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文化審議会

2001/11/15 議事録

文化審議会第15回総会議事要旨

文化審議会第15回総会議事要旨

1.日時

平成13年11月15日(木)14時00分〜16時00分

2.場所

霞が関東京會舘  シルバースタールーム

3.出席者

(委員)

高階会長、井出、内館、岡田、川村、北川、関口、津田、中村、乳井、藤原、黛、脇田、渡邊、の各委員

(文部科学省・文化庁)

池坊大臣政務官、佐々木文化庁長官、天野文化庁審議官、遠藤文化部長、木谷文化財部長、鈴木文化財鑑査官、高塩政策課長ほか関係者

4.概要

(1)配付資料についての確認があり、前回議事要旨については、意見がある場合は1週間以内に事務局に連絡することとされた。

(2)事務局より、文化芸術振興基本法案について説明があった。

(3)事務局より、文化審議会中間まとめ(構成案)について説明があった。

(4)その後、次のような意見交換が行われた。

  •   「国語」という単語はグローバル化の文脈の中で用いられると誤解を招きかねないため、その使用には注意すべきである。三善晃氏も言っておられたが、言葉としての日本語という地下水脈の上に我々は生まれ、生きており、体験という内部構造の中で、文化と言葉の関係が一人一人の中に育つのである。つまり、「国語」ではなく、「言葉」が文化をつくるのである。
      また、グローバル社会の中では、日本以外の言葉も視野に入れながら、相対的に日本語を捉え、日本語を学びながら異文化への理解を養っていくことが大切である。
  •   「国語」という単語の使用については、教科としての「国語」と日本の言葉としての「日本語」と使い分けをしたほうがいいのではないか。
  •   現在、片仮名の使用が増えているが、外国の言葉が単なるデータとして用いられ、言葉の中身を「読む」ことなく、パターン認識の対象としてのみ捉えられている。この結果、言葉が機能変化を起こしているのではないかと心配される
  •   現在のマスメディアは言葉の使い方に配慮しすぎているのではないか。
  •   マスメディアは言葉について、配慮し過ぎないように配慮することが必要。言葉狩りになってはいけない。
  •   マスメディアは読者や視聴者に配慮しすぎて、漢字を次々にひらがなに置き換えてしまっているが、母語としての漢字、また、中国の文化を受けたアジア共通の言葉としての漢字の重要性をもう少し認識すべきである。
  •   パソコン、ワープロ等が発達した情報化時代には、書くことができる漢字よりも、読める漢字のほうが多く必要とされる。その観点からの当用漢字の見直しなど、国語政策について再検討していくことも必要ではないか。
      また、国語の充実については、質的向上と量的拡大の両方が重要である。その内容としては、名文、詩歌の暗唱・朗読、読書の奨励が効果的である。
  •   現代は、論理的な思考に欠け、感情に流されやすい若者が多い。言葉を論理的な思考回路をつくるためのツールとして捉える必要があり、作文教育などを積極的に導入し、論理的に考え、表現することのできる人間を育成することが必要である。
  •   朗読や読書の奨励は非常に重要である。また、言葉に関しては、国際化の中で日本の外国語教育が成果が上がっていないということがある。
  •   言葉を重視することの意義は、感性の涵養と同時に、論理的に自らの考えを組み立てるための訓練ということである。これまで、後者についての認識が不十分であったのではないか。母国語で論理的な思考の組み立てができていなければ、外国語の習得もうまくいかない。
  •   特に提言したい事項を別途まとめていくことは賛成である。しかしながら、掲げられているタイトルに関し、この内容で充分かといった箇所もある。「社会全体で文化を大切にする」については、ネットワーク拠点の形成や、税制も大事だが、現在の日本社会の指導者層が率先して文化を重視していくべきである。
      また、文化を大切にする心を育てるためには、日本の歴史や伝統を大切にすることがベースとなるべきであり、このことについても特に提言していきたい。
  •   文化を科学や情報などと対比させる形で捉えているが、それだけでなく、文化は互いに異なる様々なものをつなぐ「インターフェース」としての機能を有しており、そのような視点も重要である。
      文化予算の拡充も重要であるが、同時に、施策の効果に対して評価を行っていくことも必要である。
  •   文化には、人間らしく生きるための文化と、教養としての文化の二つの側面がある。前者は人に楽しさや感動、生きる喜びを与えるものであり、時代によって移り変わっていくものである。一方、後者は、必ずしも楽しいものではないが、人間の遺産として大切に遺していくことが必要である。言葉はコミュニケーションの役目をすることが第一の役割ではあるが、時代に応じて移り変わりが生じる部分があるのは仕方がないのではないか。
  •   文化の振興というのは、政府よりも、むしろ地方公共団体、民間の役割の方が大きい。特にこれからの文化の振興を考えていく場合には、民間の主体的な役割を高く評価していく必要がある。
  •   芸術文化活動は基本的には民間が行うべきものであり、国や地方公共団体は、あくまでもその環境づくりを担っていくものである。
  •   国、地方、民間の役割分担として、企業は単なる寄付の主体ではなく、社会的な存在として文化を担う重要な役割を果たしているものである。
  •   文化芸術振興基本法案に国の施策として顕彰についての規定があったが、例えば、芥川賞や直木賞のように、新しい芸術家を育てることなどは、民間の行っている顕彰活動が大きな役割を果たしている。
  •   現在の若者は、主体性と積極性に欠け、何事にも受動的である。興味、好奇心があってはじめて自らものごとに取り組むのであり、遊びのような形でも構わないので、何かに熱中させることが必要である。
      また、今の教育は「いい子」をたくさんつくっていこうというものだが、ものごとには両面があり、負の部分が転換して大きな活力をもった正になるということもあり、負の文化を正の文化に転換するという視点は大切である。
  •   なぜ今、人々の心が渇いてしまっているのか。それは戦後の教育行政に問題があったということを言及すべきである。
  •   文化は、習慣や伝統、宗教など、独自性が強く、ある意味で排他的なものである。これらを含めて「負の文化」と捉えるのであれば、それを盛り込むことについては検討の余地がある。
      また、「文化はその基底を流れるところに共通性がある」との記述があるが、文化はまず多様で、独自性のあるものであり、そして、その優れた部分が、国境や民族の垣根を越えて人を感動させ、さらにその普遍性が文明の対立を和らげる。その結果として地球的な問題の解決や、世界平和の基盤につながっていくのである。
      タイトルは「ゆったりと暮らす」よりも「生きる」「創造性のある」といった能動的、主体的な表現のほうが望ましい。
  •   情報化という観点が少ないように感じる。特に、グローバル化は情報化の進展がもたらしたものであるという認識は必要である。
      また、日本のデジタル技術は素晴らく、それをデジタルアーカイブに活用していくことについても盛り込むべきである。この技術は、日本の文化を伝える手段として大きな効果が期待できるが、ビジネス化はまだ難しく、支援が必要である。
  •   大学教育において、芸術教育は教養教育と並ぶほどの大きなウエイトをもって行われるべきものなのかは疑問である。
  •   大学においては、いわゆる芸術教育は必要ないが、共同体の一員として、何らかの方法で地域の文化を担っていく必要がある。
  •   学校教育においては、芸術教育というよりも、感性を育てる教育が重要である。
  •   言葉の崩壊の原因は家庭教育の崩壊と切り離して考えることはできない。コンビニが24時間化するなど、親の庇護がなくても子どもが自立できるようになり、子が親の言うことを全く聞かなくなっている。家庭でつくられる美意識、モラル、情感のようなものが、子どもに言葉を選ばせ、思考を作り上げていくのであり、家庭の在り方について考えていくことが求められる。
  •   博物館・美術館、図書館等を文化振興の拠点にすべきであるが、質的・量的に充実しておらず、社会的に十分機能しているとはいえない。その機能の向上が必要である。
  •   生涯を通じて文化に親しんでいくことが大切である。定年後でも何かにかかわっていたいと願う人は多く、そのような人々の活力を引き出していくことが大切である。

(5)事務局より、次回総会の日程についての説明があり、閉会した。

(文化庁政策課)

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