(5)中西輝政氏(京都大学教授)の意見陳述の概要(中央教育審議会第22回基本問題部会(平成15年1月22日)より)

     本日は、日頃考えている教育基本法に関する問題、日本の教育を巡る問題、日本人の国家観について意見を申し上げる。
     現在の日本は、近代の先進国が必然的にたどる歴史的衰退期にある。近代の経済先進国は、産業革命以後、短いスパンで衰退し、その後、ある時期から再生するという流れを繰り返してきた。近代的衰退の特徴としては、生活水準の向上と国際環境の安定から、人口構造の劣化(少子高齢化)が起きること、政治的合意形成による財政構造の転換が不可能となり、財政破綻が生じて行政サービスの低下を招くこと、政治指導力が衰弱し、政治が不安定となり、合意形成機能が失われること、精神的には、価値体系・モラルに世代間格差が生じ、指導者層のモラルや使命感が大衆に信頼されなくなること、などが挙げられる。
     教育改革は、このように盛衰を繰り返すどの先進国においても、社会的衰退期における歴史的課題となっている。民主主義社会で教育改革について論じるということは、実は、50年後、100年後のことより、差し迫った社会全体・大人の価値観の転換を迫るという意味を持つ。多くの人が教育について議論する意味は、それまで社会で信じられてきた価値観が論争の中で大きく転換していくことにあり、このことが国家・社会の衰退という問題意識と密接に結びついて論じられてきた。いまの日本が先進国型の衰退期にあるかどうかはともかくとして、日本において教育改革を論じるということは、目の前の日本の社会・政治・大人の個人の在り方について問いかけることである。
     
     日本における様々な改革の論議は、「改革の枝葉としての経済構造改革」「改革の幹となる社会の意志決定のバイタリティ」「社会のバイタリティを支える根っことなる国家の共同体意識と、なぜこの国を再生しなければならないのかという問いかけ」という3つのレベルに分けられる。改革には、まず国家観の再生が必要なのだが、現状はこの3つのレベルが混然一体となっている。小渕政権時代の改革には教育改革は国家観の改革であるという認識があったが、今は希薄である。
     なぜグローバル化時代に「国家」を論じるのか、という議論は日本に独特のもの。日本が直面する現状は、日本にとっては先進国になって初めて迎える世界史的変動であるが、グローバル化が昔から進んでいた西洋では、グローバル化と国家という単位はぶつかり合う概念ではなく、双方が強め合うもの、という認識が強い。ヨーロッパ統合もグローバル化の一つの実験であるが、個人的には、そのうちに国家単位へ回帰するのではないかと予測している。
     グローバル化の中で、世界は3種類に分かれるだろうと予測されている。まず、先進国(大西洋地域)は、「新しい中世」に入り、国家を超えて社会が脱政治的につながり、一体化が進んでいく。次に、東アジアは、19世紀のヨーロッパのような「古い近代化」の時代に入り、国家性を強める。最後に、残りの世界(アラブ・アフリカ)はカオスになる。我が国は、国の成り立ちとしては先進国型だが、地域的にはこれから近代化の段階に入る東アジアに属するので、国民とは何か、国家とは何かという問題に対して、グローバル化の中でどういう立場をとるのかについて独特の難しさが突きつけられている。
     教育においても、どのような姿勢をとるのかが課題である。例えば、北朝鮮の拉致問題が国民の精神構造・価値観・国家意識に与えるインパクトの予想は難しいが、少なくとも「日本国民は日本国家が守る」という意識が受け入れられるようになったことは重大な意味がある。また、平和とは何か、平和と正義はいかなる関係にあるべきか、という問は、拉致問題が提起した大きな課題であり、若い世代に新しい観点で教えなければならない問題である。
     
     日本の教育は、戦後、教育基本法を中心に進められてきたが、基本法は、国家について国民が考える余地のない法律である。国民が国や社会の安全や危機管理に義務を負うことが前提になっていない法制は、日本の安全のアキレス腱になるのでないか。教育基本法の前文で、「真理の追求」と「平和の希求」が並列されているのは意図的であると思う。これは「平和」を、日本独特の、キリスト教的な「神の平和」・ユートピア的な「地上にない平和」、精神を持つだけの平和、とする捉え方である。平和についてこのように説くことよって、若者に国際感覚・世界観を与えてこなかったことが問題である。
     教育の問題を語る上で、戦後教育の価値体系を問題にすべきであり、「自由、平等、平和、民主主義」の4点を問い直すべきである。「自由」については、自由とモラル・規律という観点で議論がされなかった。そのために「人の迷惑にならなければ何をしてもいい」という論理でモラルの低下が起きた。「モラルで自由を抑制する」ということを教育の中にどう取り入れるかについては、基本法のどこに規定すべきかという問題から離れた重要な問題である。「平等」については、戦後、平等と自己責任のジレンマが議論されなかった。そのために、結果の平等のみが追求された。「平和」については、平和と正義の問題がある。平和というのは非暴力とは違うという整理をすべきである。「民主主義」については、民意と国益の問題がある。民意が排他的正当性を持つとすると、国民の選択が国益と反したときに、どのように民主主義を捉えるのか。
     
     戦後、教育基本法が前提としてきた日本社会は、今や基本法の理念を逸脱しており、基本法そのものが有効に機能していない。現代の日本人の精神状況は、いかなる文明においても保たれなければならない3つのバランス(物質と精神、進歩と伝統、個人と共同体)を喪失している。
     物質と精神のバランスの喪失は、社会・国家・文明の衰退を招くが、日本人は特に70年代以降、物質に傾斜してきた。進歩と伝統のバランスも、常に考慮されなければならない。今の日本では「古い」と「悪い」が同義に使われる傾向が際立っているが、欧米では、「古い」には、「良い、親しみがある、守るべき」という意味が与えられる。また、個人と共同体(家族・地域・国家・人類社会など、個人を超える人間の絆)のバランスについては、教育基本法は第1条に「個人の尊厳」を強く謳っているが、なぜ共同体とのバランスについて言及がないのか。教育勅語と教育基本法が共同体と個人の力点を互いに分業しており、勅語が停止されたことによって一方だけ残ったという議論はともあれ、21世紀の日本社会や日本人がバイタリティを持ち、グローバル化の中で生き残って行くには、バランスが必要である。そのため、「共同体」については理念・構想の基本を考えていくときに明示的に謳うべきであり、中間報告で使われた「公共」よりも直接的で分かりやすい表現にすべきである。
     
     「国家」については、日本人の第二次世界大戦を巡る歴史観が議論の焦点となるが、「国家」と「郷土」は違うので、教育基本法の改正の際には並列ではなく、「郷土を慈しみ国家を愛する」などと書き分けた方がいい。「国家」は共同体の一つではあるが、家族・郷土とは別の単位制をもつものであり、それを明確にするのが国家の政策の見識であろう。また、グローバル化の時代にあって、国家という単位は今後再び重要になる。
     「伝統・文化」については、日本人のアイデンティティと愛国心とを並列にするのは、誤解を招くと思う。日本人としてのアイデンティティと、国家の成員として果たすべき役割、地域・家庭の成員として果たすべき役割とは区別されるべき。また、グローバル化の中、日本人が他国を理解することが必要な時代には、伝統・文化は一層重要になる。
     愛国心、国に属する意識については、義務を伴うことが意識されることが必要である。教育の中で、国民としての意識が育たないといけない。例えば、現行教育基本法の第8条の最初の部分は、国民は愛国心をもって国家を尊重すること、国民はみんな国の一員であり、国は民主主義のシステムの中で運営されていることを意味していると自分は考えるが、これまでそう捉えられてこなかった。今の国際情勢に鑑みて、国という単位が教育の柱となるべきであり、これは、教育の基本理念を考える上での課題である。
     宗教については、基本は、人間の絆・共同体意識・価値観などの目に見えないものについて、若いうちから考えさせる習慣をいかに作るか、ということであろう。国づくりは人づくり、といわれるが、人づくりはまた心づくりである。
     
     国というものをどのように考えるかという問題は、ひとり教育に限らず、日本の改革論議全体にとって大変重要な問題であると考えている。
     
【質疑応答】
  委員)
       お話では、一度衰退してから浮上しない国家とそうでない国家があり、その境目を分ける要素として、国民の国家観、また「物と心」「進歩と伝統」「個人と共同体」のそれぞれのバランスについて言及があったが、この他に検討すべき要素はあるか。
     
  中西教授)
       古代ローマ帝国や、16世紀のスペイン、17世紀のオランダなど、前近代においては不可逆的に国家が衰退する例も多くあった。しかし、産業革命以降は国家の興亡のスパンが2世代、つまり約60年程度と短くなり、例えば70年代後半に衰退期を迎えた英国が20世紀初頭の衰退期の例を参考にしたように、衰退期を迎えたときに前回の衰退期のことを例に議論するという周期性が成立している。ただ、このパターンはいまのところ西欧諸国のみに適用されることに留意すべきだ。かつて西欧諸国より高い生活水準を謳歌していたアルゼンチンは、今や途上国化している。今後、日本が3つのバランス以外に要素として重視すべきは、国運をも左右しかねない「エリートの戦略的有能さ」である。今の日本は戦略性に乏しいが、その戦略の背景には確固たる理念(価値観や国家観)が必要である。もっとも、エリート教育の問題は、教育改革や教育基本法の議論でも触れられるべき重要テーマだが、教育基本法に馴染むテーマかというのは別問題だ。
     
  委員)
       「真理と平和」を並列させることについて言及があったが、「真理」は戦前の日本において科学的合理性に乏しい教育がされてきたことに端を発し、「平和」については、軍国主義や戦争への反省から生じる平和主義、世界平和への貢献を謳うものとして出て来た。そのように考えると、現行法の規定は妥当なものと考えるが、どうか。また、日本人のアイデンティティということについて、グローバル化の視点からの意見を拝聴したい。
     
  中西教授)
       アイデンティティというものと「国際性」が並ぶところに、日本人が「国際社会」に対して抱く独特の言語感覚を感じる。「国際社会」を英語でいうと"international community"であり、決して"society"という語は使わない。それは"society"という語は共通の価値観なり意識なりがあって初めて成立するものであるからだ。"community of nations"(諸国民からなる社会)が「国際社会」であり、「私という日本人がどこかの外国人と出会う」のはあくまで「人類社会」の話である。そう考えると、巷間で言われている国際社会というものは、むしろ人類社会のイメージに近い。「国際社会」の基本的な単位は「国」という大きな殻であり、国家あっての国際社会である。国際法の父であるグロティウスは、「最後にあるのは人類愛としての義務である」と述べ、ある国で非常な圧政が行われている場合には、これに対して人類共同体として関与することが正当化され、その国への内政干渉にならないとした。ともかく、混乱している「国際」という日本語について、根元的な整理が必要だと考えるが、「人類としての義務」について議論すれば、現在の日本において「国際社会に生きる日本人の義務」として語られていることの多くは「他国の事情をよく知る」という知識のレベルに収斂するのではないかと思う。こう考えていくと、日本人としてのアイデンティティを過度に主張することで、国際摩擦を生ずるとか、極端な独善に陥るとか、排他性を帯びるとかいうことはないと考える。「平和」ということに関しては、第二次世界大戦は最後の総力戦であったが、今や世界秩序は大転換しており、危険なナショナリズムの衝突による大戦争は21世紀においてはもはや隔絶した遠い過去のものである。日本は、第二次世界大戦の経験のみを過度に普遍化してそこに国の未来、国家としての選択や価値観を縛りつけてきた。今日の日本の衰退は、第二次世界大戦以降の歴史について何も学ばない態度が大きな要因となっているとも言える。たしかに、「平和」は戦後において重要な理念であるし、これを価値あるものとして支えたのは戦後の日本人の生き方であるが、これについてはまだ確定的な評価を下すことはできない。
     
  委員)
       改革の議論に当たっては「自由、平等、平和、民主主義」の4つの視点が重要であること、及び今の日本は「物と心、進歩と伝統、個人と共同体」の3つのバランスを欠くことについてご指摘があったが、日本は昔からそのバランスの中で「変わり身の早さ」のようなものを培い、進歩し続けてきたと考える。これは長所であり欠点だと思うが、その件についてどう考えるか。
     
  中西教授)
       あくまで「バランス」ということを言いたかった。今、「物と心」のバランスにおいて回復すべきは「心」の要素であり、「進歩と伝統」においては「伝統」、「個人と共同体」においては「共同体」が回復すべき要素である。ベクトルは「心、伝統、共同体」の方向を指している。あとはどこでバランスを取るかだ。日本人はある時には新しいものに飛びつき、エネルギッシュに活動するが、次の瞬間には疲れてしまうという二面性を持ち、バランスを取るのが苦手な民族性を有するのかもしれない。だが、どこでバランスをとるかについては、戦後50年間の民主主義の成果に信頼を置いて、果敢に取り組む必要がある。