだれ一人教室にいないというような状況で何が育つのかという思いがある。

  今までの答申などを聞いて感じたことは,どれもみんなもっともなことではあるが,こんなにたくさんいろんなことを求められても,ある意味では非常に常識的なことがたくさん出ているだけで,これで本当に具体的な効果のあることができるのだろうかということである。
  この数日,資料をいただいたりして一番感じていることは,やはりそれぞれの年齢に応じた読書を大きく広げることではないかということである。大変個人的な体験を申し上げると,私は三十代の半ばまで文筆で生きようなんてことは一度も考えたことがなかった。それまで書いたこともなかったのであるが,小さいときから読書はよくしていた。読書をよくしていると,必要に応じて十分に書くことができる。だから,小さいときから作文を一生懸命やっていなければ小説は書けないということは全然ないのであって,一生懸命読んでさえいれば,心の中にいろんな力が培われているんだと,実感として思っている。
  そういう意味で,やはり読書の機会を与え,そして広く,それぞれの年齢に応じた読書運動を,社会や学校がいろんな形で進めていくことが,結局,国語問題の一番有効な解決策ではないかと思っている。

  日本人のアイデンティティーとして古典を尊重する,そういった意味での国語力というものをどうしたらいいかということは,それはそれで大変重要なことだと思うが,「国語」といったときにはどうしても内向きになってしまうので,もう一方で忘れていけないのは,グローバル化社会になっている現在,世界の中での日本語の位置ということを考えることである。
  今,数千あるという世界の国々の言葉,民族の言葉,少数民族の言葉が,急速な勢いで失われている。失われているというのは,そういう人たちのアイデンティティーも失われていくということにつながるわけである。このような世界の言葉の状況を視野に入れないで,国語力という言い方をすると,何か間違いを犯すのではないかという危惧を持っている。日本の言葉,日本語というものは,世界で幾つかの残っていく大きな言語でもあるので,大事にはしていきたいのであるが,その一方で,グローバルな視点から,言葉はどうあるべきかを考えなければいけない。
  その中で,ここで是非主張していきたいのは日本語の方言のことである。共通言語だけというように一様になってしまってはいけない。それぞれの地域のアイデンティティーが出る言葉を大事にするということは,今,グローバルな,地球のいろいろな資源を大事にしていきたいという考えとつながっていくわけである。もっと強力に感動する能力や共感する能力を養うためには,標準語の言葉でなく,その人たちの土地の言葉で感動するということも考えていかなければならないと思う。この視点は,今までの国語教育の中では余り大きなものとして扱われてこなかったのではないか。グローバルレベルで共通の言葉も大事だが,個々のアイデンティティーを背負った地域の言葉の一つ一つを大事にするという意識も忘れてはいけないと考えている。

  新聞の場合,分かりやすく,正確であり,なおかつ面白いという記事が多分共感を呼ぶのだと思うが,批判があるのは,分かりにくい,読んでもよく分からない,要するに難しいということである。専門家から言うと,正確さに欠けるという指摘もある。もう一つの「面白い」という点についても無味乾燥であるという批判がある。
  どうしてそうなるのかという話をいつも仲間うちでしているのであるが,基本的には書いている記者が物事をきちんと把握していない,理解していないからではないか。要するに,よく分からないまま書くから,分かりにくくて,正確でなくて,余り面白くない。基本的に理解力がないのではないかと思っている。いろいろな役所を取材する,普通の人を取材する,あるいは企業を取材する中でも,理解する力がないということだと思う。もっと言えば,基礎的な能力がだんだん落ちてきているのではないかというふうに新聞社の中でも思っている。
  もう一つ,新聞記事の場合に,役所が発表するもの,それから企業の出すもの,企業の考えていることを我々は正確に伝えようとするわけである。正確に伝えようとすると,役所の文書などの日本語が非常に分かりにくい。今日いろいろペーパーが出ているが,必ずしも分かりやすいわけではない。
  片仮名の言葉が新聞にあふれてくる理由も,役所なり企業なりで片仮名を多用する。それをどうしても正確に伝えようとすれば,横のものを縦にするわけであるから,その場合に違う言葉で置き換えにくいのである。その辺りは,メディアの責任もあるが,役所の作る文書にも相当大きな責任があるのではないかと思う。

  テレビドラマの現場にいると,女子高生や女子大生の話を聞くことがあるが,国語力に関しては末期的症状だと思っている。だから,もう観念論はやめていただきたい。とにかく,わざわざ忙しい方がここに来て審議するわけであるから,具体的なことを審議してすぐに行動に移していただきたい。これは文化庁や文部科学省へのお願いであるが,私たちはとにかく具体的なことを言って,それを具体的な行動に移さないことには,このままではどうなってしまうのだろうかということがある。
  例えば,女子高生が携帯電話で「もしぇもしぇ,もしぇー」とやっているわけである。「もしぇー」  とやるのは,「もしもし」と言うと疲れるから,「もしぇー」ということで言葉の省エネをやっている。こういうケースはそれこそ一杯出てくる。携帯のコマーシャルでも,アイドルタレントが「もしぇー」  とやっているわけで,これを正しいと思ってしまう。
  こういうことを言うと,一人一人の子供はいい子なのだという意見が必ず出る。私も会えば,一人一人の子はいい子だと思う。しかし,一人一人の子がいい子だからと言って,何でもいいのかと言ったら,これはやっぱりいけないわけである。
  せんだって中国に取材に行ったときに,中国の学校の校長先生が子供たちに言っているのは三つだけだと話していた。一つはあいさつと礼儀,それから家の手伝い,そして作文,この三つと言っていた。私は,今の日本でこの三つを声高に言ったならば,きっと時代に逆行しているとか言われるんじゃないかという懸念を持っている。でも,これは時代に逆行とかイデオロギーの問題ではないと思う。大事なことだけはしっかりと教えなければいけないということを大人の責任として持たなければならないと考えている。

  先ほど10分間読書のお話が出たが,これは実施している学校が確実に増えてきている。その理由の一つは,生活指導面で効果があるからだと思う。また,これを機会に10分間の読書を通じて読書量が増えているということがある。今,全国でこれを実施する学校がどんどん増えていて,私の学校でも取り入れている。
  それから,実態を知っていただきたいのは,これは不満でもあるが,4月から新しい学習指導要領が実施されるけれども,国語の中学校の時数は,1年生が4時間,2年生が3時間,3年生が3時間という現実である。1年生4時間の中の1時間は書写であるので,実質3,3,3とお考えいただいていいかと思う。
  国語教育に対する期待は非常に大きいけれども,実際に指導できる時間数というのは,3時間でも,実質は2.5時間ぐらいだと思う。この少ない時間の中で指導することに危惧を抱いている。
  今の国語教育においては,伝え合う力を非常に重視している。人間関係作りができない子供たちの増加を踏まえて,正確に理解する力とか,適切に表現するとか,そういう中で人間関係をしっかりはぐくんでいく,そういう力を重視している。作品主義というよりも能力主義,これが今の国語教育ではないかと思う。

  今回の諮問は,国語教育の振興という上で大変有り難い諮問だと思っている。国立国語研究所が,例えば日本語教育の教員研修とか海外への情報発信ということについては,今強力に取り組んでいるということを先に申し上げた上で,二つだけ申し上げる。
  配布資料において,教員研修のことが取り上げられ,国語をどのように意識するか,言葉をどのように意識するかということについて,教員の資質の向上が重要であるということが書かれている。このことを実現するために学校教育に携わっている教師の研修の機会をもっと増やしていただきたい。そして,国語というものを科学的に解明するような,自ら解明できるような形での演習的な研修というものが必要ではないかということを一つ目として申し上げたい。
  もう一つは,先ほどの方言の話に関連したことである。この日曜日に,山形で国立国語研究所が「ことばフォーラム」を開催して,そこでは山形弁の重要性ということについて5人の講師がいろいろ発表申し上げたわけであるが,学習指導要領の小学校4年生に「共通語と方言」という項目が1か所あり,これはほぼ15年ぐらい前からずっとあって,以前は共通語の方にウエートがあったのが,だんだん方言にウエートがかかってきて,今は方言を大切にしようとなっているわけである。しかし,今でも「なまる」というような言葉が地方の人を傷つけるということがあるものだから,共通語も必要だが,方言も大切だという方策をもっと全国的に展開する必要があると考える。

  せんだって,教養教育についての答申が出て,その中で,教養とか,伝統とか,素読,暗唱ということの大切さが打ち出されたが,これに対する非常な反発が我々マスコミの世界の人間にもあるということをあのときに知った。それに対して,そうではないんだということを示したいと思ったけれども,私自身の中にもためらいがあった。それで齋藤先生のお書きになった『声に出して読みたい日本語』を実際に声に出して読んでみて,実感的に,これは間違いないんだ,大切なんだということを確信して社説とコラムを書いたということがあった。
  そのときに出た反論は,古くさいとかIT化の時代に云々ということだったわけであるが,それが一体何なのかということをもっと突いていかねばいけないと思う。「朝の読書10分間運動」を取材したときに,これは千葉の高校から始まったわけであるが,最初,これを始めるに当たって,読書というのは子供に強制するものではないんだ,自発的に読むのを待つべきなんだという反対意見が非常に強かったということも知った。これも間違っていると私は思うけれども,何だったのかなということを考えていただきたい。
  それから,アイデンティティーという言葉が先ほどから出ているが,自分たちのアイデンティティー,自分たちの言葉,伝統というものを最も大切にしているのは沖縄だと私は思うけれども,沖縄に関しては,沖縄の人のアイデンティティー,伝統というのは構わない,むしろ称揚されている。しかし,それを日本,日本人ということにすると,マスコミの世界ではどうして言いにくくなるのかということを考えていた。そういったところをクリアにしていけばいいと思う。それが第1点である。
  第2点は,社説を書いていると,要するに,言葉が論理を決めていくんだということを長い間新聞社にいて初めて実感している。つまり,見出しがなかなか決まらない。見出しが決まれば,自分が言いたいこともそこで明らかになってきているわけである。先ほど,記者の理解が足りないから,記事が分かりにくいという御意見があったが,確かにそういう面もあるけれども,逆に,言葉のトレーニングがないから理解がきちんとできないという面もあるのではないのか。子供たちに言葉でもって考えるという訓練をさせていきたいというふうに思う。
  私はディベートというものに以前からかかわっていて,新聞社でそれを事業化するのを提案して,今でも続いているのであるが,単に調べ学習というと,調べてみましたよという底の浅いところでとどまることもあると思うが,ディベートという形で,そこで実際に討論をしていくとなると,調べ学習そのものが,思考力,分析力というところまでおりていく,そういった経験をさせていくことが大事だろうと思う。

  私は,主に平仮名で詩や童話を書いている。平仮名で書いたのは,四文字熟語などを使わずに,しかも三歳くらいの小さな人から言葉を通じて一緒に遊べないかというのが基本にあったからである。それから,平仮名で書いてみると,朗読をするときに意味不明になりにくいということもある。おかげで小学校,中学校の皆さんと仲良くなる機会がある。
  自分自身が調べてみたいし,考えてみたいと思ったことを申し上げる。一つは,「国語」という前に,「言葉」というものについて,日本も含めて,よその国の言葉というものをどう感じているかを知っていきたいと思う。その中での国語,日本語というふうに考えたい。
  それから,一度でいいから是非試してみたいと思うのは,いわゆる本式答申以外に,方言答申とか,子供たちに読んでもらうために同じ内容で書き換えた答申を作ってみたいということである。こういう答申の文章だと,小学生は読んでくれないし言うことを聞いてくれない。それから,敬語や方言を国語の中で考えるときには,例えば今バイリンガルとよく言われているが,英語と日本語がしゃべれればバイリンガル,それと同じように,同じ国語の中でもバイリンガル,方言もいける,敬語もいける,友達語もいけるというふうな感じがあると,うれしいなと思っている。
  もう一つ,国語力を身に付ける方策として,暗唱,朗読,素読的なもの,読み聞かせ,10分間読書,本当にすばらしいと思うし,お母さんや先生方の現場は私もよく拝見しているが,ちょっと感じたのは,新しい暗唱の方法,新しい朗読の方法というのはできないものだろうかということである。何か明治以来のシステムにのっとっているような気がするのである。読み聞かせというふうにお母さん方が思うときも,昔からの読み聞かせで,今だからこそという感じのものがもうちょっとできないだろうか。例えば暗唱,朗読のときも今のラップ風とか,いろいろ新しい方式が考えられてもいいのではないか。それを具体的に考えたりしてみたいと思った。
  最後であるが,明らかに国語力が低下している,嘆かわしいという風潮が圧倒的である。ただ,若い人の語感というのも,私は捨てたものではないと思っている。すばらしいものがあって,昔の方式に照らし合わせると落ちたと言われているが,実はそれは変化をしているのではないかというとらえ方をしたいと思っている。私は,言葉の力というのは万葉の時代から基本的なところでは連綿と続いていると希望を持っている。だから,低下しているという面からだけ見たくはないと思う。

  私は,大学で,日本語,日本文学,国語教育と称する教員養成の面での日本語を取り扱っているという立場である。その中から,二,三思っていることを申し上げる。
  第1に,今の時代の動きの中での重点化をどう認識した上で方策を立てるのかということである。私の考え方からすると,諮問の理由にもあるように,国際化,情報化という一つの枠組みを考えた中で,日本語を通した言語の能力をどのように付けていくのかというふうに見ていくことになる。そうすると,まず大事なのは,学校教育の中で限定して考えれば,概念を正確にきちんと把握した語句,語彙を養うというのが出発点である。つまり正しい理解があって,きちんとした表現ができていくわけであるから,語彙力を養うということが必要になってくる。正しい理解を形成するための語句,語彙力を付けてやることがまず基本になるだろう。
  その上で,この時代の中で必要になってくるのは,今の国際化の中では,論理的に説得する,自分がきちんと認識したことを,自分の立場から根拠や理由を挙げて相手を説得していくという論理性の育成というのが,時代の要請として今一番必要になってきていると私は思っている。
  明治以来の国語科教育というのが,文学的な傾向をかなり強くしてきて,今日も先生方のその意識というのは強く残っていて,一般の認識も国語科教育というのは文学教育,文学に重きを置いた教育というふうな流れが払拭し切れていない。それはもちろん重要な一部門であるが,それに加えて,論理性を養っていくというところに重点を置いていくことが必要ではないかということが,今までの論議の中でもたくさん出ているので,重点化の置き方というのはそこに持っていく必要があるのではないか。方策として,今後の在り方はそこを機軸にすべきではないかと私は考えている。
  もう一つは,新しい学習指導要領の下で,国語に対する時間配分が大変少ないという御指摘が先ほどもあったが,言葉の能力を養っていくには,学校教育の中でそれなりにきちんと時間配当していく必要があるだろうということである。

  アナウンサーとして話し言葉の現場で30年仕事をしてきて,現在,とても街の中で強く感じるのは,今の日本語は言葉として耳で聞いたときに美しくないということである。古い日本人がきちんと語ってきた日本語というのは,耳で聞いてもとても美しいものがあるはずなのに,今,耳で聞いて本当に美しくない。
  一つは,文法的な誤りというのもある。私が毎朝乗る電車のホームで聞かされるのが,「次に2番線に参ります電車は,この駅はとまりません」と言う。私はそのたびに「この駅には」と訂正しなければならないので,とても疲れるけれども,ああいう公の場であれほどの誤りがどうして公然と行われるのか,大変疑問に思う。
  もう一つは,言葉の語り方,人間が,生き物として,呼吸で,息に乗せて言葉を発するときの発声の仕方,それと日本語の音の原則というのがきちんと重なり合ってこそ言葉というのは美しく聞こえるはずであるが,それが全部ずれている。
  この二つ,文法的な誤りと音声表現としてのずれというのは,公共の場でのアナウンス,ある規模以上の人数の人が聞く場でアナウンスをする場合には,それをきちんと正しい音で,正しい文法で放送することを義務付けるぐらいのことをしてもいいのではないかと私は思っている。日本中で,誤った音と文法の乱れを正すだけで,随分言語環境が変わってくるのではないかという気がする。
  今,日本人は,どんどん自己アピール,自分をどう訴えて見せていくかということについての言語化能力というのはかなり進んできていると感じる。ただ,若手のスタッフたちを見ていると,小さいときから世間話というものをしてきていない。その積み重ねがないように感じる。世間話というものによって,人間の言語とか,人間に対する認識力とか,人間性そのものがどれほど培われている面があるのかということを改めて今感じさせられている。
  本日の配布資料の中にも,小学生のころからディスカッションやディベートなど論争させる訓練をした方がいいという御意見がある。一面で,これは確かにこれからの国際化の中で必要な能力だと思うが,私はディベートしたり,自分を訴えたり,主張するだけの言語を身に付けていくことが,ある種の人間に対する想像力を欠如させていく,言葉だけがすべてだと思われる,言葉ではどうしても表現できないものがあるんだということに対する認識を欠けさせてしまう面があるのではないかと思うのである。そういう意味では,自分の心を心の形のままで話し,表現することができて,それをきちんと受け止めて聞く力,そういう非常に日常的な,柔らかな人間としての言葉というものを取り戻す場として,何らかの形で世間話を取り戻すような形での国語教育の在り方ができないかしらというふうに感じている。

  私も30年ほどしゃべる仕事をしていた。最近,しゃべる仕事をやめて,放送用語委員会とか,各番組からの様々な言葉についての相談などを受けるセクションにいる。
  テレビ局の番組制作者は,日本語力がどんどん落ちていて,この間,「土左衛門て何ですか。土左衛門という言葉を使っていいでしょうか」という相談がきて,何が悪いんだろうと思って聞いてみると,土左衛門の意味すらよく分かっていないのである。
  それから私は,テレビの旅ものが好きで,よく夕食を食べながら見ているのであるが,その中でリポーターが何を食べても「やわらかい」ばっかりで,「やわらかい」が褒め言葉になっているのである。どういうふうにおいしいのかが語られることはなく,「やわらかい」が最上級の表現だと思っている。そういう番組がどんどん増えているので,日本語を悪くしているのはテレビ局だということは重々認識している。読書の時間をなくしているのもテレビのせいであるのは間違いない事実である。
  最近,テレビの番組を作るスタッフの日本語力が余りに落ちてきて,例えば文字でスーパーとかテロップというのがあるが,その中での誤字・誤用のケースがすごく増えてきたので,事例集を作ろうということで作ってみたのであるが,全く傑作な様々な事例が毎月毎月出てくる。これをどうするかといっても,実は具体的な方策がないのである。ふだんの生活が,片仮名付きの漫画本を40代,50代になってもまだ読んでいるような人たちで,日本語が良くなるはずがない。ラジオしかないときの読書という時代とは違い,テレビがあって何もしなくても時間が過ごせる時代では,読書をしなさいと言っても難しい。まずテレビをなくすことの方が効果があるのではないかとすら思う。
  今回の諮問事項には三つあるが,どのように国語力を付けるのかについては,もうちょっとゲーム的な感覚で日本語を広めてはいかがかと思う。例えば電車の中で,次の停車駅の表示を最近はドアの上の電光掲示板でやっているが,あそこに簡単な言葉とか漢字のクイズを出すことによって,通勤の途中に少しずつ言葉を覚えていくというような手立てもあるのではないかと思っている。
  実は恥ずかしい話であるが,私は「閑話休題」という言葉を本論からちょっと脱線することだと思っていた。先々月ぐらいに辞書を調べたら,逆に本題に戻るという意味なのである。周りの人に聞いても,みんな私と同じように脱線することだと思っていた。こんなことも実際に辞書を引くという努力がないと,多分死ぬまで間違えたままだったと思う。そんなわけで,自分がそうだと思い込んでいるものが案外違うということをもう少し認識させる手立てがないかということも考えている。

  私は専門が教員養成で,あと小学生相手の塾を自分でやっている。小学校3,4年生でも,作品を選べば夏目漱石や小林秀雄を十分読める。国語教育の王道というのは読書にあると考えている。
  今回の分科会は,総論はいいから,具体的に方策だけを討議する場にしてほしい。その際,読書力の形成に絞った方がいいと思う。今の子供は一応話すが,意味の含有率は低い。それは書き言葉を修練していないからである。書き言葉を修練するというのは,一つのスポーツを習得するのと同じように反復練習を必要とする。
  そのときにレベルの高いものに出会う方が上達は早い。小学校時代から,意味は7割,8割分かればいいということで,小林秀雄,漱石,外,シェイクスピア,ゲーテというところを私は読ませているが,全く問題ない。次回の分科会では,現在の国語の教科書を全員に用意してもらいたいと思うが,幼稚である。とにかく教科書を全面的に,抜本的にレベルの高いものに変える必要がある。
  そして,小学生が一般の本に手が出にくいのはルビがないからである。小学校時代は読書していても,中学へ行くと急に読書しなくなるのが日本の特徴である。それは,小学校時代に読んでいるのが小学生用の読み物だからである。大人の読書に直接つながらないのである。だから,小学生のころから大人の読書というものに触れさせる。そのためには,総ルビにした本を,例えば,このメンバーで100なり200なりという図書を推薦して選ぶ。次回までにブックリストをメールで当局に送っていただき,どういう本を皆さんがお薦めするのかを共有しながら,その本を総ルビにしたものを低価格で手に入れることができるようにしていく。その予算的措置を要求するということである。
  朝読書でも,何でも読んでいいというのでは意味がないと思う。学校というのは強制力があるわけだから,やはり本当にいいもの,そこでしか読まないようなものに出会わせなければ意味がない。家で寝転がって読むような本を学校に持ってきて読む必要はないわけである。

  3点申し上げたい。一つは,諮問理由説明で,どの程度の力を身に付けていることが望ましいかという,具体的な目安のことについて述べられているが,これが示されるといいと思う。小学校,中学校,高校,それぞれでどの程度の国語の力を必要とするのかとつくづく思う。ただ,その場合に,上から理念的にというだけではなくて,小中高の生徒の実態の把握というのを的確にする必要があるだろうと思っている。そういう点では,これから行われる全国的な学力調査等について大いに期待している。
  2点目は国語の時間であるが,結論だけ言うと,小中ではやはり国語の時間が少な過ぎると思う。高校の場合は,高校生が相当多様化しているし,学校が特色を出してきているところなので,強制的に週に何時間やれとか,卒業までに何時間やれということではなくて,同意の体系というか,国語だけではなくて,ほかの教科の教員とか保護者を含めて,やはり国語の力が必要ではないかとか,自分の教科をやるためにも言葉を理解する力や自分の気持ちを表現する力が必要じゃないかという意見,声が持ち上がってくるように,同意をどう作っていくかということが大事になると思う。
  今度の高等学校学習指導要領では,国語は卒業までに最低2時間やればよいという形になったけれども,私の学校では,むしろほかの教科の教員の方から国語は大事だという言葉が出てきて,1年生で5時間,2年生で5時間,3年生で3時間,計13時間の国語の授業をとらせるという形になっている。
  3点目は大ざっぱな話であるが,これまでの何十年かを考えていくと,高校の国語の教員が右に揺れたり左に揺れたりしている。文化審議会の中間まとめでは,「国語の重視」の最初のところに,「言葉は,コミュニケーションの手段である同時に,その言葉を母語とする人々の文化と深く結びついており」とあるが,言葉は,コミュニケーション能力である同時に,文化を伝えるとか,コミュニケーションだけではなくて,……とか,つまり「同時に」とか「だけでなく」というのではなくて,もうちょっとうまいとらえ方ができないのかと思う。現場の教員は,古典重視というふうに言われると,そっちへざざっと行き,何年かたって,伝え合う力,コミュニケーション重視と言われると,今度はそっちへざざっと行くということになる。国語力についての大きな見取り図が必要ではないかと考えている。私自身は,言語文化の継承というのが縦軸で,横軸としてはコミュニケーション能力の育成,伝え合う力というのがあると思っている。そして,真ん中のところに,思考力とか判断力とか感性というのがあるのではないかというのが私の独断的な見取り図である。

  言葉の乱れということで思い出すのは,私どもの学校がシンガポールにあって,その国で,正しい英語をしゃべる,いわゆるシングリッシュはやめようという運動が起きている。そこで何をやっているかというと,一番人気のあるテレビ番組で,シングリッシュをしゃべる役を有名俳優に演じさせて,シングリッシュをしゃべるために失恋するという話をやっている。それで正しい英語をしゃべるということにつなげようとしているわけである。シンガポールというのはそういうことができるところであるから,そういう運動をやっている。
  しかし,現実には,シンガポールの悩みは,シンガポール文学が生まれてこないことである。国語の乱れというものをそういう意味で考えると,プラスもあるというふうに考える必要もあるのだろうと思う。つまり,すべてびしっとしていると,文学が生まれてこなくなってしまうのである。その辺は整理して考えなければいけないだろうと思う。
  そこで,具体的な方策ということで考えなければいけないことは,今,日本の社会は大きく変化している。それに大人が惑わされているというか,どうやっていいか分からない,そういう悩みがある時代にちょうど来ているのだろうと思う。どういう意味かというと,今までは官僚組織とか企業というところで,きちっとしたものを作って,それを社会に提示すると,みんながそれを守るということで社会の動きが成り立っていたのである。それに合わせて,マスコミもそういうところに記者クラブを置いて,そこから情報を流して社会に伝えるという作業をやっていた。
  ところが,今,若者を中心にして明らかに変わってきたのは何かというと,要するに,市民運動がその典型だが,そういう組織から離れた,一般の人々の協力で生まれたものが社会を動かすというように意識が変わってきたのである。だから,ここで議論するのは誠に大事だし,伝えなければいけないのであるけれども,それで必ず若者まで伝わるかというと,かなり問題があるだろうと思う。そういう社会の変化を意識した議論をしないと,ここで幾らいいことを言っても若者には全く伝わらないというのが現実である。だから,記者クラブも,文部科学省に置いておくのは大事だけれども,そうじゃないところにも置かれないと,世の中の動きを伝えるというマスコミの役割はできなくなるのではないかという気がしている。
  これはできることかどうか分からないが,テレビのプロデューサーの資格試験みたいなことはやれないのかなと思っている。つまり難しいことは要らないのであるけれども,倫理性をちゃんと備えているのかとか,人間についてどういう考えを持っているのかとか,こういうテストをやって,得点を公表して,何点のプロデューサーがこの番組を作りましたということを番組前に流すとか,それぐらいやらないと,余りにも大きな影響を与えすぎているという気がする。幾ら読書をしろ,しろと言っても,結局,彼ら,彼女らが一番影響を受けているのはテレビの番組からなのである。
  読書のことで最後に言うと,学校現場で運動をやるのはいいけれども,職業別に言うと,教師が一番本を読まないという統計が出ている。それから,小学校で一番読む。中学ではほとんど読まなくなって,高校で全く読まない。大学では読書ということすら出てこない。10分間読書運動で,こういう実態が解決するとは全く思っていない。

  私は,小さなころから大変日本の古典が好きで,日本の歴史が好きだったけれども,結局は,英文学,西洋史をずっとやってきて,それでアメリカの大学で英文学での修士をいただいたが,向こうでは国語をイングリッシュと言う。外国語であっても,その国の言葉そのものが,イングリッシュであり,フレンチであり,ジャパニーズであるという形であるので,国語としてよりも,やはり日本語,ジャパニーズとしてとらえるという感じが私には強いところがある。
  「国語」と言うと,国としての一体感と離れられないものであるし,そのための大事な面が多々あるけれども,もう一つの面から見ると,日本語という世界の中にたくさんある国語の一つという認識も,私どもは考えなければいけないのではないかと感じている。そう考えると,先ほどから出ている方言や,いろいろな地域の中で日本語がどのように形成され,今も伝統を持っているかということにもつながるという気がする。
  現在,物を書くとか,読むとか,その中で感じることであるが,例えば日本語で書かれたものを英文にそのまま訳したものは読むにたえない場合が多い。それはなぜかと言うと,日本語でこうあるべしと普通言われている書き方が,多分,役所や企業での文章をひな型として書かれているからだと思う。また,できるだけ簡潔にしなければいけないので,熟語に頼るような表現が多く,物事が一体どの方向にどのように動いていて,どのような温度を持っているのかということが,なかなか出てこない。だから,そういうふうに日本語で書かれたものを外国語に訳すと,多分だれも読んでくれないと思う。私どもが読んでも,全然面白くない,内容のない抽象的なものになってしまう。
  日本語は大変すばらしい言語でありながら,理論的に物を書こうとするときには,大づかみの理解から始めるという書き方が多いので,抽象的な言葉が多い。外国語で見ると,観念的なものを見事に抽象性を持った言葉で表しているけれども,日本語の場合は論理が抽象的になってしまう場合が多いので,もっと具体性とか,言葉が本当に何を意味しているかということを,国語教育の中だけではなく,大人の私どもから考えていかなければいけないのではないかと感じている。
  最後に申したいのは,周りにいる外国人の方々がおっしゃるのであるが,子供を例えばアメリカンスクールとかインターナショナルスクールに通わせていると,そこで行われている日本語の授業が30年来変わっていない,本当に良くないとおっしゃる。だから,日本で育っている外国人の子供たちに,きちっとした日本語をもっと効率的に与えることも御審議いただければと思う。

  私がかかわっている学問の分野というのは情報科学の分野であるので,これに関連して,簡単に3点だけ話させていただきたい。
  一つは,最近の情報機器端末等を用いて,書くことはできないけれども,読めるというか,ワープロの上に難しい字を表示することは非常にたやすくなっている。例えば,憂鬱の「鬱」という字は非常に難しい字で,我々がこれを書こうとしてもなかなか書けないのであるが,ワープロ上で表示することは簡単にできる。我々の書く日本語を考えた場合に,文章で伝えるときに憂鬱の「鬱」を平仮名で書いてしまうと,ある種の憂鬱感が伝わらない。そういう意味で,私はやはり今後一歩譲歩してでも,書けなくても読めればいいというような視点も大事かと思う。先ほどルビを打って,高度な内容というか,非常に良い作品をどんどん読ませることが大事だとおっしゃっていたけれども,中国の方でも既に多くの漢字が略字化されていて,その漢字の持つ本来の意味がどんどん失われている中で,情報技術というのは,そういう意味での貢献ができるのではないかということを考えている。
  二つ目は電子メールの文章のことである。我々が特に若い世代の学生を見ていると,彼らがふだんコミュニケーションの手段として用いているのは電子メールである。その中では,通常の文章で書かれている日本語とはまた変わったと言うか,ちょっと作法が違う日本語の文章が行き交っている。つまり他の人の書かれたことを引用しながら,それについて返答を書くとか,あるいは電子メールの中により自分の感情を表すために,キーボードの中にあるコロンとか記号を使って,気持ちをその中に盛り込むというような新しいタイプの日本語の文章がどんどん出てきている。こういうものは,ある種の日本語がエボリューショナルにどんどん進化しているととらえることもできるかもしれないが,もう一方では,その中で日本語本来の持つ重要な点が何か欠落しつつあるのかどうか,ここら辺はこの分科会においていろいろ考えてみたいと思う。
  三つ目であるけれども,御存じのように,Webというものの力は,世界的に見ても,個人の情報を伝達するという意味では大きな革命を起こしたものである。出版社とかを一切介さずに,個人が世界に向けて情報を発信する手立てを持ったわけであるが,そこの文章作法というのは従来の2次元の空間に文章を書いていくというのではなくて,ハイパーリンク,ハイパーテキストという概念で,ある言葉に関連して,より深く2次元から3次元の世界への文章作法が今起こっている。私は,あるときに,新聞社の研究会において,今までの紙新聞と電子新聞との違いが今後どう影響を及ぼしてくるのかとか,人間の理解にどうかかわってくるのかとかを議論したことがある。今までの2次元上で文章を書く,そこで行間を読んでいくというところから,3次元の世界での文章の作法,文章の書き方というものが起こってくる中で,果たして日本語というもの,それ自体が何らかの影響を受けていくのか,そこら辺もいろいろ考えてみたいと思う。

  2点お話申し上げたい。第1点は,学校での読書活動についてであるが,先ほどからお話が出ているように,10分間読書等を通じて,子供たちのいわゆる活字離れが徐々に直りつつあると私は思っている。ただ,以前の調査によると,小学校の3年生が1か月に読む単行本は10冊程度で,5年生になると6冊程度になって,中学校になると,もっと低くなって,高校になったらもっと読まない。要するに,読書というのは時間を取られるわけであるから,学校での読書は10分間読書とか読書の時間があるけれども,放課後,子供たちは読書をする時間を何に使っているかというと,テレビを見るかもしれないけれども,多くは,恐らく受験勉強とか,そういう時間に使っているだろうと思う。ということは,読書というのはやはりゆとりがなければできない部分があるのではなかろうかということである。
  それから,今,小学校の図書室は,1人当たりの本の冊数は全国平均では恐らく16冊ぐらいだと思う。ということは,小学校3年生は月に10冊読むわけであるから,基本的に本が全然足らない。そういう意味においては,地域の図書館と学校,それから学校図書室ということを含めて,どういうふうに子供たちの読書活動を展開していけばいいかということを総合的に,多面的に考えていかなくてはいけないという思いもしている。
  二つ目であるが,私は,最近の子供たちは聞く力が大変落ちていると考えている。聞けない子供たちが非常に多い。私は校長であるので,月曜日になると,児童朝会をやる。そこで校長訓話をするわ けであるが,本当に聞けないなという思いをしていたので,この4月から心を入れ替えて,日曜日に3分の話を作り上げ,毎回,低学年用と高学年用の2種類の聞くテストを作って実施した。今回で30回目になるが,そうすると,要旨の把握力についても,話題と話し方によって非常に違うということが分かったり,子供たちの興味・関心のあるもの,例えば動物の話とかになると格段にテストがいい点数になることなどが分かったりした。
  そういうことから考えると,聞き手を中心とした話し方をしない限り,聞く力は付かないということである。私は,親や教師も含めて,本当に聞き手を意識して話をしているかということが大きな課題ではないかと思っている。子供たちに聞く力を付けるという意味においても,だれに,何をということを意識しながら,教師は考えていかなければいけないと思う。聞く力を付けることによって,初めて,想像力も付いてくるのではないかと思っている。




(文化庁国語課)

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