一 学生運動

学園紛争の鎮静化

 学生運動は、昭和三十年代においては、日米安保条約反対闘争などをめぐって運動が過激化したが、四十年代になると、政治闘争に加えて大学の管理運営や学費値上げなど学園問題を取り上げ、一般学生を巻き込む形で大学内における紛争が頻発するようになり、四十四年一月の東京大学安田講堂事件の前後から、大学紛争は全国に拡大し、過激化、長期化した。このころ、欧米諸国においても、ベトナム反戦運動等を契機として、学生運動が多発したが、これらは戦後に生まれ育った学生、大学の大衆化、新左翼の台頭など共通する背景を有しており、我が国の学園紛争もこのような国際的な時代の流れの中にあったと言われている。しかしながら、四十四年八月、長期間の紛争校に対する教育等の停止・休止措置等を内容とする大学の運営に関する臨時措置法が成立してからは、各大学における大学改革への取組が進むとともに紛争の自主解決が図られ、同年十一月以降は急速に鎮静化の方向に向かい、一般学生の学生運動離れが進行し、闘争の場は学園外に重点が移るようになった。このような中、孤立化した過激派の暴力的党派抗争が多発して死傷者も数多く出た。また、四十七年には学生を含む過激派集団によって連合赤軍リンチ事件や浅間山荘事件などが引き起こされ、社会を驚かせたが、大学の問題として論議されることは次第に少なくなった。このように紛争事案は減少したものの、過激各派が一部の学園施設を政治闘争の拠点として利用し、勢力を拡大しようとする動きはいまだ続いている。闘争目標とされた主要なものには、「成田空港開港」(五十三年)、「東京サミット」(六十一年)、「大喪の礼」(平成元年)、「即位の礼・大嘗(じょう)祭」(二年)がある。

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