教育改革フォーラム(愛知)概要


1   日   時:平成15年6月8日(日)13:30~16:00

2   会   場:ウィルあいち(愛知県女性総合センター)

3   次   第:
   (1) 主催者挨拶    池坊   保子   文部科学大臣政務官
   (2) 基調講演       梶田   叡一     中央教育審議会委員
   (3) パネルディスカッション(敬称略・五十音順)
 
          秋山    仁   東海大学教育開発研究所教授
  コーディネーター    上野千奈美    フリーアナウンサー
    小野田   誓 名古屋市立小中学校PTA協議会会長
    梶田   叡一 中央教育審議会委員
    中嶋   哲彦 名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授

4   概   要:
(1)池坊保子文部科学大臣政務官挨拶

   いつの時代にあっても変わらない教育の在り方について御意見を伺いたいと思い、今回の「教育改革フォーラム~教育改革の推進と教育基本法の改正について~」を開催したところ、多くの方々に集まっていただいた。御礼申し上げる。山口、北海道など5箇所で教育改革フォーラムを開催したが、今日がその締めである。
   過去の経験から未来が予測できた今までと異なり、21世紀は将来を予測できない激動の時代になっていくことが予想されるが、その中にあって、人々の関心の柱は教育であると思う。資源がなく、人材しかなかった日本が今日の地位を築くことができたのも、先達が教育に力を注いできたからだと思う。これから後に続く人々のためにも、日本が尊敬と愛情を持って見つめられるような国にすべく教育を行うとともに、一人一人の意識にも訴えなければならない。
   不登校、いじめ、道徳心や自律心の欠如など、現在の子どもを取りまく状況は決してよくない。文部科学省では、そういった状況も踏まえながら、「21世紀教育新生プラン」や「人間力戦略ビジョン」などを策定し、教育改革を進めてきた。その背景は、「画一と受身」の20世紀から「自立と創造」の21世紀へという流れであり、教育もそれに沿ったものであることが必要である。その趣旨を御理解いただけるよう、「教育の構造改革」というパンフレットを今回お配りしているが、そこに盛り込まれた4つの理念を御理解いただき、是非御協力いただきたい。
   本年3月の中教審答申では、21世紀にふさわしい教育理念を、21世紀にふさわしい形で再構築するという観点から、教育基本法の改正と教育振興基本計画の策定について提言をいただいた。文部科学省では、その答申を受け止め、教育基本法の改正に向け様々な研究や準備を行っているが、大切なことは「教育基本法を改正することが必要だ」という国民の声の盛り上がりであると考える。それがないと改正は意味のないものになってしまうという思いから、こうして忌憚のない御意見を全国各地で伺っているところである。
   生け花という日本の伝統文化が600年続いてきたのは、単に伝統を守ってきたからだけではなく、時代に応じて常に変化し続けてきたからである。
   教育は国家百年の計というが、五年一昔とも言える激動の時代の中で、教育についても、守るべきものは時代を通して守り、変えるべきところは時代に応じて変えることが必要である。
   21世紀の教育はどうあるべきかというのは、大変難しい問題である。それだけに、国民からの御意見をしっかり受け止め、その判断に誤りのなきようにして、教育改革を進めてまいりたい。

(2)基調講演(梶田叡一中央教育審議会委員)
   子どもの育ちにとっていろいろと心配な現象が存在しており、自分たちが現役を終えるころ、今の子どもたちに社会を任せて、手放しではなかなか安心できないと思っている。例えば学力低下の問題がある。平成14年の文部科学白書では、初めてこの問題がはっきりと書かれたが、少なくとも昔と同程度に子どもが学んでいるとはいえない状況にある。もっと大変なのは、学習意欲の低下である。先進諸国で、学習意欲、勉強時間や読書時間は、いずれも最低レベルである。また、不登校者の数は10年前の2倍以上、年間約13万人にも上っている。学校ではこの10年間、「ゆとり」ということでいろいろとうるさいことを言ってこなかった。それが、ある方の言葉を借りれば、一部で自主性、自発性の美名に隠れた指導の放棄という事態を起こした。
   一連の教育改革の根本にあるのは、今の社会を担う大人として、次世代に全面的な信頼を与えられないという思いであろう。「子どもはいずれ立派に育つ」という評論家もいるが、現実に子どもたちがゆゆしき問題を抱えている状況を踏まえると、この社会を担っている世代としてやるだけのことはやっておかなければならないと考えている。その際、それらに即効性があるかどうかではなく、いろいろなレベルの施策に取り組んでいくことが大切である。「教育基本法を変えることで、どこが具体的に良くなるのか」などと議論のための議論をしている場合ではない。できることからひとつずつ始めていくべきである。
   本年3月に結論を出した中教審答申の中身については、手元にお配りした4月21日付の毎日新聞の記事を御参照いただきたい。自分は、子どもの未来のために、大人たちは、今何ができるのかという観点から、教育基本法の問題を考えたいと思う。その意味で、「教育勅語を復活せよ」という主張も、「現行基本法を堅持すべきである」という主張も、そこに重点を置くのであれば間違いであると思う。確かに教育勅語は素晴らしい理念を含んでいるが、聖徳太子の「十七条の憲法」と同様、歴史的文書に過ぎない。21世紀の今日、子どもたちの将来のために教育について何をなすべきか考えるにあたり、歴史的文書に頼ることはよくない。今の視点から教育基本法について、本当に大事な理念が入っているのか議論し、そのうえで結論を得る姿勢が大事であると思う。
   例えば、次の3点については、現行教育基本法では十分でないと思う。
   第一に、日本も批准している児童の権利条約は、子どもが意見を表明すればよいということを定めたものではなく、子ども自身が生きていく主体であるということを社会の根本原理の一つとして受け入れていくことに重点があると考えるが、現行教育基本法は、子どもを主体としてはとらえておらず、育成される者、保護される者としてとらえている。
   第二に、男女共同参画についても、いわゆる「ジェンダーフリー」と一線を画しつつ、古典的な性別役割論を乗り越えたところに新しい社会の担い方があり、子どもたちにそのための準備ができるようにしなければならない。たしかに、子どもを産むのは男性にはできないことなので、その点での母性保護には十分留意しないと社会に未来はないが、責任の取り方については男女差をなくしていく必要がある。しかしながら、現行の教育基本法には、そのための教育理念は規定されていない。自分は女子大の学長をしているが、かつてアメリカに同じ母体の女子大の関係者を訪ねたとき、彼らは「アメリカの社会はレディーファーストであるが、それを当然として育つ女性は社会で責任ある地位にはつけない。本当に社会で責任を持つような女性を育てようと思えば、男でも女でも自分の椅子は自分で引き、自分が通るドアは自分で開けるくことが肝心である。女だからと甘えていては、社会のお荷物になるだけである。だから生涯のある時期における別学は有用である」と意気軒昂であった。一つの考え方であると思う。このように、現行の「男女共学は認められなければならない」という条文は男女共同参画や男女雇用機会均等法に応える条文ではない。これからは、新しい形での男女の手のつなぎ合いが必要であり、女性が本当に力をつけて社会で責任を持っていくためには、教育の基本理念に男女共同参画を謳う必要があると思う。
   第三に、「国を愛する心」についてもいろいろな意見がある。一人一人が有意義な人生を送ることは重要だが、人は一人では生きていけないことも考えると、「滅私奉公」「滅公奉私」のいずれも困る。かつてケネディ大統領が国民に向けて「あなた達自身が、国のために何ができるかを考えないといけない」と語ったが、その意味を実際に考えるべきであると思う。
   このように、教育基本法は制定以来56年が経過しており、21世紀の社会の在り方を考えると、今の教育基本法に書かれていなかった要素を新たに加えたり、趣旨を明確にしなければならない部分が、率直に言ってあると思う。政治や時のヘゲモニーに左右されることなく、ひとりの大人として、子どもを育てるにあたって、大事な理念が何であるかについて確認したいはずであり、それを国民的に議論していかないといけない。そのためには、性急に結論を出すのでなく、意見がある程度、収斂するまで議論を継続すべきである。
   「教育基本法は準憲法的な法律だから改正してはならない」というのも不思議な議論だ。民主主義社会では、憲法がわれわれを縛るのではなく、われわれがよりよい未来をつくれるよう、憲法や教育基本法があるはずだ。そのために、必要に応じて憲法や教育基本法をよりよいものにしていこうという考えはむしろ自然なものだと思う。ただ、教育基本法が憲法と同じくらいの重みがあるという意見には賛成である。教育基本法は、教育の今後の在り方を定めるものであり、子どもがどう育ち、将来の社会をどんな発想と常識で形成していくかにかかわるものであるからである。
   日本人はこれまで、与えられた状況に対応することに長けているといわれてきたが、われわれこそが社会の主人公である。できるときにできるだけのことをしておかないと、日本社会が外的な状況に流されていくだけになる危険性がある。戦後58年が経過したのだから、そろそろ主体性を回復し、自分たちの未来を自分たちで決めるべく、虚心坦懐に議論すべきだ。そこで議論すべきテーマの一つが教育である。今すぐに学校レベルでできることも、諸法令の改正で対処すべきこともあり、同時に、教育理念的なものも含めて考える必要がある。未来志向に立ち、自分たちの将来を自分でつくることの一環として、教育理念の在り方について本格的に議論すべきである。過去の教育勅語や今の教育基本法に縛られることなく、現在の人間観を踏まえながら、議論していただきたい。

(3)パネルディスカッション
○教育改革の推進や教育基本法の改正について
中嶋氏)    今の教育の在り方には改革が必要だ。「子どもに豊かな学びを保障できるか、青年が未来像を描けるか」について、子どもの意見を聴きながら、大人が全力を尽くさなければならない。
   教育基本法の改正は不要であるし、改正すべきではない。憲法や教育基本法は、国民が自由に活動する領域を国が制約することがないよう歯止めをかけるものであり、国民の権利を守るものであって、国民に義務を課すものではない。改正の必要がないというのは、例えば、中教審答申では、今後重要である理念としてまず「個性・能力の伸長」をあげているが、今までも現行法の「能力に応じて」という規定によって個々の子どもの能力の発達の必要に応じた教育を実現すべきだと考えられてきたのであって、決して画一的な教育を良しとしてきたわけではない。また、「愛国心」を学校教育で教えることにはまだ国民的合意がなく、国を愛することを強制したり、愛し方を一つの型にはめたりしてはならない。いくつかの自治体で愛国心を通知表で評価しているが、これは人の心のありように優劣をつけようとするもので、適切ではないのではないか。
   教育振興基本計画については、国が教育の在り方をこれまで以上に制約しコントロールすることになりかねないと思う。文部科学省内部で決める行政計画であるので、国民の前で議論しなければならない法律とは違うと考える。

小野田氏)    日本PTA全国協議会では、昨年、学校教育改革について、保護者にアンケート調査を行った。教育基本法に関する質問も出したが、まず、基本法自体を知らない保護者が85%いた。また、45%の保護者が、「基本法の改正の必要性について議論すべき」と答えたが、議論すべきかどうかもわからない保護者も34%いた。「議論すべき」とした保護者には、公共心・倫理観を取り上げるべきと答えた人が多かった。教育基本法の改正に関して感じることは、何のために、誰のために改正するのかをもう1回考えるべきではないかということである。
    また、普通の親が読んで理解できる表現・内容のものを考えていきたい。いろいろなところで議論した上で、地域・国のみんなで教育を作り上げていくという認識が必要である。
   今の教育改革についてのアンケート結果をご紹介すると、新学習指導要領については、期待と不安が半々といったところであった。子どもの自発的な学習意欲を生かせる、学校教育の質が向上するという期待もあれば、学校・教員による教育格差・学力格差が広がるという不安もある。また、学力については保護者の4人に3人が心配しており、特に基礎学力の低下への不安が強いが、これに対しては、ほとんどの保護者が、学校教育の充実より家庭教育でカバーすべきであると答えている。したがって、これからは家庭と学校の連携がキーワードになるのではないか。

秋山氏)    教育開発研究所に10年前から勤務しており、子ども・保護者・先生と接する機会が多い。東海大学の創立者の言葉に、「めぐりゆく時の流れのことわりを知らざるものは哀れなりけり」というのがあるが、教育に求められるもののありかたもまた変化していかざるを得ないものである。戦後、「教育は国家百年の計」というのは国民のコンセンサスであったと思うが、今、OECDの調査によると、日本の生徒の学力水準は、読み書きでは世界の2位グループ、数学では1位グループだが、宿題・自習時間では最低レベルである。また、統計では子どもの体力も落ちているし、「自分が価値ある存在だと思う」若者は8.8%、「社会のために役立ちたい」若者は32.3%であり、教育予算も先進国に比べて少ない。かつてと違い、教育は困難になっている。その原因はいろいろ考えられるが、地域が学校を支えてくれなくなっていること、教師と生徒が平等であるという考え方が行き過ぎて、教師の言葉を聞くも聞かぬも生徒の勝手という捉えられ方をされていること、また、学歴社会の崩壊によって勉強の動機付けをしにくくなったこと、生活が豊かになったためハングリー精神が低下したこと、ゲームなど他に楽しいことが溢れ努力を要する辛い勉強をしなくなったことなどであろう。
   そこで、時代や社会のニーズに対応し、現代の子どもの気質を踏まえ、”教育の質”を変える必要があると思う。たとえば、男女雇用機会均等法ができても、教育基本法の理念の中にはそのようなものは入っていないのは不自然だ。日本の伝統・文化や他人を思いやる心、一人一人が国を良くしていこうと考える愛国心などを重要でないと思う人は少ないだろうが、だからと言ってそれをあえて法律にする必要はあるのだろうかと考える人も少なくないだろう。法律で規制しなくてもきちんと教育が行われさえすればよいではないかと。しかしながら、そもそもの基本法が原則とともに理念を掲げているものである以上、これからの時代の自分たちの教育の理念はどうあるべきなのかということについて考える意義は大いにあると思う。答申でやろうとしていることには賛成するが、個人の内面まで規制することになれば不都合が生じる。また、保護者の85%が教育基本法を知らないのは寂しい。できればもっと時間をかけ、多くの人に議論してもらいたい。そのためには、まず、世の中の変化、教育の現状を国民が把握し、基本法というものについて考えてみることが必要である。議論し、コンセンサスをつくり、それから基本法を改正する・しないをはっきりさせるべきである。

梶田氏)    教育振興基本計画については、答申の22頁以降を御覧いただきたい。これは、文部科学省の中での行政計画ではない。教育は、所掌が他省庁にまたがるものもあるし、他省庁の協力が必要なものもあるので、教育振興基本計画というのは、政府全体として5年スパンでシステマティックに計画を作り、閣議決定をするものとして考えている。例としては、科学技術基本計画があり、基本計画をつくったことにより、ロケットの打ち上げ成功などの成果が上がるようになった。いろいろなことに優先順位をつける、というものである。教育の基本理念を変えただけでは、具体的な仕組みを作ることや予算の重点配分をすることは難しい。また、国は単年度予算であるから、その上に網をかけて削れないようにするという意味もある。中教審では、教育振興基本計画の大綱をつくったのであり、具体的な中身はこれからのことである。今後、いろいろと議論してほしい。

○教育基本法改正の必要性について
中嶋氏)    教育基本法を改正しなくても、やれることはたくさんある。また、本来すべきことが行われていない。
   教育振興基本計画の施策の例示が答申の26頁に並んでいるが、これは重点配分計画ともいうべきもの。他方、現在、義務教育費国庫負担制度をやめようという議論が政府の中にあるが、この制度は基盤的条件整備ともいうべきものである。基盤が危ないのに、重点配分を議論しても意味がない。基盤を整える基本計画ならよいが、国が重点配分計画を定め、地方がそれに沿って具体的施策を実施するというのでは、教育の地方自治はいつまでたっても実現しない。犬山市では、習熟度別学習を実施しないことにした。しかし、答申の「施策例」で習熟度別学習を出すと、どうしても地方をそちらに誘導することになってしまう。大切なのは、それぞれの学校・地方で何が大切かを見定めることである。国が基盤的条件整備をきちっと行って、その上で地方が自律的に判断して上乗せ的条件整備のためにお金を出していこうということが出来るのだから。基盤が揺らぐ中での基本法の改正には問題がある。

梶田氏)    中嶋氏の意見には賛成するが、答申の基本計画に関する部分は、あくまで大綱である。義務教育費国庫負担制度については、中教審の初等中等教育分科会に部会を設置し、財政・地方自治をはじめ様々な専門家を入れて議論し始めたところ。その議論の結果を基本計画にどう入れていくかが課題である。
   また、地方教育委員会がもっと教育を決めていくことには大賛成である。自分が箕面市の教育委員長をしていたとき、学習指導要録の全面開示を決定したことがある。当時でも地方教育委員会にはかなりの権限があった。箕面市では、生活科の教科書を独自で作ることもした。
   今はまだまだ地域の教育づくりに、横並び・上を見すぎのところがある。一昨年の地教行法の改正で地域の独自性を一層出しやすくなっているはずであり、実際に独自性を出す動きを強めていかなければいけない。

○8つの教育の基本理念について
秋山氏)    「個性・能力の伸長」という点についてということだが、画一的な一斉教育の結果、このような部分が今までは比較的手薄であったと思う。
    発想力・独創性がないと日本はがんばっていけないという指摘は正しいと思う。数学や理科でも、今までの授業では、物事を筋道を立て、自分の頭で考え試行錯誤して納得していくという時間があまりなかったことは残念だ。結果的に知識注入・教師独演型の授業になってしまっていた。また、好奇心が学ぶ動機になるべきなのに、そのようなものを子どもがあまり感じておらず、意欲に欠け、努力を継続できない若者も目立ってきた。子ども一人ひとりの個性を踏まえ、能力を引き出し、やればできるんだという達成感を抱かせ、その積み重ねで自信につなげ、さらに困難に挑戦することができる人間を育てなくてはならないと思う。そのためには、TT(ティームティーチング)やグループ学習の導入、作業や体験を通して学ぶこと、教室での学習が社会の出来事と密接に関連していることを強調すること、さらに少人数授業にしていくことや、評価の仕方を変えて、努力が報われるような絶対評価にすべきである。このように今後、かなり大きな改革をしていく必要がある。学校・家庭・地域社会が連動して、時代が求めている能力を備えた若者を育てるべきと考える。

中嶋氏)    個に応じた教育には賛成するが、それは個別学習でも習熟度別学習でもないと考える。犬山市では、少人数授業を実施するにあたって、習熟度編成にならないように配慮してクラスを2つのグループに分け、子どもの学び合いを教師が組織していくよう指導方法の開発を進めている。分からなくなりかけている児童生徒を支援するために単元の途中で一時的に習熟に応じたグループに分けたり、単元の終わりにそれぞれのニーズに応じたグループに分けてまとめ学習をしたりすることはあっても良いだろう。しかし、学年、学期、単元の始まりに習熟度別編成をするのは適切でなく、犬山では採用しないことにしている。多様性に富んだ子ども集団の中でそれぞれの居場所と役割を獲得できるようにすることが大切だ。議論があったが、最初から何らかの属性で子どもを分けるのは賛成できない。また、国が動かしがたい目標を定めて、地方はそれに追従するだけという教育改革も適切ではない。大枠を作って、あとは地域で決めるようにすべき。

○学校・家庭・地域社会の連携・協力について
小野田氏)     実は、教育基本法に家庭教育を位置付けるべきだという議論が行われていることは知らず、学校・家庭・地域社会の連携は当然の前提だと思っていた。昔は家庭教育や学校・家庭・地域社会それぞれの役割がしっかりしていたので、わざわざ規定は必要なかったということではないかと思う。
   親として何を子どもに望むかといえば、子どもが喜んで学校に行くことである。その受け皿となる学校を期待している。
   個性個性というが、親の教員・学校に対する意見が様々な方向を向いている。子どもがそれを感じ、学校・教員を一方的に評価してしまっている。一方、教員の役割は飛躍的に多くなっており、授業よりも生活指導に手が掛かり、大多数を占める普通の子にまで目を向けられない。親の教員への要求が多様化し、親と教員がよい関係が築けなくなっているのが子どもに伝わり、なおさら親と教員の関係がぎくしゃくする。家庭では、子どもをほとんどの時間育てているのであるから、学校でできないことや家庭でやるべきことは家庭でやる、という役割を明確にする方向が必要であり、そうすればまた連携し合えると思う。親としても、三者間の連携を意識し、情報・意見交換をして問題を解決していく必要がある。そのために、家庭の役割を基本法に明記してほしい。

梶田氏)    親は本気で親になり、学校は本気で学校の役割を果たし、地域は本気で地域の役割を果たさないといけない。三者連携の前にそれをきっちり行わないと意味がない。大阪でも学校評議員制度が導入され評議員が学校にいろいろと注文をつけるようになったが、評議員の言うとおりにすればいいというものではない。学校はそれらの意見を踏まえて議論し、独自の立場で「こう育てる」というのをわかってもらう努力をする必要がある。
   とは言え、子育てで悩んでいる親はたくさんいる。自治体で子育てを支援する仕組みを市町村レベルで作る必要がある。このような仕組みがないと、問題がすぐに学校に持ち込まれ、学校がお手上げになってしまう。


○確かな学力の育成について
中嶋氏)    私は「確かな学力」ではなく「豊かな学力」と言っているが、「学力」の内実は真剣に考えないといけない問題。何が「学力」なのかについて、現在は「学力」のイメージが人によって違う。親・学校・教員の議論が必要である。犬山市では、副教本づくりのプロセスにできるだけ親にも参加してもらっている。こうすることで、親と教員が「学力」について具体的イメージをもって語り合う機会が生まれ、学校に学力を保障するために協力しあう文化が生まれる。今までは、ひとりひとりの教員がばらばらでたこつぼに入ったような状態だった。お互いに学び合う学校文化を育てる必要がある。品川区の例など、教育が選択制・競争という枠組みに向かっているが、それでは豊かな学力が育つと思えないし、みんなの満足も生まれない。まず、何が「学力」なのかについて合意を形成できるよう努めるべきで、そのような枠組みを作るのに現在の教育基本法を生かしていくべきである。

小野田氏)    学力についても、親の意見はいろいろな方向を向いている。学力の偏差値的部分は、塾でも身につけることができるが、塾の先生はやはり専門的な教える力を持っている。学校の教員の資質としても、一定のレベルの学力を付ける授業をしてほしい。今の親には、議論をせずに教員を判断するような状況があるので、親と教員が話し合う中で学力の議論をしないと、確かな学力は育成できない。公認会計士・医者・弁護士などには、職業倫理や研修制度など、社会的責任を全うする仕組みがある。このような仕組みを教員についても考えてほしい。

秋山氏)    何を学力とするか定義することが難しくなったのは、「ペーパーテストで測れる能力=学力」とする従来の学力観が、世の中の様々なところで揺らぎ始めてきたからだ。自分としては、初等教育ではまず各教科について学びがいや面白さを子どもに伝えることが大切だと思う。
    知的な好奇心を持って何かやってみようとすれば、子どもが自分で考えたり、試そうとする態度につながる。子どもに興味・関心を抱かせる授業を毎時間展開することは、先生にとってとても難しいことだが、興味・関心を抱かせないまま子どもに確かな学力をつけることの方がより一層難しいのではなかろうか。

梶田氏)    今日フォーラムに参加していただいている方は、教育基本法の改正の話が出たからこそ、今日ここに来たのだと思う。私は国民会議で、賛成、反対を問わず論議をすることが必要だと言ったが、それは、教育は50年間、その日暮らしできたところがあるからである。教育を取り巻く状況や子どもの姿が変わっている今、教育基本法の改正の議論は、人間・子ども・教育の在り方を考えるショック療法であると考えている。どこに軟着陸するかまだ議論が必要だが、できるだけ多くの人の合意の下に教育基本法を改正してほしいし、これをきっかけに教育基本法やその他の教育関係法令を読んでほしい。今後の教育をどういう仕組みの中でどういう展望でやっていくかについて考えていく必要がある。
   子どもには、世の中で生きていくのと、自分だけの世界を生きていくのと両方がある。日本は明治以来、前者の世界ばかり考えてきた。
   自分の人生をどうするか考えるきっかけを与え、充実した人生を送るにはどうしたらいいかを考えさせる教育であってほしい。そうして精神的深みを持った日本社会になってほしいと思う。

○会場からの意見紹介

(国を愛する心、公共の精神)
   ・ 公共の精神、愛国心を育てるという名目で、個々の子どもの個性や自己決定権がないがしろにされる。子どもが愛され、人権を尊重され、大人も明るく生きている社会であれば他を思いやる心が生まれる。その心は国から押しつけられるものではない。
戦後教育の中で、個人の尊重があまりに重要視されてきたため、公共性や公のために奉仕する意識があまりに薄い。国際的に見れば、個人を守る国を愛する心を持つことは自然で健全なこと。
将来の日本に不安を覚える。自分の主義主張しか頭になく、何かあればすぐに人権といって騒ぐ人達を見ていると悲しくなる。自分は3児の父だが、子供たちに本当に誇れる日本を残してやりたい。それには教育基本法を改正し、国を愛する心を育て人のために尽くす人を育てることを望んでいる。
愛国心を評価するような教育はよくない。親としてもそのような評価は子どもに対してしてほしくない。

(家庭教育)
   ・ 今の教育基本法は、国民に身近なものではない。最大のポイントは家庭教育であり、この視点を盛り込むことで教育基本法が身近なものとなり、責任を認識することが可能になると思う。
今の教育現場の諸問題を考えると、子どもを育てる人、育児に関わる人達に対して、もっと具体的な方策を出してほしい。若い夫婦に、親としてどうあるべきなのか、子どもの養育にあったってどんなことを大切にしなければならないのか、など。
女性の自立(社会的に責任の持てる人間となること)と家庭教育の重要性の間に「女性は家庭にあるべき」論が台頭しそうな懸念を感じている。また、「ジェンダーフリー」とは一線を画した表現を望む。

(教育行財政)
   ・ 子ども・保護者・地域・教職員が連携しやすくなるよう援助するのが国や文部科学省の役目である。各都道府県・市町村ごとに財政事情が異なり、同じ日本国民でありながら、同じ環境で教育が受けられていない現状がある。今後、義務教育費国庫負担制度がなくなれば、さらにこの差が拡大する恐れがある。
自治体が財政的に教育を保証する責任がある条項がちゃんと守られれば、子どもがわからないところを質問できるような少人数クラス、教員の増員も実現され、学力低下もなくなると思う。

中嶋氏)    1つ1つの御意見はもっとも。愛国心については、やはり関心が高い。自分が住む社会を愛する心は大切だし、共有すべき価値観であるが、しかしそれをどう育てるかが問題だ。この国の一員であることに誇りを持てること、国に大切にされていると感じられることが帰属意識を高めるのではないか。例えば、若年者の失業率が高いが、彼らは国に大切にされているとは感じられないだろう。愛される国になることが大切。
   日本は伝統的に、教育で社会問題に決着をつけようとすることがよくある。理念については、議論することが大切であり、今までタブーであったことも議論すべきである。しかし、法律は国を縛るものであるのに、今回の答申には国民を縛る内容が多い。愛することが強制されるのではなく、互いに議論し、自ら選び取っていくことで本来的意味で自律した国民が育つのではないか。教育基本法に「愛国心」を盛り込むことで、強制されなければ国を愛せない国民、強制された国民によって愛される国家、そういうものを生み出してしまってよいのだろうか。

(社会教育)
   ・ 生涯学習社会において、社会教育は重要な役割を果たす。これまでの教育は学校教育中心だったが、これからは学校を含めた地域として、人々に学習の機会を提供することが教育である。

(学校教育)
   ・ 今の日本にとって、宗教的情操教育は特に重要。青少年犯罪の凶悪化、自殺者の急増は、「命がなぜ大切なのか」という教育が行われていないから。先祖からいただいた生命に感謝し次世代につなげていく使命、大自然への畏敬の心、自分の存在の意味を教育していくことによって自ずと生命の大切さを体得していくと思う。

(総論)

   ・ 教育基本法の改正を強力に推進してほしいが、曖昧な表現を極力排除し、格調高いものを望む。
教育基本法について、はじめは「古くなったから改正する」といっていたのが、答申では「重要な点は継続し、それに加えて愛国心・公共心が必要」というスタンスになった。これは中教審が改正の必要性を基本的に否定したということ。
改正のもっとも危険な点は「たくましい日本人」「愛国心」「公共心」の言葉に象徴される「滅私奉公」的な教育の主張である。人格の形成を謳う基本法の精神と相容れないところである。
今、教育基本法そのものを見つめ、見直し、確かめ合うことは大切なことである。改革というと必ず変えなければならないというイメージがあるが、まず教育基本法そのものを議論していくことが時代的社会的にタイムリーではないかと思う。
改正については、納得できる部分とできない部分がある。この改正の動きの中で、すべてをセットにして出されると、100%賛成、100%反対とは言えないだろう。1つ1つを国民に問い、改正していくことが大切である。

梶田氏)    今日は宗教教育についての発言がなかったが、これは大切であると思う。憲法の信教の自由は大切であり、信じること・信じないこと両方に配慮が必要であるが、宗教哲学が、世界人類の分化の中で、どう生きていくのが価値があるかについてのメッセージを発してきたことは大切である。宗教教育についてもいろいろと考えながら基本法について議論していく必要がある。