(4)野依良治氏(名古屋大学教授)の意見陳述の概要(中央教育審議会第21回基本問題部会(平成15年1月15日)より)


     
     自分は中教審が提言しているほとんどすべてのことに賛同するが、それがどうすれば実現するかということが大事であると考える。教育は教育する側、教育される側、そしてそれらを取りまく環境が三位一体とならないとうまく機能しないと思う。
     教育は、国が一方的に押しつけるのではなく、家庭を基本にした自立的なものであるべきである。国民は多くの共通項も持つが、一人一人違うのが当然である。クローン人間を多くの人が忌避するのも同様の理由からだ。
     
     「生きる」とは、「ヒトとして生命維持をする」「社会における人間として自己実現をする」の2つの意味があると思う。
     自分は科学者なので、様々な事柄を「自己」と「他」の認識という形で捉えようと試みている。そこには様々な自と他の関係があるが、「自」というものを「人」と捉えると、自とそれを取りまく環境という関係は「環境への対応」に、一対一の関係は「対人関係」に、自の中にある異物としての他という関係は「健康の維持」に、それぞれ対応すると考えられる。
     人間は他と対峙し、順応して生きていく。これは本来能動的なものだが、それが不十分なところに教育が生じる。今の教育は、子どもではなく、環境に問題がある。自分が子どもだった頃は、終戦直後の貧しい時代であったが、友人・先生に恵まれて育った。それが今の自分をつくったと考えている。
     子どもは小学校5・6年生頃から、自分の将来ついて自らの意志を持って考えるようになる。しかし、子どもは経験に乏しいので、その時に大人が具体的指針(憧れや感動、志に触れること)を与えることが必要である。自分も、子どもの頃に、湯川博士のノーベル賞受賞、化学会社の研究所長だった父親に連れられてある化学会社のナイロン製品の発表会へ行ったことが大きい。何もないところから素晴らしいものを作り出す化学はすごいという思いが、化学を志し、化学技術者になって世の中に貢献したいという思いのきっかけであった。
     私立の6年制一貫校にいたときにも、化学に目覚める経験をした。中学の化学の先生は、大阪大学から交流で来ていた方で、教科書は絶対だと思っていた自分たちに、教科書は間違っていて、これについては大学ではこう学ぶ、ということを教えてくれる異色の存在だった。また、高校の化学の先生は、化学の時間の余談で産業界の動向について話してくれたり、英語で有機化学の入門書を教えてくれたりした。そうするうちに化学が好きになってきた。その後、京都大学へ進学したのが、それは有名な化学の教授がいたからである。昔は高校生にも知られている大学教授がいたが、最近では一流大学の教授でも高校生に知られているほどの人物が少ない。非常に残念である。
     その後、名古屋大学に移り、日本が学生紛争のさなか、ハーバード大学に博士研究員として行くことになった。博士研究員はポスドクで、研究室では一番の下っ端であり、望郷の念にかられるくらい教授から厳しくしごかれたが、それでも名大助教授時代の10倍、600ドルの給料をもらっており、アメリカの圧倒的な力、レベルの差を直視することもできた。
     最近のポスドクで海外に行く日本の若者には観光気分の者も多いが、それではものにならないし、退路を断って研究しているアジアの若者に勝てない。行かないよりはましだが、そういう状況にあると思う。
     
     自分は現在、会員数36,000人の日本化学学会の長として、科学教育にも興味を持っているが、科学は3K、つまり、「汚い・危険・きつい」といわれて困惑している。また、生徒・学生の学力低下や理科教師の科学リテラシーの欠如にも悩まされている。
     文部科学省も、いじめや引きこもり、校内暴力におびえ、こういった人を救うことばかり考えて、リーダーを育てる教育がなっていない。落ちこぼれがあっていいわけではないが、将来のリーダー養成にも同時に取り組むべきである。また、厳格な教科書検定も急激な学力低下の一因となっている。"π=3"では困るし、化学でイオンを扱わないのでは話にならない。
     
     一方で、立派な先生も大勢いる。初等中等教育でいちばん大切なのは、大人が、そして教育者が、子どもの心に灯をともすことである。自分はそうしてもらってここまで来た。
     高等教育については、学部の教育水準は国内水準を満たせばよいが、大学院は国際水準を充たすべきであると考える。この部分は全く貧弱であり、欧米を三役とすれば日本は幕下レベルでしかないのではないか。
     
     大学院の教育水準を上げるためには、教員の教育能力を格段に向上させることと、使命感を持たせる必要がある。欧米にポスドクで行くのなら、どれだけ教育を真剣にやっているかを見てくることが必要である。また、学生の学力と意欲の向上も重要であるが、これには環境が大きく影響する。そんな状態でも世の中に通用するのなら、学生はそれと対峙してしっかりやろうとはしない。しかし、いまの日本の大学院生では、欧米の企業には雇ってもらえない、そういう感じを受ける。
     また、日本の大学院は業績主義であり、論文を書かなければいけないなど、結果について評価されている。しかし、若い研究者に実績がないのは当然であり、むしろもっと先を見て能力主義への転換が必要であると考える。文系・理系を通じて、大学院の強化を中教審で取り上げてほしい。
     
     自然科学とは、まず問題を見つけ、次にそれに対する答を見つけることから成り立っているにもかかわらず、日本人は問題をつくろうとしないで、与えられた問題を解くことばかりを追求してきた。しかし、もっとも難しいのは問題を作ることである。日本は、いろいろな施策にしても受け身で、欧米追従である。いかに新しい問題を作るか、初等中等教育段階から問題をつくる練習をし、そういったことを評価する雰囲気をつくる必要がある。いちばん大事なのは、日本初の、日本独自の問題を作り、それに対して世界の追随を許さない回答を与えること、そういう取組を奨励することであると考えている。
     日本はG8の主要メンバーだが、国家、自治体、大学、学会、産業界など日本にある既存の組織が、過去の価値観にとらわれて有効に作用していない。むしろ、NPOなど新しい団体の方が遙かに存在感があるように感じる。みんな一生懸命やっていて、怠けているわけではないことはわかるが、それが機能していないことは大きな問題である。
     日本人の研究者については、一人一人がG8でなければならない。それは、例えていうなら、ただ一生懸命にやるのではダメで、常にウィンブルドンのセンターコートに立っていなければならない存在ということである。それには、たいへんな覚悟を要する。今、日本人はむしろ観客の立場にいることが多いが、プレーヤーとしてセンターコートに立つ覚悟が必要であると感じている。そのために、たくましい個を作らなければならない。
     リーダーたる個人が「個」の意味を取り違え、「公」への奉仕の精神を失っている。また、「公」がしっかりしていないから「個」がそれに奉仕せず、個人はリーダーに対する信頼を持たずに「私」に走ってしまうという状況があるように感じている。
     
     教育と研究については、評価をきちんとしなければならない。評価は、被評価者の行動規範を決定的に支配するものである。そのため、評価(評価活動)は高い権威でなければならないが、権力であってはならない。もっと謙虚なものであるべきだ。日本の教育の問題のひとつは、受験というささいなもの、教育思想的に権威の非常に少ないものが、社会的に絶対的な権力を持っていることである。科学的、芸術的な思想のない、表面的な評価は避けるべきである。評価することは世の中を画一的に統制し、支配することに有効である反面、多様性を失うことになりがちであるということに注意する必要がある。
     評価は必ず競争を生む。その競争により社会が活発化することもあるが、弊害も多い。その弊害を除くためにはルールが必要であり、ルールなき競争は戦争と同じである。ルールの中で競うということは、いわば規定演技の中で相対評価を行うことである。日本の中に多様な種目が用意されていなければ、画一につながることに留意すべきだ。さらに、科学や学術、芸術についてはこれに加えて自由演技についても評価することが、日本の活力を長期にわたって保ち続けるために必要な要素であると考える。
     
【質疑応答】
  委員)
       大学院の充実については、御意見の通りであると思う。今、優秀な学生が皆、博士号をとりに欧米の大学院へ行く傾向があるのは、単に欧米の大学の博士号が必要ということよりも、欧米の大学院の厳しいプロセスを経験しているかどうかが大事であるという意識、逆にいうと、それだけ日本の大学院がルーズに流れていることの証拠であると思う。人文科学系では実験がないので、教授の専門領域の周辺をゼミ形式で適当に勉強して、それで論文を書く、あるいは論文すら書かなくても大学のポジションに就けてしまう。そこに問題があると思う。自分にとっても、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教鞭をとった1年というのは良い経験であった。OECDが今から約20年前に日本の社会科学について調査したレポートがあるが、これだけ世界が変わり、学問も進歩しているにもかかわらず、そのときと現在とでほとんど状況が変わっていない。そのような惰性の中に日本の大学院がいるというのは非常に寒々しい状況である。そういう点からも、野依教授のお話は、大変参考になった。
     
  野依教授)
       日本の産業界が停滞しているのは、プレーヤーが国際水準にないため。レベルの低い大学院生を産業界や金融界が受け入れてしまうから、学生が勉強しなくなる。そうすることで、一流の学生がみんな欧米の大学院に行ってしまい、日本の高等教育が形骸化、空洞化することを懸念している。
     
  委員)
       日本は、政治改革、行政改革、司法改革など、この10年間にわたり色々な改革を行ってきたが、この根底には日本のシステムが機能していないという意識がある。この状況を引き起こした原因は何だと考えるか。また、この状況を脱却するために、何を根底から見直すべきと考えるか。
     
  野依教授)
       原因は、今までの価値観を引きずってきたこと。その意味では、我々の世代に責任がある。我々は上の世代を見て、かくあるべしと思って一生懸命やってきた。サボっていたわけではないのだが、価値観が古びていたのではないか。大切なのは、どうしなければならないかを考えることではなくて、リーダーのみでなく国民の一人一人が現実を直視することである。まず、自己を取りまく環境をきちんと把握し、認識をすることから始まる。