(3)阿部美哉氏(國學院大学長)の意見陳述の概要(中央教育審議会第20回基本問題部会(平成14年12月19日)より)

     今日は、「宗教教育の状況」、「教育基本法9条についての私見」、「国公立、私立学校での宗教的情操教育についてどう考えるか」、「宗教界や外国からこの問題を見た場合にどうか」について話をしたい。
     
     まず、宗教教育の状況について。国公立学校での宗教教育の現状として、小学校・中学校の学習指導要領の「道徳」において、自然や崇高なものへの関わりの教育について書いてある。中学校では、更に、畏敬の念を高めることが書いてあり、加えて中学校の「心のノート」にも礼儀やかけがえのない命について書いてある。
     道徳や畏敬の念は、宗教の根幹である。ドイツの神学者オットーによると、宗教のもっとも基本のところの要素であり全ての宗教に共通するものは、畏れや畏敬の念である。自然や崇高なものとの関わり、畏敬の念は、道徳面からも大きいものだが、宗教の根源でもあり、また逆に宗教抜きでは論じがたい面がある。つまり、道徳と宗教の関係は切っても切れない要素がある。
     ただし、いわゆる政教分離でいうところの宗教と、人間の本質としての宗教は違うと思う。宗教の本質にある畏敬の念や崇高なものと道徳とは切り離せない関係にあることが既に認知されている、という意味において、宗教に「関する」教育は現になされている。中間報告においても、宗教に関する教育について、実存に関わる重要なものであるとか、異文化理解の観点であるとか、諸外国で行われている宗教に関する教育を参考にすべきである、という意見が挙げられており、宗教のとらえ方にもよるが、宗教というものを教えないで教育はありえないというのが現実のところである。なぜならば、実存的なものを抜きにしていかに人間が大事かと言っても論じられるものではなく、小さい頃からじっくりと教え、身につけることが大事である。また、異文化理解の際にも、宗教を抜きにすることはできない。
     「宗教」を捉える際の重要なポイントとして、それが翻訳語であるために、「教え」に気をとられがちだが、実際に社会に定着しているのは「教え」を支える儀礼や神話である。特に宗教に関わる儀礼は、それぞれの文化を構成する重要なものであり、儀礼が誤っていれば異文化交流も不可能である。その儀礼が社会生活に浸透し、日常生活の秩序の出発点になっている。日本では、「おはよう」から「おやすみ」までの一日、また新年、植え付け、虫除け、収穫、年終わり、などの一年の中に儀礼があり、その在り方を知ることなくして我々の生活は成り立たない。そういうことを考えるとき、異文化理解のために各国の宗教に関する知識を押さえることは重要である。
     日本の政教分離規定のベースとなった厳格な政教分離原則を持つアメリカにおいても、小中学校から宗教に関する知識の教育は熱心に行われているが、判例の積み重ねによって「宗派教育」は厳密に禁止されている。特に1963年以降、最高裁判例によって、「宗派教育」と宗教に関する知識の教育は大きく変化している。要は、多くの異民族が住む中で信教の自由を守り、政教分離を守るためには、宗教に関する知識は学校教育においてしっかり教育すべきということになっている。州立大学にも宗教学の講座が設けられており、そこで教育を受けた人がさらに教師として小中学校で教えている。例えば、ボストン・カレッジの施設である、教科書などを集めたリソースセンターでは、各国の各宗教に関する資料を集積している。
     そのように、宗教についての教育が全人的な教育の中で必要なものであるとすれば、日本の学習指導要領の「道徳」の中で採り上げている事柄はかなり抽象的である。公民生活の基盤としての宗教が各文化の中にあること(宗教に伴う生活習慣)についての知識は、教育基本法や憲法の枠内でももっと工夫して教えられるのではないか。
     
     次いで、教育基本法第9条に関する私見について。中間報告では、第2項が第1項の趣旨を没却しているので第2項を適切な表現にすべきとの意見、またそれに対し、第2項は現行が適切であるという意見もあり、意見集約されていない。これは、現行基本法9条の1項、2項の関係がうまくつながっていないのが大きな原因であろう。とかく宗教界の人間は「宗教平和」ということを言うが、宗教の基本は、自分たちとそれ以外を区別することである。キリスト教では異端を審判し、ユダヤ教の教義の基本は神と選ばれた民であるイスラエルとの契約であり、神道でも国を治めるべしとの神の命令から神話や国造りが始まっている。基本法第1項の「寛容の態度」が必要なのは、もともと他宗教に寛容ではないから。公立学校には色々な人がいるので、特定の宗教を教えることができないのは当然である。そのときに、宗教は自分たちとそれ以外を区別するものなのだという原点を抜きにしてしまうと、第1項と第2項がばらばらになってしまうので、これをどこでつなぐかが重要。
     そこでまた問題になるのは、神話と儀礼の相補関係。それぞれの宗教には創造神話と儀礼の相補関係があるという認識に立つと、表現とは別に、事柄としてどういう形でつながり得るかという問題整理が大切である。あえて言えば、民族集団あるいは公的存在としての宗教に対する意識が重要なのであろう。
     ついでながら、呪術と宗教を科学に対するものとして同一視する見方についてであるが、科学も宗教の所産である。また、呪術と宗教の関係については、社会学者であるデュルケムによれば、呪術は個人の利益が目的であるのに対し、宗教は集団の団結、集合意識を代表するものである。宗教には個人の救済もあるが、それを他の人と共有することから宗教集団が始まる。この点で、宗教は個人のレベルに押し込まれるものではなく、公的な次元を含み、公的な存在を合理化するものである。宗教と呪術の同一視は望ましくなく、科学との三角関係としてとらえるべきである。
     基本法1項、2項の関係については、切り離して考えてどちらかを強化するのではなく、今のあるがままで、これをいかにつなげるかの視点が大事である。
     
     次に、国公立、私立学校での宗教的情操教育についての見解について。国公立学校での宗教的情操教育については、戦後長い論争の歴史があり、日本宗教学会でも研究班をつくって意見をとりまとめたことがある。「宗教的情操」が言葉として多義的であるところに問題がある。宗教的情操は、単純に心や思想の問題というわけにはいかない。それを社会生活の上での規範を支えるものとしてとらえる見方もある一方、そんな薄っぺらなものではなく、信仰を重ね修行を積んで悟ることを通じなければ分からない厳しいものとの見方もある。
     学校教育の中で宗教的情操教育を行う場合、まず宗教的情操教育の概念整理が必要。しかし、今のところ整理は困難であり、限定的に条件を付けて、「学校教育の下ではこういう考えに基づき、この範囲において行う」などとして使わないと難しい。
     一方で、私学については、学教法施行規則(第24条第2項)において、「宗教をもって前項の道徳に代えることができる」とある。いろいろな人が集まる公立学校で宗教教育をすることは押しつけになり、信教の自由に反するが、決まった宗門の生徒が集まる私学では、宗教が道徳教育に当たるとの認識は正しい。つまり論理として、学校教育法で公立学校と並べて私立学校を認め、さらに私立では宗教教育を道徳教育に代えることができるとしているのであれば、道徳と宗教の相互補完的な関係を認定していると言わざるを得ず、別物と言い切ることはできない。
     国公立学校では特定の宗教の知識教育まで避けてしまうことの問題は2つある。まず、知識教育を避けることが一種の特定宗教とも言うべき「宗教否定の教育」になってしまう。また、宗教は教養の一部として必要なものである。どの宗教圏においても、外国の知識人の話には必ず宗教の話が出るが、日本人には宗教に関する知識が欠落している人が多い。
     
     最後に、宗教界における基本法1項、2項についての反応であるが、根拠は薄いが印象として申し上げる。
     1項をもっとしっかりと書くべきとの意見の人が多いのは確かであり、例えば神道政治連盟などは、宗教的情操教育の名の下に1項を強化するのが望ましいと考えている。反対に、それは危険である、戦前日本への逆流であると考える人もおり、それは主に新しい宗教の人たち、あるいは戦中に弾圧を受けた共通体験を持つ団体である。
     2項については、第1項の強化を主張する人の中にはもっと緩めていいと思う人もいるかもしれないが、大勢においては、新宗教も伝統的宗教も、憲法の規定もあり、ほぼこの程度の規定が必要であると認識しているように思う。
     基本法第9条の改正については宗教界にはいろいろな考えや反応があるだろう。結論を言えば、宗教的情操の教育は家庭や宗教団体に任せて、学校教育(特に公立学校)では、客観的な立場から、世界の諸宗教の神話、儀礼、教えの骨格、国際的な紛争の基本的な原因の宗教との関連、カルト事件などの社会不安に関連する問題などについての知識を与えることが大事だと思う。フランスではカルト団体のリストを国会でつくり、カルト問題を教育するための公益団体に公費補助を行っている。ベルギーも同様である。アメリカでは、カルト問題に対して政治家がいろいろと活動をしている。このような、宗教に関する基本的な知識を欠いた場合にいろいろな問題が起こりうるという諸外国の認識は、学校教育の中に宗教に関する知識が必要であるということを訴えている。そうなると、感覚よりも知識の問題であるので、必ずしも宗教教育ではなく、歴史教育や社会科で教えることもあり得よう。
     
     最後に、道徳教育で取り扱う畏敬の念の教育は宗教の根幹であり、世界の宗教の基幹でもある。この畏敬の念について各宗教がいかなる表現形態をとっているかについて教育することは極めて大切である。
     
【質疑応答】
  委員)
       宗教については歴史や社会科で教えてもいいとのことだが、どのあたりから具体に始めたらいいのか。今でも高校では宗教の知識について一部教えているが、それでは不十分か。
     
  阿部学長)
       今の指導要領では、小・中学校については感覚的な内容を教え、高校で知識が出てくるが、感覚から始めて知識にいくのがいいのだろうか。儀礼は早いうちから学ぶべきで、自分たちの儀礼が早いうちからわかることにより、他の儀礼との違いもわかってくる。ステップを上手に作ってできるところから始めることが大事である。そのためには、政治学や社会学の先生も動員して検討すべきで、宗教哲学や宗教学だけでは狭すぎる。
     
  委員)
       宗教にはいろいろあるが、教祖の教えと布教活動の内容が一致しないことが多い。そのどちらを宗教と考えるべきか。
     
  阿部学長)
       おもしろい課題であるが、全体でとらえていくということになるのだろう。どこまでが教祖の教義かもはっきりしない。日本では、葬式仏教こそ日本仏教だが、釈迦の思想では葬式を許したはずはない。しかし、日本の仏教が非仏教かというとそうではない。プラクティスが実際に共有されている部分が共通認識の出発点として重要である。
     
  委員)
       異文化理解について、レヴィ・ストロースは宗教的心情という言葉を使っているが、これと宗教的情操とは関係があると思うか。
     
  阿部学長)
       かなり重なり合って使われることが多いと思う。
     
  委員)
       9条1項と2項の関係について、2項はこの線でいければいいと思うが、1項については憲法に書くべきことだと思う。基本法には、もっと定義を決めれば書けるということか。
     
  阿部学長)
       「具体にこの範囲」という記述があるとやりやすくなるとのご意見は同感だ。今の条文でも読み方、応用によっては十分に使えるが、ある一定条件の中で、この範囲までは大丈夫という補整があれば望ましいと思う。